2023年9月12日火曜日

井上あずみ(歌手)           ・歌い続けて40年

井上あずみ(歌手)           ・歌い続けて40年 

1965年石川県生まれ。 1983年「STAR STORM」でアイドル歌手として、デビュー、1986年、宮崎駿監督のアニメ映画『天空の城ラピュタ』のエンディングテーマ「君をのせて」を歌い、翌年となりのトトロ』の主題歌を、魔女の宅急便』ではイメージソング『めぐる季節』を歌い、老若男女から人気のある歌手として活躍しています。  これまでファミリーコンサートを中心に全国を回っています。 このインタビューは7月26日に収録したものです。  その後井上さんは8月26日に40周年コンサートの当日、本番直前のリハーサル中に脳出血で倒れ、救急搬送されました。   幸い手術も成功し、現在はリハビリ中です。

*「君をのせて」(天空の城ラピュタ』のエンディングテーマ) 歌:井上あずみ

37年前ですから、21歳の時に歌った曲です。   2世代、3世代でコンサートに来てくださる方もいます。   2007年からNHKみんなのうた』を、13年間担当。    40年前にアイドル歌手としてデビューしました。   自分では歌はうまいと思っていましたが、音楽の先生からちょっと音が外れていると言われ、ピアノの音に合わせて声を出して欲しいと言われてやったら外れていました。  小学校3,4年生で下手だったんだという事が判りました。  それで児童合唱団に入って勉強して、段々歌が上手くなってきて、地元ののど自慢大会に出場して、審査委員長だった乙田修三さんから、「君は歌手になれると思うから、僕のところでレッスンしないか。」とスカウトされました。

デビューするまでレッスンを受けました。  中学・高校時代は演劇部に入っていました。セリフを言うのと歌うのでは発声が違うので、演劇を頑張っていて、声がガラガラだと音楽の先生から怒られてしまいました。  オーディションが一杯あり、君こそスターだ!」(フジテレビ系)で、2回出演したことがあります。 参加していました。  スター誕生!」(日本テレビ系)では、決戦大会に出場しましたが、いずれも最終的には不合格だった。(14歳)   決勝大会の前に下見会みたいなのがあり、合格すると東京に行くことになるが、良いかどうかを母親が聞かれて、「相談して見ます」、と言ったので、これがマイナスになってしまったのではないかと、後になって考えました。 

私がデビューしたのは1983年で、同期の人がみんなレコード会社の一押しなんです。 私もリバースターレコードという会社の一押しで、1億円ぐらいかけてもらって、シングルとアルバムの同時発売してもらいました。   デビューも急に決まりました。      レコード会社がカバー曲をやろうという事で、「ゆうべの秘密 」(小川知子)を歌う事になりました。  歌の仕事がどんどん少なくなってきました。  タレント業みたいな歌以外のことをやっていました。   事務所もなくなり、フリーになって、その時たまたま宮崎監督や高畑勲監督(天空の城ラピュタ』の音楽監督だった)が私のカセットテープをきいて、この子だったら歌えるかもしれないと思った曲が君をのせて」でした。  

映画は8月2日公開だったが、私に話があったのは6月でした。  レコーディングしたのが7月7日でした。  この曲はいい曲なので絶対歌いたいと思いました。               となりのトトロ』、魔女の宅急便』があって3作関わられたという事が40年歌えたんじゃないかと思います。   ファミリーコンサートに舵を切りました。   当時はまだアルバイトをしていました。  自分から行動しないといけないと思いました。  聞いてもらえる場を作りたかった。   どうやったら子供たちにアピールできるか、と思った時に歌だけではなくお話もうまくないと駄目だと思いました。  子供と視線を合わせようと思いました。  子供達が好きだと思う曲を練習して歌うようにしました。   コンサートの回数も増えて行きました。   夏休みでは毎日歌っていました。  コンサートもいろいろ工夫してやるようになって、今はライフワークのようになっています。   オーケストラともやるようになりました。   

