2025年5月30日金曜日

沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子さんは1949年北海道の出身。  地元の高校を卒業後、単身上京して国立音楽大学入学、1973年シングルレコード 『アザミの花』で歌手デビューしました。  その後舞台、映画、テレビ、ドラマ、バラエティー番組の司会など多岐にわたって活躍しています。

芸能生活昨年で50周年を迎えました。  笑顔でいろいろな人に話し掛けて50年過ごしてきました。  大学の教育課程の時の高校生に教えるのが怖いと思ってしまいました。   自分で働こうと思って、都内のホテルのジャズクラブでピアノの弾き語りのバイトを始めました。(22,3歳)   20歳という事でデビューしましたがばれちゃいました。  ピアノは小学生の頃に習い始めました。  父は国鉄の職員で母は農業をやっていました。  兄弟3人の長女です。  3人とも大学を出させてくれました。  いろいろなことをやってきて、一番合っているのはもしかしたら芸能界かもしれないと思いました。  

学校を中退することは事後報告でした。  生活は責任を持つから自立させてくださいと言いました。(24歳)   声楽でクラシックをやっていても流行歌の歌手としてはかなわないと思いました。  森光子さんのドラマに出る機会があり、「ちゃんと歌っているけれども歌は違うのよ、伝えるのは言葉よ、貴方の心よ。」とおっしゃいました。  「それは芝居の世界にも通じて、自分の心を自分の身体を通して、人に伝える事、表現する事が大事かという事を一から勉強しなさい。」と言われました。  「じゃがいも」と言うドラマでした。 

演劇の個人授業を始めました。  森さんからやっといいと言って貰えたのは30年、40年経ってからです。  1979年、『ルックルックこんにちは』の司会を担当。  司会者は目立たないようにしゃべらない方がいいという事を言われました。  オーディヨンではほとんどしゃべりませんでした。  担当していろいろ失敗をしました。  5年半番組の司会をやっていました。(生放送)    

その後女優の道を選ぶことになります。  自分が飛び込んでみて、感じることが私を作ってゆくんだろうなあと言う気がします。  しなくていい苦労もしたかもしれませんが、今考えると無駄な苦労はなかったと思います。   音楽への思いがどこかにあって50周年でCDを作ろうと思って、CDを発売することになって、話題にもなりました。  車にCDを積んで首都圏を回りました。  SNSにて自己PRをしました。   CDはあまり売れませんが、頭の活性化にもなるし、若者の人たちとのいろいろな交流がありました。  自分の生き甲斐を見つけた感じです。  






  

2025年5月29日木曜日

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

 大森さんは1948年岡山県生まれ。   1972年にNHKにディレクターとして入社、その後ドラマ一筋、連続テレビ小説はじめ大河ドラマ、土曜ドラマ、銀河小説ドラマなど数々のドラマを手掛けました。  NHK退職後大森さんは立て続けに故郷岡山を舞台に映画を製作しています。  最新作は岡山県高梁市が舞台の「晴れの国」コロナや低予算という足かせのなかで、作品を上映してくれる映画館を一館一館探しながら公開にこぎつけました。  故郷岡山にこだわりつつ映画つくりに向き合う大森青児監督の映画観について伺いました。

小学校4年でテレビがうちに来て、父が新国劇、母が新派が好きでよく一緒に観ていました。 それが後々こっちに繋がったのかなと思います。  時代劇映画全盛の時代で父と時代劇を良く一緒に観ていました。  当時は入れ替えなしなので、友達と二人だけで観に行って夜になってしまってひどく怒られた事がありました。  その後舞台も好きになりました。 同志社大学も学生運動が盛んで学校が封鎖したりしました。  大学4年で封鎖が解けて戻ったら、周りの学生は就職活動に懸命になっていました。  NHKの試験に受けられて入ることが出来ました。  その3年後に大阪の芸能部を希望しました。  そこから私もドラマ人生が始まりました。(25歳)  最初は希望通りに行きませんでしたが、5年後に初めての演出が回ってきました。  連続テレビ小説「わたしは海」の3本やる事になりました。(30歳)  

