2023年3月11日土曜日

鎌田浩毅(京都大学名誉教授)      ・正しい知識が命を救う~前編・地震のメカニズム~

 鎌田浩毅(京都大学名誉教授)    ・正しい知識が命を救う~前編・地震のメカニズム

鎌田さん(67歳)の専門は火山学、地球科学、科学コミュニケーションで、地球科学入門の講義は毎年数百人の学生を集め、京大で人気NO1の教授と言われました。  一昨年定年退官し、現在は京都大学名誉教授、京都大学レジリエンス実践ユニット特任教授として研究を続けて、著書やホームページ、講演などを通じて地震と火山の正しい知識を広く伝えています。   科学をわかりやすく伝える科学の伝道師を自認する鎌田さんに地震と火山の正しい知識を地球科学という大きな視点からわかりやすく教えていただきます。     今日は東日本大震災から12年を迎えました。

巨大な地震が起きましたが、現象としては、今まで日本列島は太平洋から押されていたが、地震によって跳ね返ったんです。  太平洋が一枚のプレートで、日本列島はまた別のプレートで、ぎゅーと押されていたのが、日本列島が跳ね返る時に、今度は引き延ばされちゃったんです。   具体的には東に5,3m引き延ばされました。  地面というのは柔らかいんです。   今度は引き延ばされたというストレスがかかってしまいました。    東北、関東、中部でも地震が多いんですが、それは何故かというと大地変動の時代が始まってしまった。   それが一番大きな現象です。  安定するには100年ぐらいかかります。  その間、ストレスを解消しながら地震が起きるんです。  2011年3月11日以降、内陸の直下型地震が増えてしまいました。(約5倍)   30年ぐらいはこのペースで進みます。  今後まだ20年ぐらいは地震に警戒してくださいと言っています。   首都圏には3500万人がいて、そこで直下型地震が起きると大きな被害になる。  

南海トラフ巨大地震は100年に1回起きるんです。   次の100年に1回目が来ているんです。   2035年±5年と言われています。  

地球の表面は11枚ぐらいのプレートで覆われています。  日本列島は4つのプレートからなります。   東日本は北米プレートと言って東日本は北米までくっついているんです。   西日本は中国大陸とくっついいているんです。  陸のプレートと海のプレートの境目に列島があります。  太平洋のプレートは右から左に(東から西へ)押し寄せてきます。   日本列島にぶつかると斜め下に沈み込みます。  時々その境目でどんと跳ねかえります。    南海トラフ大地震も全く同じメカニズムですが、東日本大震災は1000年に1回、前回が869年に巨大地震が起きて、1100年振りに起きたのが東日本大震災です。(1000年の時計)    南海トラフ大地震は100年に1回は起きています(100年の時計)    

南海トラフ大地震は太平洋プレートの子供みたいな小さなフィリピン海プレートが日本列島側にあり、それがユーライアプレートに対して沈み込みます。  巨大な海のプレートが陸のプレートに斜めに沈み込んで跳ね返る時に巨大な地震が起きる、海溝型地震と言います。

11枚のプレートは水平に動いています。  造山運動もプレートが盛り上がることで山が出来ます。   そのプレートを動かしているのがマントルと言います。  マントルが対流する。  卵に例えると、殻に当たるのがプレート(硬いのが横に動いている)、動かしているのが白身に当たるマントル、対流している。  黄味の部分は核と言って一番温度が高いんです。(約6000℃)   核の近くの熱いマントルは上がって行き、 上の冷たいマントルは下に下がってくる。(熱による循環が起きて対流が起きる)  中央海嶺と言って、太平洋、大西洋の海底には南北に縫い目みたいなところがあり、下から熱いもの(マグマ)が上がって来て、太平洋の隅っこで沈み込んで消滅するところがあります。  

陸のプレートと海のプレートとの間でへこんで、海底では大きな溝になり、地震が起きるという事は陸のプレートが跳ね返り、地面が隆起する。  その上の部分には海水があるので海水も盛り上がる。(30mぐらい)  日本海溝に沿って30mぐらいの山脈みたいなものが出来上がる。  日本の海岸に達するとそれが押し寄せてくる。(津波)  力を持った波で家,橋などを壊してゆく。   サーファーが津波が来たら乗ってみたいといった若い人が居ましたが、2004年12月にスマトラ島沖地震があり映像が流れましたが、それを観て言ったようですが、僕は愕然としました。  津波は30,50cmでも命を失うという事が伝わっていない。   地震と火山は大地変動の時代に対して我々が準備しなければいけない2つのテーマなんです。

