2024年8月30日金曜日

四世石田不識(琵琶製作職人・人間国宝)  ・ビルの谷間で琵琶づくり

四世石田不識(琵琶製作職人・人間国宝)  ・ビルの谷間で琵琶づくり 

琵琶は1000年以上の歴史を誇る西アジアで生まれた楽器です。 シルクロードを通って中国経由で7世紀ごろ日本に渡ってきたと言われています。 石田さんは昭和12年青森県八戸市の生まれ、昭和28年に宮大工の仕事を始めましたが、琵琶職人の娘さんと結婚して義理のお父さんに師事して、琵琶製作に従事します。 初めての琵琶つくりに苦労しながら、平成18年には無形文化財保存技術と認められ技術保持者に認定されました。

1878年創業、1931年に虎ノ門の場所に移転して90年経ちました。 朝9時から夕方5時まで仕事をしています。 ビルの谷間になってしまいました。 「光る君へ」でも琵琶の場面がありました。 「かっこいい」とは言うけれど「やります」と言う人は滅多にいませんね。 9月に琵琶のコンクールがありますが一般の人は知らないです。 

ここにあるのは薩摩琵琶の五弦です。 四弦は駒が無いんです。 薩摩琵琶は四弦が本当なんです。 鶴田錦史という先生が改良を加えた五弦にして、洋楽との演奏も出来るようにしました。  武満徹さんが曲を作って小澤征爾さんが指揮をして、それが評判になりました。  今は若い人が五弦をやっています。  木は桑の木です。  御蔵島から桑の木を仕入れています。 桑の木はありますが、切って出す人がいないので、ここ7,8年は入ってこないです。  蚕用の桑の木ではなくて自然の木です。 最低でも80年掛かります。 桑の木は10年分ぐらいは家の倉庫にあります。  丸太を買って乾燥させるのには7~10年はかかります。 本当は今仕入れないといけないんですが。  薩摩琵琶なので本来は鹿児島に桑の木がある筈ですがないんです。  御蔵島では切る人が一人居ますが、高齢でもう体力が無いという事です。 一本80~130万円ぐらいします。  こちらから人間を送って旅費、宿泊代などをこちらが持つとなると高額になってしまいます。 

薩摩琵琶は立てて音を出しますが、平家琵琶、楽琵琶は寝かせます。(ギターのように)  楽琵琶は裏がカリンの木で、表は栗の木です。  筑前琵琶は裏は桑の木、表は桐の木です。 音が違ってきます。 筑前琵琶は女性向の音です。 薩摩琵琶は男性的です。    

平成18年に無形文化財保存技術と認められ技術保持者に認定されました。 現在87歳です。 18歳で大工の見習いで東京に出てきました。  琵琶職人の娘さんと結婚しました。 先代の親父さんが亡くなり、琵琶の先生方が琵琶を作らないかと言ってきました。   いろいろなことを先生から教えてもらいました。  接着にはニカワでないとだめという事で、接着の方法も先生方から教わりました。 古い琵琶をばらして、中がどうなっているのか全部調べました。  やっているうちに演奏会にも顔を出すようになりました。  先生の出す音を理解して、段々その音が出るよぅに作って行きました。 音で苦労しました。 

「さわり」、楽器の音色の名前。噪音の一種。音色は楽器によって異なる。 特に薩摩琵琶は、さわり音が強く響くことで知られている。 例えば三味線では、最も低い弦の位置を工夫することで弦に独特のビビリ音が得られるだけでなく、他の弦を弾いたときに同調して共鳴する。この音を「さわり」と呼ぶ。 三味線の「さわり」は琵琶を模したと言われている。 木目によっても善し悪しがある。 木の硬さによっても音が違ってくる。 薄めにしようとか、何面作っても同じ音にはならない。 同じものは絶対できない。 息子が継いでくれると言うので、私は音で苦労したので、息子には演奏を先に習うように言いました。  息子は56歳になります。  演奏者で製作者で修理もできます。 盲僧琵琶を作ってもらいたいという人が来ました。  息子が対応しました。 孫は21歳になりました。    正倉院にある琵琶を再現したいという事で、10年掛かって作りました。 「螺鈿紫檀五弦琵琶」です。 夜光貝も4cm角で厚さが1mmで2000円します。 100枚は使います。 彫ってはめ込みますから、手間がかかります。 もう一回正倉院のものを作って奉納したいという思いがあります。








 

2024年8月29日木曜日

吉良智子(美術史家)           ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

 吉良智子(美術史家)        ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

近代日本美術が専門、美術史において女性画家が取り上げられてこなかった時代背景や社会的な理由を長年研究してきました。 吉良さんの著書「女性画家たちと戦争」では、第二次世界大戦中に戦争画の製作に携わった女性画家集団「女流美術家奉公隊」とその作品「大東亜戦皇国婦女皆働之図」を紹介しています。 この作品は女性の画家44人による共同制作で、田植えや養蚕、砲弾の生産など42の労働現場が」描かれています。 戦前女性の美術教育や美術団体への参入は、男性よりも制限され描く対象も花や生物がふさわしいとされてきました。 そんな女性画家の絵の対象を広げたのは、皮肉にも戦争でした。 美術史の中で女性画家が取り上げてこなかった理由は何か、どんな時代背景があったのか吉良智子さんに戦争の時代のアートとジェンダーの関係についてお話を伺いました。

