天野安喜子(鍵屋15代目花火師) ・夜空と畳に華咲かせ(初回:2017/7/25)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/07/15.htmlをご覧ください。
2020年7月31日金曜日
2020年7月30日木曜日
山本寛斎(デザイナー・プロデューサー) ・熱き心、今も(初回:2019/2/26)
山本寛斎(デザイナー・プロデューサー) ・熱き心、今も(初回:2019/2/26)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/02/blog-post_26.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/02/blog-post_26.htmlをご覧ください。
2020年7月29日水曜日
谷亀高広(植物研究家) ・【心に花を咲かせて】根も葉もない植物に魅せられて
谷亀高広(植物研究家) ・【心に花を咲かせて】根も葉もない植物に魅せられて
よく見かける植物はもちろん根っこも葉っぱもとても大事で太陽の光で光合成して生きていますが、根っこや葉っぱがなくても生きている植物があるそうでそれがとても魅了的なんだそうです。
どんな植物なんでしょうか、どうやって養分を得て生きているんでしょうか、どこででも見ることができるものなのでしょうか、そもそもなぜそんな植物が生まれたのかとても不思議です。
谷亀さんはなぜそうした植物に惹かれて研究しているのでしょうか。
植物には根も葉もなくても生きられる植物がいるんです。
①ほかの植物に寄生して生きている植物。
②植物に寄生していないで生きている植物で、腐生植物。
カビやきのこの仲間から養分を貰って生きている。
ギンリョウソウ、オニノヤガラ、シャクジョウソウなどもあります。
世界中に900種類あるといわれています。
緑色ではなくて、とんでもない色をしていたりとんでもない形をしていたりするものがあってそこが魅力的です。
衝撃を受けたのが狸の燭台という植物です。
色は真っ白でガラス細工のような半透明で、花の上の部分が壺のように蓋になっていてその上に毛のようなものが生えています。
壺のような形をしているのですが不思議な格好をしています。
10年ちょっと前ですが、落ち葉を一枚一枚めくってやっと見つけた植物です。
世界中に45,6種類あります。
オーストラリアのタスマニア、ニュージーランドとかに生えているキスミヤオージー?
という種類で英名でフェアリーランタン(妖精のランタン)?という名前がありますが、それは真っ赤です。
1cmぐらいの壺の形をしています。
地面を這うようにして落ち葉の下を探さないと見つからないです。
あらゆる色があります。
たまたま見つかると名前がついてない植物だということが判ることが多いです。
まとまった図鑑はないです。
茎のような組織は地下にあり,菌から養分を奪っています。
光合成の必要がないので緑という色が必要でなくて、瑠璃錫杖というものは瑠璃色です。
日本だと屋久島から沖縄本島まで生えていて、9,10月になると花を咲かせる植物です。
細い茎の先端に小さな花を咲かせます。
群生する時もあります。
2007年に名前はついたばかりの植物でヤクノヒナホシという屋久島で見つかった植物で色はブルー、直径は3mmの花が咲くのでなかなか見つからない。
拡大すると複雑な形をしています、小さな金平糖のような形です。
一時だけ姿を現して一週間ぐらいしかない。
1974年に中国の広東省で一回だけ採取された腐生植物があり、以来発見されていない植物があります。
形は火星人のタコのような形になっています。
色はしろっぽい感じです。
身近ではギンリョウソウは普通に見ることができ、ユウレイソウとも呼ばれます。
高さは大きなもので10cmぐらい。
樹木と共生している菌から養分を得ています。
ベニタケの仲間から養分をもらっているので、クヌギ、コナラの雑木林、アカマツ林などでギンリョウソウは見られます。
オニノヤガラも身近で見られます。
形はアスパラガスを想像して色は赤茶色、高さは1mぐらいで、うえに粒々の花が固まってつく、矢柄のように真っすぐ地面から立ち上がります。
ヒメノヤガラもあり高さは5cmぐらいです。
オニノヤガラは薬として昔から珍重されていて、今でも漢方薬として使われています。
湿っていて腐った木があるところに生えます。
タシロランは巨大なもやしのような形をしていて色は白くて、花は蘭のような形の花を咲かせます、30cmぐらいの高さです。
神社などに生えています。
2008年に私が名付けたものがあり、丹沢で見つけたでタンザワサカネランという名前を付けましたが、サカネランの一種です。
乳白色で特徴は花が咲かないんです。
同じ種類が福島県でも見つかりました。
腐生植物を研究している人は全国で数人しかいません。
育てるのは非常に難しいですが、私はタシロランを世界で初めて栽培化するのに成功しました。
専用の菌を餌にするために、まず専用の菌を育てなくてはいけない。
雑菌もあるため雑菌を取り除かないといけない。
分離した菌をおがくずで育てる必要がある。
菌を食べさせるのにも大変です。
菌がランを分解してやるろうと襲い掛かるわけですが、ランが対立して食べてしまうということがお互いの関係性です。
10種類ぐらい育てていて、開花を成功させたものもあるし、途中まで育てできなかったこともあります。
腐生植物の魅力は形の奇妙さ、色の美しさが面白いし、栽培が非常に難しいということも魅力としてあり、菌を食べているという生活自体が不思議だなあと思ってそれが魅力です。
よく見かける植物はもちろん根っこも葉っぱもとても大事で太陽の光で光合成して生きていますが、根っこや葉っぱがなくても生きている植物があるそうでそれがとても魅了的なんだそうです。
どんな植物なんでしょうか、どうやって養分を得て生きているんでしょうか、どこででも見ることができるものなのでしょうか、そもそもなぜそんな植物が生まれたのかとても不思議です。
谷亀さんはなぜそうした植物に惹かれて研究しているのでしょうか。
植物には根も葉もなくても生きられる植物がいるんです。
①ほかの植物に寄生して生きている植物。
②植物に寄生していないで生きている植物で、腐生植物。
カビやきのこの仲間から養分を貰って生きている。
ギンリョウソウ、オニノヤガラ、シャクジョウソウなどもあります。
世界中に900種類あるといわれています。
緑色ではなくて、とんでもない色をしていたりとんでもない形をしていたりするものがあってそこが魅力的です。
衝撃を受けたのが狸の燭台という植物です。
色は真っ白でガラス細工のような半透明で、花の上の部分が壺のように蓋になっていてその上に毛のようなものが生えています。
壺のような形をしているのですが不思議な格好をしています。
10年ちょっと前ですが、落ち葉を一枚一枚めくってやっと見つけた植物です。
世界中に45,6種類あります。
オーストラリアのタスマニア、ニュージーランドとかに生えているキスミヤオージー?