加藤登紀子さんと共演しましたが、登紀子さんみたいな曲を歌ってみたいなと思いました。アダルティーな曲を歌ってみたいです。 














































2023年9月11日月曜日

大江裕(歌手)             ・〔師匠を語る〕 北島三郎先生の優しさ

 大江裕(歌手)             ・〔師匠を語る〕  北島三郎先生の優しさ

大江さんは高校生のころ、常に敬語で話す礼儀正しいキャラクターで演歌高校生として、民放のテレビ番組、バラエティー番組で注目を浴びました。  その後憧れの北島三郎さんに出会う事を叶えて、歌手としてデビューします。  大江さんに日本を代表する歌手北島三郎さんについて、伺います。

北島三郎さんは神のような存在です。  北島三郎(本名大野穣)さんは1936年北海道の知内町で8人兄弟の長男として生まれました 。  地元ののど自慢大会で優勝を重ねていた北島少年が函館で行われた「NHKのど自慢」に出場したのは、高校2年生の時、結果は鐘二つでしたが、司会の宮田輝アナウンサーに「なかなか上手じゃないの」と褒められたことで、はっきりと歌手を志すようになりました。  高校卒業後上京して、東京の音楽学校に進学し、その後渋谷で流しを始めます。  その当時知りあったレコード会社の紹介で、作曲家船村徹さんの弟子になり、ブンガチャ節」でデビューしたのが1962年6月5日、25歳の時、二曲目の『なみだ船』の大ヒットでレコード大賞新人賞を受賞し、翌年1963年「ギター仁義」で「紅白歌合戦」に初出場を果たします。  

以来、「函館の人」、「兄弟仁義」「与作」「風雪流れ旅」など今も歌い継がれる名曲をヒットさせ、数多くの賞も受賞した北島三郎さん、歌手活動だけでなく1968年から2015年まで46年間座長公演を続け、俳優としての多くの映画やドラマに出演しています。  さらに原譲二のペンネームで数々の楽曲を発表しているほか、山本譲二さん、松原のぶえさん、原田ゆりさん、北山たけしさん、大江裕さんなど大勢の弟子も育てました。  去年芸能生活60周年を迎えた北島三郎さんは、今年10月で87歳、自身のデビュー記念日となる今年6月5日に、ニューシングル「つむじ風」をリリースするなど、今なお現役です。 

祖父の影響で演歌が好きになり、3歳のころに祖父の子守歌(「男の涙」、「兄弟仁義」など)を聞きながら育ちました。   その後北島先生の弟子になりたいという気持ちが高まりました。 当時北山たけしさんが最後の弟子という事で発表されていました。  歌手を諦めようかと決めました。  祖父が「諦めずに行け」と背中を押してくれました。  北山たけしさんに会う事にしました。   「今、新宿コマ劇場で公演をやっていて、エレベーター前までだったら連れてゆけます。」と言われました。  北山たけしさんと一緒にエレベーターのところで先生にお会いしましたが、頭を下げたまま何も言えませんでした。  2回目大阪の梅田芸術劇場でエレベーターボーイをさせて貰えることになりました。   エレベーターボタンを押し忘れて知っパしたりしましたが、「いい声しているね。 歌頑張ってね。」と言われたのが心に残っています。  「諦めるなよ。」という声にも聞こえました。  

その後先生から手紙を届きました。「・・・君の演歌に対する熱意は伝わってきました。 何か手伝えることがあったら力になります。」と書いてありました。  安住アナウンサーに相談しましたら、デモテープを作って送ったらいいのではないかと言われました。  音が悪くて、北島音楽事務所に行くことになりました。  デモテープを送って私は北島音楽事務所の身柄預かりとなり、「大江裕」という事になりました。  先生からデモテープが来て、一人でレッスンしていまいした。   事務所からレコーディングがありますと連絡がありました。  レコーディングの日に北島先生が来てくれて握手してくれました、それがこころにのこっています。  2009年2月15日デビューしました。   

