2023年7月17日月曜日

大至(元力士・歌手)          ・〔にっぽんの音〕

 大至(元力士・歌手)          ・〔にっぽんの音〕

1968年茨城県日立市出身。  15歳で卒業後押尾川部屋に入門、初土俵から10年で新十両に昇進、1994年に新入幕、若貴全盛期に若乃花、貴乃花、曙、武蔵丸など名力士と対戦。  最高位は前頭3枚目。  身長182cm、体重172kg、今は125kgです。

引退を発表して1か月経たないうちに、稽古はしないし食べなくなるしサーっと痩せていきました。  2002年3月場所をもって18年間務めた現役を引退、後進に指導に当たる。  子供のころからの歌えの憧れを諦めきれず、歌手に転身。 現在は相撲甚句を伝える事をはじめ、ライブやミュージカルなどの舞台でも活躍。

相撲甚句は、300年前ぐらいから歌い始めてきました。  芸者衆がお相撲さんが遊びに来る座敷で、面白いものを見せたいという事で相撲の攻めの型(雲竜型)、守りの型(不知火型)の型の真似をしながら、三味線の音色に合わせて歌ったのがきっかけだと言われています。   面白いという事で、土俵の上で歌う事になりました。   昔は5つある一門が地方に方々に動いていました。   少人数だったので、取り組みの合間に余興を取り込んで一つの興業として、成り立たせていたという一つに、相撲甚句がありました。    全国各地に相撲甚句が広がっていきました。   「初切(しょっきり)」と言って、相撲の禁じ手を面白おかしく紹介する見世物があって、取り組みの間に盛り込んでいます。   

50年前から呼び出しの「三郎」「永男(のりお)」という人がその土地ならではの歌詞を作って、巡業の中で歌いました。  それが広がって人気になって行きました。  いつの間にか各地に相撲甚句会が出来てきました。  地方巡業はお客さんに相撲を楽しんでいただく、他の部屋の力士と真剣に稽古が出来るので、修行の場所でもあり、地方のお客さなとのふれあいの場所でもあります。  序の口から横綱迄10段階階級がありますが、幕下までが若い衆の仕事でもあります。  

*相撲甚句「七福神」  歌:大至

相撲の世界と能楽の世界との共通点はたくさんあります。  土俵に房が垂れているが、東西南北を表している。 能楽では幕と色と同じ。  土俵の大きさも能舞台と変わらず、15尺(4.55m)が俵の円の直径になっています。(外が四角になっている)  能舞台が3間四方で昔は一緒だったと聞いています。  

相撲甚句は5つの節しかなくて、ループしていって一曲になる。  一つ覚えてしまうといろいろな歌詞が変わるだけです。  「東京名所」という相撲甚句があり教科書的なものになります。   口伝えになっています。   「芝か上野か浅草か・・・・」  七、五調になっています。 

4270gで生まれてきました。 子供のころから力士として育てられました。     母が民謡家系(網元の娘)で、母が相撲甚句を仕入れてきて、僕に歌って聞かせていました。   小さいころから音楽はやりたくて仕方なかった。  父親は相撲取りにさせたくて仕方なかった。  部屋の師匠から後を継いでくれという事もありましたが、歌の道を選びました。   

小学校3年生の時からまわしを付けて、小学校卒業する時には100kgありました。   中学の時に全国大会に出てスカウトされました。   中学卒業する数日前に入門しました。   行く前日は布団をかぶって泣きました。   出発の時に100人ぐらい実家のところに来ましたが、そこで父すごい挨拶をしてくれました。  「私は戦争の予科練に行ったけど、息子は命の保証だけはされている。 どれだけ周りが応援してくれても、自分の努力なしには栄光はない。 悔いのない人生を送ってほしい。」 そういう挨拶をしてくれました。  だから逃げて帰るわけにはいかなかった。  

最初はお客さん扱いでした。  1週間後は4時半ごろ足で起こされて、まわしを付けて稽古させられました。  同期生が何人かいましたが、夜逃げしてゆくんです。   逃げたい止めたいは毎日思っていました。  星空を見上げると涙しか出てきませんでした。   3年目で3段目に番付けも上がって来て、先輩たちに勝ちだすことができると、違ってきました。   相撲は白黒競う前に、神様に五穀豊穣を祈るという事が大元にあるわけです。 何をしてでも勝てばいいというものではないと僕は思います。  土俵上での所作の一つ一つの美しさ、礼儀正しさというものは求められるべきだと思います。 

