2023年10月18日水曜日

井口資仁(野球評論家)          ・〔スポーツ明日への伝言〕 変化を恐れるな!自分を変えて進化せよ

井口資仁(野球評論家)・〔スポーツ明日への伝言〕  変化を恐れるな!自分を変えて進化せよ 

井口さんは1974年(昭和49年)生まれ、東京都西東京市出身。 國學院久我山高等学校から青山学院大学に進み、逆指名で入団した福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)で、1997年からプレーし、44盗塁を成功させた2001年をはじめ、2回の盗塁王、二塁手として3回のゴールデングラブ賞を受賞、更に同じ年に30本塁打30盗塁以上のいわゆるサーティー、サーティーを達成するなど走攻守3拍子揃った中心選手として活躍しました。 2005年からはアメリカ大リーグで4年間プレー、1年目からシカゴ・ホワイトソックスの優勝に大きく貢献するなど2回のワールドシリーズ制覇を経験、2009年に日本に戻ってからは、千葉ロッテマリーンズで選手、2018年からは監督を5年間務めました。 

今年から解説をやらしていただいて、12球団プラスアメリカの全チームをやりはじめて、選手の名前を覚え始めたり、大リーグのほうは大変でした。  一日4試合ぐらい、時には夜中に観ている時があります。  外から観させていただいて、この監督はこういうことを考えながら采配しているとか、この選手はもっとこうすればいいのに、誰かアドバイスをしないかなとか、いろんなことを思いながら解説させてもらっています。  ユニホームを着なかったのは今年初めてで、夏休みを経験したのも初めてです。 

MLBのホームページに「忘れられない野球のシーン」というのに2つ書いてあって、①ルーキーの開幕試合、②引退試合をあげています。  近鉄バファローズ戦で2番・遊撃手として一軍初出場、4回裏の3打席目では山崎慎太郎投手から一軍での初本塁打となる左越え満塁本塁打を放ち、鮮烈に覚えています。  自分ではやり遂げたという引退試合でした。  ZOZOマリンスタジアムでの日本ハム戦で6番・指名打者で出場し、増井浩俊投手からバックスクリーン右へ同点本塁打を放った。 日米合わせて295本のホームランを打っています。 ホームランバッターという意識はないです。  塁に回ってかき回すと言う、これが僕の持ち味だと思ってから、ホームランを捨ててたのでしっかりリズムを上げれ、打点、打率もあがっていきました。  

大谷選手が1年間二刀流で通すという事は大変な事なんだろうなあという事は改めて感じました。  今回2度目の手術をしたことで来期は打者だけになり、再来年二刀流になった時に身体のメンテナンス、リカバリーなど周りがサポートしてあげればいいと思います。   監督の時に佐々木朗希投手を迎えることになり、まだ身体が出来ていないと言う事がありましたので、怪我には注意しながら育成していました。  完全試合を行って次にも可能性がありましたが、球数制限とかあり、私も完全試合を観たかったんですが、ぐっと押さえて交代という事にしました。  7回終わった時点に佐々木朗希自身から難しいと、8回はいけるけれども9回まではいけないというのを言って来ているので、それは救われた部分でもありました。  160km投げるという事はほかの人以上に負担がかかっている。

3割30本30盗塁、40歳まで現役、2000本安打打ちたいとか、いろんな目標を持ちながら最後まで持ち続けて出来たのが、結果を残すことが出来たのかと思います。 1年目は76試合、2年目は135試合、3年目116試合、4年目54試合でした。  この時には肩の故障がありました。  結果を残せず40歳まで出来るのかと自問自答がありました。 5年目(2001年)に盗塁王を取る。 ポジションがショートからセカンドに変る。  コーチから週に1個づつ積み重ねて行けば盗塁王も見えてくると言われました。 ホームランも30本打ちたいという思いもありました。 走ることを意識すると次のバッターの配球とかを凄く読むようになります。 そうすると自分の時の配球も判ってくるようになります。 そこで翌年から打率が上がりました。  ショートへのこだわりがあり、セカンドへ変わることは自分でも苦しい思いをしました。   「3塁打になるのを井口の肩で防ぎたい。」とコーチに言われて、セカンドをやってみようというきっかけにはなりました。  思っていた以上にセカンドは難しかったです。  ゲッツーで逆のターンになるとか。  でもボディーバランスは良くなりました。(右左両方の動きがある。)  

