2019年12月31日火曜日

氷川きよし(歌手)            ・【母を語る】

氷川きよし(歌手)            ・【母を語る】
氷川さんは1977年福岡生まれ、高校時代に歌手を志しNHKBSの歌番組に出演し、スカウトされ高校卒業後上京します。
アルバイトをしながら3年半の修行生活を経て、2000年に「箱根八里の半次郎」でデビュー、その年にNHKの紅白歌合戦に出場します。
これまでに日本レコード大賞の最優勝新人賞、最優秀歌唱賞、大賞の三冠を獲得しています。
2019年3月には松尾芸能賞優秀賞を受賞、又デビュー20周年となる今年は7月にはに日本武道館、9月には大阪城ホールで記念コンサートを行いました。

日本武道館、大阪城ホールでは多くの皆さんにお越しいただきました。
色んな人間模様を歌いたいと思いました。
Tシャツが好きでラフな格好が普段は好きです。
一人っ子で母にべったりして育ちました。
性格、しゃべる方もそっくりで母はきれいだと思います。(67歳)
15年前母が大手術をしました、10時間ぐらいの手術で助かるか助からないかわからないようで、仕事が終わって祈っていました。
離れているが母がいてくれるのが嬉しいです。
電話でまめに母とはコミュニケーションをとっています。
母は胎児の時にずーっと「一休さん」の歌を聞かせていたという事です。
妊娠しているときにも母は病気にかかっていて、生まない方がいいという状況の中で生んでくれました。

小学校の時には地域の合唱団に入って歌っていました。
中学はポップスを歌っていて平尾昌晃先生のスクールのオーディションを受けて受かったんですが、月謝が払えなくて独学で歌っていました。
引っ込み思案であまりしゃべれない子でコンプレックスを感じていました。
自己表現を歌で出来たことが生きてゆくなかでの手段だったと思います。
中学の時には太っていて、芸能界に行くためには痩せないといけないと思って寒天を食べて痩せることができました。
中学3年の時にすごく背が伸びました。
16歳から演歌を歌い始めました。
高校は個性を大事にする高校でした。
高校生の時には将来は歌手になろうと思って、いろいろ調べて研究してプロダクションのオーディションを受けるようになりました。
父からは男は台所に立つなと言われていましたが、料理は好きでこっそりやっていました。
母はあまり料理はあまり好きではなくて、自分でいろいろ研究しました。

芸能教室で演歌を歌ってほしいと或るおじいさんから言われて、演歌を歌うために片っ端から演歌の歌を聞いて研究しました。
NHKBSの歌番組に出演し、水森英夫先生に歌手になりたいか聞かれ、東京に行くことにしました。
母とはずーっと一緒にいたので福岡から離れるときには悲しい思いをし勇気がいりました。
今やらなければという気持ちはありました。
母とは眼を合わすと泣いてしまいそうな気がしたので、玄関では眼をあわせないようにして別れました。
飛行機の乗った途端に涙が出てきてしまいました。
1年でデビューできると思ったが駄目で、アルバイトをしながら3年半の修行生活をしました。
経済的にきついのと先が見えないという事があり厳しかったです。
方言には苦労しました。

最初のアルバイト先はすぐにやめてしまい、ファミリーレストランに勤めるようになりました。
人前で喋れるようになったのは40歳を過ぎた頃でした。
3年後に一旦事務所が決まったが、当時男の演歌歌手は厳しくて女性の演歌歌手が華やかでいいという事で断られてしまいました。
もう1年頑張ろうという事で、或る大手の事務所で歌ったらこれは行けるという事になりました。
2000年に「箱根八里の半次郎」でデビューしました。
歌にはちょっとポップス系のところもありました。
母がいるから励まされているなあと思います。
自分らしく生きなさいと言われました。
母と喋っていると鏡を見ているようで、自分と喋っているような感じがします。
自分を生んでくれたことに対しては一番感謝しています。
近くにいてあげればいいとは思いますが、こんな仕事をしているので悪いなあとは思っています。(涙ながらにしゃべる)
旅行とかには連れて行ってあげたいと思いますが。
歌を歌い続けるのが親孝行かなと思います。












2019年12月29日日曜日

小田部羊一(アニメーター)        ・漫画動画と歩んだ日々

小田部羊一(アニメーター)        ・漫画動画と歩んだ日々
昭和11年台湾の台北市生まれ、昭和34年東京芸術大学日本画科を卒業後、東映動画、現在の東映アニメーションに入社し劇場長編映画などを製作しました。
NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
妻の奥山玲子さんもアニメーターとして活躍し、「なつぞら」のヒロインのヒントとなった方で2007年にお亡くなりました。
小田部さんは会社を辞めてから、新たに宮崎駿さんや、高畑 勲さんなどと「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作り日本のアニメーション界を第一線でリードしてきた人です。
最近アニメーションの歴史や奥山玲子さんとの歩みをまとめた本、「漫画映画漂流記」を出版しました。

NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
最初は大塚 康生さんでしたが体調を崩して私がお引き受けした。
子ども時代から漫画の本や漫画の映画が好きでした。
しかしアニメーションの作り方は知りませんでした。
小学校の1,2年の時に父親と一緒に漫画映画を観たときに、動物のキャラクターがいきているものとしか思えなかった。
それが心の中にあり、大人になって漫画映画のきっかけになったと思っています。
東京芸術大学日本画科に入学、先生は前田青邨さん、助手が平山郁夫さんでした。
父親は油絵を描く人で、台湾の子どもたちに教える先生をやっていて、油絵も団体展などに出すぐらいの腕の持ち主で家には沢山絵が掲げてあり、絵に興味を持って行ったと思います。
戦後、台湾から日本に引き揚げてきましたが、父が油絵の材料を貸してくれて、5歳下の弟と花の絵を描いたんですが、弟の方が立派な絵を描いて、自分は油絵が嫌いになって水彩画につながり日本画という事になって行きました。