デビュー1年半後に「パニック障害」という病気になりました。  歌を聞くだけで心臓がバクバクしました。  救急車で運ばれて病院に着くと何でもないんです。  ステージのことを考えると血圧が200になり、何も考えないと130に戻ります。  病気と闘うのは1年はありました。  半年ぐらいの時に北島先生に呼ばれました。 夢ももう終わりかなと思いました。    入ってすぐに土下座をしましたが、「いまは休む時期だ。」と言われて、「俺と一緒に旅に出ないか。」(コンサートツアー、劇場公演)と言われその後半年間度に出ました。   弟子として修業をしてこなかったと思いました。  先生について、レッスンをするようになりました。   2012年3月7日に北島三郎さん作詞作曲の「故郷はいま」で再起を果たす。 「「故郷はいま」これがお前の再出発の歌だ。」と言われました。  「親の元から一度預かった身だから、俺が責任がある。」と言われました。  先生に喜んでもらえる歌を歌おうと思いました。    公演の千秋楽の後の関係者の前で、先生と一緒に歌うはずでしたが、感動して歌えませんでした。2月のレコーディング迄にはまだ時間があるので頑張るように言われました。  パニック障害になって半年後、関係者はもう助けを求めても来てくれませんでしたが、先生は「あいつの面倒は俺が見る。」だったんです。  今年の4月に各々独立することになりました。  夢が終わる様なな感じがしました。(涙ながらに話す。)  

北島三郎先生への手紙

「幼いころから北島先生の弟子になりたいと夢を抱き、デビューさせて頂き、早や15年が経ちました。  僕が体調を壊した時優しく声を掛けて下さり、いつお会いしても「身体は大丈夫か。」と心配してくださる先生が大好きです。・・・北島先生のことは生涯お父さんだと思っています。・・・早く親孝行ができる様教えていただいたことを忘れることなく、これからも先生の大きな背中を追い続けてまいります。」
















































2023年9月10日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

世界を舞台に活躍する日本の若手、中堅のアーティストがいます。  指揮者の山田和樹さん、ロンドンのプロムナードコンサートで大成功して、ボストン交響楽団の夏の音楽祭、タングルウッド(小澤征爾さんが若い時に活躍した音楽祭)でも成功しました。  ピアニストの藤田真央さんも国際的な音楽祭で大活躍しています。 この夏クリーヴランド管弦楽団と共演して素晴らしかったというニュースが届いています。 一方で、1950年代から日本のクラシック界をリードしてきた外山雄三さんが7月11日に92歳で亡くなりました。 ドイツ、オーストリアを得意とした指揮者の飯守泰次郎さんが8月15日に82歳で亡くなりました。


外山雄三さんは1931年5月10日生まれ、東京音楽大学(現在の東京芸術大学)で作曲を学び1956年(昭和31年)NHK交響楽団でヴェートーベンの交響曲第5番「運命」を指揮してデビューしています。 その後ウイーンに留学,NHK交響楽団の正式指揮者のほか大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団及び神奈川フィルハーモニー管弦楽団などで要職を歴任しました。 オペラの指揮、若い指揮者を発掘するコンクールの審査委員長としても活躍しました。  外山さんの遺伝子を引き継いだ人が沢山います。  作曲家でもありました。 日本の民謡を巧みにオーケストレーション、管弦楽に編曲した「管弦楽のためのラプソディー」で有名です。

*「管弦楽のためのラプソイディー」 作曲:外山雄三

オーケストラを身に付けろという事で、その教育を受けた外山さんでもあります。    外山さんは職人性を大事にするかたで、音程が少し間違っていたりすると、容赦なく指摘して、音楽の高いところを目指していました。  それは愛情の裏返しです。  名古屋フィル交響楽団の音楽総監を勤めていた1983年に、副指揮者を募集して、その時に採用されたのが広上淳一さんです。  広上さんが1991年にノールショピング交響楽団首席指揮者に就任した際、外山さんに門出のために曲を依嘱しました。  広上さんの両親が富山出身なので「こきりこ節」を主題にした新曲を書いたという事です。

