平田オリザ(劇作家・演出家) ・"演劇"の力でまちを作り直す
平田さんは56歳、東京駒場にある劇団青年団を主宰し戯曲と演出を担当されています。
青年団の劇場は海外の劇団との交流の場ともなっており平田さんの作品はフランスなど世界各地で上演され高い評価を得ています。
国内では平田さんの演劇論は小中学校の国語の教科書の教材にも採用され子どもたちが教室で演劇を創作しています。
大阪大学、東京芸術大学など大学教育にまで広がりを見せています。
6年前には兵庫県豊岡市のアートセンターの芸術監督に就任するなど演劇を通して街づくりにも取り組んでいます。
大阪大学が本部校ですが、東京芸術大学など全国の客員教授をさせてもらっています。
東京芸術大学では演劇学部はありません、普通外国の先進国では国立大学、州立大学には演劇学部はありますが、唯一日本だけはありません。
兵庫県豊岡市に徐々に拠点を移すという事でまず私が先月末に引っ越しました。
2021年に開校を目指して日本で初めて演劇、ダンスを本格的に学ぶ大学ができます。
仮称で兵庫県立の国際観光芸術専門職大学という事になっています。
演劇を学問として学びたいという学生が結構います。
世界に通用するオンリーワンの大学をつくりたいと思っています。
地方は人口減少が激しいが大学がきちんと運営されれば相当人口減に歯止めができることが期待されます。
高度経済成長はもう無理だと思っていて、日本は最も早く超高齢化社会を迎えるし人口減少は歯止めはかからないと思います。
移民という選択指もありますが、日本では急速に入れると混乱することがありますし、ゆっくり確実に入れてゆく方がいいと思います。
東京は圧倒的に出生率が低く1.2ぐらいになっていますが、豊岡市は1.8ぐらいになっています。
若者は東京に集中してしまう。
若者が地方に戻ってこない理由は3つあると思います。
①教育
②医療
③広い意味での文化
教育、医療は大分よくなってきているが、田舎はつまらないといいます。
面白い街づくりをしないといけないと提言してきました。
私は演劇なので演劇を核にして街の再生のお手伝いをしてきました。
仕事があれば男は就職口があって戻ってくる、奥さんは付いてくるという発想ですが、奥さんが反対する移住は考えられないと思います。
奥さんの一番の関心は子育て、教育だと思います。
住みやすい、住んで楽しい街を選んで若者は帰ってきます。
北海道東川は写真の街東川という事で一時6000人にまで減少しましたが、8000人ぐらいに増えてきています。
香川県の陶(すえ)小学校で先生方が演劇を核に取り入れてみようと考え、週に1,2時間演劇の授業を取り入れました。
国語の授業と連動させました。
演劇的手法を使った授業で成果を上げた小学校も出てきています。
私は先生方の指導などをしてきました。
班ごとに発表してそのどこが良かった、どこがおもしろかったなどをほかの子たちが言いますが、全員が手を挙げて褒めて活発にできていました。
演劇教育の利点は居場所が作りやすい、役割分担がしやすい。
これからの多文化共生型の社会にとっては非常にいい教育効果があるのではないかと思っています。
日本では一般的に自己肯定観が低い。
自己肯定観を高めていくと学力テストの成績も上がってゆく。
非認知スキル、数字では表せない機能、集中力、忍耐力、やり遂げる力などいろいろあります。
その中でも自分を大事にする気持ち、友達と一緒にやる事が楽しい、そういう能力が最終的には学力テストに関係してくる。
世界の先進国では、高校では音楽、美術、演劇ですが、日本では音楽、美術、書道です。
演劇をやっていない国は非常に珍しい、演劇はやってこなかったので試してみるのもいいんじゃないかと勧めています。
四国学院大学に演劇コースをつくりました。
今は青森、沖縄からもわざわざ来て入学してくれます。
週末を集中講義の時間にあてて東京からトップクラスの若い演出家を呼んで東京と遜色のない授業をしています。
4年間演劇に打ち込んだことがその人の人生を豊かにすることが一番大事だと思っています。
コミュニケーション能力の必要な職業が今後どんどん増えてゆくと思います。
幼稚園で音響や照明に詳しい先生がいれば格段に良くなります。
大学でやってきたことを生かして少しずつ周りを幸せにしてくれる人が育ってくれればいいと思います。
兵庫県の豊岡市、1000人収容の会議場がほとんど使われていなかった。
県から市に払い下げることになったが、市長が劇団とかダンスの集団に貸したらどうかといいだして、たまたま担当の方から相談を受けました。
上演をしない稽古場だけの施設をつくりました。
交通事情の難しい所でしたが蓋をあけたら世界中の地域から応募があり、来年度も23か国から80件ほどの応募が来て、そこから15団体選んで1~2か月滞在してもらうという事です。
滞在するアーティストは無料で使えますが、最後の成果発表してもらう事になっています。
世界最高レベルのダンス演劇を市民が無料で見られるという環境になっています。
東京文化会館などで見る演劇が豊岡が今生産地になっています。
城之崎 文人などが多く滞在しています。
「21世紀の城之崎にて「」ができるかもれない、小説ではなくてどんな芸術になるのかはわからないが、今度は世界に発信できる。
いい作品ができればできるほど豊岡、城之崎が世界に広まってゆくという事です。
地方都市の風景が画一化してきて、失ってしまったものが多い。
インターネットの通販によって、郊外型のショッピングセンターも危なくなって来るかもしれない。
人と人の出会う場所をつくれば地方にもチャンスはあると思います。
地方はまだ豊かな文化、人的資源を持っていると思うが、生かされていないのは、自己決定能力に欠けているのではないかと思います。
リスクをとって自分の判断で街を作ってゆく。
そういった自治体だけが生き残っていくんだと思います。
そうではないところは広告代理店、コンサルタントにみんな相談しますから。
そこでは何百という自治体から相談を受けていて当然同じことになります。
それぞれの伝統とか強みを生かすという事なんだと思います、足りない人材は外から引っ張ってくる、広告代理店、コンサルタントに丸投げしている自治体は生き伸びてはいけない。
市民全体の自己決定能力(文化の自己決定能力)を高めてゆくしかないと考えています。
自分で考える力を教育に入れてゆくしかないと思っています。
宮沢賢治は昼は農作業、夜は演劇、音楽を楽しんだり、エスペラント語を勉強したり哲学の議論をしたりする協同組合みたいなものをつくりました。
自分たちでなにを作りどう売ってゆくかを自分たちで考え実践できる能力がないといくら農業の技術だけ発展させても自立できないと、そのためにはセンスが必要でそのセンスを磨くのは音楽、演劇、絵画、アートなんだと。
井上久さんは宗教だけでは熱すぎる、科学だけでは冷たすぎる、その中間に宮沢賢治は芸術を置いたんじゃないかと言っています。
2019年10月31日木曜日
2019年10月30日水曜日
堀澤祖門(天台宗三千院門跡・門主) ・悟りを求めるわが人生
堀澤祖門(天台宗三千院門跡・門主) ・悟りを求めるわが人生
昭和4年新潟県おじや市生まれ。
