岩楯幸雄(ブックカフェ店主) ・街の本屋の灯は消えず
今年 2月20日小田急線代々木上原駅で、40年続いた小さな書店が大勢の人に惜しまれながら店を閉じました。
店の名前は「幸福書房」、岩楯幸雄さん夫妻と弟の敏夫さん夫妻の4人で朝8時から夜11時まで365日年中無休で切り盛りしてきました。
お客様の顔を思いうかべながら仕入れをし、書棚を通してお客様と会話をすると言う経営方針、こんなに小さな本屋さんなのにほしい本が揃っていると 、多くの読書ファンから熱烈に支持されました。
しかし出版業界の不況の波は容赦なく押し寄せて遂に閉店に追い込まれました。
地元はもちろん全国の幸福書房のファンからは、今なお閉店を惜しむ声が数多く寄せられています。
近くに住む作家の林真理子さんもそんな熱心なファンだった一人です。
閉店から8カ月後、今月22日、岩楯さんは豊島区南長崎の自宅に小さな手作りのブックカフェを開きました。
ブックカフェは手作りで始めて、知らないことばかりで、大変でした。
43,4年前に初めて店を出した土地でもあります。
電機メーカーの営業職をしていました。
通勤途中暇なので、雑誌などを毎日読んでいました。
結果的には本屋が好きで弟とやり始めました。
兄弟喧嘩になるので別の店を出した方がいいと周りから言われ、代々木上原の方に支店を出しました。(兄弟喧嘩はありませんでしたが)
「岩楯」では書店名が読めるかなと思って、名前が「幸雄」なのと、北海道の駅名にもあったし「幸福書房」としました。
代々木上原の店は駅前で広さは20坪の店舗でした。
8時から沢山の本を並べてやってきました。
夜11時までやりました。
八百屋さんのように本を積み上げて、当時50万円の売り上げがありました。
40年間程度本屋をやってきて、30年間は本が売れましたが、最後の10年間は売れなくなってきて、最後の5年間は売れずに辛かったです。
弟と月給10万円ずつになってしまいました。
南長崎を出るのが6時15分ごろで、7時に店に着いて梱包を開いて準備をします。
朝食は後から妻が持ってきて店で食べました。
昼食は弁当で、その後1時間位寝袋で昼寝をして、7時までレジにいて、交替で11時頃までやって自転車で帰ってきて12時半位になり、シャワーを浴びたり食事をして寝るのが2時頃になります。
翌朝6時には起きます。
妻は夜の食事を作ってから寝て、4時ごろ起きたので大変でした。
365日元日もやっていましたが、10数年前に元日ぐらい休もうと言うことで元日は休むようになりました。
学校では緊張してトイレを我慢して、うちの店に来てトイレを借りに来る子が10人ぐらいいました。
電車賃を貸してあげたりして、地域としての存在価値はあったと思います。
林真理子さんが引っ越してきて、サインをしていただくことがとっかかりになり、秘書の方が手提げ袋が一杯になるほど本持ち帰って、サインをして持ってくるとい言う事を続けていました。
TVでそのようなことが放映され、サインをしてくださいと凄い人が集まりました。
それこそ2万冊位になりました。
閉店してから真理子さんの家に伺いましたが、本屋さんに足が向かなくなってしまったと言っていました。
レジにいてお客さんの好みの本が判るので、仕入れを色々考えます。
ここの本屋さんは良い本屋さんだと言うふうにおほめをいただいたのは、自分で仕入れに行くという事が、お客さんの好みの本が手に入れられることからだと思います。
口には出さないが貴方の為にこの本を揃えましたよ、と言うようなことの積み重ねでやってきたので、品揃えのいい本屋だと思われるようになりました。
信頼できる著者の本ならば2冊置こうと思いました。
気付いてほしいと言う思いがあります。
2月に閉店しましたが、2年半前に更新の時期が来て、契約を2年半にしました。
お客さんには3か月前に連絡しましたが、辞めないでほしいと言う声が一杯ありました。
周りからのお金の支えがあったとしても、体力的に持たなくなってきていて、閉店を決意しました。
最後の5日間で出来上がった本「幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!」などを2000冊買っていただきました。
普段一日15から20万円の売り上げでしたが、最後の日は250万円の売り上げでした。
最後の数時間は真理子さんに『西郷どん!』を200から300冊サインしていただきました。
最後の最後に何百人と言うお客さんの前で真理子さんに挨拶をしていただきました。
「文化の灯が消える」とおっしゃって涙が出ました。
最終日は11時頃までかかりまして、「打ち上げ」どころではなくなりました。
閉店して2カ月位は何もする気がありませんでした。
ブックカフェをなんとか立ち上げました。
私のブックカフェは返品の出来なかった商品で、それなりに価値のある本があります。
2020年にときわ荘ミュージアムが出来るので、手塚治虫などそうそうたるメンバーの本が2年後に並び変えられればいいなあと思います。
2018年10月31日水曜日
2018年10月30日火曜日
佐藤康光(棋士) ・【母を語る】
佐藤康光(棋士) ・【母を語る】
京都府出身、6歳で将棋に興味を持ち6年生で小学生将棋名人戦に出場して3位人ります。
1982年中学1年の冬に関西将励会に入会、間もなく父親の転勤で東京に転居、関東奨励会に移籍、1987年に4段プロデユー、1993年6段の時に当時の羽生 善治竜王を破り竜王位につき初タイトルを獲得します。
1998年56期名人戦で谷川浩司名人に挑戦し、名人位を獲得、9段となります。
2017年2月谷川9段の後を継いで、日本将棋連盟の会長となりました。
子供のころは母親に勧められて様々な習い事を経験してと言う佐藤さんですが、友達と遊んだ将棋でおもしろさに目覚めてゆきます。
日本将棋連盟の会長になって1年半になります。(48歳)
棋士としてはベテランの部類に入ります。
藤井聡太7段、国民栄誉賞を受賞した羽生善治竜王、最近脱サラ棋士・瀬川晶司五段の映画、「泣き虫しょったんの奇跡」が話題になり、将棋が注目されてきています。
藤井聡太7段はデビュー以来29連勝を達成とか、羽生永世7冠を達成とか、11人
で争う戦いで6人が同じ勝率で名人挑戦を争ったとか、色々な事が立て続けに起こっています。
若手棋士がタイトルを取る時代になりつつあります。
小学校1年生の時に友達が将棋盤を持ってきて興味を持ちました。
4歳でヴァイオリンも習い始めました。(母の勧め)
3人兄弟で私は長男で弟(歌舞伎をやっている。)、妹がいます。
ヴァイオリンは8年ぐらいやっていました。
将棋は色んな面白さがあります。
勝負、自分なりに表現できる、1対1のゲーム、1局1局のドラマがある、そういった面白さに惹かれて行きました。
段々やっているうちにプロ棋士を目指すようになりました。
母は何事にも積極的に習わせました。
弟とはいっとき将棋を指していた時期はあります。
京都府八幡市で生まれましたが、竹が有名でエジソンが八幡の竹を使って電球に灯を点けたと言うことは地元で習った記憶はあります。
小学校6年生で小学生将棋名人戦に出場し準決勝でNHKに父親と来た覚えがあります。
中学2年で東京に来ました。
初めてのタイトル戦で戦ったのが谷川先生でした。
小学生の頃、大会に行くときは父親に連れて行ってもらいました。
一生の仕事を小学生、中学生の時に選ぶと言うことは、母親も色々大変だったのではないかと思います。(背中を押してくれた。)
口には出さなかったが、母親は結構心配していたと思います。
算盤とかも習いましたが、中学の時には学習塾にも行っていました。(高校受験の為)
プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれてました。
千駄ヶ谷の将棋会館に近い高校と言うことで國學院高校に進学しました。
