岸田奈美(作家) ・「もうあかんわ」を切りぬける岸田家、母と娘の15年(2)(初回:2021/11/6)
2023年11月4日土曜日
2023年11月3日金曜日
溝口勝(東京大学大学院教授) ・ドロえもん博士の震災復興
溝口勝(東京大学大学院教授) ・ドロえもん博士の震災復興
1960年生まれの63歳、専門は 農業工学の一分野である土壌物理学です。 「ドロえもん博士」を名乗って12年前から福島県飯館村に毎週末通い、東日本大震災からの農地復興に取り組んできました。 地元の農家の知恵にスマート農業と呼ばれる最新のICT情報通信技術を加え、新たな農業の展開を目指しています。
農学というと一般的には生物系だと思われていますが、物理を使った農学というのがあります。 実際にやっているのは土の中で、水分、養分、熱の動きを調べるというのが土壌物理学の基本的な内容になっています。 乾燥地帯の畑で、どれだけ水をやって作物を育てるかと言いう事を中心に土壌物理学は発展してきましたが、日本の場合はそれプラス水田農業のための土壌物理学が発展してきています。 最近は気候変動などがありますが、地球規模の水の動きも、シベリアの凍土の水がいつどれだけ溶けて、砂漠の水がどれだけ蒸発しているかという事が凄く関係していて、土の中の水の動き、熱の動きは結構重要で、さいきんでは農業のための基礎分野というより、地球規模でのそういうところにも絡んで、土壌物理学は重要になってきています。
子どもに夢を与えるような土に話をしてくれないかと頼まれました。 実際に土に触らせながら土のことを理解するようなことをやろうという話になりました。 「ドロえもんはどうですか」と言ったら、それは面白いという事で「ドロえもん」を使う事になりました。 イギリスでは子供のうちから、土に親しませるような教材も結構あって、日本でももっと積極的にやろうじゃないかと提案をしました。 バケツ稲を利用して、実際にバケツで稲を育てさせながら、土って何なんだろうという事を考えさせるという事で、小学校の先生と協力してそういう教材を作って来ました。
栃木県大田原市の米農家の出身、3町半ぐらいの米農家の次男として生まれました。 1960年生まれですが、小学校1,2年生ぐらいから新しいものがどんどん入ってきました。 最初に耕運機が入りました。 農業機械がいっぱい入って来て農業は楽しそうだと思いました。 今は兄がJAの職員をしながら農業をやっています。 高校に入って数学、物理学が好きでしたが、結局農学部に行くことになりました。 農業工学科は 忠犬ハチ公の飼い主であった東京帝国大学農学部の上野英三郎教授が作った学問です。 上野先生が1905年耕地整理学をやって、いろんな形をしていた田んぼを牛や馬が動きやすいように整備しようとしました。 それが農業工学の始まりです。 米などの育成の条件(土、水など)、農業基盤を作るというのが農業工学の一番の役割になっています。 これからはそこに情報の基盤も一緒に導入しないと、これからの農業はやって行けないので、何とかならないのか、ここ数年農水産省にかけあっています。
大学に入って農民のための学問だと思っていたら、農業基盤を整備する人々のための学問、つまりお役人などに対する学問です。 1年で興味が薄れてしまいました。 部活でやり投げ、円盤投げなどをやっているうちに十種競技をやるようになりました。 卒論で土の熱の伝えやすさの研究で、土の深さ方向の温度分布を12月ごろに調べていたら、地表面はマイナスの温度のままだけれど、0℃のまま一定を保つという現場に出っくわしました。 実はそれは霜柱が出来る瞬間でした。 それがきっかけで大学院では土が凍る研究をしたいと思って凍土の研究を始めました。
土のカラムを作って、土が凍ってゆく過程の温度を測り、24時間後に包丁で1~2cmごとに切り出して、その重さを測って土の中の水分量が決まります。 冷凍庫の中での作業をしていました。 凍土が出来る過程で何故水が移動するのか、土壌物理学の理屈を組み合わせて、モデルを作って、それをコンピューターシミュレーションで再現するので、ドクターを頂きました。 シベリアでも同様なことが起こるのではないかと思って観測艇に加わりました。 実際のフィールドは実験室とは違うんだという事を認識しました。 1年間のツンドラの中の温度変化を捉えようと記録装置をセットして、翌年データの回収に行きました。 最初の3日間のデータ以外は止まっていました。 遠くに居ながらにして現場の様子を見える化する、という事の必要性を感じました。 これからの新しい農業にも役に立つのではないかと思いました。 2000年中ごろ以降ずっと研究をしていました。