子ども時代に漫画映画がなんとも言えない素晴らしい世界に見えました。
モノクロの短い作品でした。
その後、アメリカのデズニィーの白雪姫などを見て、色がついていて長編映画で目がくらむぐらい感じました。
会社に入り同期に高畑 勲、4年後輩に宮崎駿氏がいました。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』というものを一緒にやってなおさらお互いが判ったり、自分たちが作りたいアニメーションの方向が見えてきたりして、出会いと仲間意識を持ちました。
奥山玲子が先にいて重要な立場にいました。
「なつぞら」のヒロイン(奥原夏)のヒントとなりました。
2007年に亡くなりました。
共通点は媚びを売らない、きちんと自分を持っているとか、広瀬鈴さん(ヒロイン役)にも感じていました。
毎日洋服は変える人でした、組み合わせで毎日の気持ちのままに着ていました。
服だけではなくアクセサリーなども変えていました。

当時は女性は仕事をしていて出産して会社を続けることは難しかったが、断固戦うという様な事でした。
子どもを預かってくれるところはなくて、預かってくれるところを探すためにポスターを作りました。
自分でやりたいことは何としてもやっていきたいという人でした。
亡くなってから影膳を3年ぐらいやっていましたが、宮崎駿さんから「そんなことは気持ち悪いから」と言われ辞めましたが、宮崎駿さんは奥山玲子から解放されたと言っているらしいです。
入院して1週間で亡くなりました、無精ひげがそのままひげを生やすようになりました。

アニメーションがコスト第一主義のようになって、自分たちが作りたいものと違う方向になってきて、会社を辞めることにしました。
妻は会社に残り、その後私たちは「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作りました。
スイスの国立博物館で「日本のハイジ」というタイトルで展覧会をやってくれました。
4か月やりました。
8月に行って講演会などもやってきました。
当時は海外に出かけるのは大変な時代でしたが、高畑 勲さん、宮崎駿さん、僕、プロデューサーの4人をスイスにロケのために、スイスとはどういったところなのか、どういった人たちが住んでいるのか、スケッチをしたりカメラに収めたりしました。
現地取材があったからこそ景色、もの、キャラクターだけではなくて、現場の空気、光、山の高さとかそれを感じてきたのが一番の収穫でした。
そういったものが顔の表情とかに表れて来ていると思います。

作品ができてから家族3人で25年後にスイスに行きました。
ロケハンに行くときに息子は重い風邪にかかっていて、奥山に息子を預けていってしまいましたので、ハイジは恨みの何物でもなかったんでしょうね。
スイスに行って素晴らしさに感銘してくれて、自由にスイスの話もできるし、ハイジの話も自然にできるようになりました。
ゲーム会社に入り、スーパーマリオ、ポケットモンスターのキャラクターのデザインも手掛けることになりました。
同期の演出家がスーパーマリオを作る部署の部長になっていました。
ゲームの世界に入ってこないかと言われ、少ない枚数でやれという様な時代で面白くなく思ってた時だったので、1,2年という気持ちでいたが、こっちの方がアニメーションじゃないかと思い、役に立てるのかなと思いました。

マリオは何でもしてもいいが殺人だけはしてはいけませんと言われて、自由な動きを獲得したと思いそういってマリオを作っていきました。
3Dでキャラクターを動かさなくてはならなくなり、立体になるような絵のデザインにして作っていきましたが、いまでもいきています。
ゲーム会社に21年いることになりアッというまに過ぎてしまいました。
キャラクターは生き生き動いてこそキャラクターだと思っています。
2年前に明日の命は判りませんと言われて、5か月入院して、たぶん僕は死ぬんだなあと思いました。
退院して元気が出てきて、昨年の11月から4回も海外に行っています。
生きていたらいろいろ楽しいんです。











2019年12月28日土曜日

佐藤忠男(映画評論家)          ・舌の記憶~あの時、あの味】

佐藤忠男(映画評論家)          ・舌の記憶~あの時、あの味】
佐藤さんは昭和から平成、長きにわたって映画評論に力を注ぐと共に、日本の映画界の発展に寄与してきました。
一方でアジア映画研究の先駆者としても知られていて、一昨年まで日本映画大学の学長を勤めました。
出身は新潟市で終戦の年は14歳、海軍飛行予科練生でした。
戦後は昼間働いて夜間の工業高校に通う傍ら、雑誌に映画評論の投稿を続けて投稿家から文筆家、映画評論家になりました。
長年の評論活動、膨大な著書の出版を支えたのは、書物を通して独学で得た読書の力があったからと話しています。
一貫して戦争や権力と向き合い、世界の庶民の暮らしを観ることによって平和を実現できるという信念の元、89歳になった現在も現役で評論活動を続けています。
そんな佐藤さんの食の思い出はどのようなものでしょうか。
舌の記憶と共に映画の魅力や映画評論の役割など伺います。

今年文化功労章に選ばれました。
家内が今年亡くなりましたが、これはつらかったです。
第7回川喜多賞を、家内の佐藤久子とともに受賞しました。
日本に呼んだ外国人を家に3か月も泊めて日本食を食べさせたり家内はしていました。
非常にいいパートナーでした。
私は怪我もしてリハビリをしていましたが、その間も書いていました。
3つ年上の兄がいて小学校の頃から腎臓病で寝たきりになり、兄が貸本屋の本を読みたいという事で、私にも読みたい本を借りてきていいと言ってくれて、小学校3年のころから毎日貸本屋に行って本を借りてきていましたので、本無しの生活は考えられないです。
映画は子どもの時からよく観ていました。
海軍飛行予科練から帰ってきて、戦後どういう人生を歩んで行こうかと考え込んでいたころ、映画でも見ようと思っているうちに職業になってしまいました。
雑誌の投稿していたら、新しい分野が開けてきました。
人が論じなかった大衆映画を大真面目に論じる批評家として独自の存在になれました。

