藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰) ・着物の魅力を伝えたい ②
藤井礼子さんは1958年長崎県生まれ。 短大卒業後石油会社に勤務、社内結婚した夫の赴任に同行して20年余り海外生活を送りました。 4か国目のインドネシアで特産品であるジャワ更紗(バティック)に魅せられ、産地を訪れるようになりましたが、インドネシアでも経済発展の陰で伝統産業を担う人が減っている事態を目の当たりにします。 どうしたら職人たちの暮らしを支えられるのかを考える中で、日本向けにデザインしたジャワ更紗の帯の販売を始めることにしました。 現在は年間70本を目標に製作しています。
実際の工房はインドネシアにあります。 福井県の仕事場ではデザインを考えたり、インターネットでインドネシアのスタッフとデザイン、色の説明したりしています。 ジャワ更紗は1800年代から作られていたという伝統の布です。 ろうけつ染めです。 私がやっているのは手書きです。 ろうが付いているところには染料が付かないので、染めたくないところにろうを付けます。 腕のいい職人さんでないと出来ない、髪の毛ぐらいの細さのチャンティン(蝋噴出ペン使用の手書きと、cap(チャプ)と呼ばれる銅製のスタンプ押し)でろう付けする事は出来ます。 細いチャンティンを使うのでろう付けには時間が掛かって、帯を作るのに早くて6か月ぐらい、長いものでは1年以上かかるものもあります。日本の日の光とか風土に合うものを、日本の人が素敵だと思てもらえるような色と柄を使ったものを作ってみたいと思いました。
母は洋裁和裁が得意な人でした。 小さいころから結婚するまで母が作ったものをずっと身に付けていました。 成人式の振袖も母が縫ってくれました。布好きでした。 結婚して海外で暮らす様になりました。 現地の言葉で話すという事が仲良くなるためには大切な事と思います。 最初はアラブ首長国連邦のアブダビに来ました。(イスラム圏) インドネシアは4番目の駐在国でした。 行った時にはインドネシア語は全然話せなくて、家にいる時にはテレビでインドネシア語を流して聞いて、近所で話せる機会のある人たちと出来るだけ話すように心がけました。
インドネシアは布の宝庫と言われる国です。(行ってから知った。) ある店に行った時に美しい布で作った服を着ていて、バティックはいいなあと魅せられました。 「花更紗の神様」という工房で作られたもので、オーダーしてから3年後にようやく手にいることが出来るという事でした。 治安も悪くジャカルタから11時間ぐらいかかるところなので、行くことに最初な反対されましたが、なんとか説得しているうちに行けることになりました。 最初はその距離の半分ぐらいのところの工房にいくことにしました。 段々いろんな村に行きました。 腕のいい職人さんが段々辞めていきました。 腕のいい職人さんのものは高くてなかなか売れないために、腕のいい職人さんほど仕事がないということが起こっていました。 危機感を感じました。
自分の洋服用に依頼はしていました。 一時期日本に戻った時に着ていたら、洋裁店の方の目に留まって、うちに置いてみないかと言われました。 それがきっかけになって仕事を始めました。 私は最初からシルクで作っていました。 或るお客様からシルクだから帯にも出来ますねと言われて、帯を作ってみようと思いました。 ただ帯にするのには強度とか問題があるのではないかと思いました。 作ることになりましたが、布、ろうけつ染めの職人さんは頑固なところがあり、新しいことに対して、抵抗がありました。 何とか説得して、作ってもらえるよぅになりました。 下絵師さんにもいろいろ説明して納得してもらえるようにしていきました。 (実際に帯を締めて柄の位置とか形とか説明)
口コミで段々広がっていきました。 工房の職人は34人います。 二つの村に分けて分担しています。 下絵の職人が男性でそれ以外は女性です。 下絵師の人は気難しい人ですが、彼の技術が素晴らしくて、違うものも作れるという思いがあります。 ここ5,6年行っていませんが、インターネットの普及で情報のやり取りができるようになって、行かなくても対応できるようになりました。 私が思っていたよりもいい感じで染まっていることが多いです。 私は日本向けに合う色で染めたいと思っています。 2009年、世界遺産にバティックが選ばれました。 インドネシアではバティックを見直す機運が高まっていると思います。 帯を作るようになって着物も着るようになって、着付けも習ってお茶もやる様になりました。