2024年10月31日木曜日

今井むつみ(発達心理学者・慶応義塾大学教授)・赤ちゃんは、言葉を覚える天才!

今井むつみ(発達心理学者・慶応義塾大学教授)・赤ちゃんは、言葉を覚える天才! 

何故ひとは言語を持つのか、子供はどの様に言葉を覚えるのか、その謎に迫った今井むつみさんと秋田喜美さんの共著「言語の本質」言葉はどう生まれ進化したのか、大ベストセラーになり2024年の新書大賞を受賞しました。 今井さんはそのカギを握るのはオノマトペと赤ちゃんの探求心の操作だとおっしゃいます。  人はどのように言語を獲得してゆくのか、その過程でオノマトペ(擬声語)はどのような役割を果たしているのか、又人とAIの言語の学習法はどう違うのか、今井さんにお話を伺いました。

「言語の本質」はこんなに反響があるとはつゆほども思っていませんでした。 内容は心理学だったり、言語学だったりかなり広範囲に及んでいて、内容的には抽象的な話だしかなり難しいんじゃないかなと思っていました。 多くの人に読んでいただいて、全く予想もしていませんでした。 

赤ちゃんの言語学習はもうお母さんのおなかで始まっています。  音というよりはリズムのパターン、言語特有のリズムがあります。 英語のリズムと日本語のリズムは随分違います。  日本語は平坦で必ず子音、母音があります。 英語はアクセントの位置で単語が認識される。 アクセントを中心に単語が発音され、文が作られる。 お腹の中にいる時には水のなかにいるので、細かい音は聞こえない。 抑揚なパターンとリズムを学習します。 

赤ちゃんが最初にしなくてはいけないのが、単語を見つけてゆく事で、その一つの手がかりとして抑揚なパターンとリズムは重要な役割をします。  生まれてからは音の聞き分けです。  単語を見つけてゆくには、自分で手がかりを捜していかなければいけない。    ミルクとかお腹とか、大事な音の繋がりで、それが何度か現れてくると、これは一つの単位なのかというふうに気づいてゆく。  でもまだ意味は分からない。 

オノマトペ(擬声語)が何で大事かというと、この音の塊には意味があるという事をわかっていないと捜しようがない。 ヘレン・ケラーはあの有名な「ウオーター」、先生がポンプを押して掌に水がかかって、その時に先生が「ウオーター」というスペルを手にしたら、その時直感的にこれは名前なんだと、スペルと水が繋がり、彼女は全てのものに名前があるという事に気が付くわけです。 言語という抽象的な記号の集積を学習するのに、絶対に必要な気付きだと思います。 名付けの洞察と言っています。  ヘレン・ケラーは全てのものに名前があることが判って、触るものにこれは何かと先生に尋ねて、帰るまでに30ぐらいの名前を憶えてしまいました。 

普通の言葉はあまり意味と音の間に関連性が無い。 オノマトペ(擬声語)は連想がしやすい。 音と意味の対応付け、が感覚的に判って、その経験が言葉には意味があるという事の直感を得るのではないかと思います。  動詞は抽象的でイメージが湧きづらい。 保育園で「ガラガラペー」をしなさい、「ブクブクペー」じゃないと言うと判る訳です。 判りずらい動詞を何となく感覚的に意味が判る。   ものだけではなく行為にも意味があることが判って来る。 どういう言葉が判って、どういう言葉が判らないのか見極めが大事です。表情で判断して判らないと思ったら言い換えて、手掛かりを増やす。  周りの大人の役は凄く大事です。   最初はシンプルに単語だけを言う。   常に観察するという事が大事です。 

絵本の読み聞かせは凄く大切です。 子供の反応に応じて、余分に話を広げてあげたり、飛ばしたり、親が子供に合わせ子供が聞きたいことを話してあげることが大事です。 生で読み聞かせするのと、デジタルで声優さんの録音したのを比較すると、生の方が言葉をよく覚えます。(臨機応変に赤ちゃんの反応によって対応するから)  実際の感覚の経験をすることは大事です。 

