2023年8月12日土曜日

神村朋佳(大阪樟蔭女子大学講師)    ・国策紙芝居は何を伝えたか

神村朋佳(大阪樟蔭女子大学講師)    ・国策紙芝居は何を伝えたか 

国策紙芝居は国民の戦意高揚を目的に作られた紙芝居のことで、昭和12年の日中戦争開戦から昭和20年の太平洋戦争終戦までの間に大量に製作されました。  しかし、その多くが終戦直後に処分された為全容は分かっていません。  そんな戦時中の紙芝居数点が2014年京都市の福知山市内で見つかり、児童文学を研究する神村さんがその紙芝居を託され、調査分析を続けてきました。  国策紙芝居はどのような内容で、どのようの国民の戦意を高揚させようとしたのか、神村さんに伺いました。

国策紙芝居というのは、戦時中に国の政策に沿った形で、戦意高揚の内容を盛り込んだ紙芝居のことで、昭和12年の日中戦争開戦から昭和20年の太平洋戦争終戦までの間に大量に製作されました。  街頭紙芝居は紙の人形を立てて見せる芝居でした。   昭和5年頃平たい一枚の紙に絵を描いて、それを重ねて見せて、紙を引き抜く形式のものが生まれました。   飴などを販売するための客寄せとして使われました。   人を惹きつける力があるならばという事で、キリスト教の伝道(今井よねさん)に使い始めました。     子供たちの教育にも使えるという事で様々なところで活用が始まって行きます。     演じ手が或る程度語る事の自由が許されていた。 

福知山市内で見つかった紙芝居の一つ「ねずみの嫁入り」。               日本教育紙芝居協会と書いてあります。    日本では良く知られた昔話の一つです。 ストーリーは、ねずみの村の村長さんの家にかわいらしい娘がいます。   偉い人の婿探しを始めます。   太陽より、雲、風、壁(の順に強いと言うが)、壁はネズミにかじられてはたまらないと言います。  結局幸せは身近なところにあるというお話です。   でもこの紙芝居には続きがあります。   ねずみのなかではいったい誰がいいかという事が問題になります。   自分がさらわれたことにして、一番勇気のある、忠義な人を捜そうという事になります。   貧しい家の忠助が名乗り出ます。  「何事も一心になって命を投げだしてかかれば、きっとできないことはございますまい。」と言います。    救出しようとするところを、娘さんが出てきて、「実は嘘だったんです。」といって、「命を惜しまない忠助と結婚したい。」と言います。  最後は娘はモンペ姿、忠助は国民服姿で婚礼の絵が描かれている。   命を惜しまない、倹約の精神が付け加えられている。

昭和12年に日中戦争がはじまります。  皆が国の戦争に協力してゆくという事が、国の方針として示されてゆく。  昭和13年国家総動員法が制定される。  同年日本教育紙芝居協会が設立される。  教員だった松永健哉と言う人が教育に紙芝居を取り入れたいという運動を始めます。   日本教育紙芝居協会という団体を作ります。 多くは学校の先生だったと言われる。   紙芝居でもって国策に協力ししようという方針になってゆく。 色々な政党、労働組合などあるが、それを一つにして挙国一致体制にしてゆくという動きが出てくる。(新体制)     政党は大政翼賛会という会になってゆく。  児童文化についても一つの児童文化団体を作ろうという動きになってゆく。  昭和16年12月太平洋戦争が始まる。  最初は児童文化協会という会を作ろうとしていたが、小国民文化協会という名前になりました。   日本教育紙芝居協会も解散してこの協会の一部会となります。  紙芝居も国策、政治の方針が入って行きました。  

国策紙芝居は全容が判っていません。  1000種類ぐらいはあったのではとも言われています。  私が預かっているものは20数点あります。   京都の福知山市で2014年に見つかりました。  お寺の所有物だったようです。              「七つの石」  吉田和夫?という少年が主人公。  慰問袋を渡そうという事だったが、母子家庭で貧しくてそれが出来ない。 宮城に行って涙を流す。  涙にぬれた小石を戦地の兵隊さんに届ければいいのではないかと考える。  慰問袋に七つの石を入れて送る。 戦地の或る兵隊が慰問袋を開けると小石が七つ入っているだけだった。  そこには手紙が入っていた。 「僕の家は貧乏なので入れてあげられるものがありません。・・・この石には何百万という日本国民が歌った「君が代」の歌や「天皇陛下万歳」の声が沁み込んでいます。  僕の涙もすいとった石です。  無事に凱旋されたときには、この石を元の宮城の前にお返しください。」という内容でした。

これらの兵隊は南京攻略でなかなかうまくいかず、数人ずつの決死隊を作ろうという事になります。   石をそれぞれに渡してこれをお守りとして出かける。  3人が亡くなるが大きな変化が生まれる。  1年後吉田和夫?少年のところに4人の兵隊さんが訪れる。  無事に帰れたことと大きな戦果を報告する。  吉田少年と4人の兵隊は宮城に行って石を返してお礼をする、という結末です。  銃後の人々(少年)を戦地と結びつけている。  兵隊の勇敢さも伝えている。  この作品は紙芝居コンクールの一等賞の作品です。  

