2025年9月30日火曜日

林家三平(落語家 二代目)        ・〔わが心の人〕 初代 林家三平

 林家三平(落語家 二代目)        ・〔わが心の人〕 初代 林家三平

初代 林家三平さんは1925年七代目林家正蔵さんの長男として東京に生まれました。 今年は初代林家三平さんの生誕100年にあたります。 三平さんは父親である正蔵さんに入門し、昭和33年真打の昇進します。 歌いながら全身で笑いを生み出す舞台は、昭和の爆笑王として高座だけでなくテレビ、ラジオでも大人気となりました。 昭和55年54歳の若さで亡くなりました。  

12月で55歳になります。  父が享年54歳だったので、父を越えることになります。  私が生まれた時が父が45歳の時でした。  私が45歳の時にせがれが生まれています。  父は羽織袴と言うよりは紺色のスーツと言うイメージでした。  中が赤い裏地でした。 それは父と石原裕次郎さんだけでした。  もじゃもじゃ頭は天然パーマでした。  父が亡くなる前まで数時間一緒でした。  医師が「三平さん、三平さん貴方自分の名前を言ってください。」と言った時に「加山雄三です。」と言ったのは、本当の話なんです。  亡くなる寸前まで人を笑わそうという意識は強かったです。  「人間は笑われるんじゃない、笑わすことが僕たちの仕事だ。」と父はよく言っていました。  若いときには3時間ぐらいしか寝ないでネタを作っていたと言います。  いつも時代に合ったネタを作っていました。 

父の高座の姿をそでから毎日のように観ていました。  父と手を繋いでいると、父の手が段々冷たくなってゆくのを感じましたが、それは今迄の高座よりもいいものをやろうとすると人間緊張するという事で、越路吹雪さんもそうだったと言います。  高座に出て来なさいとよく父から言われて小話をしたことがあります。  いくつか父から教えてもらいました。  父は笑いと言うものを植えるけてくれました。  笑って頂くためには何でもするという父でした。  舞台から降りてお客さんを追っかけたりするので、父の足袋はいつも裏が真っ黒でした。  「舞台は戦場なり」という座右の銘があります。  「芸に死に、芸に生きよ」とか、21歳の時に書いています。  


父は特攻隊要員でしたが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員しました。   兵隊に行く前はおとなしいフランス文学の好きな父でした。  父を変えたのは、死と向き合った戦争だのかもしれません。  七代目林家正蔵の生きざまを観てこれが僕の道だと思ったと思います。  最初は普通のネタでやっていたが、二つ目になっていきなりネタが「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ」でした。  シャンソンの題で高座に上がっています。  ネタは何をやったのか判りません。  父はかなりの近眼で、お客さんの顔は見えていないと思うんですが、お客さんに向かって話かけているんです。 

私は噺家になろうとは思っていませんでした。  大学の夏休みの時にヨーロッパにいって、自分の国のお国自慢をしろといわれて何も言えなかった。  帰って来て日本の文化を勉強しようと思ったのが、落語でした。  小噺のほかには「味噌豆」(5分程度)という話だけは父から教わりました。  兄は古典落語に真剣に取り組んでいます。  父の落語を追いかけるのが僕の使命ではないかと思っています。  アコーディオンを使って父の真似をしています。  浅草で生誕百年祭を11月にやることになっています。 (台東区のお祭りの一環)

「笑わせる腕になるまで泣く修業」 父が僕に残した色紙です。 (父が亡くなる半年前に書く。)  笑わせることの難しさをしみじみと感じています。  祖父の国策落語(戦争昂揚落語)を10年ぐらい前から始めています。  日本がどんどん勝っているという話なので、日本は負けたというイメージで聞くと、意味が全く分かりません。  勝っているというイメージでないと全くわからない。  お客様にそこのところを理解してもらって、そういった活動もしています。  農業もやっています。  母の疎開先が穴水という事で能登の方の応援もしています。 