という種類で英名でフェアリーランタン(妖精のランタン)?という名前がありますが、それは真っ赤です。
1cmぐらいの壺の形をしています。
地面を這うようにして落ち葉の下を探さないと見つからないです。
あらゆる色があります。
たまたま見つかると名前がついてない植物だということが判ることが多いです。
まとまった図鑑はないです。
茎のような組織は地下にあり,菌から養分を奪っています。
光合成の必要がないので緑という色が必要でなくて、瑠璃錫杖というものは瑠璃色です。
日本だと屋久島から沖縄本島まで生えていて、9,10月になると花を咲かせる植物です。
細い茎の先端に小さな花を咲かせます。
群生する時もあります。
2007年に名前はついたばかりの植物でヤクノヒナホシという屋久島で見つかった植物で色はブルー、直径は3mmの花が咲くのでなかなか見つからない。
拡大すると複雑な形をしています、小さな金平糖のような形です。
一時だけ姿を現して一週間ぐらいしかない。
1974年に中国の広東省で一回だけ採取された腐生植物があり、以来発見されていない植物があります。
形は火星人のタコのような形になっています。
色はしろっぽい感じです。
身近ではギンリョウソウは普通に見ることができ、ユウレイソウとも呼ばれます。
高さは大きなもので10cmぐらい。
樹木と共生している菌から養分を得ています。
ベニタケの仲間から養分をもらっているので、クヌギ、コナラの雑木林、アカマツ林などでギンリョウソウは見られます。
オニノヤガラも身近で見られます。
形はアスパラガスを想像して色は赤茶色、高さは1mぐらいで、うえに粒々の花が固まってつく、矢柄のように真っすぐ地面から立ち上がります。
ヒメノヤガラもあり高さは5cmぐらいです。
オニノヤガラは薬として昔から珍重されていて、今でも漢方薬として使われています。
湿っていて腐った木があるところに生えます。
タシロランは巨大なもやしのような形をしていて色は白くて、花は蘭のような形の花を咲かせます、30cmぐらいの高さです。
神社などに生えています。
2008年に私が名付けたものがあり、丹沢で見つけたでタンザワサカネランという名前を付けましたが、サカネランの一種です。
乳白色で特徴は花が咲かないんです。
同じ種類が福島県でも見つかりました。
腐生植物を研究している人は全国で数人しかいません。
育てるのは非常に難しいですが、私はタシロランを世界で初めて栽培化するのに成功しました。
専用の菌を餌にするために、まず専用の菌を育てなくてはいけない。
雑菌もあるため雑菌を取り除かないといけない。
分離した菌をおがくずで育てる必要がある。
菌を食べさせるのにも大変です。
菌がランを分解してやるろうと襲い掛かるわけですが、ランが対立して食べてしまうということがお互いの関係性です。
10種類ぐらい育てていて、開花を成功させたものもあるし、途中まで育てできなかったこともあります。
腐生植物の魅力は形の奇妙さ、色の美しさが面白いし、栽培が非常に難しいということも魅力としてあり、菌を食べているという生活自体が不思議だなあと思ってそれが魅力です。
2020年7月28日火曜日
清水一道(室蘭工業大学教授) ・鉄の街で人づくり
清水一道(室蘭工業大学教授) ・鉄の街で人づくり
大分県出身59歳、生まれ年に地元で建設が始まった製鉄所の高炉を見上げながら育ちました。
北海道大学を卒業後製鉄会社に入社しますが、わずか2年で教育の道に進みます。
2004年から教壇に立つ室蘭工業大学ではものつくり基盤センター長としてジンギスカン鍋の商品化や廃船を解体し再利用するシップリサイクル、スケルトン用国産そりの開発など産学連携の様々なプロジェクトを学生とともに進めています。
鉄の町で目指しているんはどんなことなのでしょうか。
技術系の大学なので社会に出る前に、鉄の加工、溶接などを体験したりできるような実技を伴ったものを勉強して工学系の会社に入るというようにということで、ものつくりのセンターとしてのものつくり基盤センターがあります。
鋳造、鍛造、溶接、切削が全部できる装置がいろいろあります。
室蘭は鉄の町で1900年頃に福田諭吉先生の弟子の井上角五郎さんが日本製鋼所を立ち上げました。
私は鋳造をやっているので、鉄の商品と言ったら北海道といえば鉄ならばジンギスカン鍋だろうということで、お土産に試しに作り好評でした。(北海道の形をしている)
飾ってほしいと思いました。
鉄は1350度になると溶けるのでいろんな形に変えることができます。
溶けた鉄はあまり見ることがないので学生の皆さん感動します。
小さいころからぜんまいを使った動く車とかを作るのが好きでした。
大分は小さいころ大分製鉄所ができるときだったので、大きな会社で鉄を作りたいという夢が小さいころからありました。
大学で研究室を選ぶときには設計に行けずに、じゃんけんで負けて鉄の加工の処に行って会社も 日本製鉄に入って高炉の設計を2年間過ごして教育の道に進みました。
高校は大分工業高校専門学校に進み5年過ごしました。
その後北海道大学に編入しました。
教育の道に進みたいと思ったが、教えるということはできないと思って就職は民間を選びました。
その後地元母校から要請がありました。
博士号を持っていなかったので、研究をして博士号を取ろうと思いました。