「おおやけのいのち」 「隣組」の歌から始まる。  若い紳士(鳥山啓太郎?)叔父から5000円を借りて清谷博士の研究開発に協力している。  子供達の栄養を改善する栄養菓子の開発をしている。   なかなかうまくいかず叔父からお金の催促がある。     隣組の「等々力」さんから鳥山啓太郎?の妻(智恵子?)に防空壕の演習があることを告げる。 叔父は言い過ぎたと思って鳥山啓太郎?の家に行くがそこで彼の遺書を発見する。  隣組の「等々力」さんがやって来て叔父と話をする。   智恵子?さんは働き過ぎて横になっている。 でも妊娠している事だったという事が判る。  「私たちだけの大事なものではなくて、お国の宝でしょう。」と智恵子?は言います。  「死ぬ気で頑張るから、立派な子を産んでおくれ。」と啓太郎?は言います。  叔父さんは自分だけのお金だったというのは心得違いだったと気が付く。  研究が成功して全員が喜ぶ、という話になっている。   大人向けにも作られていた。  天皇陛下に命を奉げるという事が根底にあると思います。

当時は国が指導をして、出版物の検閲などがあり国の方針に沿った紙芝居を作ることがどんどん進んでいきます。   当時の大人たち、教育者、作家などは中には反対した人もいたかもしれないが、率先して作って行った、普及を進めた。  児童文化に関わったことの事実を噛み締めないといけないと思います。  当時の女性は参政権もなく、自己決定権がなかった。  子供を産み育てることを要求され、戦地に送るという事をすることが立派だと言われる。  そういう事が二度と有ってはならないと強く感じます。
























































     





 

2023年8月11日金曜日

ユリヤ・ボンダレンコ(ウクライナ人芸術家)・〔戦争・平和インタビュー〕 "虹色"の故郷に思いをはせて

 ユリヤ・ボンダレンコ(ウクライナ人芸術家)・〔戦争・平和インタビュー〕  "虹色"の故郷に思いをはせて

ロシアによる軍事侵攻が始まってから1年半近く経つウクライナ、激しい戦闘で民間人の犠牲者も増え続けて居ます。  こうした中、首都キーウと姉妹都市の京都市は、民間と協力して避難民の受け入れを進めてきました。  現在キーウなどからおよそ80人の避難民を受け入れています。  その芸術家の一人、ユリヤ・ボンダレンコさん(31歳)は軍事侵攻で生活や創作活動が出来なくなり、心身の限界から断腸の思いで、去年の8月京都に避難してきました。来日しておよそ1年、避難生活のなかで創作意欲を取り戻し、芸術活動を通して祖国の平和を訴えようとするユリヤさんにお話を伺います。

日本語は8年前から勉強して、ウクライナでは日本語の講師も務めています。  東日本大震災で被災した方の話を聞いたことがあり、家を失い愛する人を失った人がゼロから人生をやり直すことになった、そんな心の力を持っている日本人の母国語を習いたくなりました。 独学でした。  出身はウクライナ北部のチェルニヒウ市、歴史的な街で広大な教会で有名です。  自然が凄く美しいです。  両親と妹と4人で暮らしていました。  貧乏だったので楽しいことは絵を描くことだけでした。  プロのアーティストになりたいと思いまいた。   美術学校を卒業したあと、イラストレーターとして教科書のイラスト、グラフィックアート、水彩画など製作して郵便で送りました。  

戦争が始まり、赤い空、赤い雪になりました。   実家から10分程度のところで爆発があり火事になりました。  雷の100倍ぐらいの音がしました。  スーパーで並んでいた方が13人撃たれました。  居合わせた両親は奇跡的に無事でした。  ミサイルなどで昼と夜がわからないぐらいになっていました。  実家の近くの穴倉で時間を過ごしました。(4人がやっとは入れる広さ)  なかなか寝られませんでした。  湿気などがあり熱を出して3日間立ちあがることが出来ませんでした。  

チェルニヒウ市では凄い戦いがあり、ずっといることは危なくなりました。  私は避難を決意しましたが、母は拒否しました。  母はもう二度と会う事がないかも知れないと抱きしめて「さようなら」と言いました。   ハンガリーを経てドイツへ4日かけて車で避難しました。  空には戦闘機が飛んでいて撃たれる可能性がありました。  母からもらった十字架を握って祈っていました。  3か月後に日本に避難した時に、寝られるようになりました。  