*「黄昏のビギン」   歌:大至    初めてのリサイタル。 歌で恩返しをしたいと思っています。

日本の音とは、拍子木だと思います。  相撲の拍子木は音が遠くに飛ぶように、丸みを帯びていたりしています。  軽く持って叩く方が音が響きます。 






























  









2023年7月16日日曜日

渡貫淳子(調理師)           ・美味しい仕事人〕 南極で培った食の知恵

 渡貫淳子(第57次南極地域観測隊員・調理師) ・美味しい仕事人〕 南極で培った食の知恵

第57次南極地域観測隊は2015年から1年4か月間に渡って活動しました。     調理師の資格を持つ貫さんは、南極への憧れから調理隊員の存在を知って、隊員になるために挑戦、3度目の挑戦で夢が叶いました。   母親としては初の調理隊員でした。  活動期間中は限られた備蓄食糧で30人3食の全てを賄います。   また南極ではゴミは一切捨てられないという決まりがあります。  しかしそんなフードロスが許されない状況の中から、食生活のエコの知恵も生まれました。   渡貫さんはいま南極で体験し、培ってきた食の知恵を日常生活の知恵として役立ててもらいたいと全国各地を訪ねています。

南極の方は今どんどん冬に向かっています。  マイナス20℃とか寒くなってゆく時期です。   料理の「エコール辻東京」で先生をしていました。   子供のころは好き嫌いも多かったんですが、成長するにつれて食べることに興味を持ちました。  私は青森県の八戸市出身です。  食べる店も少なく自分で作ってみようと思ったのがそもそもの始まりでした。    中学からは台所に立つようになりました。   台所の一角に自分の使う材料、調理器具などをいれていました。  

新聞に南極で活躍していた人の記事が載っていました。  その記事が女性だったという事もあって、衝撃を受けました。  その数年後に「南極料理人」という映画があり、それを観て私の仕事は南極に行けるなという事に気が付きました。  具体的に動き始めました。1年に一回選考があり、3年目で受かりました。  書類選考と規定数の推薦状を添付しなければいけない。   次に2次選考に進みます。   私の前は女性の方で海上保安庁からの派遣の方でした。   一般からの応募では私が最初になります。  

30人分の3食プラス夜食、おやつだったりします。  口に入るものは全て準備します。 隣の基地までは片道3週間かかります。(日本の基地ではない。)    観測隊に参加するために日本食だけでなくいろいろな料理が出来るように勉強しました。  昭和基地と日本の国内準備をする事務所に内線電話があり、昭和基地と繋がるようになっています。(衛星回線でつながっている。)   あとどのくらい食材が残っているかなどの確認が引継ぎになります。   予算内におさまるように発注をかけて、冷凍のコンテナに仕分けしていれて、(自分たちでやらないとどこに何が入っているかわからないので)、南極に運んでゆきます。   

歴代の方の資料とか経験とかで発注してゆく感じです。  買い忘れたものとか量が少なかったものなど、ありました。  紅ショウガは添え物のような認識でしたが、牛丼を出した時に一面に紅ショウガを乗せた方がいました。  それを観て計算したら1年分は足りないと思いました。  紅ショウガを出す回数を調整しながらなんとか誤魔化ししました。   肉と魚に関しては全て冷凍です。  玉ねぎ、ジャガイモなどはフレッシュな状態です。 生鮮品でもって行けるのは卵、牛乳、などですが、ほぼ冷凍ものです。  お菓子は大切できちんと持って行っています。  チョコレートは争奪戦になります。  

夏の時期に到着するんですが、雪がほとんどないところにヘリコプターで落とされます。  工事現場の風景のようで、アレッという感じです。   どういう風に生活すれば、南極では一番適しているのか、経験者の方のやっていることから学びました。(水の使用など) 水は現地で雪を溶かしながら作ります。   相方さんと毎日30人分作ると休みが取れないので、交代で30人分作ります。  

「南極の食卓」という出版した著書があります。  エネルギーを可成り使うのでボリュームのあるものを作ります。   和食、洋食、中華、時にはエスニックなどいろんなものを出します。  時々リクエストがあり、対応しています。  食材の配分が難しいです。 時と場合に応じて家庭料理、イベントなどのためのプロとしての料理を行ってきました。    

材料を最後まで使い切りたいという思いと、生ごみが出るので出来るだけ生ごみが出ないような料理を作らないといけない。   一般には廃棄するようなものも別の料理に作り替えたりしました。  ゴミはすべて日本国内に持って帰ってくるようなルールになっています。(環境保護条約)  生ごみは生ごみ処理機で乾燥させて軽く小さくして、焼却をかけて灰をドラム缶に詰めて持ち帰ります。  料理が足りないと困るので若干多めに作り、余った時には、それをどう次の料理に変化させるかという事が一番の課題になって来ます。  