「今この番組は上手くいっていないかもしれないが、死ぬ気でこの番組を支える奴は手をあげてくれ。」と言われてとっさに手をあげました。  「3人死ぬ気でやれるやつがいたら、番組は保てる。」と言われました。  その後の私の人生に大きな言葉だった様な気がしました。朝ドラは7本やりました。  水曜日にちっちゃなヤマを作れ、土曜日に大きなヤマを作れと言われました。  なるべくそのように作って行きました。  朝ドラは芝居に安定感が必要ですね。  最初の頃の朝ドラは、或る女の人ががんばってなにかをなし遂げてゆくというパターンがずっとありました。  途中から、社会が複雑になって、今度は男を主役にしようという時代がありました。  その後独りでは時代を表せないという事で二世代に渡って今をどう生きるかと言うテーマになって行きました。  四姉妹の作品もありました。 手掛けた作品は300本ぐらいになりました

2006年に辞めることになりました。  テレビドラマはやり切った感がありました。   それで舞台と映画に向かいました。  舞台ではいろいろ勉強になりました。  笑う時にはお客さんの呼吸が一緒になって、それがうねるんです。  舞台の魅力を感じました。     セリフが一緒なのに毎回違うんです、これも面白い。   演出もあるんですが、舞台は役者のものだと思いました。  

映画は二本撮りましたが、これもおもしろいです。  映画の一番の魅了は画面が大きいのと音量です。  映画もテレビと同じ様に撮っても問題ないと言われました。  一本目も舞台は岡山県の高梁市です。  都会から戻ってきて家族のきずなを取り戻してゆくというものです。二作目も「晴れの国」は高梁市が舞台になっています。  コロナ禍であったので、高梁市は人脈もあるし、低予算で出来るものを考えました。   ダブル主役の一人がコロナにかかってしまって10日間様子を見なければいけなくなりました。  10日間でとる予定だったので撤退することになりました。  一日に百何十万円かかってしまうので、改めて翌年の5月に撮りました。  私が映画館を一個一個訪ねて行って交渉しました。 

映画を撮ることはまず楽しいからです。  やりがいもあります。  映画は残るんで、今の人だけではなく30年、50年後に観た人が感動してもらえるような映画を作りたいと思っています。  具体的には孫が観て感動する映画を目指しています。  スタッフと役者が混然一体となって、同じ方向を目指して集中する快感と、テレビと違って長く楽しめる。

家族のきずなと言うものは永遠のテーマだと思います。  他の人が幸せそうにしていると、なんか嬉しくなってくるんです。 ガンになって生死にかかわる経験をして、思うようになったと自覚しています。  3本目にとりかかろうとしています。 コロナの時にできなかったものです。   お薦めの一点はイタリア映画「ひまわり」です。  別れる時のマストロヤンニの表情、あれは芝居の原点プラス終着ではないかと思います。 表情を変えずにソフィア・ローレンをじっと見ているだけなんです。  何もしないのに心が思っているから伝わるんです。  


 






2025年5月26日月曜日

2025年5月24日土曜日

山本容子(銅版画家)           ・〔私の人生手帖〕

山本容子(銅版画家)           ・〔私の人生手帖〕

山本容子さんと言うとカラフルな色使いと軽やかな作品を思い出しますが、世界の文学作品などをモチーフにして数多くのアートを生み出す傍ら、エッセイや舞台衣装など美術以外の分野でも多彩なかと同を続けてきました。  1952年埼玉県のうまれ。  75年京都市立芸術大学4回生の時の個展以来、今年は銅版画をはじめて50年の節目の年をむかえています。  膨大な作品群には山本さんの内面のどのような思いが潜んでいるのか、パワーに源にあるのは何なのか、近年精力的に取り組んでいるホスピタルアートについても伺います。

23歳でデビューして73歳になるので、、よくも描き続けてきたというのが感慨です。   早稲田大学が図書館を作って、村上春樹ライブラリーと言う名で、 その場所で展覧会をさせてもらっています。   8か月もやらせてもらっています。   沢山の国籍の違う人のサインがノートにされています。   カポーティをテーマに27歳の時に作品を30点ぐらい描きました。(1979年)  カポーティは中編『ティファニーで朝食を』などを書いてています。  カポーティの作品展をした後7年後に村上春樹さんがカポーティに関する本を書いて、私の絵が取り入れられました。 去年また村上春樹さんとの新しい本が生まれました