10代の終わりぐらいから映画批評家の卵みたいな存在で、そのまま来ることができました。
アメリカ映画を観たときには吃驚しました。
日本を負かしたアメリカとはどういう国だろうと本気で映画で観ようと思いました。
かわいい女性が来るとすれ違う男たちがみんなにっこりして笑顔を見せる、日本映画にはない場面で、彼らが幸せであるという事を実感し感動しました。
キューリー夫人の映画でも夫になる人が自分の弟子に求婚するのに貴婦人に対するようなポーズでする、これは感動しました。
アメリカ映画、ヨーロッパ映画、ほかの国々の映画を観るようになって、いいいものを探して歩くことが私の人生になって幸せだったと思います。
映画から世界の文化を学んだと言えます。
海軍の予科練にいって、日本の軍隊は残酷なところだとしょっちゅう思いました。
ちょっとしたことで毎日殴られていましたが、平気な顔をしていました。
アメリカ人のほうがどんなに礼儀が発達しているかという事を映画で見て驚きでした。
映画を観ることが私の人生の勉強になりました。
外国映画、特にアメリカ映画を観るとこれが文明かと思い、学ぶことばっかりでした。
学ぶことを書いていたら、それがいいという事でいつの間にか批評家になりました。

新潟では5月ごろ笹団子を作ります。
天井から一杯ぶら下げていました。
あれが一番食べ物では懐かしいです。
父親は早く亡くなり、母親は季節のお菓子、笹団子を作っていました。
手を伸ばせばお菓子がありましたから、贅沢でした。
おふくろは凄い働き者で働いている姿しか見ていないです。
新潟では魚がおいしかったです。
うちは漁師 がしょっちゅう出入りしていたので、新鮮な魚を持ってきてくれて魚はおいしかったという記憶があります。
タイの映画でありとあらゆる果物を集めてパーティーをやってる場面があり、吃驚しました。

外国に講演に行ってゆく先々で評判の映画を観せてほしいと言ことで観まして、発見に次ぐ発見でした。
アジアでの国で近代化のためにこの女性はこんなことをしたとか、いろいろ伝記があり、尊敬に値する人はどの国でもいます。
是非日本で映画祭をやった方がいいと思って何度か実現しました。
映画批評家としてやった中で自分で誇りにしていることです。
砂漠、家が一軒もないような荒野とかを背景にした映画はあるが、人があまり出てこなくてどこがおもしろいんだろうと思ったが、意外な面白さを発見することがよくありました。
どこにでも苦労があり、苦労を乗り越える知恵をそれぞれもっていて、一つの発見でもあります。
厳しい環境の中でもそれぞれの生活の知恵には吃驚して、そういったものが映画の面白さでもあると思います。

生活、どういうところではどういう暮らし方をしている、普通の人がどうやって何にもないところで暮らしていけるのか、これが日常生活なんだという事に興味を持てると、世界中観たい映画がどこにでもあるということが判ってきます。
共通性が判ってくると、世界を愛することができるようになる。
段々愛する世界が広まって、今やほぼ全世界になって、世界は愛するに足ると思っています。
戦争は映画で観ている限り、やはり戦争にも法則があって、世界がお互いが誤解しあう、世界を自分の目でちゃんと理解する精神が育てば世界は理解できるはずだと映画は教えてくれるが、中には世界を誤解させるような映画もあります。
それが良い映画悪い映画の区別になると思います。
TVこそ世界の隅々まで入り込みそこの国のあたりまえなことを描くが、映画は自分の国の特殊なところだけ強調してむしろ誤解を広めたような面もある。
日本と言えば侍という様なイメージは映画が作り出した面が大きいが、ごくごく普通のいろんな人たちがいて、そういう人間を愛情を持って描くという映画がどんな分野でも発達している。

世界中映画で知り合うことによって、世界中に向かって愛を持って呼びかける態度は、映画が作り出したし、TVがそれをさらに普及させた、これは非常に重要な映像文化だと思います。
映画は私にとって世界を見る鏡です。
世界中自分は或る程度知っているという自信が深まってゆく、誤解していたが今度そこの国で作られた映画を観たら、誤解を訂正する道が開けた、それが映画の発見です。
発見を重ねてゆく事によって誤解を乗り越えて世界中が理解しあえる、そういう理想に一歩一歩近づいているという事が、何十年の映画批評を書いてきたことによって成長してきたと思います。
文学は顔まで見える訳ではないが、映画だといろんな違った顔はあるが違った感情はそんなにない、共通の感情があるという事が顔で判る。
お互いが理解すると怖くない、世界中がお互いに相手を怖いと思わない、そういう状態を作り上げる力を持っているのは映画だと思います。














































2019年12月27日金曜日

中島信子(児童文学作家)         ・【人生のみちしるべ】"心の痛み"と生きる

中島信子(児童文学作家)       ・【人生のみちしるべ】"心の痛み"と生きる
中島さんが今年出版した児童文学作品「八月のひかり」が大人にこそ読んでほしい本として話題になっています。
テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
中島さんは1947年生まれ長野県の出身現在72歳。
1970年代に「薫は少女」でデビューし、「お母さん私を好きですか」など、子どもの心の痛みを描いた数々の作品を世に送り出してきました。
2000年代になって執筆から離れ、今回の「八月のひかり」はおよそ20年ぶりの作品として発表されました。
児童文学作家中島さんに伺いました。