小学生のころから日中戦争、太平洋戦争と続く中、中学時代には軍需工場に勤労動員されたりさらに海軍兵学校に入学と、戦争が日常の時代を送りました。
戦争が終わり昭和22年旧制新潟高校に入学します。
ここでは新入生は全員寮生活。
堀澤さんは上級生の寮長が語る「再誕」という言葉に感銘を受けました。
「再誕」この世に生まれかわるという事ですがこの言葉に強く共感したのです。
その後京都大学経済学部に進学しますが経済学に関心を持てず人生に悩み、或る時は比叡山をさまよい歩き白い霧と山の緑に包まれているうちに自分が感性を失っている事に気付きます。
これがきっかけで天台宗の修業僧の世界に飛び込みます。
学生服のまま修行に見習いをしていた堀澤さんは千日回峰行者の葉上 照澄(はがみ しょうちょう)さんに出会います。
その時命がけで修行の道に入れば「再誕」の問題が解けるのではないかと思ったのです。
堀澤さんは12年籠山業を戦後初めて成し遂げます。
三千院は1200年の伝統を持つお寺。
伝教大師(でんぎょうだいし)のお住まいとして建てられたのが始まりといわれる。
皇室の方々が出家してお入りになったので門跡という事になりまして、大原は三千院の領地として統括していました。
明治の初めごろに「三千院門跡」といわれるようになりました。
6年前に門主(もんす)(62世)となりました。
伝教大師は道心という事を大事にされました、「道心ある人を名付けて国の宝となす」と言っています。
悟りを求める心を持っている人を道心と言います。
昭和4年新新潟県小千谷市生まれで8人兄弟の7番目でした。
小学校6年の時に太平洋戦争、中学校は軍事工場へ勤労動員、中学校4年生で海軍兵学校佐世保の予科兵学校へ、空襲があるのでほうふ?に疎開、そこで集団赤痢になってしまった。
かなりの人が亡くなりました。
父が無理に連れて帰りました。
あまりに衰弱しているので駄目だと周りでは思っていた様ですが、希望があったので生き延びたと思います。
友人が上の学校へ行こうという事だったが貧乏でいけないといって、受験勉強だけ付き合うことになりました。
新聞紙に合格の発表があり受かったのを知り二人で喜んで抱き合いました。
それを見て母親が父親に頼み込んで学校に行けることになりました。
昭和22年旧制新潟高校に入学して、全寮制の寮に入りました。
寮長が語りだしたのが「再誕」という言葉でした。
自分を本当に生みなおさなくてはいけない、今までは両親に産んでもらっただけで、両親の世話でおんぶにだっこでした。
「どこにお前の本物があるのか、この高等学校は本当の自分の人生をつかむかどうかの正念場の場所だ」といって、そのためには自分をもう一遍見なおせということでした、それが「再誕」と言いますが、非常に感動しました。
再誕するという事は悟りを身に付けるという事に代わってしまって、私の公案になってしまいました。
まず知識がないとだめだと思って、古今東西の古典に学ぶしかないということでそのことが3年間の大きな仕事になりました。
哲学はやればやるほど、即答のあるものではない。
法然、親鸞の概説書などを読みました。
自力万能で来た人間が「他力」という言葉に出会って、阿弥陀仏の力を「他力」というが、他人の力としか理解しないから、にっちもさっちもいかなくなった。
哲学書を読んでも救われなくて、哲学の冷たい理論だけの世界に対して信頼感を失って自分の行くべき道が判らなくなってしまった。
京都大学の経済学部に進学するが、なんでこんんな所に来てしまったんだという事で2か月ぐらい下宿でゴロゴロしていました。
夜中も眠れなくて、何故か比叡山という想念が頭に飛び込んできました。
比叡山に行かなければいけないと思って(昭和25年の時)5月に冷たい霧と新鮮な緑の中を歩いていたらいつの間にか気持ち良くなっていました。
理性だけを使って3年間やってきたので感性というものを無視していた。
冷たい霧と新鮮な緑が全身に伝わってきたのでそれが喜びに変わったんでしょうね。
あるお坊さんに出会って、寺で生活することになりました。
葉上 照澄あんが(はがみ しょうちょう)が千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
葉上さんは第六高等学校 (旧制)から東京帝国大学文学部哲学科を卒業し同年、大正大学で専任講師となり、来ていました。
彼は日本はこれからどうするか、教育だ、教育しかないと思っていました。
彼は叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会い、弟子になり千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
そこで私が叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会って、行者になるしかないと思いました。
比叡山では本格的な修行としては回峰行と籠山行があります。
叡南 祖賢(えなみ そけん)の弟子になって、オーソドックスな修行がしたいといったら、千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいないと勧められました。
籠山行は師匠がいなかったので、本を読んで見様見真似でやりました。
山は湿気が多くて、体力が徐々に落ちてきました、慢性的な下痢になりました。
佐保田鶴治のヨガ指導を受けながら、満行しました。
「身心脱落」 道元禅師の禅を考える上で非常に大事な言葉。
身体も心も抜け落ちてしまったのが「身心脱落」です、つまり「空」になってしまったという事です。
相対関係があるうちは空ではない、私とあなたがいるので、仏教では色と言います。
目に見えるものは全部色なんです。
色は空であるという事を般若心経で言っています。
空でなお且色である、色即是空、空即是色と言っています。
相対関係の価値観しかない、それは迷いです。
もともと一元から人間は生まれてきた、生まれるという事は一元から二元に来るという事で、死ぬという事は相対関係から一元に戻る事。
相対になると「俺が、俺が」という事が出てき、自分中心になる、欲の塊になる。
権力を欲しがりお金を欲しがり、愚の骨頂だが気が付かない。
それがお互いに戦争という事を起こして駄目にしようととしているからとんでもない。
迷うから苦しむ、相対関係という枠の中にいるから苦しむ。
相対という枠を取っ払えばいい、それが道元のいう「身心脱落」であり、釈迦のいう事です。
修行は同じことをやるが、頭で判ったことをそれを身体に判らせるためにやるわけです。
釈迦は「生老病死」という枠を外した。
二元は相対です、『一元絶対」という言葉があります、もともと一つしかない。
絶対は相対関係を絶すること、二元が無くなったという事が一元、「身心脱落」が一元です。
昭和4年新潟県おじや市生まれ。
小学生のころから日中戦争、太平洋戦争と続く中、中学時代には軍需工場に勤労動員されたりさらに海軍兵学校に入学と、戦争が日常の時代を送りました。
戦争が終わり昭和22年旧制新潟高校に入学します。
ここでは新入生は全員寮生活。
堀澤さんは上級生の寮長が語る「再誕」という言葉に感銘を受けました。