大リーグ2年目、ブルージェイズ戦で9回、ピッチャーの頭を抜けた変なボールを突っ込んでいってつんのめりそうになるところを取って一塁に投げた。 

小中学生のころから右へのホームランは良く打っていました。 プロになってホームランと言われて、強引に引っ張ることで結果を出すことが出来なかった。 右方向へ打つ身体の使い方について指摘され、それを取り入れた練習をしていって、結果が出るようになりました。  身体のなかでボールを捉えるようにという指摘を受けました。 

アトランタオリンピックに参加して銀メダルになりました。 大リーグでプレーするのが2005年からで、シカゴ・ホワイトソックスになります。  監督のオジー・ギーエンが命名した名前は「スマート・ボール」。 (日本に近いような頭を使ってしっかり野球をしてゆく。)  2番として活躍。 やりたいことを出せずに、自己犠牲を強いられる役割にはもやもやしていることがありました。 ギーエン監督から「今年のMVPは井口。井口みたいな野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇出来た」という言葉で救われました。 

王監督とギーエン監督(フレンドリー)は真逆の監督ですが、僕自身はこの二人をミックスした監督になりたいという事はずーっと思っていました。  王監督からは悩んでいる時に、タイミングの取り方を教えてもらったのが印象に残っています。  相手も研究してくるので、さらに相手を上回ることを身に付けなければいけないので、自分自身が変化していかないといけない。  ピッチャーに関してもいろんな数字(配球、回転数など)が出るようになってきて、数字を見せながら、こうしたほうがいいという指導方法に変ってきている。  選手の疲労度も数値化されてきて、選手をどこで休ませるか、怪我へのリスクなども考えて、やり始めています。  日本の野球は守り、アメリカは点の取り合い、といった感じの野球ですね。  1年間見てきて、安定して強いのが、投手陣が強いチームなのかなあと思います。 





































 

2023年10月17日火曜日

田中光敏(映画監督)           ・生き物のように動き出す映画を

 田中光敏(映画監督)           ・生き物のように動き出す映画を

田中さん(65歳)は北海道生まれ。  大阪の大学を卒業後コマーシャルの製作の仕事を始めました。 2002年公開の映画化粧師 KEWAISHI』で監督デビューを果たします。 日本の古きよきものや人間ドラマを大切なテーマとし、2013年に公開された利休にたずねよ』は、モントリオール世界映画祭で芸術性の高い作品に送られる最優秀芸術貢献賞を受賞しました。 2015年に公開された海難1890』は日本とトルコの合作で、二つの国の人々の助け合いを描き、日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞しました。 このほど相続問題から家族の愛を描いた映画「親のお金は誰のもの 法定相続人」が公開され話題になっています。 これまでに様々な映画製作に取り組み物つくりの考え方に変化を感じているという田中さんに伺いました。

映画「親のお金は誰のもの 法定相続人」 舞台は伊勢志摩、真珠の養殖に携わる家族の物語、伝説の真珠をめぐる家族と成年後見人を描いた作品。 10月6日に公開。 映画で伊勢志摩を元気にしてくれないかという事で、相続と真珠養殖の家族の物語をドッキングして、脚本は小松江里子さんですが、映画がスタートしました。 小松江里子さんはNHKテレビドラマ「どんと晴れ」大河ドラマ天地人』などの脚本を担当しました。  両親が亡くなったのが7年前で、余りにも相続という事に知らなかったことに気付きまして、様々な方たちが相続という問題に対してどう向き合っているんだろうという事から、成年後見人という制度を知って、認知症とか相続の時に考えられない人たちの為にという事で、弁護士、行政書士が関わるが、他人が入るという事はどういう事になってゆくのだろうというところに興味があって、調べ出したのがきっかけです。