17歳デプロになる。(高校2年の時)
正確に早く読むと言われていました。(緻密流と言われたりしました。)
将棋は様々な要素が必要で、計算だけということはないです。
長時間いかに坐っていられるか、持久力が必要になります。
一局で2kg痩せてしまうような対局もあります。
将棋、歌舞伎も江戸時代初期で栄え始めたと言う共通項はある。
将棋も世襲制の時期があったが、80年ぐらい前から実力制に移行しました。
初めてタイトルを取ったのが24歳で竜王位、28歳が名人位、そのほかにも色々タイトルは取りましたが、王将戦で最初3連敗してその後3連勝して、最後の試合で負けてしまったと言うこともありました。(3連敗後に4連勝すれば初ということだったが)
プロになってから32年目になりますが、子供の時と変わらず情熱を持って将棋に接すれると言う事を持ち続けられると言うことは、将棋の世界に入って良かったと思います。
子供のころは負けると良く泣きましたが、将棋が嫌いになると言う訳ではなくて、自分が厭になるという意味合いが強いですね、自分との闘いですね。
京都府出身、6歳で将棋に興味を持ち6年生で小学生将棋名人戦に出場して3位人ります。
1982年中学1年の冬に関西将励会に入会、間もなく父親の転勤で東京に転居、関東奨励会に移籍、1987年に4段プロデユー、1993年6段の時に当時の羽生 善治竜王を破り竜王位につき初タイトルを獲得します。
1998年56期名人戦で谷川浩司名人に挑戦し、名人位を獲得、9段となります。
2017年2月谷川9段の後を継いで、日本将棋連盟の会長となりました。
子供のころは母親に勧められて様々な習い事を経験してと言う佐藤さんですが、友達と遊んだ将棋でおもしろさに目覚めてゆきます。
日本将棋連盟の会長になって1年半になります。(48歳)
棋士としてはベテランの部類に入ります。
藤井聡太7段、国民栄誉賞を受賞した羽生善治竜王、最近脱サラ棋士・瀬川晶司五段の映画、「泣き虫しょったんの奇跡」が話題になり、将棋が注目されてきています。
藤井聡太7段はデビュー以来29連勝を達成とか、羽生永世7冠を達成とか、11人
で争う戦いで6人が同じ勝率で名人挑戦を争ったとか、色々な事が立て続けに起こっています。
若手棋士がタイトルを取る時代になりつつあります。
小学校1年生の時に友達が将棋盤を持ってきて興味を持ちました。
4歳でヴァイオリンも習い始めました。(母の勧め)
3人兄弟で私は長男で弟(歌舞伎をやっている。)、妹がいます。
ヴァイオリンは8年ぐらいやっていました。
将棋は色んな面白さがあります。
勝負、自分なりに表現できる、1対1のゲーム、1局1局のドラマがある、そういった面白さに惹かれて行きました。
段々やっているうちにプロ棋士を目指すようになりました。
母は何事にも積極的に習わせました。
弟とはいっとき将棋を指していた時期はあります。
京都府八幡市で生まれましたが、竹が有名でエジソンが八幡の竹を使って電球に灯を点けたと言うことは地元で習った記憶はあります。
小学校6年生で小学生将棋名人戦に出場し準決勝でNHKに父親と来た覚えがあります。
中学2年で東京に来ました。
初めてのタイトル戦で戦ったのが谷川先生でした。
小学生の頃、大会に行くときは父親に連れて行ってもらいました。
一生の仕事を小学生、中学生の時に選ぶと言うことは、母親も色々大変だったのではないかと思います。(背中を押してくれた。)
口には出さなかったが、母親は結構心配していたと思います。
算盤とかも習いましたが、中学の時には学習塾にも行っていました。(高校受験の為)
プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれてました。
千駄ヶ谷の将棋会館に近い高校と言うことで國學院高校に進学しました。
17歳デプロになる。(高校2年の時)
正確に早く読むと言われていました。(緻密流と言われたりしました。)
将棋は様々な要素が必要で、計算だけということはないです。
長時間いかに坐っていられるか、持久力が必要になります。
一局で2kg痩せてしまうような対局もあります。
将棋、歌舞伎も江戸時代初期で栄え始めたと言う共通項はある。
将棋も世襲制の時期があったが、80年ぐらい前から実力制に移行しました。
初めてタイトルを取ったのが24歳で竜王位、28歳が名人位、そのほかにも色々タイトルは取りましたが、王将戦で最初3連敗してその後3連勝して、最後の試合で負けてしまったと言うこともありました。(3連敗後に4連勝すれば初ということだったが)
プロになってから32年目になりますが、子供の時と変わらず情熱を持って将棋に接すれると言う事を持ち続けられると言うことは、将棋の世界に入って良かったと思います。
子供のころは負けると良く泣きましたが、将棋が嫌いになると言う訳ではなくて、自分が厭になるという意味合いが強いですね、自分との闘いですね。
2018年10月29日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】萩原朔太郎
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】萩原朔太郎
「学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪寒が走るほどである。
その頃の生徒や教師に対して、みな一人ひとりに復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ虐められ仲間はずれにされ通してきた。
小学校から中学校にかけ学生時代の僕の過去は、今から考えてみて僕の生涯の中での最も呪わしく、陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。
学校にいる時は教室の一番の隅に小さく隠れ、休業時間の時には誰も見えない運動場の隅に息を殺して隠れていた。」(萩原朔太郎)
頭木さんは20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発病し、13年間に渡る療養生活を送りました。
その悩み苦しんだ時期に心に染みた言葉を「絶望名言」として御自分で紹介していらしゃいます。
1886年11月1日生まれ、1942年に亡くなっています。(56歳)
萩原朔太郎はラジオ好きだったらしい。
39歳の時に東京に出て来る。(1925年)
日本で最初にラジオ放送がされたのが同年3月。
萩原朔太郎は新しいもの好きでラジオに夢中になる。
石川啄木、谷崎純一郎は同い歳。
カフカが生まれたのが1883年、ほぼ同年代。
萩原朔太郎は芥川龍之介と交流があった。
学校では辛い目に会っていた。
「僕は比較的良家に生まれ、子供の時に甘やかされて育ったために、他人との社交について自己を抑制することができないのである。
そのうえ、僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供と違っていたので、学校では一人だけのけ者にされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」
父親は東大の医学部を首席で卒業して前橋で病院を開いていた。
経済的に豊かだった。
温室育ちで、繊細で過敏になって行ってしまう。
朔太郎は中学で落第し、高校の受験でも失敗してしまう。
熊本の高校にはいるが翌年落第して、岡山に転校するが落第して、大学に入るが退学する。
もう一度大学にはいるが又退学する。
その後京大の試験を受けるが不合格、早稲田を受験しようとするが、ミスがあって駄目になってしまう。
結局そのまま家にいて詩を書きながら、マンドリンを弾くという事になってしまう。
「特に強迫観念が激しかった。
校門を出る時にいつも左足からでないと踏み出せなかった。