近代日本美術史、ジェンダー史を軸にした女性画家の研究、これをテーマにした動機ですが、大学2年生の時に受けた女性論があり、女性は結婚をして子どもを産んで生きてゆくというのが女性に課された人生というわけではなく、社会や歴史からの要請によってなった、という事を始めて知りました。 真剣に考えてみたいと思いました。 大学3年生の時に参加したゼミが、アートとジェンダーをテーマにしたものでした。 ここからの出発でした。 戦後50年という時期でもあり、戦争に関する美術作品が出版され始めました。 有名な画家が戦争画を手がけていたことも知りました。 卒業論文に戦争画とジェンダーに選んで、出会ったのが「大東亜戦皇国婦女皆働之図」でした。 

靖国神社に観に行きました。 横が3mの巨大な作品でした。 沢山の女性たちが戦争を支える労働に励む姿が、パッチワークのようにちりばめられていました。  描いているうちの本音が出てしまったという作品だと思います。 悲壮感はそんなに感じられず、色合いもカラフルです。 描かれている女性たちも何となく溌剌としている。 家の中に閉じこもっていた女性たちが外に働きに出て行って、ある種の解放感も感じられる。 砲弾、落下傘を作って居たり、養蚕、田植え、日常生活などが描かれている。(ほとんどが女性)     制作に参加した桂ユキ子が下絵を担当。「当時の新聞、雑誌、グラフ類には、働く銃後の女性をテーマにした、「戦時下に働く農村女性」、「女性消防団」「女子学生旋盤工」、「女子踏切番」その他さまざまな仕事をしている女性の写真がよく載っていたので、その写真をただ切りとって、大きな紙にベタベタ貼りつけたら、たちまち絵ができちゃったという事です。

参加した画家数名の方にインタビューしましたが、テーマは頑張っているという事を示したかったと言っています。  それまで女性画家は上品な婦人像、かわいらしい子供達、花などでした。 女性画家集団「女流美術家奉公隊」が生まれた背景は、東京美術学校(芸大の前身)では女性の入学資格はなかった。 私立美術女子学校(女子美術大学の前身)が作られて、画壇にデビューしても女性は中々地位が上がらなかった。 当時は結婚して子供を産んだら、筆を折るという事が当然のようにあった。 陸軍からの依頼があり、働く女性の絵も描いて欲しいという事でした。 評判については資料等が出て来ていません。 1943年2月25日、洋画家の長谷川春子を委員長として女流画家による「女流美術家奉公隊」が結成されます。 三岸節子も加わっています。 

年齢もバラバラで所属団体もバラバラだったので、一つにまとめるという事が難しかったと思います。 パーッチワークのように描かれている。 数人の方と話を聞くことが出来ました。 「女流美術家奉公隊」は終戦を機に自然消滅しました。 戦後、長谷川春子が女流美術家協会を、三岸節子が女流画家協会、二つの大きな団体が出来ました。  時を経て女流美術家協会はなくなって行きました。 「ジェンダー」に関しては一歩でも二歩でも進んで、社会的な状況を解決するために考え続けていきたいと思います。 桂ユキ子の「大きな木」がお薦めの一点です。









2024年8月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 山田太一

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 山田太一

代表作に「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などがあります。

「仕事をはみ出さない人間は俺は嫌いだ。 靴屋にカバンを直してくれと頼みに来たら、お前なら断るか。 直してやるのが人間というものだ。 困っている人間を目の前にして、俺は靴屋だからカバンは直さんといっているのがお前たちだ。 仕事からはみ出せない人間に生き生きした仕事などできん。 はみ出せ。 範囲などはみだせ。 それが人間の仕事ってもんだ。 はみ出さない奴は俺は大嫌いだ。」  

 山田太一はテレビドラマのシナリオライター、小説家、劇作家として沢山の作品を残しています。 テレビドラマの代表作に「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「想い出づくり」「ふぞろいの林檎たち」「早春スケッチブック」など、小説の代表作に「飛ぶ夢をしばらく見ない」「異人たちとの夏」などがあります。 

私(頭木)は6年間山田太一を取材しました。 226回になります。 冒頭の言葉は「男たちの旅路」という1970年代から1980年代にかけてNHKで放送されたテレビドラマの第二部第一話の「廃車置き場」の回のなかのセリフです。 警備会社が舞台で、女性の悲鳴らしき声が聞こえたのに、警備の範囲の外だったから駆けつけなかった。 それで怒るんです。 私(頭木)は病院で物凄く痛い検査で手を握ってくれた看護師さんがいて、凄く助かりました。 その看護師さんは自分の仕事をはみ出して、当たってくれたわけです。 自分の医師の範囲以外、身体全体のことまで気にしてくれる医師もいます。

