2024年7月2日火曜日

金守珍(演出家)             ・テント演劇を継ぐ

 金守珍(演出家)             ・テント演劇を継ぐ

金守さんは69歳、蜷川幸雄、今年5月に亡くなった唐十郎に師事し、唐の「状況劇場」解散後、1987年に「新宿梁山泊」を結成、唐作品のテントでの公演を中心に活動を続けてきました。 「新宿梁山泊」は先月15日から25日まで新宿花園神社境内の紫テントで唐十郎作「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」の公演を大盛況のうちに終えたばかりです。

唐さんは日本のシェイクスピアと言われるゆえんがありますが、僕は世界の唐十郎にこれからなれるんではないかと思います。 アングラというのは唐さんの時代に付けられた或る意味差別用語なんですね。 風俗として表れて風俗として消える、風俗であったアングラが今は文化として受け継ぎたいと思っています。 100年続けば文化だと思います。 僕は蜷川幸雄の門下生で、蜷川さんは唐十郎の世界の例を出して、ダメ出しをするんですね。 唐さんの作品を観たんですが、兎に角わからない。 唐さんのところに5年間修業に行きますと言ってんですが、30年掛かりました。 

「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」は即日完売でした。(中村勘九郎 / 豊川悦司 / 寺島しのぶ / 六平直政 / 風間杜夫 / 金守珍など) 昔、赤テントは最大1300人居れています。 「紫テント」は250人を目安にやっています。(消防法の関係もあり) 森進一さんのファンによる婚約不履行損害賠償事件、実際あった事件を元に唐さんが作ったものです。 底辺の人たちのことをこの事件を元に書かれたのではないかと思います。 唐さんのテントは僕にとっては現代歌舞伎なんです。 

父母は韓国人ですが僕は日本で生まれて、南北が統一されたら帰るという事で、電子工学を学んだんですが、差別があり大企業には入れませんでした。 キムジュヨン?さんのいろんな事件が起こり、僕も何かしなければいけないと思って、キムジュヨン?さんの芝居を一本見ました。 それがきっかけで「民芸友の会」に入りました。  朝鮮学校に行っていたので日本語の勉強は週に一回しかなくて、漢字などは不得意でした。 差別がある中でいろいろ喧嘩などもしました。 大学に行く時には苦労しました。 差別があり、朝鮮学校から直接大学には行けないので、日本の都立大山高校の定時制に編入学して、東海大学の電子工学に入学しました。 

なんとか唐さんに会って、履歴書は受け取ってくれましたが、研究生にはしてくれませんでした。 「青ずきん」のセットなどと作っていました。 或る時台風になり、大変な作業をしていたらようやく入れてあげたらという事になり入れました。 翌年大きな役をやらせてもらえました。 「状況劇場」が1988年に解散。 「赤テント」を受けて継ぐ女優が誕生して仕舞ったことで、「状況劇場」は上手くいかなくなってしまった。 僕は和合を求めたが上手くいかなかった。 僕は抗議の意味でサボタージュしました。 佐野史郎も退団しているし、野坂直正?が最後の砦であったが、野坂も退団するという事で、辞表を出しました。 光州事件がありそれを元にした、我々在日の痛みをサーカス小屋で表現しました。

1987年に「新宿梁山泊」を立ち上げました。(バブル景気の真っ最中)  小劇場も華やかな時代でした。  自分を突き詰めるために舞台をやっていたので、外の華やかさは全く関係なかったですね。  やるたびに赤字でした。 団員はアルバイトをしたり、周りからの援助などもありなんとか食いつないでいきました。  韓国の戯曲も沢山やっています。 韓国にも行ってきました。  韓国にも拠点があります。 日本のいいものを韓国に届けたいし、韓国にいいものを日本の方に届けたい。 これは僕の使命です。 それ以外の外国での公演も行いました。  テント公演だけではなく、唐作品のオファーがあって、大劇場でも演出をしています。  唐作品はテント用なので大劇場は演出は凄くしずらいですね。 唐さんの「赤テント」は赤の腰巻で子宮なんです。 天井も低くて圧迫感がります。 蜷川さんから学んだことを応用しながら、大劇場では唐さんの作品を、どう解体してしてどう組み立てるのか、新しい作品にしないといけないと思っています。 

歌舞伎とアングラの融合、それを来年はテントでお見せできると思います。 ハドソン川のところでテント公演を実現したいという思いがあります。