活断層の地震というのは、日本列島の中にいっぱい傷があります。  地盤の弱いところがストレスによって動いて地震を起こす場所です。  日本列島の地盤の弱いところは岩石が割れてずれるんです。  その時に直下型地震を起こします。  阪神淡路大地震です。  地面の弱いところが数千年~1万年とかの長い期間でストレスが溜まっていてそれがずれ、大きな地震が起きる。(活断層型地震)   活断層は日本列島には2000本ぐらいあります。   日本列島の都道府県に地震が起きない所はないという事です。  東日本大震災で活断層が動きやすくなった。   活断層型地震は数千年~1万年とかの長い期間で起きるので予知が出来ない。   1万年で起きて誤差が3000年では全く予知が出来ない。   2000本のうち100本ぐらいを注意すべき活断層として挙げてあります。 京都の花折断層は京都大学のキャンパスを横切っています。   京都盆地は活断層に囲まれている。  東京,大阪の大都市の隅っこにも活断層があることは事実です。  

東京の首都直下地震は19か所設定されている。   しかし、どれが動くのか判らないし、数千年~1万年とかの長い期間では想定できない。   南海トラフは600kmの溝がありますが、いっぺんに動くというと連動型地震と言います。   東海地震、南海地震、東南海地震という言葉があります。  静岡沖で起きるのが東海地震、東南海地震は名古屋沖、南海地震は四国沖です。   1707年江戸時代の南海トラフ地震ではその3つがいっぺんに動きました。(マグニチュード9,1)    

それが起きると、ほぼ東日本大震災と同じ揺れ、津波が来ます。  3つの地震域が陸地に近いんです。   震源域が陸地迄引っかかっているぐらいなんです。   震源域が近いという事は津波がすぐにやってくるという事です。   30mぐらいの津波が減衰せずにどーっと押し寄せてきます。  最大の津波が34m、(東日本大震災では20m) で一番早いところで2,3分と言われています。 高知県、和歌山県辺りの沿岸では34mの津波が2,3分で来る、そうすると逃げられない、これが一番怖い事です。   

具体的に人をどうやって助けるかという事に至っていない。   こういったことを知ることで、どうやって自分の命を助けるかという事を考えていただきたいというのが趣旨です。  東日本大震災の10倍が想定されています。  東日本大震災の被害は20兆円の被害でしたが、南海トラフ大地震では220兆円です。  犠牲者の8割は津波と想定されていますが、南海トラフ大地震では最大で32万人で東日本大震災(約2万人)の16倍となります。  東京から鹿児島あたりまでが被害域となり、東北、沖縄あたりからの助けが必要となる。  これが今までの地震災害とは違う。  被害に遭う人の人口は6000万人と言われている。   皆さんに伝えたいのは自分の力で身を守る、自分のコミュニティーに備蓄、いろんな準備をして助け合ってまもる。  誰かが助けてくれるという事を期待できないかもしれない。  

地学で知られていることがちゃんと伝わっていない。  伝える努力をしていても伝わっていない。  一般に伝える専門家がいないという事に気付きました。  地球科学の専門家が国民に対して伝えないと大変なことになると思って、科学の伝道師を志しました。    一番有効なのは言葉で伝える事です。   「伝えるよりも、伝わるへ」という言葉があります。  伝える努力をしましたではだめで、情報を受け取る側がどういう知識があって、どういう事は慣れていて、どういう事ならば受け入れられる、という考え方をちゃんと理解したうえで、専門家とか、知識がある人が伝えないと空回りしてしまう。  情報伝達の技術を地球科学の研究と一緒に研究しないと南海トラフの地震に間に合わないと思って頑張っています。























 








 



































2023年3月10日金曜日

木戸浦健歓(造船会社社長)       ・100年続く港町の中核に

木戸浦健歓(造船会社社長)       ・100年続く港町の中核に 

宮城県気仙沼市から。  東日本大震災で大きな被害を受けながらも復活を遂げた造船会社があります。   長年ライバルとしてしのぎを削った同業5社がそれぞれの看板を下ろし、合併の決断をして再出発したのです。  100年先の未来に続く港町の中核となることを目指し、みらい造船と名付けられました。   社長の木戸浦健歓さんは52歳、船大工の祖父を持ち幼いころから船作りを間近で見てきたと言います。   未曽有の災害から12年、どんな困難を乗り越え、挑戦を続けているのか、伺いました。

今作業しているのが420トンある船です。  巻き上げ漁業の運搬船と言われるもので、魚を海から陸上迄運ぶための船です。    この船は作るのに11か月ぐらいかかります。  その前に設計作業が1年半から2年ぐらいかかるので、足かけ3年ぐらいになります。    いろんな人たちの経験であったり、技術というようなものがあって、初めてこのような形になります。   設計通りの船が出来上がるのは驚きです。   気仙沼に造船業が出来たのは江戸末期のはずです。  鉄ではないですが。  100年以上の歴史があるという事です。  