「ひとに迷惑をかけるなというルールを私は疑う事が無かった。 多くの親は子供に最低の望みとして、ひとにだけは迷惑をかけるなと言う。 飲んだくれの怠けものが、俺はろくでもないことを一杯してきたが、人様にだけは迷惑をかけなかったと自慢そうに言うのを聞いたこともある。  ひとに迷惑をかけないというのは、今の社会で一番疑われていないルールかもしれない。  しかしそれが君たちを縛っている。 一歩外へ出れば、電車に乗るのも、少ない石段上がるのも誰かの世話にならなければならない。  迷惑をかけまいとすれば、外へ出る事は出来なくなる。 だったら迷惑をかけてもいいんじゃないか。 かけなければいけないんじゃないか。 君たちは普通の人が守っているルールは自分たちも守ると言うかもしれない。 しかし、私はそうじゃないと思う。 君たちが街へ出て電車に乗ったり、階段を上がったり、映画館へ入ったり、そんなことを自由にできないルールは、おかしいんだ。 いちいち後ろめたい気持ちになったりするのは、おかしい。 私はむしろ堂々と胸を張って迷惑をかける決心をすべきだと思った。」 「男たちの旅路」の第4部第3話の「車輪の一歩」の中からの言葉。 車椅子の青年に向かって吉岡が言う言葉。 

自己責任とか人に迷惑をかけるなという事が今一層激しくなってきている。 人は基本的に一人では生きられない。 

「君たちは独立自尊をよく口にする。 しかし人ははたして自分一人でよく独立を保てるだろうか。 沼に沈まんとする人間が自分の髪を引っ張って、沈むことを止めうるであろうか。 西田さんは良き自立は良き相互依存に寄らなければならないことを教えてくれました。」  「日本の面影」(ラフカディオ・ハーンを主人公にしたドラマ)の中のセリフ。

何かあった時にひとに頼れる、だから安心なんです。 お互いに迷惑をかけるのは当たり前というのが広まってくれるといいなあと思います。 

「若い者はおとぎ話を本気にします。 国のために戦って勇ましく死ぬのも悪くないと思うでしょう。 国の為に死を決意する。 国の為に命を捨てる。 本当にそうだったんすか。 一部の思いあがった指導者の為に苦し紛れに考え出した無茶苦茶な攻撃方法の為に、どれだけの若者が死んだか、日本人が死んでいったか、いや殺されたと言ってもいい。 本人はともかく、残された家族は一体どうなるんですか。 それがそれが貴方の言っている勇ましい事ですか、勇気という事ですか、私はそうは思わない。 あんな思いは2度と繰り返しちゃいかん。 今現在、戦争なんて言うもんは絶対やっちゃいかんと大声で叫ぶのは、いや叫べるのは現実に機関銃を撃って戦って来た我々じゃないんですか。  戦争を経験したものが、歳をとってきてその思い出を美しゅう語ろうとしている。 そんなことでなく、風向きが戦争に向き始めた時、私たちは何の歯止めにはならない。」  「男たちの旅路」の「戦場は遥かになりて」という最後に放送されたスペシャル版からの言葉。(吉岡のセリフ)

戦争についてノスタルジックにヒロイックに息子に聞かせる父親がいるんですね。     「今の若い奴はわびしい。 自分の安全ばかりを考えている。 昔の俺たちはそうじゃなかった。 俺たちは国のために命を張った。 死ぬことをただ避けようとは思わなかった。 眠くなるとお互いを殴って頑張った。 自分のことなど少しも考えてなかった。 国のことだけを考えていた。」  そう話す父親に対して吉岡は「本当はそうじゃなかった。」というんですね。

吉岡を演じている鶴田浩二は学徒出陣で実際に戦地に行った経験があるんですね。 山田太一は終戦の時に小学校5年生で、戦時中戦後を体験した。 

「戦争がどういうものか、それは空襲の中を走ったり、肉親の死を見たり、生と死の堺をきり抜けたり、竹やりで戦う決心をしたり、恋人と引き裂かれるような別れ方をしたりすることであるより、なにより、食べ物や物の極端に不足した日常に耐えることであり、隣人達の醜さを見る事であり、体制に従順な圧倒的な多数の者たちの異端な人間に対する容赦のなさを知る事であり、力を持った者の居丈高、国家の有無を言わせぬ強権など、思い知る事である。」  小説「終わりに見た街」の中の一節。

監督伊丹万作(伊丹十三の父)も同じようなことを書いています。

「少なくとも戦争の期間を通じて、誰が一番直接に、連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しみ続けたか、という事を考える時、誰の記憶にもすぐ蘇ってくるのは、すぐ近所の小商んどの顔であり、隣組長や、町内会長の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配球機関などの小役人や雇員や労働者である、あるいは学校の先生であり、と言ったように我々が日常的な生活を営む上において、いやでも接触しなければいけない、あらゆる身近な人々であった。」  

