赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために
現在87歳になる赤塚さんはハンセン病家族訴訟原告団 副団長として裁判に関わって来ました。赤塚さんの父親はハンセン病患者でした。 赤塚さんが小学校3年生のころ、父親が島にある国立療養所奄美和光園に強制収容されました。 ハンセン病患者への差別は家族にも向けられ、赤塚さんはいじめに苦しみました。 しかしその怒りをいじめた側ではなく、病に苦しむ父親に向けてしまい、父親が亡くなるまで顧みることはありませんでした。 親を差別してきた自分の人生を反省し、20年ほど前から差別によるハンセン病被害の救済に取り組んでいます。 父親との思い出から自分の人生をどう振り返って行ったのか、伺いました。
昭和13年に生まれて3歳のころ父親の出身地鹿児島県奄美大島に移り住みました。 父親は黒糖を作るためのサトウキビを作りに南の方に行きました。 ポナペ(ミクロネシアの主要な島)でサトウキビを作ったり指導したり、黒糖を作ったりしました。 父は熱帯病にかかったと言う事で帰ってきました。 ハンセン病の患者という事で、島にある国の療養所奄美和光園に強制収容されました。
昭和22年2月に警察官と職員、突然3人が来て連れて行きました。 父は42,3歳でした。 小学校4年生の時に「乞食」と言われました。 ハンセン病の子供も乞食になるという考えを村の人は持っていたかもしれない。 そこで判りました。 父の顔が赤っぽくて薬をつけても治りませんでした。 同級生が8人いましたが遊んではくれなかったです。 同級生の親に往復で顔を殴られて(海軍びんた)、悔しい思いをしました。 母親は咎めにも行かなかった。 指さすと指が腐ろなどとも言われていました。
私が親替わりをして下の子の面倒を見たりしました。 父が家に来る時には夜来て朝方帰っていきました。 高校時代に親の話になったりすると逃げだしたくなりました。 高校を卒業後工場勤務を転々として、奄美大島に戻って来て県の職員として働き始めました。(25歳) 結婚式の時には父を呼んでいませんでした。 子供が出来て5,6歳ぐらいの時に、父は70代ぐらいで家にたまに抜け出して帰って来ますが、妻は子供のことを心配しました。はやく戻るように言ったんです。(贖罪 罪滅ぼし) 父はその時「まだお前はハンセン病のことを理解していないのか、自分は首でも切って死ぬよ。」と言いました。 初めて私に対して怒りました。 ハンセン病が治ったという事を理解していなかったという事です。 それからは家に来なくなりました。 亡くなるまで親を遠ざけたいという思いはありました。
父は83歳の時家で亡くなりました。 父をさするという事は出来なかったです。 知識が足りなかったという事が反省です。 大変な病気で一生かかっても治らない病気であると言われていた時代がありました。 私は手足が欠けたり鼻がくずれたりした人を見て来てるんです。 でも知らないという事は罪なんです、罪を作っているわけです。 いろいろ勉強してハンセン病の内容も判って来ました。
腑に落ちないから反省してこの問題に取り組んでいるんです。 隔離という事は自由を奪う事です。 人権の侵害になるわけです。 ですから国と争っているわけです。 2001年にはハンセン病の元患者に対する国の賠償責任が裁判で認められ、2019年にはハンセン病元患者の元家族に対しても認められました。 勝ち取りましたが、申請は全体の3割です。 貰う事によって逆に差別される恐れがある。 離婚の原因にもなる、そういう人たちが多いという事です。 ハンセン病に対する理解が行き詰まっている感じです。 出来るだけ人に話したくないという病気なんですね。 まだ隠し続けたいという思いです。
講演を行っていますが、まずは物事を正しく知る事です。 正しく知らなければ間違った判断がいろいろ出てくると思います。