朝4時半には起き、家族のことなどをします。
仕事の時間が無くて今午前中2時間ぐらいが限度で午後は1時間ぐらい、夜は疲れて本を読みたいと思ってもそんな力はなくなりました。
「八月のひかり」を出版、テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
ずーっと子供のことを思い続けてきて、これだけ物のある時代に何も買えないという現実の中にいると思うといてもたってもいられなくなり、記事、本などを読んできましたが、子どものことを書いてみないかと編集者の方から言われて書き始めました。
リアリティーのあるものを書きたいと思って、フードバンクが立ち上がったという記事を見て、第一回の総会があるという事で伺いました。
「貧困は見えない貧困ではなく、日本の場合は見せない貧困である」というひとことが痛烈に心に響きました。
見せてしまうといじめにあったりより苦しくなるという事です。
助けてという声があげられない状態が日本が抱える大きな問題だと思いました。
三人称でありますが、主人公の美貴ちゃんの目線で書いていきました。

貧困の母子家庭で暮らす小学5年生の少女美貴ちゃんが体の弱いお母さんを支え、弟の面倒を見ながら過ごす夏休みの物語。
いつもお腹がすいていてクーラーも使えず暑さを我慢する日々を過ごしています。
弟のためにお昼ご飯を作る美貴の様子が描かれている様子を朗読。
概略
弟に焼きそばを作ってあげたが、一人分しかなくてほとんどを弟に食べさせてあげてしまう。 弟がどうしてうちは貧乏なのかと聞かれるが、話をすると涙がでそうなので弟の目線から避けて外を見ている。
どうしてそんなことを聞くのか弟に問うと、「今日は言われなかったが、学校に行っているときはいつも言われているよ。」と弟は言う。
「祐樹んちは給食だけで生きているだろう」「お風呂に入ることはあるの」とか。
「お姉ちゃんも同じことをよく言われているよ」美貴は胸の奥が痛くなってきた。

モデルはいませんが、長い間子どもに対する思いが強かったので、それで生まれたかなあと思います。
2003年に孫が生まれ命の大切さをしっかりと見せてもらいました。
孫の時には一歩引いてきちんと生きてゆく事はどういうことかという事を教わった気がします。
子どもは4歳で親を許そうと思うんです、だから未来に向かってできるんじゃないかなあと思います。
虐待で殺される子も実はお父さんお母さんを許しているんですよね。
それを何故判ってあげないのかと思ってしまいます。

私は姉と弟がいますが、姉が生まれる時に父は太平洋戦争で出征するときと重なって、残していくことの思いがあって、父は無事に帰ってきて私と弟が生まれました。
母親は二人目の時に男の子が欲しかったが、女の私でした。
父は姉、母は弟への思いが強くて、何となく疎まれているような思いがありました。
小学校の3年生の時に、年がら年中母に叱られていまして暗い夜に外に出されていましたが、弟が何かで叱られて、その時初めて弟が外に出されました。
物凄く外で泣いている声が聞こえて、私も外に一緒に出てあげるよと言えば、弟も家の中に入れてくれるものとおもっていったら、「じゃあ、あなたも外に出ていなさい。」といったんです。
怖くないよと弟を膝に抱いて歌を歌っていたら、母が雨戸を開けてオレンジ色の光が漏れてきて、弟は縁側を走って行って母に抱かれたんです。
今日はいいことをしたなと思ったんです。

母のところに行ったら、弟を抱いた手のもう一方の手で私を押したんです。
「信子は自分で出たいといったんだから出ていなさい。」と言ったんです。
雨戸を閉められてしまい、漏れていたオレンジ色の光が消えて一層暗く感じました。
母は間違えているんじゃないかとずーっと待っていましたが、開かなかったんです。
どんなことがあっても泣かなかったんですが、その時は声が漏れないように拳固を口に当てて泣きました。
今日はいいことをしたのになんで判ってくれないのか、心の中でいつか大人に子どもの心ってこういうものなんだよと、絶対判ってほしいと願いました。
母が雨戸を開けて、漏れてきた光を鮮明に覚えています。
夕焼けの色はこういうものだとか、雪の冷たさはこういうものだ、嘘もついていないのに平気で嘘をついたという事など、しっかり記憶しておこうと思ったのが原点です。

子どもって本当に純粋で大人よりも繊細です。
大人の一言で相当いろんなことが認知できるんです。
行きついた先が児童文学だったんです。
親にとっては子どもは何人もいるのかもしれませんが、子どもにとってはお母さんは一人、お父さんは一人なんですよね。
短大卒業して出版社に勤めて体を悪くしてしばらく休むことになり、家にいると母と一緒になり、「若いのになぜ働かないの」といわたりして、希望が無くなりました。
読んりだ本のジェーン・エアが自分事のように思えて、自殺を考えて遺書をしたためて机に遺書を置いて、高崎で降りしきる雪を観ながら回顧していたら、そうだ私にはロチェスター(ジェーンと恋に落ち結婚する)の夢があるんだと思いました。
彼と出会ったのが23歳の時で16歳年上なので当然結婚していると思っていましたが、手を握ったときには暖かくて、母の手だと思ってずーっと歩いているときずーっと泣いていました。
母に抱いてもらったり手を握ってもらった記憶はありませんでしたが、母の手でした。
夫は優しくて母のような手でした、豊かな愛をもらったような気がします。
2010年に夫を失って、改めて命の尊さを思い知り、そのうえでの「八月のひかり」なんです。

