2025年7月18日金曜日

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱 

結城さんは1843年東京生まれ。 父親の結城司郎次外交官だった関係から7歳から16歳までスウェーデン、セイロン(現スリランカ)、トルコ、イギリスなどで海外生活を送る。 バレリーナを目指してイギリスのロイヤルバレエ学校に学んだあと、俳優になるために帰国、1961年俳優座養成所第13期生として入所、卒業後はアメリカ留学を経て劇団「雲」に入団、舞台はもちろん、「肝っ玉かあさん」「女と味噌汁」などのホームドラマや「俺たちの旅」俺たちの朝 」「御宿かわせみ」などテレビドラマに出演しました。 1984年ごろから陶芸を始めて、現在は陶芸家としても活躍しています。

陶芸は動物のオブジェとか子供、人のオブジェ、仮面などを作っています。  小学1年生を日本で中退してほとんど海外でした。  毎回言葉が違うので、授業を受けてもちんぷんかんぷんでした。  昭和27,8年ごろで、当時は日本人はほとんどいなくて、いじめられたりもしました。  スウェーデンは4年生まで居ました。  英語は出来る様になりました。  悲しかったり怖い目にも会いましたが、楽しい良い経験もしました。  スウェーデンの森の中には妖精がいます。  そういったものが作品に反映しています。  イギリスのロイヤルバレエ学校には12歳で入りました。  スタイルが全然違うのでバレエは諦めて役者を目指そうと思って帰国しました。  

俳優座養成所に4年間通いました。  同期は石立鉄男さん細川俊之さん佐藤友美さんなどです。  俳優として活躍していましたが、陶芸の道にも進みました。  或る時に紙粘土で山岡さん等の全身像を作りました。  喜ばれて差し上げました。  それからどんどん作るようになりました。  紙粘土から土の粘土に変えました。  100%乾いていないうちに窯に入れるとヒビが入ったりします。  素焼きにして釉薬を付けてまた本焼きして、2,3回窯に入れます。  窯から出てくる時にはドキドキします。  

最初のころは自分の子供の2,3歳のころから思春期のころとかのものを作りました。     いろんな表情のものを作りました。   夢中で作って持って行こうとしたらドアから出られない作品もありました。  3つぐらいに切って持ち出して又くっつけるという事をしました。  動物のオブジェなどもあります。  表情と動きがあるのが特徴です。  小さい頃それぞれの国の美術館に連れて行ってもらいました。  時にイギリスではみんなで行って、自分の好きな作品を見つけてそこでランチを食べましょうと言うんです。  許可を美術館から先生が貰うんです。  私はピカソの青の時代にものが好きです。  

今の興味は生身の生きたままのリアルなお面を作るよりも、自分の感性とか、感情とかから出たものを作ってみたいと思います。  酒蔵会社からの依頼で龍をいろいろ作っています。   1m以上あるものを何体も作りました。  葉っぱに顔があるお面なども作っています。    モチーフは自然のものが多くなりました。  そこにはみんな顔があります。  役者をやっていたことがあるからかもしれません。   芥川比呂志さんのリア王の有る場面の表情は、凄かったです。  役者をやっていると身近で相手役の表情を見ることができるので、いい刺激になります。  健康の為に太極拳もやっています。  












 

2025年7月16日水曜日

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して 

ボール、リボン、フープ、クラブなどを手に持って演技して芸術性を競う新体操。  女子の個人総合が1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用されました。  その最初のオリンピックでの日本代表のひとりであり、続く1988年のソウル大会にも出場、新しい華麗なスポーツとして注目を浴びた新体操の女王、日本のエースとして活躍したのが秋山エリカさんでした。 

新体操はボール、リボン、フープ、クラブそしてジュニアにはロープと言う種目もあります。  手具と言います。  日本では新体操と言いますが、ヨーロッパでは芸術体操という事もあります。  音楽と合わせてそれを表現するという事、それに手具が備わるという事でいろいろな面で芸術に近づけなければいけないというのが新体操だと思います。  13m✕13mの四角いフロアーのなかで個人では1分30秒、団体では2分30秒のなかで表現します。  一番重要なのが音楽の持っている性質をどのように表現するかという事と、自分の内面からでる感情表現、この二つが重要です。  

私は高校1年生から始めました。  いまの学生たちは幼稚園、小学生からスタートしている人が多いです。  1964年福岡に生まれました。  小さいころは病弱な子でした。   家は美容室で親が美容師でした。  小学校に入る直前に、自転車の後ろに乗っていて左足を車輪に挟んでしまって左足を骨折してしまいました。  治ったのですが歩き方がおかしくて母がクラシックバレエを習わしました。  身体も強くなりました。 小中、9年間クラシックバレエをやりました。  高校に入ったら新体操部があり、入る事になりました。  運動音痴だったので1か月ぐらいで辞めようと思いましたが、それも言えずにずるずるとやっていました。  試合にも出ましたが失敗ばかりしていました。 あだ名がミス秋山でした。 高校最後の試合だけはミスをしないようにと必死で練習をしました。  フープを投げましたが、遠くに飛んで私の手には戻って来ませんでした。  

或る日突然一生に一度でいいからノンミスの試合をしたいと思いました。  東京女子体育大学を選びました。  部員は130名以上いました。  オリンピック強化選手、国体チャンピオンなどが軒並みいました。  1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用される事になりました。  その前年に入学しました。  クラシックバレエをやっていたおかげで選手に選考されました。  基本から教えてもらって、初めて新体操が面白いと思いました。  1983年の大学選手権で優勝しました。 全日本選手権では3位になりました。ミスをしないようにという思いだけで試合をやっていました。  世界選手権の予選に出ることが出来て、山崎さんの次の2位になりました。  フランスの世界選手権に出場して、日本人の最高順位で山崎さんよりも上になりました。  オリンピックの切符が掛かっていることを知りませんでした。   怪我をしたこととミスをしたことには、如何に自分にとってありがたかったのか、今でも感謝しかないです。

1984年のロサンゼルス大会は19歳の時でした。  萎縮をしてしまって自分らしい演技は出来ませんでした。  山崎さんが引退して、新体操の女王と言われましたが、自分の中ではこれでいいのかという思いでした。  (1984年から1989年まで全日本選手権で6連覇を達成する。)  厳しい練習条件の中でブラジルの選手の思い切り楽しく演技している場面を見て自分で衝撃を感じました。  自分の持っている力を全部発揮するとか、は全員に与えられたチャンスなんだと気付きました。  そこから自分の考え方が変わりました。  自分にできることは何だろうと考えた時に、自分の演技をパーフェクトにやることだと思いました。  それまでは新体操は孤独なスポーツだと思っていました。  みんなのお陰でここに立てると思うようになりました。 

日本人であることをきちんと表現したいと思いました。  それまでは背が低い、足が短いとコンプレックスを持っていましたが。  オリジナルにこだわるようになりました。 現役引退が1990年です。  海外でのコーチ研修などを経て、後進の指導にあたっています。   選手が何をしたいのか、どこに向かいたいのか、 どんな演技者になりたいのか、どんな人になりたいのかという事が一番重要だと思います。    そこに向かってどういう風に計画してゆくのかという事を伝えられればいいと思います。   何度も失敗をして修正してを繰り返しながら精度をあげてゆく。 「パーフェクトを目指しなさい。 ミスは許される。」といつも言っています。   78名部員がいますが、全員をスターにしようと思っています。    それぞれに凄くいい特徴を持っています。  自分を深くよく知るという事、それを表現に結び付けることが大変重要と思います。  いつも選手は心が揺れてしまいますが、本当のやりたいことはパーフェクトにやりたい、そこだけを見つめて進むという意志の強さと言うものを選手に伝えたいと思います。 





















2025年7月15日火曜日

青木辰司(東洋大学名誉教授)       ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

青木辰司(東洋大学名誉教授)     ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

 令和2年7月豪雨では熊本県南部を流れる球磨川の氾濫で熊本県の人吉球磨地方は大きな被害を受けました。   この災害から立ち上がろうとする人たちの苦悩を、人吉市出身の俳優中原丈雄さんの主演で描いた映画「囁きの河」が完成し、各地で上映されています。  この作品のエグゼクティブプロデューサーを務めたのは日本のグリーンツーリズムのけん引役東洋大学名誉教授の青木辰司さんです。  20年を越える人吉球磨地方とのふれあいで積み上げてきたものが、災害からの復興を応援するエネルギーになりました。 

映画「囁きの河」、映画の舞台は熊本県の人吉球磨地方です。 日本3大急流の一つ球磨川は令和2年7月豪雨で氾濫、多くの人命が奪われ住民は住宅や店舗、施設、道路、鉄道など生活の基盤を失いました。  この映画は今もなお水害の爪痕で苦しむ人吉球磨地方で復興への道を必死に歩み続ける人々の生きざまを描いた作品です。 主人公は一度故郷を捨てた船頭を演じる地元人吉市出身の中原丈雄さん他に清水美砂さん、三浦浩一さんほか。  自然災害の恐ろしさ、親子の関係、地域の人たちとの人間関係を含め、復興への道は厳しく平坦ではありません。  監督脚本は元NHKプロデューサーの大木一史さんが担当しました。 

熊本県人吉市、熊本市で先行上映しましたが、想定外の入りでした。  これから全国興行します。  グリーンツーリズム、ヨーロッパでは農村でのツーリズムを言われていた。    1980年代から自然を生かした農業、自然を生かした景観、文化、とかトータルで言うとグリーンな文化、グリーンなライフスタイル、グリーンな食とか、意図的にグリーンをルーラルツーリズムの中に意味付けしてきたのが、グリーンツーリズムのヨーロッパの始まりでした。  

日本でも、もう一度農村を活性化するという意味でグリーンツーリズムをまずは東北の皆さんに呼び掛けました。  何よりも農家の女性の反応が鈍かったです。  副収入、女性の直接的な収入に繋げていきたかった。  岩手県の遠野で研修会をやりました。  70人ぐらい集まり盛り上がりました。  東北6県を回りました。  九州でも声がかかり全国的に展開しようという事で、NPOを立ち上げ第一回の大会を2004年に熊本県の水俣でやりました。    人吉でもグリーンツーリズムを立ち上げたいという事で繋がることになりました。  人吉は絶好の場所だと思いました。  2004年から84回の付き合いになりました。  他の市町村も一緒にやろうという事で全市町村にグリーンツーリズム研究会を立ち上げてもらいました。  広域連携型グリーンツーリズムと言うのは日本では人吉しかないです。  実は水害の時にもこれが大きな力になりました。   球磨川の一市、二か村が集中的にやられました。(人吉市、山江村、球磨村)  上流の人たちが支援しました。  グリーンツーリズムで培った絆ですね。  今も凄いです。  

調査によってその地域を変えてゆく、実践型社会調査をずっとやってきました。  地元の人たちは東洋大学の学生たちに感謝してくれました。  学生と祭の再生の企画を行いました。 都会にない農村の価値に学生が気付いた時にいいところだという事が初めて判る。  何が一番外から来た人たちの思いが、地元の人たちに取って感謝になるか、考えましょうと、これは復興支援にも言える事です。  本当に地元の人たちに取って有難い支援になっているかどうか、こういったことがグリーンツーリズムの基本の理念になります。  

「かわがあふれた!まちが沈んだ日 生きる力をくれたキジ馬くん」(人吉球磨の水害をテーマにした絵本)  キジ馬は子供の成長を願う人吉の郷土玩具。  700~800kgのキジ馬くんが置いてあったが、水害の時にさらわれた。  八代海に浮かんでいることが判り、生還した。  是非このことを絵本にしてほしいと頼まれて、絵本作家に相談して描いていただきました。  この絵本がきっかけとなり、映画製作に繋がって行きました。

文明の発達と水害は表裏一体であるという認識を深めないといけない。  我々の身の廻りにある自然、地球の変化と言うものに疎くなっている我々が、災害被害をどうやったら最小化できるか、と言うテーマがあるなと思いました。  我々が自然とどう向き合い、自然をどいう風に保全してゆくか、と言うテーマを是非この映画を通して、考えていただく或る意味防災の教材でもあるし、環境保全のテーマでもありうる。  フィールドワークも地元に還元するものでなければいけないと思います。  私がお返しとしてできたのかなあと思うのは、人を繋ぐという事だと思います。  
































2025年7月14日月曜日

大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

 大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

大川栄作さんは昭和を代表する作曲家古賀政男さんの最後の内弟子でした。  今も古賀メロディーとして歌い継がれる名曲の数々を残した師匠古賀政男さんについて伺いました。

古賀政男さんは明治37年福岡県大川市で、8人兄弟の6番目として生まれました。 5歳で父を亡くし、母と姉、弟と一緒に一番上の兄のいた朝鮮半島に渡ります。  4番目の兄からマンドリンが届いたのは13歳の時、このころから音楽家への道を志す様になりました。 大正12年日本に帰国し、明治大学予科に入学した古賀さんは仲間と共にマンドリンクラブを創設、卒業後はプロの作曲家として歩み始め、20代の若さで「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などヒット曲を世に送り出しました。  

その後も「東京ラプソディー」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「目ン無い千鳥」「湯の街エレジー」「無法松の一生」「東京五輪音頭」など戦中戦後の歌謡史に残る名曲の数々を生み出しました。  1959年には日本作曲家協会の初代会長として日本レコード大賞を創設、6年後「柔」で自身のレコード大賞を受賞します。  又作曲活動の傍ら、音楽親善大使として世界各地を回り、1974年には広島平和音楽祭を開催、音楽で平和を訴えた古賀政男さん最後のレコードは第4回の広島平和音楽祭に当たって、島倉千代子さんのために作曲した「広島の母」でした。  古賀政男さんは古賀メロディーとして、今も歌い継がれる数々の名曲を残し、1978年(昭和53年)73年の生涯を閉じました。  国民栄誉賞が贈られました。

村田英雄さんがデビューしたのが昭和33年で、小学校3年生でしたがその歌を聴いて感動しました。  「無法松に一生」をしょっちゅう歌っていました。  古賀先生とは同郷で、昭和39年に父に連れだって古賀先生とお会いすることが出来、歌いました。  上京するように言われました。(高校1年生 卒業後に上京。)   古賀・・歌謡学院という音楽学校の初等科に入りました。  「古賀音会」と言うところには20人ぐらいがいましたが、その中に入れていただきました。  1年半ぐらいしてから内弟子生活に入りました。  「歌は声のお芝居だから、ストーリーと言うものがあるので、それにふさわしい表現の仕方をしてゆくんだよ。」と言われました。 

庭木の手入れ、車を洗ったりとかもしていました。  レッスンはたまにありました。  弟子入り2年後にデビューしました。  1969年「目ン無い千鳥」でレコードデビュー。  一時期放送禁止になりました。 (目の不自由な方に関する歌)  30年ぐらい歌わせてもらえなかったです。  大ヒットしました。  「筑後川エレジー」はその次でした。  デビュー当時は古賀先生から衣装を譲ってもらいました。  1978年に先生は旅立ちました。  晩年は病気がちですた。  訃報は僕が肝臓で退院したら電話がかかってきて、それが知らせでした。(7月25日)  亡くなる1週間前に、僕の入院先の枕もとに先生からの花が届きました。   4年後「さざんかの宿」で大ヒットする。 (180万枚)  歌手生活30年という事で、1998年「筑紫竜平」のペンネームで作曲しています。  作曲の難しさを身にしみて感じています。  