「悪魔のおにぎり」 夜食として出していたおにぎりが、何故この名前がついたのかというと、余った材料で夜食のおにぎりを作っていまいた。  お昼に天ぷらうどんを作って、天かすが残りました。  夜ごはんが終わってご飯と天かすだけが残りました。  甘じょっぱいたれを作って混ぜて、それにアオサノリ(たまたまこれも残っていた。)を加えました。  好評だったが、おにぎりを出す時間がまずかった。  23時とかに出して、カロリーが高いので絶対食べてはいけないと思いつつ、つい手が出てしまう。  或る人が「悪魔のおにぎり」という名前を付けました。  夜勤で疲れている時に、「食堂におにぎりが置いてあって、そのおにぎりを食べるのが、本当に自分は幸せだったんです。」と言ってくださって、作り手として最高の言葉を頂けました。








   






 























2023年7月15日土曜日

塩尻かおり(龍谷大学教授)       ・〔人ありて、街は生きアンコール〕

塩尻かおり(龍谷大学教授)       ・〔人ありて、街は生きアンコール〕 香りでコミュニケーション 植物のしたたかな戦略

植物は動物と違って動くことが出来ません。  仲間に鳴き声で何かを伝えることもできません。  しかし、植物は別の方法でほかの植物や昆虫とのコミュニケーションをとっているといいます。使っているのは香り、匂いです。   それはどういうことなのか、何が目的なのか、植物の香りによるコミュニケーションの研究で注目されている塩尻かおりさんに、植物のしたたかな戦略と将来の大きな夢をお聞きしました。

分野的には植物生態学、科学生態学と呼ばれる分野だと思います。  もともと動物の行動とか植物の仕組みに興味がありました。  そういった系統のテレビ番組を良く観ていました。   植物が動けないのに花粉を運んで、どうやって種を飛ばすかとか、という時に昆虫がかかわって来ますが、昆虫を自分が動かすことに使っているという事は凄いと思っていて、そういう研究をしたいと思いました。  大学は北大に行ったんですが、香りに出会ったのは京都大学大学院に行って、高林純示先生が植物が虫に食われると、そこから匂いだ出てその匂いが葉っぱを食うダニの天敵チリカブリダニを誘引して、ハダニをやっつけてくれるという、植物と植物を食べる虫と、その虫を食べる虫という、「三者系」の研究をされている先生がいて、面白いと思って「三者系」の研究に入りました。 

植物のかおりのコミュニケーションの研究に関する論文は1983年が最初でした。   私が始めたのは1997年です。  特別な匂いを出す方が生き残ってきたと思います。    匂いは空中に漂っている揮発性物質です。  鼻に吸着して鼻の受容体が反応して、匂いを感じます。  匂いは食べられた傷口から出るものとか、食べられた刺激を受けて植物全体から出てくるものもあります。   そこがどこで受容されているかという事に研究、興味が持たれているところです。    植物は自分を守るために、薔薇のような棘だったり、草食動物に食べられないための棘です。   葉に産毛みたいなものがあると虫が産卵しにくい。  産毛のところに触ると匂いが出るようなものもあります。  タンポポの様にネバネバしたものが出ますが、昆虫が食べる口をふさいでしまうというような作用もあります。  

イネ科の植物は軟毛(トライコーム)が一定方向に向いている。  虫が来た時には生長点(イネ科では根元)に向かわないようにするため、という仮説を立てて実験をしました。  ミントは虫を寄せ付けないような匂いだといわれています。  

香りを使った防衛は、ずーっと出す匂いではなく、食べられた時に初めて出る匂いで、誘導防衛という風に言います。     切ったところから青臭いにおいがしますが、傷口からばい菌が入ってこないための効果もあります。  1時間後ぐらいですが、食べている虫を食べる虫を誘引する匂いを生産され始めます。(誘導的関節防衛)  

キャベツにはモンシロチョウの幼虫(青虫)がついてます。  キャベツが食われると匂いが出てきます。 その香りはモンシロチョウの天敵のアオムシサムライコマユバチを誘引します。  モンシロチョウの幼虫(青虫)に産卵して、大きくなったら皮を破って繭になり、幼虫は死んでしまう。(寄生バチ)   他にも似たような寄生バチ(コナガサムライコマユバチ)がいます。    モンシロチョウの幼虫(青虫)に食べられ時とコナガに食べられた時では違う匂いを出します。  それぞれの匂い成分は分析できています。   農薬を使わずに匂いを使って天敵を誘引して、幼虫をやっつけることに生かせる。     高林純示先生が10年以上前からプロジェクトを立ち上げて、企業とかと一緒に研究してきて、コナガサムライコマユバチを誘引する匂いを実験して、コナガの密度が減るという事は分かっています。  ただ高価なので止まってしまっています。