「八月のひかり」の最後のシーン。
8月14日美貴はなにもすることがなくTVをつけるとおばあさんが戦争のことを語っている。
戦争で両親、兄弟が殺されて、7歳で一人ぼっちになり何度も死にたいと思ったが、生きようと思って必死で食べ物を探しビー玉のようなジャガイモを生で食べ、道端に腐りかけたキャベツを見つけたりしてそれを食べて生きてきて、もうあんな悲しい気持ちを今の子どもたちにさせてはいけません、という風におばあさんが語ってるシーンがあり、美貴はある決心をして希望を感じさせるラストシーンとなる。

お金がないために物が溢れている世の中で、何も買えない子どもはこのおばあさんよりももしかしたらつらいのではないかと思いました。
飢えというものの苦しみは人間の根源の苦しみであるという事を大人に判ってほしい。
見せない貧困を今後どうやって生きていくんだろうと思いました。
クリスマスでイルミネーションが輝き、何万円もするおせちがが捨てられてゆく、この落差ってどうなんだろうと思います。
文学の根幹は児童文学ではないかと思います。
子どもは本を読むことによって人生観が変わることがある。
戦争では多くの才能のある人たちが帰らぬ人となってしまいました、書けることのありがたさをいつも感じています。
















2019年12月26日木曜日

黒田泰三(明治神宮ミュージアム館長 )  ・【私のアート交遊録】美術を楽しむ自由な目とは?

黒田泰三(明治神宮ミュージアム館長 )  ・【私のアート交遊録】美術を楽しむ自由な目とは?
黒田さんは1954年福岡県生まれ、日本近世絵画史が専門です。
出光美術館学芸部長や理事を経てこの10月に明治神宮ミュージアム館長に就任されました。
明治神宮ミュージアム館は来年に鎮座100年を迎える鎮座100年祭の一環として開館しました。
設計は新国立競技場を手がけた建築家の隈研吾さんです。
ご祭神の明治天皇、昭憲皇太后ゆかりの品々をはじめ、明治神宮宝物殿からご祭神ゆかりの品々を移して収蔵しています。
館長に就任した黒田さんは学生時代から40年余り日本美術史を研究を続けています。
アニメの先がけともいわれる伴大納言絵巻、日本人が大好きな長谷川等伯の松林図屏風、伊藤若冲の動植彩絵などを例に黒田さんに自由な目で見ると、どう日本絵画の面白さが増すのか、明治神宮の宝物の持つ魅力と合わせて話を伺いました。

専門が日本近世絵画史。
子どもの頃からを絵を描くのが好きでした。
小学校6年生の時にスケッチをするときに、当時さびれた街の絵を描いたら先生が私の色使いをとても心配しました。
黒、暗いグレー、焦げ茶色とかを多用したら、この子は問題があるのではないかと親が呼び出されました。
中学でも田園風景をスケッチに行ったときに書きたかった遠くの山を小さく書いたら、大きく書かないと伝わらないといわれて、エッと思ったんですが、葛飾北斎の富士山も小さく書いているので、後から思うとそれでもよかったんじゃないかと思いました。
高校の時に美術の授業で石膏を使ったデッサンをやっていた時に、線で立方体をかいたら「黒田、世の中に線というのは無いんだ、全部面の組み合わせなんだ。」といわれて、面白いと思いました。
大学では美楽美術史という研究室に入りました。

母が鉛筆で絵を描くのが好きでした。
大学が福岡にあったので福岡周辺お寺の仏教美術の調査をやっていて、毎週お寺神社に行っていて、日本の美術が肌に合ったようでした。
浮世絵が好きでしたが、日本近世絵画史の道に行きました。
平安の絵巻、鎌倉の水墨画、室町の屏風など美の変遷みたいなことを日本美術史を学びながら知ることになりました。
日本人の表象能力の可能性みたいなことをずーっと考え続ける学問だと思ったので刺激的な内容だと思うようになって、取り上げる作品が生まれた時代が平安から室町と広かったので、日本美術史を総覧できるような美の変遷を考えることができたので 、日本人はいろんなことを考えて、いろんな形や色を使ってその時々に受け入れれることを知ることができて、幸せな時間を与えくれたような気がします。

日本近世絵画史としては、まず狩野派という画家集団があって250年ぐらい画壇を引っ張っていくわけですが、いい場面、悪い場面が、狩野派がいたことによって美術史が染まってゆくところもあります。
安土桃山時代から江戸初期にかけては狩野派が優れた表現力、アイディアだったが、その後マンネリ化の批判を受けるようになる。
その前、狩野永徳、狩野探幽の時代に、アンチ狩野派がいたから全体が面白く豊かになって行くという事を初期の日本近世絵画史から学びました。
私が学芸員になりたてのころは全く日本美術には興味を持たれていない時代でした。
それを思うと隔世の感があります。
絵巻、伴大納言絵巻はアニメの源流という言い方をすることができる。
伊藤若冲、江戸時代後半(狩野派がマンネリ化する)アンチ狩野派の花が咲くが、ポップアート、軽い色彩、ちょっと形が加工された面白さというところに惹かれているようにも見える、現代のアートに通じる要素だと思う。

長谷川等伯の松林図屏風、人を癒す力があると思いました。
濃い墨と薄い墨を絶妙に組み合わせていって、観ていて心を落ちるかせるような墨の使い方、筆の使い方があると思います。
長谷川等伯の心の風景ではないかと思うようになりまして、一番プレッシャーを受けた仕事が京都の智積院に残っているが、その前に祥雲寺というお寺のために書いて、それがそっくりそのまま残っているが、秀吉の子ども鶴丸が3歳で亡くなりその菩提寺になっているが、それまで狩野派が秀吉関係の仕事を全部やってきていた。
しかし長谷川等伯に依頼が来た。
長谷川等伯には狩野派を越えたいという野望があり引き受けたがプレッシャーを感じた。
秀吉に駄目だと言われたらそこでおしまいになるし、3回忌の法要という時間の期限もあるということで凄いプレッシャーになった。
自分自身に対するやって行けるかという根本的な不安もあり、命がけという思いがあり、そういった時に松林図屏風を描いたと思います。
観る人にそういったなにかを訴える力がこもっているんだと思います。