四ツ角を曲がるときにはいつも 3べんずつぐるぐる回った。
そんな馬鹿馬鹿しいつまらぬことが、僕には脅迫的な絶対命令だった。
だが、一番困ったのは意識の反対衝動に駆られることだった。
例えば町に行こうとして家を出るとき、逆に森へ行けと脅迫命令が起こってくる。
そうするといつの間にか僕の足はその命令を巡行して反対の森の方に行っているのである。」
一番困ったのは意識の反対衝動に駆られること、これは人間関係が難しい。
好きな友人でも「馬鹿野郎」と言ってしまったりする。
朔太郎はドストエフスキーが好きだった。
ドストエフスキーの登場人物が強迫性障害みたいな症状があり、自分が共感して好きになったと言う。
朔太郎は年齢を重ねて来ると、強迫性障害みたいな症状が少なくなってきて、生きるのが楽になったという。
しかし創作能力が衰えてきてしまう。
生きることはいつも辛くて毎日が試練を乗り越える連続であると、そうするとどうしてもいろんなことを考えなければいけない。
こんなにつらいのに何で生きて行かなければいけないのか、とかと言う事を考えないといけない。
さーっと生きられる人に比べてものは考える、試練を乗り越えなくてはいけないと言うことになると人間的な魅力が高まって来る。
そういうところが創作に繋がるのかと思います。
朔太郎は音楽が好きで最初音楽家になろうとしていた。
17歳で銀座の店に輸入された3つしかないマンドリンを購入して、本格的に勉強した。
29歳のころから前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催、それが群馬交響楽団の礎になる。
マンドリンの独奏曲を作っている。
*「機(はた)織る乙女」 萩原朔太郎作曲
「食い物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
かくして、たこは彼の身体全体を食いつくしてしまった。
何処もかしこも全て残るくまなく完全に。
けれどもたこは死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
ある物凄い欠乏と不満をもった人の目に見えない動物が生きていた。」
(「死なない蛸」 短編)
僕(頭木弘樹)の場合は20歳でもうベットに寝たままだと言われ、どうなっていくんだろうと、満たされない思いだけが残っていた。
病院のベッドはいろんな人が使ってきて、亡くなった人も居ただろうし、治らなかった方もいるだろうし、ベッドに色んな人の思いが凄く残っているのではないかとその時に思いました。
「僕は初めて芸術というものの本当の意味を知ったような気がしました。
それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです。
生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まるものと考えます。」
(北原白秋への手紙から引用)
とっても面白い考え方です。
「一番深い地獄にいる者ほど清らかな歌を歌う事が出来ます。
天使の歌だと思っているのは、実は彼等の歌なのです」 (カフカ)
同じ様なことを言っていると思います。 生きる辛さの中からとても生きられないという叫びですね。 それを発しているのが芸術で、さらに面白いのは芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まる、心からの激しい悲鳴であるほど優れた芸術であると言っているわけです。
「その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。」このことは大事で、芸術は悲鳴である、その悲鳴を聞かれると言うことが大事だと言っている。
「私が魂(こん)かぎり、生(せい)かぎり叫ぶ声を、多くの人は空耳にしか聞いてくれない。
私の頭の上を踏みつけて、この国の賢明な人達がこう言っている。
「詩人の寝言だ」。」
詩とか小説とか芸術とか必要としていない人がいるが、本当はおかしな話だと思う。
色んな現実の中から、一つの現実の典型的パターンを取りだしたのが物語とか詩だと思うので、それを意味無いと言って現実が好きということはよく判らない。
寝言かもしれないが寝言の何処が悪いと反論したい。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
朔太郎は正直な人だと思います。
「詩はただ病める魂の所有者と、孤独者との寂しい慰めである」、と朔太郎は言っている。
「絶望名言」と同じだと思います。
「学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪寒が走るほどである。
その頃の生徒や教師に対して、みな一人ひとりに復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ虐められ仲間はずれにされ通してきた。
小学校から中学校にかけ学生時代の僕の過去は、今から考えてみて僕の生涯の中での最も呪わしく、陰鬱な時代であり、まさしく悪夢の追憶だった。
学校にいる時は教室の一番の隅に小さく隠れ、休業時間の時には誰も見えない運動場の隅に息を殺して隠れていた。」(萩原朔太郎)
頭木さんは20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発病し、13年間に渡る療養生活を送りました。
その悩み苦しんだ時期に心に染みた言葉を「絶望名言」として御自分で紹介していらしゃいます。
1886年11月1日生まれ、1942年に亡くなっています。(56歳)
萩原朔太郎はラジオ好きだったらしい。
39歳の時に東京に出て来る。(1925年)
日本で最初にラジオ放送がされたのが同年3月。
萩原朔太郎は新しいもの好きでラジオに夢中になる。
石川啄木、谷崎純一郎は同い歳。
カフカが生まれたのが1883年、ほぼ同年代。
萩原朔太郎は芥川龍之介と交流があった。
学校では辛い目に会っていた。
「僕は比較的良家に生まれ、子供の時に甘やかされて育ったために、他人との社交について自己を抑制することができないのである。
そのうえ、僕の風変わりな性格が小学生時代から仲間の子供と違っていたので、学校では一人だけのけ者にされ、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれていた。」
父親は東大の医学部を首席で卒業して前橋で病院を開いていた。
経済的に豊かだった。
温室育ちで、繊細で過敏になって行ってしまう。
朔太郎は中学で落第し、高校の受験でも失敗してしまう。
熊本の高校にはいるが翌年落第して、岡山に転校するが落第して、大学に入るが退学する。
もう一度大学にはいるが又退学する。
その後京大の試験を受けるが不合格、早稲田を受験しようとするが、ミスがあって駄目になってしまう。
結局そのまま家にいて詩を書きながら、マンドリンを弾くという事になってしまう。
「特に強迫観念が激しかった。
校門を出る時にいつも左足からでないと踏み出せなかった。
四ツ角を曲がるときにはいつも 3べんずつぐるぐる回った。
そんな馬鹿馬鹿しいつまらぬことが、僕には脅迫的な絶対命令だった。
だが、一番困ったのは意識の反対衝動に駆られることだった。
例えば町に行こうとして家を出るとき、逆に森へ行けと脅迫命令が起こってくる。
そうするといつの間にか僕の足はその命令を巡行して反対の森の方に行っているのである。」
一番困ったのは意識の反対衝動に駆られること、これは人間関係が難しい。
好きな友人でも「馬鹿野郎」と言ってしまったりする。
朔太郎はドストエフスキーが好きだった。
ドストエフスキーの登場人物が強迫性障害みたいな症状があり、自分が共感して好きになったと言う。