土壌物理学研究室よりも、もっと広くという事で、国際情報農学研究室へと移って行きました。 発展途上国の農業開発がメインテーマになって行って、違った条件の土を観る機会に恵まれました。 国際農業とその地域の文化はリンクしています。 その地域にあった農業にやり方、料理の仕方、考え方があります。
東日本大震災があって、原発事故も起こって、土に放射性物質がくっつくのが研究室では判っていたので、広範囲に放射性セシウムで農地が汚染されるとなると、大規模に取り除く作業が発生すると思いました。 農業工学のOBが協力して、この問題に当たらないといけないと思いました。 3月15日に福島復興農業工学会議を発足させました。 5月に現地に行きました。 7月に飯館村の測定データ、写真などを元にフォーラムで発表しました。 放射線計を設置して連続にデータを取りながら、山の中の放射線変化を追っていました。 農家の方から土が凍るという話を聞きました。 12月に田んぼの中に温度計を入れておいて測りました。 2012年1月凍っている土を剥がしたら、剥がした後の放射線量が1/10になっていました。 重機ではがしていったら簡単に除染が出来てしまいました。 それが凍土剥ぎ取り法という除染方法なんです。
凍っていない時には泥水にして5cm分の泥を集めればいいという事が判りました。 放射性セシウムに関する栽培実験も行いました。 その結果米ぬかにはセシウムは溜まっているが、精米したコメにはあんまり溜まっていないことが判りました。 もっと削ればよくなるという事で、大吟醸酒を作る話に繋がってゆきます。 悪条件を克服して美味しいお酒をこの土地からできました、というような戦略はありなのかと思います。
先端のスマート農業を展開して、不利だったところが逆転の農業をやってみたいと思っています。 こまわりのきいた スマート農業を研究開発して、そういうスマート農業化を図ってゆくのがいいと思います。 土つくりの過程でIOTのセンサーとかスマート農業的技術を導入して、情報を上手く拾って、たい肥つくりの役に立てないかなと思っています。 やり始めています。 農村部の通信のインフラ整備があればかなり違うと思います。 新しい農業のやり方を使って日本の農業のモデルが作れたらいいなあと思っています。 12年間福島に通っていますが、どこかで身を引く必要があると思います。 引き際のタイミングを考えています。
2023年11月2日木曜日
高野秀行(ノンフィクション作家) ・誰も行けない国へ
高野秀行(ノンフィクション作家) ・誰も行けない国へ
1966年東京都生まれ、早稲田大学探検部に在学中に『幻獣ムベンベを追え』で文筆業を開始します。 アジア、アフリカなどの辺境地をテーマにしたノンフィクションや旅行記を手掛けています。 タイ国立チェンマイ大学や上智大学で講師を務めました。 2013年、『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞を受賞し、2014年この作品で第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞しました。 今年7月にイラク大湿地帯を題材にして『イラク水滸伝』を出版しました。
「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」という事をポリシーし、世界中の辺境地を訪ねてそれを題材に執筆しています。 『イラク水滸伝』を出版しました。 ぼくは人が行かないような未知の場所とか、国とかに凄く興味があります。 イラクはニュースとしてはよく出ますが、軍事、政治問題ばかりで普通の人はどういう風に暮らしているのか、どんな感じで社会が動いているのか全くわからない。 1990年代から北朝鮮と並んで行きたい国でした。 イラクの中に巨大な湿地帯があったそこに水の神が住んでいるというのを新聞で読みました。 チグリス、ユーフラテス川の周辺です。 かつては四国と同じぐらいの大きさになったこともあります。 今でも東京都をしのぐぐらいの大きさです。 そこで古代文明がスタートしたとされている。 葦で浮かして島を作ってその上に葦の家を建てて、ボートで移動する生活をしています。