京都は私の故郷と同じような雰囲気で実家みたいに感じています。   住む準備の時間、京都御苑の近くのホテルに泊まりました。  古木があり力強い根が見えました。    古木を抱きしめて、古木の力が心に流れる気持ちを感じました。  そのもとで日記を書いて心が落ち着きました。  私の言葉がお母さんの気持ちを明るくするプレゼントになりました。  私の一番親しい友達は古木です。  古木をモチーフにアクリル絵の具で絵画を描きました。   「古木の力」という1m四方の作品です。   京都に来てようやくアートの作品を作る意欲が出てきました。  

自分が体験した戦争のことを2枚の絵にしました。(それぞれ40×50cm)     1枚は「故郷の窓」という作品、ウクライナの国旗と同じ青と黄色の窓枠、クレヨンなどで鮮やかに描かれている。  その周りには、鉛筆、墨液の黒で瓦礫のようなものが描かれている。   窓だけを描いていますが、もう本当の家はないという事です。  ウクライナ人の人生のイメージはちいさなかけらに壊れてしまいました。  壊れた窓と小さなかけらを描きました。  黄色と青はウクライナ人の独立のための戦い、気持ちを表しています。 

もう一枚は「避難の道」という作品。  日本までの道のり描いたもの。 左から3つのシーンを表現している。  左が故郷のチェルニヒウ市、中央が最初の避難地ドイツ、右が日本で日の丸を思わせる赤い太陽が描かれている。 太陽に向かって青い鳥、黄色い鳥が向かっている。  その中に私もいます。  ドイツまでは雨が降っていて、苦しい時期で涙を表しています。  描くことはつらかったけど、アーティストは正直な気持ちを伝えなければいけない。   今ウクライナで起こっている戦争はウクライナ人だけではなく世界中の皆さんの問題だと思います。  

銃撃などで破壊された故郷の日用品を取り寄せて、修復する現代アート展。  祖国から届いたのはおよそ20点。   戦争の恐ろしさを伝えるものです。  軍の施設だけではなく幼稚園、学校、病院などが破壊されてしまいました。  届いたこれらは一般市民のものです。  日本の伝統技法「金継ぎ」で修復しています。  「金継ぎ」はものの価値を高めます。  同じように人間の心もです。   どの作品にもアクリル絵の具で虹色が描かれています。  「虹継ぎ」と名前を付けました。  ウクライナでは虹は希望を表しています。  戦争という雨が止まって、ウクライナ人の空に希望の虹が現れます。  ウクライナ人の心は回復し、ウクライナは平和な素晴らしい国になるという希望です。     希望をウクライナ人に届けたい。   

お互いに国境、文化、言葉を尊重してくださいと世界の人々に感じてもらいたいです。  戦争の原因はプライドだと思います。  お互いを尊重するとか、感謝することは平和に対して凄く大事なことになります。  私の一番好きな俳句は小林一茶の俳句で「かたつむりそろそろ昇れ富士の山」  毎日一歩一歩進んだら或る日富士山の上にのぼる可能性があります。  毎日平和のためにちいさな努力をそれぞれの人がすると、今のウクライナの状況、世界の状況は変わるほどだと思います。  私の作品のメッセージは自然の価値を伝えたり、それぞれの人の価値は凄く大きいという事を伝えています。   私の作品をお客さ様がみて、自分自身の平和のために、平和を守るために何かが出来ると聞いたら、私は本当に幸せです。   ウクライナで起きている戦争が早く終わらせるのが、ウクライナ人の夢です。








 








 










































 




















2023年8月10日木曜日

大倉忠夫(弁護士)           ・〔戦争・平和インタビュー〕 喜界島繰り返したくない戦禍の記憶

 大倉忠夫(弁護士)   ・〔戦争・平和インタビュー〕 喜界島繰り返したくない戦禍の記憶

喜界島は鹿児島県本土と生き縄の間に位置し、海軍の前進基地がおかれ、戦争中アメリカ軍による激しい空襲に見舞われました。  島ではアメリカ軍の捕虜が日本兵に斬首され、殺された事件があり大倉さんは殺害される直前の捕虜と日本兵の姿を目撃していたと言います。    戦後弁護士になった大倉さんは、捕虜の虐待など戦争犯罪を問ういわゆるB,C級戦犯の裁判についてアメリカから裁判記録などを取り寄せるなどして、長年にわたって実態調査を続けてきました。  少年時代の戦争体験、そしてB,C級戦犯裁判の調査を通して大倉さんが感じたことは、戦争とは個人の人権侵害の最悪のものだという事でした。  

1931(昭和6)年の東京生まれ。  両親が喜界島の出身で8歳の時に喜界島に移住する。   両親と姉と私と妹一人、弟二人の7人でした。  飛行場が近くにありましたが、草むらで飛行機は来ないしのんびりした飛行場でした。   沖縄戦を想定して海軍は前進基地にしようとしたのではないかと思います。   兵隊がき始めるのが昭和19年3月ごろでした。   沖縄戦が始まる直前には喜界島には2000人ぐらいの兵隊がいたと思います。昭和20年3月27日 特攻隊が明日出撃するという事で、前の日から配置されていました。   集落の端から特攻隊の飛行機を見ました。   白い鉢巻をして、長く後ろに垂らしていたのを見ました。  お国のために命を捨てるという事は崇高なことだと教えられていたので、何の矛盾も感じていませんでした。  