AIと人との学習の違い。 AIは膨大なデータを最初からどんと与えられて、そのパタンを分析する。 赤ちゃんは限られた情報処理能力しかない。 自分がいま処理できる情報しか入れないという事をしています。 それを少しづつ広げてゆく。 AIには名付けの洞察というようなことは一切ない。  統計的なパターンの学習をしている。 視覚情報だけで、触覚、嗅覚などを繋げようとしているが、数値として学習する。 感覚のネットワークは難しいと思います。 紐つかないのは感情だと思います。 

子供が発達するうえで大事な事は、一つは自分でいろいろな仕組みを捜して、ある種の洞察を得て、発見して、自分の今ある知識の状態よりも、一段抽象化されたとか、一段上の段階に自分で自分を持ってゆく、そういう事を子供はしています。 人間はなぜを問うが、生成AIは問わない。  人間は因果を突き詰めようとする。 

「学力喪失」という本では、言葉というものは本当に抽象的な記号の集まりで、これを学習するというのは凄いことだと思います。 大人は手助けはするが教えることはできない。 赤ちゃんは自分の力で様々な仕組みを見つけて、洞察を得て自分の力でどんどん言葉の抽象度を上げて行って、概念を学習してゆく。  なのに学力不振という事を考え続けてきました。 例えば分数の意味が全然判っていない。(小学校5年生)  そもそも子供たちの問題ではなくて大人たちの方に学力というものに対して、知識というものに対して、大人の方に誤解があるのではないか、という風に考えました。  大人は一生懸命説明しようとして、説明したら判るという考えがあって、子供の観点からすると抽象的なことを言われると入ってこない。 自分で感覚的に数を操作したり、体験したりして、そこから自分で抽象化をする。 そういう経験が足りていないから、記号設置というものが数に対して出来ていない。 そういう子供が沢山いるのではないか、ということを考えて私の作った「たつじんテスト」の調査から判ったことを交えて、子供がなぜ学校で躓いてしまうのか、という事を述べたのが、「学力喪失」です。















 

2024年10月30日水曜日

玉田元康(歌手 ボニージャックス)    ・人生はチャレンジ 90歳のソロデビュー

玉田元康(歌手 ボニージャックス)    ・人生はチャレンジ 90歳のソロデビュー 

玉田さんは1958年早稲田大学グリークラブなかま4人でボニージャックスとしてデビューしました。 以来66年に渡って現役でステージに立ち続けてきました。さらに今月2日には、90歳にして初めてのソロコンサートを開き、朗々とした歌声で会場を魅了しました。  一方私生活ではここ数年に間に、最愛の妻とステージを共にした創設メンバーを相次いで亡くしています。 大切な人たちとの別れを越えて、90歳の今もチャレンジを続ける田村さんにお話を伺いました。 

*「小さい秋見つけた」 歌:ボニージャックス

西脇久夫さん(トップ・テナー)、鹿嶌武臣(バリトン)の歌声も聞こえます。 鹿嶌さんはこの9月に亡くなりました。 学生時代から数えると70年になります。 西脇さんが亡くなったのは2021年です。 今は2人になってしまいました。 

私の生まれは旧満州です。 北朝鮮に近い穏やかな暖かいところです。 両親は九州の生まれです。 満洲で成功した親戚が居て、父は中学を卒業までせずに満洲へ行きました。 母とはお見合い結婚しました。  僕が生まれた頃は坑木を扱い会社でも偉くなっていて羽振りは良かったです。 日本は敗戦となり満洲から引き揚げてきます。 1週間ぐらい野宿して、北朝鮮迄歩いていって、身ぐるみ剥がれたこともあり、38度線を越えてからも1週間ぐらい野宿しました。 仁川という港町迄たどり着いて、その途中でも脱落する人、亡くなる人がいました。 その時は12歳でした。 博多に着き故郷の天草に行きました。

祖父、両親ともに教育には熱心でした。  満洲にいる頃に山を買わないかと言われて、父が購入してそれを売って、僕の早稲田の学費にしてくれました。   兄弟は全部で6人いました。 兄は学徒出陣して、シベリアに抑留されて、僕たちが帰ってきた2年後に栄養失調で帰って来ました。 一番下の妹は若くしてがんで亡くなりました。 2人の姉と妹も音楽教師になりました。 早稲田大学に入ったら合唱はやりたいなと思っていました。 グリークラブの歌を聞いてすぐに入部しました。 