2025年9月29日月曜日

2025年9月28日日曜日

福島富子(神奈川県原爆被災者の会 副会長) ・記憶を語り継ぐ

 福島富子(神奈川県原爆被災者の会 副会長)       ・記憶を語り継ぐ

今年は広島、長崎に原爆が投下されて80年、被爆の体験をどう語り継ぐかが年月の経過とともに難しくなっています。 神奈川県在住の福島富子さんは、長崎で生後間もないころに被爆し、4歳の時に親戚の住む五島列島の小値賀町に一人預けられました。 成人して神奈川県に移り住み30代で被爆者健康手帳を取得、現在は被爆体験を語り継ぐ活動をしています。 家族や親戚から伝え聞いた自身の被爆当時、その後の状況を語ると同時に高齢になった被爆者の体験を語り継ぐ長崎の交流証言者としての活動もしています。福島さんは去年日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際、共にノルウェー、オスロを訪れています。 被爆時に幼すぎて直接的な記憶がない福島さんは、被爆について語ることを長年ためらってきたと言います。 その思いが変ったきっかけ、そして最も若い被爆者として自身の体験をどう語り継いできたのか、長崎で被爆した他者の体験を今後語り継ごうと決意した経緯について伺います。

生後6ケ月のころ被爆しています。  兄は3,4歳でしたが鮮明に覚えています。 母が私を抱っこして、兄を負ぶって防空壕に逃げたという事を兄から聞いています。  ここも危ないという事で竹藪の方の防空壕に行ったそうです。  父は食糧調達に行っていて、私たちは亡くなっていると思っていて、探していたら大丈夫だという事がわかりました。 父ともに親戚の家に疎開しました。  そこを離れたという事が良かったかなと思います。

4歳ごろヤギの乳を飲まされたきおくはあります。  被爆したことを隠すために預けられたと思います。(五島列島の小値賀町)  一人で預けられて泣き続けたことは覚えています。 高校卒業後は長崎に実家に戻りました。  10歳の時に一度実家に帰ったことがありましたが、母が号注していました。  この人誰、なんで泣いているの、という記憶があります。  子供をもって母の号泣している姿がやっとわかりました。  実家に帰ってすぐに父は脳溢血で亡くなりました。  母は病院に入院していました。  しばらくは兄と私と妹の3人で暮らしていました。  6か月して母が退院してきましたが、妹を介して私に話をするんです。(うまくいかなかった。)  東京の洋裁店に行って働いて生きて行こうと思いました。 その後結婚して神奈川県に住みました。

被爆手帖はあにがとった方がいいと言うので取ることにしました。 (34歳)  当時は被爆者はひっそりと生きていました。 神奈川県原爆被災者の会に所属しました。(20名程度)2011年の福島原発まで私は語る資格はないと思っていました。(何も覚えていないから)「被爆その後の福島さんの人生を知りたいんだ。」とある先生から言われて、 そうなのかと思いました。  それから自分探しを始めました。  福島の方々が差別されていました。 葉山の町に福島ナンバーの車があり、そこに「帰れ」と書いてありました。 何とかしないといけないと思いました。  戦争、原爆のことなど勉強しました。 

広島の村上さんと言う方の話を聞いて衝撃を受けました。(20年ほど前)  2018年に村上さんが神奈川県の新聞に自分の証言を掲載されていました。 それを機にお付き合いするようになりました。  村上さんが私の話をしてほしいと言われました。  交流証言者として登録しました。 

村上さんは被爆者なのに原爆に負けてないと見えました。  村上さんの話としては、原爆が落ちた瞬間から、身体がだるく成ったり、沢山の血を吐き、周りの人からもう助からないという中で、自分が負けずに生きてゆくというその部分を伝えています。 村上さんは95歳になり、判らないことを聞くと、もう忘れたというんですね。  頼りにしているのは村上さんから頂いた資料です。  若い人たちが交流表現者になっていただけるのが、今後の励みになります。(小学4年生の子が交流表現者なる。)  