実験しながら論文を書いて家庭のことがあるとほとんど時間が取れないし、野球部の顧問をしたりしていたので全然勉強する時間がなかったです。
博士号を取得するまでに12年半かかりました。
大分の学校で仕事をしながら北海道大学の大学院で学位を取ったのが40歳過ぎてからです。
博士号の審査の時には長女が小学校1年生で下の娘が生まれたばっかりでいろんな経験をしました。
あの頃は大変でしたが、今はいい思い出です。
妻とは大学時代からの知り合いで、うまくいかないときには支えてくれました。
博士号を取得してその後室蘭大学に勤務することになりました。
あきらめた瞬間が終わりで、あきらめずにやっていればもしかしたらチャンスが来るから、チャンスを逃さないようにいつも準備をすることが大事なことだと思います。
いつもうまくいくとは限らない、その時になぜうまくいかなかったのかと言うことを楽しんでもらいたい。
論文がうまく書けないとか、実験がうまくいかないとか、いろいろ苦労がありました。
最初会社に入ったころは何でもできると思って天狗になっていました。
自信をもって出した書類も駄目だといわれてしまいました。
高炉などの鉄の設計の仕事をしていましたが、どこが悪いのかわかりませんでした。
いい風が吹くときと悪い風が吹くときがあるので、落ち込まないであきらめないで次の風を待つということが大事だと思います。
シップリサイクル、いま日本は世界の3割ぐらい作っていますが、船は30年ぐらい持つがその後解体して元の鉄にリサイクルしてゆくということがありますが、日本ではバングラデシュとかインドとかでの解体が粗悪な環境でやっています。
室蘭でリサイクルできればいいということでプロジェクトをやりました。
冬のオリンピックのそり競技の中のスケルトンの日本製のそりの開発を今やっています。
日本人の体に合わせて早く滑れるように手製のものができればいいということで北海道のボブスレー連盟から依頼があり、作ってみたらいきなりある選手がジュニア選手権で5位になったことかあり、今続けてやっています。
始めて2年になります。
遠征でカナダに行ってデータを取ったりしました。
そりを滑るのにどうしたらスピードが上がるのか、圧力をかけると水になって滑るが、水をうまく吐き出さないとスピードは上がらない。
いろいろ工夫をしないといいそりにはならない。
一番問題なのは氷の温度なんです。
ワックスの選定が難しい。
開催地が強いというのはそういうメリットがあります。
日本が技術立国だといわれると嬉しいですよね。
ものつくり教室をいろんなところに出かけています。
理工系に進む学生が大分減ってきていて、小中学生のうちに体験することが大事で、わかりやすく皆さんにお伝えして、達成感を味わって貰いたいということで1500~1700人ぐらい出前授業をしています。
6,7年前札幌の高校に出前授業に行っていろんなことをやりましたが、その子が今うちの研究室に来てくれて、やっていてよかったなあと思います。
教育は10年、20年たたないと結果がわからないですね。
鉄のように強くしなやかな人作りをしたいと思います。
命という字は人に一度は叩かれると書きます、叩かれたときに生きている実感とこれでもっと頑張ってやっていきたいという風になって、初めて生きているという実感があると思うので、全部うまくいく訳ではないので一つ一つ積み重ねて大きな仕事をやってゆくという喜びを皆さんに知っていただけると嬉しいと思います。
日本鋳造学会の会長になりましたが、新しい風を吹かせたい、技術立国を取り戻したいというのが私の今の気持ちです。
大分県出身59歳、生まれ年に地元で建設が始まった製鉄所の高炉を見上げながら育ちました。
北海道大学を卒業後製鉄会社に入社しますが、わずか2年で教育の道に進みます。
2004年から教壇に立つ室蘭工業大学ではものつくり基盤センター長としてジンギスカン鍋の商品化や廃船を解体し再利用するシップリサイクル、スケルトン用国産そりの開発など産学連携の様々なプロジェクトを学生とともに進めています。
鉄の町で目指しているんはどんなことなのでしょうか。
技術系の大学なので社会に出る前に、鉄の加工、溶接などを体験したりできるような実技を伴ったものを勉強して工学系の会社に入るというようにということで、ものつくりのセンターとしてのものつくり基盤センターがあります。
鋳造、鍛造、溶接、切削が全部できる装置がいろいろあります。
室蘭は鉄の町で1900年頃に福田諭吉先生の弟子の井上角五郎さんが日本製鋼所を立ち上げました。
私は鋳造をやっているので、鉄の商品と言ったら北海道といえば鉄ならばジンギスカン鍋だろうということで、お土産に試しに作り好評でした。(北海道の形をしている)
飾ってほしいと思いました。
鉄は1350度になると溶けるのでいろんな形に変えることができます。
溶けた鉄はあまり見ることがないので学生の皆さん感動します。
小さいころからぜんまいを使った動く車とかを作るのが好きでした。
大分は小さいころ大分製鉄所ができるときだったので、大きな会社で鉄を作りたいという夢が小さいころからありました。
大学で研究室を選ぶときには設計に行けずに、じゃんけんで負けて鉄の加工の処に行って会社も 日本製鉄に入って高炉の設計を2年間過ごして教育の道に進みました。