山田太一は自分自身でテレビドラマ化して、2005年にリメークしている。(山田太一は基本的にリメークはしないが。)  

「男の人はほんのすこし私たちの身になってみればいいと思う。 25,6歳になっても結婚しないでまるでどこかに欠陥があるかのように言われ、ちょっと結婚に夢を描くと高望みだと言われ、男より一段低い人種みたいに思われ、男の人生に合わせればいい女で、自分が主張すると鼻持ちならないと言われ、大学で成績のいい人も就職口が少なく、あっても長くいると嫌われ出世の道は凄く狭くて、女は結婚すればいいんだからのん気だと言われ、結婚以外の道はほとんど閉ざされて、その上いい男が少ないと来ては、暴動が起きないのが不思議なくらいではないでしょうか。 少しぐらいはひとの身になって貰いたいわと私たちは思うのです。」    テレビドラマ「想いでづくり」の中の言葉。

女性側の気持ちも描いている。 今ではだいぶましにはなっているが、根本的な問題は解決されていない。 

「貴方が夢中になっているのを、どっかで喜んでないの。 心から応援していないの。 いいなあ、好きなことに夢中になっていて。 私は営業をやって、店番して、税金やって、おばあちゃんの世話をして、PTAに出て、全部そんなこと好きな事じゃないもの。」   テレビドラマ「懐かしい春が来た」  夫が成功したことで妻をねぎらうが、妻から返ってきた言葉。

「高原にいらっしゃい」というドラマで、一流のホテルマンが理不尽に職を追われて、酒におぼれて妻に暴力をふるうよぅになる。 妻は家を出る。 男は酒を断って高原のペンションを成功させようと奮起する。 部下がそのことを伝えに行く。   以下に妻の言葉。          「喜んで私が戻らなくちゃいけないの。  あの人は立ち直れば私が又一緒に暮らすと思い込んでいるのね。 あの人はこれでもかというように、私の気持ちを踏みにじったのよ。   私だって生きているのよ。 新しい人生を歩き始めているのよ。」

思い込みと実際は違うんだという事を山田太一は突きつけて来る。

「ありきたりなことを言うな。 お前たちは骨の髄までありきたりだ。 一体お前らの暮らしは何だ。 どうせ大した未来はないか。 馬鹿いっちゃあいけねえ。 そんなふうに見切りをつけちゃあいけねえ。 自分に見切りをつけるな。  人間ていうものはなあ、もっと素晴らしいものだ。 人間は給料の高を気にしたり、電車が空いていて喜んだりする存在じゃあねえ。 その気になりゃあ、いくらでも深く激しく広く優しく世界を揺り動かす力だって持ってるんだ。」   テレビドラマ「早春スケッチブック」のなかのセリフ。

視聴者に向かっていっている言葉でもある。 

「いつかは自分自身をもはや軽蔑することの出来ないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。」  ニーチェの言葉   ドラマの発想の元になった言葉。

今のままの自分でいいのだろうか、今のままの生き方でいいのだろうか、と問い直しをしてみることが必要だと思います。 

「なんていう暮らしをしているんだ、と罵声を浴びせる人物が登場するドラマが、皆無と言っていいでしょう。 観る人の神経を逆撫でするようなそんな人物を引っ張り出しても、良い事は何一つありません。 こうやって書いている私だって、そんな人物は不愉快です。」

それでも山田太一は書くべきだと思っている。

「しかし私は私自身に向ける罵声として、そういうものの必要性を感じておりました。 いくつもの家族のドラマを書いてきたライターのやるべきことの一つのような気持ちもありました。」 

視聴率は低かったが、番組を見た人の好感度では、この「早春スケッチブック」のドラマは平均で72,3%も取っている。 心を揺さぶられた。

人生にはマイナスな出来事はない方がいいと思われますが、でも山田太一はそうは思わないんです。 マイナスも又大切だと言っています。 インタビューの中で語っている言葉。

「今の社会はマイナスをなくそうなくそうとし過ぎるのではないか。 人生はプラスマイナス両面から成り立っている。 人間はマイナスによっても育まれるという事に、皆がもっと気付けば生きやすくなる。 マイナスなことが起きるといち早く忘れようとか、乗り越えようとか、思い過ぎている気がする。 暗部と向き合う事もなく適当に自分を偽って生きてしまう。 マイナスの経験をした人は有利です。 していない人は人の気持ちが判らなくなっている。 判っていない事すら気付かずに生きてしまう。」 






























2024年8月22日木曜日

菊田あや子(タレント・リポーター)     ・〔わたし終いの極意〕 終活は人生を謳歌するため

 菊田あや子(タレント・リポーター)  ・〔わたし終いの極意〕 終活は人生を謳歌するため

菊田さんは山口県出身の64歳。 1980年代から朝のワイドショーなどのリポーターとして全国各地を飛び回り、グルメや温泉、旅の情報を明るく伝えてきました。  4年前遠距離介護を経て94歳の母を看取ったことをきっかけに、自身の終活を意識するようになったと言います。 終活は人生を謳歌するために必要な事という菊田さんにお話を伺いました。