昔から戦争に負けた人たち、迫害されているマイノリティーの民族や宗教の人たち、アウトローの人たちが逃げ込む場所でもあった。 ほとんどはイスラム教です。 マンダ教という古い宗教の人たちも一部います。 イスラム教にはシーア派とスンニ派の二つがあり、スンニ派の人が9割程度とほとんどです。 湿地帯にはシーア派の人たちが多く住んでいます。 湿地帯なので多くの軍隊が攻め込むことが難しい。 ときには政府や国家と戦う、これは水滸伝そっくりではないかと思いました。
小さいころから謎とか、未知が凄く好きでした。 八王子なので周りには林、山、川が沢山あり冒険探検ごっこをしていました。 中学、高校ではごく普通でした。 早稲田大学高等学院に進み、大学もそのまま、企業にもそこそこいけるので、先が見えてしまって、こんなのは絶対嫌だと思いました。 秘境に行って謎や未知を捜したいと思う気持ちがありました。 インディージョーンズが凄く好きで、テレビの探検隊の番組も良く観ていました。 大学に入った時には探検部に入りました。 主な大学には探検部はあります。 30~40人の部員がいましたが、数人単位でいろいろ活動をしていました。 国内は、山とか、激流下りとか洞窟などを主にやっていました。 海外ではサハラ砂漠をバイクで縦断、アマゾン川を下るとか、山岳部に入って行って一緒に生活するとかやっていました。
在学中に『幻獣ムベンベを追え』で文筆業を開始します。 10人ぐらいでコンゴに行って,コンゴ政府と合同調査隊を組んで捜しに行きました。 出版社から体験記を書いて欲しいと言われました。 評判が良くてこれで食って行けるのではないかと思いました。 僕が伝えたいのはテーマとか論理とかイデオロギーとかではなくて、世界観、そこの雰囲気、人の暮らしとか、丸ごと読者に伝えたい。 感じた事、体験を中心に書きたいと思っています。 一つずつ障害をクリアーして進んでゆくと、行けるわけです。 その過程が結構面白い。 ミャンマーのワ州(「黄金の三角地帯」の中核)、かつてはアヘン製造を主要産業としていた。 そこに行った時は特に面白かったですね。
僕が一番大事だと思う事は面白い本を書くという事です。 それに繋がるように生きてきています。 警戒心を解くコツというのは、まず目的をはっきりさせる、現地の人にリスペクト(尊重する、大切に思う)の気持ちを持つ事、感謝の気持ちを持つ事、好奇心を持つ事、現地の言葉を覚えるというのも、いい方向に作用しているのかなあと思います。 現地に行くと、こういう事だったのかと毎回思います。(ネットでさんざん情報が出ていても、ごく一部のことでしかない。)
2023年11月1日水曜日
北原照久(ブリキのおもちゃ博物館館長) ・好奇心は人生を楽しくする
北原照久(ブリキのおもちゃ博物館館長) ・好奇心は人生を楽しくする
1948年東京都出身、ブリキのおもちゃのコレクターとして有名で、民放テレビ番組のおもちゃ鑑定士として活躍されている姿が目に浮かぶという方もいると思います。 1986年の4月多くの人にコレクションを見て楽しんでもらいたいという思いで、神奈川県横浜市にブリキのおもちゃ博物館を開館しました。 ものを長く大切にすることにこだわり、好きなものに囲まれて暮らす北原さん、75歳になりましたが、まだまだ少年のような心を持ってチャレンジしています。
小学校、中学校は反抗期でした。 4人兄弟(姉1人、兄2人)の末っ子でした。 上の3人が勉強ができていつも比較されてそれが嫌でした。 学校には行かない、いろんな悪さをしていました。 3年の2学期で義務教育なのに退学になってしまいました。 母から「お前の人生は、今までの人生よりこれからの人生の方がずーっと長い。」と言ってくれました。 「人生はやり直しが出来ない。でも出直しはいつでもできる。」、「お前はタバコを吸わないからいいところがある。」、「おまえは花を踏まない本当は優しい子だ。」と4つのことを言ってくれました。
家がスキーの専門店なので高校に行かないで、手伝う気持ちでいましたが、父が「高校は行けよ。」というので、本郷高等学校に入りました。 1学年800人ぐらいいました。 担任の先生に対して、良い感じだと思いました。 中間テストで60点取って先生が黒板に張り出して、「北原、やればできる。」と褒めてくれました。 それから教科書を丸暗記しました。(次の期末試験までに) 先生に褒めてもらいたかった。 実力で平均で70点ぐらい取りました。 「お前は凄いな。天才か。」と褒めてもらって、また頑張りました。 その繰り返しの中で、卒業するときに総代になりました。 人生って、どんな人と出会うか、どんな言葉と出会うか、それは凄く大きなことだと思います。