高校は大分工業高校専門学校に進み5年過ごしました。
その後北海道大学に編入しました。
教育の道に進みたいと思ったが、教えるということはできないと思って就職は民間を選びました。
その後地元母校から要請がありました。
博士号を持っていなかったので、研究をして博士号を取ろうと思いました。
実験しながら論文を書いて家庭のことがあるとほとんど時間が取れないし、野球部の顧問をしたりしていたので全然勉強する時間がなかったです。
博士号を取得するまでに12年半かかりました。
大分の学校で仕事をしながら北海道大学の大学院で学位を取ったのが40歳過ぎてからです。
博士号の審査の時には長女が小学校1年生で下の娘が生まれたばっかりでいろんな経験をしました。
あの頃は大変でしたが、今はいい思い出です。
妻とは大学時代からの知り合いで、うまくいかないときには支えてくれました。
博士号を取得してその後室蘭大学に勤務することになりました。
あきらめた瞬間が終わりで、あきらめずにやっていればもしかしたらチャンスが来るから、チャンスを逃さないようにいつも準備をすることが大事なことだと思います。
いつもうまくいくとは限らない、その時になぜうまくいかなかったのかと言うことを楽しんでもらいたい。
論文がうまく書けないとか、実験がうまくいかないとか、いろいろ苦労がありました。
最初会社に入ったころは何でもできると思って天狗になっていました。
自信をもって出した書類も駄目だといわれてしまいました。
高炉などの鉄の設計の仕事をしていましたが、どこが悪いのかわかりませんでした。
いい風が吹くときと悪い風が吹くときがあるので、落ち込まないであきらめないで次の風を待つということが大事だと思います。
シップリサイクル、いま日本は世界の3割ぐらい作っていますが、船は30年ぐらい持つがその後解体して元の鉄にリサイクルしてゆくということがありますが、日本ではバングラデシュとかインドとかでの解体が粗悪な環境でやっています。
室蘭でリサイクルできればいいということでプロジェクトをやりました。
冬のオリンピックのそり競技の中のスケルトンの日本製のそりの開発を今やっています。
日本人の体に合わせて早く滑れるように手製のものができればいいということで北海道のボブスレー連盟から依頼があり、作ってみたらいきなりある選手がジュニア選手権で5位になったことかあり、今続けてやっています。
始めて2年になります。
遠征でカナダに行ってデータを取ったりしました。
そりを滑るのにどうしたらスピードが上がるのか、圧力をかけると水になって滑るが、水をうまく吐き出さないとスピードは上がらない。
いろいろ工夫をしないといいそりにはならない。
一番問題なのは氷の温度なんです。
ワックスの選定が難しい。
開催地が強いというのはそういうメリットがあります。
日本が技術立国だといわれると嬉しいですよね。
ものつくり教室をいろんなところに出かけています。
理工系に進む学生が大分減ってきていて、小中学生のうちに体験することが大事で、わかりやすく皆さんにお伝えして、達成感を味わって貰いたいということで1500~1700人ぐらい出前授業をしています。
6,7年前札幌の高校に出前授業に行っていろんなことをやりましたが、その子が今うちの研究室に来てくれて、やっていてよかったなあと思います。
教育は10年、20年たたないと結果がわからないですね。
鉄のように強くしなやかな人作りをしたいと思います。
命という字は人に一度は叩かれると書きます、叩かれたときに生きている実感とこれでもっと頑張ってやっていきたいという風になって、初めて生きているという実感があると思うので、全部うまくいく訳ではないので一つ一つ積み重ねて大きな仕事をやってゆくという喜びを皆さんに知っていただけると嬉しいと思います。
日本鋳造学会の会長になりましたが、新しい風を吹かせたい、技術立国を取り戻したいというのが私の今の気持ちです。
2020年7月27日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】不眠症(初回:2019/11/25)
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】不眠症(初回:2019/11/25)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/11/blog-post_25.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/11/blog-post_25.htmlをご覧ください。
2020年7月26日日曜日
高橋陽一(漫画家) ・「"キャプテン翼"の集大成を表現したい」
高橋陽一(漫画家) ・「"キャプテン翼"の集大成を表現したい」
コロナ禍の影響で普段とは違ってスタッフとはいつもと違う作業になってしまって苦労しました。
サッカーの試合も中止になってしまって、テンションを上げるのが大変でした。
キャプテン翼が40周年を迎えました。
「キャプテン翼マガジン」というキャプテン翼だけを連載する雑誌が新しくできました。