先生は「歌は水ものだ。」とおしゃいます。  「みずみずしさが一番大事で、詩に対しても声に対しても、日本人の感性、感じる気持ちをいつも大事にしろ。」とおっしゃいます。 「感動する気持ちをいつも再現できるのがプロだ。」という事が一番大事かと思います。

古賀先生への手紙

「・・・16歳の末、九州から上京し、・・・歌いたい,教わりたい。心の底から湧き出る気持ちを判って呉れる人にやっと出会えたという興奮を今でも昨日ことのように覚えています。  先生の存命中の20歳から10年間、歌手としての表現、技術を学びました。  なにより感銘を受けたのは音楽と向き合う師の姿こそが、古賀メロディーの創作の神髄であり、歌唱表現の手法なのではないでしょうか。 ・・・明日の英気を、活力を或るエネルギーに変えて、人々の心を慰め続けた古賀メロディー、華やかな音楽様式に裏打ちされ、人々の心に沁みわたるメロディーを、その時代の空気感に添えて、そのしなやかな感性でヒット曲を生み出し、大衆歌謡の父と言われた称号に弟子の一人として心から誇りに思います。 一方私人としての生活は一言でいえば、孤独との闘いの日々だったと思います。 「影を慕いて」のヒット曲の始まり、最晩年のヒット曲「悲しい酒」で幕を降ろしますが、二曲共に魂の叫びともいえる叶わぬ思いをスローワルツの甘美なリズムに乗せて、満たされぬ寂寥感とわが身の不幸を嘆く一人の人間像、その姿こそ人間古賀政男の日常に重なります。・・・物心つかぬ頃に父と死別し、8人の子供を抱えて苦労した母を偲んでの涙だったのではないかと思います。 ・・・母への愛をこめて紡ぎ出すメロディーが古賀メロディーの本質と思います。・・・戦前戦中戦後の多くの人々の心を慰め、寄り添い生きる勇気を与えた功績は計り知れません。・・・」















2025年7月13日日曜日

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作 

南こうせつさんは1949年大分県出身76歳。  1970年にソロ歌手としてデビューし、その直後にかぐや姫を結成、「神田川」「赤ちょうちん」「いもうと」などのヒット曲を発表、グループ解散後もソロ歌手として活動を続け、今年デビュー55周年を迎えています。 40年以上故郷大分県の国東半島にある杵築市の大自然のなかで暮らし、その環境を生かしながらシンガーソングライターとしての活動を続けています。  深夜便の歌の「愛こそすべて」の制作に込めた思いや、現在暮らしている故郷大分県での自然に囲まれた生活などについて伺いました。

デビュー55周年を迎えました。  来援3月までツアーがあります。  76歳ですが、1970年代、「神田川」がヒットしましたが、ほとんどの方が還暦を越えてゆくんです。 その方たちがお客さんで来ていただいています。  改めて聞くとこういう意味だったのかと、不思議な感じがすると、味わいが違ってくるというようなことを聞いています。  人生を深く味わいながらもありかなとコンサートを進めています。  「神田川」の歌との出会いが私の人生だったですね。  「神田川」喜多條忠さんからぎりぎりで出来たという電話があって、メモをして、2番を書きながら何となくメロディーが浮かんできました。 (喜多條忠さんが、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くのアパートで暮らした思い出を歌詞にした。) 電話を切って3分後にはもう曲が完成していた。 

今回のツアーのテーマとしては55年間の自分と言うものをステージで再現してみようという事です。  ひょっとしたらこの町で歌えるのは最後かもしれないと思うと、切ない気持ちにもなります。  

深夜便の歌「愛こそすべて」、テーマとしては二つあって、今迄歌って来た人生を歌うか、夏の時期なので夏を歌うか、迷いました。  結果的には夏を歌う事にしましたが、いろいろな体験、誰かさんを好きになった思い出などを歌にしようと思いました。  

*「愛こそすべて」 作詞:渡辺なつみ  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

出会い、別れ、縁と言うのはちょっとしたことで変わってゆくんですね。  あの人はどうしているんだろうというのはどなたにもあると思います。  青春時代の思い出を思い出してもらえればいいと思います。  幸せを感じると思います。  

大分で暮らして43年になります。   波の音からメッセージを感ずることがあります。   新しい町の歌を作って欲しいという要望があり、「おかえり」の歌があり、この町にぴったりだと思いました。  星野先生の詩が素敵だと思いました(50年前に書いた詩)

*「おかえりの唄」  作詞:星野哲郎 作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

喉が続く限り自分の気持ちを歌っていきたい。  歌っている瞬間をお客さんと共有したいです。  

*「神田川」  作詞:喜多條忠  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ



 









2025年7月12日土曜日

眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

 眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

パンに塗ったりヨーグルトに掛けたりと食卓に欠かせない蜂蜜はケーキをはじめ洋菓子や料理にも広く使われてい居ます。  そんな蜂蜜を集めてくれるのは蜜蜂です。  蜜蜂には西洋から入ってきた西洋蜜蜂と在来種の日本蜜蜂がいますが、現在スーパーなどに並ぶ蜂蜜のほとんどは西洋蜜蜂の蜂蜜です。  一方近年趣味としての日本蜜蜂の養蜂がブームになっているという事です。 眞貝さんは和歌山県古座川町を中心に日本蜜蜂による伝統養蜂を調査研究し、情報を共有しようと日本蜜蜂養蜂文化ライブラリーと言うホームページで、その成果を発信しています。 

蜜蜂の群れには女王バチがいて働きバチは全員メスです。  オスは生殖の時働いて後は亡くなる。  働きバチの寿命は1か月ぐらいです。  女王バチは2年~4年とか状況によって違いがあります。  女王バチと働きバチのDNAは全く同じなんです。  王台という特別な部屋に産み付けられると、働きバチはこれは女王様になるハチだという事で、特別なエサを与えます。 (一生涯)  そのエサはロイヤルゼリーと言います。 働きバチが1か月生きると言いましたが、蜜を取る期間は最後の1週間ぐらいなんです。 その前は巣の掃除をしたり幼虫の世話をしたりします。  働きバチは1週間でスプーン1杯ぐらいの蜂蜜を取って来る。  花蜜を取ってきて、口移しで花蜜を渡して20%ぐらいの水分量に濃縮します。 口には酵素を持っているので成分が変ります、それが蜂蜜になります。  蜂蜜は餌でもあり越冬用の餌でもあります。  蜂蜜は常温保存が出来ます。  糖度が高くて微生物が繁殖できないので腐らない。  結晶するかどうかは蜂蜜の種類によります。   ブドウ糖が多い蜂蜜は結晶化しやすい。 

日本人の蜜蜂との関りは海外とは違うのではないかと思いました。  環境と食と蜜蜂のことを研究してみようと思いました。  主に日本蜜蜂の研究をしていて、和歌山県古座川町を中心に行っています。  熊野地域は養蜂の歴史が古くて江戸時代から特産でした。 祖母が古座川町の故郷です。  丸太を空洞にして巣箱を作っている家庭が多いです。  

日本蜜蜂は東洋蜜蜂の一亜種という事です。  1590年代朝鮮半島との文禄の役の時に熊野の或る人物が朝鮮半島から熊野に持ち帰って、広まったと言われています。 巣箱で飼うようになったのは江戸時代からです。  北海道と沖縄以外には居ます。  西洋蜜蜂が日本に入って来たのは明治10年と言われます。  アメリカから輸入しています。  採蜜量が日本蜜蜂に比べて数倍から10倍と言われています。  女王バチを人工的に育成することが出来ますから、群れを増やしたり分けたりすることが出来ます。  日本蜜蜂は非常に難しい。 西洋蜜蜂は日本蜜蜂よりも一回り大きいです。(12~14mm)  西洋蜜蜂は半径2~3km、日本蜜蜂では1~2kmの範囲になります。  西洋蜜蜂の方が働きバチの数も多くて2~4万匹ぐらいで、日本蜜蜂は数千~1万匹ぐらいです。   蜜蜂の輸入が93%で国産は少ない。  輸入の66%は中国からです。  日本蜜蜂は自家消費とかが多くて正確な量はわかっていません。  

西洋蜜蜂は飼い方が標準化されていて、スワップ式巣箱が使われています。  日本蜜蜂は中が空洞で自由に巣をつくるようなものです。  西洋蜜蜂は咲く花を追って移動が出来るが、日本蜜蜂の場合はそれが難しい。  珍しい蜂蜜5種類持参。  柿の蜂蜜、そばの蜂蜜、いろんな花が混じった蜂蜜、日本蜜蜂の古座川町の2種類。 (1種類は2回越冬させた蜂蜜熟成度が高い)  

昭和60年と令和2年の花の量の比較でレンゲ草では16%になってしまっている。  みかんでは24%ぐらい、アカシアで50%ぐらい、主要な蜜源が減っている。  暑いことも蜜蜂にとっては大変。  昆虫全体が減ってきている。  昆虫の総数が1年に2,5%ぐらい減ってしまっている。  農薬、都市化(緑が少なくなる。)、気候変動などいろいろな問題がある。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が減ってゆくと人間にとって大問題となる。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が日本のもたらしている利益(経済価値)を推定した値は2013年では約4700億円で、3300億円分は野生の送紛者による。  生物多様性が大事。

ドイツのバイエルン州では蜜蜂を守るための条例を2019年に作りました。



2025年7月11日金曜日

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い 

戦後80年の今年、改めて注目を集める絵本があります。  淡い色の水彩画で可愛らしい子供の絵をえがいた画家いわさきちひろさんが昭和48年に出版した「戦火の中のこどもたち」戦争に巻きこまれた子供たちの姿が詩のような文章と共に描かれた作品です。  当時いわさきちひろさんは東京芸術大学の学生で21歳の息子松本猛さんに、「この絵本を一緒に作ってみない。」、と初めて声を掛け母と子で制作に取り組みました。  絵本完成の翌年いわさきちひろさんは病気のため55歳で亡くなります。  松本猛さんはその3年後、世界で初めての絵本の美術館「いわさきちひろ美術館」を設立、その後50年余り絵本に携わって来ました。 松本猛さんは今年74歳、50年余りの研究の集大成として、「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」と言う本を今年出版しました。  半世紀前に母とともに作った最後の絵本、そこから引き継ぎ切り開いて来た人生について、美術評論家で作家の松本猛さんに伺いました。

東京に来るのは月に2,3回ぐらいです。  絵本がいま平和のことを語る絵本が凄く増えてきているので、そういうものの関連の仕事が増えてきています。  あちこちで紛争があり、戦争を描いている絵本も増えてきている。  1970年以降毎年のように必ずそういう絵本が出ています。  特にウクライナのことがあって増えてきているような気がします。 絵は共通言語で国境も越えられ、親と子が絵本を通して語り合えるんです。  子供の時から平和を知ってもらいたいという人たちが多くて、だから戦争の絵本が出てくるんだと思います。   どうしても戦争が地球上からなくならないからだと思います。 

ちひろは戦争が終わった年は26歳でしたが、その世代前後は、戦後スタートラインが皆同じだったんですね。  やっと戦争が終わって自由に表現できるようになった。  戦争抜きには表現が出来ない人たちだったと思います。  自分たちの創作の原点は多くの人が戦争だったんじゃないかと思います。  

「戦火の中のこどもたち」母と子の共同作業で作られたものです。  母にとってはある程度自由に話しあえる相手だとは思っていたと思います。  絵はそれぞれ独立した作品として描かれていました。  それが20、30点溜まった時に僕に声を掛けて、構成を考えてと言ったような感じでした。  何となくゆるやかな流れは作れそうな気がしました。  出版まで半年以上かかっています。  第二次世界大戦のことについていろいろ本を読んだり調べたりしました。   5月29日の山の手大空襲で家は被災しましたが、母からはあまり聞く事は無く、谷川俊太郎さんから詳しく聞くことが出来ました。  元々想像力の豊かな人で、原爆のことも資料館に入るつもりが、資料館に足が運べなくなっちゃって帰ってきてしまったりしました。  原爆の絵、戦争の絵はきつかったと思いますが、描かなければいけなかったんだと思います。 

僕は高校時代から芝居の脚本を書いたり、演出をやったりしていました。  芸術一般を勉強できる場所は無いのかなあと思っていました。  芸大の芸術画家に入りました。  大学の先生の話を聞くよりも母親から映画に関する事とかを聞くことの方が面白い事は結構ありました。  絵に関しては非常に厳しいところがありました。  

「戦火の中のこどもたち」

(女の子の後ろ姿が立っていて、背景にはシルエットで爆撃機が何機も描かれている。)    

「赤いシクラメンの花は去年も一昨年もその前の年も冬の私の仕事場の紅一点。 一つ一ついつとはなしに開いては、仕事中の私と瞳を交わす。 去年も一昨年もその前の年もベトナムの子供の頭の上に爆弾は限りなく降った。  赤いシクラメンのその透き通った花びらの中から死んでいったその子たちの瞳が囁く。  私たちの一生はずーっと戦争のなかだけだ。       (ほとんどモノクロですが、赤いシクラメンだけが色が付いている。 花びらの中から子供達の顔が浮かんできている。)

「貴方の弟が死んだのは去年の春。」                                    (うつむいた少女が小さな花びらをもっている。  弟を思い出しているシーン。)

「あの子は風のようにかけて行ったきり。」                                  (男の子の強い目線の少年が描かれている。)

「もうずっと昔に事と言えるのかしら。  東京の空襲があけた朝、親を捜していた小さな兄弟の思い出。」                                          (激しいタッチの黒い太い筆で周りを塗りつぶしているが、真ん中にあいた空間のところに、女の子が弟をおんぶして歩いている姿が描かれている。)

(つぎのぺージは言葉がない。 ボロボロの服を着た男の子がただ佇んでいるだけ。少年のことをいろいろ考えて欲しいということ。)

「母さんと一緒に燃えて行った小さな坊や」                          (凄く厳しい顔をしたお母さんと腕に抱かれた赤ちゃん。 赤ちゃんの瞳は可愛いが、お母さんの瞳は本当に厳しい瞳です。 戦争を起こしたものへの怒り、そういう表情にも見える。)

「兄ちゃん、昨日登った木は。」                              (3人の男の子が焼け焦げた木の方を眺めている。)

(つぎのシーンは表紙にもなった女の子 呆然としてどこを見つめているのか判らなよな表情。)

「暑い日 一人。」                                         (鉄条網が描かれていて、その下に裸の男の子が横を向いている。  当時ベトナムで一つの村を全部鉄条網で囲まれていた。  ゲリラと交流しないように。  その中の少年を描いている。)

「うちの兄ちゃん強いんだぞ。  私のお姉ちゃんだって強いんだから。」               (防空壕の中と言うような設定。) 

「B52 森 ファントム 原っぱ トカゲ 炎 ヤシの実」                    (ここは傷ついた男の子や女の子たちが描かれている。)

「雨が冷たくないかしら。  お腹もすいて来たでしょう。」                         (雨の中に座ってじっと横を見ている少女が描かれている。  ベトナム戦争の時代にはいろんな人がゲリラ戦に関わっていた。  この子はいろんな連絡を待っている子だったのかもしれない。)

「牛と遊んでいた暑い夏の日。」                                (水牛と一緒にいる子供達と少年のことが描かれている。  ベトナムの平和な時のイメージだと思います。)