大学では学園紛争が一番激しい時でした。 授業はほとんどありませんでした。 オーストリアのインスブルックにスキー留学しました。 ホームステーした家が長く使う事が自慢であり誇りなんです。 銅の鍋が応接間に飾ってありました。 その鍋で実際料理するんですが、「これはひいおばあちゃんの代からずーと使っている鍋よ。」と必ず言うんです。 料理も美味くみんなハッピーで、それが古いものへの思いのきっかけになりました。 粗大ごみの日があり、古い柱時計が捨ててありました。 それに油を注いだら動きだしました。 命を吹き込んだような気持になりました。 コレクションの第一号は拾った柱時計です。 そこからいろいろなものを集め出しました。 スキーショップのビルの地下が空いていたのコレクションをそこに入れはじめました。
インテリア雑誌を観ていたら、矢野さんというデザイナーの方が、古いブリキのおもちゃをずらーっと並べているんです。 出版社に電話して矢野さんに会わせて欲しいと連絡して会う事ができました。 デッドストックへ一緒に行きましょうと誘われました。 好奇心と行動力ですね。 そのうち雑誌、テレビで取り上げられるようになりました。 デパートでおもちゃ展をやらないかと言われてやったら、1週間で入場料を払って3万人のお客さんが来ました。 常設したいと思って、ブリキおもちゃ博物館を作りました。(1986年37歳) 1500万円を保険会社から借りて、スキーに関わるいろいろな仕事を一生懸命働いて、そのお金をつぎ込みました。 好きなスキー、海、映画に行かずに、1年間やるつもりが10年間行かずに過ごしました。
博物館をオープンして13年が経ち、50歳になり体力の衰えを感じました。 ウクレレ、エレキギターを始めて、腹筋ローラー、サーフィン、ゴルフ、手品、ピアノも始めました。 加山雄三さんに憧れていました。 52歳の時にお会い出来、ステージで一緒にエレキギターを弾いたりすることも出来ました。 想い続けて口から出して言っていると、情報を呉れる人、力を貸してくれる人が現れてきて、夢が叶うことになってゆく。
僕は宇宙に行きたいです。(地球を客観的に観たい。) 綺麗な星なのに争ってはいけません、と一回自分で観てそれを伝えたいなと思います。 集めて来たコレクションを次の世代に残していきたい。
2023年10月31日火曜日
片岡鶴太郎(俳優・画家) ・〔わが心の人〕 棟方志功
棟方志功は1903年(明治36年)青森市生まれ。 版画に新風を吹き込み、独自の表現を深め世界の棟方と言われました。 1975年(昭和50年)9月に亡くなりました。(72歳) 今年は生誕120年に当たり、今、東京国立近代美術館では大規模な企画展が開かれています。
体重は42,3kgぐらいです。 毎日ヨガをやっています。 5時間ぐらいかけています。 基本的には夜11時に起きてヨガが始まって朝5時ぐらいまでやって、そこからゆっくり朝食をとるのを12年やっています。 食事は1食です。 果物、野菜が中心です。 体重はずっと変わっていないです。 やっていて気持ちがいいです。
最近の映画では「春に散る」、ボクサーがテーマの映画です。 ボクサーの現役をリタイアして、或る青年と出会って光るものがあり、佐藤浩市さんと二人で世界チャンピオンにしようかという事で、魂をもう一度蘇らせて、世界を目指すという話です。 若きボクサーは横浜流星さんが演じました。 横浜流星さんはトレーニングに打ち込んで、最終的には現実にプロライセンスを取りました。 原作は沢木耕太郎さんです。 今回で4回ボクシングに関わる作品の役をやりました。
ドラマで棟方志功を演じたことがあります。(1989年) 渥美清さんが棟方志功を演じたことがあり、それを観て(小学4年生)強烈な印象を受けましした。 こんな仕事をやりたいと思いました。 プロデューサーの澤田隆治さんに棟方志功の役を指名してもらいました。 棟方志功のNHKのドキュメンタリーが残っていて、独特のそのキャラクターを役者としてどう演ずるか、考えました。 津軽弁の指導のかたも横についてもらって指導していただきました。 そのドラマを渥美清さんが観ていたことが後で判ったんです。 渥美さんは実際に棟方志功と会って話をして、その時の様子を話してくれました。