元々は「少年ジャンプ」でキャプテン翼が始まったんですが、「ヤングジャンプ」に連載が変わってきて、去年キャプテン翼のアニメーションが4回目のアニメ化をしてもらって現在の子供たちにも届けることができたので、できれば全世代の人達に届けられないかと思ってこの雑誌を作れないかと相談して、今実現したので大変うれしく思っています。
4月に創刊されて隔月で発行されています。
僕一人なので穴をあけられないという責任感がありますが、キャプテン翼という作品一つの雑誌ということができている現実がすごくうれしくて頑張らなければと思って作っています。
締め切りを守るということは連載と同じ感じです。
創刊されたなかでは架空のマドリードオリンピックのなかで翼たちは戦っていて、決勝トーナメントの初戦で宿敵ドイツと闘っているところです。
小学校低学年ぐらいまではプロ野球選手に憧れていました。
絵を描くこと自体は小さいころから好きで、雨の日とかには部屋の中で、「巨人の星」とか読んでいたので、そういったものの真似をして書いていました。
中学は野球部がなかったので卓球部で、高校は野球部でした。
子供のころは漫画とか絵を描く仕事に就きたいとは漠然と思っていました。
中学受験が終わったあとに漫画を一本つくって漫画賞に応募したこともありました。
大学受験しようと思っていましたが、家が裕福ではなかったので公立しか駄目だといわれて、不安ではあったが漫画に挑戦しようと思って、受験勉強は3年生に上がる時には辞めて漫画を描いて原稿をもって出版社に行こうと決断しました。
出版社にはそのまま本に乗るようなレベルではないですと直接に言われました。
一から漫画をやっていきましょうということになりました。
西部劇とSFの作品を持っていきましたが、話している中でスポーツ、野球とサッカーの漫画2本を持って行ったりしていました。(高校3年の夏あたり)
アルゼンチンのワールドカップがあって、NHKで何試合か放送してそれを見たときにめちゃくちゃ面白いと思いました。
いろいろ調べていくうちに、すごく興味を持ちました。
野球と比べてサッカーの自由さにおもしろさを感じました。
サッカーのほうが単純に決着が付くようなイメージがありました。
高校が終わるころに初めて書いたサッカー漫画の「友情のイレブン」という作品が「少年ジャンプ」の月例賞の漫画賞で佳作になり初めて賞金もいただいたりして、サッカーと野球の漫画を交互に出していました。
まだサッカー漫画は少ない時代なので、「キャプテン翼」を連載に向けて作業し始めました、
それまでの1年間は作っては没になり作っては没になり、ぎりぎり1年後に連載にこぎつけました。
主人公を子どもにして夢を追いかけて頑張ると設定したのがよかったのかもしれません。
最初は翼太郎で大空翼になりました。
夢を追いかける少年ということで大空翼にしました。
連載が始まった当時は絵もうまくなかったし、ほかの作品と比較しても見劣りするなあと思っていました。
4本目の原稿で一からやり直そうと思ってオーバーヘッドキックを取り入れて、いい人気が取れたので10週以上続くことになりました。
オーバーヘッドキックを取り入れていなかったら、10週の連載で終了していたと思います。
スカイラブハリケーンという二人で組んで高い位置からヘッディングシュートを決めるというのはプロレスの合体技からヒントを得ました。
三角飛び、ゴールポストを蹴ってゴールの端から端までディフェンスをするというのは、空手にそういったような技があり応用した感じです。
7年半ぐらい「キャプテン翼」を書いていたので自分の中の欲求としてはほかのスポーツ漫画も描きたいと思って、テニス、野球、ボクシングを書いていて楽しかったんですが、人気もなくて打ち切りになってしまいました。
でもそれを手がけたので、又サッカーに戻れて日本でもサッカーが強くなってきて、プロリーグも始まる時期だったので、日本のサッカーを応援したくなり、サッカーに取り組みました。
ライバルだった人たちとチームメイトになって世界を相手に戦ってゆくが打ち切りになってしまってショックでした。
キャラクターがまだ自分の中にあり、リベンジしなければいけないと思っていました。
他の雑誌でもやってやろうと思いがあり「ヤングジャンプ」で連載することができました。
「キャプテン翼」をみて プロになった人がいるということ自体が、少しは自分の漫画が役に立ったのかなあという思いです。
今はオリンピック編のことを書いていてそれ以降のことはまだ考えていません。
「キャプテン翼マガジン」で僕の作品だけでできている雑誌が刊行されているので、その雑誌が成功することが大事でこれからの展望はあまり考えていなくて、このオリンピック編をどう皆さんに喜びとか感動を与えらえるかという思いで、目の前のことをちゃんとやらなければという思いが強いです。
私が作ったキャラクターではあるんですが、キャラクターたちが読者の皆さんに訴えかけているような気がしています。
キャラクターたちに書かされている感じが今はしています。
コロナ禍の影響で普段とは違ってスタッフとはいつもと違う作業になってしまって苦労しました。
サッカーの試合も中止になってしまって、テンションを上げるのが大変でした。
キャプテン翼が40周年を迎えました。
「キャプテン翼マガジン」というキャプテン翼だけを連載する雑誌が新しくできました。
