大森青児(映画監督) ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛
大森さんは1948年岡山県生まれ。 1972年にNHKにディレクターとして入社、その後ドラマ一筋、連続テレビ小説はじめ大河ドラマ、土曜ドラマ、銀河小説ドラマなど数々のドラマを手掛けました。 NHK退職後大森さんは立て続けに故郷岡山を舞台に映画を製作しています。 最新作は岡山県高梁市が舞台の「晴れの国」コロナや低予算という足かせのなかで、作品を上映してくれる映画館を一館一館探しながら公開にこぎつけました。 故郷岡山にこだわりつつ映画つくりに向き合う大森青児監督の映画観について伺いました。
小学校4年でテレビがうちに来て、父が新国劇、母が新派が好きでよく一緒に観ていました。 それが後々こっちに繋がったのかなと思います。 時代劇映画全盛の時代で父と時代劇を良く一緒に観ていました。 当時は入れ替えなしなので、友達と二人だけで観に行って夜になってしまってひどく怒られた事がありました。 その後舞台も好きになりました。 同志社大学も学生運動が盛んで学校が封鎖したりしました。 大学4年で封鎖が解けて戻ったら、周りの学生は就職活動に懸命になっていました。 NHKの試験に受けられて入ることが出来ました。 その3年後に大阪の芸能部を希望しました。 そこから私もドラマ人生が始まりました。(25歳) 最初は希望通りに行きませんでしたが、5年後に初めての演出が回ってきました。 連続テレビ小説「わたしは海」の3本やる事になりました。(30歳)
「今この番組は上手くいっていないかもしれないが、死ぬ気でこの番組を支える奴は手をあげてくれ。」と言われてとっさに手をあげました。 「3人死ぬ気でやれるやつがいたら、番組は保てる。」と言われました。 その後の私の人生に大きな言葉だった様な気がしました。朝ドラは7本やりました。 水曜日にちっちゃなヤマを作れ、土曜日に大きなヤマを作れと言われました。 なるべくそのように作って行きました。 朝ドラは芝居に安定感が必要ですね。 最初の頃の朝ドラは、或る女の人ががんばってなにかをなし遂げてゆくというパターンがずっとありました。 途中から、社会が複雑になって、今度は男を主役にしようという時代がありました。 その後独りでは時代を表せないという事で二世代に渡って今をどう生きるかと言うテーマになって行きました。 四姉妹の作品もありました。 手掛けた作品は300本ぐらいになりました
2006年に辞めることになりました。 テレビドラマはやり切った感がありました。 それで舞台と映画に向かいました。 舞台ではいろいろ勉強になりました。 笑う時にはお客さんの呼吸が一緒になって、それがうねるんです。 舞台の魅力を感じました。 セリフが一緒なのに毎回違うんです、これも面白い。 演出もあるんですが、舞台は役者のものだと思いました。
映画は二本撮りましたが、これもおもしろいです。 映画の一番の魅了は画面が大きいのと音量です。 映画もテレビと同じ様に撮っても問題ないと言われました。 一本目も舞台は岡山県の高梁市です。 都会から戻ってきて家族のきずなを取り戻してゆくというものです。二作目も「晴れの国」は高梁市が舞台になっています。 コロナ禍であったので、高梁市は人脈もあるし、低予算で出来るものを考えました。 ダブル主役の一人がコロナにかかってしまって10日間様子を見なければいけなくなりました。 10日間でとる予定だったので撤退することになりました。 一日に百何十万円かかってしまうので、改めて翌年の5月に撮りました。 私が映画館を一個一個訪ねて行って交渉しました。
映画を撮ることはまず楽しいからです。 やりがいもあります。 映画は残るんで、今の人だけではなく30年、50年後に観た人が感動してもらえるような映画を作りたいと思っています。 具体的には孫が観て感動する映画を目指しています。 スタッフと役者が混然一体となって、同じ方向を目指して集中する快感と、テレビと違って長く楽しめる。
家族のきずなと言うものは永遠のテーマだと思います。 他の人が幸せそうにしていると、なんか嬉しくなってくるんです。 ガンになって生死にかかわる経験をして、思うようになったと自覚しています。 3本目にとりかかろうとしています。 コロナの時にできなかったものです。 お薦めの一点はイタリア映画「ひまわり」です。 別れる時のマストロヤンニの表情、あれは芝居の原点プラス終着ではないかと思います。 表情を変えずにソフィア・ローレンをじっと見ているだけなんです。 何もしないのに心が思っているから伝わるんです。