喜界島での空襲は20年1月ぐらいから始まりました。  3月後半から空襲は連日になって来ます。  一番恐怖を感じたのは庭に爆弾が落ちた時でした。  隠れていた防空壕の中に砂煙が舞い込んできました。   しばらくして出て行ってみると家は傾いていて、ここにはいられないという事でみや?という所に行きました。  

昭和20年5,6月のころ、数人で山道を登って歩いていました。   平原が見えてきて、一人目隠しされていた人が居ました。  道路側に足を向けてしゃがんでいました。 日本の兵隊が来て「子供はあっちに行け。」と怒鳴りました。   父親にこの話をしたら何も言うなと言われました。  一緒にいた秀雄?という子が、振り返ったら、兵隊たちが追いかけてこなかったので、隠れてみたと言ったんです。  二人が天秤棒の様なものにアメリカ兵を寄り掛かかせるようにして連れてったという事です。  首を斬るところは見てはいないそうです。  その後に兵隊たちは大騒ぎになって、「うてうて めをねらえ?」という事を僕に言いました。  首を切ったけど1/3ぐらいしか切れなかった。 用意していたピストルで撃ったという事が裁判記録にあるんです。  

僕は苦痛を感じなかった。  捕虜になって生かされること自身が普通ではないと思っていました。  終戦後米軍から持ち込まれた民主主義の思想、それまでは国の為に命を奉げるのが最高の道徳だと教え込まれていて、個人というものはそんなに重要なものではないというように教えられていた、民主主義は個人の尊厳を尊重するという事が最大の民主主義の価値観であると、国家は個人のためにあるのであって、個人は国家にためにあるんじゃないという、価値観の大転換がありました。  命令によって人を殺したり、死んでいったり、他人の言う事を信じる場合に、自分で考えるという事が大事な事です。(自己責任。)    

弁護士になり、いろいろやりましたが、特徴的には米軍基地の労働者の顧問弁護士でした。 横須賀の基地を目の前にして、顧問弁護士をやるようになりました。  それぞれの利害関係があって対立する中で弁護士の仕事をしているのですが、相手方に対する信頼、尊敬が無いと、この仕事はできないです。  戦いのようであって戦いではないんです。  相手方の立場をよく理解する。(個人の尊厳)  

横浜裁判(日本全国と植民地だった台湾などで起きた331事件を扱い、1039人を起訴、51人が絞首刑となった。東条英機元首相らA級戦犯とされた28人を起訴した東京裁判の被告数を大きく上回る。)、捕虜への虐待、暴行に関わって罪に問われたB,C戦犯が裁かれた裁判。    横浜弁護士会のメンバーとして仕事をした時に、若い弁護士が目隠しの事件があったという事を知ったんです。  僕はそれが裁判になったという事は知りませんでした。  それで調べて観ようと思って始めました。  B,C級戦犯裁判は果たして公平だったのかという事などいろいろ派生してくるわけです。   個人の尊厳が認められたという感じはあまりない。   命令を受けた人が絶対服従というもとで殺した場合に、その人の責任はどうなるんだろうという事ですが、人間として踏みとどまらなければいけないこともある、それは人の命ではないかと僕は思います。   どうすべきだったのか、僕のなかでは回答がはっきりしないけど、殺せと言われても、相手を殺さなければ自分が殺されるという場面でも、理由がない場合には断るべきだと、戦犯裁判が教えているものではないかと思いますが。

命令に従ってやるという事は、個人としては自己責任の放棄ですね。  自分の考え、責任で行う姿勢、態度が必要だと思います。   戦争は個人の無視ですよ。  個人としてはいい人でも集団のなかでは、人権の侵害、捕虜の虐待、残虐行為をやっているわけです。  場に支配されて人間は残虐行為を行いがちです。   自分がそうなるかもしれない。  どういう場に立たされても、客観的に自分を見て、相手の人権を尊重するという姿勢を保てるという、そういう思想を持ちたいです。










































 









2023年8月9日水曜日

大西郁(90)               ・〔戦争・平和インタビュー〕 弱者を犠牲者にした大空襲の夜」

 大西郁(90)     ・〔戦争・平和インタビュー〕  弱者を犠牲者にした大空襲の夜」

250人以上が亡くなった1945年7月の松山大空襲。  当時小学校6年生だった愛媛県松山市の大西郁さん(90歳)は同居中の寝たきりの叔母さんを置き去りにして逃げたことを今も悔やんでいると言います。  大西さんは戦後このことを胸の奥にしまっていましたが、2018年の西日本豪雨の災害をきっかけに、語り部活動を開始しました。  今も弱者が真っ先に犠牲になるというのは変わらないと言います。  そんな大西さんの思いを聞きました。