それぞれの立ち位置で見え方は違うと思いますが、相続という問題はこれから重要な問題になってくるなという事を感じています。  映画で伝えたかったのは、大好きな子供達、大好きな妻、大好きな家族を自分が居なくなっても、幸せでいて欲しいという思いで遺産を残すという方たちが、結果、亡くなった後に家族が喧嘩してしまうとか、いざこざが起きるという不幸なことが起きてゆく。 愛する人を守るためには相続と言うものを、考える時期に来ているのかなあと思います。 地元の人たちが本当によく協力してくれて、気が付いたら地元の方がスタッフの様にのっている。地元の人が自然に溶け込んで入っていて、地元の方も一緒になって作り上げた作品かなと思います。 

北海道浦河郡浦河町の人口1万9000人(当時)ぐらいの港町で生まれました。 映画館が二つありました。 父親によく連れて行ってもらい凄く楽しかったです。  大阪芸術大学へ進学して映像を勉強して、映画、コマーシャルとか映像のビジネスを考えるようになりました。 映画監督になるという事は全く考えていませんでした。 電通に就職して企画部でコマーシャルを作るところから始まりました。(1980年代) その後独立して全国で流れるようなコマーシャルを頂けるようになっていきました。 或る時スポンサーの社長から映画を撮らないかと言ってくれました。  映画をやることでコマーシャルディレクターとしての場所がなくなってしまうのではないかと思って、4年間お断りしていました。

2002年デビュー作の映画『化粧師 KEWAISHI』(石ノ森章太郎の漫画『八百八町表裏 化粧師』が原作を手掛けることになりました。  大正時代の東京の下町が舞台、化粧を通して当時の時代背景や女性達の強く生きる様を描き、「本当の美しさは何か」に視点を置いた内容になっている。  700人の女性にシナリオハンティングして、話を聞かせてもらいました。  「あなたにとって化粧とは」という質問に、9割は「スイッチだ」というんです。(メイクをすることで自分にスイッチを入れる。) クラインの前に起きたのが阪神淡路大震災でした。  被災した方たちがお風呂に入った後に、化粧品メーカーの方たちがお化粧をするという事をボランティアで行っていました。  涙を流しながらのお化粧でした。 「何故涙を流すのか」と質問したら「心が温かくなった。」「元気を貰える。」などという事でした。  化粧ひとつでそういうものになるものなのかと思いました。 化粧師 KEWAISHI』の最後の決めセリフになりますが、「化粧は心にするもの」というのを映画の中にしっかり入れようと思いました。

撮影中、急性腸炎になり夜中に点滴を受けながら現場に行くという事になりました。(5日間) スタッフの方々が経験豊富で優秀な方たちでした。 1本目でもあり空回りしたこともあり、本当に勉強になりました。  2003年にさだまさしさん原作の小説を映画化した第2作目『精霊流し』 50代になってから4作。 第3作目『火天の城』(51歳) お城を作った棟梁にスポットを当てた物語。 信長を支えた中に岡部又右衛門という棟梁がいて、本当に魅力的な人で、この人を描いてみたいと思いました。  山本兼一さんという作家に出会う事が出来ました。  

それが利休にたずねよ』(山本兼一さんの作品)に繋がって行きました。(2013年)  山本兼一さんが直木賞をとって、電話を呉れて「沢山の映画会社から映画を撮らないかと来ているが、権利を監督に渡すから一緒に映画をやろうよ。」と言ってくれました。    「海外で公開してほしい、出来れば映画のなかで本物を使ってほしい。」と言われました。   本物というのは、利休が使った、利休が作ったであろうというお茶の道具です。  借りるにあたっては山本さんは肺気腫でしたが、病院から通って奔走してくれました。 そういったなかで利休にたずねよ』は思いの詰まった作品として作られて行きました。 映画は大きなお金が動いて、凄くビジネスライクに考えていましたが、その先には映画を愛する人、映画に協力する人、そういう思いがあってこそいい作品、心に残る作品は生まれてくるのかなあと思います。 作品は生き物のように動いてゆくと感じた作品です。

