2026年9月11日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」

阿刀田高(作家)          ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」 

ご両親を早くなされて、20代は1人で生きざるを得なかった時期があり、その中で文学への道切り開かれていった話から始まります。 そして30歳で結婚、妻の慶子さんと人生を共に歩まれてきますが、2020年、慶子さんはレビー小体型の認知症を発症します。 阿刀田さんは介護を続けながら寄り添い、去年2025年慶子さんを見送られました。

もともと独りだと思っていました。 妻もいたし子供もいたし、もともと独りではないんでしょうけれども、どっか人間は皆独りですよ。 独りであることを享受しなければ人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 一時的に私は独りでした。 早く両親に死なれてしまったものですから。 15歳になるまでは豊かな家庭で大事に育てられまいた。 私は子供の頃はのんきに自由に身勝手に繋がれたものです。 20歳を過ぎて10年間ぐらいはそれなりの苦労はしました。      父が亡くなったのは高校2年の時でした。 大学は奨学金等アルバイトで生活しました。 大学のときには肺結核を患って1年半療養生活をしました。

新聞記者になろうと思ってましたが、国会図書館に勤務しました。『ブラックユーモア入門』と言う本を出版したら、それがベストセラーになってしまいました。   決心して退職してミステリーなら書けると思っていました。  ロアルド・ダールの作品を見て、こんな世界がある、これだったら書けるかもしれないと言うのがデビューにつながっていきました。 「冷蔵庫より愛をこめて」の中に収められている短編「幸福」が1つの転機になりました。 ユニークな作品です。 編集長のところに原稿を持っていったら、こういったものを待っていたということで、まだ雑誌に乗らないうちに原稿料を支払ってもらいました。  いきなり直木賞候補になりました。 2冊目『ナポレオン狂』で直木賞をいただきデビューしました。

1年半の闘病生活があったので、ほんのちょっといいことがあればいいなぁと言う悟りみたいなものはありました。 今もそうです。 ほんの少し良いことがあればいいなぁ位の気持ちで過ごしています。 妻が2024年に亡くなりました。  その3年位前から妻の介護をしていました。  70 80パーセントケアしないと生活ができない状況になっていきました。  危機的な状況になっていると言われて、このまま行くと、あと3ヶ月であなたはダメになると言われました。 子供たちとも相談して施設に入れることになりました。 10日位前に手を握り合って、「おじいちゃん大好き。」と言いました。 それがちゃんとした言葉を吐いた最後でした。 「ありがとう」と言う意味合いがあったと思って勝手に解釈しました。

エッセイの中で「死は無である。」と言うことを書いています。 神様とか宗教と言うものは人類が考え出した偉大なるフィクションだと思います。  このフィクションは人類にいっぱい良いことをもたらしていると私は思います。 偉大なるフィクションに対して否定するわけでは無いですが、私自身は死は無に帰ってくることだと思ってます。 死んだ妻に対しても、あの世で何を考えているかなんて言う事は全く考える必要ないんです。 いいことだけ思い出してよかったよかったと思います。 子供の頃そういった考えを持ってましたが、もし死後の世界があるとするならば、それは他の動物にもあるはずだと思います。  動物にない世界が人間でもある筈がないと思います。 どうせ無なんですから、死の世界を考えなくてもいいんです。 かなり本気でそう思ってます。

人生の道標として思ってきたのは、自分の与えられた条件の中で、ほんの少しでも良いものを求めて行こうと思い、ほんの少し努力することとです。 自分の幸福は自分で作るより他にないと思ってます。  ほんの少しでもいいですから、それを重ねていくと、少しは良い人生があるんではないかと思います。 「掌より愛をこめて」は多様な作品がぎゅぎゅっと詰まってます。 友人、知人、同じ世代の人がどんどんなくなっていくので、そういう年齢になったんだと言う事はつくづく感じますが、どうせまた無に帰ってゆくわけですから。