*「ノールショッピング交響楽団のためのプレリュード」 作曲:外山雄三

広上さんはノールショッピング交響楽団の首席指揮者就任披露コンサートの一曲目に演奏しました。 

飯守泰次郎さんは1940年9月30日生まれ。 桐朋学園で斎藤秀雄に学び、ミトロプーロス国際指揮者コンクールに入賞。のちにカラヤン国際指揮者コンクールに入賞。             1970年にウイーン交響楽団を指揮してヨーロッパにひのき舞台に名乗りを上げました。          ドイツでの活動が長くバイロイト音楽祭の音楽助手をつとめる。  日本国内では名古屋フィルハーモニー交響楽団常任指揮者、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団常任指揮者、関西フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者、仙台フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者などを歴任。  2014年から2018年まで新国立劇場オペラ部門芸術監督として活躍、日本のワーグナー演奏史に大きな軌跡を残し、数々の賞を受けることになる。

*「タンホイザー」の序曲から 作曲:ワーグナー  指揮:飯守泰次郎

私が一番忘れられないエピソードは、リハーサルなどで「僕の指揮に合わせないでください。」という注意です。  音楽はもっと高い、深いところがあるので、それをみんなで聞き合って、意識して作ってゆく、私はあくまでそこにいる導く一人で、私が指令をだした、1,2,3のタクトには合わせないでください。」と言っています。  飯守先生の指揮は見やすいものではないんですね。 飯守さんは高いところに自分の理想とするワーグナーやブルックナーの像があって、そこに皆で苦しみながら、高みにご一緒しましょうというのが、飯守さんの音楽世界です。

*「神々の黄昏」(ニーベルングの指環』四部作の4作目)から、「ジークフリートのラインへの旅」の場面。  作曲:ワーグナー  指揮:飯守泰次郎

* 「ワルキューレの騎行」  作曲:ワーグナー  指揮:飯守泰次郎























2023年9月9日土曜日

2023年9月8日金曜日

古家貴代美(のっぽさん個人事務所代表)  ・のっぽさんからの伝言

 古家貴代美(のっぽさん個人事務所代表)  ・のっぽさんからの伝言

NHKの子供番組で「できるかな」でのっぽさんとして親しまれた高見のっぽさんが亡くなってから明後日10日で1年になります。  のっぽさんは生前、自身の死について公表するのはしばらくたってからと、希望していたという事で、その訃報が伝えられたのは今年5月になってからでした。   古屋さんは事務所の代表として、また舞台や番組の共演者として40年近くの間のっぽさんの仕事ぶりを間近で見て多くのことを学んだと言います。

訃報が伝えられたのは今年5月10日です。(誕生日の日でもある。)   前年9月10日には亡くなっていた。  のっぽさんとは40年近いお付き合いがあるんですが、なんでも話し合える間柄でした。  「人間と言うのは寿命がくれば逝くという事は、自然で当たり前のことなんだから、そうしたことでガタガタしないよ。」と言っていました。  「僕は風の様に逝くから。」と常々言っていました。  数か月呆然としていました。     亡くなるまで元気で、死因は心不全でした。  

私はぬいぐるみの劇団に入ったり、「歌のお姉さん」の番組でアルバイトをしていました。劇団の社長とのっぽさんが知り合いで、のっぽさんを或るイベントのスペシャルゲストとしてお招きして、一緒に出る機会はありました。   プロとしての一挙手一投足に凄いという連続でした。  幅の広さ、深さ、これを自分でもどう学んだらいいだろうと思いました。  幼児教育の大切さに気付き、幼稚園教諭の免許を取得し、勤務もしました。  タップダンスの教室にも行きのっぽさんに見てもらいました。   1995年より開始されたNHK「ノッポさん新シリーズ」のキミちゃん役で共演させて頂きました。  

