2023年11月9日木曜日

三浦佐久子(作家)           ・「銅山の町に魅せられて」

三浦佐久子(作家)           ・「銅山の町に魅せられて」 

鉱毒被害で知られる足尾銅山は今年で閉山50年を迎えました。 足尾銅山と同じ栃木県にお住いの作家の三浦佐久子さんは、負の遺産と言われた銅山の町の暮らしや文化を掘り起こし、書籍にまとめてきました。  明治から大正にかけて日本文化を牽引した銅山の光と影を見つめてきた三浦さんにお話しを伺います。

足尾銅山は今年で閉山50年を迎えました。 小説を書きたかったんですが、情報科学研究センターという付属研究所があり、そこでコンピューターの研究をやっていて、作家活動も始めてはいました。  足尾に気が向いてからはドキュメントに興味が向いて、社会性のあるものに興味をもって、足尾にのめり込みました。 友人のご主人が足尾高校の校長先生をしていました。 足尾が閉山になって2年後でしたが、行ってみたいと思ったのが始まりでした。  足尾は公害の原点と言われていて、社会主義社会が崩壊する寸前の町を御覧なさいと、先生が言われて、国分の方に連れて行かれました。 地獄絵さながらの物凄く荒廃していた様子を見ました。 それが私の心に焼き付きました。 その後足尾に一人で行くようになりました。

足尾銅山と言えば田中正造、田中正造が果たした役割を知れば知るほど、公害の原点という事で足尾に汚名が着せられたわけです。  足尾銅山がどんな事をしてきて、どういう人がかかわってきたのか、興味が湧いて調べたくなりました。 知識を取り入れるために公民館に行きました。(図書館はなかった。) 資料は全くありませんでした。 町の古老を訪ねて歩きました。  坑夫の人生が渦巻いていました。 過酷な労働でした。  坑夫さんたち粉塵を吸って、珪肺という職業病に短いと3,4年でなっていました。 どす黒い血をはいて亡くなるという職業病です。  

縄文時代から足尾には人が住んでいたと言われます。  足尾銅山が出来て町は一変します。 日本中のあちこちから人が集まって来ました。  明治40年の後半から大正5年がピークで大正10年ぐらいまでは物凄くにぎやかな町でした。 鉱都と呼ばれて3万8000人ほどいたようです。(栃木県で宇都宮に次ぐ2番目)  娯楽も東京から呼び寄せました。(歌舞伎、相撲、大衆芸能など)  今の足尾は人口が2000人を切るぐらいです。

私は閉山になった後訪れました。  坑夫が居なくなりましたが、精練は続けていましたが、徐々に減っていきました。 足尾から自立した生き方がなかなかうまくいかなくて、今の状態になってしまいました。  1991年に「足尾を語る会」の活動を始める。 古老から聞いたことをノートにまとめ『壷中の天地を求めて』という本にしました。 その本を読んだ方々から電話があり、集まることになりました。 「足尾を語る会」ができました。 

語るだけだと消えて行ってしまうので、1年に1冊、自由に研究したものを発表するという形で創刊号が出来ました。  30年近くかかって20冊の本を出しました。 光の部分は足尾が日本に貢献したことで、外国から輸入した技術を足尾流に改善して、他の鉱山が参考にするという事で、足尾の技術は日本の最高峰をいっていました。 文化芸能の花を開かせた。  影の部分は発展してゆくほど公害がひどくなる。 田中正造もすばらしい人間ではありますが、古河市兵衛という、足尾銅山を公害を出しながらも、日本の国のために頑張ったわけです。  古河市兵衛については生い立ちから克明に調べました。 この二人があって初めて足尾銅山が日本に貢献したという風に理解しています。 古河市兵衛は自分をいけにえにして成功した銅山かなと思います。  周りからおしかりを受けますが、それは仕方のないことだと思っています。

歴史は勝者の歴史なので、負け組が歴史の裏側です。  裏側については余り誰も書きません。 裏側を観ないと本当の歴史は成り立たないのではないかと思います。 光と影があって一つになるという事です。 人間と言うものは自分が経験しないと、いくら知識があって学んでも、それを活用することは難しいんだなという事を思います。 94歳になりますが、生きるという事は、深い深い奈落の底に向かってゆくような、喜びに向かってゆくというよりも、私の場合は苦しみながら前に進むみたいなところがあります。 苦しみの中の微かな喜びを発見すると、何十倍にもなる喜びなのでそれが楽しくて、好奇心が旺盛なのかもしれません。 明治の建物で足尾銅山工業所(辰野金吾設計の明治の建物)を古い僅かな設計図を頼りに、今建築中で、2025年に建設予定です。 足尾銅山が操業して150年という事だそうです。 その建物を観るのが楽しみです。  ばらばらに書いたものがあるのでそれらを纏めたいという気持ちがあり、死ぬまでにもう一冊書き上げたいと思っています。