2023年11月18日土曜日

さつき(ジャズボーカリスト)      ・何度倒れても歌いたい

さつき(ジャズボーカリスト)      ・何度倒れても歌いたい 

さつきさんは和歌山市出身のジャズボーカリスト。(57歳) 40代で患った脳出血で半身不随と失語症になり、歌うどころか話すことも難しくなりました。 その後懸命なリハビリを重ねた結果、音楽活動を再開、自らコンサートを企画するなど精力的に歌声を届けてきましたが、今度は急性骨髄性白血病に倒れ、再び声を失います。  度重なる試練を乗り越えて歌い続けるさつきさんに伺いました。

今、体調はすこぶるいいです。 先日ライブが終わってばかりですが、凄くいいライブになったと思います。 

ジャストワンオブ・ゾーズ・シングズ」(原題:Just One of Those Things)  歌:さつき

椅子に座って歌います。 ここの時にはこう言おうと書いているんですが、書いているのにもかかわらず、詰まっちゃうという感じなんです。 父がジャズ好きで、私が小学校のころビリ-・ホリデーの曲をよく聞いていました。 父の影響でジャズを聴き始めました。   20歳の時に大阪にあるホテルで歌って、初めてギャラを貰いました。 (映画音楽、ポピュラーソングを歌う。)  25歳で東京に住み始めます。 結婚して和歌山に里帰りして女の子を授かりました。  42歳になった時にタクシーに乗る時に頭が痛かったんです。 病院にいって倒れて、それが3日続きました。(3日後に意識が回復した。) 脳出血だった。  右手、右足が動きませんでした。 しゃべることもできませんでした。     娘の事だけは思い出しました。  入院中、歌手だったと言う事も忘れていました。       

退院して家に帰って、楽譜が一杯あり、私は歌手だったんだと思いました。 子どもは1歳半でした。 口、左手(利き手ではないほうの手)、左足でおむつを替えました。    歌うきっかけは主治医に薦められて、悩みましたが病院の納涼祭で「テネシーワルツ」を歌いました。  言語の先生にも凄くお世話になりました。  一緒にリハビリをしていた人たちからの応援もありました。  凄くへたくそでしたが、もの凄い拍手を貰いました。 お客さんは50人でしたが、500人、1000人の大観衆を前にしたような感覚でした。 歌に対して自信が持てました。  

当時歌を薦めてくれた伊藤先生(現在、愛知学院大学の健康科学部の教授)からメッセージがあります。 

「・・・ジャズシンガーだったという事を聞いて、音楽を通じて楽しみを見つけて欲しかったからです。 一回目は断られましたが、しつこく誘ってみたら歌ってみますと返事を貰いました。 ・・・本番で歌い出してからは大成功で終わりました。 ・・・さつきさんが生まれ変わって、失語症だけれどもほか患者さんにも一生懸命話しかけるようになりました。音楽の力ってすごいなあと感じました。 ・・・もっと歌って様々な人を勇気付けてください。」

最初コンサートをした時には、周りの人と一緒に企画して、800人ぐらいお客さんが来ました。 翌年2回目には1000人来ました。 3回目は雨だったので700人ぐらいでした。 4回目は急性骨髄性白血病になってしまい中止になりました。  定期健診でおかしいということになり、骨髄の検査をしてわかりました。(2016年5月) これで死ぬのだと思いました。  抗がん剤治療が始まりました。 吐き気、40℃以上の高熱がありました。  治療を乗り越えて退院することが出来ました。  またステージに戻りました。 

2019年又白血病と告げられました。 当時中学1年生だった娘のために生きなければと思いました。  この時に骨髄移植を受けました。 手術は成功して家に帰ってきましたが、寝たきりの様になってしまいました。 抗がん剤治療よりも苦しかったです。   「復帰への思いはあったものの、しゃべるのもしんどい期間が1年ほど続きました。   コロナ禍も重なり、なかなか活動再開とはなりませんでした。  ファンから『そろそろライブは?』と聞かれることが増え、このままだと忘れられてしまうのではないかと思って、ライブをすることを決断しました。 娘も高校生になりギターをやっています。                今は娘が私に憧れているみたいで、どこにでもついてきます。  

「生きて頑張るぞ。」と、毎朝鏡に向かって言っています。  私みたいに身体の不自由な方、健常者を含めて、何かに挑戦したらいいなと思います。  こんな身体で私が歌っているという事をしっかりと胸に刻んで帰ってもらいたいです。