「やるからには兎に角一生懸命やる。」という事を教わりました。  手話の番組がりまwしたが、のっぽさんも手話の教室に通って学びました。  小さい人に敬意をもって向き合う、という事も学びました。  子供とは言わずに小さい人と敬意をこめて言っていました。    のっぽさんが8,9か月ぐらいのころ、起き上がって障子のガラス窓の桟につかまって、玄関口にいる両親に向かって「ここにいるよ。」と言う思いで、「ふぎゃー」と言った二度言ったが無視されていて、そっちがその気ならこっちはこうだと思って、ガラス窓のところに顔をバーンと突っ込んだそうです。  ガラスが割れて額が切れて、血が流れたのを見て、両親が駆け寄って来る姿を見て、「ほーら いわんこっちゃない。」と思ったそうです。  大変な記憶ですね。  その後も、いろいろな体験のなかで、大人の心のうち、めんどくさがっているとか、子供だから誤魔化せると思っているとか、本質をしっかりと見抜いていた。   60,70歳になっても、それは間違いではなかったと、だから小さい人は非常に鋭くて、賢くて、本質を見抜く力があると、自分がそうだったからと言っています。  「だから小さい人と言うんだ。」と、言っていました。

私は初孫という事で1歳の時に親戚も加わって誕生会を開いてくれて、皆私のために来てくれているんだと思って、ケーキに向かって行って、今日はこのケーキを舐めても怒られないなと思って、人差し指でクリームを取って舐めたら、皆がワーッと拍手してくれたのを覚えています。  

のっぽさんは初対面の小さい人には最大限の敬意をもって、まず自分の名前を言って、「大変恐れ入りますが、貴方さまのお名前を教えていただけないでしょうか。」という風に言うんです。  そうすると誠意をもって答えようという風になるそうです。  信号も、もし自分が守らないで、それを見た小さな人が、渡ってもいいんだと思って、渡ってしまって事故で亡くなってしまってはいけないと思って、のっぽさんは生涯どんな場面でも信号を守っっていました。  覚悟をもって貫いた人でした。  

ラジオ深夜便に一昨年11月に「わたし終いの極意」のコーナーにゲストとして出演していただきました。  「私が一生懸命やろうとしたことが、おちびさんに伝わったんじゃないかと思います。 だからこのおじさんは大好きと思ってくれたのではないかと思います。」とそのコーナーで言っていました。  「大きくなって、のっぽさんに出会った時にニコニコしてくれるのは、小さかった頃の自分に会いに来ているんだよ。」と言っていました。

仕事を引き受ける場合でも、僕に何を頼みたいんだろう、何を望んんでいるんだろう、という覚悟がありました。  「ほどほどを知りなさい。」とも言われました。 ものを大切にする人でもありました。  「私終いの極意」での答えとしてはのっぽさんはこう言っていました。  「それはほどほどに、という事です。 友達付き合い、自分の欲望、自分に何か意見があったとしても他人様に出す時には、「ほどほどに」という事です。」








 















 









2023年9月7日木曜日

中村敏彦(指揮者・ピアニスト)      ・チェコとスロバキアの歌を演奏して55年

中村敏彦(指揮者・ピアニスト)      ・チェコとスロバキアの歌を演奏して55年 

東京新宿を拠点に活動するアマチュア合唱団「わだち」は、1967年指揮者の故諸井昭二さんによって設立されました。  1983年に初めてチェコへの招待演奏旅行が実現した事から、その後もチェコとスロバキアを中心に演奏活動を行ってきました。  10年前に諸井昭二さんが急逝した後、合唱団のピアニストであった中村敏彦さんが指揮者に就任、合唱指導に当たってきました。  今年4年振りの51回目の定期演奏会を実現したほか、新宿合唱祭や、東京都の合唱祭などに精力的に参加しています。  指揮者でピアニストの中村敏彦さんにチェコとスロバキアの音楽が持つ魅力、自身が歩んできた音楽の道について伺います。