去年日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際、共にノルウェー、オスロを訪れています。 ようやく思いが通じたという瞬間でした。  オスロの方々は温かかったです。 被団協がノーベル平和賞を受賞したことを若い人に聞くと何人かは知らないです。 世界にどれだけ伝わっているのか疑問です。  戦争のない世界を作りたい。  私が知っている事実を話していきたい、身体の続く限り。





















2025年9月27日土曜日

根岸季衣(女優)             ・〔私の人生手帖〕

根岸季衣(女優)             ・〔私の人生手帖〕 

朝の連続テレビ小説、114作「風薫る」に出演が発表されている女優の根岸季衣さん。「ハイカラさん」「澪つくし」の連続テレビ小説、民放の「ふぞろいの林檎たち」と数多くのドラマに出演、映画の大林宣彦監督の作品の常連としても知られています。  根岸季衣さんは1954年東京都出身、つかこうへいさんの、『蒲田行進曲』で注目を集めました。  20歳のころ演劇科の大学を辞め、保育士を目指して短大に入りなおしましたが、その短大も『ストリッパー物語』の主役に抜擢され、短大を半年で辞める。 その後も映画テレビなどで存在感のある役を続けていますが、その素顔はどんな方なんでしょうか。  これまでの女優人生や大林監督に学んだこと、ご家族のことなど話していただきました。

「風薫る」に出演が決まりました。 明治時代のことで、看護師としての職業はまだなくて、看護学校に学んで、二人の女性の生き方をずっと描いていきます。  姑の役です。 栃木弁でやります。  母は95歳になりますが、朝ドラに出ると言ったら喜んでくれました。 11月の夜ドラにも出演します。  偏屈なばあちゃん役をやります。  平屋に住んでいる若者の話ですが、おばあゃちゃんが若者と触れ合ってゆく、楽しいい仕事でした。  

デビューが1974年、映画「廃市」恋に滅びてゆく愛の物語ですが、大林監督に抜擢されて感謝しています。(美人役でした。)   愛に滅びてゆく役なので痩せてくるように言われ、それほど無理をしないでも落とせました。 行ったら監督も感動してくれました。 下剤も使ったこともありましたが。  今も1週間に一度絶食するようにしていますが、これは体にいいです。 痩せないけれど体はスッキリします。  水はがぶがぶ飲みます。  一晩ぶっ通しで撮影したりしていました。(低予算)  大林監督の作品は27本出ています。  内容の判らないまま出てくれと言われて出演した作品もあります。  

映画を作るってこんなに楽しくって面白くて素敵な事なんだという事を、大林監督から教えてもらいました。  「時をかける少女」は恋物語でもあるので、「私たちはまだまだ青春と思っていたのに、青春を見守る側になっちゃったんですね。」と言ったら、監督が「僕たちはずっと青春なんだよ、でもあの子たちは無自覚の青春なんだ。」っていいました。 素敵な表現をする監督でした。  いい出会いが出来てラッキーだったと思います。

小さいころは出たがり屋でした。(学芸会とか)  劇団とかダンスとかは近くになくて何もやれませんでした。  高校の時にダンス(モダンバレエ)を始めました。  19歳の時につかこうへい事務所に見に行って、入団しました。  アルバイトで保育園に行ったら楽しくて資格を取らないといけないと思って、専門学校に入りなおしましたがそこではおもしろくなかった。  1975年の『ストリッパー物語』の主役に抜擢され、短大を半年で辞め根岸とし江の芸名で芝居の世界に戻った。  何をよりどころにやってきたのかと言うと、のびやかでいられたのかなあという事と、周りに恵まれて嫌な思いもしないまま来たという事ですかね。 

