2025年7月31日木曜日

澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

 澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

1996年の夏の甲子園の決勝、愛媛県の松山商業対熊本工業の試合。  同点で延長戦となり、絶体絶命のピンチとなった10回の裏を奇跡のバックホームと言われた好プレーでしのいだ松山商業が延長11回に勝ち越して熊本工業を破り27年振り5回目の夏の甲子園優勝を飾りました。  この時の松山商業の監督が澤田勝彦さん(68歳)です。  澤田さんは愛媛県松山市の出身で、松山商業、駒沢大学で活躍し、1980年に母校松山商業のコーチに就任、1986年夏の甲子園準優勝を経験した後、1988年9月に監督に就任しました。  監督としては春夏併せて6回甲子園に出場し、96年夏の甲子園で優勝、2001年の夏の甲子園ではベスト4進出を果たしました。  その後愛媛県の北条高校を定年まで勤め、松山商業野球部OB会の顧問として部を支えています。

1996年の夏の甲子園の夏の優勝から来年で30年になりますが、あっという間でした。  奇跡のバックホームと言われるが、いろんな要素が含まれていると思います。  起用に彼が答えてくれた事には監督と選手との信頼関係があったとか、彼の練習を実証してくれたとか、様々なことを表してくれた、そしてその後の後輩に対してもいい教訓を与えてくれたことを含めて色々な要素があるバックホームになったと思います。 

私の高校時代は全国制覇を成し遂げた一色俊作監督、大学時代も全国制覇を成し遂げた太田誠監督と言う名将から指導を受けました。  学んだことを一言でいうと人間力だと思います。  野球をする以前に人としてどうあるべきかと言う事を叩きこんでいただいたと思います。  「目標は全国制覇、目的は人間形成」と言うスローガンを監督となってから掲げました。   ワンプレイごとに必ず人間性が出てくると思いますから、人間性を磨いておかなければ、特に土壇場の境地におかれた時には、人間力、人間性と言うものが如実に表れます。   信頼関係は一日二日で出来るものではありません、一日一日の積み重ねです。   

雪が降る真冬に上半身裸になってノックをやったという時もありました。  二人でノックをやっている時にショートのキャプテンの水口(後年近鉄に行く)が、急に上半身を脱いで「こいや」と叫んだら、内野の選手からボール拾いの選手まで全員が上半身を脱ぎました。 あの光景はいまだに忘れません。  彼の統率力が出ました。  当時の監督と私の目が合って自分らも脱がなければ駄目だと思って上半身を脱いで熱く盛り上がりました。

96年の夏の甲子園に出場、10年振りの決勝進出を果たす。  東海大三高さんに一回戦で8-0と勝てたことが、すべてのプレッシャーから解き放たれたと思います。  2期連続一回戦敗退と言う事でしたから。  決勝では熊本工業で初回に3点を取ることが出来ました。(押し出しが2点)   2回、8回に一点ずつ返される。  9回裏2アウトランナー無しと言うところで、沢村選手に同点ホームランを打たれる。  相手は10回裏に2ベースヒットを打って、この場面でピッチャーをエースの新田投手から渡辺投手に変える。

送りバントで1アウトランナー3塁、1番バッター、1番バッターを敬遠して満塁策を取る。  ピッチャーの後ライトに回っていた新田選手から矢野選手をライトに変える。  次が3番の左打ちの好打者だったのでライトが気になった。   後のピッチャーのことをことを考えるとどうしようかなどと頭がぐるぐると廻ったが、直ぐ決断をした。(矢野選手をライトに変える事)  打たれた瞬間に終わったと思いました。  矢野選手はフライ(逆風で失速)をキャッチしてダイレクトでホームに返球した。  

矢野選手は普段からバックホームが苦手な選手でした。(チームメートからも信頼を置かれないような選手だった。)   判定はアウトになり難を逃れる。   矢野選手は同級生から土下座されて辞めてくれと言われて(私は彼らの卒業後に知った。)、こたえたと思います。  自分への不甲斐なさの葛藤もあったと思います。 全てがあの一投に出たと思います。  矢野選手が11回の表に2ベースヒットを打って、そこから3点を取って6-3で松山商業が27年振り5回目の優勝を飾る。 

