2024年3月14日木曜日

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ 

原岡見伍さんは1951年兵庫県西宮市の生まれ。  NHKのアナウンサだった父親の転勤で過ごした大阪で、1957年から60年までの3年半NHK大阪放送児童劇団に所属し、テレビやラジオの子役として活躍しました。 その後東京の高校、大学時代は野球に熱中し、大学卒後は就職した証券会社や民放テレビ局などでも演劇とは無縁の生活をしました。 2002年から2011年チーズ輸入自社加工メーカーの常務や子会社の社長を務めましたが、東日本大震災により全事業を手放し退任、破産に追い込まれました。 体調を崩し、長期療養を1年半が終了した時点で、俳優の仕事が心から好きだったと改めて判り、芸能会社のオーディションを受けて合格、養成学校で学びました。 2015年4月から子役時代より半世紀余りの空白を経て、後年俳優の道を歩んでいます。

今年公開される映画に端役で出ているのと、ユーチューブに一本出ています。 NHKBSに初めて出させていただきました。 「プラトニック」と言う題名のフレンチレストランのマネージャーとして出ました。 「チコちゃんに叱られる」にも出ました。 昨年健康サプリのCMにも出ました。 

父が原岡一郎で元NHKのアナウンサーでした。 1934年に入局しました。 父が大阪に転勤になった時にNHK大阪放送児童劇団に入りました。 1957年に子役デビューしました。 「子犬と線路と少年」の主役の少年として出ました。 「赤いほっぺのほっぺちゃん」というラジオ番組にも出ました。  稽古でリアルさを習ったりしました。 父が広島に転勤になり3年半ぐらいで辞めることになりました。 広島では放送劇団はなかったので何もしませんでした。  その後東京に来て少年野球チームに入りました。 都立戸山高校、一橋大学に行きました。   高校ではピッチャーを主にやりましたが、上級生と意見が合わず2年で辞めてしまいました。 大学でも野球部に入りました。  東都大学の3部でしたが、レベルは高かったです。  3年生でレギュラーになりました。 

高校2年の時に哲学、思想に興味がでてきました。 大学ではフランス語が第二外交語で、シャンソンが好きになり、演歌とは違った乾いた悲しさがあると感じました。 大学卒業後は野村証券に入りました。 11年務めてその後フジテレビでも12年務めました。   その後ソニーのコンピューターエンターテイメント、そのほかの関連会社に行きました。  父が病に倒れてしゃべれなくなってしまって、父の世界を継ごうかなと言うような思いが出てきて、新聞にフジテレビの採用の広告が出ていました。  それを見て行ったら受かってしまいました。 

ソニーミュージックとコンピューターエンターテイメントのトップを兼ねていた人から声がかかって移ることにしました。  その方が辞める時には私も辞めるというような契約でしたが、思ったより早く辞められて、私も独立してプロデューサーの会社を立ち上げました。イタリアの食品関係の会社から役員としてフルタイムで来てほしいという事で、会社をたたんで行きました。 順調に行っていましたが、2011年の東日本大震災で原料を保管してもらっている倉庫が全部だめになってしまいました。  資金繰りと工場再開に向けて半年間奔走していましたが、或る時にドクターストップがかかってしまいました。 1年半療養をして、その時に全部を捨てました。 辞めて2か月後に会社を倒産という事になりました。 

体調も良くなって、今後どうするか考えた時に、演劇とか思想とか表現の方の世界が好きなんだろうと改めて思いました。(62歳)  役者がやれるかなあと思いました。 今入っている所属事務所のPRがガラ系で見かけました。 縁だろうと思って申し込んで、授業料を払って2年間研修をしました。 2015年にプロダクションとしての契約をして、芸名も「原岡見伍」にしました。  最初はエキストラから始まりました。 かつてやっていた仕事が役でもいろいろ生きています。 73歳になりましたが、自分では年を取ったとは思わないんです。 50代中、後半ぐらいからの役を含めてやれたらいいなあと思いますし、夢ですが端役でもいいからカンヌのレッドカーペットに行きたいです。 昔のフランス人の恋人に見て欲しいと思います。  シャンソンでも何かできたらいいなあと思います。

人生49:51で51を選ぶときには、以前は僕は大変そうな方を選んできましたが、大変でも苦労しても大丈夫なほど好きなもののほうを選んでいった方がいいと思っています。 そうするともっと努力も出来るし、我慢、耐えることも出来るだろうと思います。