朔太郎は年齢を重ねて来ると、強迫性障害みたいな症状が少なくなってきて、生きるのが楽になったという。
しかし創作能力が衰えてきてしまう。
生きることはいつも辛くて毎日が試練を乗り越える連続であると、そうするとどうしてもいろんなことを考えなければいけない。
こんなにつらいのに何で生きて行かなければいけないのか、とかと言う事を考えないといけない。
さーっと生きられる人に比べてものは考える、試練を乗り越えなくてはいけないと言うことになると人間的な魅力が高まって来る。
そういうところが創作に繋がるのかと思います。
朔太郎は音楽が好きで最初音楽家になろうとしていた。
17歳で銀座の店に輸入された3つしかないマンドリンを購入して、本格的に勉強した。
29歳のころから前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催、それが群馬交響楽団の礎になる。
マンドリンの独奏曲を作っている。
*「機(はた)織る乙女」 萩原朔太郎作曲
「食い物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
かくして、たこは彼の身体全体を食いつくしてしまった。
何処もかしこも全て残るくまなく完全に。
けれどもたこは死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
ある物凄い欠乏と不満をもった人の目に見えない動物が生きていた。」
(「死なない蛸」 短編)
僕(頭木弘樹)の場合は20歳でもうベットに寝たままだと言われ、どうなっていくんだろうと、満たされない思いだけが残っていた。
病院のベッドはいろんな人が使ってきて、亡くなった人も居ただろうし、治らなかった方もいるだろうし、ベッドに色んな人の思いが凄く残っているのではないかとその時に思いました。
「僕は初めて芸術というものの本当の意味を知ったような気がしました。
それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです。
生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まるものと考えます。」
(北原白秋への手紙から引用)
とっても面白い考え方です。
「一番深い地獄にいる者ほど清らかな歌を歌う事が出来ます。
天使の歌だと思っているのは、実は彼等の歌なのです」 (カフカ)
同じ様なことを言っていると思います。 生きる辛さの中からとても生きられないという叫びですね。 それを発しているのが芸術で、さらに面白いのは芸術の価値はその絶叫、真実の度合いの強弱によって定まる、心からの激しい悲鳴であるほど優れた芸術であると言っているわけです。
「その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。」このことは大事で、芸術は悲鳴である、その悲鳴を聞かれると言うことが大事だと言っている。
「私が魂(こん)かぎり、生(せい)かぎり叫ぶ声を、多くの人は空耳にしか聞いてくれない。
私の頭の上を踏みつけて、この国の賢明な人達がこう言っている。
「詩人の寝言だ」。」
詩とか小説とか芸術とか必要としていない人がいるが、本当はおかしな話だと思う。
色んな現実の中から、一つの現実の典型的パターンを取りだしたのが物語とか詩だと思うので、それを意味無いと言って現実が好きということはよく判らない。
寝言かもしれないが寝言の何処が悪いと反論したい。
その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです。
朔太郎は正直な人だと思います。
「詩はただ病める魂の所有者と、孤独者との寂しい慰めである」、と朔太郎は言っている。
「絶望名言」と同じだと思います。
2018年10月28日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
*チャイコフスキー作曲 四季から「10月」 秋の歌 チェロ
今日はチャイコフスキーの遺伝子。
洗練されたウイーン、パリの音楽とチャイコフスキー音楽は相思相愛なんですね。
チャイコフスキーが一番尊敬していた作曲家はモーツアルト。
*「モーツアルトピアーナ」 第3楽章 祈り
1791年作曲
元々は宗教曲を編曲
調べはモーツアルトですが、弦の響かせ方はロシアンロマンが入っている。
*タンゴ・パセティック チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」の要素も入っているが、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のメロディー。
「アリア」のメロディーも聞こえてくる。
*ジャンゴロジーから「悲愴のインプロヴィゼーション」 ジャンゴ・ラインハルト(ギター)とステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)の共演 1949年録音
セルゲイ・ラフマニノフ
一番チャイコフスキーと繋がりが深い、格調高いロマンティックなメロディーを紡ぎ、ラフマニノフの音楽はアメリカの映画音楽とかミュージックの音楽に伝播していった。
*「ヴォカリーズ」 セルゲイ・ラフマニノフ作曲 1912年
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
*チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」第二楽章 ワルツの部分
(普通3拍子だが5拍子のワルツ)
*チャイコフスキー作曲 四季から「10月」 秋の歌 チェロ
今日はチャイコフスキーの遺伝子。
洗練されたウイーン、パリの音楽とチャイコフスキー音楽は相思相愛なんですね。
チャイコフスキーが一番尊敬していた作曲家はモーツアルト。
*「モーツアルトピアーナ」 第3楽章 祈り
1791年作曲
元々は宗教曲を編曲
調べはモーツアルトですが、弦の響かせ方はロシアンロマンが入っている。
*タンゴ・パセティック チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」の要素も入っているが、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のメロディー。
「アリア」のメロディーも聞こえてくる。
*ジャンゴロジーから「悲愴のインプロヴィゼーション」 ジャンゴ・ラインハルト(ギター)とステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)の共演 1949年録音
セルゲイ・ラフマニノフ
一番チャイコフスキーと繋がりが深い、格調高いロマンティックなメロディーを紡ぎ、ラフマニノフの音楽はアメリカの映画音楽とかミュージックの音楽に伝播していった。
*「ヴォカリーズ」 セルゲイ・ラフマニノフ作曲 1912年
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
*チャイコフスキーの交響曲 第6番「悲愴」第二楽章 ワルツの部分
(普通3拍子だが5拍子のワルツ)
2018年10月27日土曜日
山崎 亮(コミュニティーデザイナー) ・人と人を結ぶデザイン
山崎 亮(コミュニティーデザイナー) ・人と人を結ぶデザイン
1973年愛知県生まれ、大学で景観デザインを学び、設計会社では公園や街並み保存の設計を手掛けていました。
1995年の阪神淡路大震災ではボランティアとして、被災状況の調査に立ち会い被災者がお互いの助け合いによって再生した事例に数多く出合いました。
コミュニティーデザイナーという新しい仕事を立ち上げたのです。