「再誕」この世に生まれかわるという事ですがこの言葉に強く共感したのです。
その後京都大学経済学部に進学しますが経済学に関心を持てず人生に悩み、或る時は比叡山をさまよい歩き白い霧と山の緑に包まれているうちに自分が感性を失っている事に気付きます。
これがきっかけで天台宗の修業僧の世界に飛び込みます。
学生服のまま修行に見習いをしていた堀澤さんは千日回峰行者の葉上 照澄(はがみ しょうちょう)さんに出会います。
その時命がけで修行の道に入れば「再誕」の問題が解けるのではないかと思ったのです。
堀澤さんは12年籠山業を戦後初めて成し遂げます。
三千院は1200年の伝統を持つお寺。
伝教大師(でんぎょうだいし)のお住まいとして建てられたのが始まりといわれる。
皇室の方々が出家してお入りになったので門跡という事になりまして、大原は三千院の領地として統括していました。
明治の初めごろに「三千院門跡」といわれるようになりました。
6年前に門主(もんす)(62世)となりました。
伝教大師は道心という事を大事にされました、「道心ある人を名付けて国の宝となす」と言っています。
悟りを求める心を持っている人を道心と言います。
昭和4年新新潟県小千谷市生まれで8人兄弟の7番目でした。
小学校6年の時に太平洋戦争、中学校は軍事工場へ勤労動員、中学校4年生で海軍兵学校佐世保の予科兵学校へ、空襲があるのでほうふ?に疎開、そこで集団赤痢になってしまった。
かなりの人が亡くなりました。
父が無理に連れて帰りました。
あまりに衰弱しているので駄目だと周りでは思っていた様ですが、希望があったので生き延びたと思います。
友人が上の学校へ行こうという事だったが貧乏でいけないといって、受験勉強だけ付き合うことになりました。
新聞紙に合格の発表があり受かったのを知り二人で喜んで抱き合いました。
それを見て母親が父親に頼み込んで学校に行けることになりました。
昭和22年旧制新潟高校に入学して、全寮制の寮に入りました。
寮長が語りだしたのが「再誕」という言葉でした。
自分を本当に生みなおさなくてはいけない、今までは両親に産んでもらっただけで、両親の世話でおんぶにだっこでした。
「どこにお前の本物があるのか、この高等学校は本当の自分の人生をつかむかどうかの正念場の場所だ」といって、そのためには自分をもう一遍見なおせということでした、それが「再誕」と言いますが、非常に感動しました。
再誕するという事は悟りを身に付けるという事に代わってしまって、私の公案になってしまいました。
まず知識がないとだめだと思って、古今東西の古典に学ぶしかないということでそのことが3年間の大きな仕事になりました。
哲学はやればやるほど、即答のあるものではない。
法然、親鸞の概説書などを読みました。
自力万能で来た人間が「他力」という言葉に出会って、阿弥陀仏の力を「他力」というが、他人の力としか理解しないから、にっちもさっちもいかなくなった。
哲学書を読んでも救われなくて、哲学の冷たい理論だけの世界に対して信頼感を失って自分の行くべき道が判らなくなってしまった。
京都大学の経済学部に進学するが、なんでこんんな所に来てしまったんだという事で2か月ぐらい下宿でゴロゴロしていました。
夜中も眠れなくて、何故か比叡山という想念が頭に飛び込んできました。
比叡山に行かなければいけないと思って(昭和25年の時)5月に冷たい霧と新鮮な緑の中を歩いていたらいつの間にか気持ち良くなっていました。
理性だけを使って3年間やってきたので感性というものを無視していた。
冷たい霧と新鮮な緑が全身に伝わってきたのでそれが喜びに変わったんでしょうね。
あるお坊さんに出会って、寺で生活することになりました。
葉上 照澄あんが(はがみ しょうちょう)が千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
葉上さんは第六高等学校 (旧制)から東京帝国大学文学部哲学科を卒業し同年、大正大学で専任講師となり、来ていました。
彼は日本はこれからどうするか、教育だ、教育しかないと思っていました。
彼は叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会い、弟子になり千日回峰行の三百日ごろをやっていました。
そこで私が叡南 祖賢(えなみ そけん)に出会って、行者になるしかないと思いました。
比叡山では本格的な修行としては回峰行と籠山行があります。
叡南 祖賢(えなみ そけん)の弟子になって、オーソドックスな修行がしたいといったら、千日回峰行を志す者は多いが、十二年籠山行を行う者がいないと勧められました。
籠山行は師匠がいなかったので、本を読んで見様見真似でやりました。
山は湿気が多くて、体力が徐々に落ちてきました、慢性的な下痢になりました。
佐保田鶴治のヨガ指導を受けながら、満行しました。
「身心脱落」 道元禅師の禅を考える上で非常に大事な言葉。
身体も心も抜け落ちてしまったのが「身心脱落」です、つまり「空」になってしまったという事です。
相対関係があるうちは空ではない、私とあなたがいるので、仏教では色と言います。
目に見えるものは全部色なんです。
色は空であるという事を般若心経で言っています。
空でなお且色である、色即是空、空即是色と言っています。
相対関係の価値観しかない、それは迷いです。
もともと一元から人間は生まれてきた、生まれるという事は一元から二元に来るという事で、死ぬという事は相対関係から一元に戻る事。
相対になると「俺が、俺が」という事が出てき、自分中心になる、欲の塊になる。
権力を欲しがりお金を欲しがり、愚の骨頂だが気が付かない。
それがお互いに戦争という事を起こして駄目にしようととしているからとんでもない。
迷うから苦しむ、相対関係という枠の中にいるから苦しむ。
相対という枠を取っ払えばいい、それが道元のいう「身心脱落」であり、釈迦のいう事です。
修行は同じことをやるが、頭で判ったことをそれを身体に判らせるためにやるわけです。
釈迦は「生老病死」という枠を外した。
二元は相対です、『一元絶対」という言葉があります、もともと一つしかない。
絶対は相対関係を絶すること、二元が無くなったという事が一元、「身心脱落」が一元です。
2019年10月29日火曜日
友永詔三(造形作家) ・型にはまらず自由な発想で
友永詔三(造形作家) ・型にはまらず自由な発想で
昭和54年から3年間NHKで放送された人形劇「プリンプリン物語」の人形制作者です。
放送回数は全部で656回、その間およそ500体のキャラクターを生み出しました。
その後は木の彫刻を中心に国内外で企画展を開くなど精力的に作品を発表、現在は東京都あきる野市で江戸時代の民家を改築して美術館兼アトリエで創作活動を続けています。
造形作家として友永さんが大切にしている言葉が「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」です。
74歳の今もその言葉を胸に作品と向き合う友永さんに伺いました。
オーストラリアに24歳の時に行きましたが、ピータースクリベンという演出家から「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」という事を言われました。