「勝機一瞬」勝ちに結びつけるためには一瞬を大事にする。  どう取り組んで、どういう生活をして行かなければいけないのか、磨かれた人間力が成績に現れたことと思います。   高校野球はひたむきさだと思います。










   

2025年7月30日水曜日

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない 

志の春さんは大阪の出身。  父親の転勤で8歳から3年間アメリカニューヨークで過ごし、帰国後千葉の高校からアメリカのイエール大学に留学、卒業後商社で鉄鉱石を扱う部門で働きます。  2001年に偶然立川志の輔さんの落語を聞いて衝撃を受け、商社を辞めて落語家の道を歩む事になります。  26歳で志の輔さんに入門して、2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  古典、新作とどちらも見事にこなす今注目の落語家です。  また英語で落語をする英語落語で海外の人たちにも喜んでもらうなど、新しい試みを行っています。

昭和51年生まれ、48歳です。  師匠は二刀流なので新作もやるように言われています。   新作を自分で作ってみると古典がどれだけうまくできているかと言うのを、再確認できます。  手持ちは古典が120ぐらい、新作が50ぐらいです。  新作は一回やった後、練り上げてゆく事が必要ですね。  子供の頃は相撲が好きでお相撲さんになりたかった。  スポーツは好きでした。  父親の仕事の関係で8歳の時にニューヨークに行きました。  順番にクラスの仲間から英語を習って、聞く方は半年、1年で出来るようなりました。 

帰国後、千葉県柏市で育つ。 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校と楽しく過ごしました。     イェール大学に留学しました。 (親は猛反対でした。)   イェール大学に行くことは、英語が全く話せない8歳の時の恐怖の時の方が大きかったです。  大学では中国史を選択しました。  日本のことをもっと知りたい、経験したいという思いがありました。   日本通の友達から日本映画のことなどについて衝撃を受けました。  帰国後三井物産に入りました。  鉄鉱石を扱う部門に配属されました。  2年後に立川志の輔の落語と出会いました。落語ってこんなに面白いものだという事に度肝を抜かれました。(25歳)  その後落語一色の日々になりました。  

立川志の輔師匠に履歴書をもって会いに行くことになりました。  会社勤めを続けながらアマチュアとして落語を楽しむ方が、一番幸せではないのかと断られました。  会社を退職して再度会いに行きました。  弟子ではなく見習いと言う立場でスタートしました。  今やっておかないと後悔をするという確信はありました。  3番弟子となったのが26歳。 2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  カルチャーショックでした。 アメリカでは褒めてのばすようなやり方に対して真反対でした。  気を遣うという事はむずかしかったです。  13回も破門されるようなことがありました。 

英語落語をやっています。  基本は海外に行ってやると言う事ですが、日本でも日本人と外国人が混ざったような会場で行います。  基本的には古典落語を訳してやっています。   げらげら笑うし、泣く時にはワーワー泣いているし落語の力を感じます。  AIで訳した古典落語を見せてもらったことがありますが、結構いい線いっているんです。  落語家になることに反対していた両親もよく見に来てくれています。  弟は大学卒業(オックスフォード大学数学科)後、劇団四季に6年ぐらい在籍して、今はミュージカルのプロデュースをしています。  子供の頃に新しい環境に入ることがそんなに怖くないという免疫が付いていた、それが今に繋がっていると思います。  出来るだけたくさんの古典落語を訳して、普遍性が備わっているからこそ、どの国の人が聞いても面白いし、人種、宗教観、とかがもろもろの人たちが同じ場で笑えるのが落語の笑いだと思うので、やって行きたい。  新作も普遍性が供えているものを作れるというのも一つの目標です。 







2025年7月29日火曜日

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

 永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

永田さんは1947年生まれ、千葉県出身。  湯川秀樹博士に憧れて京都大学に進学し、同時に入会した京大短歌会で後に妻となる歌人河野裕子さんと出会いました。  短歌と科学の2足の草鞋を履き続け39歳で京都大学の教授となります。  短歌では迢空賞、現代短歌大賞を受賞、又研究では日本人として初めてハンス・ノイラート科学賞を受賞するなど、どちらの世界でも第一線で活躍して来ました。  現在は宮中歌会始の詠進歌や新聞歌壇の選者、宮内庁御用掛、JT生命誌研究館館長を務めています。 2010年に妻の河野裕子さんが亡くなってからは二人の思い出を作品として発表し、ドラマ化もされました。  永田さんは今年の春、エッセイと短歌で綴る「人生の後半にこそ読みたい秀歌」を出版しました。   河野さんを亡くして15年ご自身後期高齢者となり、老いを迎えるための人生観を古今の短歌に探りました。

