馬場あき子(歌人) ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」
馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ.。 日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)に在学中に短歌結社「まひる野」に入会しました。 昭和の歌人の代表の1人である窪田空穂の長男一郎とその元に集まった若い歌人たちによって創刊された「まひる野」では、短歌の創作だけではなく、後に夫となる岩田正と知り合うなど充実した日々を過ごしました。 大学卒業後は教員となり、組合活動にも従事し、多忙な日々を送る中 1955年に第一歌集「早笛」、1959年に第二歌集「地下にともる灯」を発表し、女流歌人として注目を集めました。 その後戯曲、評論など執筆の場を広げ、1977年に 29年に及んだ教員生活をにピリオドを打ち、夫の岩田正と「かりんの会」立ち上げ、新たな歩みを始めます。 2021年にはそれまでに発表した27の歌集およそ1万首を網羅した「馬場あき子全歌集」を完成、今年新しい歌集「アスパラの芽立するころ」を発表しました。 馬場さんの短歌創作の歩みや今思うことなどをお聞きします。
伝わらなくてもいいと思っていて、自分が言いたいことを言ってそれ人が享受してくれれば幸いです。 享受されなくてもいいです。 最初は自己満足そこから始まります。 大学ノートは37冊目になります。 小学校の4年生の時に日中戦争が始まりました。 女学校の夏休みの宿題に短歌を作り始めました。 テーマもだんだん広がっていきました。 だんだん人の歌を読むようになります。 古典和歌、古典俳句などを読んで感動する事は多いです。
友達が薄い歌集を二冊買ってきました。 「あららぎ」と「まひる野」でした。 「まひる野」に入会することになりました。 (昭和21年) 近代短歌で歌っていくのは私の出発でした。 私は中学校の先生になりました。 お能にも心酔して稽古を始めました。 私は中学生を中心にした彼らの生き生きした世界を歌いました。(第一歌集) 組合ができて、左翼の勉強もさせられました。 いろんなデモに加わっていくうちに一端の左翼になっていきました。 それが第二歌集。
寺山修二と塚本邦雄が出てきて、鮮やかな歌を読んでそういった言葉が欲しいと言うふうに思い出しました。 私自身短歌をまとめることができなくて10年かかってしまいました。 第三歌集「無限花序」は10年の後に出しました。 60年安保とかデモに毎回出かけるようになり、教育界からにまれるようになりました。 ある時、落ち武者ばっかりが集まるようなグループに加わることになりました。 寺山、塚本を対象にした勉強を始めるようになりました。 寺山、塚本と知り合うようになり、だんだん歌壇の中央部に入っていきました。
最新の歌集「アスパラの芽立するころ」は、コロナ禍で友達との交流が絶えてしまいました。 友達を作ろうと思って、それがかたつむりだったりカメムシだったり虫でした。 ゴキブリの歌も30首作りました。 自分だけ生きてればいいと思っている非情な人間というのを歌っています。 6人家族でしたが次々に死んでいて私1人が残りました。 ある年1人の正月を迎えます。 お正月に1人でたった1個の餅を食べるわけです。それはまさに仮想空間ではないかと言う風に思いました。
万葉集の防人の歌がありますけれども、何故か東国から九州まで防人を連れて行くわけです。 九州までの行きも帰りも費用は自分持ちです。 大和王権がいかに強かったかと言うことです。 地域の中でもお金持ちの村長、副村長クラスの人たちを徴発していきます。 帰りは現地解散ですが、お金がないから帰れないので現地の妻と結婚して土着して九州人になったりするわけです。 出発の日が行き別れの日になるわけです。
私って一体なんだろうと考えますけれども、どんなふうに生きてきて今に至ったのか考えますが、自分と言うのはなんていい加減な生きた生き方をしてきたんだろうかと思うばかりです。 自分で1人で生きなければならなかった。 親子とか人間と人間の情と言うのは大切にしてきたつもりです。 けれども、そんなものは役に立たない。 だから、1人で生きるほかない。 蝉のように死にたいといつも思っています。 セミは力がある限りは鳴いて鳴いて鳴き叫んで最後に飛べなくなってぽろっと落っこちるあれがいいと思います。 だから私は死ぬまで元気にしていたいと思います。死ぬ時が来たら蝉たいに落ちてぽろっと死ねばいいと思います。 虫は友であり先生です。