元々は「少年ジャンプ」でキャプテン翼が始まったんですが、「ヤングジャンプ」に連載が変わってきて、去年キャプテン翼のアニメーションが4回目のアニメ化をしてもらって現在の子供たちにも届けることができたので、できれば全世代の人達に届けられないかと思ってこの雑誌を作れないかと相談して、今実現したので大変うれしく思っています。
4月に創刊されて隔月で発行されています。
僕一人なので穴をあけられないという責任感がありますが、キャプテン翼という作品一つの雑誌ということができている現実がすごくうれしくて頑張らなければと思って作っています。
締め切りを守るということは連載と同じ感じです。
創刊されたなかでは架空のマドリードオリンピックのなかで翼たちは戦っていて、決勝トーナメントの初戦で宿敵ドイツと闘っているところです。
小学校低学年ぐらいまではプロ野球選手に憧れていました。
絵を描くこと自体は小さいころから好きで、雨の日とかには部屋の中で、「巨人の星」とか読んでいたので、そういったものの真似をして書いていました。
中学は野球部がなかったので卓球部で、高校は野球部でした。
子供のころは漫画とか絵を描く仕事に就きたいとは漠然と思っていました。
中学受験が終わったあとに漫画を一本つくって漫画賞に応募したこともありました。
大学受験しようと思っていましたが、家が裕福ではなかったので公立しか駄目だといわれて、不安ではあったが漫画に挑戦しようと思って、受験勉強は3年生に上がる時には辞めて漫画を描いて原稿をもって出版社に行こうと決断しました。
出版社にはそのまま本に乗るようなレベルではないですと直接に言われました。
一から漫画をやっていきましょうということになりました。
西部劇とSFの作品を持っていきましたが、話している中でスポーツ、野球とサッカーの漫画2本を持って行ったりしていました。(高校3年の夏あたり)
アルゼンチンのワールドカップがあって、NHKで何試合か放送してそれを見たときにめちゃくちゃ面白いと思いました。
いろいろ調べていくうちに、すごく興味を持ちました。
野球と比べてサッカーの自由さにおもしろさを感じました。
サッカーのほうが単純に決着が付くようなイメージがありました。
高校が終わるころに初めて書いたサッカー漫画の「友情のイレブン」という作品が「少年ジャンプ」の月例賞の漫画賞で佳作になり初めて賞金もいただいたりして、サッカーと野球の漫画を交互に出していました。
まだサッカー漫画は少ない時代なので、「キャプテン翼」を連載に向けて作業し始めました、
それまでの1年間は作っては没になり作っては没になり、ぎりぎり1年後に連載にこぎつけました。
主人公を子どもにして夢を追いかけて頑張ると設定したのがよかったのかもしれません。
最初は翼太郎で大空翼になりました。
夢を追いかける少年ということで大空翼にしました。
連載が始まった当時は絵もうまくなかったし、ほかの作品と比較しても見劣りするなあと思っていました。
4本目の原稿で一からやり直そうと思ってオーバーヘッドキックを取り入れて、いい人気が取れたので10週以上続くことになりました。
オーバーヘッドキックを取り入れていなかったら、10週の連載で終了していたと思います。
スカイラブハリケーンという二人で組んで高い位置からヘッディングシュートを決めるというのはプロレスの合体技からヒントを得ました。
三角飛び、ゴールポストを蹴ってゴールの端から端までディフェンスをするというのは、空手にそういったような技があり応用した感じです。
7年半ぐらい「キャプテン翼」を書いていたので自分の中の欲求としてはほかのスポーツ漫画も描きたいと思って、テニス、野球、ボクシングを書いていて楽しかったんですが、人気もなくて打ち切りになってしまいました。
でもそれを手がけたので、又サッカーに戻れて日本でもサッカーが強くなってきて、プロリーグも始まる時期だったので、日本のサッカーを応援したくなり、サッカーに取り組みました。
ライバルだった人たちとチームメイトになって世界を相手に戦ってゆくが打ち切りになってしまってショックでした。
キャラクターがまだ自分の中にあり、リベンジしなければいけないと思っていました。
他の雑誌でもやってやろうと思いがあり「ヤングジャンプ」で連載することができました。
「キャプテン翼」をみて プロになった人がいるということ自体が、少しは自分の漫画が役に立ったのかなあという思いです。
今はオリンピック編のことを書いていてそれ以降のことはまだ考えていません。
「キャプテン翼マガジン」で僕の作品だけでできている雑誌が刊行されているので、その雑誌が成功することが大事でこれからの展望はあまり考えていなくて、このオリンピック編をどう皆さんに喜びとか感動を与えらえるかという思いで、目の前のことをちゃんとやらなければという思いが強いです。
私が作ったキャラクターではあるんですが、キャラクターたちが読者の皆さんに訴えかけているような気がしています。
キャラクターたちに書かされている感じが今はしています。
2020年7月25日土曜日
太田和彦(居酒屋探訪家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
太田和彦(居酒屋探訪家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