絵の中に入るようなつもりで絵を見る。
例えば松林図屏風を見る時に、松林図屏風という世界に自分が入って言ったらどうかという事を考えるわけです。
絵との距離が縮まる感覚が味わえる。
絵の中に書いてるものをひとつづつ言葉に置き換えていけば、画面の中に近づいていく感覚になれると思う。
一つ一つのモチーフを自分の言葉で語ってゆく。
例えば松林図屏風を見る時に、一番右にちょっと左に傾いた松がある、その左にちょっと薄めの松の木がある、五本松の木があるとその左に余白がある、その左に又松の木がある、松の木の特徴、枝の本数、葉っぱの書き方が激しいとか自分で気が付いたことを言葉に置き換えてゆくと、絵までの距離が無くなる感覚になってゆく。
掛け軸の山水図は下から見て行く暗黙のルールがあるので、下から順番に同じようにしてゆくと、十分楽しめます。

明治神宮ミュージアム、明治神宮を知っていただく、明治神宮の森を知っていただくための情報を発信する場所としての施設です。
宝物殿が国の重要文化財になり建物を守らなくてはいけない、別館も展示環境が万全ではないという事もあり、明治神宮も来年鎮座100年を迎えるという事もあり、新たな展示施設、保存施設を作りたいとうう事で明治神宮ミュージアムを作ることになりました。
、明治時代の歴史的な側面だけではなくて、形あるものの美しさを通して明治神宮への理解、明治天皇、皇太后への理解を一層深めていただきたいと考えるようになりました。
明治天皇のおめしになったもの、皇太后のおめしになったドレスなどしっかりできていて細部が非常に美しいという事を伝えたいです。
日本の美の特徴は細部にこだわったことにあると思います。
日本人の自然観、神秘的なものに対して畏敬の念を持つ、自分は謙虚なものとして自然に接するという事を思い知らされた気がしました。
折り目正しさが細部に美を宿らせているという事を、支えているのではないかと思うようになりました。
明治神宮ミュージアムに来た人日本人、外国人に折り目正しさを知っていただければと思っています。
明治天皇が乗られた馬車(6頭曳き儀装馬車 イギリス製)が好きですね。






















木があると























































































2019年12月25日水曜日

森 昭彦(サイエンス・ジャーナリスト)  ・【心に花を咲かせて】野菜の不思議にみせられて

森 昭彦(サイエンス・ジャーナリスト)  ・【心に花を咲かせて】野菜の不思議にみせられて
森さんは野菜は知れば知るほど面白いと言います。
日本にある野菜はもともと海外から日本に入ってきて定着したものが多いそうで、原産地周辺に残る原種や原種に近い品種が色も風味もまるで違っていたり、使われ方に吃驚するものがあったり、野菜にまつわる伝説や伝承も面白く、その地域での野菜と人との関わりが見えてきて興味深いそうです。
確かに森さんが書かれた本を読みますと野菜についての知らない話に驚きの連続でした。
森さんに興味深い野菜の話や何故野菜のことを調べるようになったのか伺います。

最近野菜の売り場にいくと今まで見たことのないような野菜が並ぶようになりました。
ロマネスコ、チコリトレビーゾ、ベルギーエシャロットとかなんだかわからない野菜があります。
若い人たちが新しい野菜を集中的に育ててイタリアンレストランにおろしたりする方々が増えてきました。
日本古来からある野菜は実はものすごく限られていて、ウリ、ナス、大根などは海外から入って来た野菜です。
平安、安土桃山、一番多かったのが江戸から明治にかけて、どんどん多くなってきました。
日本の売り場で普通に並んでいる野菜は約150種類ぐらいです。
野菜は時代によって変わってきます。

ヒユ、アザミ、ナズナ、タデ、セリも昔は野菜として育てられていました。
湯がいてお浸し、魚の付け合わせなどに使われてきました。
日本人は魚が好きで当たる方がいて、食あたりを防ぐためにタデなどは付け合わされるようになりました。
刺身などに赤い小さな双葉がてんこ盛りでついていますが、タデの赤ちゃんの双葉でそれを食べることで生魚に当たるのを防ぐのが、平安時代の宮廷貴族のたしなみだったんです。
ヒユは今も山菜料理として使われています。
おひたし、炒め物で使われます。
イヌビユというヒユは葉の先がハート型になっていて、日本に古く帰化した種類で癖がなくおいしいです。
スベリヒユは野草として食べます。
夏場にそうめんの薬味として食べられます。

ヨーロッパでも野菜という概念ができたのは中世以降です。
その前に野菜というと豆類しかなかった。
ソラマメも芽生え、茎葉の柔らかい所は塩ゆでしたり、スープに入れたりして食べていました。
人の動きのあるところには必ず美味い植物はついていきました。
ジャガイモ、玉ねぎなどヨーロッパに入って来たのは16世紀になってからになります。
ジャガイモ、トマトは入った当時は大不評で食べなかったそうです。
ジャガイモはナス科の植物で、その前にナス科の植物は有毒植物があふれていてこれに当たる人が多発して問題になっていました。
ジャガイモはナス科の植物という事で、ジャガイモは毒物だというイメージがついてしまいました。
毒はジャガイモの芽だけではなくて皮の部分にもあります。
でも陽の当らないところで管理すれば、皮も食べても大丈夫です。
電気の当るところでも、生きているジャガイモは駄目です。
傷ついたところを守ろうとして有毒な物質を出して守ろうとします。
売れ残って芽がでていたり、皮がうっすら緑がかっていると当たりやすいです。
当たると頭痛、めまい、吐き気に襲われ苦しみます。