まだほとんど仕事などしていない時期でした。
子どもの頃四万十川の上流で育ったので、子どもの頃魚は歩いたりしないのかなと思いました。
そういうのを大人になって実際に形にしているわけです。
マレーシアから仏像を頼まれて作りましたが、「仏師の作る型ではなくていい、親とか友達とか大切に思う人をイメージして作ってくれ」と言われました。
頼んできたのは駒澤大学に留学していた僧侶ですが、帰ってから改めて来てくれて阿弥陀如来をつくってほしいといわれました。
額のところに玉眼をつけますが、故郷の水晶を弟から送ってもらって削って付けましたが、透明ではなく白っぽいのでそれが良かったと思います。
自分が生まれたところは物を作る原点みたいなものがあるので、それを入れたいと思いました。
行ったところとつながっていればいいなあという思いもありました。
人形劇プリンプリン物語の人形、プリンセスプリンプリンは可愛く作るのに苦労して作りました。
主人公の少女プリンプリンが、まだ見ぬ故郷を探し求めて仲間たちと旅をする、ミュージカル仕立ての物語です。
悪役の人形もいろいろ考えて作り、衣装などもインドに行って調達したりしました。
インドの物語が下地になっているものですが、展開の中にはそういったものはないです。
プリンプリンのまつげは特徴的でホロホロチョウの鳥の羽でやっています。
髪の毛も金糸の刺繍糸を使っています。
基本的には木肌の色をそのまま使っています。
人形によって木の種類をいろいろ変えています。
見えないところまで気を使いました。
思い出のある人形としてはルチ将軍、プリンプリンの次に視聴者から人気がありました。
動物とか魚をいれて500体以上になりました。
主な人物では同じ人物でも複数つくりました。
台本を読んで自分でイメージして、ディレクターの人と相談して作りました。
国によってある形を基本にして形、色などを変えて作りました。
男性のキャラクターがピアスをしたり、髪の毛の色もいろいろな色を使いました。
当時はそんなことはほとんどなかったが、人形の世界ではできると思いました。
投書では、外国人が作っているんだろうという内容が結構ありました。
当初半年といわれて、別の国にいったら別の人に代わるという事でした。
ルチ将軍の人気が出たことと操り人形、棒使い人形、グローブの人形などいろいろ作れたので続けることになりました。
34歳の時の仕事でした。
発端はあるディレクターから電話があり、来年からプリンプリン物語が始まるが、期日までに絵を描いてほしいといわれて絵を届けました。
変わったものを求めていたんだと思います。
関節の部分に木を使った球体関節人形で動けるような人形にしてそれを僕が初めてTV用にやりました。
特別器用ではないが、モノをつくるのは好きでした。
遊び道具も全部自分たちで作って遊んでいました。
工業高校に進みました。
芝居を見たくて東京の精密機械メーカーに勤めました。
2年間勤めましたが、別のことをやりたいという事でインテリアのデザイン学校に行きました。
卒業後東宝系の舞台装置を作る会社に就職しました。
オーストラリアで人形劇映画をつくるという事でそのキャラクターデザインを募集しているという事を友人からもらって、どうせ受からないと思って絵を送ったら、演出家から会いたいという事になり会いに行きました。
台本を渡されて登場人物のキャラクターを書いてきてほしいといわれて、絵も描きましたが絵だけではわからないと思って、紙粘土で顔をつくって持っていきました。
東京で1年近く作っていましたが、それが人形を作るきっかけでした。
そのころに「型にはまらず自由な発想で作品をつくるように」と言われました。
デザイン学校で講師をやっていた時に、アメリカから帰国した講師がある会合に同席してそのひとから画廊を紹介していただき連れて行ってもらいました。
展覧会をやらしていただくことになり、人形劇をやっている演出家と一緒に仕事をするようになり映画、舞台の仕事をやるようになりました。
NHKの演出家がそれを見てくれて、人形劇プリンプリン物語につながっていくわけです。
普通はどこかの先生に付いたりアカデミックな教育を受けて学校の教授に言われるとおりにやらないと卒業できないが、僕の場合は師匠もいませんでした。
僕は人との出会いだけで仕事をしてきたようなものです。
与えられた仕事は一生懸命やってきました、ほとんど初めての仕事ばかりです。
11月16日から青梅市立美術館で展示会があります、テーマは「アートの地産地消」です。
一体だけですが。
昭和54年から3年間NHKで放送された人形劇「プリンプリン物語」の人形制作者です。
放送回数は全部で656回、その間およそ500体のキャラクターを生み出しました。
その後は木の彫刻を中心に国内外で企画展を開くなど精力的に作品を発表、現在は東京都あきる野市で江戸時代の民家を改築して美術館兼アトリエで創作活動を続けています。
造形作家として友永さんが大切にしている言葉が「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」です。
74歳の今もその言葉を胸に作品と向き合う友永さんに伺いました。
オーストラリアに24歳の時に行きましたが、ピータースクリベンという演出家から「型にはまらず自由な発想で作品をつくる」という事を言われました。
まだほとんど仕事などしていない時期でした。
子どもの頃四万十川の上流で育ったので、子どもの頃魚は歩いたりしないのかなと思いました。
そういうのを大人になって実際に形にしているわけです。
マレーシアから仏像を頼まれて作りましたが、「仏師の作る型ではなくていい、親とか友達とか大切に思う人をイメージして作ってくれ」と言われました。
頼んできたのは駒澤大学に留学していた僧侶ですが、帰ってから改めて来てくれて阿弥陀如来をつくってほしいといわれました。
額のところに玉眼をつけますが、故郷の水晶を弟から送ってもらって削って付けましたが、透明ではなく白っぽいのでそれが良かったと思います。
自分が生まれたところは物を作る原点みたいなものがあるので、それを入れたいと思いました。
行ったところとつながっていればいいなあという思いもありました。
人形劇プリンプリン物語の人形、プリンセスプリンプリンは可愛く作るのに苦労して作りました。
主人公の少女プリンプリンが、まだ見ぬ故郷を探し求めて仲間たちと旅をする、ミュージカル仕立ての物語です。
悪役の人形もいろいろ考えて作り、衣装などもインドに行って調達したりしました。
インドの物語が下地になっているものですが、展開の中にはそういったものはないです。
プリンプリンのまつげは特徴的でホロホロチョウの鳥の羽でやっています。
髪の毛も金糸の刺繍糸を使っています。
基本的には木肌の色をそのまま使っています。
人形によって木の種類をいろいろ変えています。
見えないところまで気を使いました。
思い出のある人形としてはルチ将軍、プリンプリンの次に視聴者から人気がありました。
動物とか魚をいれて500体以上になりました。
主な人物では同じ人物でも複数つくりました。
台本を読んで自分でイメージして、ディレクターの人と相談して作りました。