植物同士のコミュニケーション、匂いを発すると周辺の植物も受容できます。      そろそろ自分のところにも害虫が来るという事で、前もって防衛反応を始めます。(食べられにくくなる。 誘導防衛反応)   同じ植物同士だったが、違う食物同士でも誘導防衛反応があることをアメリカで報告された例もあります。   私がやっているセイタカアワダチソウの匂いを嗅いだ大豆は虫に食べられにくくなる、というのは明らかになっています。  収穫量も多くなってきます。 ただブラインドテストでは匂いを嗅いでいなかった方に軍配が上がりました。  ちょっと、苦味、渋みが増えている感じがしました。 ただ分析して見るとサポニンイソフラボン(人間にとって有用成分と言われている。)が増えていることが判りました。  サプリメントとして利用できると思います。

野外の匂い分析をしてみると、同じ種にもかかわらず匂いが違うという事がわかって来ました。  セイジブラシという植物の遺伝子を調べて観ると、遺伝子が似ているほど匂いが似ていることが判りました。(血縁関係が似ているほど匂いも似ている。)  似ている遺伝子間ほど防衛反応が強く働く。  匂いを嗅ぐタイミングも重要そうで、私の実験では初期段階で10日ぐらい匂いを嗅ぐだけで、収穫、味までで変るという事が判っていますが、どの段階でどのぐらいの期間匂いを嗅ぐのがいいのか、はわからない。  

夢は発展途上国では農薬自体が高くて買えないので、植物の匂いを使って収穫量があげられることができるのではないかなあと考えています。  最終的には発展途上国で実験したいと思っています。   ケニアでイギリス人のグループがプッシュプル法と言って、トウモロコシの畝のところに、害虫が嫌う匂いを自然に出している植物を植えることで、害虫を遠ざかるようにして、畑の周りには害虫を引き寄せ、害虫の天敵を誘引するような植物でを植えることで、害虫をやっつけると言うプッシュプル法でケニアでうまくいって、アフリカの方で広がってきています。  

植物は地下でもネットワークがあり情報交換しているというのが判ってきています。    菌根菌は植物にリンを与えている。  植物は光合成した炭素を菌根菌の与えている。  菌根菌が隣の個体にもつながっているという事が明らかになっている。  たくさん炭素が放出されると隣の個体にまで菌根菌が炭素を与えてしまう。   そういったコミュニケーションもあります。 想像ですが、もっと細かい情報交換をしているのではないかと思っています。  赤松と松茸は根っこで菌根菌で繋がっている。  松が害虫にやられていると菌根菌がその情報をもとに、松茸の胞子を一杯ださせるとか、あるのかもしれない。  匂いを使った農業が出来ればいいと思っています。   










 







  



















 

















  






  











2023年7月14日金曜日

鈴木まもる(絵本作家・鳥の巣研究家)  ・〔人生のみちしるべ〕 鳥の巣がぼくに教えてくれること

鈴木まもる(絵本作家・鳥の巣研究家)  ・〔人生のみちしるべ〕  鳥の巣がぼくに教えてくれること (初回:2022/10/14)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/10/blog-post_14.htmlをご覧ください。

2023年7月13日木曜日

松山照紀(住職・看護師)        ・駆け込み寺の庵主としての生き方

 松山照紀(住職・看護師)        ・駆け込み寺の庵主として

松山さんは1962年福岡県生まれ。  20代で結婚、離婚を経て看護師の仕事をする傍ら、人間の生や社会の在り方を研究する死生学を学びました。  その後自らの大病や、離島での看取りの実践を経て48歳で出家します。  現在は女性を対象とした一泊二日の修行体験や座談会、和裁や料理の教室などを開き、毎朝4時半からSNSで朝のお勤めの様子を外部配信しています。  訪れた人から庵寿さんと親しまれている松山さんにお話を伺いました。

不徹寺(ふてつじ)は江戸時代の初期から中期の間に出来上がったお寺と聞いています。   現在は3度目の移転でここに続いて300年を越えたというところです。   初代は4人の俳人のなかの一人とされている田捨女の創建というお寺です。 江戸時代から昭和の初期ぐらいまでは修行僧がいましたが、女性のための禅堂があるという事は、他にはなかなかありません。