海難1890(日本・トルコ合作映画) 大学の同級生が今、串本の町長で手紙を呉れました。約120年前に紀伊大島沖に座礁沈没したエルトゥールル号という船を命がけで助けた村人たちがいる。 その人たちを映画にしてくれないかという事でした。 最後にうちの町には金がないと書いてありました。 ほとんど無理だと思って町長、知事に言いましたが、やりたいという事で、ビラ配りから始めて、手紙を貰ってから10年です。  4年半経ってどこからの企業からも協力はしてもらえませんでした。  日本で一番大きな自動車メーカーの会長さんから声を掛けて頂きました。  映画が出来るかどうかわからないが500万円出資をする、何とか可能性を広げられるように、頑張ってくれと言われました。  その資金を元に動きだして、トルコの大統領に手紙を出しました。  

トルコの力がないとトルコとの合作は出来ない、会ってプレゼンさせてほしいという内容でした。 返事が来て40分間プレゼンの時間をやるからインスタンブールの大統領府に来いという事でした。  知事、町長と私で行きました。  何故この作品をやりたいかを話して、机を叩きながら涙を流して喜んでくれました。  アンカラで文化大臣とお会いしプレゼンをして同様に机を叩きながら涙を流して喜んでくれました。 この話は教科書に載っているという事でした。  僕に名刺をくれて、「エルトゥールル・ギュナイ」(座礁した船と同じ名前)だと言って、親が勇敢であれと言って僕にその名前を付けたという事でした。 冗談か判りませんが、「僕の名前を有名にしてくれるのなら、どんな手伝いでもする。」と言ってくれました。  トルコから日本に親書が送られて、日本の国を含めて動き出しました。 

5年ぐらい沢山のプレゼンをしましたが、なかなか動きだしませんでしたが、ネット上でエルトゥールル号のことが話題となって行って、かつていた会社の方から電話があって「映画製作は実現するかもしれないので、出資しようと思っている。」とのことでした。 言葉に出すと、言霊というんですか、物事は動き出してゆくんだ、と思いました。  積み重ねる力は奇跡を起こす、小さな力でも少しづつ積み上げてゆくとこんなことが起きるのか、と感じた瞬間でした。 映画つくりそのものが僕自身の人生の勉強みたいなところがあります。

38歳でコマーシャルから映画の世界に入り、化粧師 KEWAISHI』を撮り、二本目、三本目、今に至って、それは諦めずにやってきたことで、もう一つは映画つくりは好きだという事、人が好きだという事が、自分のものつくりを支えてくれました。 予算が無くて宣伝すらできなかった『天外者(てんがらもん)』という映画、「商都大阪」ひいては近代日本経済の基礎を構築した稀代の「天外者(てんがらもん)」・五代友厚の生きざまを描く。 三浦春馬という主演の役者が作品の出来上がりを見ることなく亡くなってしまった。  俳優、ファンの人たちが映画館、いろんなところに働きかけて、映画が沢山の劇場で公開されたり、映画祭で流れたりして、結果沢山の人たちに見ていただけるチャンスを頂きました。 一人ではない、仕事も、物つくりも、楽しみも、生活もあるという事を是非判って頂ければいいと思います。








































   














2023年10月16日月曜日

玉川太福(浪曲師)          ・〔にっぽんの音〕

 玉川太福(浪曲師)           ・〔にっぽんの音〕

台にテーブルかけがかかっていて、語る、唸る、そして三味線の曲師が左手側にいて二人一組で演じます。  昔はマイクがなかったので、声、演じ方も大きくなっていきます。 題材は講談から来ているのが9割ぐらいです 