人口が減少する社会では、新たに人と人の交わりを結び直すデザイナーが必要と考え、島根県海士町町おこしなどを展開しています。
コミュニティーデザイナー、デザインと言うと専門家が何か美しく作ってくれる印象があるかと思いますが、アマチュアの人々が沢山集まってそれにプロの人も関わってデザインすることは、何デザイナーと言うのかと言うと、コミュニティーのかたがたと一緒に何かをデザインして行く行為だと考えました。
地域の方々と一緒にこの地域がどんなふうになったらいいのかなあとか、どんなふうに描いていったらいいか一緒に考えて、未来を一緒に作って行くこと、これをコミュニティーデザインと呼んでいます。
繋がりを作って行くきっかけにもなるし、繋がった方々が自分たちの地域の課題を解決して行くような、未来を一緒にデザインして行くような場を作り出したいと思っています。
島根県海士町では町長がどのように元気にして行くのかという事を色々考えられていて、我々が関わる前から様々な事業を進めていました。
2007年の時から次の10年間に何をしたいか計画を作りたいと言うことで、総合計画と言われていました。
住民の意見を聞きながら計画を作りたいと我々に依頼してくれました。
住民の方々の意見を聞くことになり80人の人々が来て、気になるテーマについて話し合いを繰り返し2年ぐらい続けました。
それを計画書に纏めて、未来に向けて活動を実現させる為に、結びつてけていきました。
地方自治体から仕事を頂いたのは海士町が最初でした。
そのことは新聞、TV、雑誌などで全国に広がりました。
町民一丸となって取り組みました。
大阪の泉佐野市にある丘陵緑地の所を手作りで公園を作り続けている状態が続いています。
パークレンジャー(市民の方が講習を受けて公園を作る人達)が来ていて、どの木を切ってもいいかどうかとか、公園を作ってくれていて9年ぐらい続いています。
自分たちで公園を作って自分たちで遊ぶ。
65~75歳の方がたが多く集まってくれました。
秋田県の秋田市から高齢で元気に生きて行く人たちを増やしていきましょうと言うプロジェクトが始まり、手伝ってほしいとの依頼が来ました。
高齢で元気で楽しそうに生きている人達を取材して、その人たちが何故こんなに元気なのかを分析した結果を美術館で展覧会として纏めましょうと言うことで、展覧会を作りたい人を募集しました。
50人ぐらいが応募してくれて、それにスタッフと一緒に高齢で元気で楽しそうに生きている人達を見付けて回りました。
29人取材、撮影したりして展示のきっかけにしました。
女子高生とおばあちゃんがSNSで毎日のように会話をしたりしていました。
色々活動を起こして行ってくれました。
市民の方々が関わってくれるのには、えっと思うようなことから入らないと参加してくれないことがある。
病院をどうしたらいいのか、お寺が元気が無いのでどうしたらいいのか、公園をもっと良く作るにはどうしたらいいのか、社会の課題を解決してゆくタイプの仕事が多いです。
社会の課題に対して市民の参加を募りたいと思った時には、解決するための正しさだけでなく、楽しさ、面白そうと言うような感性に訴えかける方法もいっしょに入っていた方が、より多くの方に興味を持ってもらえる。
最初にインタビューしてどんな地位かを探ることから始まります。
面白い人を10人紹介してもらって色々話を伺います、そして友達になる。
そしてそれぞれ面白い人を3人紹介して貰って、またそこから紹介してもらって90人ぐらいになります。(50~90人の人との話を聞く)
ワークショップを開いて、多くの人に来ていただいて話し合いをしていただきます。
最初の声をかけた数十人の人にも来ていただきます。
7~8人ずつぐらいで話し合いをしていただきます、
地域の課題、その解決法、事例を学びながら、地域の課題をどう解決して行くのか決めてもらいます。(1年間に10回位会合を続けていきます)
チームビルディング(組織を作って行く 主体形成 信頼関係をより作って行くゲームなどをやります。)
活動を起こしてくれたらそれをサポートして行く。
①インタビューをして→②ワークショップをやって→③チームビルディングをやって→④活動をサポートして行く。
途中は試行錯誤の連続です。
一人でいた方がいいと思う方がいるかもしれないが、ずーっと一人でいていいかというと、誰かと出会いたいという気持ちになることもあると思うので、こういう場をどううまく作ってゆくのかということは我々の仕事だと思います。
1995年の阪神淡路大震災の時に大阪にいて、都市計画、建築設計、庭、公園の設計などを学んでいました。
被災地に行って被災状況を調査するプロジェクトに関わりました。
被災の光景をみてデザインは一体何が出来るんだろうと悩む時期がありました。
地域の方々がお互い励まし合っている光景に出合いました。
話し合う場が地域にあったらいいんじゃないかと思いました。
大学院修了後建築会社に入りましたが、公共施設を作る時に市長とか会社の課長とかの考えではなく、地域に住んでいる方がどんな建築になったらいいか、という話をしてその内容を設計に反映した方が、正直なのではないかと考えるようになりました。
人と人とが話し合う場を作って行く方が、魅力だと感じるようになりました。
2005年にコミュニティーデザインの専門の事務所を作りました。
最初は来てくれませんでしたが、2007年の時に海士町の仕事をさせてもらって知ってもらうきっかけになりました。
2011年に東日本大震災があり、復興の時には地域の方々の意見を聞きながら復興計画をした方がいいのでは無いかということになりました。
我々も色んなところに呼んでもらうことが出てきました。
スタジオLは20人ぐらいのチームでやっています。
インターネットを通じて仕事ができる様になったのは大きなきっかけだったと思います。
プロジェクトリーダーをまず育てて、また次を育てるにと言うふうにしてやってきました。
年に一回は必ず全スタッフが集まって、1年間自分たちがどんな仕事をやってきたかを共有する場として2泊3日の合宿を行い厳しい意見の交換をやっています。
福祉、介護はとても大切になるだろうと思っています。
これは地域と繋がらないとうまくいかないだろうという問題意識があると言うことがわかってきました。
呼ばれた講演で、福祉、介護のプロジェクトもみんながあっと驚くような、楽しいと思うようなきっかけをつくりだしたらどうですかと話をすることが多かったが、どうしたらいいかといわれることが多かった。
これからの介護、福祉を考える方々、現場の方々、デザイナーの方々、クリエーターの方々などが一緒に話し合いの場を作ろうとしました。
全国6ブロックに分けて、ワークショップを6回繰り返して、福祉介護クリエータの方々がチームを作って10チーム(全国で80チーム)がいっしょに介護福祉の事を考えて、解決の道を生み出して活動をやってみる、それをお手伝いをするのがデザインスクールです。
関東ブロックで第1回目を行って60名位が参加して、実際の介護現場を見に行って今後問題点を見付けだして、活動して行くと言うことになっています。
他のブロックでも進め始めています。
「縮充する日本」を出版。
毛糸で編んだセーターは洗濯すると縮むが暖かくなる、わざとするんですが、それを縮充ウールと言います。
日本の人口は今後減っていきますが、縮減、縮退は良くないと思う。
人口は減って行くが、社会課題に参加型で取り組んでゆく人達の数が増えて行くことを「縮充」と呼べないかなあと思いました。
定住人口は減って行っているが、活動人口が増えて行っている状態になると地域としては縮充になるのではないかと思う。
自分たちの地域は自分たちが関わって、作って行こうと思う人の数が増えてゆくという社会を目指したいと思っています。
)
1973年愛知県生まれ、大学で景観デザインを学び、設計会社では公園や街並み保存の設計を手掛けていました。