「風 母さん」                                             (このころベトナムではお母さんが出勤するように戦いに出掛けて行ったという小説がありますが、帰ってきたのかなと思う女の子の表情が描かれている。)

「赤いシクラメンの花のなかに、いつも揺れていた私の小さなお友達。  赤いシクラメンの花が散ってしまってもやっぱり消えない私の心のお友達。」                       (大きなシクラメンとそこに少女の横顔が描かれている。  ここで終わりになります。)

戦争の中で子供はどうなってしまうのか、そういったことを絵を通して表現したかったもので、言葉は最小限にとどめました。  この本が出版されたのは昭和48年。 翌年ベトナム戦争は終わるが、終わるのを知らずに母は亡くなってしまった。  肝臓がんが判ってアッと言う間に亡くなってしまいました。 

絵本と言うものをきちんと位置付けたいという思いが、母にも私にもありました。  それには絵本の美術館を作るのがいいのかなあと思いました。  

「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」を出版。  7年かかりました。  自分が感動したものを子供に伝えれば、親も子供も両方その絵本の魅力を知ることになると思います。 大人こそ絵本の魅力を知ってほしい。   作ることの歓びみたいなものを追いかけ続けてきたような気がします。  強くないと優しくなれないんじゃないかと思います。 それを母から学んだような気がします。




 






                                            





2025年7月10日木曜日

植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

 植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

現在4コマ漫画を中心に活躍している植田さん、1982年の4月から新聞の連載が始まった「コボちゃん」は今年の4月で1万5000回を越えました。  ほのぼのとした漫画で人気がある「コボちゃん」、ちょっとしたいたずら書きで始まった漫画家人生ですが、もう55年も続いています。 

2年ぐらい前に病気をしまして、その時までは夜の3時半に寝て10時半に起きて始めるという一日でした。  病気後は7時に起きて12時に寝るという事にしています。  読売新聞での「コボちゃん」の連載がことしの4月で1万5000回を越えました。  43年ぐらいですがあっという間でした。  その日その日を書いているうちのそうなっちゃったと言う感じです。  ネタは何かの目次とか、辞書、カタログ、新聞と言ったものから取っていました。 観てその場で選ぶと言う感じです。  雑誌だと4ページ貰って7本考えないといけないので、一日8時間ぐらい考えないと出ないです。  連載は40年間変わっていないのですが、枚数が減って、新聞と雑誌が3つです。  1年で600本ぐらいは考えないといけない。  ネタ帳に絵を描いてみる。  描いているうちにハッと見つかるんです。(見つからない時の方が多いが。)  まずは面白い事の落ちを考える。  前の3つを話にする。 

突飛なことはコボちゃんの場合に合わない。  私は新聞を取っていた時に「サザエさん」が連載されていて、夕刊が「クリちゃん」でその後にサトウサンペイさんの「フジ三太郎」で、漫画と言うとそれしか見ていないです。  一般家庭のリアルな感じの漫画でした。  コボちゃんは私が子供の頃呼ばれていた名前です。 

1947年生まれの78歳です。  3人兄弟の末っ子です。  母が絵が好きで、祖母も美術学校に行っていたらしいです。  親戚でも絵を描く人は多いです。  自分でも絵を描いていましたが、絵で行こうなどとは全然考えていませんでした。  近くに貸本屋があり小学校低学年のころよく読みました。  中学では野球、高校ではラグビーをやりました。  大学ではカメラマンになろうと思って、2年の時から夜間の写真学校に行きました。  大学紛争の時で4年間のうちの1年ぐらいしか大学にはいかなかったです。  新宿騒乱事件を撮りました。   渋谷音楽堂で決起集会をやっていて、そこに赤軍派と京浜安保系などがなだれ込んできて、全学連が排除されてしまいました。  それをみて学生運動はおしまいだと思いました。その日から学生運動を追いかけることを辞めました。  写真への興味もうすれてしまいました。 

炬燵に母と兄と私がいた時に、私が広告に漫画みたいな絵を描いて、それを兄が見て面白いじゃないかという事で、母も同様で、ちゃんと描いて出版社にでも持って行ったら、と言われました。  8本ぐらい描いて持っていったら、面白いから預かりますと言われました。  しばらくししてから又描いて持っていきました。   半年間ぐらいしたら初めて注文が来ました。4コマ漫画では食っていけないので、数ページのものを描いて欲しいと言われました。  自分ではやったことがないので、作っても面白くなかった。  4ページを全部4コマで埋めちゃえと思って、7本持っていったらこれで行こうよ、という事になりました。  あっという間に連載が始まりました。良い漫画家だと思うのは、長谷川町子さん(サザエさん)、根本進さん(クリちゃん)、サトウサンペイさん(フジ三太郎)、秋竜山さん(面白いと思って始めてみた漫画家)です。 

「ああ ちょんぼ」デビュー作 23歳(1970年)  月刊誌の連載を引き受けることになったが、4ページを描いてゆくのに、本当に1か月かかりました。  それが3,4か月続いた時にもう一本持ってくれませんかと言われました。  無理だと思ったが、月に2本になりました。  何とかこなしながらやっていたら、数か月して隔週誌をやらないかと言われました。  どんどん倍になって行きました。  次に週刊誌をやらないかと言われました。   他の週刊誌からも声がかかってきてしまって、どんどん増えていきました。  

普通の家庭、普通の人間のやる面白さ。  新聞は多くの人が読むので、いろんな人に判ってってもらえるようなものを心掛けています。  朝刊なので読んだ人が厭な気持になって出かけないような、そんな感じは最初から思っています。  1枚漫画は描いてみたいが、普通の生活の中の1コマ漫画を描くというのはあると思うが、発表の場がない。











2025年7月5日土曜日

桂文枝(落語家 六代)          ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝(落語家 六代)     ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝さんは今年落語生活60年目を迎えました。  若手のころからテレビ、ラジオで超売れっ子となり多くのレギュラー番組を持つ一方、落語家としては300を越える創作落語を手掛けてきました。  60歳からは上方落語協会の会長として活躍、上方では60年振りとなる定席「天満天神繁昌亭」を開場するなど尽力し、文枝さんが入門した当時は数十人だった上方の落語も、今では250人を越えました。  長年上方落語を牽引してきた文枝さんの思い、今の落語界をどう見ているのかなどお話しいただきました。   

先代の文枝さんに入門したのが1966年、今年で入門60年目となります。  人数は少なかったけれどそうそうたるメンバーに出会えたことは良かったです。  先輩師匠方とお別れすることになって、先輩方から引き受けたものをこれからどうするのか、今考えています。  黒柳さんが現在91歳で100歳を目指していて、私は90歳を目指して元気に落語がやれるようにしたい。  私は歩いて舞台に行く、そして降りてゆく事が出来なくなったら最後だなあと思っています。 足腰を鍛えていつまでも高座に出られるようにしたいと思っています。

落語の中だけにいたら井の中の蛙になってしまうので、いろいろと勉強して、それを又落語に持ち帰って行くという事で、いろんなことにチャレンジしたいと思ってきました。  創作落語は350近いと思います。  創作落語は同じ名前は使わない。  昔やった創作落語をもう一度覚えるという事になると物凄くエネルギーが要るんです。  名前が全部違うし、80歳を過ぎると物忘れもするようになりました。   時代と共に昔のものができにくくなる。  昔は待ち合わせで行き違いがあってそれをネタにするようなものもありますが、今は携帯があるので行き違いはない。  次の時代に合う落語を作って、それをいろいろな方に覚えていただく。  古いものほど古くならないという感じはしますね。  

1982年作、坂本龍馬が近藤勇にゴルフの勝負を持ちかける、近藤勇がゴルフに夢中になって行くという展開。  これは作るのに凄く時間が掛かりました。  テーマ、時代背景も様々で、家族愛を描いたもの、日常のふっとした出来事、時代の世相、とか多種多彩です。 2003年作「妻の旅行」、 定年退職した夫の妻へのぼやきを息子とする。  「宿題」、では兄弟愛が必要なのではないかと問う様なものでした。  塾などに行って取材をしています。 事実があってそれが誇張されて、飛躍して又事実に戻るという、そういうのが無いと、やはり落語は市井の生活のなかから起こる笑いでないと同調できないところがある。  第一作は1964年「アイスクリーム屋」 「アルバイト幽霊」 学生時代いろいろなアルバイトをしたので役に立ちました。  

作風は最初のころとかなり変わってきたと思います。  笑いで客が中心でしたが、落語はもっと人間の深さ、想いを描かないと(親子愛、夫婦愛、兄弟愛、友情など)、そこに根底がないと面白いものは作れないというのが段々わかってきて、そこには笑いが無くても深さが大事だなあと思います。  深さがあるから又笑いが大きくなる。  現代の古典を作るというのはぴったりするような気がします。  「温故知新」古いものを温め直す、皆に伝わるように温め直す。   

目標を500作と大きなことを言ったものですから、それをやるのにはどうしても時間が掛かります。  90歳まで頑張らないと絶対作れない。  作った後に練り直して練り直して覚える作業が大変です。   若い弟子(30人ぐらい)に勉強して貰おうと思って、グループラインを使って毎日問題を出しています。   答えを観て順位をつけて、又問題を出します。  弟子にはきっちり教えていかないといけないと思っています。  

今年82歳なので、中継風景で「屋島の合戦」を伝える落語を、30~40年ぐらいやっていないのですが、チャレンジしようと思っています。 




 


2025年7月1日火曜日

小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

 小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

倉橋由美子さんは昭和10年高知県生まれ。  大学在学中の昭和35年初の小説集「パルタイ」が芥川賞候補となりました。  その後は留学や海外生活をしながら、独自の作品世界を描きました。平成17年6月に亡くなりました。 (69歳)  今年は倉橋由美子さんの生誕90年、没後20年に当たります。  小池真理子さんは倉橋由美子さんのエッセイをまとめた本「精選女性随筆集」の選者を務めました。  

私の17歳年上の方になりますが、全く面識がありません。  1968年、69年(高校生)のころに倉橋さんの本に接していました。  『聖少女』は文学好きの文学青年、少女が全員読んでいた。  『聖少女』のテーマが近親相姦、父と娘、姉と弟。  なんて非道徳的なことを書くんだろうと非難を受けるようなことを、むしろ好んで書いていた方ですね。   その中の一つがインセスト(近親相姦)と言う大きな一つのテーマになっていました。    

『聖少女』では交通事故で記憶を失った少女(22歳)が出て来る。  彼女と出会った少年の目を通した箇所と、彼女が記憶を失う前にかいた日記がそのまま作品のなかにあります。  日記の出だし、「今血を流しているところなのよパパ。 何故、誰のために。 パパのために。 そしてパパを愛したためにです。」  衝撃的な出だし。  文体が冷たい。 正統的な日本文学も嫌い。 影響を受けたのはヨーロッパの近代文学、カフカカミュ、サルトルの影響を受けた。  いかにも自分自身のことを書いている様に思われる作品も多々あるけれど、それは自分の死体を自分で解剖するようなものだ、という風に書いています。  世界と自分を凄くわけていて、アウトサイダー的な位置で作家をやっていくという、深い信念のもとに書いていたという印象です。  本人は恥ずかしがり屋で人の多くいるところが苦手。 現実に興味がない。  タブーとされていることを言葉によって、事もなく破って見せるという事に興味がある。  

結婚して二人の娘さんがあるが、結婚制度には物凄く反発していた。  多くの人が望むロマンチックな局面を完全に追放したいという風に書いています。  人間世界の消滅を夢見ている、と言う風に断言している。  徹底したニヒリスト振りが倉橋由美子であり、当時の文学好きの読書好きの憧れを誘った。  女性であること自体を否定しようとしている。

その裏にあるものは何なんだろうと、私なりに出した結論としては、実にこの方は女性的なものを沢山持っていた方ではないかと思います。  その中で自己嫌悪みたいなものを感じる局面が多かったのではないかと思うんです。  倉橋さんの作品はどれを読んでも女の子なんですね。  女性を感じるんです。   いろいろなものの紆余曲折を経て、女性性を持つ自分自身に対する自己嫌悪が若い頃からかなり強かったのではないでしょうか。  彼女は昭和10年生まれで、普通であることに彼女は耐えられないところがあったのかもしれません。

私は三島由紀夫が好きで影響を受けました。  倉橋さんは、「もし私が男だったら盾の会に入りたい。」といったらしいんです。  新聞に掲載されて、それを読んだ三島由紀夫は感動したらしくて、「豊饒の海」シリーズの「暁の寺」をサイン入りで倉橋さんに贈ったそうです。 三島事件で思い知らされたのは、自分が男ではなかったという悲しい現実を突き付けられたと書いています。  自殺してしまわなければいけないぐらいの思想であるとか、想いの強さ、そういうものを女には持てない、女には三島さんのような行動は出来ない、と言うようなことも書いています。  男と女は根本的に違うとはっきりと言っています。 

倉橋さんの小説を書く心構えが箇条書きになっている。

主人公は道徳や世間の常識などに縛られずに行動する人物であること。           実在の人物をモデルにしない。  主人公の名前すら記号になっている。          内面を描くとか、精密な心理分析とか 、とりとめないことを延々と書いて読者に苦痛を強いたりしない。                                                                                                     

おしゃれな感覚を持っている人。  今後も出てこない作家だと思います。  晩年は体調が良くなかった。  69歳で亡くなる。  物語を嫌っていて、物語性が希薄です。  自分自身の生きた青春の一コマの中に倉橋由美子と言う作家がいたという、それだけで素晴らしいことだと思います。

私(小池真理子)は家に閉じこもっている方が好きで、運動もあまりしないです。  夫(藤田宣永 作家)を5年前に亡くしましたが、夫も私と同じで家を出ない人でした。  ぼんやりしているなから浮かんでくるものをキャッチしていきたいと思っています。  倉橋さんと類似しているところはあると思います。  推理小説から始まって、恋愛小説、最近は人間存在そのものに焦点を当てて書いています。  死ぬこと、生きる事、出会い、と言ったような事。  両親と夫を10年の間で看取ったので、書くテーマも違ってくるなと自分では思います。















2025年6月30日月曜日

岩崎加根子(俳優)            ・〔私の人生手帖〕

 岩崎加根子(俳優)            ・〔私の人生手帖〕

1948年15歳で研究生候補となった岩崎さんは、翌年俳優座養成所第一期生となって、以後舞台を中心に映画やテレビドラマで幅広く活躍を続けてきました。  92歳の現在も劇団俳優座代表として年間100回を越える舞台公演を精力的に行っています。  昨年の秋にはシェークスピアのリア王に史上最高齢の挑戦をし、今年紀伊国屋演劇賞個人賞と読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞しました。  ライフワークとしてきた「戦争とは」のシリーズは今年夏31回目を迎えます。  強靭な精神力と体力で舞台に立ち続ける岩崎さんに、芝居にかける執念、原動力と共に「戦争とは」のシリーズの裏側に潜む記憶、想いを伺います。

「猫獅子になる」という芝居で全国を回っていて、半分ぐらい回り終わって75ステージ終わりました。  評判が良かったです。  俳優になって78年になります。  大きな賞を頂きました。  シェークスピアのリア王の日本版と言いますか、女性がリアになるわけです。  炭鉱の女性の物語です。   「芝居はいい気になってやるものではない。」と千田是也先生から教わっていました。  千田是也先生の書いた『近代俳優術』を教科書にしてきました。   立華女学園に入って戦後で中学で終わりになりました。  演劇部に入って、先生から俳優座に入ったらどうかと言われました。  15歳で俳優座に入ることになりました。  兄は医者になって次兄は物理学者になりましたが、私は数学は苦手でした。      

