2023年12月1日金曜日

ジョージ紫(ロックバンド「紫」リーダー)・沖縄ロックは「紫」ではじまった

ジョージ紫(ロックバンド「紫」リーダー)・沖縄ロックは「紫」ではじまった 

ジョージさんは1949年沖縄県の生まれ。 父親は日系2世、母親は沖縄の出身。 小学生のころからピアノを始め、UCLA大学を卒業、大学ではコンピューターとハモンドオルガンを学びました。 1970年おきなわでロックバンド紫を結成、ライブ活動を開始、1976年本土でもデビューし、名だたる音楽雑誌の投票で1位となります。 1978年には脱退、83年に再結成し、2007年から今のメンバーとなって、沖縄でCDのリリースやコンサートツアーを行っています。  今年8月に7年振りのアルバム「TIMELESS」をリリースしました。 

当時、ロックを日本人がやることは一般的ではなかった。  やっても日本語でやっていたのでロックぽくなかった。 

 「ON WINGS OF LOVE」  歌、演奏:ロックバンド「紫」

クラシック教室に行って面白くてずっとやっていました。 クラシックばっかり聞いていました。  父はハワイ生まれの2世で、祖父が移民1世。 1967年ぐらいからビートルズのロック音楽自体が変わって来て、ロックバンドとオーケストラのための協奏曲コンチェルトを聞いた時には、自分がやりたい音楽そのままなんだと思って、ロックとクラシックとを融合したもので、沖縄の民族音楽との3つの要素を融合すれば、自分たちなりのオリジナルになるのではないかと思いました。  それとハードロックもやってきたのが「紫」です。   大学では数学と音楽。(ピアノ、声楽、パイプオルガン)  教会にパイプオルガンがあり、9時の礼拝の時に頼まれてパイプオルガンを弾きました。(音が感動的だった)     

ベトナム戦争反対のデモが多くて、沖縄に帰ってからは、基地から空爆に行ったり、現地で戦って亡くなった人もいっぱいいました。  ベトナムで亡くなった兵士たちをトラックに積んで運んでる光景を観た事もあるので、音楽を通して平和の想いを伝える必要があるのではないかと思いました。 「紫」を結成したのはこれが根底にあります。  バンドが出来てから基地のクラブで演奏したり、外の民間地域で演奏すると、ファンが出来てきて、その人たちが戦場に行って、帰ってくる人、帰ってこない人もいたりしました。  戻ってくるとじっくり聞きたがりました。(エリートが多かった)  当時はロックバンドの需要が高かった。 (フィリピン、韓国からバンドが来てていたりした。) リクエストもいろいろあるので練習も大変でした。  オリジナルも段々作り始めました。 

1976年本土でもデビューしました。 1978年には脱退しました。  残ったメンバーで半分ぐらいで続けましたが、3年で解散しました。  僕は外国のメンバーと結成しましたが、入国管理の問題とか厳しくて、結局解散してしまいました。  1983年に第1回ピースフルラブ・ロックフェスティバル 「紫」のロックコンサートを行い、5000,6000人の人が集まりました。 それが30年余り続いていて、今年40周年でした。  それを沖縄で行いました。 沖縄ではロックバンドが増えて行きました。 

今年新しいアルバムを出しましました。  「TIMELESS」をリリースしました。  ウクライナ侵攻とかハマスとイスラエルの戦争とか、人間ってなんでこんなバカなことをするんだろうかと思います。  宗教とか違いを認め合って、もっと融和的に過ごせばいいと思いますが。 このアルバムにはこんなテーマもあります。 『Raise Your Voice』は約2年前にできました。(ウクライナ侵攻前に出来た曲です。)  「みんなで声を上げて争いを止めよう」と。そんな思いが込められています。  演奏して相手が判って呉れたことが一番うれしいです。  1977年ごろにヨーロッパツアーの話もあたようですが、私たちは知らなくて、解散した後で知りましたが、知っていれば解散しなかったかもしれません。  ぶれずに信じてきてやって来て、来年海外への夢が実現します。 ロックとオーケストラの組曲「琉球」をいつか作ります。