ボニージャックスを形成して。第一回目のリサイタルは思い出に残っています。 スタートして5,6年でした。  熱気、拍手に感激しました。 妻は一つ年上で認知症の介護を10年ぐらいして見送っています。 僕が70代の後半に認知症だと判りました。 認知症の症状が段々悪くなってきて、介護していましたが厳しくなって、通いの介護施設に入れて、その後特養老人ホームに入り、その年の12月に亡くなりました。(2018年)  仕事で死に目にも会えませんでした。  私ら夫婦には子供が居ませんでした。 そのころ仕事も少なくなってきていました。 妻が亡くなった施設から新聞の求人広告がありまして、経験不問等ありましたが、70歳以下と書いてありました。  その時には僕は85歳を過ぎていました。 直談判をして入れていただきました。 いろいろな単純作業がありますが、他に「みんなで歌おう。」という事をやりました。 2019年12月から今でもやっています。  最初は週5日でしたが、今は週4日になり、歌の方を重要視してくれるようになりました。  懐かしい歌が多いです。 昔の歌が記憶の回路を繋げてくれると言いう事がある様です。 

施設へ20分程度坂を登って歩いていきますが、それが健康にいいことだと思います。  90歳でソロデビューしました。  ためらいとかは無かったです。 大庭照子さん(NPO法人日本国際童謡館館長)からの後押しもありました。  西脇久夫さん(トップ・テナー)、鹿嶌武臣(バリトン)の分も頑張らなければという思いもあります。 ボニージャックス合唱団というのを作ってバックアップしています。 ボニージャックスも2人で続けていきたいと思っています。


















2024年10月26日土曜日

西田敏行(俳優)             ・【西田敏行さんを偲んで】 舌の記憶~あの時・あの味 後編(初回:2018/5)

 西田敏行(俳優)  ・【西田敏行さんを偲んで】 舌の記憶~あの時・あの味 後編(初回:2018/5)

毎週のように父親と一緒に映画を観ていたこと、それがきっかけで幼いころから俳優を目指したこと、御蕎麦屋さんで父親が食べ方を知らない若い姉妹にさり気なく食べ方を見せてあげた忘れることのできない光景、原発事故など故郷福島への思いなどを中心にお話を伺いました。

西田敏行さんは1980年民放のドラマ「池中玄太80キロ」で一躍人気者になりました。  主題歌の「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしました。 テレビ、舞台、映画で活躍を続けるその根っこにはどんな日々があったのか、そして記憶に刻まれているあの時の味を伺います。 

ドラマ「池中玄太80キロ」が大ヒットしました。 「玄太」って呼ばれました。 主題歌も当たっちゃいました。 歌手としても紅白歌合戦にも出ました。  あの時は「女太閤記」で秀吉をやらせていただきました。 夢のような年でした。 実母が歌がうまかったです。 歌は特別なレッスンを受けたわけではないんですが、歌は好きです。 役者はいろんな人間を、いろんな人の人生を俯瞰で見られたり、あおって見られたり、引いてみられたり、人生のメリーゴーランドに乗っているみたいな感じです。  或る人物に焦点を当てて、その人物に対してずーっと見つめることができ、追体験も出来るみたいな仕事って、こんな楽しい事は無いですね。 人間というのは不思議な生き物ですね。 戦争、殺人もするし、ちょっとしたことで感動して涙を流すのも人間だし、人間って何だろうと思います。  いろんな側面が人間にはありますね。 

自分が演じられる範疇は限られるし、絞られてくるという事は感じます。 大きい視点と物凄い深い視点と両方を持って人間、人生を見つめてみると、楽しいかなと思います。 青年座という劇団に入りましたが、俳優座から分裂した劇団で昭和29年に創立しました。 その後矢代静一さんの『写楽考』という舞台で主役に抜擢されました。(22歳 劇団2年目) 70年安保の時期でもあり悩んだりもしました。 人間って何を求めて、何をしたら本当の意味での幸せというものを感じ取ることができるのか、というようなことを若いなりに、役者仲間と集まって飲んでは喧々諤々と意見を言い合って、熱い時代でした。