ダンスをしていたことによって、凄く助けられたかなと思います。  ダンスは身体が喜ぶと言った感じです。  蒲田行進曲』では3か月やっていて一日も真っすぐ家には帰りませんでした。  20代なのに毎日身体がきつかったです。  喜びも考える暇もないようでした。 オファーして頂けるので、それを受けているだけで十分楽しいというか、そういった感じです。  子供に対しては今思うともっと時間を割いてあげればよかったと思いますが、よくまともに育ってくれたと思います。  長男はお坊さんになっていて、次男はドラムをやりながらライブハウスの仕事をしています。  弁当にはポリシーがあって、夜の残り物、冷凍食品は使わないという事をしてきました。  両親が助けてくれたので助かりました。 70歳を越すとやたら昔が懐かしくなります。  それまでは振り返る暇がなかったんでしょうね。

熱海に住んでいるので、週2回日が出る15分前にビーチに行って、ラジオ体操とストレッチヨガをやっています。 (冬は厳しいが日の出がいい。) 



















2025年9月25日木曜日

村田あやこ(路上園芸鑑賞家・ライター)  ・〔私のアート交遊録〕 道ばたに咲く植物に魅せられて

村田あやこ(路上園芸鑑賞家・ライター)・〔私のアート交遊録〕 道ばたに咲く植物に魅せられて 

福岡の自然豊かな街で育た村田さん、東京にはコンクリートジャングルのイメージがあったが、住んでみると緑の多いのに気が付いたと言います。 道端の何気ない植物たちは計算された美ではないが、あれているとも違う、その場に共存している姿に思わず見入ってい仕舞い、気は付けば疲れた自分が癒されていたと言います。 こうしたた村田さんの路上園芸観察がSNSを中心に話題を呼び、路上園芸学会を立ち上げ、園芸活動や植物の魅力を発信していますが、あえて会員は募りません。  あくまで緩く楽しみたいというのがその理由です。 村田さんに道端の花や草などの見方を通して日常の光景に価値を見出すその視点について聞きます。

福岡で生まれて家のすぐ裏に山があって、毎日山の中を駆け回るような子供時代を送っていました。  大学は北海道に行って、そこでも自然豊かな状況でした。  東京で就職をして20代半ばで植物と付き合うような仕事っていいなあと突然思い立ちました。  植物を使った空間デザインに興味を持ちました。  その後街角の緑に目が止まるようになりました。 自然と一緒になって長年かけて育ってきたような風景はなんか健やかで素敵だなあと思いました。或る時から写真をSNSにコメントを一言添えて投稿する様になりました。  そうするとよく見るようになりました。  そういったことが重なって本に繋がっていきました。 

言語化するという事が良かったと思います。  自分の正直な思いを言葉にすることによって、そこが誰かと響く部分と言うのは大きかったと思います。  美術を楽しむことと共通するところがありますね。  当時、神保町での昼の散歩が日々の楽しみになっていて、街角の植物を観た時に独り脳内大喜利大会のような感じで脳トレをはじめて、ゴロのいい言葉はないかなあと親父ギャグを思い浮かべるよいうになりました。  漬物の樽を転用した鉢が有ったら、これは別の業界で活躍していた器が転職していたという事で「転職鉢」といた風に言葉にしていきました。  そういったことはメジャーな楽しみ方だと思います。  言葉にすることによって、自分にとっての名所になります。 「植物壁画」「果肉御殿」とか本の中にあります。  発砲スチロールは「転職鉢」でもメジャーなものです。(軽い、加工しやすい、手に入りやすいなど)

蔓系の植物ではビルの壁面にはって、面白いと思います。  落葉性だと綺麗に紅葉することがあります。  落葉すると茎だけになってドローイングのようになって、偶然出来たアートのようなものになります。  楽しみ方の素材は街中にごろごろ転がっています。 

中、高校時代には植林のボランティアなどもしました。  本を作る仕事をしたいと漠然に思っていました。  巡り巡っていまは植物の本を出したりしています。  カメラで写真に撮って記録してみると、何年後かの風景と比べてみると、その差が楽しいです。  コンクリートの隙間から生えている様な小さな草花でも、俯瞰で撮ってみると砂漠の中のオアシスに見えたり、撮る角度によって全然違ったものに見えてきます。  他人の撮った写真と見比べてみるのも楽しいです。  