父が79歳で亡くなり母が78歳でした。 母は普通にその後暮らしていました。 84歳の頃に熱中症一歩手前のような症状になり、結局は施設に入るしかないという流れになりました。  8,9年最後まで寄り添いました。  或る時に母が玄関で向こうづねを打って、ベッドに倒れ込んでいました。 危機一髪でした。 入院を経て施設へ入ることになりました。 8,9年看取って、人間の一生を、母を看取って判ったんです。   1月7日に亡くなりましたが、12月4日には病院では無理で、この先は栄養点滴もはいらないし、東京のの仕事を止めてこのままいられるなら、明日直ぐ退院できるようにしようという事になりました。   自宅に連れて帰ることにしました。 10日間ぐらいだろうと言われました。 

母とベッドを並べて1か月以上生きてくれました。 濃厚な時間を過ごすことが出来ました。 全体力を使って命を燃やすんですね。 どんどん痩せていきました。 「うわわわわ」と言って、すっと息を引き取りました。 命を使い切った姿だと思いました。  2日前にはそれなりの覚悟はできていました。  納骨など全て終わって東京に戻ってきたら、コロナで仕事も全部止まりました。  私も完全に一人になりました。 終活の検定を身に付けたら、人の晩年について何をしなければいけないか、何が起きるかなどが判り易く書いてありました。 そのまま自分にも当てはまると思いました。  晩年にいろいろな書類を書いたり、相続のことを決めておくとか、家をどうするとか、母は全部何にもしていませんでした。  毎日が終活だと思って、毎日生きています。 

女性の平均寿命が87歳を越して、男性は81歳を越して、母は94歳まで生きました。  60歳の私は母のように逝くなと思いました。  30年独り者で、と驚愕しました。  お墓、葬儀、相続、家の片づけは 体力の有る早いうちにやっておけばいいんです。  生きている時間が人生の最後に向かってゆく活動です。  自分の命を自分らしく生きる。  トータルで終活だと思っています。 ですから毎日が終活です。 エンディングノートは付けてあります。(頭が働くうち)  母を看取って人は死ぬんだという事がわかりました。 後悔しないように生きてゆく、今は毎日を生きることに一生懸命です。 

終活をきちっとやろうと思った時に、最初にやったのは断捨離でした。 手の届くところに使いやすいものを置く。 お中元、お歳暮の断捨離は何年も前からやっています。(人の断捨離)  年賀状も60歳で辞めました。  「エンジョイ 終活」という本を出しました。  残る人生のモチベーションを上げる12の方法を上げています。           ①片づけをして身の回りのものは好きなものだけ  ②空いたスペースには花を飾る。 ③世話のかからない生き物を大事にする。  ④自分を愛する。 ⑤若い友達の情報も需要です。(AI、SNSとか)  ⑥身体の健康を保つ。 等々。

終活と推し活は並行してできます。 〔わたし終いの極意〕とは最後旅立つ時まで、後悔しない我が人生。  就活と婚活は並行してやっていますが、私は誰か気の合う人と生きていきたいなあと思っています。 お互いの力になる気がしているんです。 










2024年8月21日水曜日

上田 藍(プロトライアスリート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 笑顔のチャレンジャー

 上田 藍(プロトライアスリート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 笑顔のチャレンジャー

上田さんは北京、リオデジャネイロ、ロンドンと3大会連続でオリンピックに出場するなど、日本のトライアスロン女子の第一人者として活躍してきました。 ワールドトライアスロンのレースには231戦に出場、36レースで優勝63回表彰台に上がり、国内では日本選手権では女子最多の7回の優勝と素晴らしい実績を残すとともに、その明るい笑顔で多くのファンを引き付けてきました。 怪我のために選考基準を満たせずに断念した東京オリンピックの後は、オリンピックよりも4倍以上距離が長く、時間も9時間前後かかるという過酷なトライアスロン、アイアイマンレース(鉄人レース)のプロとして世界に挑み続けています。 上田さんにそのあくなき挑戦し、トライアスロンの魅力などを伺います。

9月に世界選手権があります。 スイムが3800m泳いで、180kmの自転車を漕いで、ランが42,195kmのフルマラソンの距離です。 アイアイマンレースにチャレンジしているところです。 フランスのニースで開かれます。  プロのカテゴリーとエイジグルプがあり、5歳刻みで年代別で出場権を獲得したトライスリートの愛好者の方もレースには出られます。 プロの女子では出場権を獲得したのは私一人です。 6月のオーストラリアの大会で7位で時間が9時間6分50秒で出場権を獲得しました。 オリンピックはスイムが1500m、自転車が40km、ランが10kmとなっています。 トータル51,5kmになります。 時間は2時間ぐらいなのでアイアイマンレースでは4倍以上の時間がかかります。 アイアイマンレースでは制限時間が17時間とか16時間の制限時間があります。 完走した人すべてが勝者と言われます。  