銅画は線が命で、線に惚れて銅画をやっています。  細いのに強靭で、薄いのに強いという。  

昔から絵と共にやっているのは、本を読む事、音楽を聴くこと、旅に出る事です。  自分が豊かになることが栄養になっ行くはずなので、それは努力しています。  シェイクスピアのことを描くにしても、古い音楽を聴いたりするとその時代のことが頭に浮かんできて絵を描くための元になります。   国柄が表現できないといけないと思っているので、旅に出て体感します。   シェイクスピアのことを描くにしても、穴からのぞくような多様な視点を使って、154編やっと描けました。  

55歳ぐらいの時に大腸がんになって、仕掛り中の仕事があってそちらへの集中をしました。 がんのことは先生に任せて、その相乗効果で早く治ったと思います。  高校2年生で演劇部で、本を作る方が好きでした。   演劇をしたくてたまたま京都市立芸術大学へ一浪した入ることになりました。  銅画を知らなかったために、返って興味を持ちました。  

父は平成3年に亡くなりました。   集中治療室でずっと天井しか見れなくて、その天井が汚い天井でした。  父の視線、父の気持ちなどに寄り添ったりしていれば、天井をもっときれいにしたいとか、思ったはずですが。  一体だれのために発表しているのか、そこからちょっと変りました。  病院の先生に天井に絵を描かせて下さいと言っていました。  或る病院に描かせてもらいました。 その後ホスピタルアートの絵の勉強にスウェーデンに行きました。  絵は薬にならなければいけない。  子供の部屋には人気のあるキャラクターは置かない。  もし子供が亡くなったら、そのキャラクターを見るたびに、親は子供のことを思い出して悲しくなる。  

2013年に高松の病院の廊下を温かい雰囲気の廊下にしたいという事で、オレンジ色の温かい空気が流れるような、そんな感じにしました。  絵、文学、音楽から得たもの、その通底したものが一つの世界を作っていて、それを一枚の絵を通して見せられたり、重なり合った世界を見せて行けるようになればいいと思います。  祖母がずっと言い続けてきた「どっかで誰かが見ているよ。」と言う言葉が好きで、困ったりした時には思い出します。 

埼玉県立近代美術館に収蔵されている私の作品70点ぐらいを、50周年を記念して展示されます。(6/7~8/31迄)








 




 

2025年5月22日木曜日

十朱幸代(俳優)             ・今、舞台への思い 後編

十朱幸代(俳優)             ・今、舞台への思い 後編 

姿勢のことは子供のことから母親にやかましく言われました。  木登りが凄く得意な女の子でした。  奈良で育ちました。  兄と妹がいます。  父・十朱久雄は芝居が好きで東京に出てき1年後に家族も東京に行きました。  父の世界に憧れ、女優になりたいと思っていました。 (小学4年生)   1958年、NHKバス通り裏』でデビュー。(15歳)  生放送なので毎日NHKに行って撮影をしていました。 (15分ドラマ)  翌年、映画『惜春鳥』(木下恵介監督)で映画デビュー。1980年「震える舌」(デビューから22年後)、1983年「魚影の群れ」、1985年「花

いちもんめ」、 1987年「夜汽車」。  テレビ、舞台が多くて映画は少し経ってからやらせて

頂きました。 映画が盛んな時代でした。 2003年、紫綬褒章受章。(61歳) 2013年度秋の旭日小綬章受章。  歌も歌いました。 

*「セイタカアワダチ草」  作詞:吉岡 治 作曲:岸本 健介 歌:十朱幸代  1977年              

2010年ぐらいの時に足首のくるぶしのところの手術をしました。  捻挫を繰り返していました。(20年ぐらい)   大腿骨の骨を取って足首の骨とを繋ぎました。  11時間の手術でした。  一月後に反対側の足も手術して、5か月間入院しました。  筋肉が減ってしまって歩けないぐらいでした。  舞台も立てるようになりました。  医学に感謝です。   今はプールで30~40分ぐらいは歩いています。  

俳優業は面白いです。 次から次に問題があって、仕事する内容も全部違って面白いです。    自分ではない違う人生をいろいろ堪能できるところが凄く面白いです。  良い人の役ばっかりやっていると悪人がやりたくなります。  今はもういろいろやったので、自分に密着したものをやりたいです。  仕事しかない人生だったので、健康に留意して仕事ができる態勢が目標ですかね。