2023年12月22日金曜日

三上博史(俳優)            ・寺山修司さんからの贈りもの

三上博史(俳優)            ・寺山修司さんからの贈りもの 

三上さんは神奈川県生まれ、高校1年の時に劇作家で詩人の寺山修司さん監督の映画「草迷宮」に主演します。 撮影終了後には高校生活の戻りますが、俳優と言う仕事に興味を持ち寺山さんが主宰する劇団「天井桟敷」に通うようになります。 1987年映画「私をスキーに連れてって」に出演し、その後トレンディードラマに数多く出演、人気俳優となります。 NHKでは2012年の大河ドラマ「平清盛」で鳥羽上皇を熱演して、話題となりました。

普通の二枚目のヒーローと言うのではなく、ちょっと捻ったような役が結構ありました。   映画「私をスキーに連れてって」に出演し、それは爽やかなかっこいい青年の役でした。   ちょっとマイナーの匂いのする映画ではありましたが、ふたを開けてみると独り歩きしていました。(ヒット映画になった)   名前、顔を知ってもらうことが目的のような仕事していたので、そうなると不自由になってくるので、自分の時間も必要となるので海外にいる方が都合がよかったです。 

偏差値を稼ぐために小学校からガリガリやっていました。 自分で塾を捜して小学校3年生から電車で通っていました。 高校までは設計図通りに行っていました。 高校3年、大学4年の7年間があるので、楽しいことをやろうと思っていました。 その一つが友達が持ってきたオーディションでした。  興味はなかったが、受けてみたら、劇作家で詩人の寺山修司さん監督の映画「草迷宮」で、主演する事になりました。 自分は高給取りを目指していたので、その現場は真逆の世界でした。(金がない中右往左往してやっていた。)   撮り終えてまた普通の学校に戻るわけです。 何か月かすると何故か胸に隙間風が吹くんです。 学校が面白くなく、あそこに戻りたいと思いました。 学校が終わると、劇団「天井桟敷」に入り浸るようになりのめり込んで行きました。 そこの5年間は僕の宝物でした。

寺山さんと話す機会があり、「お前は舞台は向いていない、僕の映像要員でいいから。」と言われました。 「映画をやる時には呼ぶから」と言われました。  15歳で撮影して公開は20歳の時でした。 その間に或る時新聞に、大島渚さんが主役の少年を捜しているというという事で、電話をして何回かあって、その役をやる予定でいたが、大島さんがその仕事を投げてしまいました。 その数年後に「戦場のクリスマス」に呼んでいただきました。  (しかし小さな役でショックでした。) 浪人2年目の時に母が亡くなるんですが、その時には「俳優をやるのは良いが、性格俳優にはならないように。」と言われました。 

TBSの金曜ドラマ無邪気な関係』の戸川純の相手役をやることになりました。 そこからあれよあれよとなってゆくわけです。 突っ走って行きますが、20代前半は多感な頃でジレンマがありました。 飲み仲間と音楽の方をやるようになって、詞を付けて行って、オリジナルがどんどん増えて行きました。 25歳でオリジナルでライブをやるようになりアルバムの一枚目をだしました。(趣味) 30代頭に ミュージシャンの役が来てしまいました。  役の名前でCDを出して、それが売れてしまいました。 40歳で役者の活動は辞めようかと思いました。(建築の学校を捜していて、芸能界を辞めようと思った。)   

寺山修司没後20年という事で舞台の話が来ました。 最後に一本だけやろうと思ってやったら、目からウロコでこんなに自由なんだと思いました。 これは生きる世界があるかもしれないと思って、舞台の仕事に行きだしました。(当時いろんな国に住んでいました。 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の舞台をやっていました。) 帰って来て、その曲だけやろうとしたが、結局舞台丸ごとやらないかと言うっことで、評判になりました。(42歳) それから舞台が続いて行きます。  

三沢の寺山修司記念館で毎年5月4日の命日にライブ、修司忌をやって朗読、歌などをやっていましたが、今年5月で没後40年になり、バンドで行きました。 紀伊国屋ホールでやりませんかと言う話があり、構成をし直して、言葉の吹雪みたいな感じで行おうと思っています。 僕がやりたいことをやろうとすると、寺山修司さんが出てきちゃうんです。 僕はそこから出たいんですが。  掌がでかいので出られないですね。