サヘル・ローズ(タレント・俳優・コメンテーター)・〔師匠を語る〕 映画監督・岩井俊二を語る
サヘル・ローズと言う名前は「砂浜に咲く薔薇」と言う意味です。 わたしを引き取ってくれた養母が7歳の時に付けてくれた名前です。 私は戦争時に生まれた子なので、私を引き取ってくれた養母が付けてくれました。 或る知人を介して、サへルに会いたいという事で8年ぐらい前に初めてお会いしました。 岩井俊二さんは日本の映画界のなかでも孤立をしていて、自分の考えをもって孤独な存在だけれども、岩井さんにしか表現できない作品が多く作られていて、なにか光を持っている監督という印象がありました。
岩井さんは映画監督・映像作家・小説家・脚本家・漫画家・作曲家・作詞家・映画プロデューサーなど多彩なジャンルで活躍している。 1963年生まれの62歳。 仙台市出身。 大学卒業後、ミュージック・ビデオの仕事を始める。 1993年、テレビドラマ『if もしも~打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を演出し、この作品で日本映画監督協会新人賞を受賞。 1995年に初の初の長編映画『Love Letter』を監督。 日本アカデミー賞優秀作品賞、文化庁優秀映画作品賞、芸術選賞、新人賞をはじめとする多くの賞に輝きます。 その後も日本を代表する映画監督として「スワロウテイル」「リリイ・シュシュのすべて」初の長編アニメーション「花とアリス殺人事件」「ラストレター」など話題作を発表、最新作の「キリエのうた」では令和5年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。 2006年からおよそ5年間アメリカに拠点を移していましたが、東日本大震災を機に帰国、今も歌い継がれるNHK復興支援ソング「花は咲く」を作詞、岩谷時子賞特別賞も受賞しています。
私は貧しい生活から抜け出したいという事で、這いあがりたいという精神が強かった。 這い上がるという事はちゃんと学歴を持つ事、そのためには大学に行きたいと思っていました。 いろんなアルバイトをする中でエキストラの仕事がありました。 私の場合は中東の人間で、なかなか役を貰えず死体だけを6年間やり続けたこともあります。 たまに生きている役が来ます。 しかしテロリストの役で直ぐに死ぬ役でした。 国籍で仕事が限定される、この目に見えない溝って何だろうと思いました。 中東=テロリストと思われて仕舞う歯がゆさがあり、日本人の役でもできるということを証明したいと思いました。 続けていれば誰かが観ていてくれる。 そのなかに高嶋政宏さんがいて、私を推薦してくれました。 ここから人生が変わっていきました。 それを中井貴一さんが観ていてパルコ劇場「メルシーおもてなし」(2016年)のフランス人の通訳をする女性に推薦してもらえました。
あらゆる社会の中で起きている問題にフォーカスしているのが岩井俊二家督だと思っています。 何か問題提起を一緒にやりませんかと声を掛けてくれました。 イベントを定期的に開催するようになりました。 第一回目が里親さんでした。 社会的養護化をテーマに一日限定のイベントを行いました。 難民問題、言葉を通してどうしたら社会とつながるかという言葉の問題、社会的弱者に光を当てるイベントを岩井さんが全力サポートしてくれて、一緒に主催してやって来ました。 身寄りのないサヘル・ローズ、可哀そうなレッテルだけ常に貼られてしまって、私はもっともっと表現をして、サヘル・ローズではない人間になりたい、何故ならばサヘル・ローズとして生きるのが辛いんです。
もっと別の人格になりたい。役者として私も羽根を広げたい、と言ったことを常に相談していて、岩井さんの前で泣いていたりしました。 岩井さんは静かに何時間でも聴いてくれました。 岩井さん自身もいじめにあったり、家族との距離感、友達との距離感とか、今もいまも岩井さんは孤独で、やりたいことをやれていないという事を話していただきました。自分にとって挫折をして来た姿、諦めてしまった姿、弱い姿、を見せてくれたことが、自分の中で師匠として岩井さんを見るようになりました。 最も信頼できる人に変っていきました。
「花束」 児童養護施設で育った8人の若者が出演した映画。 サヘル・ローズ監督。 社会の中では偏見を持っていることが実はまだ多くて、差別の対象にもなるし、施設出身者はマイナスの方がおおきい。 自分の生い立ちがどこかで自分の人生を決めてしまうというふうに、諦めの方が大きくなってしまう。 コロナ禍で出来なくなってしまったが、岩井さんに再度連絡をして岩井さんに監督になって頂ければいいと思いましたが、、一番重要なのは何を撮りたいか、何を伝えたいか、伝えたい人間が撮るべきだと言われて、全力で支えるからやってごらんと言われました。 過去に闇を持って居たり、傷ついた人間は物つくりをすべきだ、だから僕も物つくりをしている、傷をもっている人間は強いから、映画を作ればサへルの居場所が出来るよと言われました。
実際に養護施設で育った子供たちが主人公です。 子供たちへのインタビューの中で携帯で動画を撮っておくように岩井さんから言われました。 映画が出来上がってから岩井さんと大衝突がありました。 私は賞にこだわっていました。 映画祭を通ればきっと多くの方に見てもらえると言ったら、岩井さんから「幻滅した。」と言われてしまいました。 貴方もエゴの塊なんですね、評価されたいためにやっているんですね、と言われてしまいました。 僕は賞のために物つくりはいていない。 100年後にも残るものを僕は作ろうと思う。 重要なのは何を届けるかであって、最初は僕の作品なんてみむきもされなかった。 怒られたお陰でその先に進めました。 大事なのは一作目で成功しない事。 失敗してどん底から這い上がるという事。 最初この映画はどこも見向きされませんでした。 映画製作と言うものはただ私に映画を撮らせたかったわけではなくて、映画を通して7年かけて人とつながる、私がやりたかったことを表に出すきっかけをプレゼントしてくれた。
死にたいと思っていたこともあるが、この作品に生かされている、この作品の為にもちゃんと生きて行かなければいけない、これが岩井さんが私に授けた事なんだろうなと思います。 岩井さんからコメントを頂きました。 「サヘルさんはフィルムメーカーに必要な天使の羽根を持っている。」 このコメントを見た時に号泣して仕舞いました。
岩井さんへの手紙
「私は岩井さんと出会ったのは9年前のことです。 ・・・この国で外国人として、表現者として、自分の居場所が長く見つからない、そんな私の葛藤に真っすぐ耳を傾けてくれたのは岩井さんでした。 貴方の闇は美しい。 岩井さんの眼差しに、私は初めて過去を肯定し抱き占める許可を得たような気がしました。 ・・・ただ一人のサヘルとして見つめてくれた。 その眼差しが私の尊厳をそっと守ってくれました。 厳しくしかってくれたことも私の中では永遠に残る宝物の一つ。 ・・・居場所は誰かに与えられるものではなく、自分の足で築いてゆくものだ、それを岩井さんはご自身の生き方で教えてくださいました。 私の人生から生み出される映画を生み出すことで、私に居場所をくださった。 岩井さんは常にご自身の経験と背中で私の道しるべになってくれた。 私が映画を撮る勇気を持てたのは岩井さんと言う闇がいたからです。 ・・・誰かの居場所を照らせられるように今後も歩み続けます。 出会ってくれて本当にありがとうございます。」