同業5社がそれぞれの看板を下ろし、設立したのが2015年、それから8年になります。 震災から12年経ちましたが、振り返ってみると早かったですね。  日々新しいことの積み重ねでした。    新会社になって20隻ぐらい作ってきました。  漁業の好調もありますが、やはりお客様の支えがあったから、順調にこれたと思います。   祖父が船大工だったので小さいころから祖父の後をくっついて回っていました。   重いものを吊り上げたり、動かしたり、火花が出て居たり、刺激的なところは覚えています。   仕事の大変さは何も思っていませんでした。   地元の高校卒業後はアメリカ、カナダへ10年以上留学しました。   子供のころからラグビーをやっていて、外国に行きたいという思いは漠然と持っていました。  

家族と相談してアメリカに行く事になりました。    船を作るための設計、デザインの学校にも行きました。    社会人になってゆくことが視野に入ってくると、自分はどのような職業でこれからの人生を過ごしたいのかという事になった時に、子供のころから親しんでいた造船であれば、苦しいことがあってもやれるんじゃないかと思いました。  最初は右も左の判らないような状況でした。   設計、デザインの学校で一番学んだことは、何をしているかという事ではなくて、それをどうやってやっているのか、というのが自分にとって重要で、それをどうやってやっているのか、という事は学校の中で一番努力したと自負しています。    これから新しいことをやるのにも、これからどうやってやるのかという事を自分の中の軸にすれば、どこでも、何をやっても大丈夫と思って、新しいことをやるのにもハードルは下がった、という思いはあります。

3月11日は私は出張に行く途中で、気仙沼市内を車で走っていました。  信号が停止して、同乗者が津波が来るはずだという事で家族に連絡し、会社に戻り始めましたが、海水が引いてゆくのを見て高いところに避難しました。   従業員の人たちは全員避難していました。    造船所はゴミ置き場の様にいろんなものが散乱していました。  泥と砂で地面は覆われていました。   造船所にあった船は一隻もなくなりました。  桟橋に停めていた船もなくなっていました。   

1週間以内に皆さんが会社の方に戻り始めました。別にこちらが指示しないのに、淡々と片付け、清掃などの作業をしていました。   心強い思いをしました。   船を修理のために気仙沼に持っていきたいので、いついつまでに造船所を直してほしいという話がありました。   福島で遠洋のマグロ船を動かしているお客様でした。   3か月から半年でないと造船所の方は無理ですと言いましたが、2か月後持ってゆくので、一日24時間働くようにと言われました。   4か月後にその船は気仙沼に戻って来て修理する事が出来ました。   関連の業者にも仕事がもたらさせるので一刻も早く修理が必要であった、という事でした。    

立派な設備を残せば、私以外の人でもそれを運用して、これまでと同じような仕事をして続けられる、というような造船所を作りたいと思いました。   これから100年使い続けられるような造船所を作りたいと思いました。   他の造船所のかたも完全復旧は出来ないと薄々感じていたと思います。  設備が海水に浸ってしまうと中々難しいところがあり、修理修理となってしまう可能性が高い。   選択肢としては、従来と違う場所に新しい施設を作る、というのをとらざるを得ない。   国土交通省の助けを貰いながら補助金を利用するという事ですが、条件としては複数の会社が一つになって引っ越しなさいという事でした。  全員反対でした。  父親も反対でした。  

今の造船所を元通りにして稼働させても、10年後、何年後かわからないが、木戸浦造船所がなくなってしまうかもしれない。   話し合う中で、木戸浦造船所という名前はなくなってしまっても、造船所が残った方がいいんじゃないかという事で、最終的に賛成してもらいました。   毎日毎日大変で、毎日毎日楽しかったです。  一人ではできなかったことを一緒になったらできるという事を日々経験しました。   船の作り方、修理の仕方はそれぞれ会社によってカラーがありますが、新しい技術を間近で見ることが出来て、合併したメリットだと思います。   仲良くやろうというようなことは考えていませんでした。努力をしながら組織を作っていきましょうねというような感じでした。   取り繕うという事はしませんでした。   100年後も残っている企業でありたいという思いはあります。   船は物凄い人が携わって一つの船が出来るものなので、船主さんの夢と希望なので、それを作り上げてゆく驚きと感動ですね。  


























 








 







































2023年3月9日木曜日

「明日への言葉」 累計投稿数が4000回になりました。

 ブログ開始以来、お陰様で「明日への言葉」の累計投稿数が4000回になりました。   始めた当初はまさかこんなに長く続けられるとは思っても見ませんでした。  奇しくも東日本大震災の12年目にもなるわけで、いろんな意味で感慨無量な感じです。              ブログに関する思いは「投稿累計数 1500になりました」でちょっと細かく紹介していますので、参考のためにご覧いただければと思います。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/02/1500.html(2016/2/21)