今年の5月に3年8か月ぶりに演奏会を行いました。 ズームで何とか練習をしました。    指揮者記念10周年という事でした。  諸井先生が急遽亡くなって私が指揮をすることになりました。   1967年指揮者の故諸井昭二さんによって「わだち」が設立されました。 皆川達夫先生がNHKの「音楽の泉」の解説をしていました。  「知られざる名曲を訪ねて」というシリーズがあり、その演奏会に「わだち」が参加しました。  諸井先生はバルト、ハンガリーに興味を持っていました。  皆川先生から諸井先生にチェコの作曲家ヤナーチェクの演奏をしてみないかと言われました。(カンタータ「アマルス」)  チェコの大使の奥さんにチェコ語を指導していただき、良い演奏が出来ました。  チェコの大使の奥さんが諸井先生にたくさんの楽譜を紹介してくれました。  1979年チェコ政府よりヤナーチェク文化勲章を受賞しました。1983年に第一回チェコ演奏旅行に行きましたが、私も伴奏者として参加しました。   

「わだち」は毎週都内で練習をしています。  楽しく声を出そうという事でやっています。   私は3年半チェコに留学していたので、ある程度は話せますが、団員の方は発音の練習からいろいろやります。(チェコ人の方も入団)

*「ナパドリーピースミエ」? 作曲:ドヴォルザーク

1958年青森県八戸市出身。  5人兄弟の末っ子で、中学1年からピアノのレッスンで弾き始める。  青森県立八戸高校に進んで、 東京音楽大学の作曲科に入学。(中学3年の時に指を痛めて、ピアノは一旦断念する。)   その後ピアノも弾けるようになり、改めてピアノ科を受験する。  ピアノは江口愛子?先生、中村 紘子さんとかに教わりました。作曲は浦田健次郎先生とかに学びました。  その後声楽の伴奏が多かったです。 或るきっかけで諸井先生のところに伴奏で行くことになりました。   1983年に初めてチェコへの招待演奏旅行に参加しました。  1985年から1988年まで3年半チェコに留学しました。  

*「少年時代」 作詞、作曲:井上陽水

1989年ベルリンの壁崩壊。  寮内,外ではチェコ語を勉強しました。  チェコの音楽は日本の音階に似ています。   チェコ語はアクセントが常に第一音節にあります。    作曲家ヤナーチェクのメロディーの顕著な特徴は一拍目で始まります。  それはドヴォルザークにも感じます。  1993年にチェコ共和国とスロバキア共和国に独立しています。  NHK「みんなのうた」の第一号が「おお牧場はみどり」はチェコとスロバキアの両方の民謡です。  「気のいいあひる」もチェコ民謡です。










 

























2023年9月6日水曜日

藤木幸夫(港湾荷役事業会社相談役)    ・ミナトに生きる

 藤木幸夫(港湾荷役事業会社相談役)    ・ミナトに生きる

藤木さんは93歳、昭和5年生まれ。 父親の港湾荷役の仕事を引き継ぎ、港湾関係の経営者や労働者を束ね、戦争の焼け野原から立ち直った横浜の発展を支えてきました。  横浜港湾協会会長、横浜スタジアムの会長などを務め、紫綬褒章 勲三等瑞宝章を受章しています。    その影響力の大きさからハマのドンとも呼ばれてきました。  波乱に富んだ人生と港横浜への熱い想いを伺いました。

地球上に700大きなコンテナターミナルがありますが、能率の面でも連絡の面でも信頼度の面でも横浜港がトップの座を今でも占めています。  港の仕事をやっている人はみんな港湾人なんです。  8時に寝ると1時、2時に目が覚めるんですね。  それから朝まで本を読んじゃうんです。  88歳で父親は元気で会社に通っていました。  私もその域に来て説明できない身体の変化があります。  人様に迷惑を掛けるようなことはないです。  会社には毎日来ています。  

会社は港湾荷役作業をやっていて、港の中で船と丘の間で行われる貨物の積み下ろし作業で、コンテナ船からコンテナをカントリークレーンという巨大なクレーンを使って積み下ろしをする。  コンテナは長さが12m、重さが数十トンある、それを「プロフェッショナル」というテレビの番組では1時間に50本あげているが、それは神業です。  港湾学校を作ったのも横浜です。  オランダへ行ったら固縛した船があり、これは港湾の学校だと説明されて、校長先生が文部大臣だった。  その後一人で7回行きました。  港湾学校の開港の日に27名のオランダ人が開校式に来ました。  