私は身体も弱くて恥かしがり屋でした。  自分なら恥かしいけれどほかの人になれば構わないわけです。  「その人間になたっつもりでおやり。」と言っていただいた千田先生のお陰でやってこれたと思います。  俳優座がこの4月で閉館となりました。  劇場を立てるための資金つくりのために皆で映画にも出ました。  勝新太郎さん、萬屋錦之助さん、石原裕次郎さんなどと共演しました。  

舞台はやはり生の空気というか、それをお互いが感じると思うんです。  アンサンブルが大切だと千田先生はいつもおっしゃっていました。  

「取り敢えずの死」?という中国残留婦人のことを舞台にした話ですが、終了することになり、新たに別の企画を考えました。  朗読会を始めました。  その後舞台にしてやりたいという事になり、 3年前から舞台をやるようになりました。  今年で31年になりました。 集団疎開でお寺の本堂に布団を並べて寝ていて、自分と言うものが無くなってゆくような感じがしました。  「戦争とは」というタイトルにしました。  戦争とはどういうものであるか、どういう人間にしてしまうのか、という事を判てもらいたかった。  

辛いことをすればするほど、苦と言うのは終われば楽になる。  仲代さんとかインフルエンザに劇団員が結構罹ってしまって42℃の熱の中でやりましたが、治ってしまいました。   芝居をやっていたら年齢のことを考える暇はないです。  






2025年6月28日土曜日

沢知恵(歌手)              ・時を越えて響くこころのうた

 沢知恵(歌手)              ・時を越えて響くこころのうた

沢さんは1971年神奈川県生まれ。   父は日本人、母は韓国人です。 日本、韓国、アメリカで育ち3歳からピアノを弾いていました。  東京芸術大学在学中に歌手デビュー。 ライブハウスでの公演のほか、国立ハンセン病療養所や災害の被災地、少年院、刑務所などでも精力的に歌っています。  一方で2018年には岡山大学大学院に入学して、ハンセン病療養所の音楽文化の研究をしました。  その研究の内容は歌に刻まれたハンセン病隔離の歴史、「演歌は歌う」と言う本になっています。  今年は日韓国交正常化60周年、実は沢さんの祖母も岡山と深いゆかりがあったと言います。 

*「心」  作詞:キム・ドンミョン・訳:キム・ソウン 作曲:沢知恵 歌:沢知恵

およそ100年前に作られた詩を、詩人だった母方の祖父が日本語に翻訳し、沢さんが曲を付けました。  1998年に戦後初めて韓国で公式に日本語で歌われた歌です。  戦後長い間韓国では日本語の歌は放送でも流してはいけないし、歌ってもいけなかった。 2025年は戦後80年、ラジオ放送開始が100年、日韓国交正常化60周年です。  父は戦後初めて韓国に留学した日本人となりました。  キリスト教の牧師になりたくて日本の大学で学んでいて、韓国の隣人になりたいと言って韓国に留学しました。  留学先の大学で恋をして結婚を申し込みました。  

日本人との結婚には当人も無理だと思っていたし、周り全部が反対した。  祖母だけは反対しませんでした。(心を訳した人の妻)  祖母は昭和7年から8年にかけて留学生として日本に来て、 笠岡高等女学校(当時)で学んで卒業しています。  卒業アルバムに母が移っていました。  笠岡教会で祖母はオルガン師として勤めたことも判りました。  40年以上使っていなかった小さなオルガンがありました。(祖母が使ったであろうオルガン) それを沢知恵さんが弾きました。  1971年2月14日に私が生まれました。  国と国とかの繋がりも有りますが、人と人の繋がり、温かさ、思いやりとかが一番大事じゃないかと思います。

ハンセン病療養所の大島青松園の近くに行きたいなあと思いました。  父は牧師になるための研修として1年間大島青松園の教会にお世話になり、その後韓国に留学しました。  父は生後6か月の私を連れて療養所に連れて行きました。(当時は赤ん坊を連れてゆく事に対し周りは反対した。)  父は私が高校生の時にがんでなくなりました。   20年ぶりに私が行ったら「知恵ちゃんかい」と言ったんです。  皆さんと共に泣いてしまいました。 2001年から毎年大島青松園でコンサートをしています。  

全国に13の国立療養所がありますが、去年が750人ぐらいで、今年4月には639人になっています。  平均年齢は88,8歳。  岡山にはほかに長島愛生園、邑久光明園があり私の家から3つの療養所に通えるという事が判りました。  毎週のように通うになり、ハンセン病療養所には豊かな音楽文化があったという事を知りました。  岡山大学大学院に入って2021年に50歳で終了して、ハンセン病療養所にあった園歌を研究しました。 ハンセン病の患者がこの世からいなくなることが国家に奉仕する事、と言った内容もありました。  民族浄化という歌詞が出てくる園歌もあります。  歌を歌わせるときに上から働く力と言うものの恐ろしさ、と同時に辛い療養所生活を仲間と共に歌で乗り越えたという、下から湧き上がる力も又音楽の力なんだと思いました。 長島愛生園の歌が一番多いです。 全国療養所の中で唯一新良田教室(高等学校)が出来て(1955年)、全国から受験があり、1987年に閉校するまで300人以上が卒業しています。 その校歌があり、生徒が作詞、作曲しています。

*新良田教室 校歌  歌:沢知恵、森

挽歌「生と死」  人が亡くなった時、慰霊祭で歌ったという事です。 作詞:黒川ひとみ(開拓患者の一人 作詞して翌年亡くなる。 25歳) 

*「生と死」   歌:沢知恵














2025年6月26日木曜日

土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長)    ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界

 土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長)    ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界

土方さんは1960年東京生まれ。  大学卒業後練馬美術館の立ち上げに参加、その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任、かつて大阪万博の太陽の塔で多くの人の注目を集めた岡本太郎の人気は21世紀の今も衰えません。美術と言うジャンルには収まりきらないという岡本太郎の世界とは何なのか、それをどう伝えようとしているのか、子供の頃に何度か岡本太郎と親しくしたことがあるという土方館長に岡本太郎の魅力やアートとの出会いや楽しみ方などについて伺いました。

太陽の塔が重要文化祭として指定されると発表されて話題になりました。  塔が作られた時には賛否両論で、美術関係者からはけちょんけちょんに言われました。  当時日本は高度成長期で浮足立っていて、その足元をすくう様なデザイン、造形を岡本太郎は出した。  奇怪でグロテスクでまるで死の怨霊が湧き出たような、それを現代の文化を謳歌する万博会場の真ん中にどんと建てた。  異質な存在として現れた。  岡本太郎を大抜擢したのは丹下健三さんです。  お互いにないものを持っていて、強い信頼関係にあった。  すべてのパビリオンとかの建造物は撤去される予定だったが、一般の方々の強い支持で残る様になった。 

岡本太郎は非常に短い言葉で人の心を掴む言葉を連発するんです。  岡本太郎自身も自分のことを謎だったんじゃないですか。  非常に複雑な要素を一人の人間のなかに持っている。岡本太郎の全体像を正確に把握する事は難しい。  出来上がていた流れを全部ひっくり返してしまう。  そして新しい創造をする。  彼は20代のころに10年間パリに行って、哲学者ジョルジュ・バタイユと民俗学者マルセル・モースに出会っている。   人類の生の歴史を解き明かしてゆく民俗学にアプローチした。  

西洋的な価値が美術評論家の美術史の価値になる。  彼は意図的に逸脱しようとしていた。 美術館には若い人たちが面白がって来てくれる。   可愛いと言ってくれる、それに感激しました。  伝統やすでに価値が定まったものを守る言事は絶対おかしい、常に新しく捉え直さなければいけない、そうしなければ創造的な価値が生まれない、と言っている。  太陽の塔の内部に岡本太郎の秘めた思いが色濃く残っている。  呪術性、祭りであり、神への祈り、世界中に共通するものを、仮面、祭祀に使った民具、などを世界中から集めて展示している。 

父と岡本太郎さんは親しかった。  幼稚園の頃に父に連れられて展覧会に行って初めてお会いしました。  目線が低く、不思議な雰囲気を持っていたことをいまだに覚えています。   奥さんは「太郎さんは子供と付き合っていた方が生き生きとする。」、と言っていました。   偉ぶる事は無く、権威、権力を否定していた人で、組織、徒党を組むという事が大嫌いでした。  「芸術家は孤独でなければいけない。」といつも言っていました。  太陽の塔はぽつんと立っていて、岡本太郎自身のように思えてくる。  上は未来を目指し、地下空間は地をめざしていて、天と地を結ぶ宇宙人の様な存在です。 

岡本太郎の言葉。 「君は君のままでいい。」「弱いなら弱いまま。」「誇らかに生きてみろよ。」

父は神奈川の近代美術館の館長を長く勤めていました。  当時は絵描き、彫刻家が酒をもってきて館長室、学芸員室に始終出入りしていて、家にもきて宴会をしていました。  家庭教師の麻原先生の導きで哲学、宗教学などを学びました。  大学の先生から「練馬区に新しく美術館が出来るので、試験を受けてみては。」に言われました。  立ち上げから関わりました。  いい勉強になりました。   練馬美術館には20年間務めました。 その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任しました。  生涯学習の一環として公立美術館がある方向に行く。  

岡本太郎の母親(岡本かの子)に実家が川崎市でした。  2000点あまりを川崎市に寄贈してくれました。  それを生かすために今美術館があります。  美術以外のファッション、音楽などのジャンルで活躍している方たちが岡本太郎の大ファンだという方が凄く多いです。 お薦めの一点と言われれば、太陽の塔ですね。  岡本太郎自身、呪術師のような存在だと思います。  仕事帰りに毎日のようにいろいろな画廊巡り(40年続いている。)をしています。  自分自身がリニューアルできる。





























2025年6月24日火曜日

石飛博光(書家)             ・創作の原点と これからの書

石飛博光(書家)             ・創作の原点と これからの書 

石飛さんは北海道出身。  小学4年から書道をはじめ、高校3年で後の師匠になる金子鷗亭さんに出会い、1960年東京学芸大学学芸学部書道科に入学、同時に金子鷗亭さんに師事することになりました。  金子さんの提唱する誰にでも読める詩文書、漢字かな交じりの書に精力的に取り組んでいます。  2009年に毎日書道展で文部科学大臣賞を受賞、2012年に草野心平の詩「富士山」を書いて毎日芸術賞を受賞など大きな賞を受賞されています。 去年秋の叙勲で旭日小綬章を受賞しました。  今年は4月にアメリカニューヨークで日本の書ニューヨーク展が開かれ、石飛さんは皆の前で書を書く揮毫をする他、大正大学の学生と共にアメリカの人たちに書道を指導しました。  6月には大阪関西万博で書道の展示や海外からの来場者をはじめ、誰もが筆の体験が出来る実演エリア体験エリアで指導をして評判になりました。

今84歳。 小学、中学のころから中国、日本の作品を真似て楽しんでいました。 金子鷗亭師匠は、師匠を否定しなさい、自分でどんどん求めて書いていきなさいと言われました。  色々な先生からひそかに盗んで自分のものにしてゆくという、そういう勉強の仕方が大事だろうと思います。  但し先生の真似をしているだけでは駄目です。 常に新しいものを求めて、発見して自分の字を作ってゆくんだという気持ちが大事です。  

高校3年で後の師匠になる金子鷗亭さんの講習会に参加させてもらいました。  手の使い方指の使い方などしっかり見ていました。  東京へ行くことを決意しました。  1960年東京学芸大学学芸学部書道科に入学、同時に金子鷗亭さんに師事することになりました。 

一昨年徳島県立書道館で書道展を行いました。  草野心平の詩「富士山」を展示しました。  横16m✕縦2m40cmです。   東日本大震災の折りに作成したものです。  必死になって書きました。  今年は4月にアメリカニューヨークに行き指導したりしました。   6月には大阪関西万博で書道の展示や書道体験を行いました。  こちらの展示場にも草野心平の詩「富士山」を展示しました。  

作品としては40から50点程度は書いています。  楽しい時もあれば苦しい時もあります。一作一作気合を込めて作っています。  これでよしと言う気持ちにはなかなかなれない。日本は中国から漢字の文化を輸入するだけではなくて、 ひらがなを作りました。   漢字、かな混じりの新しい文化として日本人は作りました。  素晴らしい文化だと思います。 

草野心平 富士山 作品第壱

  麓には桃や桜や杏がさき
  むらがる花花に蝶は舞ひ
  億萬萬の蝶は舞ひ
  七色の霞にたなびく
  夢みるわたくしの
  富士の祭典

  ぐるりいちめん花はさき
  ぐるりいちめん蝶は舞ひ
  昔からの楽器のすべては鳴り出すのだ
  種蒔きのように鳥はあつまり
  日本のすべての鳥はあつまり
  楽器といっしょに歌っている
  夢みるわたくしの
  富士の祭典
  
  七色の霞は雪に映え
  七色の陽炎になってゆらゆらする
  鹿や猪や熊や馬
  人はいないか 人もいるいる
  へうたんの酒や女の舞ひ
  標野(しめぬ)の人も歌っている
  ああ
  夢みるわたくしの
  富士の祭典

  遠く大雪嶺からは黄鳥が
  使者になって花を啣へて渡ってくる
  三つの海を渡ってくる
















2025年6月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 兼好法師「徒然草」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 兼好法師「徒然草」 

「日が暮れたが前途がまだ遠い。 我が生ももはやよろめく力なさである。  一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまう時期である。  約束も守るまい。 礼儀をも気かけまい。」 徒然草

清少納言の「枕草子」、 鴨長明の「方丈記」と並んで日本三大随筆の一つ。 

兼好法師とは卜部 兼好(うらべ の かねよし)と言って出家後は俗名を音読みした兼好(けんこう)を法名とした。  鎌倉時代の終わり頃に生まれて南北朝時代、70歳以上は生きたと言われている。 「徒然草」を書いたのは40~50代と言われているがそれもはっきりしない。   兼好法師が亡くなって100年後ぐらいに、正徹という僧侶が徒然草」をひきだし高く評価し、そこから有名になった。  

『徒然草』序段

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」

することもなくもの寂しい暮らしの中で、朝から晩まで筆を手にしては、心に浮かんでは消えるたわいもないことを、とりとめもなく書きつけてゆくと我ながらわけの判らないように感じられる。 と言う様な内容です。

「つれづれなるまゝに」と言うところも、「退屈で寂しい」という意味にとる人もいれば、孤独の楽しみとか行の境地と言う意味にとる人もいる。 

「あやしうこそ物狂ほしけれ。」も妙にばかばかしい気持ちがすると言う様な謙遜に意味に捉えるのと、熱中しておかしくなるほど興奮しているという高揚感を表現してるとも捉えられている。  専門の学者のなかでも意見が分かれる。