食べ物としては会津の「みしらず柿」干し柿がうまいんです。 福島の味という感じで食べていました。 ゆべしというお菓子がありますが、素朴な甘さで心筋梗塞で倒れた時(2003年)には、子供のころ食べたゆべしが無性に食べたくなり、送ってもらいました。 健康には自信がありましたが。 頭の中では命日だと思いました。  頸椎の亜脱臼もありました。  入院して手術が必要だという事になりました。 第一頸椎で血管に一番近くて、切開するときにも血管に傷をつけると、あっという間におしまいなので非常にデリケートな手術なので、リスクは多いですと手術前には聞かされました。 当日になるまでナーバスになってしまいました。  健康には過信があって暴飲暴食がたたったのではないかと思います。  

幼少の頃西田家に養子に行って、父は引き揚げてきたばっかりで、母がおやつ代わりに梅干しに一寸お砂糖をかけてくれて、養母と実母が話し合っていて、梅干しを半分ぐらい食べていたら、実母が「じゃあね。」と言って、実母が遠ざかってゆくのを見ていました。 想起させる食べ物としては梅干しがあります。 

ラジオの新日曜名作座、森繁久弥先生と加藤道子さんは50年続けられました。 後を引き受けられるのかなと思いましたが、竹下景子さんと二人で楽しんでいます。(10年が経つ。)  加齢とともに声がかすれてくるので、声の発声は毎日練習をやります。(シャワーを浴びながら。) 70歳になると、周りの人と共にいい仕事をしたなと言えるように、ずっと続けて行きたいです。  お客様に素晴らしかった、楽しかったと言われることが、一番の自分のご褒美として生きて行こうと思っています。 

頸椎を痛めたので歩行がままならないところがあり、スクワットを毎日やっています。  若いころは身体は丈夫でした。 「植村直巳物語」で5000mを越えるところで、走ったり、荷物抱えたり、肉体が耐える様28日間トレッキングで歩きました。 やり通したので自分は頑丈だという過信があったのかもしれません。 僕はアンチエージングではなく老いを受け入れようと思っています。










2024年10月24日木曜日

山枡あおい(国立西洋美術館学芸員)    ・〔私のアート交遊録〕 光の画家モネが見つめた世界

山枡あおい(国立西洋美術館学芸員) ・〔私のアート交遊録〕 光の画家モネが見つめた世界 

国立西洋美術館では今、クロード・モネの「モネ睡蓮のとき」が開かれています。 山桝さんはこの展覧会の日本側監修者をしています。 この展覧会はマルモッタン・モネ美術館からの本初公開作品を含むおよそ50点に日本国内の所蔵作を加え、晩年の製作に焦点をあて、モネの芸術の豊かな展開を辿るというものです。 日本では過去最大規模の睡蓮が集う機会となります。 光の画家モネが後半生を奉げることになるのは、睡蓮の花咲く池、そこには最愛の家族の死あ自身の目の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面するモネの姿があります。 日本人が愛してやまない印象派、中でも光の画家といわれるモネの世界の魅力について、聞きます。

モネの晩年にしぼった展覧会です。 1890年代以降、特に20世紀に入ってからの作品1910年代以降モネが70歳を越えたからの作品が多いです。 絵の描き方、筆のタッチの使い方、絵のサイズ(格段に大きくなる。)などが違ってきています。  睡蓮のテーマは晩年のモネにとって、間違いなく最大の創造の源で、今回、睡蓮を描いたものだけでも20点以上は展示されます。 池のふちに咲く花とか、睡蓮に関連する作品も沢山展示されます。 全部で65点が展示されます。 

1920年代日本人がフランスに行って、モネの作品を購入する。 いい作品が日本にあります。  印象派を語るに当たって、19世紀のフランス美術を語るうえで欠かせないのが、アカデミーという組織がありました。 一つは教育という側面、サロンでの唯一の作品発表の場でもあった。 アカデミーはあらゆる画家、彫刻家、芸術家のキャリアを左右する存在でした。 印象派を一言で定義すると、アカデミーが左右するシステムから完全に離れたところで、製作を行い発表をした、この点に尽きるのではないかと思います。 印象派という名前は1874年(150年前)非常に豊かな個性を持った画家たちが、アカデミーに反発する形で、自分たちの展覧会を独立した立場で開催した。 その展覧会に出品された作品の一つがクロード・モネの作品でした。 それを見て「印象に過ぎない。」と言って、アカデミックな立場で悪口を言った「印象」という言葉が印象派の名前の起源になります。