家族が祖父母、両親、兄と私で、おじいさん子でした。  祖父が直腸がんになり手術をしたり梯子から落ちたりして、寝たきりとなり、自分が治してあげたいという意識は強く出て行きました。   小学校から帰ると尿瓶の交換、他いろんな小間使いをしていました。 祖父が亡くなり、死を直接突き付けられたそんな体験でした。  その体験が医療に向かうためにはなっていると思います。   「二十四の瞳」を見て先生への憧れはありました。大学2年生の時に妊娠しました。  困惑した毎日でした。 母親に相談して生むという選択をしました。  結婚して大学は辞めました。  もう一人子供が授かりました。    そのころ突然父が亡くなったり、引っ越しをしたりいろんなことが起きました。     その後離婚する事になりました。  就職しようとしましたが、下の子が3歳という事で10社以上断られました。(直ぐ休まれるのではないかという思い)   

指を切って病院に行ったらこれだとひらめきました。   看護学校を紹介してもらったり、見習いでも勤務してもらったりして、一か月しないうちに看護の仕事をしていました。末期がんの訪問があったりして、がんと命の向き合いというのが、スタートしました。   それが死生学を勉強するきっかけになりました。   上智大学のセミナーなどにも通うようになりました。  父方の祖母とも同居していて、祖母が認知症になり毎日夜中の2.3時まで付き合わなければいけませんでした。   結核性の胸膜炎になり、入院後に両方の肺になってしまいました。   体重がどんどん減って行って、ご飯も箸を持つ気になれませんでした。  死んでからの退院になると思いました。  

死にたくないという思いは腹の底からありました。  お金と時間5年間をかけた勉強が何の役にも立たないという事はショックでした。   母は感じ取って、私の子供に「亡くなったら、離婚した父親の元に行くのか、それとも一緒に暮らすのか。」と尋ねたそうです。 「一緒にずっと暮らす。」と言ったそうです。   社会復帰をして、パートで働いて、学校に再受験しました。(35歳)   刺激を貰って楽しかったです。      哲学の卒論をやりましたが、落ち込んでいた時に、ふらっと近くのお寺に立ち寄りました。 立派な仏像を見て動く感動しました。  その包み込むような手を見た時に、こういう優しい手で人のケアが出来ればいいなあと思いました。  座禅を組むことになり、最初は全く覚えていません。  

看取りの方は、アルフォンシス・デーケン先生から勉強を始めた頃には看取りのことが考えていました。  上の子が高校生になり、家には下の子が高校受験の時に下の子をおいて、離島に行くことにしました。   「止めたところで辞めないよね」と言われました。  離島では看取りの勉強をさせて貰いながら、7年弱で福岡に戻って来ました。  病院に勤務しながらお寺にも通っていましたが、出家のことは全然考えていませんでした。  

住職が「庵寿さんになれ。」と幾度となく囁くんです。  或る時に、「それじゃあそうしようかな。」と思いました。  母には相談しましたら、「近くだったらいい。」といってくれました。 実は修業は岐阜県でした。  すぐ入門というわけではなく、「庭詰」と言って、玄関に丸二日座ってお辞儀をするわけです。  その後小さな部屋に行って、「旦過詰」と言って、柱に向かって朝から晩まで5日間座禅をするという事をやります。     その後修業では夏は朝3時半に起きて、朝課?と言ってお経をあげます。  その後瑞涼寺?というお寺に行って問答?に行って座禅があり、帰って来て掃除、おかゆを食べ、座禅をする、の繰り返しです。 

修行の終了は、師匠の許可がないと下山できないことになっています。  私は3年8か月ぐらいでした。  修業した5人の一人が姫路のお寺を継いでいました。        一緒に回って山門をひとまたぎした瞬間に、ここに決まるという直感がありました。  

不徹寺は庭が広くて、建物の掃除からいろいろ考えることがいろいろありました。    檀家はいないし、収入は見込めないので、兎に角何かを始めようと思いました。     小物を作る会がスタートしました。  曹洞宗の青山俊董先生が「お寺というのは、心のゴミを捨てる場所だ。」ということを言っていました。   そんな場所になればとずーっと思っていました。  女性の方がいろいろ細かなことまで抱えてしまうと思います。   心の負担になっていることを一項目ずつ書いてもらって、二つの項目に分類してゆくことで、心の整理をしてもらうようにしています。   直ぐ結果を求めずに、じっくり自分と向き合ってほしいと思います。   ここは静かな時間を提供できる場所だと思っています。  