*「天保水滸伝」 幕末、下総一帯で繰り広げられた飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の騒擾を題材とした実録体小説、および同じ題材を元に作られた講談浪曲等の演目。 二代目玉川勝太郎の時代になって名調子もあって一世を風靡。

5,6種類の節を、いろんな描写に当てはめながら雰囲気を作って行きます。  講談が一番古くて、次に落語、浪曲が新しいです。(二人一組でやる浪曲は明治初期)

私は新潟の生まれで、お笑いが好きでコント作家になりたいとは思っていましたが、大学を卒業して そういった事務所に入りましたが、思ったようなことが出来なかった。 コント芸人みたいなものを始めて、3年ほどやりました。  演劇的なものにはまって行って(現代口語演劇)、その後落語にはまって行って、26歳で浪曲に出会って(浅草の木馬亭)迫力がありました。  コント的なものを取り合わせたらいいかなと思って、浪曲の世界に入りました。(27歳 当時最年少) 

*「地べたの二人 おかず交換」 新作:玉川太福  

浪曲は涙がこぼれるような印象が強いんですが、爆笑浪曲とかもかつてはありました。  自分でも作って演じています。   基本的には浪曲師がリードしながら、受け取った曲師の弾き方で節回しの引っ張られ方、力を出せるか出せないかは曲師の腕前にかかっていたりもする。  浪曲師に対して曲師は1/3ぐらいしかいません。  私は「おかみさん」(師匠・玉川福太郎夫人 玉川みね子 )に一番弾いてもらっています。 そのほかに助けてもらう曲師さんが2人います。  三味線を聞いてゆくと楽しいという事もあります。 

2017年文化庁芸術祭新人賞を受賞(40歳ころ)。 曲師で101歳で現役で凄く元気に活躍している人が居ます。  掛け声の気迫は1,2位じゃないですかね。 玉川祐子という人です。  

日本の音とは、夏の朝の鳩が鳴いている声とか、ですね。 古典と新作を共にやって行きたいと思っています。 映画「男はつらいよ」を浪曲化することをすすめていて、今27作目まで行っています。 

















2023年10月15日日曜日

片岡浩史(腎臓内科医(東京女子医大)) ・腎臓病と闘う

片岡浩史(腎臓内科医(東京女子医大)) ・腎臓病と闘う 

片岡さんは京都大学卒業後、JR西日本に入社し駅の改札業務や電車の車掌業務などを3年間経験した後、医学の道に進んだという経験を持っています。 現在、東京女子医科大学で腎臓の内科医として治療、研究に当たるとともに、厚生労働省の診療ガイドライン作成委員として医療の質の向上に努めています。 

腎臓は尿を作る臓器です。  食べ物を食べて、口、食道、胃と行って最後は排泄されるわけですが、胃、腸管を通って吸収されて身体が作られて行きます。  心臓が全身に血液(酸素、栄養素)を送って行き、人間が生きているわけです。  食べ物も必要なものと必要ではないものがあります。  毒が入ってきたら出すというのが腎臓で大事です。  水分の中に毒素を溶け込ますことによって外に出すことができるのが腎臓の大きな役目だと思います。  栄養を摂り過ぎたらよくないので、調節するのも腎臓の役割となります。

腎臓は沈黙の臓器と言われていて、症状がないんです。 検査しないと判らない臓器なんです。  日本には検尿システムがあり世界でも優れたシステムです。  タンパクと潜血(尿に血が混じる)が大きな項目です。 タンパクが出てくると腎臓に何か起こっているから調べましょうという事になります。 血液もクレアチニンEGFRという項目があります。  腎臓が悪いとクレアチニンの数値が上がって来ます。  EGFRが60を切ってくると腎機能が落ちてきている、腎臓病の指標になります。  3か月以上続くと慢性腎臓病という事になります。   2000万人近くいると最近は考えられています。  腎臓が悪くなると機械で毒素を捨てなければいけなくなります。(人工透析)   人工透析する人が30万人以上いると言われています。  4時間ぐらいかかります。(26L)  薬を飲んで治るものではないです。  腎臓移植は根本的治療にはなります。  移植する側の腎臓が片方になっても大丈夫という事もあります。