細胞生物学者と言うのは、細胞は一番小さな生命の最小単位ですが、細胞が生きて行くためには、細胞のなかにはタンパク質だけでも10万種類ぐらいのタンパク質がそれぞれの役目を果たしながら細胞の命を支えているわけです。   それぞれのタンパク質がどのような働きをして、細胞が生きて行くためのこの部分にこんな仕事をしているというのを研究しているわけです。  コラーゲンが作られるためには作るのに別のタンパク質が必要で、私が見つけた分子シャペロン(分子介添え役 さまざまな物質で混み合った細胞内で、フォールディング途上の不安定な中間体や熱で変性したタンパク質が凝集にならないようフォールディングを助けているタンパク質が存在します。) はアメリカ留学中に見つけました。  この研究を長くやっていました。   

タンパク質はアミノ酸が連なったものですが、間違って不良品のタンパク質が出来ます。  そのままにしておくといろいろな障害が起きます。  例えばアルツファイマー病、パーキンソン病とかいろいろな神経変性疾患を起こす。  間違って作られた不良品のタンパク質を如何に除いてやるか、元に戻してやるかという事がとても大事で、これをタンパク質の品質管理と言います。  間違って作ったら直そうとしますが、どうしても直せなかったら分解してい仕舞う、こういう品質管理の機構が働いています。 それに関わる新しい遺伝子をいくつか見つけました。  サイエンスの面白いのは一つ答えが出た、やったと思うと必ず別の問いが出てくるんです。 

歌の方で言うと、或るものを見た時に自分だったらこんなふうに感じるだという、自分だけしか感じられない思いが出てくる。  それを言葉にして表現できるのが非常に楽しいです。2つのことをやるというのは、後ろめたさ以外なかったですね。 

「人生の後半にこそ読みたい秀歌」  人生後半、老後と言うのはどんどん面白くない人生になってゆくようなイメージを持ちます。  後半の方がいろんなバラエティーがあって、年齢、時間に裏打ちされた感じ方の深さがあって、この一冊にしてみて自分で発見でした。

動物は性の成熟年齢と言うものがあって、子供が生めるようになる、子供が生めるような年齢から最大寿命は大体5~6倍とだいたい決まっている。  人間だけがそれよりもはるかに長く生きる。  生命にとって一番のミッションを解かれたあとの生の時間をどんなふうに生きるかという事は、最近になってようやく直面した問題でもあるわけです。  人生後半になって詠んだ歌を読んでゆくというのは、とても大きな示唆、ヒントを与えてくれる。

「人は皆慣れぬ齢を生きているゆりかもめ飛ぶまるき?曇天」  私の娘の歌

皆初めての齢を生きているという事に気が付いた歌。 人生の後半もいろんな後半があるんだよという事を紹介したい。  共感と自分にないことに対しる驚きと言うのは歌を読んでいくと色々あります。  

「明かる過ぎる秋の真昼間百円の老眼鏡をあちこち置く」  共感できる。

「銀行の監視カメラにお辞儀して嬉しくおろす初の年金」 

「老衰をわがするまでにかかるという数千万円を悲しく思う」  稼ぎつつ老いて行かなければならない。  どんなふうに人生設計しなければいけないのだろうか、と言った歌。

この20年気が付いた歌に介護のジャンルの歌が大きな割合を占めるようになった。

「浅き眠りの父をかたえに?読みふける介護の歌なき万葉集」  言われてみるまで考えたことがなかった。

「初めてのおむつをした日母が泣いた私も泣いた春の晴れた日」  こういう時代になったんだなとよくわかります。  こういった経験をした人は多いと思います。

妻が亡くなりましたが、ありえないことが起きたという感じでした。  がんの歌を作ると妻が死ぬという事をどっかで思い浮かべながら作ることが多いので、作らなかったんですが、再発してからはそうも言っていられなくなり、