1995年の阪神淡路大震災ではボランティアとして、被災状況の調査に立ち会い被災者がお互いの助け合いによって再生した事例に数多く出合いました。
コミュニティーデザイナーという新しい仕事を立ち上げたのです。
人口が減少する社会では、新たに人と人の交わりを結び直すデザイナーが必要と考え、島根県海士町町おこしなどを展開しています。
コミュニティーデザイナー、デザインと言うと専門家が何か美しく作ってくれる印象があるかと思いますが、アマチュアの人々が沢山集まってそれにプロの人も関わってデザインすることは、何デザイナーと言うのかと言うと、コミュニティーのかたがたと一緒に何かをデザインして行く行為だと考えました。
地域の方々と一緒にこの地域がどんなふうになったらいいのかなあとか、どんなふうに描いていったらいいか一緒に考えて、未来を一緒に作って行くこと、これをコミュニティーデザインと呼んでいます。
繋がりを作って行くきっかけにもなるし、繋がった方々が自分たちの地域の課題を解決して行くような、未来を一緒にデザインして行くような場を作り出したいと思っています。
島根県海士町では町長がどのように元気にして行くのかという事を色々考えられていて、我々が関わる前から様々な事業を進めていました。
2007年の時から次の10年間に何をしたいか計画を作りたいと言うことで、総合計画と言われていました。
住民の意見を聞きながら計画を作りたいと我々に依頼してくれました。
住民の方々の意見を聞くことになり80人の人々が来て、気になるテーマについて話し合いを繰り返し2年ぐらい続けました。
それを計画書に纏めて、未来に向けて活動を実現させる為に、結びつてけていきました。
地方自治体から仕事を頂いたのは海士町が最初でした。
そのことは新聞、TV、雑誌などで全国に広がりました。
町民一丸となって取り組みました。
大阪の泉佐野市にある丘陵緑地の所を手作りで公園を作り続けている状態が続いています。
パークレンジャー(市民の方が講習を受けて公園を作る人達)が来ていて、どの木を切ってもいいかどうかとか、公園を作ってくれていて9年ぐらい続いています。
自分たちで公園を作って自分たちで遊ぶ。
65~75歳の方がたが多く集まってくれました。
秋田県の秋田市から高齢で元気に生きて行く人たちを増やしていきましょうと言うプロジェクトが始まり、手伝ってほしいとの依頼が来ました。
高齢で元気で楽しそうに生きている人達を取材して、その人たちが何故こんなに元気なのかを分析した結果を美術館で展覧会として纏めましょうと言うことで、展覧会を作りたい人を募集しました。
50人ぐらいが応募してくれて、それにスタッフと一緒に高齢で元気で楽しそうに生きている人達を見付けて回りました。
29人取材、撮影したりして展示のきっかけにしました。
女子高生とおばあちゃんがSNSで毎日のように会話をしたりしていました。
色々活動を起こして行ってくれました。
市民の方々が関わってくれるのには、えっと思うようなことから入らないと参加してくれないことがある。
病院をどうしたらいいのか、お寺が元気が無いのでどうしたらいいのか、公園をもっと良く作るにはどうしたらいいのか、社会の課題を解決してゆくタイプの仕事が多いです。
社会の課題に対して市民の参加を募りたいと思った時には、解決するための正しさだけでなく、楽しさ、面白そうと言うような感性に訴えかける方法もいっしょに入っていた方が、より多くの方に興味を持ってもらえる。
最初にインタビューしてどんな地位かを探ることから始まります。
面白い人を10人紹介してもらって色々話を伺います、そして友達になる。
そしてそれぞれ面白い人を3人紹介して貰って、またそこから紹介してもらって90人ぐらいになります。(50~90人の人との話を聞く)
ワークショップを開いて、多くの人に来ていただいて話し合いをしていただきます。
最初の声をかけた数十人の人にも来ていただきます。
7~8人ずつぐらいで話し合いをしていただきます、
地域の課題、その解決法、事例を学びながら、地域の課題をどう解決して行くのか決めてもらいます。(1年間に10回位会合を続けていきます)
チームビルディング(組織を作って行く 主体形成 信頼関係をより作って行くゲームなどをやります。)
活動を起こしてくれたらそれをサポートして行く。
①インタビューをして→②ワークショップをやって→③チームビルディングをやって→④活動をサポートして行く。
途中は試行錯誤の連続です。
一人でいた方がいいと思う方がいるかもしれないが、ずーっと一人でいていいかというと、誰かと出会いたいという気持ちになることもあると思うので、こういう場をどううまく作ってゆくのかということは我々の仕事だと思います。
1995年の阪神淡路大震災の時に大阪にいて、都市計画、建築設計、庭、公園の設計などを学んでいました。
被災地に行って被災状況を調査するプロジェクトに関わりました。
被災の光景をみてデザインは一体何が出来るんだろうと悩む時期がありました。
地域の方々がお互い励まし合っている光景に出合いました。
話し合う場が地域にあったらいいんじゃないかと思いました。
大学院修了後建築会社に入りましたが、公共施設を作る時に市長とか会社の課長とかの考えではなく、地域に住んでいる方がどんな建築になったらいいか、という話をしてその内容を設計に反映した方が、正直なのではないかと考えるようになりました。
人と人とが話し合う場を作って行く方が、魅力だと感じるようになりました。
2005年にコミュニティーデザインの専門の事務所を作りました。
最初は来てくれませんでしたが、2007年の時に海士町の仕事をさせてもらって知ってもらうきっかけになりました。
2011年に東日本大震災があり、復興の時には地域の方々の意見を聞きながら復興計画をした方がいいのでは無いかということになりました。
我々も色んなところに呼んでもらうことが出てきました。
スタジオLは20人ぐらいのチームでやっています。
インターネットを通じて仕事ができる様になったのは大きなきっかけだったと思います。
プロジェクトリーダーをまず育てて、また次を育てるにと言うふうにしてやってきました。
年に一回は必ず全スタッフが集まって、1年間自分たちがどんな仕事をやってきたかを共有する場として2泊3日の合宿を行い厳しい意見の交換をやっています。
福祉、介護はとても大切になるだろうと思っています。
これは地域と繋がらないとうまくいかないだろうという問題意識があると言うことがわかってきました。
呼ばれた講演で、福祉、介護のプロジェクトもみんながあっと驚くような、楽しいと思うようなきっかけをつくりだしたらどうですかと話をすることが多かったが、どうしたらいいかといわれることが多かった。
これからの介護、福祉を考える方々、現場の方々、デザイナーの方々、クリエーターの方々などが一緒に話し合いの場を作ろうとしました。
全国6ブロックに分けて、ワークショップを6回繰り返して、福祉介護クリエータの方々がチームを作って10チーム(全国で80チーム)がいっしょに介護福祉の事を考えて、解決の道を生み出して活動をやってみる、それをお手伝いをするのがデザインスクールです。
関東ブロックで第1回目を行って60名位が参加して、実際の介護現場を見に行って今後問題点を見付けだして、活動して行くと言うことになっています。
他のブロックでも進め始めています。
「縮充する日本」を出版。
毛糸で編んだセーターは洗濯すると縮むが暖かくなる、わざとするんですが、それを縮充ウールと言います。
日本の人口は今後減っていきますが、縮減、縮退は良くないと思う。
人口は減って行くが、社会課題に参加型で取り組んでゆく人達の数が増えて行くことを「縮充」と呼べないかなあと思いました。
定住人口は減って行っているが、活動人口が増えて行っている状態になると地域としては縮充になるのではないかと思う。