片方の腎臓で100万個のおしっこを作る装置があります。 それが1/10、1/20となってくると身体が維持できなくなる。  腎臓を働かせすぎると潰れてゆくのが早くなってゆく。自分の寿命と腎臓の寿命を比べた時に、腎臓の方が早く潰れてしまうと透析をする生活になる。  健康診断、人間ドックとかでしかわからない。 

JRに入って街づくりをしようかなという思いがありました。(地域開発)   岡山駅で一日何万人という人を見ているうちに、困っている人を助ける、介護の道を考えました。 兄、叔父も医師だったので、その後医師の道に進んでいきました。  命に係わる病気を心配してくるので、人の心配に対してどうこたえるのか、というようなことは大事なのかなと思って、患者さんの不安とか悩みを如何にとるか、というのが大事かなと思います。    不安に対するタイプがいろいろあり、それに合わせた話をする。 病気の重要性は変わらないのでそれをちゃんと伝えられればいいと思います。 

腎臓病には薬が必要な腎臓病、生活習慣による腎臓病と二つにわけられる。  生活習慣による腎臓病は、家での生活を変えるということしか勝ち目がないんので、確認してもらいたい。  肥満は全身の臓器が衰えてゆくことに関係しています。 肥満から動脈硬化になって全身の臓器がやられてゆくというイメージは持っておいてほしいです。 タバコも同じような流れです。  何十年を掛けて進んでゆく。  肥満は自分で直せるところなので,透析は少しでも減らしたいというのが、腎臓内科医としてのスタンスです。  

「心理的安全性」、企業でよく言われるが、人とか組織が最大限力を発揮するのは、精神的安心感、心理的安全性がないと駄目だというビジネス世界の言葉ですが、社会、医療の現場でも同じだと思いました。  26歳で社会に対して自分が何が出来るかという事を考えて、出来る限りの勉強をしてきて、医者になり30年近くなります。 人として完璧を目指そうとか、理想的な社会を目指そうと思って努力しても、決して完璧には辿り着かないという風には思いました。  これが正しいと思った医療を振りかざさない、患者さんがどんな医療を求めているのか、聞いたうえでその人それぞれ、合わせて落としどころを付けてゆく。  相反する意見を言うという事は、両方とも半分は間違っている、完璧でないものが戦っている。  その人の仕事、生活のなかで行ける努力をする、それをすればそれが答えだと思っていつもやっています。  肥満を、痩せることによっていい結果が出てきます。一人一人の属性に合わせて医療をしてゆくようにしたいなあと思います。 体重とか食事に気を付けていただければいいと思います。













  

















2023年10月13日金曜日

2023年10月12日木曜日

原田大二郎(俳優)            ・命ある限り表現者でありたい

 原田大二郎(俳優)            ・命ある限り表現者でありたい

1944年神奈川県生まれ、3歳から山口県で育ちました。 明治大学卒業後に文学座研究所に入所、1970年新藤兼人監督の裸の十九才』に主演し注目されます。 その後は映画、テレビドラマ、舞台で活躍、1980年代にはバラエティー番組に出演し人気となりました。  2001年から母校の明治大学で特別招聘講師として、朗読の講義を10年続けてきました。  現在舞台俳優として活動する傍ら、朗読をライフワークとして全国を回っています。 

今年79歳になりました。 大学2年の時に(1963年)、英語部に入っていて、英語劇のコンテストをやるのでキャストをやってくれないかと言われました。 「母危篤」というのがオーディションの課題でした。  声を出さない芝居でした。  電報の「ハハキトク」という文字を読んだら、20年近い母のことが走馬灯のように浮かび涙が止まらなくなりました。 審査員が10人ぐらいいましたが、熱狂的な拍手をしてくれました。    芝居をやってみようと思いました。 6か月練習してコンテストに優勝しました。 一生やって行こうと思いました。 