「歌は残り歌に私は泣くだろういつか来る日をいつかを恐る」?  普段の言葉では言えないが、私の歌を読んで気持ちを一番よくわかってくれただろうと思います。

「お父さん頼みましたよわが髪を撫でつつこらえ残せし言葉」  亡くなる2,3日前の歌です。  

娘の言った言葉に、「歌を一首つくると時間におもりが付く。」と言いました。  一首作るとその時の時間がありありと思い出される。  歌がなかったら思い出なんてどんどん少なくなっていって、限られた思いでしか残らない。  他人の歌なのだけれども、自分の思い出としてよみがえって来るという歌がいくつもあります。  

「逝きし夫(つま)のバックの中に残りし二つ穴空くテレホンカード」                  今亡くなろうとしている人に「ありがとう」と言う言葉を伝えるくらい難しいことはないですね。  言ってしまったら別れを告げるに等しい。  

市川康夫?先生の所へ亡くなる前の日に行ったことがあります。  先生にはご厄介になったので「ありがとう」の一言が言いたくて行ったんですが、ついに「ありがとう」は言えませんでした。  「また来ます。」と言って病室を出たら、先生が「永田君 ありがとう。」と叫んだんですね。  私からも「ありがとうございます。」と言ったつもりでしたが、嗚咽の方が酷くて伝わったかどうかわかりません。  その夜に亡くなりました。 先生の「ありがとう」がその後の私を支えてくれたと思います。

人生後半、気を付けないと自分の生活圏がどんどん狭くなってしまう。  刺激が少なくなって、喜怒哀楽が少なくなって面白味のない人生になってゆく。  いろんなものに共感するという事がとても大事です。   共感力を如何に高めて行くかという事が人生の後半でとても大事な事だと思います。   私は酒が好きなので酒の歌を結構作っています。  若山牧水は酒が好きで一日一升飲んでいた。   僕もそのくらい飲んじゃいます。  

「足音を忍ばせて行けば台所に我が酒の瓶は立って待ちおる」

寂しがり方が15年経つと段々違ってきます。  初め大きな欠落感がありました。

「あほやなあと笑いのけぞりまた笑うあなたの椅子にあなたがいない」  笑い出すと止まらない妻でした。  今の自分を観てくれているひとがいない、その寂しさが大きいです。  私は外で食べるという事が出来なくて、買ってきたもので食事を作ります。  作ることはできなかったので、妻が料理の仕方を教える取ったんですが、拒否しました。 それは妻の死を認めるという事になってしまうので。  独りになって段々作れるようになってきました。  今の自分を観て欲しいし、褒めて欲しい。  褒めてくれる人がいないという事は悲しい事です。  

宮内庁御用掛  3代前には直接皇居に行って、お会いして指導されていたようです。     以降はファックスになりました。  私の代からはメールが主になりました。   皇族の方々はメールで歌を送ってこられます。 

美智子様は現代に百人の歌人のなかにいれた方です。  未発表のものを私の方で選んで「ゆふすげ」と言う歌集になりました。  

「まなこ閉じひたすら楽ししたのし君のリンゴ食みいます音をききつつ」  皇太子のころにリンゴを食べている、美智子様が目を閉じて音だけを聞いている、それだけで楽し楽し。 

ヒントを差し上げるというスタイルで行っています。

二足の草鞋を履くという事には後ろめたさがあって、両方進めてゆくためには睡眠時間を削るしかないですね。  今でも朝4時ぐらいまで起きています。








2025年7月27日日曜日

中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山さんは1967年生まれの57歳。  5歳の時に当時大人気だったフィンガーファイブに憧れて芸能界を目指します。  1985年お笑いコンビ「ABブラザース」としてデビュー」その後ソロとして活動を続け今年芸能生活40周年となりました。  数々のピンチをチャンスに変えて来た芸能生活について、又今年カンヌ映画祭で作品展を開催したライフワークの書道について伺います。