それまで絵を楽しむのは王侯貴族でした。 革命以降一般市民が楽しむようになった。  都会の生活に疲れた人たちが郊外に出掛けて、自然を楽しんだり、レジャーの概念みたいなものも新しく生まれて来る。 印象画を描く風景は、或る意味レジャーの表象だと捉えることもできる。  印象派のメンバーとしては、モネ、ルノアール、カミーユ・ピサロ、セザンヌなど、強烈な個性を持った画家たちがいっとき集まって、印象派というグループで活動していました。  モネは抽象的なところもあり、1950年代にアメリカで出てくる抽象表現主義、アクションペインティング、ジャクソン・ポロックとか、と言った画家にも通じるような、予告するような表現方式にたどり着いた。 セザンヌとは対照的で、セザンヌは幾何学的な抽象絵画の父と言われるようになります。  モネは感情的な、表現的な抽象絵画の父と言われます。 

モネが生涯一貫して追求したのが、光の表現です。 常に移る捉えがたいものを、捉えることにこだわって鋭い眼と造形的な造形感覚を持っていました。 よくわかるのが連作と言われるモネ独自の形式です。 或る一つの同じモチーフを様々な天候であったり、時間という条件の元に、繰り返し描く、描いているモチーフと構図は全く違いますが、作品によって色彩、つまり光が異なっている。 光が主題になっている。  主題は何でもよかったとこれまで言われてきましたが、実はそうではなくて、積みわら、ルーアン大聖堂というモチーフにせよ、フランス国家、国の豊かさに結びつくモチーフを主には選んでいます。    モネは睡蓮の池に主題を集中していくわけですが、池の水面もある程度光と同じようなところがあって、やっぱり形、色彩を持たない、絶えず揺れ動いている。  捉えがたいものを捉えるという挑戦に没頭として行く。  

外に出て描くという事には、蒸気機関車が整備されてゆき、簡単に郊外や地方に出掛けることができるようになった。 チューブ入り絵具が発明されて、より簡単に持ち運べるようになった。 合成絵具がどんどん出てきて、色のバリエーションも増えてゆく。 

1910年代以降の製作では、最愛の奥さんを亡くしたり、目の病に罹って見えづらくなって、様々な困難に見舞われていた時期でした。 一時期製作を中断した時期もありましたが、制作意欲を取り戻して、睡蓮という主題に数十年以上奉げました。  大装飾画、睡蓮という一つの主題で部屋の壁面を覆いつくす。 又、幅4~6mのキャンバスに描いて、それをさらにくっつけてゆく。 モネが大装飾画に挑戦した時期は第一次世界大戦の時期でもありました。 終戦の翌日に描いていた大装飾画を国に寄贈します。 大装飾画のプロジェクトはある意味平和モニュメントといえるような、記念碑的な性格をもっていた。 モネの集大成という事もあったと思います。 晩年になると睡蓮とはわからなくなって来る。  睡蓮の花は主役ではなく、主役は水と水に映る反映像にあると言っています。 独立した立場で絵を描くという姿勢が、印象派の画家たちが打ち出すことによって、様々なものが生まれてくる。 新しい美術運動の先駆け的な存在ではあると思います。 

今回注目の作品としては、マルモッタン・モネ美術館から今回かりて来た、睡蓮の柳の半映を描いた作品、大装飾画の製作過程で生まれた作品(縦、横、2m四方)ですが、ほとんど睡蓮は描かれたてはいない。 青が基調となったぼんやりとした作品で、水面に柳の反映が中央に描かれています。 モネは大装飾画に関連する作品は売りたがらなかったが、唯一手放すことを許したのが、松方幸次郎だったんです。 横幅4mの作品で、一時期行方不明になっていました。 2016年にルーブル美術館の片隅で見つかりました。 現在、当館に所蔵されています。 

私は両親に連れられてよく展覧会にはいきました、 印象派の作品は近すぎたのか、関心は余り無くて、印象派の前の時代のフランスの画家の研究をしていました。 印象派ではセザンヌなどは好きでした。 モネ、ルノワールは親しみが深すぎたのか、中々関心は持ちませんでした。 でもやっぱいいなあと段々思うようになりました。 