日本の貿易の99,5%が船によるものです。  コンテナ船は最初3000~5000個ぐらいがアベレージでしたが、今は2万個の船が出来て、船も300mのものがあります。昭和30年代までは人力で積み下ろしをやっていました。  荷姿も違っていた。    事故は絶えませんでした。  象の鼻パークには慰霊碑があります。(藤木氏が建てた) 仲が良くないと仕事が出来ませんでした。   肉体労働者なので荒っぽかったです。  石原裕次郎、宍戸錠などの映画で博打をやり、刺青をして、ピストルを持っていて、麻薬をやり、といった場面がちょこっと入っている。  それが横浜の恥をさらしているという事に気が付かなかった。   北海道に募集に行った時に応募しようとしている母親が来て、「うちの息子は刺青をしていないが勤まるでしょうか。」という質問だった。  吃驚したが、映画のなかのようなことは絶対ないんだと説明しました。

藤木企業の創業者である父親、藤木幸太郎は港湾荷役の親方だった。  網走、仙台、千葉の刑務所を出て行くところがないと、藤木さんのところに行って堅気になってと、皆奨励するんです。  その人たちのために1軒作りました。  そこで私は生まれました。 浪花節の聞こえる中で育っていまだに覚えています。  両親は30,40人ぐらい面倒を見ていました。  私の小学校の入学式などや、小学校の往復も若い衆がついていました。  若い衆が「この子は親分だぞ、わかったな。」と言ったんで、私の事を「親分」というようになりました。  子供だから苗字だと思ってたんですね。  

小学校5年生の時に戦争が始まりました。(昭和16年12月8日)  神奈川県立工業学校に入ったのが昭和18年でした。  当時工作機械を持っていた工場は軍隊のために存在するものでした。  ハイスピードスチールが当時はにはなくて、まがい物を作ってやっていました。  1945年5月29日に横浜大空襲がありました。  44万個の焼夷弾が投下され、3650人以上が犠牲になる。    シェーパーという工作機械を使ってやっていて、空襲警報が鳴りました。   校庭には防空壕が作ってあり、黙々とそこに入って行きました。  飛行機の編隊で空が暗くなりました。  学校が燃えだして、消さなければとみんなが飛び出し、中には亡くなった生徒もいました。   結婚したばかりの若い先生も亡くなり、バックルなどを先生をしていた奥さんに渡したら、大声で泣きだしたのをおぼえています。 

保土ヶ谷に大島鉄工という鉄工所があって、工場に派遣されました。 玉音放送がありました。 戦後は高校に合格すると野球部入部志望者が全員なんです。  早稲田大学政治経済学部に入りました。  戦後の子供達は全部が不良でした。  中学生に弁当をたかったりするのが普通でした。  「ドングリチーム」という子供の野球チームがあり、或る時監督になって欲しいと頼まれました。  ミーティングもあり、憲法、社会党について、恋愛、本を読むようにとか、説きました。  新聞を出したり、道路をなおしたり、夜警をやったりして話題になっていました。  神奈川警察が表彰することになったそうですが、断りました。(冷蔵庫にビールが入っていて、中学生がビール飲んでいるという事が書かれるとまずいので。)

港で仕事がしたかったです。  父の会社に入りましたが、冷たく扱われました。  昭和40年代になってコンテナを扱うようになり、雨に関係なく仕事が出来るようになりました。     中国の大連港に対してアドバイスをしました。   兎に角呑気なやり方をしていました。   大連から研修生も受け入れました。  今でも受け入れています。

2019年に一般社団法人横浜港ハーバーリゾート協会」が設立される。  横浜港は物流では限度かもしれません。  ディズニーークルーズが来るようになりました。  お客さんもエクセレントなんです。   住んでいる人間が横浜に生まれて、横浜に住んでよかったなと、言われるような横浜港であって欲しい。