これからどの程度続けられるか判りませんが、一日一日を大事にしながら、頑張っていきたいと思います。

今宵は、ちょっと多めの酒と美味しいツマミで晩酌を楽しみたいと思います。  秋田 宏

村上清(元・国連職員 観光企画会社社長)・被災地からの"脱却"でふるさとへ恩返しを

 村上清(元・国連職員 観光企画会社社長)・被災地からの"脱却"でふるさとへ恩返しを

今年で12年を迎える東日本大震災で被災した東北からのメッセージ。  第1回目は陸前高田市から。  岩手県の南東部太平洋に面した陸前高田市は東日本大震災による津波でおおきな被害を受けました。  海岸線にあった高田松原はなぎ倒され、そのすぐ背後にある市の中心部だけでなく海岸から8kmある内陸部まで津波が到達し、壊滅的な被害となりました。  この陸前高田の復興を民間の立場から支えようと、震災直後から奔走してきた人がいます。  元国連職員で観光企画会社社長の村上清さんです。  村上さんは陸前高田の出身で、アメリカの大学に学び、外資系金融機関のほかUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緒方貞子さんの元で仕事をした経験も持っています。  目指すは被災地からの脱却という村上さんに12年の復興支援の歩みとこれからの展望を伺いました。

広田湾は牡蠣に限らず養殖が100%、湾口が向いている方向に大きな震源地が二か所あって、それで直接津波が広田湾に入って来ました。   だから被害が大きかった。  うちで牡蠣筏108個ぐらい持っているが、ひとつ残らず全部壊されてしまいました。         震災後全国のボランティアの人たちが集まってくれて、ボランティアの人たちが牡蠣筏を作ってくれました。   2年間かかって470個作ってもらいました。  

陸前高田の食や海を体感しようという今回のモニターツアーですが、カキの養殖の見学、味わったり盛りだくさんの内容です。  今年で大震災から12年になりますが、陸前高田は何にもなくなってしまった場所でした。  ハードな部分も10年でやっとできあがって来て、陸前高田の資源をもっと皆さんに提供することで、地元の皆さんに少しでも潤っていただけるのが大事なんだと思います。  

村上さんは陸前高田の出身で、父親がタクシードライバー、母親は町で美容院を営む。   小さいころはパーマ屋の坊やだと言われて皆さんに可愛がってもらいました。   中学生のころは短波放送で世界のラジオを聞くのが好きで、太平洋の向こう側に興味を持って、高校卒業後、サンフランシスコに留学。  世界の放送局から入って来て素晴らしいと思いました。  アメリカの大学に学び、外資系金融機関のほかUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で5年間経験しました。  2011年3月11日は外資系金融機関に勤めていて、香港に出張中でした。  作り酒屋の酔仙の工場が写っていて、そこが波に飲み込まれる映像でした。  山に近いところだったので、そこが飲み込まれるという事は陸前高田市全部が飲み込まれたという事は直ぐ判りました。  我が家も全滅だという思いで帰ってきました。  

陸前高田出身会があり、まず情報を集めましょうという事になりました。  支援物資をリストアップしながら、UNHCRで先遣隊の派遣とか実際にやっていたので、まずは救援することから始めないといけないと思いました。   市役所が全滅していて400人弱の職員の中で111名がなくなっていました。  残りの方々も家族を亡くして、住む場所もなくなっています。   そんな中で職員は災害の対応をしなければいけなかった。  私は6日目に必要な物資をスーツケースに6個詰めて、花巻空港から陸前高田に入りました。  市役所はないので、給食センターが対策本部になっているので、そちらに行くように言われました。   市長に物資を渡して、家族はどうなっているのか聞いたら、子供たちは学校に行っているからいいが、妻が見つからないと言われました。  抱き合って泣きました。

自分が経験してきたことを最大限出さないといけないと思いました。    残った被災された方々の安全確保、必要なものをどこかから持ってくる、その手段、必要なことをみんなに伝える手段、経験から世界に向けて陸前高田はこういったことが必要だという事を多言語で発信することが必要だと思いました。     陸前高田の細かいことはわからないので、当時の状況を写真に撮っていた方がいて、その写真をパネルにして展示してもらえるといいと思って、写真展を開くことになりました。(5月末  青山で行う)    在京大使館に知り合いはいませんでしたが、紹介状を送りました。(10本)  大使とか来ていただきましたので、私が説明しました。   大使館側としてどうしたらいいのか、こういうことは出来ると話が出ました、   

シンガポールの人に対しては学校を建ててくださいと言いました。   20億~30億円ぐらいかかるかも知れないと言いました。  シンガポールからの支援は7億円を受けられました。    陸前高田のコミュニティーホールを建てることになりました。  学校は文科省から災害復旧という事で対応できるという事が後で判り、急遽市民が集まる場所へと変えました。  必要な建物だったので、そのことはこちらから大使館側へ要望しました。  