国によってある形を基本にして形、色などを変えて作りました。
男性のキャラクターがピアスをしたり、髪の毛の色もいろいろな色を使いました。
当時はそんなことはほとんどなかったが、人形の世界ではできると思いました。
投書では、外国人が作っているんだろうという内容が結構ありました。
当初半年といわれて、別の国にいったら別の人に代わるという事でした。
ルチ将軍の人気が出たことと操り人形、棒使い人形、グローブの人形などいろいろ作れたので続けることになりました。
34歳の時の仕事でした。
発端はあるディレクターから電話があり、来年からプリンプリン物語が始まるが、期日までに絵を描いてほしいといわれて絵を届けました。
変わったものを求めていたんだと思います。
関節の部分に木を使った球体関節人形で動けるような人形にしてそれを僕が初めてTV用にやりました。
特別器用ではないが、モノをつくるのは好きでした。
遊び道具も全部自分たちで作って遊んでいました。
工業高校に進みました。
芝居を見たくて東京の精密機械メーカーに勤めました。
2年間勤めましたが、別のことをやりたいという事でインテリアのデザイン学校に行きました。
卒業後東宝系の舞台装置を作る会社に就職しました。
オーストラリアで人形劇映画をつくるという事でそのキャラクターデザインを募集しているという事を友人からもらって、どうせ受からないと思って絵を送ったら、演出家から会いたいという事になり会いに行きました。
台本を渡されて登場人物のキャラクターを書いてきてほしいといわれて、絵も描きましたが絵だけではわからないと思って、紙粘土で顔をつくって持っていきました。
東京で1年近く作っていましたが、それが人形を作るきっかけでした。
そのころに「型にはまらず自由な発想で作品をつくるように」と言われました。
デザイン学校で講師をやっていた時に、アメリカから帰国した講師がある会合に同席してそのひとから画廊を紹介していただき連れて行ってもらいました。
展覧会をやらしていただくことになり、人形劇をやっている演出家と一緒に仕事をするようになり映画、舞台の仕事をやるようになりました。
NHKの演出家がそれを見てくれて、人形劇プリンプリン物語につながっていくわけです。
普通はどこかの先生に付いたりアカデミックな教育を受けて学校の教授に言われるとおりにやらないと卒業できないが、僕の場合は師匠もいませんでした。
僕は人との出会いだけで仕事をしてきたようなものです。
与えられた仕事は一生懸命やってきました、ほとんど初めての仕事ばかりです。
11月16日から青梅市立美術館で展示会があります、テーマは「アートの地産地消」です。
一体だけですが。
2019年10月28日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦(初回2017/10/30)
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦(初回2017/10/30)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。
2019年10月27日日曜日
田口信教(ミュンヘン五輪競泳金メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
田口信教(ミュンヘン五輪競泳金メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
昭和26年愛媛県西条市うまれ、68歳。
子どものころから水泳が得意で中学の時に、対岸の広島県三原市へ水泳留学します。
尾道高校に進学、高校2年生17歳の時にメキシコオリンピック日本代表に選ばれました。
次のミュンへンのオリンピックの時が広島修道大学3年生、21歳。
広島ドルフィンクラブに所属し平泳ぎ100mで金メダル、200mで銅メダルを獲得しました。
オリンピックはメキシコ、ミュンへン、モントリオールと3回連続出場25歳のわあkさで現役を引退しました。
独特のピッチ泳法で日本記録や世界記録を更新し続けた当時日本水泳界のスターでした。
引退後は唯一の国立体育大学である鹿児島県の鹿屋体育大学で35年間の教員生活を送られ現在は福島県いわき市の医療創生大学の副学長を務めています。
中学2年生の時に日本選手権に出ていますが、女子の一番早い人には記録的に負けてしまっていました。
東京オリンピックのためにできた代々木オリンピックプールの初めてのレースでした。
1968年メキシコ大会では高校2年生でした。
鶴峯治選手とともに選ばれました。
男子100mの予選 1分9秒8トップで通過。
準決勝の同じ組には世界記録保持者のソビエトのパンキン、アルゼンチンのポレリという選手がいましたが、1分7秒1という驚異的世界新記録で1位でゴール。
しかし泳法違反という事でタイムは取り消しとなり、失格で決勝へは進めなかった。
各コースの審判は自分の選手しか見なくて公平さはなく、アメリカの審判だったが抗議をすればよかったが、文書で30分以内に抗議をすればよかったがそれをしなかった。
私の泳法は水中から足首が上に出るんですが、ドルフィンキックのように見えてしまったようだった。
実際にはそれがいいとも悪いとも規定には書いてはいなかった。
200mでは準決勝で敗れてしまいました。
ミュンへン大会はスピッツ選手が7個の金メダルを獲得するなど世界新記録に沸く大会でした。
当時世界記録は1分5秒7だったが、それを1秒ぐらい上回っていたので、金メダルを取るんだと宣言していました。
泳法については問題ないと思っていました。
予選では1分6秒1の好タイムで準決勝では1分5秒1驚異的世界新記録を出し トップで決勝に向かう。
100m平泳ぎの決勝が行われえる。
50mのターンでアメリカのブルース30秒7田口は1mぐらい離される。
60mを過ぎてもブルース、ヘンケンが身体半分リード、75mで田口はピッチが上がってきて80mで並んで追い抜き、ラストスパート1分4秒94世界新記録逆転して優勝する。
前半の入りあたを細かく設定するとイーブンペースで行くのが一番良かった。
予選、準決勝では先行逃げ切り型だったが、決勝だけは前半イーブンペースで行きました。
後半はピッチを上げて決勝は作戦通りとなりました。
200mではアメリカのヘンケンが50m過ぎたころから独泳となり、後半追い上げるが及ばずイギリスのウイルキー選手にもいタッチの差で抜かれて、2分23秒7(日本新記録)で3位となる。
泳法違反だと言われたらすぐに抗議できるように英文を用意していました。
1976年モントリオールオリンピック、100mの予選。
ヘンケンと同じ組で泳ぎ1分4秒65(日本新記録)2位だった。
準決勝では2度のフライイングを重ねて思うような泳ぎができず、1分5秒69で全体では12位となり決勝には進めなかった。
一旦金メダルを取り、目的を達して私はさらにという様な気持ちにはならなかった。
社会に出ていくためには勉強もしなくてはいけないと思って早く引退させてほしいと言っていました。
モントリオールの準決勝敗退2日後に記者会見を開いて現役引退を表明しました。(25歳)