15歳で上京、今年で40周年。  今年カンヌ映画祭に書道家として御招待頂きました。   去年個展を群馬県でやりました。  去年の暮れに電話がありました。  デジタルアートをやっている赤松裕介君からでした。  彼は40年前、僕の家に下宿していたんです。  カンヌでコラボやりましょうという事でした。(詐欺かと思いましたよ。)  書道を始めたのは小学校1年生です。  小学校2年生で県に出展したら大きな賞を頂きました。  小学校、中学校と大きな賞を頂きました。  上京して以降時間がなかなか取れなくなってきて余りやっていませんでした。  子供には書道を習わせようと思って、そのついでに自分でも習い始めました。  毎日書道展で入選しました。  書道は自分の中では芯ですね。  個展をやらなかったらカンヌもなかったわけで、今やりたいと思う事はやろうと思いました。  40周年で自分の青写真をパンパンに埋めた感じです。

5月に「気くばりのススメ」と言う本を出版しました。  1か月で3万1000部突破しました。  まずは本気で相手の意見を聞いて、柳のようにしなやかに最後に自分の意見を言う。  徳光さんは話術、技術が凄いのは当たり前ですが、気配りの面で言うと、歌の特別番組で歌手の人は60名ぐらい出るわけです。  「中山秀ちゃんご丁寧にありがとう。」と言うんです。  どうしてかと思ったら徳光さんがゲストの方に手紙を書いていて、 僕の名前と竹下さんの名前が連名なんです。  手書きで書かれていて、凄いなあと思いました。

志村けんさんと出会ったのは30歳前でした。  良い言葉を一杯貰いました。  「いつまでも馬鹿でいろよ。」と言う言葉で「お前は司会をやったり情報番組などをやってゆくと思うが、知識が入って勘違いしてゆく。  そうすると人からみて上から目線になってゆく、上から目線になったら絶対駄目だから気を付けろ。」と言われました。  司会者はかっこよくやりたいという思いがどうしてもある。  

「週刊金曜日」と言う萩本欣一さんの番組があり風見慎吾さんがバンドを勇退することになり、新メンバーを水面下で募集することになりました。  僕が16歳の時でした。  今週のゲストは聖子ちゃんなので、トランペットで「赤いスイートピー」吹いてくれる?と言われました。  トランペットは吹いたことはなかったんですが、夜までには吹けるようになりました。  金ちゃん番組?と書いてありました。  意味が分からなかった。  「実は風見さんが戻るという事になりました。」と言われました。 (脱退無し。)  ピンチに落ち込むことはあると思いますが、しょうがないと思って、面白い方に振ってみる。  自分で深みにはまらないようにしているのかもしれません。 

ピンチをチャンスにその①  呼ばれてもいないのに上京して栄養失調になった16歳。  フィンガーファイブに憧れ、中学2年で劇団にはいります。  3か月でテレビに出ることが出来ました。  行けそうだと思って上京したが、その後は受からなかった。  栄養失調になってしまいました。  倒れて病院に行ったら栄養失調と言われました。  オーディション雑誌から片っ端から受けて、その一つが大手の渡辺プロダクションでした。  

ピンチをチャンスにその②  歌も芝居もイマイチで、バラエティー班にぎりぎり引き取ってもらう。  譜面も読めないし楽器も出来ないし、芝居の方がいいのではないかと言われました。  芝居をやり出したら芝居もイマイチだなあと言われてしまいました。  バラエティーは最後の砦でした。  高校から帰ってくるとレッスンを毎日やりました。  そのなかには作家志望の三谷幸喜さんもいました。  1985年、同プロダクションの松野大介さん(現在は小説家)とコンビ『ABブラザーズ』を結成しました。  

渡辺プロダクションの社長が亡くなってから、変って行きました。  社員も辞めてゆく人たちが居ました。  先輩たちも辞めていきました。  クレージーキャッツは残って、俺と松本明子だけになってしまった状態でした。(20歳)    チーフの塩崎さんが、ここをチャンスにしようじゃないかと言う考え方でした。   それ以降渡プロの形が随分変わって行きました。   今では一番大きいのはバラエティー班です。  

ピンチをチャンスにその③   お笑い第3世代の波に飲まれて負けを認めた。  第3世代は「ダウンタウン」「ウッチャンナンチャン」 などでした。  連中は小さい時から志が一つで来ている、もうやらなくていいよと言われました。  ただ一人としてはこれからが勝負だと言われました。  自分の戦い方を見つけようと思いました。  歌、ドイラマなどをトライしました。  辞めたいと思ったことは一回もないですね。   テレビでは一人ではできなくていろいろな人が時間をかけて作ってきたものを僕たちは演じているわけで、丁寧に表現してあげたいと思っています。  書道も個展をやろうと思っています。










 








2025年7月25日金曜日

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)     ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは?