スイカの原産はアフリカの中央部で、人に運ばれて古代エジプト文明にたどり着いて、苦いため薬草として使われていました。
ビー玉のおおきいものぐらいで小さかった。
有毒植物で、その中の種を取って薬用にしていました。
ウリとかキュウリとかと交配したりして、少しずつ大きくなってきて甘みも出てきました。
地中海を渡ってローマに2000年前ぐらいに到着してやや甘くなってきたそうです。
身は使われずに多くは種と皮が使われていました。
皮の白い果肉部分は絞って目薬にしていました。
皮でごしごしすると肌つやが良くなる。
スイカの根っこを乾燥させ粉末にして美容液として肌に付けて貴婦人たちは色つやを守っていた。
抗酸化物質が皮に多くあり、コラーゲンとかの組成を助ける可能性があるのではないかという論文がいくつか出ています。(緑の部分と白い部分との境目)
種の中身を出して、から入りするとおいしいです、中東では行われています。
スイカを焚火の中に入れて焦げたものを粉末にして布に入れ、火をつけると爆発するような火花が散って燃え始めて、ちょっとした火薬の原料とかに使われていました。
煮炊きのための火付けの素材として家庭の主婦が使っていました。
バングラディッシュなどではスイカの種を脳の強壮剤として使われていた。

今新しい野菜が入ってきています。
イタリアで栽培されているパースレイン、日本にはいってきて盛んに栽培され始めています。
見た目はスベリヒユが大きくなった感じです。
ミネラル、ビタミンがたっぷりで肉魚料理にも合って生でも食べられます。
ロシアは敗血症を起こしやすかった、ニンニクを摺り下ろして直接患部に塗るが沁みないんです。
ニンニクの成分には炎症を鎮めたり、痛みを鎮めたり、ばい菌を寄せ付けないなどの作用があります。
ロシアでは重要軍事物資として第一次、第二次世界戦で大いに利用されました。
ソラマメは恋愛に使われたそうです。
イギリスのおじいさんおばあさんがたは「お前に気に入った娘がいたら負ぶって、ソラマメ畑まで連れていけ、そうしたら彼女はお前のものだ」といったそうです。
花の匂いは甘い香りがして幸せな気分になるんです。
男女の恋愛の炎を燃え上がらせるといわれていました。
春の日にキャベツ畑に男女が集う会が昔あり、相手が自分の結婚相手にふさわしいかどうかの占いをして、キャベツを引っこ抜いて、土の量が多いと伴侶はお金持ち、少ないと貧乏人、根っこが太ければいい男、細ければ貧相な男、という事で占いをするそうです。
日本の場合はそういった伝承はあったと思いますが、忘れられてしまったようで伝わってきていないです。

キャベツのもっているキャベジンはs-メチルメチオニンは胃だけでなくて腸にも正してくれます。
キャベツに含まれるビタミンは豊富でB1、B2は肝機能を補強したり保護してくれるのではないかという事で注目されました。
蒸して食べるとビタミン類の損傷がほとんどないです。
生だとお腹が膨れてガスがたまったりします、食べ慣れていないと不要なガスが出てきてしまいます。

野菜に興味を持つようになったのは100%妻の影響です。
妻は有機無農薬で野菜を育てているので、虫、雑草が多くなってしまってめんどうをみてほしいということになり野菜の触れる機会が多くなり、野菜について調べ始めているうちに面白くなってしまいました。
野菜は人の歩みと共に形、味も変わりました。
自分の身を守るため、特殊な畑という環境で生きるために自分たちの体を作り変えてきました。
レタスも毒草でした。
阿片、モルヒネが治療で使えない場合は、野生のレタスを使うぐらい麻酔の効果がありました。
土で育てたレタスはちょっと苦みがありますが、そこに含まれているラクチュコピクリンは苦みの元で麻薬性物質になっていて虫の害から自分を守ろという事を堅持しています。
2年ぐらい前に帯状疱疹になってご飯が食べられなくなって、野菜なら食べられて私は最近では8割以上は野菜でほかに肉、魚などを食べています。

















2019年12月24日火曜日

大橋洋平(医師)             ・患者風を吹かせて ~緩和ケア医ががんになって

大橋洋平(医師)         ・患者風を吹かせて ~緩和ケア医ががんになって
大橋さんは1963年三重県生まれ、三重大学医学部を卒業後、総合病院に内科医として勤務していましたが、終末期医療に関心を持ち2003年大阪の淀川キリスト教病院でホスピス研修を受けました。
まだ緩和ケアという言葉が広まる前で、終末期の心と体を支える総合的な医療の筆頭がホスピスだったのです。
その後現在も非常勤で勤める愛知県の病院で緩和ケア医として働き始めました。
医師生活30周年の2018年、去年の6月にご自身のがんが見つかって手術、抗がん剤治療を続けながら仕事を続ける一方、新聞への投稿をきっかけに講演や執筆を通してご自身の経験を発信しています。