ドイツ文学者の中野孝次さんが「徒然草」の本を出している。

「日本の古典文学の中で「徒然草」は私も最も親しんできた作品だ。  親しむと言っても鑑賞とか研究とかとは程遠くその中の好きな部分を勝手に我流に読んで、それをもって身のやしないとしてきただけだから、専門家から見たら随分偏った見方と言う事になろう。  しかし私は一般の読者が古典に近づくにはそれが一番と信じているのである。 中には自分で読むより先にまずカルチャーセンターのようなところに通って、専門家から字句や事項の説明を聞き、正しい解釈を知ったうえでないと古典に近づかないと言う人もいるようだが、それではどこまで行っても古典は我がものにはならないのじゃないかと言う気がする。  古典がわがものになるにはそのなかの一句でも半句でもいい、ある言葉に打たれそれがわが心のうちにはいり根付いて、もはや古典の文言なのか我が言葉なのか区別がつかないぐらいになり、我が生を導く様になってだと私は思う。」 

まず感動が先だと思います。  どこか一か所でも感動していただけたらと思います。

「日が暮れたが前途がまだ遠い。 我が生ももはやよろめく力なさである。  一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまう時期である。  約束も守るまい。 礼儀をも気かけまい。」 徒然草  112段の一節

人生短いので本当にやるべきことをやった方がいい、という事ですね。

188段

「或る人がその子を僧にして、仏教の学問を知り、因果の哲理をも取得し、説教などして世渡りの手段としてするも良かろうと言ったところが、子は親の命の通りに説教師になるためにまず乗馬を稽古した。  それは輿(こし)、人を乗せて担ぐ乗り物や、車、牛車のない身分で導に来た場合に、鞍に尻が座らないで落馬して困ると思ったからである。 その次には仏事の後に酒の振舞などあった時、坊主がまるで芸がなくとも施主は曲がないと思うだろうと、早歌と言うものを習った。   乗馬と早歌が段々上手になると益々やって見たくなって、稽古している間に説教を教わることが無くて、歳をとってしまった。  この坊主ばかりではない。  世間の人はこの坊主と同様なところがある。 」  「徒然草」

兼好法師はやるべきことをちゃんとやれと言っているが、なかなかできない。 

第137段

「花は満開を、月は名調なものばかり賞すべきものではあるまい。 雨に対して月に憧れたり、家に引きこもっていて気の付かぬうちに春が過ぎてしまっていたなど、情趣に富んだものである。  もう咲くばかりになっていたこずえだのちりしおれた庭などこそ、見どころが多いのである。」 「徒然草」

兼好法師は時間を惜しんで頑張ってきて、成功しろとか、なにごとかなせと言っているわけではない。  そういった価値観に振り回されずに、本当に自分が生きたいように、そう言っている。  

「木に坊主が登って、木のまたのところで見物していた。  木にとっ捕まていてよく眠っていて落ちそうになると目を覚ますことが度々であった。  これを観ている人が嘲笑して、実に馬鹿な奴だなあ、あんな危ない枝の上で平気で居眠りしているのだからと言っていたので、その時心に思い付いたままを、我等が生死の到来ただ今にもあるかもしれない、それを忘れてものを見て暮らしている、この馬鹿さ加減はあの坊主以上でしょう、と言った。」「徒然草」第41段の一節

こういった教訓話遺体なものは「徒然草」にはたくさんあります。

第109段

「「木登りの名人と言う定評のあった男が、人の指図をして高い木に登らせて梢を切らせたのに、非常に危険性があると思われた間は、何も言わないでいて降りる時軒場ぐらいの高さになってから、怪我をするな、気を付けて降りよと、言葉をかけたので、このぐらいなら飛び降りても降りられましょうに、どうして注意しますか、といったところが、そこがですよ、目のまわる様な枝の危ないところでは自分が恐ろしがって用心しているから申しません。  過失は何でもないところできっとしでかすものですよ、と言った。」  「徒然草」

「剣聖も信頼できない、強者は滅びやすい、財産の豊富も信頼できない、時の間に無くなってしまう。  才能が有っても信頼出来ない。  孔子でさえも不遇で有ったではないか。  徳望がるからと言って信頼は出来ない。  顔回、孔子の第一弟子でさえも不幸であった。 君子の寵遇も信頼できない。 たちまちに誅せられる。  罰として殺されることがある。  従者を連れているからと信頼することも出来ない。  主人を捨てて逃げ出すことがある。  人の行為も信頼できない。  きっと気が変る。  約束も信頼できない。  相手に信を守るのは少ない。」  「徒然草」 第211段の一節

あらゆるものが信頼できない。  このぐらいにい思っていれば、腹を立てたりがっかりしないで済むという事ですね。  何があっても動じるなという事です。

「悪人の生まれだと言って人を殺したら悪人である。  千里の駿馬、一日に千里を走るという名馬にみならうのは千里の駿馬の仲間である。  大聖、舜 古代の聖典を学ぶものは舜の一類である。  うわべだけにしろ賢者を手本にするのを、賢者と言っていいのである。」  「徒然草」 第211段の一節

兼好法師はうわべだけでもいいと言っている。  

「筆を取ればその気になってものが書かれ、楽器を取れば音を出したいと思い、盃を取れば酒を欲しいと思い、賽を手にすると賭博を欲する。  心というものは必ずそのことに触れて、催してくる。  いやしくもよからぬ戯れをしてはならない。  形式を尊重しているうちに、内容も充実してくる。  うわべだけの人を見てもむやみに不信人呼ばわりをしないがいい。  むしろ褒め尊重すべきである。」 「徒然草」 第157段の一節  

「いなばの国(現在の鳥取県)になにの入道とか言うものの娘が美貌だと言うので、多くの人が結婚を申し込んだが、この娘はただ栗ばかり食べて米の類は一向に食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないと言って親が許可しなかった。」 「徒然草」 第40段の全文

結婚を断る口実にしては栗しか食べないと言うのは、変な理由ですね。  

「盗人を捕縛しほかの悪事を詮議するよりは、世の人の飢えず凍えないような社会にしてほしいものである。  人は定収入が無いと方針も持てないものである。  切羽詰まって盗みもする。  世の中が上手くおさまらないで凍えたり飢えたりするような苦痛があると、犯罪者は絶えないわけである。  人民を苦しめて公金をおかさせるように仕向けて、それに罪を課するというのは不憫な技である。  しからばどうして人民を恵んだらよいかと申すなら、社会の上流に立つものが奢侈、浪費を止めて民を愛撫し、農業を奨励する、こうすれば下民が利益を受ける事疑いはない。  衣食住が人並であるのに、盗みを働く者こそ本当の盗人と言うべきではある。」  「徒然草」 第142段の一節  

「ふいにこの世を去ろうとする時になって、やっと過ぎてきた生涯の誤っていたことに気付くであろう。  誤りと言うのはよそ事ではない。  急を要することを後回しにし、後回しでよいことを急いで過ぎてきたことが悔しいのである。  その時に後悔したって間に合うものでもあるまい。  「徒然草」 第49段の一節 

人生の後悔について。


 



















2025年6月19日木曜日

笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

 笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

笹野さんは1948年兵庫県淡路島生まれ。  高校卒業後俳優を目指してに日本大学芸術学部映画学科に入学。  しかし大学2年の時に中退して東南アジア航路の船会社に就職して、船員となります。  その後串田和美主宰の自由劇場に入り俳優活動を始めました。 1979年初演の舞台「上海バンスキング」で注目されるようになります。  1982年自由劇場を退団、活躍の場を映像作品へと広げます。  1985年念願の山田洋次監督の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演、以来「男はつらいよ」シリーズの常連となり、山田洋二監督作品には欠かせない俳優となります。  又舞台では「コクーン歌舞伎」「平成中村座」など歌舞伎にも出演しました。 

母親の時代は当時大流行でした。  映画が大好きな母親でした。  淡路島造り酒屋「東洋長」に四男として誕生。  3歳の時に父を亡くしました。(結核)  母親にもうつっていて母親と兄弟が療養のために別の家に住んでいました。  母親に連れられて映画館に行きました。 (小学校に入る前)  11歳の時に母を相次ぎ亡くして、実家の戻って育てられました。  中学になって自分で映画を観るようになりました。  映画俳優になりたいなあと思い始めましたが、口には出せませんでした。  雑誌から映画俳優になるための方法についての本のことが書いてありました。  手紙を出して届いたのが、呼吸法、しゃべり方などの本でした。  隠しておいた本を兄貴に見つけられてしまいました。  兄たちに大反対されました。  

大学に日本大学芸術学部映画学科があることを調べたら知りました。  俳優コースに入り立ったが、反対されるので監督コースを、という事にしました。   大学に入ることになりまいた。  池袋の映画観に良く通いました。   演劇のグループに入って演劇のことを一から教えて貰いました。  先輩が自由劇場に入って、その先輩に誘われて入りました。  1年後に柄本明が入って来ました。  俳優ってあんな風体でもいいんだと思いました。  学生運動が盛んになり、 小劇場も運動に巻き込まれました。   自分の居場所がなくなってしまいました。  お金を使わないで外国に行くのは船乗りだと思いました。  て東南アジア航路の船会社に就職して、船員となりました。  凄く楽しかったです。  

段々学生運動、小劇場の運動も収束していきました。  船員の道か芝居の道か、悩みました。  役者でやらしていただきたいと、23歳の時に言いました。  自由劇場に入りました。  佐藤B作さんが自由劇場を辞めて自分で劇団を立ち上げました。  柄本さんも辞めました。  彼らがテレビに出るようになって、 役者が飯を食えるようになったんだと思いました。    憧れていた映画「男はつらいよ」に佐藤B作さんが出ました。  悔しかったですね。  自分で頑張ればいけるのではないかと思って、勇気を貰いました。  柄本さんも出ました。  自分でも頑張とうと思いました。  

自由劇団を辞める2年前に「上海バンスキング」がヒットしました。  それで賠償千恵子さん主役のミュージカルへのオファーがありました。  賠償千恵子さんから山田洋次監督に繋がるのではないかと思いました。  舞台を山田洋次監督が見ていただいて、36作目の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演することになりました。  以後毎回呼んでいただきました。  或る人から「笹野さんは主役をやろうと思っちゃ駄目、笹野さんは脇で光る人なんだから」と言われました。   脇を見事にやってのける俳優になってやろうじゃないかと、思いなおしました。  俳優はいつもピカピカなリンゴでないといけないと思っています。 このリンゴは美味しそうだと買っていただくので。  心も身も元気で居ようと心がけています。   セリフが覚えてれるうちはもうちょっとましな役者になりたいと思っています。


















 










2025年6月15日日曜日

忽那健太(プロラグビー選手)      ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦

忽那健太(プロラグビー選手)    ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦 

最近は海外のリーグに挑戦するラグビー選手が多くなってきましたが、まだ日本人のプロ選手がいないスコットランドのプロリーグに挑戦した選手がいます。  忽那健太(くつな けんた)さん30歳。  忽那さんは愛媛県松山市出身で5歳の時からラグビーをはじめ、高校ラグビーの名門石見智翠館高等学校(島根県)から筑波大学、社会人のジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)でトップレベルで活躍しました。  その後膀胱がんの治療を行い、命に限りがある事を改めて知らされ、出来るうちにラグビーの王国イギリスでプレーしたいと一昨年スコットランドのあるクラブチームで活動を始めました。  目標はスコットランドで日本人がまだ誰もなし遂げたことのないプロ契約を結ぶ事でした。  2年間の挑戦を終えて帰国したプロラグビー選手の忽那健太さんにお話を伺いました。

今、全国を回っています。  小中高校大学、社会人の企業団体を回って、命の大切さとチャレンジすることお大切さをやっています。  講話とラグビーの練習もします。  モットーが「やるか、めっちゃやるか」です。  3年前に膀胱がんを患って命と向き合う時間を持ちました。 生きるか、めっちゃいきるか、と思っていまして、一回の人生を後悔無く生きるという思いがあり、「やるか、めっちゃやるか」と言う言葉を使っています。 本気で生きるという事です。  

父は陸上部でした。  団体で競技するラグビーに憧れを持っていたようです。  兄弟3人をラグビースクールに放り込みました。  現在兄が32歳、私が30歳、弟が28歳です。   兄を目標にしていました。   ラグビーは人間臭いスポーツだと思っていて、沢山の友達を作ることが出来ます。  強豪校に行きたくて島根県の石見智翠館高等学校に行きました。 (猛反対があったが。)  3年生ではキャプテンとなって全国大会で準優勝をしています。  大学は筑波大学を選択しました。   体育教員を目指しました。  中学からずっとキャプテンをやって来ました。  責任を負うという事が結構好きでした。  引っ張ってゆくには言葉と行動のバランスですね。  「挑戦する先には成功か成長しかない。」と思っています。 これはスコットランドへ行ってきた経験から得たものです。  挑戦する過程が成功なんじゃなかと思います。   

2017年ジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)に入ります。  トップリーグで戦いましたが、完全に鼻をへし折られました。  身長が172cm、体重が82kgで大きい方ではありません。  3年間プレーした後、26歳の時に膀胱がんと診断されました。   頭が真っ白になりました。  かなり大きくなっていて、2回手術を受けました。(1か月入院)  転移している可能性もあり、先が見えない時間でした。   死を意識末うと同時に人間は死を目前にした時に生の執着は凄いと思いました。  生きるとは何だろうと凄く考えさせられました。  未来に向けて時間を過ごそうと思って、自分が治った後は何がしたいのか、ノートに書き続けました。  もう一回ラグビーがしたいと思いました。  命はいつでも終わると感じて、今をとことん本気で生きようと思いました。 先生から「転移はなかったです。」と言われた時に、泣いてしまいました。  もう一回本気でラグビーをやってみたいと思いました。   

2023年選手として復帰、スコットランドでのプロ活動への挑戦を表明しました。  2回目の人生を貰っているんだという思いがあり、あてのない海外活動でしたが、不安感よりもわくわく感が上回っていました。  安いホテルを捜してチーム探しから始めました。  ヘリオッツ・ラグビークラブに入れました。   司令塔のポジションでした。  英語の会話はそれほどではなかったので苦労しました。  女子のラグビーチームのコーチも担当しました。仕事はチームメイトが紹介してくれた引っ越しやさんの会社で働きました。  週45時間契約で月~金まで働きました。 (何回かもう死ぬかなと思うほどでした。)  夜週3回の練習がありました。  1年目は国内3部リーグのアマチュアリーグでプレイ、年間25試合で24試合に出場、MVP4回選ばれる。  首に怪我をしてしまいました。 

2部リーグ契約直前で2部リーグが軽々破綻という事で解散になってしまいました。  日本に帰る選択肢もありましたが、残る決断をしました。  目標のプロ契約は出来ませんでしたが、思いつくことは全部行動に移したので、後悔はないです。  2025年4月7日、韓国実業団ラグビーユニオンからオファーがあり、プロ契約を結びました。  日本に戻ってきましたが、スコットランドで学んだこと、経験を伝えていきたい。  それと命の大切さを伝えたい。四国二日本一を目指すチームを作りたいという思いもあります。   情熱は磁石だと思います。














2025年6月14日土曜日

鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)    ・これまでのお墓、これからのお墓(初回:2024/1/13)

鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)    ・これまでのお墓、これからのお墓(初回:2024/1/13) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2024/01/blog-post_13.htmlをご覧ください。