可能性というものはいくらでも広げることができると思いました。   1%のチャンスがあったならばそれにかけてみる。   そこから広がる可能性がある。  陸前高田と国内外での支援を通しての交流が出来ることになり、これを生かさない方はないと思って、アメリカのジョン・ルース大使にお会いする機会があり、我々の方で教育プログラムを何か考えようという事になりました。  陸前高田の中学1,2年生を横須賀の基地に3泊4日のホームステーを企画しました。  それが最初の「TOMODACHIイニシアチブ」(公益財団法人 米日カウンシル-ジャパンと東京の米国大使館が主導する官民パートナーシップで、日本国政府の支援も受けています。)です。  その後、教育、文化交流、リーダーシップといったプログラムを通して、日米の次世代のリーダーの育成を目指す、という風に様々変化してゆきます。  仮設住宅にいるような時に、全く違った環境、文化に浸ることが出来たことは、凄くよかったことだと思いました。  いろいろな選択肢の機会を与えることが大事だと思います。 

一貫してやっているのが、国際連携です。  会社を作って旅行会社をしているので、新しいインバウンド(主に旅行業界・観光業界で使われていた言葉で、簡単に言うと「外国人の日本旅行」(訪日外国人旅行客)という意味)という部分においても、そういった方々に来ていただく、という事を進めています。  陸前高田の特産品の売り込みも行っています。    サンフランシスコで陸前高田フェアーをやって、大変好評です。  特に鯖、鰯の缶詰と生ものが欲しいと言っています。   新しい映像を見せると、あの瓦礫の街がこんなに綺麗になったのかと、吃驚されます。  









  

 























      

























 







   



2023年3月8日水曜日

田尾陽一(NPO法人理事長)        ・ふくしま・飯舘村の再生をめざして

田尾陽一(NPO法人理事長)        ・ふくしま・飯舘村の再生をめざして 

田尾さんは現在81歳、東京大学理学部大学院生の時に東大紛争に参加、東大全共闘議長山本義隆さんんとは盟友でした。   その後学習塾経営や今のIT企業の先駆けとなるベンチャービジネスを手がけ、大手警備サービス企業の役員を務めました。   リタイア生活を送っていた時に起こった東日本大震災、田尾さんは福島再生の会を作り、福島県飯館村で新たな地域つくりを行ってきました。    福島飯館村への思いとその波乱にとんだ人生について伺います。 

飯館村に移住して6年になる。  その前も週に2回とか毎週通っていました。(11年前から)    飯館村の面積は230平方kmと大きな村です。  福島第一原発からは5月に解除される南の長泥地区が35kmぐらいです。  ここからは50kmないですね。    2011年4月22日に政府から全村避難地域に指定されました。  事故からは1か月以上たってからテレビで官房長官が言ったそうです。   みんな驚いていました。      緊急避難場所として1000人以上受け入れて炊き出しなどやっていました。  大混乱に陥り、村の周辺の市町村にお世話になったようです。  当時6000人ぐらい住んでいました。   今年1月では在住村民が1502人,帰村者が1226人で、200人以上が移住者です。   移住者の会があり、新しい生き方をしたいという若者ですね。 「福島再生の会」は300人弱で、60,70歳以上が多いです。  一番多いのがサラリーマンで、大学関係、公務員だった人とか、医者、看護師、教師だったとかいろいろな人います。   

1941年横浜に生まれました。  両親が勤めをしていて、東京、横浜に爆弾が降って来て、子供だけでも避難させようというので、父親が広島で、爆心から9kmの実家に預けられました。  4歳だったのであまり覚えてはいませんが、B29が飛んできて、珍しいというので祖父と手を繋いで見ていました。  広島の方向でピカっとしました。  間に島があって遮ったと思います。(直射はしていなかった。)    1960年に東大の理学部に進み、大学院では高エネルギー加速器の研究をする。  光の速度に限りなく近い粒子を加速していきますが、素粒子物理学の実験装置です。   ドクターコースに入った1968年ぐらいから東大闘争が始まります。  率先して参加しました。   医学部で、6年間、卒業しても無給でボスの教授に支配されている、という事に反逆したんですね。   安田講堂に立てこもりました。   安田講堂を後に新しい公共空間と呼ぶようになりました。   庶民そのものが公民なんです。  公共というのは庶民が作っている、これは民主主義の基本です。   個人自体が公共そのものなんです。  公共空間というのは、民主主義の基本という空間が安田講堂の中にできてしまった。  東大生だけではなくて、全国の大学生が交流し、話し合う。  労働者、山谷の労働者も来ていました。   自分たちの考え方も深まってゆく、これこそ公共空間であると確信出来ました。  