絵を描くようになってから、改めて棟方志功の作品を見るようになります。 38歳から絵を描き始めました。 ドラマのロケで朝5時に玄関を出た時に、振り向いたら赤い花が咲いていました。 その赤い花に魅せられてしまいました。 観ていようが誰も観ていまいが、自分もこのように凛と咲いていたいなと思いました。 後でそれが椿の花だという事を知りました。 この感動を伝えるのは絵だなと思いました。 直ぐに墨と硯を買って密かに始めました。 花は立体的で難しいので、魚から描き始めました。 独学で毎日毎日やって行きました。 個展をやるようになっていきました。(39歳) 個展をやるために1年間で125点描きました。 それから60歳まで毎年やりました。 肉眼で見る色と違って感じる色が出てきました。 「感じた色をもっと表現していってください。」と言われました。 そこから自分の色が出てきました。
自分で絵を描く様になってから、棟方志功の作品を観ると凄いなと思いました。 まずオリジナリティー、青森の民族的なもの、大和絵、が根底にあって、そこから独特な棟方志功の色合いがあり、海外だったら相当なインパクトがあったと思います。 アニミズム(霊てきなもの)とプリミティブ(原始的なさま)、縄文の時代の感じでしょうか。 むき出しの人間性(喜怒哀楽)の方という感じです。 野人的な面と同時にもの凄い繊細な心の中の網を持っている人だと思います。
生誕120年という事で、富山から始まり今東京で開催。 僕の絵は身近なものがモチーフになって居るのでわかりやすい絵だと思います。 絵と一体になっている言葉、棟方志功も作品の中に詩を詠んでいたりします。 私も少なからず棟方志功の影響を受けてきたと思います。 今多く描いているのが、金魚、小鳥が多いです。 自分なりにアレンジして描いています。 「老いては「好き」にしたがえ」という本を出版しました。 好きなことをやることが一番大事じゃないかと思います。 リタイアしてから趣味を見つける事はなかなか難しいと思います。 若いうちから好きなものを持っておいて、忙しいとか言い訳を付けずにやってみる。 来年は70歳になります。 90歳になった時にどんな絵、書を書いているのか楽しみです。 90歳になった時にもしゃれた格好をしていたいです。
2023年10月30日月曜日
小柳 淳(作家・書店主) ・旅する作家の本屋さん
小柳 淳(作家・書店主) ・旅する作家の本屋さん
東京吉祥寺に今年6月に一風変わったちいさな書店がオープンしました。 店主は元鉄道会社勤務ので旅行作家の小柳 淳さん(65歳)、海外へは31か国113回旅をしたという大の旅行好きの小柳さん、お気に入りだった旅の本をそろえた小さな書店が閉店してしまたったのにショックを受け、退職を機に自ら旅の本を取りそろえた書店を開店してしまいました。 読書週間に町の小さな旅する本屋さんの魅力と小柳さん流、旅の流儀を伺いました。
5か月ぐらい経ってやっとなれてきました。 旅行そのものは子供のころから好きでした。 中学2年生の時に上野から夜行列車に乗って福島県の会津に行きました。(蒸気機関車ブーム) 形は変わっても旅行は好きでした。 大学を卒業して就職したのが鉄道会社でした。 観光の宣伝、営業部にいたり、インバウンドをやろうというのを今から20数年前に考えついて、国土交通大臣よりYŌKOSO! JAPAN 大使に任命されました。 去年退職をしました。 10何年前に青山に旅の本屋がありましたが、閉店になってしまいがっかりしました。
それでは自分でやればいいじゃないかとふっと思いつきました。 3年前に「棚貸し本屋さん」に出会って、そこに一箱スペースを出しました。 そこで本屋さんの仕入れからいろいろ勉強もしました。 会社を辞めて今年の2月ごろ突然吉祥寺でいい物件に出会い、決まってしまいました。 お客さんが「ここ面白いね」おっしゃってくれます。 開店時間が12時34分(1234と数字が並ぶ)になっています。 閉店が18時になっています。 月、火は休みです。 広さは15坪ぐらいです。 関西国際空港旅客ターミナルビル、小田急ロマンスカーの車体などを設計した岡部憲明さんに店舗のデザインをお願いしました。 光の当て方とかきめ細かく設計していただきました。
奥は4坪ぐらいのギャラリーがあります。(写真、絵など展示会とか) 1400冊前後あります。 地理、地図、風景、自然、歴史、宗教、食べ物、海、山、交通、言語などがあります。 売れ行き2位が高校で使っている地図帳。 本の並べかたも工夫して地域別、テーマ別とかしています。 長岡の大空襲の鎮魂の花火「白菊」、花火師の話の本もいいです。 ポルトガルの本もいいです。 旅の小物もあります。(4色ボールペン、スケッチブックとか) 海外へは31か国113回旅をしていますが、香港には79回行っているので香港コーナーがあります。 乗り物を使って旅をする関係の私の著作が多くあります。 話をする中で旅のアドバイスなどもしています。
