2024年3月6日水曜日

山内 宏泰(気仙沼市「リアス・アーク美術館」館長)・モノに宿る暮らしの記憶を伝える〜東日本大震災から13年

山内 宏泰(気仙沼市「リアス・アーク美術館」館長)・モノに宿る暮らしの記憶を伝える〜東日本大震災から13年

13年前東日本大震災で津波発生の翌日から職場の美術館に泊り、突き動かされたかのように被災した品々を集め、被災した街の風景をカメラで撮り続けた人がいます。 宮城県気仙沼市にある公立美術館「リアス・アーク美術館」の館長で、当時は一学芸員だった山内 宏泰さんです。 震災を経験した自分たちの視点で被災状況を記録し、後世に伝えたいという思いからだったと言います。 震災の2年後から東日本大震災の記録と津波の災害地と名付けた常設展示を始めました。 中でも話題を呼んだのが、徹底的な聞き取りをもとに被災したものにまつわる創作ストーリーを書き添えた点です。 山内さんはどんな思いで被災した街を見つめ暮らしの痕跡であるものにストーリーを綴ったんのでしょうか。 又能登半島地震が発生し、大きなh害を受けた方々がいらっしゃるなかで、今どんなことを思うのか伺いました。

「アーク」は箱舟と言う意味で、建物全体が箱船のような形をしています。 造船技術が対応しているもので鉄板が構造物のあちこちに入っています。 さまざまな生き物、文化と言ったものを次の世代につなげるための船なわけです。 美術館という事で地域性の高い作家さんも扱っていますが、常設展としては歴史民族系の常設を持っています。 震災の記録の常設展示も作っています。 総合博物的な運営をしている館という事です。 

鰹にまつわる文化のコーナー、九州、四国、関東あたりまでの鰹はルビー色の脂身の少ない登りガツオですが、三陸沖まで来ると、特に秋には猛烈に脂ののった鮮度のいい鰹が水揚げされる街が気仙沼と言う事です。  鰹の水揚げ量はずっと日本一です。 カツオ漁で使われる棹が展示されていますが、4m前後です。 グラスファイバーで出来ていて重たいです。 それに鰹は大きいと70cmぐらいになるので、相当な重さになります。 

東日本大震災の記録と津波の災害史と名付けたもう一つの常設展示、壁一面に写真パネルが掲げられている。 2011年3月24日に気仙沼市内で撮影された沢山の流出物が押し寄せている写真が掲げられている。 写真が203点、被災物が155点、災害史系の資料が135点ぐらい、全体で500点ぐらいの資料があります。 一番早いのは当日美術館の屋上から撮っています。(15時30分)  高さ100mぐらいの白いものがもうもうと見えるわけです。 津波で破壊された家屋の巻き上げられてゆくホコリだと思います。   夕がたになると闇の中に赤あかと燃え盛っています。 12日間燃え続けます。         15日の日に学芸員で、今後どうするか、話し合いをしました。  美術館の再開は無いかもしれない。 街は壊滅している。 しっかりと記録に残して、それだけはやろうという事で16日から現場に出ました。 

3階建ての建物の前に、それを覆うぐらいのい高さまで様々な被災物が山積みになっている状態でその前に長靴履いて立っているのが私です。 私の自宅があった場所の斜め向かいです。 これを眼にして呆れている状態です。 津波は陸に上がってくると流れてくるものは固形物です。 フロアーの中央には津波で押し流された様々な流出物が展示されています。 

2011年の出来事が起こる前から津波に関しての調査、研究を私はしていました。   1896年(明治29年)三陸地震、津波があるんですが、死者数が約2万2000人、被害エリアが2011年と非常に近い。 その37年後の昭和8年(1933年)にも昭和三陸地震、津波が来ていて、死者が3060名ぐらいです。 それから27年後1965年(昭和35年)チリ地震津波、全国で142名亡くなっている。 そのうちの100名ぐらいが岩手、宮城の沿岸部になっている。 そこからたまたま50年空くんですね。 2010年にふたたびチリ地震、宮城県は養殖業が壊滅、激甚災害になっていました。  東日本大震災はその翌年です。  2006年ぐらいから地域住民に備えて下さいという事を伝える活動をしていました。  当時は全然興味を持っていませんでした。 

2006年当時、国が宮城県沖を震源とするマグニチュード8を越えるような巨大地震の発生確率30年以内で99%と言われていた。 最短20分で10mを越える津波が三陸沿岸部に襲来しますと、科学的に想定されていた事実です。 護岸整備などを整えていて、それで大丈夫だという風に宣言していた。 それを信じて50年間実際に津波は来なかった。 作ったから大丈夫とどっかで勘違いしていた。 2011年に津波が来て、皆想定外だというんです。 前例がない、1000年に一度の災害だと言いだす。 展示のベースになっている記録調査をやらなければならないという風に使命感を持った最大の理由は、そういった嘘を言い始めたことに対する怒りです。 40年に一回は大津波が来ているんです。 防災は現実には無理なんですが、減災は可能なので日頃から意識して、避難先には備蓄の食品があるとか、避難所にはせめて100人が10日ぐらいは用を足せるぐらいの、汲み取りのトイレぐらいは作っておくべきだと思います。

二つ折りの携帯電話が開いた状態で多く見つかったりするが、話している間に津波に被災してしまう事が多いのではないか、まずは兎に角逃げて欲しいという思いで、創作ストーリーで心に訴えたいと思いました。 足踏みミシンの創作ストーリーとか、炊飯器など共有しやすいものを選んでいます。 

小さいころは飯時間、寝る時間以外は家にいないような子でした。 絵は好きで、図画工作、陸上が好きでした。 勉強は大嫌いでした。 宮城教育大学中学校美術教員養成課程卒業、同大学院入学(リアス・アーク美術館勤務のため9月で中退)。  美術館にはすでに採用されていた人が居ましたが、開館の2か月前に辞めたという事でした。  地域の人とはとことん酒を飲んだり食べたりして仲良くなって行きました。 15年ぐらい経つとよその人間だという事が大分薄れて来ました。  17年目には大震災となりました。 震災発生1年後に他県の大学から声がかかりましたが、離れるのは無理だと断りました。

一番大きかったのは、ここに来ると何て言ったらいいかわからなかった、どう表現したらいいのか判らなかった言葉が、その言葉が全部あるというんです。  皆さんが共有できる言葉を提供するという事は目標の一つでしたから、感想として多かったので良かったです。  復旧復興事業が始まる前に、自分たちがどういう状況に置かれていて、何を今から考えなければいけないのか、何を失って何を取り戻さなけれいけないのか、必要なことは何か、不必要なことは何なのか、そういう事をちゃんと考えられる脳にセットしたかった。 皆言葉を失っていたので。 だから急ぎました。   

能登半島地震では古い家屋が沢山倒壊しました。 撤去作業が進められているが、家の下にある大事なものとかも区別なく撤去されてしまう可能性がある。 そういったものを大事に扱うという事を早い段階から訴えてはいます。  残さなければならないという意識があれば、大きい間違いはないと思います。  貴重な奥能登の文化を根こそぎ破壊されてしまうような事だけは、それは完全な人災ですから、何とか阻止しなければいけない。