千住真理子(バイオリニスト) ・〔50年、その先をみつめて
千住さんは1962年東京都の生まれ。 2歳半からヴァイオリンを始め、12歳の時にNHK交響楽団と共演してプロデビューしました。 以来、国内外の多くの指揮者、オーケストラと共演、映画やドラマのテーマ曲の演奏やテレビやラジオ番組の司会など精力的な活動を続けています。 そんな千住さんには20歳になってからの数年間ステージに立つ自信を失い、演奏することが出来なくなった挫折の日々があります。 この辛い時期があったからこそ今の自分があるという、千住さんのヴァイオリン人生とこれから先への思いを伺いました。
自分の人生を何回も何回もやっているような、そんな気がします。 1975年1月、12歳の時NHK若い芽のコンサートでNHK交響楽団と共演しましたが、凄くよく覚えています。 中央に行くまでの急いで歩く練習をしました。 それが今でも大股でさっさと行くことが癖になってしまっています。 ライトが強くて目を閉じて演奏して、これも今に繋がっています。 後音を大きく演奏するようにいわれて、この3点を覚えています。 15歳で日本音楽コンクールを最年少で優勝。 1979年、17歳の時、第26回パガニーニ国際コンクールに最年少で入賞。 、12歳頃から「天才少女」と呼ばれてきた。 10代は私にとって一番忙しくて、一番つらくて、ヴァイオリンと勉学の両立は出来ていなかったと思います。
練習をすれば弾けるという達成感、面白さはありました。 プロとして演奏しなければならないことの責任の重圧は凄くありました。 「天才であり続ける」こととのギャップに心身が悲鳴を上げた。 学校がない時には1日14時間ぐらい練習をしていました。 食事をする間もないぐらいで、ストップウオッチで自分の行動時間を計算していました。 山本直純先生からは笑顔と「おおきくね、」という身体の表現を今でも覚えています。
10代で追い詰められて、精神的にも肉体的にも一杯いっぱいになってしまっていて、毎晩身体に湿布剤を貼って、母にマッサージをしてもらって、それが何年も続くとこんな人生が一生続くものなんだろうかと思って、20歳の時には人生を止めるか、ヴァイオリンを止めるかという様なところまで考えるようになってしまいました。 母に相談して一緒に泣いてくれて、ヴァイオリンを止めることに家中できめました。 一生ヴァイオリンは弾かないという決心で母にヴァイオリンを預けました。 たまたまホスピスの方から電話があって、「最後に千住真理子に会いたい」という末期患者を見舞いのため、ホスピスにヴァイオリンを持って行ったんですが、途中からヴァイオリンを弾けない自分に驚きました。 でもその方が「ありがとう、ありがとう」と言って握手してくれました。 不思議な感動と罪の意識(この人の一番大切な時間を穢してしまったという)、いろんな感情が入り混じって逃げるように家に帰って来ました。 何の意味もなくヴァイオリンの練習をはじめました。(再デビューではなくて、いたたまれなかった。)
24歳の時に1986年NHKの『ワールドネットワーク 世界はいま』のキャスターを担当しました。 再デビューをしようかなという時期でもありました。 番組ではクラシックとは別のものの考え方、見方、感じ方、全部違う事に驚きました。 人間っていろいろな人がいるんだなあと、知りました。 しゃべることの勉強をするうちに、自分の考えが段々まとまって来ました。 自分の言葉で自分の意見を述べるという事を段々覚えていきました。 再びヴァイオリンを持ってから7,8年目に再デビューすることが出来ました。 それまで練習では指が動くんですが、ステージに立つと指が動かないという時が続いていました。 足ががくがく自分でも不思議に思うぐらい震えていました。
少しずつ直って行くと思っていました。 チャイコフスキーの曲を都内で演奏していて、1分ぐらい経過した時に、すべての感覚がいきなりワーッと戻ってきて、身体がぞくぞくして弾きました。 その時が私の再デビューだと思います。(29歳) 再デビュー後は音楽がやりたい、人と音で繋がりたい、聞いてくれる方の心に入っていきたい、音で人を慰めることがしたい、という風に私の望むことが全く変わりました。 10代はテクニックばっかり追い求めていました。
2002年(40歳)スイスの或るディーラーの方から電話がかかってきて、1716年製のストラディヴァリウスが手元にあるという事で、その「デュランティ」(ストラディヴァリが製作してすぐにローマ教皇クレメンス14世に献上されたと伝わる。)を日本に持ってきて、ついに購入することになりました。(千住家が2億円から3億円(正確な金額は非公表)で購入 300年近くほとんど演奏されることはなかった。) なかなか言う事を聞かない「デュランティ」でした。 なかなか言う事を聞かないというのがストラディヴァリウスの特徴です。 ヴァイオリニストの言うままにはならない。 私も頑張って弾けるようにしようと思いましたが、身体を壊してしまい、点滴を受けながら演奏会をやるようになりました。 毎朝生卵を3つ飲みました。 そうしたら負けなくなって筋肉が付くようになりました。 そうすると弾けるようになりました。 筋肉をつけるために水泳もやるようになって一日3km泳ぐようになりました。
2013年二人三脚でやってきた母が亡くなりました。 私たちは3人兄弟ですが、「芸術家は悲しんでいる人のためにあるのよ。 だから真理子は悲しんでいる人のために弾きなさい、辛い思いをしている人のために弾きなさい、そのためには貴方はまだつらさが足りない、悲しみが足りない、だからもっと辛い思いをしなければいけない、悲しい思いをしなければいけない。」と言いました。 自分自身で痛み止めを飲まないと決めて、最後までその姿を見せる。 3人の兄弟で痛み止めを打って欲しいと言ったんですが、母は最期まで打たずにただただ最後まで苦しんで亡くなりました。
5月には3兄弟コンサートがあります。 日本画家、作曲家、ヴァイオリニストのコラボです。(25年前にやったきり) 意見のぶつかり合いの中で進めています。 クラシック音楽が難しいものではないという事を判っていただくような、トークを交えながらの演奏会をやっていて、クラシック音楽って聞きやすいねと思っていただけるような音楽をやりたいと思います。 ヴァイオリニストとして生きてきたのでヴァイオリニストとして死んでいきたいと思います。 人の声のようなヴァイオリンの音楽が奏でることができるのが、私の夢、理想でそうなるために、そこを目指して頑張っています。