女性だけではなく男性も含めて、自分の固定観念に縛られていると思います。      自分の決めた枠組みから出ることができなくて、苦しむ人は多いですね。        龍門寺のお茶室を頂いて移築しました。  クラウドファンディングを利用しました。  判るまで何度も何度も刷り込んで聞くんだという風にして教えている、その根気強さ、確固たる禅の軸というものをもって教えてゆくところは凄いと思います。   (盤珪が各地に開創した寺,またその法嗣が開山に仰いだ寺は,世に盤珪寺といわれ,100余ヵ寺に及んだ。その唱導した独特の禅は〈不生禅(ふしようぜん)〉という。 人は生まれながらにして仏心を具えています。
仏心は不生にて、迷いも悟りも生死もない「不生の仏心」で暮らすように説かれました。)  不生禅をわずかながら勉強してみると、良い教えだと思います。  生まれることもなければ、滅することもないという禅の境地を言っていると思います。    

不生禅を自分の言葉にしながら、皆さんにお伝えしていきたいと思います。  禅宗には三黙堂というのがあって、食堂、浴堂、東司(とうす お手洗い)、ここでは自分ではなくなる瞬間、五感すらなくなるような、解放された瞬間見たいなものが無言の中にある。   不生に近いかなという気がします。  うちが目指すものは、そこを判りやすく、おいしい、楽しい、美しい、ここを感じてくれれば、それが盤珪さんが言われる、物心おこ(悪好?)ありありと見いだせる時なのかとは思います。                 盤珪さんの教えに一寸だけでも近づけられたらいいなあと思います。  最大の魅力はゴールがないという事です。






































 





































    

2023年7月12日水曜日

徹心香雲(僧侶 元・演歌歌手 香田晋) ・道に迷うことこそ 道を知ること

徹心香雲(僧侶 元・演歌歌手 香田晋) ・道に迷うことこそ 道を知ること 

今から11年前、演歌界期待の星だった紅白出場歌手が忽然と芸能界から引退して、姿を消したことを覚えていますか。  香田晋さんです。  作曲家船村徹さんの愛弟子で、30万枚のヒット曲を出した人気歌手でした。  何故辞めたかという事ですが、バラエティー番組で「おバカキャラ」を演じさせられたことに疲れて、大好きな歌が歌えなくなったそうです。  芸能界で傷ついて心を癒してくれた妻のおばあさんを介護の末に看取り、供養したいと船村さんの知り合いの僧侶に相談すると、仏門の道に誘われて5年前に得度しました。 僧侶の名前は徹心香雲だそうです。   この名前はどんな漢字でどんな思いが込められているのかはインタビューの中で出てきます。  いまは自分の辛かった経験を思い返して、すこしでも悩み苦しむ人の役に立てばと、法話、得意の書画を生かして感謝して生きる言葉を御朱印帖に記すなど僧侶の仕事に励んでいます。  「何も持たない今が一番幸せ」と語る徹心香雲さんに伺いました。

出生地は東京荒川区でした。  育ちは福岡県北九州市八幡東区で14歳まで居ました。   子供のころは元気が良くて無口の感じでした。  14歳で母と別れて岡山県の母親の兄弟宅へ移ることになりました。  小さいころから両親の喧嘩が頻繁にありました。     小学6年生の時におばあちゃん宅に行ったら、「あんたの本当のお父さんはこの間亡くなっている。」と言われて、吃驚して、今のお父さんは本当のお父さんではないという事が判りました。  そのことは心の中に仕舞って置きました。  中学2年の時に二人の喧嘩に我慢できなくなって、母親とは別れることになりました。  様子は見に来ていたようですが僕は拒否してあっていませんでした。  

親戚の家では気を使うので、塗装業の職人のアルバイトを始めました。(2000円/日)  稼ぐ大変さと稼げばお金も入るんだという実感も沸きました。  母と別れて、大きいものを捨てると大きいものが入ってくるんだなという事が判りました。   クリスマスでおじさんおばさんの前で歌ったら、自分ではうまいと思って歌ったら、音痴だ、へたくそだといわれました。  翌日から歌の勉強に励みました。  カラオケ喫茶で歌うようになりました。  或る人から歌の先生を紹介してもらえることになりました。  レッスン料はいらないから来なさいと言われて、素質があるのかなあと思いました。  歌に力を入れるようになりました。 その三宅先生のお師匠さんがが作曲家の船村徹先生です。  

高校2年の秋ごろに、船村徹先生の公演があるという事で先生と一緒に高松に行きました。 船村徹の演歌巡礼』の公演を聞き感動しました。    カラオケコナーナがその場であり、飛び入りで歌いました。    船村徹先生からは歌のことは一切ありませんで、足が短いとか言われて会場は盛り上がりましたが。  船村徹先生から三宅先生に電話があり、「高校卒業したらうちに来なさい。」といってくれました。