塚谷裕一先生の「スキマの植物図鑑」には、道端の草と言うのは人間から見るとド根性〇〇というキーワードで語られがちですが、意外とそういう場所は光を遮るという事がなかったり、水を独り占めできる楽園なんだよと言う様なことが書かれています。  偶然種がたどり着いて、そこがあっているからだけで、不思議に見えるがそこが何かしらの理由であっているからそこにいるんだろうなあと思って、想像しながら見ていると不思議だなあと思います。

街中に大きなサボテンを見かけましたが、そこにも物語があり、東日本大震災で水道管が壊れて根腐れして枯れてしまったが、以前株わけしたところから逆に分けてもらって大きくなったと言った話もあります。  路上園芸に関して言うと、人の生活が濃厚なエリアにたのしい風景がひろがっているように見えます。  その街のリアルな生活風景に触れられる入口になるのではと思います。  名前を憶えてゆくのも楽しくなると思います。 お薦めに一点はドラマで「パンとスープとネコ日和」です。 (鉢植えの風景などが良く出てくる。)











2025年9月24日水曜日

堀部貴紀(中部大学 准教授)        ・〔心に花を咲かせて〕 サボテンは地球を救う救世主

堀部貴紀(中部大学 准教授)     ・〔心に花を咲かせて〕 サボテンは地球を救う救世主 

サボテンが今課題となっている食料問題、地球温温暖化を緩和する救世主になる可能性があると、中部大学 准教授の堀部貴紀さんは熱弁しています。 2017年には国際連合食料農業機関が食用サボテンは食糧危機を救う作物になりうると発表しているそうですし、地球温暖化対策にも有効で、人類にとってとても重要な存在だという事です。

世界的には種類が2000種以上あり、品種と言うものを入れると8000品種以上あると言われています。  育っている地域(砂漠、熱帯雨林など)によってサボテンは姿を変えます。 熱帯雨林の地域では水が要らないので膨れない。  ウチワサボテンは観賞用だけではなくて世界を救う作物にもなりうると言われています。 

サボテンを始めたのは大学の先生になってからです。  生き物が好きで農学部の大学に進みました。 大学の時には花(バラ)の研究をしました。  研究は狭い領域なので広い領域のメディアの世界(テレビ局)に一旦就職しました。  研究の楽しさを思い起こして、1年ぐらいで辞めてしまいました。  名古屋大学の大学院へ戻り、花の研究をして博士号を取りました。  中部大学で教員として採用されて、研究者として独り立ちができました。 

中部大学のある愛知県の春日井市は日本で一番サボテンを作っている地域です。  春にはサボテンのお祭りがあり、サボテンラーメン、サボテンの串焼き、などサボテンの料理が一杯ありました。  オクラとかメカブに近いネバネバがしてちょっと酸っぱい(リンゴ酸)味がしました。  メキシコでは肉と相性がいいという事で、普通に野菜として食べられています。 ウチワサボテンは成長が早くて柔らかいんです。  商業生産されているのは30か国を越えています。  イタリアなどではサボテンの実を食べます。  例えばドランゴンフルーツ。   ウチワサボテンでは大きな果物(トゥナ)を付けます。  地球温暖化が進むなかで絶対に重要な作物になりうると思いました。  これをテーマにしようと思いました。 

日本にはサボテンの研究者がいなかったので、アメリカ、メキシコなどの研究者と連絡を取って行っていろいろ教えてもらいました。  棘のないウチワサボテンがありました。 (実際にはちょっと棘があった。)  韓国にも行きました。(観賞用のサボテンの研究所)  アフリカ、ヨーロッパにも行きました。  