頂点に立つと天皇陛下から声をかけていただいたり、総理大臣、著名な方からインタビューみたいな形になり、講演とかデモストレーションをしたりいろんなことが起きた金メダルでした。
愛媛は人工的なため池がありそこで泳いでいました。
透明度が高くて水草をよけながら鯉を追いかけていました。
中学2年の時に広島の三原三中に留学しました。
高校では尾道高校に行って2年生でメキシコオリンピックの代表になりました。
高校では温水プールを作ってほしいという事でオリンピック選手が出ました。
アメリカへ行きたいと思っていましたが、世界一の指導者のもとでやりたいという事でそういったら、流出させまいと広島県水泳連盟の関係者が地元フジタ工業の藤田正明、藤田一暁に協力を要請、関係者の熱意により広島市に「フジタドルフィンクラブ」が設立されることになりました。
水泳王国を復活させようというプランでした。
ピッチ泳法、足の引付は抵抗が多くて、足の方を水上すれすれに浮いて徹底的に腕を鍛えるわけです。
足の裏でけりなさいという事で足をできるだけ上げると腿の抵抗が少なくなり、腕でかけばいいわけです。
手で連続にやるとばてるので、ペース配分を考えて、水をたくさんキャッチできる腕を作って回転を上げるわけです。
手首も強くしなければいけない。
足の動きについては事前に審判長の確認をとって大丈夫という了解を得ました。
水泳はまだまだ記録が伸びるので人間の可能性を追求するのに水泳ほどいいものはないと思いました。
アメリカへの研修に第一号として2年間行きまして、戻ってきて国立大学の水泳の強化に招聘していただきました。
10億円を超えるを出してもらい実験プールを作って、研究費もふんだんに出していただきその中で柴田 亜衣が育ったわけです。
(2004年のアテネオリンピックの女子800m自由形の金メダルの選手)
5つの壁。
①基本をつくるのは難しい。
②継続が難しい。
③故障など限界への挑戦。
④不安をつくらないこと。
⑤スポーツは運が伴う。
25年間書き込めるカレンダーを壁に貼って、ここで就職して、ここで結婚して、ここで引退とか書いていました。
書いておくと無駄が無くなります。
スポーツは継続なんで、流れている川を上っていくのとおんなじでちょっとでも手を抜くと戻ってくるんです。
行くところまでいかないとだめです。
技を習得した人は次の人に伝承できる場所を確保してほしいというものはあります。
2020には金メダルを宇靴か取ってほしいと思いますし、結構取れると思います。
昭和26年愛媛県西条市うまれ、68歳。
子どものころから水泳が得意で中学の時に、対岸の広島県三原市へ水泳留学します。
尾道高校に進学、高校2年生17歳の時にメキシコオリンピック日本代表に選ばれました。
次のミュンへンのオリンピックの時が広島修道大学3年生、21歳。
広島ドルフィンクラブに所属し平泳ぎ100mで金メダル、200mで銅メダルを獲得しました。
オリンピックはメキシコ、ミュンへン、モントリオールと3回連続出場25歳のわあkさで現役を引退しました。
独特のピッチ泳法で日本記録や世界記録を更新し続けた当時日本水泳界のスターでした。
引退後は唯一の国立体育大学である鹿児島県の鹿屋体育大学で35年間の教員生活を送られ現在は福島県いわき市の医療創生大学の副学長を務めています。
中学2年生の時に日本選手権に出ていますが、女子の一番早い人には記録的に負けてしまっていました。
東京オリンピックのためにできた代々木オリンピックプールの初めてのレースでした。
1968年メキシコ大会では高校2年生でした。
鶴峯治選手とともに選ばれました。
男子100mの予選 1分9秒8トップで通過。
準決勝の同じ組には世界記録保持者のソビエトのパンキン、アルゼンチンのポレリという選手がいましたが、1分7秒1という驚異的世界新記録で1位でゴール。
しかし泳法違反という事でタイムは取り消しとなり、失格で決勝へは進めなかった。
各コースの審判は自分の選手しか見なくて公平さはなく、アメリカの審判だったが抗議をすればよかったが、文書で30分以内に抗議をすればよかったがそれをしなかった。
私の泳法は水中から足首が上に出るんですが、ドルフィンキックのように見えてしまったようだった。
実際にはそれがいいとも悪いとも規定には書いてはいなかった。
200mでは準決勝で敗れてしまいました。
ミュンへン大会はスピッツ選手が7個の金メダルを獲得するなど世界新記録に沸く大会でした。
当時世界記録は1分5秒7だったが、それを1秒ぐらい上回っていたので、金メダルを取るんだと宣言していました。
泳法については問題ないと思っていました。
予選では1分6秒1の好タイムで準決勝では1分5秒1驚異的世界新記録を出し トップで決勝に向かう。
100m平泳ぎの決勝が行われえる。
50mのターンでアメリカのブルース30秒7田口は1mぐらい離される。
60mを過ぎてもブルース、ヘンケンが身体半分リード、75mで田口はピッチが上がってきて80mで並んで追い抜き、ラストスパート1分4秒94世界新記録逆転して優勝する。
前半の入りあたを細かく設定するとイーブンペースで行くのが一番良かった。
予選、準決勝では先行逃げ切り型だったが、決勝だけは前半イーブンペースで行きました。
後半はピッチを上げて決勝は作戦通りとなりました。
200mではアメリカのヘンケンが50m過ぎたころから独泳となり、後半追い上げるが及ばずイギリスのウイルキー選手にもいタッチの差で抜かれて、2分23秒7(日本新記録)で3位となる。
泳法違反だと言われたらすぐに抗議できるように英文を用意していました。
1976年モントリオールオリンピック、100mの予選。
ヘンケンと同じ組で泳ぎ1分4秒65(日本新記録)2位だった。
準決勝では2度のフライイングを重ねて思うような泳ぎができず、1分5秒69で全体では12位となり決勝には進めなかった。
一旦金メダルを取り、目的を達して私はさらにという様な気持ちにはならなかった。
社会に出ていくためには勉強もしなくてはいけないと思って早く引退させてほしいと言っていました。
モントリオールの準決勝敗退2日後に記者会見を開いて現役引退を表明しました。(25歳)
頂点に立つと天皇陛下から声をかけていただいたり、総理大臣、著名な方からインタビューみたいな形になり、講演とかデモストレーションをしたりいろんなことが起きた金メダルでした。
愛媛は人工的なため池がありそこで泳いでいました。
透明度が高くて水草をよけながら鯉を追いかけていました。
中学2年の時に広島の三原三中に留学しました。
高校では尾道高校に行って2年生でメキシコオリンピックの代表になりました。
高校では温水プールを作ってほしいという事でオリンピック選手が出ました。
アメリカへ行きたいと思っていましたが、世界一の指導者のもとでやりたいという事でそういったら、流出させまいと広島県水泳連盟の関係者が地元フジタ工業の藤田正明、藤田一暁に協力を要請、関係者の熱意により広島市に「フジタドルフィンクラブ」が設立されることになりました。
水泳王国を復活させようというプランでした。
ピッチ泳法、足の引付は抵抗が多くて、足の方を水上すれすれに浮いて徹底的に腕を鍛えるわけです。