現在はいい時もあれば悪い時もあり波があります。
抗がん剤治療中で副作用もあるが、全体的に見ると外出もできるし、自分の中ではいい方だと思っています。
消化管、胃の中から大量に出血をして、下血、真っ黒い便が出たのが最初です。
午前3時ごろトイレにかけこむと真っ黒いものが出て、部屋に戻って間もなく2回目の下血がでて、間違いなく出血であると判断して、胃がんではないかと腹をくくりました。
がんの告知をされましたが、冷静には聞けました。
腫瘍はかなり大きかったです、10cmぐらいあり吃驚しました。
悪性度は5ぐらいならばいいなあと思っていましたが、181あり、これを聞いた時にも一桁違うのではないかと吃驚しました。
飲み薬の抗がん剤の治療が始まりましたが苦しかったです。
手がしびれるとか、食べられないとか、味覚がやられるとかは患者さんから聞いてはいましたが、半信半疑のところもありました。
自分が始めると、食欲がでなくて、吐き気があり、消化液が逆流してのど焼けなどがありまして、まっすぐな姿勢で寝られませんでした。

大学を卒業をして内科医を10年余りやってた時に、消化器系の内科の患者さんにかかわっていました。
胃がん、肝臓がんなど外科手術をしたりして、治療が難しくなると内科で見ていたことが多かったんです。
終末期の人もいて、20年前にはがんという事を知らされずにいた人達がいました。
当人は段々身体が衰えてくるのが判り、腫物に触るようにして時が過ぎて行き、いつか患者さんとのお別れが来る。
或るとき、ふっとあの方々ががんと知っていたら、また違った生き方もあったかもしれないと思いました。
がんの告知さえも、その技術、経験、知識も持ち合わせがなく引き下がっていました。
終末期の患者さんにかかわるような医者はまだ当時いなくて、そういうところにかかわっていけたらいいなあと思い、ホスピス緩和ケア医を目指しました。

病院を辞めて、経済的にも厳しさがありました。
ホスピスを長年やっている病院で働けたら良いなあと思っていたら、淀川キリスト教病院で1年間研修させてもらえるというご縁がありました。(40歳ぐらいの時)
自分の大阪での生活、家族を養うとなると多少の給料はもらえましたが、難しい状況ではありました。
妻も看護師なのでホスピスに関心があり、私よりも先に知識とか研修とかも受けに行っていましたので、導いてくれたのかもしれないです。
愛知県の緩和ケア病棟では平日の夜間、休日も緩和ケアの医者が応対する体制になっていて、夜間、休日は当番制でした。
拘束されるところもあり常勤を辞めて非常勤にさせてもらいました。
病気をしてからも私の中では仕事に復帰しやすかったなというのがあります。

患者風を吹かせる・・・その方が気楽に生きられると思います。
患者ではない人たちから比べると弱い立場だと思います。
自分が患者であることをオープンにして大げさに言うぐらいの方が楽に生きれると思って、周りにもっと言いたいことを言って、場合によっては患者だからもっと気遣って、という様にした方がいいと思って私は言っています。
手術をして退院したときには食べられなくて、妻が茶碗に盛って食べさせようと持ってくるんですが、「そんなもの持ってくるな」と声を荒げたこともあります。
がんは苦しいなあと弱音も出ます。
手術の痕が30cmぐらいあり、その痛み、それとあくび、しゃっくりでも痛いし、くしゃみをすると激痛が走ります。(術後1か月は厳しかった)
術後は管が付くので拘束感がありなかなか動けないが、医師としては動くように指示していましたが、自分のことで気づきました。

「1年を振り返って」という事で募集がありました。
焦らなくていい、食べれなくてもいい、という思いが凄く楽になりました。
そういったことを書いてみようと思いました。
それが新聞に載ることができました。
色々反響がありました。
去年の11月頃までは食べなくてはと思って焦っていましたが、でも半年食べられなくても生きてこられたと思ってどうしていこうかと考えていたら、妻が「しぶとく生きたらいいんじゃないの」とつぶやいたんです。
よろよろよろけても倒れても地面を這ってでも生きていこう、これがしぶとくかなあと思って、一段と気楽に生きられるようになりました。
妻と息子がいなかったら、多分私は生きていないだろうし感謝感謝以外にないです。
多くのがん患者さんはこれからどのぐらい生きられるだろうと気になっていると思います。
データに基づいた余命はあるかもしれないが、自分としての余命は判らない。
判らないんだったら気にしてもしょうがない、だったら一日一日の積み重ねで足してゆく方が自分にはうれしいと思ったんです。
一日目をどこに決めるかですが、肝臓への転移が判った今年の4月8日です、これが私には気持ちが一番へこんだ日になりました。
4月8日を1日目としてやっています。
緩和ケアの医者として、医者を目指している人たちに何か示せたらいいと思って、がんて苦しい、患者さんて苦しいという事と、患者になると医者のことをとっても信頼するという事をつくづく感じています。
頼られるという事はやりがいにもなるし、医者の生き甲斐にもなるだろうし、医者になろうと目指している人たちに知らせたいと思っています。
終末に近い方が「先生は別に話など聞いてもらわなくてもいいんで、病気を治してほしかった。」といったんです。
その通りの部分もあると思いました。
しかし治療が難しくなったり治療ができなくなった時に、治療における技術、知識は役に立たない。
その時に力になるのが医者の言葉がけになってくると思います。
終末期がん患者に対するコミュニケーションはその技術、知識があってそれを学んでほしいと思います。
治療が難しくなってもコミュニケーションなどでいけばいいし、患者さんが救われるとそれに関わる医者ももっと楽にやっていけると思います。
獣医が動物が好きなように、人間のことがメチャクチャ好きだという人たちが医者を志してもらってもいいんじゃないか、将来人間力という事につながるのではないかと思っっています。
よりどころになっているのが好奇心、もう少し言うと出会いかなあと思っています。
新しい出会い、再会、こととの出会い、ものとの出会い、この出会いが支えになっています。
「一期一会」という言葉は好きですが、自分でアレンジして「一期二会」、最初で最後だったら再び会えない可能性があるが、次にまた会いたいという出会いにしたい。