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)  ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは? 

鴻巣さんは1979年生まれ。  一橋大学大学院を修了後、ソーシャルワーカーとして精神科医療機関に勤務、東日本大震災の被災者、避難者支援を経て2015年福島県白河市に非営利団体「KAKEKOMI」を立ち上げ、地域に暮らす生きづらさを抱えた人たちの支援の携わっていましたが、鴻巣さんは人間関係のトラブルやもやもやの多くは、自分と相手との間にある心の境界線、バウンダリーを侵害したりされたりすることで生じると語ります。  自分や相手のバウンダリーを守るのにはどうしたらいいのか、子供と良好な関係を築くため気を付けたいことなどについて伺いました。

非営利団体「KAKEKOMI」 ミッションとしては社会的な孤立と言うものを防止しようという事です。  活動としては大きく分けて2つあります。  ①子供食堂 週に一回子供、大人を含めて一緒に食べましょうと居場所を作る事業。  ②貧困、暴力などから抜け出したいが難しい人たち(女性)を対象としたシェルターを運営しています。 2015年に子供食堂を作りました。  私自身子供の頃いじめを経験し母親(外国人)にも相談できずに、居場所がありませんでした。   困難から遠ざかることが出来なかった。  食へのいろいろな困難さがあったので、作ったわけです。  私は料理は大好きですが、私自身は余り作らず子供が作ったご飯を、大人がお金を出して食べるという、変った子供食堂です。 高校生のスタッフたちが中心になって料理をして、小さい子が絡んできたりします。 

子育て中の母親にも気楽になれる場所があってもいいと思います。  良いことをする前に、害になることを辞める。  その子の容姿、体形などに一切コメントをしない。  許可なく身体に触らない。  性別で役割を押し付けない。 勝手に予定やルールを決めないなど。   小学生でダイエットをしたいとか、整形したいとかと言う声が珍しくないです。  身近な人たちから体形、容姿をからかわれるとかがきっけけになることがあります。  SNSとか広告が強く影響していると思います。   

バウンダリーは自分と他者との間にひく、お互いを守るために越えてはならない存在する境界線のことです。 (心の境界線)   赤ちゃんが生まれてから段々と親との境界線が育まれて行きます。  それが段々広がって行き、それぞれとの中に境界線が少しづつ構築されて行きます。  バウンダリーの太さ、強度は一定ではないです。  バインダリーの調節機能が壊れてしまうと、自分に対して嫌な事いじわるなことを言ってきても、境界線が緩くなってしまうと、その人の言っていることを全部受け入れてしまい、自分は駄目なんだと落ち込んでしまう。  反論も出来なく、厭なこと受け入れてしまう。  

無意識のうちに親が子供のバウンダリーを侵害していることは結構有ります。  大人の考える美醜の基準でジャッジしたり、子供の趣味を否定したり、意見を押し付けたり、子供に失敗を責めたり、いろいろあります。  つい心配から口出ししてしまう事は多いと思います。  親が道をしっかり整えた上を子供が順調に歩けたとしても、果たして子供自身は自分自身の力で歩って来たのか、誇れる様になるかどうか。  子供には躓いて欲しくないという思いは当然持っていますが、そのことばっかり力を注いだら、世の中の傾向が強まるだけで、変な世の中になってしまうので、その大人のエネルギーを何度躓いてもいいから、何度でもやり直しが出来るような世のなかにするにはどうしたらいいんだろうと、ちょっとそのエネルギーを持って行った方がみんながハッピーになれるのではないかと思います。 

子供が秘密を持つことに対して、親が過度に不安になる時は子供との間に話してもらえないという溝が出来てしまっている。  その溝はたいていは大人の側に何かしらがある。  私の願い、私の不安、とかまずは別々のお皿に出すことから始める。  テーブルに並べてみんなで見る。  それが対話かなと思います。 子供の声を聞く。  最善の答えをみんなが探してゆく。  時間をかけてゆく。  夏休み明けは子供が心と身体の健康を崩すいろいろなリスクを持っています。  夏休みはきっかけで有り原因ではない。  

















2025年7月23日水曜日