芝居は演じるのでゃなく、役を生きて行かなければいけない。  妻になる人が文学座を受けなさいと言ってくれて、文学座を受けて受かりました。 食うためにはテレビに出なければと思うようになりました。 1970年公開の新藤兼人監督の映画『裸の十九才』、ピストルを手に入れてプリンスホテルのガードマン、タクシーの運転手など4人を永山則夫が連続して殺して、それを題材に新藤兼人監督の映画を作りました。 主役に抜擢してもらってエランドール新人賞を貰えました。  直ぐにNHKの大河ドラマ「新平家物語」に出演することになり、平重盛役を担当しました。 石立鉄男さんは文学座の先輩で、「水もれ甲介」で弟役の輝夫をやりました。 

1975年にテレビドラマ『Gメン'75』の関屋一郎警部補役で出演しました。  とにかく走っていました。 最初の1週間で太ももの付け根に腱鞘炎が起きて、6か月間Gメン'75が終えるまで続いていました。 追い詰められてノイローゼになってしまいました。   摩周湖に行って霧が晴れてゆく状態を見て、湖面がキラキラ輝いているのを見て、「さっきまで俺病気だった。」という事に気が付きました。  妻に言ったら、判っていたと言われました。  Gメン'75』の前の年に虎太郎が生まれて、身体の弱い子で小児科の先生から「幼稚園までは難しい」とか、「小学校までは難しい」とか言われて、そういったことを見てきて、自分を責めていたかもしれません。  虎太郎も49歳になりました。 

僕の中に入ってきた演劇が僕を助けてくれたと思います。 バラエティーに出演しましたが、やらなかった方が良かったのかなあと、今も考えたりします。  皆しゃべらないんですが、俳優って普段は面白い人なんだという事を見せたのは、僕が初めてかもしれません。 3年やっていると、僕を育ててくれた監督たちが離れてゆくんです。(お笑いに行ってしまったという事で)  

3年先輩の佐藤さんから、明治大学で特別招聘教授というシステムがあるから、やって欲しいという風に声を掛けられました。 演劇学コースの朗読を担当することになりました。  詩集を自分で作って詩の朗読やりました。 面白くて、演劇をやらせてみようという事になりました。  シェークスピアを学生に朗読させることになりました。 僕が演劇者として勉強したのは60歳からです。  人に勉強を教えるという事は良い事です、自分で勉強しなければいけないから。  演劇の勉強は色々あるが、一番大きいのは言葉を伝えるという事だと思います。 そこのところを本当に勉強しました。  

演出家は演出語を使って俳優に言うわけです。 俳優は演出語を俳優語に翻訳して、表現していかなけらば行けない。  僕は演出語を俳優語に翻訳できるので、1回で欲しいものが出てくる。  70歳ですっかり朗読に引き込まれてしまいました。 京都で会場を借りていたら、「森鴎外の「高瀬舟」をやってくれないか。」と言われました。 パーカッション(打楽器)で伴奏してくれる人が居るという事でした。 「高瀬舟」の後で、なんかやろうかという事で、朗読でパーカッションの伴奏でやって、その後もやっています。 即興でやっています。  朗読はライフワークの様になっています。 「怨讐の彼方に」(菊池寛短編小説 耶馬渓にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧である禅海の史実に取材した作品。)というものを西日本をずーっと回ってやります。 

指針みたいなものという事ですが、「兎に角尻尾は巻かなかった。」、尻尾を巻くという事はそこから逃げてしまう、自分が対処しなくなる。  尻尾を巻かないと、向こうの方から解決していってくれる。  60歳になって、人間って勉強しようと思えば、勉強できるんだと思いました。 80歳から始めても遅くはないです。 棺桶に入る時に遅かったなと思わないことです。 完成という事はないんですから。  棺桶に入るまで楽しく暮らせば良いのではないかと思います。






