2025年6月13日金曜日

ヨシタケシンスケ(絵本作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

 ヨシタケシンスケ(絵本作家)   ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

ヨシタケさんは40歳お時にオリジナル絵本「りんごかもしれない」を出版、ヨシタケさんが作る様々なアイディアが展開する筋立てのない絵本は発想絵本と呼ばれ、以来数々の賞を受賞、ヒット絵本を生み出し続けている人気絵本作家です。  ネガティブでしょんぼりしがちだというヨシタケさんならではの視点で作られる絵本は多くの人の共感を得ています。 現在「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会が全国を巡回しています。  絵本の世界を体験出来て ヨシタケさんの頭の中に迫る展示会は子供たちにも大人気です。  デビューから12年を迎えた絵本作家 ヨシタケシンスケさんにお話を伺いました。 

デビューから12年が経ちましたが、ここまでやれるとは思っていませんでした。  僕が本にテーマとして選びたい事と皆さんがこれは私に興味があるテーマだと思ってくださる事が思いのほか一致していたことが、凄く運のいい事としかいいようがないです。  その時その時家庭で起きたニュースを作品にするタイプなんだなという事が3,4年経って判って来ました。  人間身体が変ってゆくと考え方も随分変わるという事がここ5年ぐらいで身に染みたことです。   子供の頃の自分が知りたかったこと、読みたかったものを作ろうと、ずっと作ってきて、最近はそれに加えて5年、10年先の自分に向けて描いている感覚があって、そういった作品つくりだと思います。  

私の本を読んでよく視点が優しいと言われることがあります。  それは僕自身が優しくしてほしいからなんです。  自分にとって世の中はこういう風なものなんだよと言われた方がむしろ頑張れるなとか、しんどさから抜か出せるなとか、日々自分で考えながらやっています。 傷つきやすさ、生きずらさみたいなものが、モチベーションになっている。  自分の弱さみたいなものが経費で?落ちる仕事があるなんて知りませんでした。  この表現の世界は優しい世界なんだなあと思います。  

3年前から大規模な個展を全国で巡回しています。  原画展で出来るとは思っていませんでした。  僕の原画は小さいし色もついていないし、場所が余ってしまう。  工夫する中で、本が出来るまでの頭のなかで起きた事の様子を見てもらうという空間を作って行きました。  展覧会は団体競技として作る場なので、自分一人ではできない面白さを凄く感じました。  僕は会場には居ませんので、何を言っても大丈夫です。  「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会です。   新しい選択肢、こういう事もあるかもね、と言う考え方、視点、可能性を「かもしれない」と言う言葉でやって来たので、一つのテーマとして集約するものだと思っています。  断言しない。 

2023年うつ病と診断されました。  元々ネガティブな人間でした。  この4,5年で体力がガクッと落ちました。  ネガティブを体力で補って来ていたのを、体力が落ちてくると補えなくなる。  軽度の鬱状態と言う診断でした。    行って急に治るものでもないと思ったし、いろいろ考えたらもとに戻ることが出来ました。  しんどさを語る事の難しさを凄く改めて感じました。   救いになったものと言うのは今は見つからないが、いつかは見つかるかもしれない、それが救いといっていいのかもしれない。  自分を好きになる事だけが自己肯定の方法なんだろうかと思えるようになってきて、自分と仲良く出来ないという事に慣れてゆくことも、自己肯定の一つなんだろなあと最近は思うようになりました。 

ヨイヨワネ うつぶせ編」、ヨイヨワネ あおむけ編」 弱い自分でいいんだ、弱音を吐いていいんだと言ったものです。  自分に取っては本当に必要な行為であって、この2,3年弱音は半端じゃなかったです。  しんどさを言葉と絵にしたかった。  自分を救うための表現。   生きるのがしんどいあなたに為のウェブ空間 「かくれてしまえばいいのです」に関わりました。  いま「死にたい」「消えたい」と思い悩んでいる子どもや若者への提案です。

一旦この世から隠れてしまえばいいのではないかと思って、隠れる場所さえあればあの世にいかなくてもいいんじゃないかと、この世とあの世の間の「その世」を作って避難する、シェルターのような役割として、そういう場所が良いのではないかと思いました。  チームの人たちが作家としての私を提案を尊重してくださいました。   24時間無料で利用できます。  アクセス数が1か月で200万を越えている。   つらさとか実在する人がいるという事を可視化できるツールは今までなかった。  辛いのは自分一人ではないんだなと思うだけでも、孤独感は薄れたりもする。  最終的に人を救うにはストーリーしかないんだなという思いがあります。   自分で作るストーリもあるし、2000年、3000年とか使われ続けているストーリーもあります。  物語でしか人は世の中を認識出来ない生き物なんだろうなあと思います。  生きていきたくないという人たちに対して、どういうストーリーが用意出来るのか、そういう人に何を届けられるのか、沢山考えることは自分の中で新しいテーマが頂けた気がしています。  自分に取っても必要だった。  

今年52歳になります。  老いについてがテーマ、「まてないの」  あかちゃんから、おばあちゃんまで。まてない人の、まてない絵本。  高齢者向けの絵本があっていいだろうし、高齢者向けの絵本をちっちゃい子が読んだ時に 、どう思うんだという事にも興味があります。  〔人生のみちしるべ〕を捜さなければとあせっていますが、無くてもいいなと言う風に思うために、みちしるべ以外のものが欲しいなと思います。  最後までじたばたする人を見て安心したいです。  自分に甘いから人にも甘くなる。  皆のことを許すから俺のことを許してくれと言う生き方をしているので、そうすればもうちょっと平和になると思います。












2025年6月12日木曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編 

シベリア3重苦と言う言葉があります。  飢えと重労働と厳しい寒さ。  

①飢え ドイツとの戦争、飢饉のために元々食料事情が悪かった。  日本人にはわずかな食べ物しか与えられずに多くの人が飢餓状態になりました。  一日に僅かな黒パンとおかゆ、塩味の水の様なスープだけで野菜の切れ端が浮いていればましで、砂糖などは本当に少なかったそうです。   慢性的な栄誉失調が多くなり、そんな中重労働をさせられた。  死亡者が続出した。  抑留者の管理は日本軍の習慣をそのまま使っていた。(厳しい上下関係)  日常生活でも楽なことは上官が占めて、上官は不当な労働を強制して自分たちは楽をする。  食べ物も多くとってしまう。 

②重労働  原則週6日で労働時間は8時間。  達成されないと残業が強制された。  たまたま気候がいい時には12時間労働になったこともある。  日本人はとても手先が器用なので、頼られてしまった。  ドイツ人は穴掘り作業を指示されると8時間かけて終わらせる。    日本人は早く終わらせれば休めると思って早くかたずけてしまう。  余力があるという事でそれ以上のことをやらされえてしまう。  建設工事でが工場、学校、大規模な都市建設まで任されて、水道工事、ダムの建設まで行った。   今も残っていてその土地の人は日本人に恩恵をうけたと感謝をしている。 

③厳しい寒さ  気温がマイナス40℃から50℃になる。  想像を絶する苦しみだった。   全体の80%は初めの冬で死亡している。  

1945年8月9日に旧ソ連は音全日本軍を攻撃してきました。  およそ60万人の日本人が約200か所ある収容所に拉致監禁され強制労働させられた。   その直前には第二次世界大戦は終結に向かっていました。   スターリンはすでに計画されていた日本軍への攻撃をずっと早めて8月8日に日ソ戦争を起こしてしまった。   日本とソ連には領土不可侵条約(5年間)が結ばれていて1年残っていた。  ポツダム宣言で日本に無条件降伏を促したが、ソ連が日本を守ってくれるかもしれないと微かな期待を抱いていた  ソ連に仲介を頼むという動きもあったようです。  その返事を待っていたためにポツダム宣言を日本は黙殺してしまった。  ソ連はすでに連合軍側に加わっていた。  終戦と同時に満洲などにいる日本人はようやく日本に帰れると思っていたが、抑留されてしまった。 

満州は現在の東北地方にあった日本が1932年以降統治していた地域でした。  80万人ぐらいが移り住んでいました。   男性はシベリアへ女性子供は日本へ自力で帰る道が待っていた。  女性の一部もシベリアに抑留された。(従軍介護婦、軍の補助の仕事をしていた人など)  万一の時のために青酸カリを持っていたそうです。  5万5000人ぐらいの人が現地で亡くなっています。  

ソ連には収容所国家と言うのが実態としてあった。  スターリンの時代に農家が政府の集団経営に変えられて富んだ農民は個人の財産を奪われて、強制収容所へ入れられた。 合計数百万人の人が死亡している。  およそ200万人が収容所に入れられている。    ドイツとの戦争で1500万人ぐらいの犠牲者が出て、労働力が圧倒的に不足していた。  組織的なソ連の囚人労働者の実態があきらかになってきた。   日本人抑留者は戦利品です。 ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニアなどの国からも捕虜が送り込まれている。

ナヴォイ劇場の建設。  ソビエト連邦軍の捕虜となった旧日本軍の兵士が建設した劇場でも知られている。  1966年の大きな地震でも無傷でした。  日本人の勤勉な仕事ぶりの賞賛の対象となってきた有名な劇場です。  

苦難を乗り越えて帰ってきた人たちはその後も苦しみがありました。  日本人の抑留者にも共産主義を勉強させた。  洗脳されてソ連の思い通りに動くようになると、食べ物を多くもらえるとか、早く日本に返してやるという事を言われる。  その人たちが抑留所に帰ってくると、軍隊の規律で動いていた収容所が、代わってその人たちが力を持ってくる。  上官がやられるようになる。  吊るし上げと言う様な個人攻撃が始まる。  密告されるのではないかと、お互いが信じられなくなる。  こういったことで帰って来てからが最大の難関となる。  シベリア帰りという事で仕事がもらえない。    

戦後80年を迎える時になり当事者は亡くなってきた。  当事者から聞いた話についてその家族からの話も加えています。  亡くなった人の克明な抑留の記録を見出した人もいます。  平和な時代をもっと長く維持しなければならない。  自分が書いたようなことをよくくみ取って、人間の命を大事にしていってほしい、という事を伝えたかったようです。 

本を書く前にウェブサイトを作りました。  閲覧者数は24万回を越えています。  若い学生たちの協力によってできました。   ウェブサイトには抑留に関するような音楽も入っています。  「シベリアの歌」も入っています。

*「シベリアの歌」






 

2025年6月11日水曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編 

榊原晴子さんは1951年東京生まれ。  結婚を機にアメリカ、カルフォルニア州に暮らし始めて、太平洋戦争中の日系アメリカ人の苦しみを知ります。  さらに日本人のシベリア抑留にも関心を持ち、本格的に抑留の歴史や抑留者の証言を集めて、20年余りが経ちました。  以来カルフォルニアの大学で日本語を教える大学生と資料を纏めたり、帰国した時には日本で社会学や歴史を学ぶ大学生に講演したりして、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝え続けています。 

講演する中で2005年生まれの彼らはシベリア抑留と言う言葉は聞いたことがあっても実際は何も知らなかった。  これからの日本の歴史を背負うものとして、何かできることは知ろうとすることだという感想もありました。  私のはシベリア抑留を経験した叔父が一人居ました。   満洲で終戦を迎えた時に、 突然侵攻してきたソ連軍の捕虜になりました。  強制労働のどん底の生活の中で、叔父はドイツ語の知識を生かして、ロシア語も学んで将校の通訳になりました。  1950年に最後の船で舞鶴に帰ってきました。  弾丸で前歯が全部撃ち抜かれていたそうです。  どうやって食べて生き抜いてきたのか?  叔父は自分からは何も話しませんでした。   若い頃は溌剌とした青年だったようですが、暗い影を落とすようになってしまいました。  60歳を越えて肺がんで亡くなりました。  

私は結婚してアメリカで暮らすようになりました。  私の夫は日系3世です。  夫の家族の戦争体験を知りました。  義理の父親が日系2世(ジョセフ)です。  その親(榊原平治?)が明治28年にアメリカに渡りました。  1841年12月8日に真珠湾攻撃があって、日米開戦となりました。  ジョセフはアメリカ国籍を持っていましたが、榊原平治?はアメリカ国籍をもっていませんでした。  ジョセフはアメリカ政府からスパイ容疑をかけられました。  日本人の住民は「JAP」と呼ばれて蔑まされるようになりました。  翌年大統領令が出て、日系アメリカ人は全ての自由をはく奪されて、家にあったもの、それまで築いたもの捨てて、立ち退きを命じられました。  持って行けたものはスーツケース2つだけでした。  連れていかれた収容所は砂漠、荒れ地に建てられた掘っ立て小屋でした。  10か所ありました。  

その後戻ってもかつての様な暮らしぶりにはなりませんでした。  仕事の再開も難しかった。日本語も使えなくなりました。  ジョセフは牧師志望だったので、神学校に行かせてもらえました。  広島の原爆のことを知って、戦後日本に戻って広島、長崎の家の復興に関わりました。   私は自分には何が出来るんだろうと深く考えるようになりました。 「何故家を出るの」と言うタイトルの歌を作りました。  英語で作って日本語にもしました。 

サクラメントで偶然に写真家の新正卓さんとお会いしました。  新正卓さんはシベリア抑留の写真集としてまとめ上げました。  日系アメリカ人の強制収容所の写真集のために撮影をしに来ていました。   お手伝いをしたためにその二つの収容所が重なって来ました。  共通する事はそれぞれ収容所のことを語らなくなったという事でした。  シベリア抑留について調査をして「アメリカから見たシベリア抑留」と言う本を昨年出版しました。

シベリアからの生還者に直接会って話をするようにしました。 その中に政治家の相沢秀之さんにお会いして励ましを頂きました。  相沢さんは東京帝国大学法学部政治学科を卒業、1942年9月25日大蔵省に入省、その後陸軍に入る。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員。 大蔵省の戻って政治家として活躍。 引退後も一般財団法人全国強制抑留者協会の会長を務め、戦後の旧ソ連による抑留の「生き証人」として語り部を続ける。  妻の司葉子さんにはシベリア抑留のことは話していないそうです。  夜中にガバッと起きることがあったそうですが、後に抑留と関係があることがわかったそうです。   心身ともに最低の生活だったとおしゃっていました。  だから後にどんな厳しいことがあっても乗り越えられるという思いはあるそうです。   相沢さんとの出会いによってシベリア抑留について背中を押されました。







2025年6月7日土曜日

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)      ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)   ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~ 

谷川さんは今年1月通算1400勝と言う記録を達成しました。  大山泰治15世名人、羽生善治9段に続く史上3人目の快挙です。  阪神淡路大震災から30年となる今年1月に打ち立てたことに特別な思いがあると話します。   棋士として生きて半世紀、さらなる高みを目指そうとしている谷川さんの棋士人生を伺いました。

14歳から初めてまもなく50年になります。  20代、30代がプロ棋士として最盛期ですので20代は年間40勝するのが当たり前といった感じですが、40代を過ぎるとなかなか勝てなくなってきて、最近は二桁10勝するのがやっとという事なってきています。  昨年11月、12月は成績が悪くて7連敗しました。 1398勝になってから進みませんでした。   新年早々の対局で一つ勝つことが出来ました。  1月15日に達成できました。  郷田さんとの対局でした。   30年以上対局してきた相手で、或る意味安心感はありました。  持ち時間が一人6時間で、休憩の時間などを合わせると、午前10時から始めて23時ごろまでかかりました。  20代から得意にしている戦法を選びました。  勝ってホッとして記者会見を行いました。  節目が新会館でした。  阪神淡路大震災30年の節目の年もありました。

