松島トモ子(女優・歌手) ・「母逝きて、ひとりを生きる」
松島さんは1945年東京生まれ。 3歳でステージに立って以来、映画にテレビに舞台にと活躍を続け、芸能生活は75年を超えました。 私生活では長く自宅で介護してきた母、志奈枝さんを 2021年のコロナ禍に看取りました。 志奈枝さんは100歳と8ヶ月、介護生活は6年余りに及びました。 志奈枝さんをなくした後、松島さんはマンションに住まいを移し、生まれて初めての一人暮らしを始めました。 日々の暮らしのあれこれを「ライオンの餌」と題したブログをに軽やかに綴っています。
77歳で引っ越しましたが、写真の量がものすごく多くて私の写真だけではなくて、他の大スターの方々のものもあります。(力道山さん、長嶋茂雄さん、嵐寛寿郎さん、坂東妻三郎さん、美智子様(上皇后様) 等) 松島トモ子の生前葬ということで、舞台で歌ったり踊ったり写真の紹介などを含めて行いました。 3歳から舞台に立ったので、ステージが1番リラックスします。 3歳の時に日比谷公会堂のステージでした。 映画デビューは4歳でした。 嵐貫寿郎さんの「鞍馬天狗」では、杉作をやったり、大友柳太郎さんの「丹下左膳」はちょび安をやったりしました。 江利チエミさんの「サザエさん」では、私はワカメをやっていました。
スタジオには小学校のそれぞれの学年での先生が来てもらえました。 家に帰ると家庭教師が住み込みでいました。 ステージに出るのから逃げ出したかったけれども、実際に逃げたことがいつもありませんでした。 ライトとドンチョウと拍手のこの3点は味わってみないとわからない快感です。
母を尊敬していましたが、母は壊れていくんですね。 暴言を吐くし、幻視認知症で大暴れをして包丁を持って一緒に死のうと私を追いかけ回したりして、本当に壮絶なことがありました。 美しかった母とゾンビみたいな母と2人いるんだと思って介護していました。 母が自宅介護にこだわりました。 私自身がパニック障害になってしまいました。 私と母は何とか生きてこられたのは、ケアマネジャーの方のおかげです。 「仕事をもらっているならば、とにかく続けなさい。」とアドバイスされました。 「仕事を辞めてしまうと、いざ仕事をやろうとしても声がかかりませんよ。」と言われました。 舞台に立つといろいろなことがすべて忘れられます。 母が亡くなったのは2021年です。 日々の大変な介護を考えると、万歳三唱だと思ってましたが、大変な喪失感でした。
どこの部屋を見ても、母への思い出があります。 ここを出なければと思いました。 引っ越し先のマンションで、昼間ベッドから落ちて失神して、救急車が来たり、消防車が来たり大変なこともあり、すっかり有名になってしまいました。 一人暮らしのあれこれをブログに綴っています。 タイトルは「ライオンの餌」です。以前に海外にロケに行った時に、実際にライオンに襲われたり豹に噛まれたりしました。 ステージで永六輔さんから「ライオンの餌」と紹介されそれをタイトルにしました。
変形性股関節症でした。 母の介護時も右足が激痛していました。 母が亡くなってから手術ができることになりました。 満州から引き上げるときにカンガルーのポケットのように私をそこに入れて、これだったら顔が見られるので、いつ死んでいるかわかるということで、母は抱いて帰ってきました。 その時の抱き方に問題があって右足が相当ひどい状況のようだと言われました。 母が幻覚認知症で大暴れするときには、ソ連軍の戦車が向かってくると言うことでした。 何十年経っても戦争の恐ろしさは心に残るんですね。 戦争は絶対にやってはいけないと本当に思います。 父は、シベリアに抑留されて私が生まれて3か月後になくなりましたが、ずっと待ち続けていました。(判るまで4年間) 束縛が多かったので自由に恋をしてみたいと言う夢はありますが。 自由に舞台で歌って踊ってと言う日がずっと続くようにと言う思いはあります。