2026年9月9日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

 馬場あき子(歌人)   ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ。  日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)卒業後、中学や高校の教師を務めながら短歌歌誌「かりん」を創設、以来多数の歌集を発表しています。 歌壇を代表する馬場あき子さんの原点は太平洋戦争の戦争体験です。 戦争当時馬場さんは女学校に通っていて、学徒動員で東京武蔵野市にあった中島飛行機の軍需工場で働き、空襲では東京高田馬場の自宅を失いました。 終戦を迎えた1945815日、馬場さんは17歳、女学生の時から短歌を作っていたと言う馬場さんは、戦争中何を体験し、どう感じどう考えたのか伺いました。

焼け跡を耕して畑にしていました。 サツマイモの蔓先を摘んでおひたしにして食べるんです。 集まってラジオを聴きました。 玉音放送です。 父がどうやら戦争が終わったらしいですよと言いました。  私はどうなるんだろうと思ってました。  焼け残った家の2階からギターを弾いた男がいました。 私は戦争が終わったんだと思いました。 どっかから「馬鹿野郎」と言う声がして、「日本は負けたんだぞ。  なんで音楽などやるんだ。」と言う声が聞こえて、その人は音楽を止めました。  周りを見ると、明かりがつけるようになりました。 家でも60ワットの電灯をつけて黒い遮蔽幕を取ったらすごく明るく感じました。 何の感想、何の考えも浮かばなかったです。 呆然としていました。

太平洋戦争が始まったときには、世界地図を見て、こんな小さい日本がとてもアメリカに勝てると思いませんでした。 11畳半位の女子寮の部屋に入れられて、そこから工場に通いました。  6尺旋盤で飛行機のエンジンの台座を作ってました。 何も考えず、ただただ一生懸命作っていました。  14回ぐらい空襲警報がありました。 夜も3回位ありました。 

私は1番悲しかったのは、山梨のほうに疎開していた女子高の生徒が入ってた棟に爆弾が落ちて、女子生徒がいっぱい死んで、大八車にいっぱい積んで、埋めに行くと言う話を聞きました。 男子の中学生の級長が伝令に行くために防空壕を出た途端に爆弾が落ちて、顔の皮がベロンと剥けて、一瞬自分では剥けたことがわからなくて、「行ってくる。」と言って、後ろを向いたら顔の皮がぶら下がっていたと言う。そういう話も聞きました。 その男を診療所に連れて行ったら、そこは修羅の巷だったと話を聞きました。 

右胸に白い木綿の布に墨汁で、名前と住所と血液型を書いてみんな貼ってました。  怪我をしたら、血液型わかるようにとか、死んだときにはどこの班かって言うことがわかるように書いてたんだろう思い出しました。 我々に教えてくれた工員さん(大学の学生が来ていた。)はだんだんいなくなっていきます。 戦地への招集令状が来ます。 員さんと恋をしてはいけません。  戦死するかもしれない方なので、生きて帰るかわからないので未亡人になりますよと言われました。 恋はご法度だった。

学校の宿題で短歌を作るとか、日記を出すか、作文を出すかということで、私は短歌を選びました。 ノートなどはなくて、白い紙の裏に書いてました。  戦争が終わって大学ノートが買えるようになってからそれを写して持っています。 人に披露できるようなものではないでした。 自分の存在を言葉に残したいと言う思いはありました。  夜中の12時に旋盤を回している時など、一体人生って何だと思い出します。  絶望的になって永久にこのまま機械みたいに虚無的になります。 

軍歌ばっかり歌って、女の歌のない時代でした。  露営の歌 酷い歌だと思います。 勝ってくるぞと勇ましく  誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波)

死骸を見ても感情は動かない。  戦争って生きているとか、死んじゃうとか、死んでるとか、そういう感覚が麻痺してしまいます。 ウクライナの瓦礫の映像を見た時には同じだと思いました。 戦争と言うのは人間の神経を麻痺させてしまう。死んでいる人の死骸と言うのは終わったものとしか見ていなかったです。 戦争の意味なんてなにも考えませんでした。 早く終わったらいいという思いでした。