大西さんは6人兄弟の末っ子。母親がご病気で4歳の時に亡くなり、2歳の時に年齢が50歳ほど離れた伯母の家に預けられました。  母親でもあり、明治生まれの気骨のある女性で居て、気配りのある、私にとっては伯母さんは理想の人でした。  伯母さんの家は、松山市の中心街にある菓子問屋で元締めみたいな商売をしていまた。  店員も通い、住み込みの人が沢山いました。  1938年伯母さんが脳溢血で倒れました。(5歳の時)  寝たきり状態になりました。 昭和20年(1945)には、戦況の悪化で、愛媛県内各地に米軍の爆撃による被害が出ていました。 当時、私は12歳。伯母は60歳くらい。  この時は、伯母の家で、伯母と夫など5人で暮らしていました。 付きっきりで食事の世話も、下の世話もしないといけない状態でした

看護婦さんは毎日のようにやってきたけれども、戦争が激しくなって看護師さんも来てもらえなくなったので、私たちが手や足を伸ばしてあげたり、マッサージをするなど、そういうふうなことを子供でもしないといけない。誰に言われたわけでもないけれども、自発的にしていました。  主に私がやっていました。  松山大空襲の半年前に、家族で、空襲時の避難計画を事前に立てていました。  空襲警報が鳴ったら、自分が真っ先にリヤカーを取りに行き、伯母を乗せて逃げると、本人にも伝えていました。  避難先は久米の役所の離れに借りるという約束はできていました。(歩いて2時間ほど)  伯母さんはね、生きる意欲はあったと思うんです。「このままにしてもろても構わんのよ」って言ってましたけれども、「私らがそんなことできるわけないじゃないの。おばさんと一緒に逃げるんよ!」と言いきかせましたね。

昭和20年1945年7月26日、夜11時過ぎ、松山市内についに空襲警報が鳴り響きました。  松山市史によると、死者は251人。市内の家屋の半分以上が米軍によって焼かれました。 もう家の中でも会話しづらいぐらいの大音響のサイレンでした。  「リヤカーを借りてくる。」と言って飛びだしました。  リヤカーの上は、既にその家の人の荷物が1つ2つ積まれ、貸して下さいとは言えない状況でした。   伯母さんにどう伝えていいか。本当、金縛りに遭ったような気分でした。  家に戻って入ろうとしたら、姉さんに止められました。  姉さんは伯母さんを助ける方法はないとすぐに気が付いた様です。  私は、「伯母さんどうするの、伯母さんどうするの」と言った記憶があります。     あの時心のなかに鬼が住んでいたと思います。  辛かったです。

40~50分走ってからB29が来て、黒い煙が上がったのを見ました。  市内全体が火の玉みたいになるのを見ていました。  一言も伯母さんに声を掛けられずになってしまって、いつまでも心残りです。  翌日避難先から伯母さんの元に行こうとしました。  「伯母さんがね、焼け死んでいるのは、自分の頭では分かっているんですけれども想像ができなかったですね。  「疲れと空腹で、トボトボと歩いてたんですけれども、グラマン戦闘機が1機だけ、ヒューンっと近くに迫ってきて、高い所からすーっと降りてきたんですね。  機銃掃射で、バリバリバリと撃ってきました。  それの破片が私の左腕に当たってしまいました。  兵隊さんが駐屯しているお寺に連れてってもらって、いました。破片も取ってもらったし、止血してもらいました。  代わりに、姉が一人で伯母の自宅に向かい、4,5時間経った後、戻ってきました。  伯母さんは、そのまま上を向いて、寝たきりの、綺麗なお骨になっていたそうです。  姉が風呂敷にお骨を入れて持ち帰りました。    リアカーを借りることができなかった場合も想定しておくべきだったと後悔しています。

大学で経理を学び60歳まで働いた後、70代、80代までシルバー人材センターで働きました。  戦争の体験は封印したいという気持ちが強かったですが、どうしても思い出します。  5年前に2018年の西日本豪雨がありました。  弱い人が見捨てられる。   それが伯母さんの時と重ね合わせて思い出されました。   伯母さんのことを話すことで災害があった時に、皆がどう対応するかという事を考えてくれるのではないかと思いました。 

昨年7月の伯母さんの命日にお花と共に伯母さんのことを綴った手記を墓前に供えました。そこへ置いたら伝わるのではないかと思いました。  今年6月15日、気持ちに区切りをつけてから初めて、語り部活動を松山市内の小学校で行いました。  伯母さんが読んでくれている様な気持ちになりました。  一人でも多くの小学生に、自分の体験を伝えたい。絵空事のように、戦争のことを思ってるお子さんが多いじゃないですか。それがちょっとでも、体験者の口から生々しい話が聞けたら、ある程度分かってもらえるかなって思っています。  弱者を犠牲にする戦争を二度と繰り返してはならない。














