足の裏でけりなさいという事で足をできるだけ上げると腿の抵抗が少なくなり、腕でかけばいいわけです。
手で連続にやるとばてるので、ペース配分を考えて、水をたくさんキャッチできる腕を作って回転を上げるわけです。
手首も強くしなければいけない。
足の動きについては事前に審判長の確認をとって大丈夫という了解を得ました。
水泳はまだまだ記録が伸びるので人間の可能性を追求するのに水泳ほどいいものはないと思いました。
アメリカへの研修に第一号として2年間行きまして、戻ってきて国立大学の水泳の強化に招聘していただきました。
10億円を超えるを出してもらい実験プールを作って、研究費もふんだんに出していただきその中で柴田 亜衣が育ったわけです。
(2004年のアテネオリンピックの女子800m自由形の金メダルの選手)
5つの壁。
①基本をつくるのは難しい。
②継続が難しい。
③故障など限界への挑戦。
④不安をつくらないこと。
⑤スポーツは運が伴う。
25年間書き込めるカレンダーを壁に貼って、ここで就職して、ここで結婚して、ここで引退とか書いていました。
書いておくと無駄が無くなります。
スポーツは継続なんで、流れている川を上っていくのとおんなじでちょっとでも手を抜くと戻ってくるんです。
行くところまでいかないとだめです。
技を習得した人は次の人に伝承できる場所を確保してほしいというものはあります。
2020には金メダルを宇靴か取ってほしいと思いますし、結構取れると思います。
2019年10月26日土曜日
山田太一(脚本家) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
山田太一(脚本家) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
山田さんは昭和9年東京浅草に生まれました、85歳。
大学卒業後、松竹大船撮影所を経て1965年フリーの脚本家としてスタート。
NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」はじめ「岸辺のアルバム」、中井貴一さんや柳沢慎吾さんらが主演しました「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマの脚本を手がけました。
時代のなかで老いや家族の関係など社会の問題を見つめてこられました。
2017年1月に脳出血で倒れた山田さんですが、現在はかなり回復されゆっくりと療養の日々を送っています。
「ながらえば」、「冬構え」、「今朝の秋」の老いをテーマにした三部作も書かれています。
大病の後どのような思いで過ごしているのか、戦時中家族で神奈川県の湯河原へ強制疎開をさせられるなど、戦争に翻弄された山田さんの思い出の食べ物はどんなものなのか伺いました。
病に倒れてから間もなく3年になりました。
体調もいいんです。
これで死ぬと思ってこの3年間でほぼ切れると思っていましたが、気が付くといつ死ぬかわからない、遅ればせながらそれが人間の最後の問題だと気が付きました。
変なところに追い詰められたと思っています。
生き方を変えないといけないと思っても翌日死ぬかもわからない、非常に変なところで生きているという思いがあります。
7時半ぐらいからご飯を食べて、昼、3時の時間、最後の食事ということは基本的にはここにいると決まってしまって、その間は個人的にあってくれる人があったり、できるだけ外に出たいので外に出て歩いています。
ずーっと日記をつけていましたが、病気になって以来一切それは無しです。
この3年間はこんなことはあったかなあと疑問にしても、どうにもならないぐらいになってしまいました。
新聞、本などは読みますが、少なくなりました。
生まれて10年は普通にいきましたが、あとは大混乱の中で食べていましたので、食べられればなんでもいいという感じでした。
食べ物に対する危機みたいな気分はありました。
勤め先の大船ではみんなと同じような食べ物を食べていました。
戦争が始まったらどんどん悪くなりそのあたりで一番贅沢だと思ったのは、雷門のすき焼き屋さんへ行ってご飯をみんなで食べたという事は、実に珍しいことであるけれども実に忘れがたいことでした。(小学校5年生の時)
なんであんなことが可能だったのか、実に珍しいことでした。
食事というのは大事なシンボルだと思いますが、自分のものにならない。
朝何時に食べてと言う時には、そこで食べるものしかなかったという事が多かったので。
母も死んでしまいましたし、自分で用意するしかなかった、ひどい時代でした。
「岸辺のアルバム」は大事な作品だとは思います。
温かいホームドラマではなくて、自分の気持ちとしては一番家族が、という感じが思いの中にありました。
「ふぞろいの林檎たち」 知らない人ばっかりで作品を作ってみようと思いました。
俳優さんも知らない人ばっかりでやりました。
凄い意欲がありました。
パートⅠ、ⅡまではよかったがパートⅢになるとちょっとぐじゃぐじゃになってしまうという風に気持ちが自分の中にもありました。
パートⅢになって、こんなことをこうやって一度始めると続けなければならないといういらだちがありました。
どこにでもいる人達だが、ひとりづつ大事な素材だという事は感じました。
その中でそれぞれが生きてゆくためにはそれぞれの出発とか、エンドマークだとか色んなものが錯綜してあることが、全体として不ぞろいだからよかったというか、良い人ばっかり並べるという事はなかったです。
父は「おまえのことなんか誰も思ってない」と言われて僕もそうだろうと思いました、そんなに特別なことだとは思わなかったが、しかしそれが基本にあるのかもしれません。
父親も一人の人生として生きていくわけで私もある程度になると一人で生きてゆくしかないわけだから、という風なことは考えました。
ある程度事実に近いものでやろうと思いました。
「男たちの旅路」 41歳の時に書いた70,80歳の老人の気持ちのセリフについては、自分の中にあったんだと思います。
世代も背景も異なる警備会社の社員たちが、仕事の中から拾い出した疑問に対し真面目に向き合う姿を描く。
特別な人を書こうと思ったりしたわけではないです。
色んな年齢の人を書こうと思っていましたが、人間がみんなバラバラに、一緒にずーっと死んでゆくし、一人の人はなかなか死なないとか、実にバラバラにそうなんだと今一番身近にそう思います。
自分がなるまで、人もみんなあのくらいになるとあのくらいで死んでいくのかと考えていたが、自分の番が来ると自分がどこにいるのかわからないぐらいバラバラだという気がして、そんなことって真面目に考えていなかったんだなと今となっても感じます。
それぞれ老いがばらばらにあり、一人一人をつかもうとすると大変なんだと思います。
思いがばらばらであり、自分で思うようにならないわけで、多くの人はそこで最後の歳を迎えているわけです。
そこの細かな感じ方は自分がその歳になってみないとなかなか出てこなかったんじゃないかと思います。
結局自分の知っている範囲で書いているわけですが、その代表者としてそういう人たちの身にできるだけ近づけようとすることで僕らの仕事は試されされていると思います。