お薦めの一点としては、当館には2016年に発見されたものと、もう一点ありまして、裏打ちされていない珍しいもので、裏打ち用のニスの影響がないもので、当時の色の質感がそのまま見られます。













2024年10月23日水曜日

2024年10月22日火曜日

大塚智丈(精神科医・西香川病院 院長)   ・人生100年時代 “ありがとう”のバトンつなげたい

 大塚智丈(精神科医・西香川病院 院長)   ・人生100年時代 “ありがとう”のバトンつなげたい

大塚さんは61歳、院長を務める西香川病院は認知症医療に力を入れている病院です。  大塚さんは診察に訪れる認知症の人に、「堂々とお世話になって下さい、そうでないと将来貴方の子世代、孫世代の人たちが世話をされることが恥かしいと思わなければならなくなります。」と頭を下げてお願いします。 ケアされることを申し訳ないではなく、有難うと感謝の気持ちで次の世代に繋げたいと考えている大塚さんにお話を伺います。 

日本では人類史上未曽有のスピードで高齢化が進んで居ます。 それに伴って認知症の数もかなり増えてきています。 2022年のデータで65歳以上の高齢者の認知症の人と認知症の予備軍と言われる軽度認知症の方は1000万人程度と言われている。 80代後半で4、5割、90代前半で約6割、95歳以上ですと8割という数字です。 女性の場合は87歳で認知症になって90歳まで生きるというのが、今現在でも平均的な生き方になっている。 多数派になってきているので、認知症になること自体を恥ずかしいとか、情けないとか、思う事自体おかしいのではないかと思います。 これだという予防法は無いです。 認知症のイメージを改善しながらやっていただくという事、備えが重要だと思います。 

20年前から始めていますが、最初の頃は心の面までは関心が行きませんでした。 NHKのクローズアップ現代で、クリスティーン・ブライデン(オーストラリアの人)さんが若年性のアルツハイマ―型の認知症になって、こんなに考えて、感じているんだという事を講演された方です。 自分の中にあった偏見に気付かされました。 信頼関係を大事にするようにしました。 それが出来ると話がしやすくなります。  

認知症になると鈍感になるようなイメージがありますが、敏感になっておられます。 些細な失敗でもその感じ方が普通の人とは違います。 自己否定感が強くなってくることがうかがえます。 認知症の人が感じている辛さは二つあります。 ①能力低下によって起こてくる生活障害です。(不便で大変)  ②認められたいという心の欲求が満たされていない事。 ①への対応はするが②への対応へは目が向いていかない。 

認知症になって怒りっぽくなった患者さんが、5年ほど経って、認知症になっているとは知らずにいろいろと質問をして、それに答えたりしたが、(社会の中の一員として自分をある時感じて)、その後一時期怒りっぽくなくなったという事がありました。  自分が役に立てたと感じられたんじゃないかと思います。  認知症になった人が、「今迄と同じように接してくれなくなったことが一番つらいです。」と本人の口から聞きましたが、今でもよみがえって来ます。  30年前に比べると認知症の進行のスピードが1/3になったと言われています。(東京慈恵会医科大学 精神医学講座 客員教授の繁田雅弘氏) 楽しみ、生き甲斐を持っている方はゆっくりが多い。 

脳と心の関係はどうなっているのか、ずーっと興味を持っていました。 医学部に進んで精神科が一番それに近いと思って、入りました。 しかし認知症には全く興味はありませんでした。 病院に入って、或る時に精神科は認知症をやって下さいと言われました。 22年前に開設しました。  2年前から、認知症のイメージを改善する話をスタッフも陪席して話をしています。 認知症の人は不便だけれども不幸ではない。 認知症の方が相談員になって、「出来る事の中で楽しめることをやって行ったら、それで十分幸せですよ。」と、当事者の方にお話ししています。 出来ることをやってもらって、そのことに感謝の気持ちを述べると、自己肯定感を感じる。  出来ないことに注意したりするとイライラしたりして、自己否定感も強くなってくるし、家族との関係性も悪くなって来るし、意欲、活動性もなくなって来る。  ポジティブな感情は進みにくくなる。