 

2023年8月8日火曜日

山本榮策(元敦賀歩兵第119連隊上等兵) ・〔戦争・平和インタビュー〕 102歳、ただ1人生き延びて

 山本榮策(元敦賀歩兵第119連隊上等兵) ・〔戦争・平和インタビュー〕  102歳、ただ1人生き延びて

大正9年(1920年)滋賀県大津市に生まれた山本さんは、大学3年生21歳の時に鶴賀歩兵第119連隊に入隊、中国雲南省やビルマ、シッタンなどでの作戦に参加したのち、現地で終戦を迎えました。  現在は滋賀県草津市で20年に渡り小学生に戦争体験を伝え続けて居ます。   山本さんにとって強く印象に残っているのは、命からがら生き延びた体験、悲惨な死を遂げた仲間の姿やそれを救えずに抱いた罪悪、生き延びた自分の役割は残酷な戦地の実情を知ってもらう事だという山本さんに伺いました。(聞き取りにくくて、内容に一部齟齬があるかもしれません。)

終戦から78年102歳。  戦争は3,4年の短い期間でしたが、どんな苦しみがあってもあの苦しみのことを思うと我慢が出来る。  そういう気持ちが今はあります。    学徒兵としてビルマに入ったのは昭和19年5月、太平洋戦争で最も無謀だと言われた、インパール作戦が中止される2か月前のことでした。  敗色が濃くなってゆく中で、山本さんたちは戦地に向かいます。  部隊での役割は中隊長の元に指揮班でした。     制空権が取れないので昼間は行動が出来ない。   夕方からしか動かない。  大雨に降られてびしょぬれになって前に進めず休憩することになりました。  幸いと虱の付いた着ているものを乾かすために着替えたんです。  

敵の偵察機が来まして、見られた後でした。    空襲が来ることは上層部でも思わなかったと思います。   朝、ご飯を炊いて、川を渡ってその時に戦闘機が4機来ました。  爆弾を落としたり機関砲で銃撃したりしました。  その時には顔を洗ったりしていました。  飛行機が帰るまで谷間に潜んでいました。   戦死者が16名負傷者が11名、血の海、地の地獄でした。  負傷者が「痛い痛い」という声があちこちで聞こえました。   私をいつも労わってくれた人が爆弾の破片が付き刺さって(首から頭にかけて)いて、「殺してくれ」と言いますが、殺す訳にも行かないので、どうしたらいいかなと思っているうちに亡くなりました。   こんな人がなんでこんな死に方をするんだろうと思いました。 

涙も枯れてしまって出ないし、こんな戦争を何でしてきたのかなあと思うぐらいでした。  ビルマ戦線で大きな怪我を負いました。  8月12日右足に傷を負いました。     最初敵は戦車で攻めてくると思っていました。  雨期になって敵は飛行機に方針を変えました。飛行機が7機飛んできて、攻撃されました。  私は機関砲の弾で右足をやられました。  痛くはなくしびれていました。    右太ももの付け根を止血しました。   靴を脱いだら骨が出ていました。  今も小指や薬指が変形しています。 

昭和19年6月鶴賀歩兵第119連隊はビルマと国境を接する中国雲南省の龍陵に送られました。  現地の日本軍は中国を始め連合国軍との大規模な戦闘に備えて準備を進めていました。  山本さんたちは中心部から数km離れた山に援軍として配置されました。   敵に何重にも包囲されていていました。   陣地に塹壕を掘って見えないように細工はしました。  皆が休憩している時に私は歩哨に行きました。 中国など連合軍からは200門を超える大砲から雨のように砲撃が浴びせられ、仲間は次々と倒れていった。

こちらは弾もないし、じっとしていたらやられると思って、明日は玉砕するつもりで突っ込んで行こうじゃないかと本部に告げました。  もう玉砕しても意味がない、撤退しろという命令が出ました。  機関銃が1台と通信機が1台ありましたが、それを壊して撤退する様にとの命令がありました。   撤退の時に足を滑らせて崖から落ちてしまいました。  意識を失って気がつけば約40メートルの崖下に転落していた。  地面のシダがクッションとなり、一命はとりとめた。  ジャングルの中をさまよいました。  夜は真っ暗となりどうしようかと思いました。  一晩寝て日本の陣地の方に行こうと思いましたが方向が判りませんでした。  もう一晩過ごしました。  食べるものも水も無くなり,倒れているところを日本の兵隊が通って、本部にたどり着きました。  助かったという思いがありました。  