人間って物凄く実はバラバラだと思います。
だからひとつのラインで書こうとしたって、それは力が動かないと思います。
書くしかない、どこまで書いて良いかわからないが。
そんなことは言いたくないという人が実際結構いるわけですが、一人だと言えないことが大きな層としているぐらいいると思います。
わーっと大勢になる人を大衆の声だと思っているわけだけれど、実はそうじゃない人たちの方が多いですよね。
そのことを知るという事も大切です。
死ぬという事がどういうことかという事をはっと判るように書けたら素晴らしいと思います。
明日、明後日どうなるか判らないという事は、こんなにまざまざとわからなくさせることの不思議さみたいなものを気付くまで随分時間があったなあと思います。
生まれた浅草に行きましたが、びっくりしました。
こんな風に時代が変わっていくのかと、その面白さであって、いろんなことを感じました。
山田さんは昭和9年東京浅草に生まれました、85歳。
大学卒業後、松竹大船撮影所を経て1965年フリーの脚本家としてスタート。
NHK土曜ドラマ「男たちの旅路」はじめ「岸辺のアルバム」、中井貴一さんや柳沢慎吾さんらが主演しました「ふぞろいの林檎たち」など数多くの名作ドラマの脚本を手がけました。
時代のなかで老いや家族の関係など社会の問題を見つめてこられました。
2017年1月に脳出血で倒れた山田さんですが、現在はかなり回復されゆっくりと療養の日々を送っています。
「ながらえば」、「冬構え」、「今朝の秋」の老いをテーマにした三部作も書かれています。
大病の後どのような思いで過ごしているのか、戦時中家族で神奈川県の湯河原へ強制疎開をさせられるなど、戦争に翻弄された山田さんの思い出の食べ物はどんなものなのか伺いました。
病に倒れてから間もなく3年になりました。
体調もいいんです。
これで死ぬと思ってこの3年間でほぼ切れると思っていましたが、気が付くといつ死ぬかわからない、遅ればせながらそれが人間の最後の問題だと気が付きました。
変なところに追い詰められたと思っています。
生き方を変えないといけないと思っても翌日死ぬかもわからない、非常に変なところで生きているという思いがあります。
7時半ぐらいからご飯を食べて、昼、3時の時間、最後の食事ということは基本的にはここにいると決まってしまって、その間は個人的にあってくれる人があったり、できるだけ外に出たいので外に出て歩いています。
ずーっと日記をつけていましたが、病気になって以来一切それは無しです。
この3年間はこんなことはあったかなあと疑問にしても、どうにもならないぐらいになってしまいました。
新聞、本などは読みますが、少なくなりました。
生まれて10年は普通にいきましたが、あとは大混乱の中で食べていましたので、食べられればなんでもいいという感じでした。
食べ物に対する危機みたいな気分はありました。
勤め先の大船ではみんなと同じような食べ物を食べていました。
戦争が始まったらどんどん悪くなりそのあたりで一番贅沢だと思ったのは、雷門のすき焼き屋さんへ行ってご飯をみんなで食べたという事は、実に珍しいことであるけれども実に忘れがたいことでした。(小学校5年生の時)
なんであんなことが可能だったのか、実に珍しいことでした。
食事というのは大事なシンボルだと思いますが、自分のものにならない。
朝何時に食べてと言う時には、そこで食べるものしかなかったという事が多かったので。
母も死んでしまいましたし、自分で用意するしかなかった、ひどい時代でした。
「岸辺のアルバム」は大事な作品だとは思います。
温かいホームドラマではなくて、自分の気持ちとしては一番家族が、という感じが思いの中にありました。
「ふぞろいの林檎たち」 知らない人ばっかりで作品を作ってみようと思いました。
俳優さんも知らない人ばっかりでやりました。
凄い意欲がありました。
パートⅠ、ⅡまではよかったがパートⅢになるとちょっとぐじゃぐじゃになってしまうという風に気持ちが自分の中にもありました。
パートⅢになって、こんなことをこうやって一度始めると続けなければならないといういらだちがありました。
どこにでもいる人達だが、ひとりづつ大事な素材だという事は感じました。
その中でそれぞれが生きてゆくためにはそれぞれの出発とか、エンドマークだとか色んなものが錯綜してあることが、全体として不ぞろいだからよかったというか、良い人ばっかり並べるという事はなかったです。
父は「おまえのことなんか誰も思ってない」と言われて僕もそうだろうと思いました、そんなに特別なことだとは思わなかったが、しかしそれが基本にあるのかもしれません。
父親も一人の人生として生きていくわけで私もある程度になると一人で生きてゆくしかないわけだから、という風なことは考えました。
ある程度事実に近いものでやろうと思いました。
「男たちの旅路」 41歳の時に書いた70,80歳の老人の気持ちのセリフについては、自分の中にあったんだと思います。
世代も背景も異なる警備会社の社員たちが、仕事の中から拾い出した疑問に対し真面目に向き合う姿を描く。
特別な人を書こうと思ったりしたわけではないです。
色んな年齢の人を書こうと思っていましたが、人間がみんなバラバラに、一緒にずーっと死んでゆくし、一人の人はなかなか死なないとか、実にバラバラにそうなんだと今一番身近にそう思います。
自分がなるまで、人もみんなあのくらいになるとあのくらいで死んでいくのかと考えていたが、自分の番が来ると自分がどこにいるのかわからないぐらいバラバラだという気がして、そんなことって真面目に考えていなかったんだなと今となっても感じます。
それぞれ老いがばらばらにあり、一人一人をつかもうとすると大変なんだと思います。
思いがばらばらであり、自分で思うようにならないわけで、多くの人はそこで最後の歳を迎えているわけです。
そこの細かな感じ方は自分がその歳になってみないとなかなか出てこなかったんじゃないかと思います。
結局自分の知っている範囲で書いているわけですが、その代表者としてそういう人たちの身にできるだけ近づけようとすることで僕らの仕事は試されされていると思います。
人間って物凄く実はバラバラだと思います。
だからひとつのラインで書こうとしたって、それは力が動かないと思います。
書くしかない、どこまで書いて良いかわからないが。
そんなことは言いたくないという人が実際結構いるわけですが、一人だと言えないことが大きな層としているぐらいいると思います。
わーっと大勢になる人を大衆の声だと思っているわけだけれど、実はそうじゃない人たちの方が多いですよね。
そのことを知るという事も大切です。
死ぬという事がどういうことかという事をはっと判るように書けたら素晴らしいと思います。
明日、明後日どうなるか判らないという事は、こんなにまざまざとわからなくさせることの不思議さみたいなものを気付くまで随分時間があったなあと思います。
生まれた浅草に行きましたが、びっくりしました。
こんな風に時代が変わっていくのかと、その面白さであって、いろんなことを感じました。
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