太田さんは50冊は優に超えるという著作、そして全国の名酒、居酒屋を訪ねるTVの番組も長く担当していまして、現在の居酒屋ブームのけん引役のおひとりです。
本業はグラフィックデザイナーです。
大学卒業後1968年に銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社、1989年の独立後はグラフィックデザイナーとして活躍される傍ら、居酒屋や名酒について執筆活動を行ってました。。
その味わいや良さを見きわめる際に、今でも会社の新人時代に叩き込まれたある精神に立ち返るといいます。
それを支え続けてきた強靭な意志はどこから生まれ、人生手帳につづられた厳しい時代をどのように乗り越えたのでしょうか。
居酒屋は人生にとってどのような存在なのか、居酒屋さんでの楽しみ方など伺いました。
74歳になりました。
生まれは中国の北京です。
昭和21年3月3日に北京の日本人収容所で生まれました。
その18日後に引き上げ船に乗るために天津に行きました。
この子は持たないだろうといわれて、船のうえで死ぬと水葬なので父は私を包む日章旗を用意したらしい。
長崎の佐世保の南風崎に入港して、日本の土を抱かれて上陸しました。
父は教師をしていました。
教師は転勤がありいろいろなところに行きました。
自意識が芽生える頃(小学校5年から中学1年ごろ)居た、馬籠が一番思い出深いです。
新聞を作るのが好きで、村で見たこと、新聞からの引用で新聞を作って父親に見せて、それを父が読んでくれたりしました。
小学6年で新聞部に入って日刊紙を発行していました。
書くことは気になりませんでした。
絵を描くことも好きでした。
祖父までは松本で4代続いた松本箪笥の金工職人でした。
叔父も画家でした。
ものを作る血筋はあるのかもしれません。
父は外では飲みませんでしたが、家に若い先生を呼んで飲んではいました。
愉快そうにやっていていいものだと思っていました。
大学卒業後銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社しました。
そのころ銀座には居酒屋はなかったです、今でも少ないですが。
奥の奥に居酒屋をみつけ、そこで会社の仲間と飲むようになりました。
一番面白いのは、本当はこうだと仕事に真相を知ること、飲んで仕事の話に熱中することがこんなに面白いものだという様なことを知りました。
居酒屋は江戸のころからあり、そもそもの始まりは酒屋で桝で立って飲ませるところから始まり、塩から始まりそのうちに煮物をちょっとつけたりして、それが居酒屋の始まりだと聞きました。
座って飲ませるようになってきて、明治以降は本格的に料理も出すようになりました。
化粧品会社なので、美というもので訴えてゆくためには、大衆の喜ぶものを出したら足元を見られる、大衆の人たちから高めに見えるものものを見せないといけない、それがあこがれという一番いい共感になっていくんだということを叩き込まれて、志が高かったです。
僕に生き方の基本になっているかもしれない。
若い時には身につくものだと思います。
自分を律する基準を持つことは大切ではないかと思います。
バブルのころグルメブームがあったが、一回2万円のフランス料理を食べたということが自慢になっていた。
こっちはお金がないから、反発して本当においしいものは居酒屋にあるんだという、仮のテーゼをたてて、居酒屋研究会を立ち上げて始めたが、それは当たっていた。
高いものは美味しいのが当たりまえで、高いものを使わず、それを自分の手でどれだけ美味しいものが作れるか、これが料理じゃないかと思いました。
職人気質が一番の根本かと思います。
今は一人で飲みに来る客が増えてきました。
女性客も増えてきて、それも楽しいです。
リタイヤされた中高年のご夫婦で来るのも多くなりました。
居酒屋は今はとてもいいですよ。
居酒屋で根本的に変わらないものはなぜかに気付いてきました。
じっくりいる、それは心を満足させるためにいるわけです。
世間を見るのに居酒屋ほどいいものは無い。
人、土地、歴史、文化が居酒屋ほど集約しているところはない。
古く続いている居酒屋に行くと、その街の人柄、歴史、産物すべてがみられる。
一人で飲んでいるわけだから、自分を見つめているということにつきますね。
最終的に自分自身を肯定させる力を持っているのが居酒屋だと思います。
若い時に一人酒は駄目で、議論して、喧嘩して、謝って、そうう言ったことはとっても大事だと思います。
60歳を過ぎたら、自分を見つめて、いろいろあったんだけれど、これでよかったんだと導いてくれるそれが居酒屋の神髄だと思います。
自分が一番悩んで不安だったのは大学生の時ですね。
目指した美大に行けなくて、別の大学に行ったが駄目だということになり、悩んで4年を過ごして、何とか会社に行けたが、18~22,3歳までは本当に苦労しました。
東京という街が自分の勉強の場所でした。
60年代の新宿のアングラ文化は絶頂期でした、最前線のいろんな刺激を受けて自分で勉強していかないと駄目だと思いました。
一人で何でもやってきたということがとても大事です。
馴染みの店がいくつもあるので、行けるようになったら行こうというところがリストにしてあり20軒ぐらいあって、顔を出さないといけない、応援していきたいという使命感はあります。