飯館村で、原発事故とは何だったのかとか、近所の人と議論しています。   突然変なものが降って来て避難させられて、これは何なの、というのが未だに判らないわけです。   どう再生させるのか、子孫にどんな森林をを残すのかとか、この辺のおじいちゃんおばあちゃんは考えています。   安田講堂に立てこもったのは裁判になって、執行猶予3年でした。  加藤総長は希望があるなら復学を許すという事はうわさで聞きました。  自分の研究を再開するということはいかなかった。  

喰うのに困った連中で南学習塾をやったり、その後シンクタンクを作ろうと思ってやりだしました。   最初は自治体のコンサルタント、地域つくりの計画作りなどをやっていました。   マイクロエレクトロニクス革命の技術革新が起こって、パソコンの雑誌RAMの編集長として創刊しました。    インターネットのセキュリティーがポイントになると思って、セキュリティーソフトの開発を含めてやっていました。  その後横浜市の市長が横浜の子供科学館を作りたいと言う話をキャッチして、応募してみようと思いました。   60億円ぐらいの建物を含めたものであり、私たちはその中身のデザインを応募したら通っちゃいました。   凄く興味を持って動いているうちに市からくれるお金の差額が2億円ぐらいになってしまっって融資を求めて動きました。  その時に第二電電グループの稲盛さん、飯田さん、牛尾さんに第二電電はインターネットで勝負すべきだと、プレゼンテーションして、それで子会社として作ることになり、東京インターネット株式会社の社長になりました。   インターネットのセキュリティーだという事でいろんな開発をしました。  赤字を抱えながら投資をしてくれました。    セコムのCIOを引き受ける。    私がセコムのシステムをインタネット化するという話がまとまりました。  

2005年にやることがあるという事で会社を辞めることにしました。   学生時代に日本の山はほとんど登ったんですが、世界の山を登ろうと思いました。   主にヒマラヤ地域、カラコルム地域、マッキンレーです。  チベットへ行こうと仲間もそろえていたところに3月11になってしまいました。   キャンセルして、個人的に動き始めました。 取り敢えず情報収集をしました。   テレビでの政府での発表は疑わしいなと思いました。   友人の物理学者がスタフォードの教授をやって居たりして、いろんなところにいるんでそこをネットワークでつないで、私が司会役みたいにして、話し合う中でメルトダウンは早めに断定していました。   水素爆発が起きて、次に連鎖反応(原爆)まではいかないなとは思いました。    個人的に第二原発の近くまで行って観たりしました。 

個人的にではなく仲間を増やして現地で活動を開始しなければ駄目かなと思いました。     16人仲間が集まって(科学者、医師とか)、6月6日に南相馬に行っていろんな人と話しました。  帰りに飯館村に立ち寄りました。  避難指令が出ているのにまだ残っている人たちがいました。  2時間ぐらい話をする中で、私は避難するが、あなた方みたいに熱心にやる人が来るならば、私は避難先から戻って一緒にやりますよ、って言ってくれたので私は再生の会を作ろうと思いました。  帰ってからすぐに企画書を作って。7月の頭には第一回入り始めました。  土日つぶして入ることをずーっと繰り返してきました。

まずは放射線の測定から始めました。  手作りのGPS付の性能のいい放射線測定器を作りました。   森林、田んぼのなかの土は、とかいろんな計測を開始しました。      徐染の方法についていろんな議論をし、試行錯誤しました。   環境省は一律5cm剥ぎ取りを決めてしまいましたが、いろんな方法があると思って試していました。      田んぼの中で代かきがありますが、重機でかき混ぜます。    代かきを利用して攪拌して表面近辺の泥水を掻きだして、干上がったところに綺麗な土をかぶせる、そうすると田んぼのほとんどが除染されて、綺麗になってゆく。 実験をしました。  畜産ではほとんどの方が飯館牛を処分して避難して、戻ってきた人が10軒ぐらいですかね。  そういった人たちを応援しています。    

残った人たちは高齢者中心に1500人ぐらいで、コミュニティーが老人クラブみたいになってしまっていて、新しい課題だと思います。  若手が独自のコンセプトのもとに立ち上げてゆく、そこに明るい兆しがあります。    町のホームセンターの跡地を借りて、アート、サイエンス、テクノロジー(農業、林業、畜産業を再生する技術)、そういった空間作りがかなり進んでいます。   村民と共同したりして、アートの世界でも活動しています。   仕事の面ではツアービジネスとかでお金を落としてもらって、という様なビジネスも進んでいます。  起業してゆく人を応援してゆく。  自然と人間の関係を現代人はどう考えているか、自然を壊してまで電気とか明るい文明というものがあるのという、現代文明を作ってきたこの2,300年、歴史の転換点を迎えるかもしれない。  もう一回地球という自然の上に生きている人間が自然界を道具としてみて、それを利用すればいいという我儘な発想じゃなくて、自分たちを自然界に内包された存在だという事を、見直して本当に新しい文明のやり方を作らないと21世紀はやばいかもしれないと言うのが、私の考えです。   食料とエネルギーと人間の健康、これを守れれば、自立できる。  地域同士で自立して、これが地球で成り立つという事を考えないとまずいんじゃないか。  外国からツアー出来て、どう反応しているかというと凄く喜んでくれている。   よく聞くと悲惨なんだけれども、それを再生してゆく中に、自分たちにとっても凄く参考になると言ってくれる人は多いです。