自分たちの地域は自分たちが関わって、作って行こうと思う人の数が増えてゆくという社会を目指したいと思っています。
)
2018年10月26日金曜日
ヨシタケ シンスケ(絵本作家) ・【人生のみちしるべ】コドモのミカタ
ヨシタケ シンスケ(絵本作家) ・【人生のみちしるべ】コドモのミカタ
1973年神奈川県生まれ、45歳。
2013年に初めてのオリジナル絵本、「りんごかもしれない」を出版し大ヒット、これまでに「ぼくのニセモノをつくるには」、「もうぬげない」など10冊あまりを出版し、数々の絵本賞を受賞する絵本作家です。
ヨシタケさんの最新の絵本のタイトルは「みえるとかみえないとか」、ヨシタケさんにとって目が見えないという障害をどう表現し、子供達が面白いと思うような絵本にするか、そこが挑戦だったと言います。
ヨシタケさんはどんな方なのか、最新作に込める思い、これまでの人生で大切にしてきた道しるべについて伺いました。
会社を辞めて坊主頭にして20年ぐらい坊主頭です。
中学生の頃にバレーボールをしていたが、体育系の乗りが理解できなくて辞めてしまいました。
高校では美術部に入りました。
2013年「りんごかもしれない」という絵本でデビューして子供達に大人気になりました。
日常の何でもないことを題材にして、話がどんどん展開して行く。
人一倍常識にとらわれる子だったような気がします。
今は逆に何をどうやれば普通じゃないのかと、考えるようになりました。
イラストレーターとして、絵本を描く前10年やっていまして、ひとつのネタに対して色んな答えを出す訓練をしてきました。
子供ができて子育てをした、ということも大きかったと思います。
小さい頃の自分に喜んでもらうため、絵の本を心がけて来ました。
シンプルな線で描くが、絵が実はへたくそで、筑波大学大学院芸術研究科総合造形コースに入りましたが、デッサンが下手でした。
見ないで描こうと思って、或る時から見ないで描くことにしたら、絵が描けるようになりました。
或る程度の基本を押さえれば、人に伝わると言うことが、僕の好きなものが伝わると言うことが分かった時に、○に点々で顔を描くことにちょっと進化したバージョンと言った感じです。
大学、大学院では現代美術を勉強するところでした。
着ぐるみを作る職業になりたいと思っていました。
卒業してから会社(ゲーム会社)に入りましたが、半年間で辞めました。
新しいゲームを考える部署で、企画書をいかにも書いているふりをして落書きしていました。
或る時見られてしまったが、経理の女性で「可愛い」と言ってくれました。
人に見せてもいい絵なんだと気がつきました。
自費出版で出したが、売れなくて人にあげたりしていたが、或る時出版社から他のものも見せてほしいと言われました。
イラスト集を出さないかと言われて、30歳の時にイラスト集を出しました。
それがきっかけでイラストの仕事を引き受けるようになりました。
40歳でデビューして2013年「りんごかもしれない」という絵本を出しましたが、売れるはずはないと思っていました。
思いのほか売れることになりました。
自分で嫌いなことをやらないようにしました。
最新絵本「みえるとかみえないとか」 東京工業大学準教授の伊藤亜紗さんが、4年前に出版した「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を元に作った絵本ですが3年かかりました。
(通常他の絵本は約半年)
難しいテーマでした。
絵に描くとかわいそうな人に見えてしまった。
絵にすると助けてあげなくてはいけない人に見えてしまう。
主人公は地球では普通だが、ある星ではその宇宙人が後ろも見えることが出来、「君後ろが見えないの」と宇宙人から障害者扱いされるのはどうだろうと思いました。
普通の人ということが無くなる。
舞台を宇宙にすると言うことに凄く時間がかかりました。
不謹慎なものになってはいけないし、当事者がいらっしゃる時に勝手な事を言うなと、我々はそんななまやさしいものではない、勝手に笑いものにするなと言われてしまうと、こちらとしてどうしようもない。
探りながら作った本です。
「みえるとかみえないとか」
「僕は宇宙飛行士。・・・・この星の人は後ろにも目があるので、前も後ろも一度に見えるらしい。・・・あっ、君後ろが見えないの。・・・不便じゃない、可愛そう。君は後ろが見えないから背中の話はしないでおこう。・・・凄いちゃんと歩いている、みんなよけてあげて。・・・見え方が違うだけなのに、みんなすごく気を使ってくれて変な気持だった。・・・生まれつき後ろだけ目が見えない人がいる。一緒だ僕と同じだと思うと安心する。・・・いろんな星があったなあ。・・・うまれつき全部の目が見えないと言う人がいた。その人の世界の感じ方はずいぶん僕と感じが違っていた。 自分の予定はメモをしないで録音しておく。・・・外を歩く時は杖を使う。・・・入れ物が同じだと食べてみるまで判らない。・・・音楽など耳を使う仕事、マッサージなど手を使う人が多い。・・・目の見えない人は音、匂い、手触りで色んなことが判る。
…見えないからこそできることも沢山ある。・・・見える人と見えない人では世界の感じ方が全然違う、と言うことは全然別の世界に住んでいると言うことだろうか。
・・・「見えいないってなんか面白そう?」、「えーっ僕は見える方がおもしろそうだと思うな。」時々取り替えられればいいのにね。」
・・・そもそも僕たちはみんなちょっとずつ違う、その人だけの見え方や感じ方を持っている。
・・・どんなにやることや考え方が違っていても、自分と同じところは必ずあると思う。
・・・うーん、宇宙も地球も一緒だな。・・・同じところを探しながら、違うところをお互いにおもしろがればいいんだね。それは凄く難しい様な気がするがじつは簡単なものなのかもしれない。・・・君手が二本しかない、えーっ可愛そう、いややっぱり不便そうに見えちゃうよね。」
主人公が見えない人に向かって、「見えないってなんか面白そう?」て聞くシーンがあるが、実はこの本で実は一番言いたかった事で、「みえるとかみえないとか」を作るきっかけになったのは、伊藤先生の本が面白かったことと、僕が小さい頃に街に視覚障害の方が杖を突いて歩いていて、母に「あの人はなにしているの」と聞きました。
母は「あの人は目の不自由な人で杖で確かめながら歩いているのよ」と言われて、「面白そう」と言ったら凄く母親が怒りました。
自分で好きであのようにしているのではなくて、面白がるんではないと言われました。
なんか悪いことを言ったんだと凄く反省したんですが、もやもやしていました。
大人になって子供がTVを見ていて、視覚障害の方が出てきて、息子が同じおように「面白そう」って言ったんです。
自分とは違う世界の感じ方をすると言うこと自体に「面白そう」と感情を抱くこと自体は、悪いことではないと思うが、どういえばいいのか、タブー視することもよくない。
視覚障害の絵本を描く時に「面白そう」ということに対して、どういう返事ができるのか悩んでいた部分でもあり、僕がみつけた答えの一つが見えない人に対して「見えないことが面白そう?」と聞いた時に、見えない人から「僕は見える方が面白そうだと思うな」、と言うふうなお互いを知ることの面白さに繋がればいいと思う。
無理なのかなあとくじけそうになった時もあります。
次のページめくりたいと思っている訳なので、読後感が「面白かった」と言うふうになってくれたのが成功です。
みんなが触れにくいテーマと、どうでもいいと思われているテーマを同じ熱量で扱って行きたい。
小さいころ自分が感じていたことに、嘘を付かないことが一つの目標です。
1973年神奈川県生まれ、45歳。
2013年に初めてのオリジナル絵本、「りんごかもしれない」を出版し大ヒット、これまでに「ぼくのニセモノをつくるには」、「もうぬげない」など10冊あまりを出版し、数々の絵本賞を受賞する絵本作家です。