1433勝が大山15世名人の記録で、30代のころから大きな目標としてきました。  その目標を掲げる事にはなったと思います。   42年前になりますが、21歳で名人戦の挑戦者になって加藤一二三名人に勝って最年少名人の記録を作りました。  30年前は震災の中、羽生善治さんを挑戦者に迎えて王将戦の7番勝負で第7局で勝利を納めました。  そういった様々な場面が浮かんできます。  

兄と二人兄弟ですが、喧嘩をしないように父が将棋盤を買ってきたのがきっかけです。  一つのことをはじめれば長く続く性格です。  体力が必要なので室内自転車も30年以上やっています。  10手、20手先の局面は頭の中で動かしていきます。  私の場合はパソコンの画面で白黒です。  頭のなかの駒の文字は一つです。(王、飛、角とか)  どういう映像が浮かぶかは棋士によってちがうようです。  

序盤が駒組で、中盤が戦いがあって、終盤は相手の玉を詰ませるとなりますが、終盤の寄せを20代に「高速の寄せ」と付けていただきました。  終盤の始まりでいろいろなイメージが出来ていたのかなと思います。  詰将棋を小学生、中学生にかなりやっていたのでその影響があったのかと思います。   「高速寄せ」は30年前は私の得意分野でしたが、私を研究してくるので、平成、令和のトップのレベルは高くなってきています。  AIを使ってパソコンで研究してゆくので、定石の整備、進化は昔とは比べられないほど早くなってきています。

震災を経験したことで神戸に対する愛着が強くなりました。  自分が住み続けることで神戸の復興を見届けたいと思います。  私の住んでいるところは被害はなかったのですが、両親が住んでいる実家は全壊しました。  大きな怪我はなかったのは不幸中の幸いでした。  羽生さんが7冠達成の挑戦者としてきて、第一局(1月12,13日)の4日後が1月17日でした。  19日妻の運転で大阪に行きました。  普段は大阪まで30分ですが、朝出掛けて大阪のホテルに着いたのが夜の9時になっていました。  20日に対局がありました。  23日には栃木県の日光に行きました。  羽生さんにはタイトル戦で7連敗をしていました。  大坂では温かいご飯が食べられたり、今迄当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったんだという事がわかりました。   対局が出来るという事が幸せだと思えました。  初心を取り戻すことが出来ました。   被災地のためにという思いは強かったですね。  防衛が出来ました。   1月17日生まれの子が弟子にしてほしいという事で受け入れました。  考えるヒントを与えるようにしています。 

ここ3年ぐらいは藤井さんの圧倒的な強さがあります。   藤井さんが25歳になるころには将棋界も様替わりして、藤井さんと同年代、後輩の棋士たちによるタイトル争いになって行ってしまうかもしれないです。  ここ数年でAIの影響が凄いですね。  50手ぐらいまではシュミレーションして臨むとか、詰みの近くまで調べておかないといけないぐらい、最新の流行の形で戦おうとすると、それぐらいの準備が必要と言われて来ています。

1時間かけて結論が出そうもないと思うと、指してしまう事が多いんですが、藤井さんは苦労をいとわずに真剣に考えてきたことの蓄積が、今の藤井時代に繋がっていると思います。   40歳ぐらい若い棋士と対局するのも楽しみの一つです。  1433勝は一つに目標として行きたいと思います。  年齢を重ねる程将棋の奥深さを感じます。


















2025年6月6日金曜日

山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

 山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

山内さんは岩手県盛岡市出身。 自らを飲む文筆家と称しています。  地方を訪ねた時に出会った地元の人に愛される美味しい酒に魅せられてきました。  日本各地の蔵元などを取材して日本酒の効能、製造工程、歴史、業界の現状や未来などをテーマにした多くのエッセイを書いてきました。  最近書いたのが「日本酒吞んで旅行けば」人気の銘柄や全国屈指の老舗など15の蔵元を訪ねて、美味しい酒つくりへの思いやそれを支える地元の居酒屋や料理人達を取材しています。  日本酒との出会いや魅力、地元の料理人たちの酒に合う自慢の料理など、日本酒と旅に未来や可能性を語ってもらいます。 

母はアルコールを飲めない、父も御猪口一杯で真っ赤になるになる人でした。  私の母方の祖父母家が屋号が「麹家」で麹を作っていたらしいんです。  そこへ婿に入ったひいおじいさんが酒つくりの蔵人だったらしいです。   高校卒業をデザイナーになりたくて上京しました。 グラフィックデザイナーの専門学校に入学しました。  その系列の飲食店で働き始めました。 ある店が日本酒を100種類ぐらいある店でした。(22,3歳)  日本酒の銘柄が読めないので覚えていきました。  飲んでみて目覚めてしまいました。 

日本酒の店をやりたいという思いはありました。  時代は焼酎ブームの時代でした。  日本酒のことについて書くことで多くの人に伝えられるので、ライターになりたいといきなり思いました。  日本酒は透明でどの蔵も同じようなものですが、味が全然違うんですね。  合成酒と言った時代もありましたが、戦後復興と共に原料不足が解消されて行っても、 まずく作ろうが飛ぶように売れていた時代がありました。  戦後蔵の数も減少が続いて、2015年時点では1300ちょっとと言われていました。  今はもうすこし減っていると思います。  杜氏制度が廃れて行っていましたが、その原因が高齢化でしたが、現時点では若返っている様な気がします。  昔は杜氏さんと言うと農家出身の方が多かったのですが、農業大学を卒業した人がどんどん入ってくるようになりました。  

高度成長期は灘(大手メーカー)が全盛でした。  地酒ブームで小さい酒蔵も注目されるようになりました。  それ以降には小さい酒蔵が美味しい酒を造るようになりました。   いろいろなブームがあり吟醸酒ブーム、淡麗辛口ブーム、新潟のお酒も流行りました。    景気がいいとスッキリした辛口の酒が流行る、景気が悪いと甘口の酒が流行ると或る蔵元さんが言っていました。   

地元に行かないと本来の日本酒の姿が判らないのではないかと思いました。 本音を聞くのには地元で聞いた方がいいなと思いました。  20代の女性がライターという事で蔵元に行くと、当時は門前払いを喰う事もあり最初は苦労しました。  作り手の人と深い話をしたいという思いがあり、製造のこと、作り手しか知らないような事を知らないと会話にならないので勉強はしました。  

酒つくりには本当に正解がないという事を、改めて突き詰めたいと思いました。  作り手の譲れないものがあって、そういったことも凄く面白いです。  そういったことを知ってほしいと思いました。  20年ほど前から女性杜氏の方がぼつぼつ出てきました。  最近は大分増えてきました。   

蔵元推奨の居酒屋、小料理屋さんへ必ず訪ねています。  「日本酒吞んで旅行けば」では取材の一環として行って書くことにしました。  地元の野菜など、郷土料理と共に飲むと本当に美味しいです。  日本酒の輸出は伸びてきています。  酒蔵自体を海外で作ってあちらで作って現地の人たちに味わってもらうという流れも出てきました。  コロナ禍をきっかけとして小さな酒蔵さんもSNSで発信するようになりました。  それで便の悪い小さな酒蔵さんでも知ってもらえる機会が増えました。  同時に販売の仕方も変わって来ました。  酒蔵さん自身が自分たちで売ろうと言う様な流れになってきています。  蔵の哲学は変わらないんだけれども、その年、その年でお米の出来、不出来もあるし、時代の流れに合わせて、工夫しているところは多いと思います。  

有楽町に日本酒バーがあって、週に一回お店に立って女将をやっていて14年目になります。料理も作っています。  お客さんの反応を大事にして、ライター業でも書くようにしています。  その人に合ったものが絶対あるので、そこを捜す作業が楽しいです。  質のいいお酒にはこだわりがあるので、そのためには地元に行って酒蔵さんの話を聞かないと判らない。  飲食業とライター業が交差するような形でやっています。  











2025年6月5日木曜日

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋 

箭内さんは専門分野の広告だけではなく、東京藝術大学教授やラジオ局の名誉局長など多岐に渡り活躍を続けています。  今62歳で去年3月に自身の還暦をきっかけとした音楽イベントを開催し、さだまさしさん、石川さゆりさん、GLAY、乃木坂46など親交の深い有名なアーティストが大勢参加しました。  さらに石川さゆりさんが歌った「津軽海峡冬景色」では自らギターを演奏、ミュージシャンとしても参加し、2日間で4公演を行ったイベントは大盛況で話題となりました。  幅ひろい分野で活動を続ける思いをうかがいます。

クリエーティブディレクターと言うのは広告を制作するうえでの責任者です。  その広告で売れなかったり、話題が作れなかったりしたら多くの責任を負うのはクリエーティブディレクターです。  福島県出身。東京藝術大学卒業。  大手広告代理店を経て2003年に独立、様々なジャンルで活躍中。  NHKの番組でも司会をしました。  広告はずっとやって来ました。  来年で30周年になる仕事が一つあります。  タワーレコードのノーミュージックノーライフと言う仕事です。  何枚ポスターを作ったかわからないぐらいずっと続いています。  

福島県のクリエーティブディレクターもしています。  2011年3月に東日本大震災があって、福島第一原発の事故もあって、前代未聞の災害でした。  11年目になりました。   東京藝術大学の教授、ラジオ番組のパーソナリティー(トータルで18年 毎週)もしています。   ラジオ局を設立して名誉局長をしています。  

色々やっていますが、全部広告だと思っています。  企業の応援、社会全体を応援することが広告だと思っています。  商品の魅力を最大化して世の中に伝えていくという仕事だと思います。  やっている事は誰よりも狭いと思っています。  

還暦と言うきっかけをタイミングに、皆がえっと思うようなことを成し遂げないとという宿題を自分に課しました。  それで音楽のイベントを開催しました。  埼玉スーパーアリーナがたまたま空いた日があって、今日返事をもれるのならばお貸ししますと言われて、とりあえず仮抑えしました。  キャンセル料を調べたら100%で進むしかなかった。  GLAYTAKURO(タクロウ)さんにまず話をしたらいいですね、やりましょうという事になりました。  さだまさしさんとか段々増えていきました。  埼玉スーパーアリーナは東日本大震災があって双葉町の皆さんが町ごと避難した場所でした。  2日間行ってとっても嬉しかったです。 

子供の頃は故郷が嫌いでした。  近所の良くないことなどをしゃべりながらご飯を食べている様な状況もあったり、自分の弱さも福島県の県民性にあるのではないかと思っていました。 或る時福山雅治と話をした時に、自分に足りないものを全部故郷のせいにしているのではなく、悪いのは自分なんだという風に言ってくれました。  その時期に東日本大震災が起きました。  そこから夢中で動きだしました。  1億円寄付したくなって3月14日に銀行に借りに行きました。  寄付が目的の融資は出来ませんと言われました。  2010年に結成した福島県のバンドでレコーディングして寄付しようと思いました。  そこから広がって行きました。  

ラジオ局の設立は、大震災のあとラジオが大きな存在であることに気付きました。  つなぎ直すメディアが欲しいと思いました。  放送免許が必要だという事でした。  渋谷には同様な考え方を持つ人たちもいて、私が理事長になって旗振り役を担当しました。  福山雅治さんに話をしたら僕も一緒にやりますと言ってもらえました。  誰でも出て欲しいと思ったので、「聞くラジオから出るラジオへ」と言うスローガンにして始めました。 

実現は自分一人では絶対できないので、沢山の人たちの応援、守ってくれたり、導いてくれたりと言ったことが大事です。  何もやったことがないことを、誰に何をやって貰えるかと考えることが好きです。  

小学校4年生の時に、プロ野球に試合を友人宅で見ました。  優勝が決まる試合で巨人に阪神が9-0で負けました。(9連覇達成の瞬間)   僕にはなんてつまらない事なんだろうと思いました。  9年も同じチームしか優勝しない。  その日から阪神を応援することにしました。  それから主流のものに反対の立場を取り続けるような子供でした。  大学を選択する段になって、美術大学があるという事でこれだと思いました。  親は僕のあまのじゃくの性格をよく知っていて、親からは3つ言われました。 ①家の手伝いするな。 ②悪いことはしてもいい。 ③勉強をするな。  全部反抗しました。  

当時東京藝術大学では就職は負け組で、あえて就職を選びました。  第一位ではなく第二位の広告代理店を受け無事入れました。  いろいろトラブルがって面接時間に間に合わずその2時間後にたどり着いて受けることになりました。  スターチームには入れずに腐って行きました。  1996年にノーミュージックノーライフと言う仕事を始めました。  先輩の木村さんと一緒に仕事を捜し歩きました。  ノーミュージックノーライフの仕事が生まれていきました。   

39歳で13年間いた会社を辞めました。  或る上司から「自由の海に出たら何に逆らうんだ。  お前はもう終わりだ。」と言われてしまいました。  それがアンチの対象になり燃えました。  40歳ならば纏まった退職金、持ち株も1年、2年待てば上場して纏まったお金がもらえたんですが、さんざん周りから言われました。  

僕自身、広告は素人的にしてきました。  好きなものしか広告しないと言う様な考え方でした。   広告を技術だけで作っているという事は空虚であるという事を段々わかって来たんだと思います。  そこに魂があるかどうか、思い、助けたい、応援したいという事が作り手にちゃんと有るかどうかという事が、問われている時だと思います。  それを取り戻していくことがこれからの広告の第二章の始まりかなと思います。 

若い人にチャンスを増やしてあげたいという気持ちは有りますが、でもまだ自分も必要とされていたいというエゴみたいなものもあったりして、そこのせめぎあいが60代の難しさではないかと思います。  撮影の現場が楽しかったという風になるかどうかがとても大事です。 












2025年6月4日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌

五木寛之(作家)           ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌 

20代の後半から作詞をしています。  専属のプロの作詞家としていた時代がありました。    CMソングをまずやっていました。   一日3つぐらい作ったこともあります。  

「思い出の映画館」  新宿に小さな映画館があって、入場料が30円でした。  フランスとかイタリアの古い映画を上映していました。  そこで随分勉強させてもらいました。  映画の題名を次々織り込んでゆくというものです。  忘れられないものの一つです。 

*「思い出の映画館」  作詞:五木寛之  歌:旅人   1979年

一世を風靡した映画が沢山ありました。   

*「織江の唄」  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ  歌:山崎ハコ  1981年

遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに会いとうて

 カラス峠ば越えてきた

 そやけん 逢うてくれんね信介しゃん

 すぐに田川に帰るけん

 織江も大人になりました

 

 月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ

 信ちゃん 信介しゃん うちは一人になりました

 明日は小倉の夜の蝶

 そやけん 抱いてくれんね信介しゃん

 どうせ汚れてしまうけん

 織江も大人になりました

 

 香春岳 バスの窓から中学の 屋根も涙でぼやけとる

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたが好きやった

 ばってんお金にゃ勝てんもん

 そやけん 手紙くれんね信介しゃん

 いつかどこかで会えるけん

 織江も大人になりました。


九州弁で書かれていますが、山崎ハコさんは大分県の出身なんです。 「青春の門」 9巻まで行って10巻で完結する予定ですが、完結してもしなくてもいいのかなあと思っています。  最後は読者が自分で物語を作って解決するという、そういうやり方もあるんじゃないかなあと思います。  