3歳からスイミングスクールに通いました。 鉄人レースの愛好者のおじさんたちがスイミングスクールに通っていて、マスターズ水泳がありました。  父が手書き友禅の職人でしたが、マスターズ水泳をしていました。  中学生の頃には家から自転車で25分かけてスイミングスクールに来ていて、助っ人で陸上のメンバーに入ってもいました。 おじさんたちからトライアスロンを薦められました。(中学2年生ぐらい)  両親が手描き友禅で2階が工房になっていました。 小学校でスイミング、お絵かき教室、ピアノを習いました。  絵は家で描けばいいという事でスイミング一つになりました。  絵を描くことでイメージトレーニングにもなるし、やってきたことが今につながることは興味深いです。

父からは「日々しっかりと練習をしていれば、上達して結果が出るから、やりだしたことは最後までやりなさい。」と助言され軸が出来ました。   高校を出て山根英紀さんから指導を受けるため、京都から千葉へ移りました。  オリンピックを目指すようになって北京、リオデジャネイロ、ロンドンと進んでいきました。  オリンピックを目指すという事を言葉に出す事によって、どういう努力が必要で、どういうタイムが必要なのか、段々明確になって行きました。  自分の可能性を最大限に出せた舞台ではありました。  目標を持ったのであれば発言したほうが、周りの方もそこに向けての応援と共に厳しい見方をしてくれるので、やる気が倍増してきます。 

身長は155cm、体重は45kgぐらいです。 世界で戦う選手としては小柄なほうです。 2019年2020年怪我の為に東京オリンピックには出場できませんでした。   2019年3月に開かれた世界大会で、自転車から落車してしまって、肺気胸、脾臓の裂傷、外傷性のクモ膜下出血という大きな怪我をしてしまいました。 病院に行きついた時には肺気胸で肺がしぼんでいました。 肺を膨らませるための手術をしました。 1週間以上の入院をして日本に帰ってきました。  親指ぐらいの太さのチューブを抜いて帰国しました。 穴をふさぐのに左肺の可動域が少なくなりました。  

復帰して6月のワールドカップでは優勝しました。 かばうために足に無理が来ていて、7月のドイツのハンブルグの世界大会のレースの時に足裏が痛いなあと思いながら最後の300mでスパートしたら、パンという音がして足の裏の腱膜の断裂をしてしまいました。  日本に戻って8月にある選考レースには間に合わないと診断されました。 リハビリをして、10月のワールドカップでは優勝しました。  2020年最終選考レースがアブダビで開かれる予定で、ヨシそこでと思っていたら、コロナの為大会が中止になってしまい、オリンピックも延期になってしました。  選考大会では基準を満たせずに日本代表を逃す結果になってしまいました。

パリをめざすのか、いろいろ悩みましたが、私はランが得意な後半追いかけ型で、協力し合いながら勝つ戦略もあり、パリへの流れではスイム先行型の選手が多くて、自分の可能性をチャレンジするには、自転車、ランが得意なロングディスタンスの方に舞台を変えた方が、世界で戦えるのではないかと思いました。 プロのカテゴリーの出場権を獲得できたので、チャレンジャーとしてしっかりやって行きたいです。  試練を乗り越えた時には、試練を受ける前よりは絶対強くなれるぞと、わくわくするんです。  いい時も悪い時にも前向きで過ごすという大切さも、そのたびに学ばせていただいたので、何が起こってもコツコツやっていけば乗り越えられるし、目標に近づくし、やっぱり楽しいんだなと再認識できる。 タフな競技ではありますが、健康に留意して過ごす大切さを私も皆さんも学んでいます。











2024年8月20日火曜日

高橋うらら(児童文学作家)        ・子どもたちへのメッセージを ノンフィクションに込めて

 高橋うらら(児童文学作家)  ・子どもたちへのメッセージを ノンフィクションに込めて

高橋さんは1962年東京都生まれ。(62歳)  児童向けノンフィクションを執筆し、これまでに児童文芸ノンフィクション文学賞などを受賞、自身の作品では障害者問題、動物保護、戦争、環境といったテーマを取り上げ、命の大切さを伝えてきました。 今年4月に出版された「おとうとのねじまきパン」、ずっと昔満州という国であったことが、戦時中開拓団と共に満州国へ渡った家族の実話に基づいた物語です。 この作品を通して戦争を知らない子供たちに今につながる過去を知って欲しいという高橋さんの思いを伺いました。

「おとうとのねじまきパン」の表紙に込めた思いは、かつて満州で暮らされた原和子さんという方の主人公の絵なんですが、終戦後大変な思いをされましたが、その方を判りやすく子供たちに伝えたいという事で、イラストにして描いていただきました。 本当にあったちょっと悲しい物語です。 主人公の原和子さんは昭和11年に4歳の時に東京から満州に渡りました。  父親が役所に勤めていて、結核を予防する活動をしていて、その活動を満洲にも広めようということで、満洲に渡って行きました。 満州は1932年(昭和7年)に日本が中国大陸東北部に作った国です。 軍人だけではなく開拓団と言って、中国の大地を耕すために渡って行った開拓団と、多くの民間人も一緒に渡って行きました。 終戦時には約150万人の民間人がいたと言われています。 主人公は最初満洲の新京(長春)に移り住みました。 日本人の学校も数十校あったと思います。 満洲に行けば豊かな生活が出来ると思ってみんな行きました。 主人公はその後九台という田舎町に引っ越しました。 そのに新しくできた病院の事務長にお父さんはなりました。 