売れ行きNO1は開店して半年と言う影響もあるかもしれませんが、私の書いた「旅の言葉を読む」という旅のエッセー本です。 この本の中には本のことが一杯入っています。 「旅先への興味と敬意」、興味の深堀り(言葉、歴史など)、何も知らないと失礼なことを言ってしまう事もあるので敬意が必要です。 だから本を読んでから行きたいと思っています。 旅は行く前、旅行中、帰ってからの楽しみに加えて、旅の本を読むことが楽しみになると思います。
2023年10月29日日曜日
矢野雄太(ピアニスト、指揮者) ・〔夜明けのオペラ〕 人に寄り添い、音を創る
矢野雄太(ピアニスト、指揮者) ・〔夜明けのオペラ〕 人に寄り添い、音を創る
矢野さんは埼玉県出身、6歳からピアノをはじめ、東京芸術大学音楽学部ピアノ科卒業、同大学院修了後イタリアのミラノ市立音楽院指揮科を経て、ミラノスカラ座研修所を終了しました。 スカラ座では「リゴレット」、「ジャンニ・スキッキ」などオペラのアシスタントを務めました。 又イタリアのMDIアンサンブルやミラノクラシカ室内管弦楽団を指揮、ピアニストコレペティトゥアの研鑽を積んできました。 2021年に帰国し、今年琵琶湖の春音楽祭に出演、ミス?オペラメディアの副指揮や8月にはオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の指揮を務めました。 この4月からは母校の東京芸術大学オペラ科で後進の指導にもあたっています。
学校は10月から後期が始まって、担当しているクラスは来週から始まります。 今31歳です。 24,5歳までは芸大で勉強していました。 芸大ではピアノを専門に勉強していました。 今は声楽科の皆さんと授業をやっています。 母校で自分がオペラを教えていることにまず驚いています。 母が町のピアノの先生でした。 6歳で僕がピアノをやりたいと言ったらしいです。 何回も辞めたいという思いはありました。 高校は東京芸術大学の付属高校に入りました。 中学に入る時に芸高を目指しました。 1学年1クラスで40名で全楽器でした。 刺激されてもっと勉強しないといけないと思いました。 8歳からピアノコンクールには出ていました。 大学でもヨーロッパのコンクールには薦められて出ました。(国際コンクール) 大学院までは日本にいました。
イタリアのミラノ市立音楽院指揮科にいきました。 先生からのアドバイスもあって指揮科に行くことにしました。 その後ミラノスカラ座研修所にいきました。 イタリアと言えばオペラなので、先生からオペラを勉強するように言われました。 試験科目には歌もありましたが歌はやったことがありませんでした。 歌は懸命に勉強しました。 オペラも観た事はありませんでした。 「ラ・ヴォエーム」の課題もありましたが、「ラ・ヴォエーム」も観た事がありませんでした。 8名が受かりました。(日本人は1人)
入ってすぐに「ジャンニ・スキッキ」をやりましたので、思い出深いです。 演出はウッディ・アレン(映画監督)でした。 オペラは総合芸術なので僕に取っては全てが新鮮でした。
*「ジャンニ・スキッキ」から「私のお父さん」 『ジャンニ・スキッキ』の中でも最も広く知られた曲。
ミラノスカラ座研修所にいた時には毎週のように違うオペラを読んで行くという感じで、ついてゆくのに必死で勉強しました。 オペラ指揮の授業もありました。 ひたすら詰め込んでいました。 「リゴレット」をやった時にリゴレット役をレオ・ヌッチさん(現代のイタリア・オペラ界を代表する歌手)が歌っていました。
*「リゴレット」から 歌:レオ・ヌッチ
イタリアには5年間居ました。 2021年帰国。 コロナ禍でどうやって仕事をしていったらいいか、途方に暮れる毎日でした。 オペラに携わる仕事がしたいと思いました。 自分から連絡を取って積極的に動きました。 オペラって素晴らしと実感したので、オペラを仕事にできて幸せだと思います。 オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の指揮をして、総合芸術として一つ終わると達成感を感じます。
*「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