これらの体験は90歳まで話せずにいました。  撤退命令が出た時にマラリアで高熱にうなされる仲間の上等兵に「連れて行ってくれ」と懇願されたが、「すまない」と置き去りにするほかなかった。(戦死の仲間に入っています。)  長い事話すことはありませんでした。  或る時に話すことになりました。  話すことで自分の気持ちが変るかなと思いました。   戦争はしてはいけないという事を世の中に伝えていかなくてはいけない。  今年2月に本を出版しました。 生まれてから戦後復員するところまで。        私は生きて帰って来て、何か国のために何かしなければいけないと思って、自分ひとりでは生きられない、人によって生かされている、だから自分もその一人として、人を生かしてゆく、という事に努力していかなければいけない。   










   


























2023年8月7日月曜日

川原尚行(医師・NPO 法人ロシナンテス理事長)・〔戦争・平和インタビュー〕

 川原尚行(医師・NPO 法人ロシナンテス理事長)・〔戦争・平和インタビュー〕戦争をさせない・究極の「医」を求めて

スーダンは世界最悪の人道危機とも言われたおよそ30万人が死亡したダルフール紛争などを背景に生活環境が整わない地域が多くありました。  川原さんはそのスーダンでの医療支援に取り組もうと2005年務めていた外務省を辞めてNPOを立ち上げ、医療機関がない地域への巡回診療、給水施設の整備、医療従事者を増やすための学校作りも担って来ました。   こうした中スーダンでは今年4月軍と民兵組織が武力衝突を起こし、内戦状態に陥ります。  川原さんは国外退避を余儀なくされました。  武力衝突の現場を目撃し、命がけで国外退避した川原さんの経験談、そして再び紛争のただなかにあるスーダンを支えたいという思いを伺いました。

支援は大きく分けて二つあって、①地方の電気も来ていないような病院もないようなところ(無医村)へ医療を届けるという活動、私自身が医者として巡回診療したり、診療所を建設したり、医療スタッフを街から連れてきてトレーニングをしたり、診療所にスタッフとして採用したりします。   ②首都の方(ハルツームとか)には日本が援助したインブンシナ病院があり、そこで大学の先生に来てもらって手術をしたり、医療機器のメンテナンスに日本から来てもらって正しい使用法を指導したり、そんな支援をしています。  安全な水を提供するのも医療ではないかと考えますと、段々医療を広く捉えるようになって来ました。  水は万病のもとにもなります。(予防医療に繋がる。)   人材を育てることも大事です。  

スーダンの内戦、首都のハルツームが主戦場になっています。  住民は別の州とか別の国にいる様な状況と聞いています。   一日一食と言うようなことも聞いています。    20年近くスーダンに身を置いていますが、軍と民兵組織の軍との戦いは初めての経験です。  恐怖を覚えました。   バシール大統領が全権力を掌握していて、不平不満はあるものの安全には暮らせていた。  民主化して欲しいという事もあり、経済制裁を受けていたところ、経済が悪化してしまった。  国民の声が一つになって2019年にバシール大統領は辞めます。  暫定政府が出来たが、軍がクーデターを起こした。  2023年軍の一本化という事になって軍と民兵組織が主導権争いとなり暴発してしまった。  

貧しい人たちをお金で働いてもらう。(少年兵、国外の少年もいる様だ。)  いきなり暴発した感じです。  4月に激しい音がして大使館に連絡したらおそらく内戦だろうという事でした。  RSF(スーダン共和国の準軍事組織)に対して国軍が空爆を仕掛けてくると思いました。  病院が砲撃を受けていて凄く心配しました。  透析が出来なくて亡くなって行くという人もいくつか聞いています。  究極の医療は人の命を救うのが医療と定義するならば、戦争をしない、させない、という事が究極の医療なのかなあと思いました。

入ってきたら、お金、携帯、パソコンなどは差し出す気持ちでいました。 情報取集もやって、夜も眠れない状態が続いていました。  軍とRSFの3日間の停戦合意があり、出てゆくためのサインだと思いました。  ①自衛隊機を待つ。 ②エチオピアに陸路で行く。③国連の車列に加わってポートスーダンに行く、という選択肢がありました。  ①は中途から連絡がなくなりこれは消えました。  単独行動は危険なのでぎりぎり③に決断しました。  23日朝4時に集合という事で、国連前に集合しました。(いろいろトラブルがある。)   遅れて7時ごろの出発となりました。   1000人規模で、バスが20台、車が50~60台でした。   スーダンが良くなる国になると信じてきたので、戦争で悪くなるという悲しみしかなかったです。  

朝、自衛隊機が来てくれるという情報が入って、この時には本当にうれしかったです。  国連職員ではなかったので、ポートスーダンからは先が見えていませんでした。     日本の上空に飛んできて窓から富士山が見えて、富士山を見た時には涙が溢れてきました。 日本の地を踏んだ時には、自衛隊、外務省はじめいろいろな方への感謝しかなかったです。妻はじめ家族に会えることは本当にうれしかったです。   

内戦前は、スタッフがいておいしい料理を食べられました。 羊がおいしいです。 豆料理などもあります。  「貴方に平和を」という挨拶をかわします。  スーダンは外の国の人に対して優しいです。(日本以上のおもてなしの国だと思います。)  