 
















  








 

















  





























  






      

2023年3月7日火曜日

桂幸丸(落語家)              ・落語で福島の偉人を語る

 桂幸丸(落語家)               ・落語で福島の偉人を語る

桂幸丸さんは1954年福島県生まれ、大学在学中の1974年6月、四代目桂米丸に入門。     若手時代は落語のみならずラジオ、テレビでリポーター、司会者、俳優として活躍してきまいた。   そんな幸丸さんが2000年代の頭から取り組み始めたのが、幸丸流落語偉人伝というシリーズです。  野口英世新島八重など福島県出身の偉人たちを取り上げて、その偉業や人となり、故郷とのかかわりを落語作品にまとめた笑いと涙の物語、今や福島県のみならず日本各地、そして国際線の機内放送などを通じて世界でも聞かれるようになりました。    今回は幸丸流落語偉人伝や福島勉落語が生まれたいきさつや、演じ先で出会った人々の反応、等季語を通じて垣間見えた福島の人々の心息などをお話しいただきました。

二つ目になった途端に仕事が増えて、テレビ、ラジオで週8本やっていました。       ですから落語の勉強はしませんでしたね。    番組がなくなって行き2つぐらいあったが、これがなくなったらどうするのかと思いました。   そんな時平成2年に女の子の3つ児が生まれて、家のローンもあるし、さあ落語をやらなければと思いました。   落語家生活20周年の時に第1回目の独演会をやりました。   ここで69回目になりました。  最初年に一回だったんですが最近は年に3回やっています。   30周年の記念の時に野口英世伝をやろうと思いました。  苦労して作って記念の会の1週間前にやったんですが、しゃべっているうちに何だかわからなくなっちゃいました。  中身が難しくて。  1/3ぐらいのところで時間がきちゃいました。  詰め込み過ぎました。  1週間で25分ぐらいに短くして30周年で演じたら、お客さんが面白かったよと言ってくれました。      

野口英世は借金と女性が好きだったという事があり、バランスよく入れるようにしています。    柔らかい笑いで包めればいいなあと、いつも根本にあるんです。  母親の「野口シカ物語」も作ったんですが「のろしか物語」をやるんですかと、言われ受けましたね。 野口の口を片仮名の「ロ」と違えたんですね。  「新島八重伝」も自分でやっていて楽しいですね。  野口英世は40数冊読みました。  新島八重は資料が少なく17,8分に仕上げましたが、何故自分が気が楽に出来るのか不思議ですね。  他に瓜生 岩子円谷幸吉。  信念を曲げず真っすぐ生きた、そういったところは見習わなくてはいけないなと思います。   私は須賀川市生まれですが、円谷幸吉選手は同市の出身ですが、後藤新平須賀川の医学校に通っていて、伝説の残っている人でこの人も作りました。  円谷幸吉物語は或るお寺でやって大反響でした。  

コロナ過では活動が停止して大変でしたが、妻、お客さんに支えられました。      福島の方言を面白おかしくネタにしたら受けるのではないかと作りました。(22,3分のもの)  つくったらバカ受けでした。  東日本大震災の時には流石に出来ないと思っていたら、気分を明るくしたいのでやってほしいとの要望があり、6月にやりましたが、それまでより多く入りました。   落語の強さは座布団一つあればできる事ですかね。  一人でやるので失敗しても成功しても自己責任です。   偉人伝を作っていて判りましたが、努力と結果はイコールじゃないんですね。   

古典が好きで入り込んだので、古典も頑張りたいと思います。  古典で好きなのは「子別れ」ですね。   「紺屋高尾」、「妾馬」など、かっちりした人情話が好きです。    或る時桂米丸の話を聞いて、180度変わって桂米丸の弟子になっちゃったんです。     落語は笑わせようとするとつい声を上げるが、そうではなくて引きの芸なんですね。    今後も古典と新作落語を頑張ってやっていきたいと思います。





















 











2023年3月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕鈴木晴香

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕鈴木晴香

「海の家」でオセロ篇を取り上げます。  15年ぐらい短歌投稿フォーラムをやっていて、選んで溜まると本にする。 「海の家」でオセロ篇は5冊目になります。

鈴木さんは1982年東京都台東区生まれ、2012年雑誌の連載「短歌ください」への投稿をきっかけに作歌を始める。   これまでに歌集『夜にあやまってくれ』『心がめあて』 2冊を発表しています。  現在」短歌会編集委員、現代歌人集会理事、「西瓜」同人です。  又短歌教室も開催しています。