*「インディアン サマー」 作詞:五木寛之 作曲:いまなりあきよし 歌:麻倉末稀


ボサノバ調です。 「織江の唄」とは全然違います。  演歌、童謡なども書いています。


作詞は楽しい仕事です。 小説と違ってリラックス出来ます。  


*「旅の終わりに」  作詞:五木寛之 作曲:菊池俊輔  歌:冠二郎


ごてごての演歌です。 







2025年6月3日火曜日

柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

 柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

柏原寛司さんは東京出身。 大学在学中に映画撮影所にアルバイトとして入り、特撮テレビ番組「クレクレタコラ」で脚本と助監督を経験しました。   1974年俳優萩原健一さん主演のドラマ「傷だらけの天使」で脚本家として本格的にデビュー。  その後「西部警察」、「大都会」、「危ない刑事」など数々の映画やドラマの脚本を執筆しています。 

数々のドラマを描きましたが、NHKはないです。   毎回殴ったり蹴ったり撃ったり殺したり爆発したり、NHKぽくないです。   1949年東京・人形町に生まれました。  最初は紙芝居が好きでした。  次に漫画、次に映画となりました。  人形町には7軒映画観がありました。  銀座、上野も近いので映画を観る環境は凄くよかったです。  西部劇が大好きでそれが基本になりました。   石原プロは車の壊すのも派手で大変でした。   友人から日本の映画を観るように勧められたのが「用心棒」と「七人の侍」でした。   高校の時に観たんですが、吃驚しました。  それから日本映画を観るようになって監督をやろうと思いました。  

助監督試験は大学を出ていないと受けられませんでした。  大学も落ちてしまってシナリオ研究所に入りました。  3浪を経て日本大学芸術学部文学科に入って、大学4年の時に「傷だらけの天使」、「俺たちの勲章」を書きました。  大学を卒業した時に日活の助監督試験がありましたが、新宿の交番のお巡りさんと喧嘩をしてしまって試験に行けませんでした。  それでライターになってしまいました。   中学、高校の体験が下地になっている部分もあります。  恋愛ものは書かないですね。   萩原健一さん、藤竜也さん、勝新太郎さん等と仕事をしたのは楽しかったです。  

萩原さんとは「傷だらけの天使」のあとは「あいつがトラブル」で再開した様な形になりました。  「豆腐屋直次郎の裏の顔」辺りから萩原さんと仕事をするようになりました。   萩原さんはトラブルが多いので出資する側がビビるんですね。  撮って宣伝活動して劇場公開するまで2年ぐらいかかったりするんです。  萩原さんとやり始めてからはプロデューサー的なこともやり始めました。  映画館を作りたかったが、いろいろ規制がありできなくて、その代わりに試写室にしました。   藤竜也さん主演の映画「猫の息子」を撮りました。   2016年片桐竜次さん主演の映画「キリマンジャロは遠く」を撮りました。   映画監督は面白いすね。  ライターでは責任は取れないが、監督だと責任が取れます。  最終的な責任は現場にあるわけです。  監督だと責任が取れるのでそこが面白いです。  責任が取れる快感があります。  監督は決断をする仕事なんです。  もめ事も好きです、トラブルがない現場なんてつまらない。   それを解決してゆくのがまた快感なんです。 

若手を育てる事には力を入れたい。   映画業界を活性化するためにはいろいろなことはやろうとは思っています。   町内に長く住んでいるので、老人クラブの会長にさせられました。  トラック野郎とは違った切り口で、静岡のトラックに関わる話をを映画化しようと画策中です。















2025年6月2日月曜日

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている 

俵さんは1963年大阪出身。  早稲田大学在学中に歌人の佐佐木幸綱さんに師事、短歌を作り始めます。  1987年発表の第一歌集「サラダ記念日」は社会現象を起こす」だべストセラーとなり、口語短歌の大一人者として多くの歌集やエッセイを発表してきました。  又ホスト歌会、アイドル歌会の選者を務めるなど短歌にとどまらない活躍を続け、これまでに迢空賞(ちょうくうしょう)、紫綬褒章(しじゅほうしょう)などを受賞しています。  この春出版された「生きる言葉」は現代社会における言葉の力について、ご自身の子育てや体験を踏まえて考察していて幅広い 読者を獲得しています。 

「生きる言葉」はエッセイではなく論評、論法となっています。  言葉についてじっくり考えてみたいなあと言う気持ちが自分の中で高まって来ました。  ネットでは顔に知らない人とやり取りをしなくてはいけない時代になって来ました。  言葉の比重が大きくなってきていると思います。  ネットなど便利な反面、誤解も生じやすい。  自分が言葉を書くという事に関して、注意深く楽しむようにしたいと思います。   ネット社会について高速道路に例えると、さきにインフラが整ってしまって、運転するルール、マナーがとかがまだ途中と言うままみんなが運転して仕舞っているという様なイメージですね。  なので事故も起こりやすい。  

ちょっとした一言で、自分が傷ついたり、人を傷つけたりという事は、日常会話の中でも起こっているわけです。  何故言ってしまったのかを考えるとことによって、次への処方箋になるような、楽しんで観察できるような気持で居たいと思います。  正しい言葉と言うのは無くて、お互いの関係性、文脈で正しくもなれば間違った事にもなる。   子育てを通して、自分が考えた言葉と言う風にもこの本は読めます。   言葉に対するまっさらな目を自分でも取り戻しながら楽しんでいたような気がします。   息子がラップが好きで日常的にいろいろ聞いています。  短歌に近いなあと思ったりもします。   言葉の語彙を増やすのにはしりとりは良いと思います。  息子は大学生になり国語学を勉強しています。  

佐佐木幸綱先生からはエネルギッシュな文学論と言う感じで、短歌だけではなく幅広い文学論でした。  先生の歌集に出会って、今を生きる表現手段だと知ることが出来ました。   先生の授業の感想、書いたものの感想とか、手紙で送っています。  短歌を作るのが楽しかったです。  ラップも短歌もリズム感があって、耳から届くという意味では共通するものがあります。   短歌を作るときには音の響きはとっても大事です。  濁音はちょっと耳障りな感じがします。   心の真実を伝える言葉で有ったら、嘘をついてもいいのかなあと思います。  短歌、俳句を作ってくれるAIは有りますが、私たちが短歌を作る醍醐味は、心の揺れを立ち止まって見つめ直して、そこから言葉を選んで形にしてゆく、その過程を含めて歌なんです。  AIにはその過程がありません。   私たちは心から言葉を紡ぐ。 

迢空賞(ちょうくうしょう)を取ったら楽になりました。  もうそれ以上ないし。    50代は色々なことがありました。  子育てが一段落すると親が高齢になり、自分でも病気をしたりしました。   入院も一つの経験になりました。  その中から歌も生まれました。 歌を詠むことで、自分の人生を振り返り、言葉にすることで辛い経験を乗り越えたんだなと言う、達成感があります。   

「作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること」   俵万智

私自身も歌を通していろいろな出会いがあります。   言葉のかけらをメモしておいて、もうちょっと育てて行こうかとか、同じようなことが二度三度あった時に初めて歌になるとか、そういう事もあります。   

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」  俵万智

今一番多くのお母さんが好きと言って下さる歌です。  重ねぬりの度合いの厚みがある時には抽象的な歌でも成立するという事はあります。 

年齢年齢によって見える景色は変わってくると思うので、「アボカドの種」と言う一番新しい歌集では30年振りに会った元彼の話が出てきますが、30年後の恋は20代の人には詠めないぞと思ったりしています。  年齢を重ねることで見えてくる景色などを捕まえて行けたらなと思います。  「アボカドの種」には黒い歌も結構入っています。  良い面を捉えて歌にしたいと言う白い歌を心掛けてきましたが、黒い歌も出来てきて歌集に入れてもいいのかなあと思いましたが、共感して頂いて黒い歌も人を励ますという事があるんだなあと思いました。  言葉にするという事は自分を客観的に見るという事に繋がるので、そういう意味でもいいと思います。   

「人生を楽しむための治療ゆえ今日は休んで大阪へ行く」   俵万智

放射線治療をしている時でしたが、どうしても行きたくて行きました。 

「優しさに一つ気が付くバツでなく丸で必ず終わる日本語」  俵万智

特に中高年の人から共感を得ました。 「マルハラ」マルハラが生まれた背景には、世代間のギャップがあると考えられます。 世代によって、コミュニケーションの目的やゴールが異なる点に、マルハラの発生原因があると考えられます。  仕組み、状況をきちんと理解して、知るという事は凄く大事な事です。  道具なので道具に使われたらおしまいで、道具を楽しいんで便利に使えるという事が大事だと思います。  言葉はなんで生まれて来たかと言うと、伝えたい事、共有したいことがあるから言葉は生まれてきたわけですから、人と人とが繋がるものとして言葉を使っていけたらいいなあと思います。 





 






 






2025年5月30日金曜日

沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子さんは1949年北海道の出身。  地元の高校を卒業後、単身上京して国立音楽大学入学、1973年シングルレコード 『アザミの花』で歌手デビューしました。  その後舞台、映画、テレビ、ドラマ、バラエティー番組の司会など多岐にわたって活躍しています。

芸能生活昨年で50周年を迎えました。  笑顔でいろいろな人に話し掛けて50年過ごしてきました。  大学の教育課程の時の高校生に教えるのが怖いと思ってしまいました。   自分で働こうと思って、都内のホテルのジャズクラブでピアノの弾き語りのバイトを始めました。(22,3歳)   20歳という事でデビューしましたがばれちゃいました。  ピアノは小学生の頃に習い始めました。  父は国鉄の職員で母は農業をやっていました。  兄弟3人の長女です。  3人とも大学を出させてくれました。  いろいろなことをやってきて、一番合っているのはもしかしたら芸能界かもしれないと思いました。  

学校を中退することは事後報告でした。  生活は責任を持つから自立させてくださいと言いました。(24歳)   声楽でクラシックをやっていても流行歌の歌手としてはかなわないと思いました。  森光子さんのドラマに出る機会があり、「ちゃんと歌っているけれども歌は違うのよ、伝えるのは言葉よ、貴方の心よ。」とおっしゃいました。  「それは芝居の世界にも通じて、自分の心を自分の身体を通して、人に伝える事、表現する事が大事かという事を一から勉強しなさい。」と言われました。  「じゃがいも」と言うドラマでした。 

演劇の個人授業を始めました。  森さんからやっといいと言って貰えたのは30年、40年経ってからです。  1979年、『ルックルックこんにちは』の司会を担当。  司会者は目立たないようにしゃべらない方がいいという事を言われました。  オーディヨンではほとんどしゃべりませんでした。  担当していろいろ失敗をしました。  5年半番組の司会をやっていました。(生放送)    

その後女優の道を選ぶことになります。  自分が飛び込んでみて、感じることが私を作ってゆくんだろうなあと言う気がします。  しなくていい苦労もしたかもしれませんが、今考えると無駄な苦労はなかったと思います。   音楽への思いがどこかにあって50周年でCDを作ろうと思って、CDを発売することになって、話題にもなりました。  車にCDを積んで首都圏を回りました。  SNSにて自己PRをしました。   CDはあまり売れませんが、頭の活性化にもなるし、若者の人たちとのいろいろな交流がありました。  自分の生き甲斐を見つけた感じです。  






  

2025年5月29日木曜日

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

 大森さんは1948年岡山県生まれ。   1972年にNHKにディレクターとして入社、その後ドラマ一筋、連続テレビ小説はじめ大河ドラマ、土曜ドラマ、銀河小説ドラマなど数々のドラマを手掛けました。  NHK退職後大森さんは立て続けに故郷岡山を舞台に映画を製作しています。  最新作は岡山県高梁市が舞台の「晴れの国」コロナや低予算という足かせのなかで、作品を上映してくれる映画館を一館一館探しながら公開にこぎつけました。  故郷岡山にこだわりつつ映画つくりに向き合う大森青児監督の映画観について伺いました。

小学校4年でテレビがうちに来て、父が新国劇、母が新派が好きでよく一緒に観ていました。 それが後々こっちに繋がったのかなと思います。  時代劇映画全盛の時代で父と時代劇を良く一緒に観ていました。  当時は入れ替えなしなので、友達と二人だけで観に行って夜になってしまってひどく怒られた事がありました。  その後舞台も好きになりました。 同志社大学も学生運動が盛んで学校が封鎖したりしました。  大学4年で封鎖が解けて戻ったら、周りの学生は就職活動に懸命になっていました。  NHKの試験に受けられて入ることが出来ました。  その3年後に大阪の芸能部を希望しました。  そこから私もドラマ人生が始まりました。(25歳)  最初は希望通りに行きませんでしたが、5年後に初めての演出が回ってきました。  連続テレビ小説「わたしは海」の3本やる事になりました。(30歳)  

「今この番組は上手くいっていないかもしれないが、死ぬ気でこの番組を支える奴は手をあげてくれ。」と言われてとっさに手をあげました。  「3人死ぬ気でやれるやつがいたら、番組は保てる。」と言われました。  その後の私の人生に大きな言葉だった様な気がしました。朝ドラは7本やりました。  水曜日にちっちゃなヤマを作れ、土曜日に大きなヤマを作れと言われました。  なるべくそのように作って行きました。  朝ドラは芝居に安定感が必要ですね。  最初の頃の朝ドラは、或る女の人ががんばってなにかをなし遂げてゆくというパターンがずっとありました。  途中から、社会が複雑になって、今度は男を主役にしようという時代がありました。  その後独りでは時代を表せないという事で二世代に渡って今をどう生きるかと言うテーマになって行きました。  四姉妹の作品もありました。 手掛けた作品は300本ぐらいになりました

2006年に辞めることになりました。  テレビドラマはやり切った感がありました。   それで舞台と映画に向かいました。  舞台ではいろいろ勉強になりました。  笑う時にはお客さんの呼吸が一緒になって、それがうねるんです。  舞台の魅力を感じました。     セリフが一緒なのに毎回違うんです、これも面白い。   演出もあるんですが、舞台は役者のものだと思いました。  

映画は二本撮りましたが、これもおもしろいです。  映画の一番の魅了は画面が大きいのと音量です。  映画もテレビと同じ様に撮っても問題ないと言われました。  一本目も舞台は岡山県の高梁市です。  都会から戻ってきて家族のきずなを取り戻してゆくというものです。二作目も「晴れの国」は高梁市が舞台になっています。  コロナ禍であったので、高梁市は人脈もあるし、低予算で出来るものを考えました。   ダブル主役の一人がコロナにかかってしまって10日間様子を見なければいけなくなりました。  10日間でとる予定だったので撤退することになりました。  一日に百何十万円かかってしまうので、改めて翌年の5月に撮りました。  私が映画館を一個一個訪ねて行って交渉しました。 

映画を撮ることはまず楽しいからです。  やりがいもあります。  映画は残るんで、今の人だけではなく30年、50年後に観た人が感動してもらえるような映画を作りたいと思っています。  具体的には孫が観て感動する映画を目指しています。  スタッフと役者が混然一体となって、同じ方向を目指して集中する快感と、テレビと違って長く楽しめる。

家族のきずなと言うものは永遠のテーマだと思います。  他の人が幸せそうにしていると、なんか嬉しくなってくるんです。 ガンになって生死にかかわる経験をして、思うようになったと自覚しています。  3本目にとりかかろうとしています。 コロナの時にできなかったものです。   お薦めの一点はイタリア映画「ひまわり」です。  別れる時のマストロヤンニの表情、あれは芝居の原点プラス終着ではないかと思います。 表情を変えずにソフィア・ローレンをじっと見ているだけなんです。  何もしないのに心が思っているから伝わるんです。