その夏に終戦となります。 ソ連は日本とは中立条約を結んでいたが、8月8日にソ連がいきなり対日参戦をしてきます。  一番被害を受けたのは開拓団の人です。 ちいさい赤ちゃんは泣くと見つかるという事で首を絞めて殺されて、歩けない子供は泣く泣く中国人に預けて逃避行を続けました。  日本に帰国できなかったのが、中国残留孤児です。 中国人も日本人に差別をされて労働とかさせられていたので日本人を恨んでいる人が多かったんです。 略奪するという動きもありました。  9月12日に中国人に襲われて、家を追い出されて、ソ連軍が用意した収容所に入りました。 (中ほどまでのあらすじ)

*中国人の暴徒が襲ってくる様子、逃げる様子などを朗読。

児童文学者の青柳貞夫?さんとの出会いがありました。 青柳さんは満州を題材にした童話をいくつも書いていました。  自分が何も知らなことにショックを受けました。 青柳さんから原和子さんを紹介してもらい、話を聞きました。  周辺の方々の話も聞いたり取材を続けました。 現地にも行きました。 こんな遠いところまで150万人ぐらいの人が来ていたのか、というのが感慨深かったです。 2006年に取材を始めて、2024年に出版しましたが、その間に青い八木さん、原和子さんも亡くなりました。 本人たちには読んでは頂きチェックをしてもらいました。  引き揚げが開始されたのは、終戦の翌年からでした。 貨物列車のような列車から引き揚げ船に乗って帰って来ます。 

最初、原和子さんの話、青柳さんのいた先崎?小学校の子供たちの話、谷口正?さん(終戦時に中学校3年生)という方の話の3部作で書いていました。 3部一緒に出版してくれるところがありませんでした。  谷口正?さんについては、2014年に「ほりょになった中学生たち」という絵本で出版することが出来ました。 2016年には満州の話をフィクションで「幽霊少年シャン」を出版しました。原和子さんの話はようやく2024年に出版することが出来ました。 

戦争を知っている大人がほとんどいなくなってしまった。 戦争中に何があったのかを正しく今の子供たちに伝えていく義務があるのではないかなあと思いました。  満洲については大人であっても知らない。  正しく知ってゆくことが大事です。  小学校で日本の歴史を習うのは6年生です。 どうやったら判るのかを思いながら書きました。 大人の方も是非読んでいただければと思っています。  

児童文学もいろいろなジャンルに別れています。  しかしほとんどがフィクションの物語です。 私がテーマにしているのが、戦争と、障害者の問題、動物保護ですが、共通しているのが「命の大切さ」というテーマです。 ノンフィクションで伝えた方が伝わりやすいのではないかと思いました。 取材するにあたって、初めての人に信頼してもらうといことが大事です。 誠心誠意向き合う事で、時間をかけて信頼してもらうようにしました。 

児童文学はテーマをはっきり打ち出しやすい文学です。 小学生のころから物語を書いていました。(フィクション)  妹は障害があるので、テーマの対象になっています。   或る時に出版社の編集者さんからノンフィクションをやってみないかと言われて、聴導犬(耳の不自由な人に音を教える犬)が主人公の「聴導犬誕生物語」という本を書きました。 ノンフィクションでは全く事実は変えられません。  フィクションのほうが伝わり易いという面もあります。 取材の時間の方が短いと思います。 書く時には主人公になったつもりで楽しいです。 

9月に2冊出します。 一つは兄弟児(病気や障害の有る子供の兄弟)がテーマです。 私の妹も耳が不自由でした。 ヤングケアラーになってしまうのかとか、親が亡くなった後自分が面倒を見なくては言えないのかとかいろいろな事で悩む場合があります。 3人の方を取材して1冊にまとめて「自分らしく貴方らしく 兄弟児からのメッセージ」という本です。  もう1冊は小林幸一郎さんという目が不自由ですが、パラクライミングで世界選手権で4連覇された方の話です。 「見えない壁だって越えられる小林幸一郎」という題名です。

ラジオ深夜便 明日への言葉「クライミングの可能性を信じて」

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/07/blog-post.htmlを参照ください。








2024年8月17日土曜日

郷地秀夫(東神戸診療所 所長 医師)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 真実は被爆者の体に

 郷地秀夫(東神戸診療所 所長 医師)・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 真実は被爆者の体に