山の中の船村先生のお宅に伺いましたが、敷地は1500坪ありました。  まず草むしりから始まりました。  秋は枯れ葉の掃除、冬は雪かきでした。 歌のレッスンはありませんでした。 独学していました。 或る時急に歌うように言われて歌ったんですが、後で先生からいろいろ言われました。  3年間の修行でしたが、レッスンはほとんどなく。デビュー曲は10分練習しただけでした。  1989年『男同志』(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹)で歌手デビューしました。  船村先生から「母親とは会っていないだろうから、報告に会いに行ってこい。」と言われました。  九州の小倉駅で待ち合わせをして、久し振りに会う事になりましが7年間会っていなかったので、他人行儀な感じになってしまいました。 同年、第31回日本レコード大賞新人賞を受賞することになりました。     翌年「一緒に暮らそう。」というようなことを話していましたが、母が「胆石だから入院する。」という事を言われました。  その時母は42歳で、危篤になってしまいました。1994年の紅白出場の年にお墓を建てました。 今でも毎朝手を合わせて、それから一日がスタートします。  「感謝して生きる」という事がテーマです。  

バラエティー番組とかロケに行ったり、僕ではなくてもいいような仕事が入って来て、ストレスを感じてしまいました。  もうやめようと思ってふざけたことを言ったら、それが逆に受けてしまって、自分の目指す歌の方向と違った方向に行ってしまいました。       辞めようと決心しました。  これまでいろいろ苦労、大変なことがありましたが、無駄だったという事は一つもないです。  

九州に戻り、絵に没頭し個展を開きました。   料理もやってみようと思いまして、開業したら流行りました。   妻になる人はそのおばあちゃんが僕のファンで、それがきっかけで付き合うようになって結婚しました。  おばあちゃんが入院したら、料理を作ったり毎日見舞いに行って、洗濯物をしたりいろいろやりました。  脳梗塞に成ったら車椅子生活になり、車椅子を押したり、夜中はトイレに連れて行ったり、付きっ切りでした。   

芸能生活で汚染されたものが取り払われるような感じでした。  僕の歌を聞いてもらって、最後の一呼吸が魂が抜ける様な感じでした。  苦しまず安らかな顔で亡くなりました。  ふっと思ったのが、福井県の徳賞寺住職とは18歳から船村先生からのきっかけの知り合いで、相談したら「出家したらいい。」と言われました。  自分でおばあちゃんを供養したいと思って出家しました。   

徹心香雲という名前にしました、 船村徹先生の「徹」、「心」、香田晋の「香」、師匠が大雲道人という名前で「雲」、で全員の名前が入っています。 だいたいの人が道に迷っているんだと思います。  迷ったらその道は知ることが出来る、迷った道を歩いてみる。  ①失敗して己の目が開眼する。  ②苦難は必ず何かを学べる恵なのです。  ③人生は一生をかけて自分を作る。  ④こんな時はしみじみ思う、幸せは苦しみを知る人。     ⑤人は心構えを変えることによって、人生を変えることができる。  

仏門に入って5年。  一日を過去とか未来とか考えずに、今の積み重ねなので、今のこの瞬間を楽しんだり、頑張って生きてゆくという事だけです。  感謝して今を生きてゆくことを常に考えています。   歌の力も凄いと思うので、歌と話と、その時代背景がピタッとはまれば、お客さんもホッとします。  お客さん、檀家さんとの間を出来るだけ縮めたいです。  いろいろな思い出は定期預金で、それが財産ですね。  







































2023年7月11日火曜日

山本學(俳優)              ・〔出会いの宝箱〕

 山本學(俳優)                   ・〔出会いの宝箱〕

昭和30年(1955年)俳優座養成所に入所、1958年のデビュー以来、存在感のある演技で活躍しています。(86歳。)

40年ほど前のテレビ番組「絵描きと戦争」に出演。  8月というと必ず原爆の話になります。  戦争の責任の話もあんまり出てこない。  「絵描きと戦争」は1981年(昭和56年)に放送。  木村栄文監督はドキュメント番組に精通していました。  これをやることで改めて戦争責任を考え直すことになりました。  レポーター、インタビュアー、ナレーション、画家坂本繁二郎の役も演じる。   絵描きにとって戦争とはなんだったのか。      藤田嗣治と坂本繁二郎の対照的な足跡をたどりながら、この問いについて考えるテレビドキュメンタリー番組。  

藤田嗣治は明治生まれで、父は森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監中将相当)にまで昇進した人物で、金持ちでフランスまで藤田嗣治を行かせた。  坂本繁二郎は久留米の人で貧乏だが15,6歳の時から絵を描くことが好きだった。  ぼやっとした馬の絵(代表作『水より上がる馬』)を描いている。  