少々お世話になったり、迷惑をかけてもいいんだと、堂々とお世話になったら、お子さん、お孫さんも同じような状況が生まれてくる事と思います。 人生100年時代を迎えると、人生の最初と最後は、人間としてお世話になることは自然な事ではないでしょうか。  

若い時には認められたい自分というものがあると思いますが、認められるようになると、今度は役に立ちたい自分というものが出てきて、そうすると満足感が得られるので、人間としてもらえるものが沢山出てきて、遣り甲斐が高まって来ていると思います。 













2024年10月19日土曜日

名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

 名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

テレビやラジオのコメンテーターとしてお馴染み精神科医名越康文さん(64歳)のお話を伺います。 奈良県出身の名越さんは小学生の時に、人はどうして死ぬのになぜ生きるのかという疑問を抱きます。  名越さんはその問いに悩みながらも医学部を卒業し、精神科医として多忙な日々を送りますが、心身ともに疲労のピークに達した時、知り合いから或る寺を訪問することを薦められ真言密教と出会います。 その後名越さんは本格的に仏教を学び、日常生活の中に行や瞑想を取り入れてきました。 名越さんは特に真言密教空海に共感し、現代人が生きてゆく課題を仏教心理学の視点から考察し、仏教系の大学などで発信を続けています。    子供の頃抱いた問いに対してどのような答えを見出したのか、名越さんの思いを伺いました。

僕は昭和35年生まれで商店を経営していてほったらかしでした。 おっちょこちょいの性格でした。 父方のお爺さんが亡くなって、初めて死と直面しました。(小学校3年生)  明け方に鉄人のような父がオイオイ泣いていました。  崖から車ごと谷に落ちて交通事故で亡くなったと聞きました。 父親が亡くなるという事はこんなに悲しい事なんだと鮮烈に覚えています。 小学校4年生の時に海底大戦争(特撮映画)を見に行きました。 人間が人間を殺してゆくという風にしか見えなくて、それから一週間夜になると人間は死んだあとどこへ行くのかと大問題で、泣けてくるんです。  子供心にいくら大きな家を建てても、お金儲けても、人と仲良くしても、全員と別れるという事が判るんです。 この世にあるものを全部捨ててあの世に行かなければいけない。  生きている間に勉強、スポーツしなさい、友達を作りなさい、とか全部虚しくなっていくんです。 どうせ死ぬのにこの世の中で僕は何をしたらいいんだと思いました。(10歳) 5年生の時に国語の授業がありました。  パンドラの箱、その中に自分の心を封印しよう儀式を行いました。 

医者になって欲しいという両親の強い希望で、私立灘中学に進学します。 父が開業医の娘と結婚して薬剤師になっています。 医学部に入るという事が人生の目的でした。 医学部に入って、追試を受けて3つのうち2つ落ちるとで留年でしたが、3つとも受かることが出来ました。 駅へ向かう坂道で生暖かい風がワーッと吹いて、パンドラの箱の蓋がパカッと開くのが聞こえました。 お前は何のために生きているんだと、きました。 

祖父が脳溢血で寝ていましたが、生きることに苦しんでいることを伝えたら、増谷文雄さんという仏教の研究者の「仏陀」という本を薦めてくれました。 2日間で読み切りました。 クレイマックスのところで悟りの内容、どう生きて行ったらいいかわかると思ったら、「仏陀は悟った。」しか書いてなかった。  いろんな本を読んだり瞑想したりしました。  3年生で留年しました。  野田俊作先生との出会いがありました。 友人が、精神科医が行なっているアドラー心理学のオープンカウンセリングの見学に誘ってくれました。 不登校のカウンセリングを受けていた暗く落ち込んだ顔をしていた女の子が一時間程度で笑顔になったのを間近で目にしました。 精神科医になろうと決心して、26歳で医師国家試験に合格して、研修前に配属された脳外科で忘れられない一人の患者さんと出会いました。 