ヨシタケさんの最新の絵本のタイトルは「みえるとかみえないとか」、ヨシタケさんにとって目が見えないという障害をどう表現し、子供達が面白いと思うような絵本にするか、そこが挑戦だったと言います。
ヨシタケさんはどんな方なのか、最新作に込める思い、これまでの人生で大切にしてきた道しるべについて伺いました。
会社を辞めて坊主頭にして20年ぐらい坊主頭です。
中学生の頃にバレーボールをしていたが、体育系の乗りが理解できなくて辞めてしまいました。
高校では美術部に入りました。
2013年「りんごかもしれない」という絵本でデビューして子供達に大人気になりました。
日常の何でもないことを題材にして、話がどんどん展開して行く。
人一倍常識にとらわれる子だったような気がします。
今は逆に何をどうやれば普通じゃないのかと、考えるようになりました。
イラストレーターとして、絵本を描く前10年やっていまして、ひとつのネタに対して色んな答えを出す訓練をしてきました。
子供ができて子育てをした、ということも大きかったと思います。
小さい頃の自分に喜んでもらうため、絵の本を心がけて来ました。
シンプルな線で描くが、絵が実はへたくそで、筑波大学大学院芸術研究科総合造形コースに入りましたが、デッサンが下手でした。
見ないで描こうと思って、或る時から見ないで描くことにしたら、絵が描けるようになりました。
或る程度の基本を押さえれば、人に伝わると言うことが、僕の好きなものが伝わると言うことが分かった時に、○に点々で顔を描くことにちょっと進化したバージョンと言った感じです。
大学、大学院では現代美術を勉強するところでした。
着ぐるみを作る職業になりたいと思っていました。
卒業してから会社(ゲーム会社)に入りましたが、半年間で辞めました。
新しいゲームを考える部署で、企画書をいかにも書いているふりをして落書きしていました。
或る時見られてしまったが、経理の女性で「可愛い」と言ってくれました。
人に見せてもいい絵なんだと気がつきました。
自費出版で出したが、売れなくて人にあげたりしていたが、或る時出版社から他のものも見せてほしいと言われました。
イラスト集を出さないかと言われて、30歳の時にイラスト集を出しました。
それがきっかけでイラストの仕事を引き受けるようになりました。
40歳でデビューして2013年「りんごかもしれない」という絵本を出しましたが、売れるはずはないと思っていました。
思いのほか売れることになりました。
自分で嫌いなことをやらないようにしました。
最新絵本「みえるとかみえないとか」 東京工業大学準教授の伊藤亜紗さんが、4年前に出版した「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を元に作った絵本ですが3年かかりました。
(通常他の絵本は約半年)
難しいテーマでした。
絵に描くとかわいそうな人に見えてしまった。
絵にすると助けてあげなくてはいけない人に見えてしまう。
主人公は地球では普通だが、ある星ではその宇宙人が後ろも見えることが出来、「君後ろが見えないの」と宇宙人から障害者扱いされるのはどうだろうと思いました。
普通の人ということが無くなる。
舞台を宇宙にすると言うことに凄く時間がかかりました。
不謹慎なものになってはいけないし、当事者がいらっしゃる時に勝手な事を言うなと、我々はそんななまやさしいものではない、勝手に笑いものにするなと言われてしまうと、こちらとしてどうしようもない。
探りながら作った本です。
「みえるとかみえないとか」
「僕は宇宙飛行士。・・・・この星の人は後ろにも目があるので、前も後ろも一度に見えるらしい。・・・あっ、君後ろが見えないの。・・・不便じゃない、可愛そう。君は後ろが見えないから背中の話はしないでおこう。・・・凄いちゃんと歩いている、みんなよけてあげて。・・・見え方が違うだけなのに、みんなすごく気を使ってくれて変な気持だった。・・・生まれつき後ろだけ目が見えない人がいる。一緒だ僕と同じだと思うと安心する。・・・いろんな星があったなあ。・・・うまれつき全部の目が見えないと言う人がいた。その人の世界の感じ方はずいぶん僕と感じが違っていた。 自分の予定はメモをしないで録音しておく。・・・外を歩く時は杖を使う。・・・入れ物が同じだと食べてみるまで判らない。・・・音楽など耳を使う仕事、マッサージなど手を使う人が多い。・・・目の見えない人は音、匂い、手触りで色んなことが判る。
…見えないからこそできることも沢山ある。・・・見える人と見えない人では世界の感じ方が全然違う、と言うことは全然別の世界に住んでいると言うことだろうか。
・・・「見えいないってなんか面白そう?」、「えーっ僕は見える方がおもしろそうだと思うな。」時々取り替えられればいいのにね。」
・・・そもそも僕たちはみんなちょっとずつ違う、その人だけの見え方や感じ方を持っている。
・・・どんなにやることや考え方が違っていても、自分と同じところは必ずあると思う。
・・・うーん、宇宙も地球も一緒だな。・・・同じところを探しながら、違うところをお互いにおもしろがればいいんだね。それは凄く難しい様な気がするがじつは簡単なものなのかもしれない。・・・君手が二本しかない、えーっ可愛そう、いややっぱり不便そうに見えちゃうよね。」
主人公が見えない人に向かって、「見えないってなんか面白そう?」て聞くシーンがあるが、実はこの本で実は一番言いたかった事で、「みえるとかみえないとか」を作るきっかけになったのは、伊藤先生の本が面白かったことと、僕が小さい頃に街に視覚障害の方が杖を突いて歩いていて、母に「あの人はなにしているの」と聞きました。
母は「あの人は目の不自由な人で杖で確かめながら歩いているのよ」と言われて、「面白そう」と言ったら凄く母親が怒りました。
自分で好きであのようにしているのではなくて、面白がるんではないと言われました。
なんか悪いことを言ったんだと凄く反省したんですが、もやもやしていました。
大人になって子供がTVを見ていて、視覚障害の方が出てきて、息子が同じおように「面白そう」って言ったんです。
自分とは違う世界の感じ方をすると言うこと自体に「面白そう」と感情を抱くこと自体は、悪いことではないと思うが、どういえばいいのか、タブー視することもよくない。
視覚障害の絵本を描く時に「面白そう」ということに対して、どういう返事ができるのか悩んでいた部分でもあり、僕がみつけた答えの一つが見えない人に対して「見えないことが面白そう?」と聞いた時に、見えない人から「僕は見える方が面白そうだと思うな」、と言うふうなお互いを知ることの面白さに繋がればいいと思う。
無理なのかなあとくじけそうになった時もあります。
次のページめくりたいと思っている訳なので、読後感が「面白かった」と言うふうになってくれたのが成功です。
みんなが触れにくいテーマと、どうでもいいと思われているテーマを同じ熱量で扱って行きたい。
小さいころ自分が感じていたことに、嘘を付かないことが一つの目標です。
2018年10月25日木曜日
松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた(2018年8月16日OA)
松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた(2018年8月16日OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_16.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_16.htmlをご覧ください。
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