鈴木:俵 万智さんの「あなたと読む恋の百首」本がありまして、その中に穂村さんの歌が入っていて特別に素晴らしいなあと思って、シンジケートの歌集を手に取ったのがきっかけです。

その歌が
「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」と騒ぐ雪のことかよ」  穂村弘               体温計をくわえているので「雪だ」といえなくて「ゆひら」となってしまっている。      「雪のことかよ」と突き放している様でありながら、本当は抱きしめたいぐらい可愛いと思っているところがあって、素敵な歌だと思います。

春雷 「自分脱ぐ」とふりかぶるシャツ内なる腕の十字」  穂村弘       

シンジケートのなかで一番好きな歌です。  脱がせてあげる場面で、恋人は自分で体操着を脱ぐように溌剌とした感じで脱いたんですね。  両手で脱ぐと手が重なり、一瞬十字になるが、十字架だから神聖さみたいなもの、ゆるぎなさみたいなものを感じます。    その一瞬が「春雷」なんですね。  受動的ではない女性の描かれ方が、恋だけではなくて、生き方、仕事などなんにでも言えると思います。 前向きに、背中を押してくれるような歌だと思います。

「だしぬけに葡萄の種を吐き出せば葡萄の種の影が遅れる」   木下龍也           木下龍也さんは「短歌ください」の常連の一人です。  この世の中は隙間がなくて、ちゃんと出来上がっている。  でもどこかに神様の不手際があるのではないか、と言うような視点で書かれた歌だと思います。  根源的な世界ってこんなものなのかと、具体的に「葡萄の種の影が遅れる」と着目したところがいいと思います。                    

永田和宏さんの主宰していた「塔」短歌会に入会しました。                    「きみ逢う以前ぼくに遭いたくて海へのバス揺られていたり」   永田和宏    とっても美しい青春の歌だと思います。   君に逢ってすっかり自分は変わってしまった。  恋を知る前の自分を思い出せないぐらいなんですね。  自分の変化が歌われていて大好きな歌です。  恋って自分が変わってしまう危機的な状況、だから喜びもある。  でも戻れないという怖さがある。

「塔」ではいろいろな人との出会いがあり、大森静佳さんは人間の恐ろしさみたいなものを描くのが得意な方だと思います。

「夜の道にビニールハウスの群れ光るここはこころの外だというのに」  大森静佳   人間の恐ろしさというより、人間と人間でないものとの境界線が揺らぐような感じがして、とても大好きな歌です。 「ここはこころの外だというのに」というのにびっくりします。  

第一歌集『夜にあやまってくれ』を出版、 監修が江戸雪さん。

*「よそゆきという布切れの服を着て岬に立てばさよならのおと」   江戸雪
よそゆきはよそへ行く感じ、岬に立つその先は、追い詰められた感覚が伝わってくる歌だと思います。  

短歌ブームと言われているが、平安時代に比べるとなんてことないのでもっと頑張らなければと思います。   今SNSで発信したものがすぐ読める、直ぐ返信できる、相互的なやり取りが生まれて来ていると思います。

*「雪は人を訪れる人が川沿いの美術館を訪れるのに似て」   服部真里子              言葉と言葉、イメージとイメージのスパークみたいなところがあって、私の手の届かない次元にあって、憧れているている存在です。   「雪は人を訪れる」だけで特別な世界で、でもそれが作者の心なんでしょうね。

*「またここに二人で来ようという時のここというのは時間のこと」   鈴木晴香       ここというのは場所ですが、時間のことと言われた時には凄く驚きます。   

*「目にゴミが入っただけの夕暮れに君はどこの交差点を渡る」    鈴木晴香     君は今どこで何をしているのか判らない。  今この瞬間もみんなどこかで何かをしている、不思議さ。     

「助手席に座る人にも役割がほしくてすべての窓を開いた」      鈴木晴香    「すべての窓を開いた」は別に貢献しているわけではない。   その虚しさに胸を打たれる。   自分の力不足、存在の儚さみたいなものを感じるから、この歌になったのかなと思います。    今世の中に流れている情報は何が有効かという情報で、短歌の面白さは無力感が作品になるという事。  虚しさに胸を打たれる。

*「ひとの家の犬を撫でるといいことがあるのだろうかあなたは撫でる」   鈴木春香    これは恋の感じが少し流れている。

「この手紙燃やしてほしいと思ったりしないもともと燃えているから」  鈴木晴香    短歌が燃えているからこそ『心がめあて』の一番最後にこれをいれています。  

短歌って自分を知る手段でもあると思うので、ずっと続けて自分自身を見続けていきたいと思います。  

*印は 漢字、かな等違っている可能性があります。