広島、長崎に原子爆弾が投下されてから79年、広島ではおよそ14万人、長崎では7万人がその年のうちに原爆によって命をおとしたと言われています。 原爆による被害はいまも続いていて、放射線の影響で起こる病気で苦しんでいる人たちがいます。 神戸市の診療所で院長を務める医師郷地秀夫さんは、50年近く兵庫県内の被爆者医療に携わって来ました。 2002年からは原爆症認定集団訴訟に関わり、患者との熱心な対話や自らの足を使った粘り強い調査で、症状が原爆症と広く認定される様活動しています。 放射線による体への影響は見えにくく時間が経っても現れてくる場合があります。 被爆者の苦しみとどう向き合ってきたのか、聞きました。

今まで2000人ちょっと診てきました。(兵庫県全体)  診始めた時には被爆者が登録されているのが兵庫県だけで6000人ぐらいいました。 そのうちの1/3ぐらいを診ていることになります。  平均85歳を越えています。 被爆者検診では結構がんが見つかることが多くて、見落としてはいけないと診ています。  慢性原子爆弾症と言われるような症状、原爆ブラブラ病と一般には言われています。  さぼり病という様な風評、悪い印象があります。 身体がだるくて動けない、めまいがする、時々吐き気もする、便秘や下痢を繰り返すなどいろんな体調不良が起こって、まともな仕事とか生活が出来ないという人が沢山出ているというのが観察されます。 外からみても異常がない、血液検査をしても異常がない。

被爆した或る人が結婚して、子供が出来て、包丁を持って待っていたそうです。 もし子供に異常があったら子供も殺して自分も死ぬと言ったそうです。 そこまで思いつめたんです。 歳をとってから言ったが、その時には言えなかったそうです。 無事子供は生まれたそぅです。  何とか頑張って仕事をしてきたという方は結構います。 ですから表には出ない。 定年退職してから何もできなくなる方がいます。 そうすると奥さんにストレスがかかる。  検診してがんだと原因が判るとやっぱりそうだったのかと喜ぶんです。 がんと診断されると家族も優しくなる。 

原爆症は国が定めたものです。  被爆者の人がなった病気が原爆放射線によるものだという事が明らかになった場合に原爆症であると厚生大臣が認めるものです。 がんでも以前は認定されにくいものがある。  認定されると医療特別手当てがでて、生活保障の手当です。 月に14万円出て、3年に一回見直しがあります。 認定されるのには医師の意見書が要ります。 私は400,500書いてきました。 しかし、なかなか通らない。 何とか応援したいと思って訴訟に参加しました。(2002年から) 堂々と主張できるような人はいなかった。 甲状腺機能低下症という病名でやったりしていました。 被爆状況が爆心地から2,5kmで胃がんという事でした。 福島で言うと20ミリシーベルト  皮膚がんではケロイドが治った後に皮膚にがんが出来た。  教科書には2,5kmでは放射線の影響はほとんどないと書いてあるんです。(米軍発表の残留放射線は問題ないsとの意見が通っていた。) 私はそれを信じていたので、ほとんどが該当外ですと言ってきました。 お断りしてきた人々ばっかりが原告だったんです。 

最初弁護団から認定への医学的意見書を書いて欲しいと言われました。 20ミリシーベルトでデータもなく無理だと思いました。 きちっと話を聞かないといけないと思いました。 そうすると原爆を受ける前と受けた後で、人生が変わってしまったことを感じました。  条件を見直してみないといけないと思いました。  教科書は直接被爆の初期放射線量で決めていました。 初期放射線は1分以内でほとんど出る。 拡散したもの、残留放射線については判らないのでなかったことにすることでした。 調査、本を探してみると、2,5kmでも脱毛している人などがいました。 3kmぐらいでも原爆症で死んでいる人がいるんです。 髪の毛が抜けるのは4シーベルトという値で、2人に1人が死ぬような量なんです。  無視している残留放射線の影響が相当あるのではないかと思いました。 

後で爆心地に入って行った人が亡くなったというような話も聞きました。 被爆者のほとんどの方がそういったことを知っていました。 そういったことを元に意見書を書きました。 終戦後アメリカは原爆で死んでしまう人は死んで、後は何の問題はないと発表しているんです。 残留放射線は問題ないということを発表しています。  裁判に関わらなければ気付いていなかったと思います。  体系化した汚染度の問題は中々判りようがない。(それぞれいろいろな条件が違う。)  国側が裁判で要求してくることは、患者さんの病気が放射線に起因するという事を証明しなさいと言いますが、それは無理です。  逆にこういったところでこれだけの体験をしてこういう症状を負って、それが放射線と関係が無いということを証明してほしいわけです。 

集団訴訟が始まって20年ぐらいになりますが、原爆症というものが知られたという事に意味があったし、全面的に原告側が勝訴したという事が報道されて、凄くよかったと思います。  平和の大切さを訴える裁判は、いいきっかけになったと思います。 認定だけの裁判ではなくて、核兵器をなくさなければいけない、平和な社会が保てるよぅな社会に引き継いでゆくために、我々の為にやっていただいている裁判だなあと思います。