2023年10月11日水曜日

水戸茂雄(リュート奏者)        ・古楽の音色に魅せられて

水戸茂雄(リュート奏者)        ・古楽の音色に魅せられて 

1954年生まれ、小中学生のころから音楽に興味を持って、高校卒業後東京に出てからは、ギター教室でヨーロッパの古い時代の音楽を学びました。 この中で演奏する楽器はギターからリュートに変りました。 古楽の良さ、味わいをさらに深めようという事からでした。  1980年に留学でスペインに渡り、7年間バロック音楽の演奏様式を学びました。 そして現在は海外や日本各地でのソロリサイタルをはじめ、リュートの講習会を行っています。 又音楽大学で非常勤講師を務めるほか、CDや教則本を多数発行しています。

先月、新譜のCDの録音が終わりました。 イギリスのリュート音楽ということでルネサンスとバロックの音楽を入れて、来年発売という事になっています。 CDは10枚目になります。  公開講座もやりました。  5月にはコンサートを行いました。  時代によって楽器も音楽も変わって来ます。 

持参したのはルネサンス時代の初期のリュートです。   6通りの弦が張ってあります。琵琶と兄弟です。 7世紀ごろアラビアの方からシルクロードを通って日本に来たのが琵琶です。 スペイン、ヨーロッパに渡って広まったのがリュートです。  もともとアラビアの「アル・ウード」と言いますが、スペインに渡ってスペイン語では「ラウ・ルード」と言います。  その後ヨーロッパに広がりました。  初期のころは小ぶりで弦の数も少ないです。 ピックで弾いていたのが段々指で弾くようになりました。  復元には博物館に或る楽器をコピーしたのと、現存しない楽器があり、それは壁画とか彫刻に残っているので、それを観て想像して復元する。 

*「比類なきお方」 リュートによるヨーロッパ巡りのパート1 作曲:ヴィンチェンツォ・ガリレイ(ガリレオ・ガリレイの父) リュート演奏:水戸茂雄

1954年大阪生まれ、広島県福山育ち、尾道北高校、その後東京に行く。 音楽はラジオを聴いたり、ギターもやっていました。 (小中高時代)  中高校生のころから音楽の道に進みたいと思いました。 東京ではギター研究所でギターをやりました。 リュートでオリジナルの曲を弾くとぴったりはまるわけです。 これしかないと思いました。 リュートの曲は凄く沢山あります。 父は旧満鉄の助役をやっていました。(史上最年少)  私の音楽に対しては猛反対でした。(勘当に近かった。)  母親は背中を押してくれ、スペインに行くときに短歌を詠んでくれました。 

「荒海の静まるかしと祈るらん音楽一途に励みし我が子よ」(漢字、かな等違っているか?)

スペインには7年間いました。  最初はアリカンテの国立オスカル・エスプラ音楽院に入りました。 2年間勉強して、その後マドリットのマドリッド王立音楽院に4年半ぐらい学ぶ。  先生は、ホセ・トマス。 日本に戻って来て、サントリー20周年記念特別企画「天正少年使節と音楽の旅」で参加しました。  ソロリサイタル、リュートの紹介などもしました。 東京音楽大学、同大学院非常勤講師として教えています。  CDも10枚出しました。 『バッハ、ヴァイスリュート作品集Vol.2』はレコード芸術誌で特選盤に選ばれました。  『フランスバロック音楽Vol.2誇り高き貴婦人 』はレコード芸術誌で準推薦盤に選ばれました。  古楽器のアマチュアのグループが増えて行きました。

*BWV998からの抜粋で「プレリュード」リュートによるヨーロッパ巡りのパート2 作曲:ヨハン・ゼバスティアン・バッハ  バロックリュート

日本人が聞いても音楽の中に懐かしさがあります。  歯切れもいいです。  宮廷で聞かせる音楽から、劇場が出来て、劇場で聞かせる音楽になりました。 楽器も大きな音を出せるように改良していきました。  古楽器はピリオド楽器と言うようになりました。

1997年パリの楽器博物館で楽器が見つかって、調べてもいたらビウエラでした。   幻の楽器でした。  設計図を取って製作家