1998年から外務省にいて、最初はタンザニアにいました。  アフリカの人たちに共鳴を受けました。  ライフワークとして関わりたいと思うようになりました。  2002年にスーダンに行くように言われました。   テロ支援国家といういことで日本からの援助はしないという風になっていました。   外務省を辞めてNGOを立ち上げて支援をしようと思いました。   自分が医者としてやらなければならないと思いました。    相談もしましたが、「自分の心のままに生きればいいんじゃないか。」と言われました。  

最初は、医療施設がない、医療者もいないというような状況でした。  診療所が出来、我々が行って、スーダン人のスタッフ、ドクター、日本からの救急車も行きました。   給水所、学校もできて凄く発展したと思います。   今後医者が居なくてもデジタルデバイスなどを普及することは可能だと思います。   医者がいなくてもきちんと診断できる、新しい未来が来るかもしれません。   元をたどってゆくと貧困対策かなと思います。 人の命を救う事が医療と思っています。  戦争によって滞ってしまうのは忸怩たる思いはありますが、気持ちを切り替えてゆくしかないです。  幸い支援したところは無傷で残っているので、診療所、学校など運営してくれているので、出来るところは彼らに任せる。  

目の前の大きな壁をぶち壊すのに、権力と金でぶち壊す手もあるかもしれませんが、自分はそんな力がないので、限られた力で、時間はかかるかもしれないが乗り越えることは出来ると思います。  経験によって次の壁がある時に強くなると考えています。  世界情勢について、日本としてはしっかり見つめて勉強することだと思います。  日本の在り方を見つめ直すことが必要だと思います。   民主化という事もなかなか難しいところはあると思います。   難民にならずに村などでの自立が理想的だと思いますが、そのためにはどうしたらいいか、という事を今一生懸命考えています。 何とかしようと私の心の中ではメラメラと燃え上がっています。















  



























 


















2023年8月6日日曜日

宮村優子(声優)            ・〔時代を創った声〕

 宮村優子(声優)            ・〔時代を創った声〕

新世紀エヴァンゲリオン 』 惣流・アスカ・ラングレー役、名探偵コナン遠山和葉役などで知られています。  歌手、女優、ラジオのパーソナリティーとしても活躍しています。 デビューが1994年。  格闘ゲームのキャラクターの声をしました。  1994年「勇者警察ジェイデッカー」というSFロボットアニメに出演、デビューして来年で30年になります。  去年50歳になりました。 

出身が神戸です。  小さいころは、現実主義的で小学校2年生のころに、将来の夢という事でみんなが書いたんですが、私が書いたのが、結婚してもできる職業と書いていました。  アニメが好きになったのは「うる星やつら」です。   漫画の本も好きでした。    高校では演劇部に入りました。  演劇部が出来て3年目で顧問の先生が全然知らなくて、先生の教え子の芝居をやる方が私たちを教えてくれました。  桐朋学園短期大学演劇科で演劇を勉強をしました。  先輩の川上とも子さんが声優をやっていて、声の事務所に入ろうかなと思って、日本ナレーション演技研究所に入所しました。 

1994年にデビューして、翌年新世紀エヴァンゲリオン 』でした。  この現場では台本が無かったり、絵が無かったりしていました。  不器用なほうなので二足の草鞋は無理だと思って、舞台を辞めてアニメーションの方に集中しました。  集中しすぎて、マイクの前で演技を押さえながら声優をこなすことが難しくて、心と身体がバラバラになったような感じになりました。  めちゃめちゃ身体を鍛えることになり、そうすると身体を動かさなくてもコントロールできるようになりました。   横にいて聞こえなかったりしますが、マイクの前の声の演技はこういう幅があるんだという事が、判りました。  目からうろこでした。  

1998年からは名探偵コナン』のレギュラーが始まる。   2004年に男性スタントマンと再婚、2007年からオーストラリアに移住します。  彼がサーカスの大学に行きたいという事で行きました。  生活費は私が支えました。 (4年間のつもりが10年間になりました。)  バセドー病になっていましたが、その逆の橋本病という甲状腺ホルモンが出ないほうの病気になってしまい全体の筋肉が衰えてしまいあまり動けなくなりました。   名探偵コナン』の降板を申し出ましたが、「病気を治すことに全力を向けてください。」と言われました。

2017年劇場版名探偵コナン』かな紅の恋歌(ラブレター) 遠山和葉がメインの出演となります。  病気は完全に治っていました。   娘が体操競技をやっていましたが、中学3年生の時にいろいろ悩んで辞めました。  去年大学に入ってやりたいことを見つけてそれに邁進しています。  下が中学受験で頑張っています。  今は自分から発信できる時代で、専門学校で習ったことを武器にどんどん羽ばたいていってほしい。  自分がこういう風にしたいなあと思ったことを育てていってほしいと思います。  お母さん役をやってみたいです。