テーマはいくつかあって①日本でサボテンを野菜にしてしまおう。 企業と組んでやっています。 ②合う土壌  ③ウチワサボテンは3,4種対しかないので、それらの低温耐性を調べる。(大型ではマイナス4℃ぐらいまでは耐える。) 水があった方がウチワサボテンは良く育ちます。 サボテンは生命力があります。  アリゾナ砂漠では凄く暑いんですが、サグアロサボテン(西部劇などに良く出てくる大きなサボテン)は元気に立っているんです、感動しました。  

1年半前、診療内科を受診してADHD(注意欠如・多動症(Attention-deficit/hyperactivity disorder)と双極性障害(躁(そう)状態または軽躁状態と抑うつ状態とを反復する精神疾患という事でしたが、サボテンの姿は精神的にも支えにもなっています。  それが研究をするうえでプラスにはなっていると思います。 今力を入れているのは、サボテンを地球温暖化防止に使おうという研究です。  サボテンは空気中の二酸化炭素を結晶化する性質があります。空気中の二酸化炭素をシュウ酸カルシウムにと言う結晶に変えます。 結晶化したものはサボテンが枯れても土に残るんです。 二酸化炭素を土に閉じ込めることが出来ます。 それとサボテンを植林しても水を含んでいるので火事にならない。  何故,二酸化炭素が結晶化するのか、結晶の数を沢山増やせないかという事を研究しています。

結晶を増やす技術も見つかって来ましたし、カンボジアでサボテンを使った二酸化炭素の固定実験を企業とやっています。  地雷の除去の後にサボテンを植えることになりました。  サボテンの植林事業する企業もあります。 2017年には国際連合食料農業機関が食用サボテンは食糧危機を救う作物になりうると発表している。  健康にも良いという事で、脂肪の吸収を抑制する。(ダイエット効果)  マウスに食べさせると免疫機能が上がるという研究成果も出ています。  野菜にもなるし、加工品の原料にもなる、家畜のえさにもなる(トウモロコシの一部を置き換えれば人間に回せる。)、植林にもなる。  サボテンを牛に食べさせると水の量が減るんです。(節水効果)  欠点としてはサボテンが強すぎるので、管理しないとほかの植物を駆逐してしまう可能性がある。 

日本では野菜や家畜飼料ですね。  オクラは30℃を越えると生育不良になって来ます。  サボテンは50℃でも平気です。  暖かい地域ではよく育ちます。  企業と協力していろいろやっていますが、サボテンの漬物などもトライしています。  美味しいと言っています。 サボテンの生命力を社会の役に立てることが目標です。 サボテンによる地球温暖化の防止、食糧難の解決、サボテンの機能性を明らかにしたい。  チームで取り組むことが大事で、考えていなかったアイディアが出るとか、新しいい商品が出来たり、事業がスタートしたり、新しい取り組みが生まれる。  サボテンの国際組織があり、サボテンの研究者、技術者が集まる場所があって、わたしはそこのアジア担当者です。  日本とメキシコでタッグを組んで研究するとか具体的になってきています。  エネルギー事業にサボテンを使えないかと言うような話もあります。  サボテンの棘を取るのを機械で出来ないかと言ったこともあります。











2025年9月23日火曜日

坂崎幸之助 (THE ALFEE ミュージシャン)  ・走り続けてなお、終わらない夢

 坂崎幸之助 (THE ALFEE ミュージシャン)  ・走り続けてなお、終わらない夢

THE ALFEEは1974年にデビュー、桜井賢さん、高見沢俊彦さんと共に去年50周年を迎えました。 ライブ通算本数3000本を目前にして、今なお精力的に活動しています。 坂崎さんは今年6月寄席デビューを果たしました。  幼いころから通っていた演芸場で71歳にしてデビューしたいきさつについて、また多くの趣味を持ちカメラや骨董などコレクターとも知られる坂崎さんが幅広い分野で活動を続ける思いも伺います。

