寿大聡(プロデューサー) ・祖父の思いを映画に ~対馬丸撃沈事件を語り継ぐ
寿大さんは埼玉県生まれの44歳。 現在公開中のドキュメンタリー映画「満天の星」を制作しました。 この映画は1944年8月アメリカ軍の潜水艦に撃沈され784人の学童を含む1484人が犠牲なった疎開船対馬丸の悲劇を伝えるもので、生存者の一人である寿大さんの祖父中島高男さんも登場します。 高男さんは戦後長く口を閉ざしていましたが、後にこの事件の語り部として活動を始めました。 あの日対馬丸に何があったのか、寿大さんは祖父の記憶と思いを辿りながら、他の生存者にも取材を重ねるなど、およそ3年をかけて映画を完成させました。
本州の方があまり対馬丸事件を知らなかったので知れてよかったです。 1944年8月21日に那覇港から沢山の子供たちを乗せて、疎開先の九州に向けて出発した船が対馬丸でした。 2日目の夜10時に米軍潜水艦「ボーフィン」から攻撃を受けて、瞬く間に撃沈されて、784名の子供たちが海の藻屑と消えた事件です。 祖父は13歳の時に日本郵船株式会社に入社しました。 対馬丸は日本郵船の持ち物だったのでこの船で働き始めます。 撃沈されたのは祖父が17歳の時でした。 夜の10時ごろまで見張りをしていて、異常がないという事で仮眠しようかなと思った時に魚雷にあったという事でした。 3発の魚雷があったそうです。 外に出たら甲板には人がいなくて、下を観たら、子供たちとか荷物が混ざり込んでいて、地獄の光景だったと言います。
船が徐々に沈みゆく中で、真っ暗な海に飛び込んで船から離れて後を見ると、対馬丸が船尾から真っ逆さまに海に沈んでで行ったそうです。(攻撃を受けてから10分) 荷物に掴まっていた時に護衛艦がいたがアッという間にいなくなってしまった。(何で助けてくれなかったのか)ロープを見つけて筏を6艘繋げて、子供達赤ちゃん7名と共に3日間飲まず食わすで漂流しました。 巡視艇が遠くに見えて、自分の服を脱いで旗にして振っていたら見つけてくれて、全員が救助されたという事でした。 鹿児島港に着くが、憲兵が待っていて船員に対して「このことを話したら軍法会議にかけて死刑だからな。」と脅されたそうです。 船には軍人もいて、その人たちは南方の激戦地に送られた。(自然のかん口令 南方で亡くなる。) 祖父もずっと口を閉ざしていました。(心の傷として深く残った。)
対馬丸慰霊祭33回忌に祖父が呼ばれていったら、生存者の方々が堂々と対馬丸事件のことを話していたそうです。 この話は公にしていいんだという事に気付いて、心打たれたようです。 語り部の活動を始める。 事件から40年後に、自分が救助して子供たちに会いたいという事で、地元の新聞社に記事を出してもらった。 名乗りを上げた方が鈴木初子さんと言う方でした。(当時1歳) 救助の件は当時一緒にいた祖母から言われていたようです。語り部としておおくは学校などに行っていました。
戦後50周年の時に、夏休みの宿題として戦争をテーマにした作文を書いて来るようにとの、国語の課題がありました。 祖父に話を聞くことにしました。 784人の子供が亡くなったことに心に刺さりました。 3つの謎を抱えました。 ①対馬丸が学童疎開船と知っていて攻撃したのか。 ②日本軍艦は何故救助せずに逃げ去ってしまったのか。 ③これほどの事件なのになんで広く認知されていないのか。
僕は無名塾と言う劇団に入りましたが、仲代達也さんが「男たちの大和」を撮影中で、「役者は戦争をテーマにした作品に関わることは義務であり、それが我々ができる社会貢献であり、風化させない為に発信させていかなくてはならない。」と言っていました。 祖父の話をいつか形にしないといけないと思いました。 交渉したりいろいろ取り組みましたが、一向に進展しませんでした。 2018年に祖父が亡くなりました。 (91歳) 3年前に共感する方に出会ってスタートしました。 資料を読み解きました。 名刺の束も見つかり、電話して話を聞けて、そこからわっと広がって行きました。 祖父のインタビューを受ける映像もありました。 上映に至るまで3年間かかりました。 証言者として深くかかわった人が4名いましたが、2名の方は映画を観てもらうことなく亡くなってしまい1名は入院してしまっていて、唯一観て下さったのは高良前館長です。
祖父に替わって僕が祖父の思い、気持ちを語る場面も最後に入れることになりました。 ウクライナに関する映像も入れました。(戦争をより実感を持たせたい為行って撮影しました。) 文部科学省選定作品に選ばれました。 3つの謎については自分なりに見つけました。 映画の中に示しました。