太田さんは50冊は優に超えるという著作、そして全国の名酒、居酒屋を訪ねるTVの番組も長く担当していまして、現在の居酒屋ブームのけん引役のおひとりです。
本業はグラフィックデザイナーです。
大学卒業後1968年に銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社、1989年の独立後はグラフィックデザイナーとして活躍される傍ら、居酒屋や名酒について執筆活動を行ってました。。
その味わいや良さを見きわめる際に、今でも会社の新人時代に叩き込まれたある精神に立ち返るといいます。
それを支え続けてきた強靭な意志はどこから生まれ、人生手帳につづられた厳しい時代をどのように乗り越えたのでしょうか。
居酒屋は人生にとってどのような存在なのか、居酒屋さんでの楽しみ方など伺いました。
74歳になりました。
生まれは中国の北京です。
昭和21年3月3日に北京の日本人収容所で生まれました。
その18日後に引き上げ船に乗るために天津に行きました。
この子は持たないだろうといわれて、船のうえで死ぬと水葬なので父は私を包む日章旗を用意したらしい。
長崎の佐世保の南風崎に入港して、日本の土を抱かれて上陸しました。
父は教師をしていました。
教師は転勤がありいろいろなところに行きました。
自意識が芽生える頃(小学校5年から中学1年ごろ)居た、馬籠が一番思い出深いです。
新聞を作るのが好きで、村で見たこと、新聞からの引用で新聞を作って父親に見せて、それを父が読んでくれたりしました。
小学6年で新聞部に入って日刊紙を発行していました。
書くことは気になりませんでした。
絵を描くことも好きでした。
祖父までは松本で4代続いた松本箪笥の金工職人でした。
叔父も画家でした。
ものを作る血筋はあるのかもしれません。
父は外では飲みませんでしたが、家に若い先生を呼んで飲んではいました。
愉快そうにやっていていいものだと思っていました。
大学卒業後銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社しました。
そのころ銀座には居酒屋はなかったです、今でも少ないですが。
奥の奥に居酒屋をみつけ、そこで会社の仲間と飲むようになりました。
一番面白いのは、本当はこうだと仕事に真相を知ること、飲んで仕事の話に熱中することがこんなに面白いものだという様なことを知りました。
居酒屋は江戸のころからあり、そもそもの始まりは酒屋で桝で立って飲ませるところから始まり、塩から始まりそのうちに煮物をちょっとつけたりして、それが居酒屋の始まりだと聞きました。
座って飲ませるようになってきて、明治以降は本格的に料理も出すようになりました。
化粧品会社なので、美というもので訴えてゆくためには、大衆の喜ぶものを出したら足元を見られる、大衆の人たちから高めに見えるものものを見せないといけない、それがあこがれという一番いい共感になっていくんだということを叩き込まれて、志が高かったです。
僕に生き方の基本になっているかもしれない。
若い時には身につくものだと思います。
自分を律する基準を持つことは大切ではないかと思います。
バブルのころグルメブームがあったが、一回2万円のフランス料理を食べたということが自慢になっていた。
こっちはお金がないから、反発して本当においしいものは居酒屋にあるんだという、仮のテーゼをたてて、居酒屋研究会を立ち上げて始めたが、それは当たっていた。
高いものは美味しいのが当たりまえで、高いものを使わず、それを自分の手でどれだけ美味しいものが作れるか、これが料理じゃないかと思いました。
職人気質が一番の根本かと思います。
今は一人で飲みに来る客が増えてきました。
女性客も増えてきて、それも楽しいです。
リタイヤされた中高年のご夫婦で来るのも多くなりました。
居酒屋は今はとてもいいですよ。
居酒屋で根本的に変わらないものはなぜかに気付いてきました。
じっくりいる、それは心を満足させるためにいるわけです。
世間を見るのに居酒屋ほどいいものは無い。
人、土地、歴史、文化が居酒屋ほど集約しているところはない。
古く続いている居酒屋に行くと、その街の人柄、歴史、産物すべてがみられる。
一人で飲んでいるわけだから、自分を見つめているということにつきますね。
最終的に自分自身を肯定させる力を持っているのが居酒屋だと思います。
若い時に一人酒は駄目で、議論して、喧嘩して、謝って、そうう言ったことはとっても大事だと思います。
60歳を過ぎたら、自分を見つめて、いろいろあったんだけれど、これでよかったんだと導いてくれるそれが居酒屋の神髄だと思います。
自分が一番悩んで不安だったのは大学生の時ですね。
目指した美大に行けなくて、別の大学に行ったが駄目だということになり、悩んで4年を過ごして、何とか会社に行けたが、18~22,3歳までは本当に苦労しました。
東京という街が自分の勉強の場所でした。
60年代の新宿のアングラ文化は絶頂期でした、最前線のいろんな刺激を受けて自分で勉強していかないと駄目だと思いました。
一人で何でもやってきたということがとても大事です。
馴染みの店がいくつもあるので、行けるようになったら行こうというところがリストにしてあり20軒ぐらいあって、顔を出さないといけない、応援していきたいという使命感はあります。
登録:
投稿 (Atom)