紅白に41年振りに出ました。  新規のファンが増えました。  来年でライブ通算本数3000本になります。  メインボーカルを皆で歌うことを目指していたので、当たり前と思っています。  THE ALFEEの雰囲気は良く平和だと言われます。  最近は寄席デビューしました。  初代林家三平生誕百年記念興行の浅草演芸ホールで行いました。 三平さんは子供のころから好きでした。 小さいころから浅草演芸場、上野鈴本などに行っていました。   深夜放送で「すみません」コーナーをやっていました。  事務所に三平さんの弟子の新平さんが来たので、三平さんのところに連れて行って貰うように頼みました。  家に伺ったらミュジシャンで弟子になったのが二人いるんだと言いました。  YMOの高橋幸宏とTHE ALFEEの坂崎幸之助だと言ってくれました。 (本当の弟子ではないのですが、そういって下さいました。)  そこから付き合いが始まりました。  

生誕百年になるので出てくれませんかと言われました。  どうせやるならギター漫談をやろうかなと思いました。  ネタは書いていました。  大変受けました。 落語協会に入ってくれないかと言われましたが、さすがに敷居が高いです。 71歳でデビューと言うのは自分の人生の中でも大きな出来事でした。  続けているといろいろと夢が降って来ます。  フォーク・クルセーダーズに中学1年の時に憧れましたが、2002年に再結成すると言って、加藤さん、北山さんが坂崎を呼ぼうと言って、3人でやろうと言ってこれも一大事でした。 吉田拓郎さんとか憧れた方と共演と言うのが結構ありました。 それもTHE ALFEEを続けているからだと思います。 

メインの趣味はカメラ、骨董一般ですが特にガラスです。  江戸切子大使をやっていて、江戸切子は、昔は江東区、墨田区が一番盛んでした。  カメラ、骨董は40年以上やっています。  始まると好奇心が旺盛なのでどんどんはまってしまいます。  中学の時にグッピーを飼いだして、同じ仲間にどんな魚がいるのだとか、グッピーは卵をお腹の中で孵して出てくるので、他の同様な魚はいるのかとか調べて、飼ったりしました。  ギターは200本弱あります。  去年欲しいギターがあり、それを買うのに30本ぐらい手離しましたが、半額ぐらいにしかなりませんでした。 30年ぐらい前から売らないのか聞いていました。 日本では1本のギターと思っていたら、マーチン社の1968年製の試作器でずーっとウインドウの中にあったんです。  憧れていたギターだったんです。 カメラも2000台買ったことがあるんです。  カメラをセリで売ったりしました。  

コレクターは自分で抱えてしまうのではなくて、継承していくこともあると思うんです。 海外から買い戻したものもいいものがいっぱいいあります。  生き物はカメが5,6匹とヤモリの仲間が3匹、猫が6匹です。 (減りました。)  

自分がギターを弾きたくなったのは、エレキギターブームです。  小学校4年ぐらいからベンチャーズ、ビートルズが好きになりました。  中一でフォークギターを買って、フォーク・クルセーダーズ、そして日本のフォークにはまって、拓郎さんに行くんですね。 桜井とはコンテストで知り合いました。(彼らが優勝した。)  高見沢(当時ロック)も桜井と同じ高校でした。  大学で又ばったり高見沢と会って、その後3人でやるようになりました。

「結婚しようよ」で吉田拓郎が世に出て、フォークがメジャーになって行き、その後いろいろなグループが出てきます。  大ヒットし始めたのが1973年ごろです。 僕らがでた1974年は何百組と出たんです。  3,4年ぐらいはレコード会社のない時代がありました。  独りだと落ち込みましたが、3人集まると頑張ろうみたいな雰囲気になりました。 

29歳の時に一回目の紅白歌合戦に出ることになりました。  3人の音楽がちょっとずつ違っていたので、お互いの刺激になりました。  アコースティックギターをバンドの中に取り入れた方が面白いと思いました。  作品に関しては高見沢任せです。