60年安保の時に、稽古をするか、安保のデモに行くかで、劇団が総会をして結局劇団が3つに割れてしまうんです。  僕は新人会というところ(大元のところ)に残してもらいました。  裏方で入ったが、役者もやって稼げと言われました。  テレビにも出なくてはいけなくなって俳優の道に入って行きました。  「絵描きと戦争」に出演することになりました。  

坂本繁二郎をブリジストンの石橋さんが応援して、彼が30歳の時にパリに行っています。藤田嗣治は20代で行っています。   そして戦争に向かい合う事になる。      石橋さんが坂本繁二郎に頼んだのが「爆弾三勇士」という上海事件の時に3人の久留米の兵隊が爆弾を抱えて自爆するんです。(特攻の一番最初)   頼まれて一生懸命描こうとするが、その年も描けず翌年も描けず、3年かかってやっと描けた。  ブリジストンの美術館に掛けたが、お客さんは忘れていて反応がなかった。  以後彼は戦争画を一切描かなかった。  

藤田嗣治は戦争前にパリに行って、裸婦を描いたりして世界で引っ張りだこになるような売れ方をして、時代の寵児としてもてはやされた。  彼は第二次世界大戦のぎりぎりに帰って来て、軍部の戦争記録画を引き受け、南方などに行って戦場の絵を描いたりした。    「絵描きと戦争」に二人が取り上げられた。  最初に高村光太郎の開戦の激励の詩文が入るんです。  智恵子抄と戦争讃歌との落差が気になって 調べたらいろいろ変転した詩を書いている。  

藤田嗣治はGHQの戦争犯罪の第一候補として仲間から指名され、告発される。     或る評論家からは「絵描きは絵を描くことが本能なんだから、時代がどうのとかではなく、与えられた題材で必死になって描いたのが藤田嗣治だったんだ。」というんです。

藤田嗣治の戦争の絵は保管されていて、300号とか大きくて迫力に満ちています。    「アッツ島玉砕」という作品は、自身が「私の最高傑作である。」と言っている。     敗戦になってみんな筆を変えて、山村の絵を描いている。     藤田嗣治は「仲間喧嘩をしないでください、日本画壇は早く世界的水準になってください。」と言ってパリに行ってしまう。(日本を捨てざるを得なくなる。)  国籍もフランスになる。   

僕は終戦の時に小学校2年生でした。  母は戦争と結びつけて僕を教育してきました。   戦争が終わったという事で母親は家中を踊りまわりました。   僕は戦争に負けて泣いていたのに、それを観て呆然としました。  父は戦争に行ってしまっていて、母と子供3人で飢え死にしそうでした。  戦争と芸術は難しいなあと今も思います。 

「爆弾三勇士」は3人が棒のようなものを抱えて、ぼやっしていて勇気をたたえる様な絵ではなかった、むしろ戦意を喪失するような絵でした。  今この絵はどこにあるのか判らない。  坂本繁二郎と藤田嗣治は全く対称的な道を歩んだ。  藤田嗣治は裸婦を描くのに、歌舞伎の「との粉」から」ヒントを得たという話があります。   原爆も日本の人の心に沁み通っていないなという事も感じます。  

高村光太郎の戦争に関する詩、戦争を賛美した詩の戦後の反省した生き方。

高村光太郎の三篇の詩を朗読。

記憶せよ、十二月八日

「この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。」 


終戦の時の詩

「一億の号泣」

「綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて

天上はるかに流れ来る

玉音の低きとゞろきに五体をうめる

五体わななきてとゞめあへず

玉音ひゞき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのずから強からんとす

真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」

 

昭和22年の詩

暗愚小伝に中の「山林」の一部

「私はいま山林にゐる。

生来の離群性はなほりさうもないが、

生活は却て解放された。

村落社会に根をおろして

世界と村落とをやがて結びつける気だ。

強烈な土の魅力は私を捉へ、

撃壌の民のこころを今は知つた。

美は天然にみちみちて

人を養ひ人をすくふ。

こんなに心平らかな日のあることを

私はかつて思はなかつた。

おのれの暗愚をいやほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても甘受しよう。」


高村光太郎は空襲で、智恵子と暮らした家も失い、岩手県の花巻で小さい家で独り暮らしを始める。  自分を見つめ終戦。 「一億の号泣」

「山林」 非難する人は非難してくださいと言い切っている。 

ウクライナもそうですが、何でこういう風に戦争は繰り返されるのでしょうか。