若い女性で、脳幹部にある悪性の腫瘍でした。  完治は無理で延命のための手術をしようという事でした。 点滴をするんですが、血管に入りにくい時があり、2,3回入れ直しをしたりしました。  全く痛いとか言わないで、こちらに配慮するんです。 手術前日に髪の毛を切って剃髪するわけです。 最後の仕上げを僕が担当しました。 涙が数滴落ちるのをみて、心に押し寄せるものがありました。 手術も無事終えて、懸命にリハビリをするなか、脳外科での研修期間が終わりを迎えます。  その後お見舞いに行って絵本と小さなお地蔵さんを送りましたが、父親からなくなったことと、御見舞いの品物は一緒に納棺しましたと言う手紙を頂きました。  どういう返事をしていいかわからずに今に至ってしまいました。  何でこんな優しい人がなくなってしまうのか理不尽さを感じました。 生きるといことは複雑怪奇で答えのない問いが次々にやって来るんだと思いました。 

精神科病院で勤務して38歳の時に病院を辞めて、クリニックを開業しました。  どうしてもという時には電話をかけて欲しいと言って、いつの間にか患者さんの8割が僕の携帯電話番号を知ることになってしまいました。 一番多くかかって来るのが夜の10時から2時ぐらいです。 2月頃にふっと目が覚めると、身体が冷えているんです。 Tシャツで寝ているのに汗でびしょびしょになっていて、自立神経が失調していることに気付きました。(開業して4年ごろ)  自分でも治療をしましたが無理だという事で、真言密教の祈りのお寺がありまして、そこで説明したら「大慈悲」と言われました。  「私に出来るでしょうか。」と言ったら、「貴方ならできる。」と言われました。 もう48歳で、今から仏道の修行をして出来るのかと思いましたが、「出来る、思った時からやりなさい。」と言われて、その場で真言密教の瞑想のがちれんかん?という瞑想がありますが、それを押しせていただきました。  そこから仏教の勉強が始まりました。 真言密教との出会いが大きな節目になりました。 

仏教には学と行があります。 学と行を等分にやりなさいといつも言われました。  空海の大日経の「十巻章」という重要な教科書があり、「三句の法門」という考え方が出てくるんです。 人生を成功させたい、充実させたいという人はこれをやりなさいと言う事が、大日経の中に出てくるんです。 「三句の法門」の一つは、「菩提心を(ぼだいしん)を因(いん)とし」、私なりに意訳すると、人間の心というものは、人格というものは、無限に成長出来る、という事に気付きましょう死ぬまで成長していきましょう、という事です。 二つ目が「大悲(だいひ)を根(こん)とし」、大悲の心を持ちなさい、どんなに幸せそうに生きている人も、心の中には地獄を抱えている、病気の2,3つは抱えている、その人の中には深い悲しみ、苦しみがある、それに心を寄せましょう、出会った人のみんなが苦しみにあえいでいるという事に共感しましょう、という事です。 三つ目が「方便こそ究竟(くきょう)なり」、方便することが一番大事で、自分が出来る範囲でその苦しみや悲しみを抱えた隣人に一寸でも慰められるような気持にさせてあげましょう、癒してあげましょう、という事です。 これを毎日心掛けて下さい、これはつまり仏教的行だと思います。 一日一日充実させてゆくと人は必ず人生が成功する、そういう教えたと思います。 

日々人生を生きていると、自分の蒔いた種もあれば、そうでないものも非難されたり、怒られたり、苦労したりしますが、前は不条理ととらえていました。 これを自分自身を磨かれていると捉えようという事です。 どうせ死ぬのになぜ生きるのかという事の僕自身の答えは「どのように修行しているか?、もうちょっとづつでもまともな人間なっているか?」という事です。  自分の心がどう動いているのか、絶えず気付いているという、それが修行だと思います。  自分の心の中にある寂しさに気付くことは修行になっていると思います。 誰に対する寂しさなのか、その人に辛く当たっているから、相手も辛く当てって来る。 今度からはその人にやさしい言葉をかけて見ようとして、相手が許してくれたらその寂しさは癒えますよね。 自分の心の中をじっと見つめてみる。 解決策が浮かんだり、耐える方法が浮かんだりする。 そういった過程は立派な修行だと思います。 毎日修行する毎日がここにあるので、何のために生きているのかという事は、そういう事ですから一応答えになっているんです。 

自分自身の優しい言葉で心で唱えることが必要だと思います。 祈る、拝むという事が最高で最も強力で人々を豊かに、あるいは救う心理療法だと思っています。