2022年12月11日日曜日

中尾知代(岡山大学大学院准教授)    ・戦争の記憶に耳を傾けて40年

 中尾知代(岡山大学大学院准教授)    ・戦争の記憶に耳を傾けて40年

欧米、アジア、アフリカなどで戦争体験者や家族から戦争に関わる記憶を聞いて、平和を模索する研究を続けています。  オーラル・ヒストリーという学問ですが、研究のきっかけとなったのはイギリスに留学中、たまたま声を掛けた男性から思わぬ厳しい言葉を投げかけられた言葉からと言われます。 

オーラル・ヒストリーという言葉は、後述記録という風に訳します。  20,21歳の時にイギリスのウォリック大学に留学、自動車産業で有名でそこに働いている女工さんのオーラル・ヒストリーを取って博士号を取った人と知り合いになって、どんなものか疑問に思ったのが最初です。(1982年)   それから10年ほどたって、日本に対する感情が悪化してきているのを感じた頃に、イギリスでもそういう記録をとることを始めようと思って、それが学問の方の一つのきっかけで、もう一つ私が生涯かけて聞くことになった、捕虜の人たちの声をどう聞くかという事のきっかけになったのは、アベリストウィス大学に行って語学の研修をしていた時に、サッカーを教えていたおじいさんがいて、私に戦争で一人は義眼で、もう一人は足を失って、職も失ってしまったというんです。   怒っているのがもう一つのきっかけでした。  日本軍が捕虜扱いしていたことをもっと聞こうという気持ちになりました。  

1995年に対日勝利記念日で物凄く盛り上がった時に、いろんな方に話を聞いてテレビ番組を作りましたが、それでは彼らの深い悲しみ、こだわりがうまく短い時間では出ないという事に気が付いて、長い時間をかけないとそういう思いは出ないという事に気付いて、オーラル・ヒストリーという学問を思い出して、エセックス大学に留学しました。 

イギリスでは第二次世界大戦を民主主義を守った戦いと認識していて、日本ではそういう風には考えていない、イギリスと日本の戦争観の違い、捕虜扱いの厳しさ、消耗品としての労働力として取り扱われたという事が彼らの負担になったし、死亡率も高いし、トラウマになってしまったというところに、調査を進めてゆくうちに気が付きました。   

捕虜の犠牲に関して極東軍事裁判記録では、イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アメリカ、オランダなどを含めると13万人余り、亡くなった方は3万5000人余り。   ドイツでは4%だったのに対して、3割の死者が出ていて、日本ではジュネーブ条約を守っていなかったということもあり消耗品として労働力として使った。 邪魔だった捕虜も殺してしまったという事が行われた。   日露戦争と第一次世界大戦の捕虜扱いは良かったと言われていた。  ドイツの捕虜に楽器を与えて第九を初めて演奏したりとかエピソードが沢山ありました。   

スマトラ鉄道の建設では7割近い人が命を落としたと言われる。   帰ってきた人たちは心身を痛めて後遺症で1950年代で次々亡くなって、又トラウマとなって苦しみが続いたという事も大きな問題です。  娘さん、未亡人の方にも話を聞くことが出来ましたが、父親が非常に暴力的だとか、怒鳴る、怒りっぽいとか、家族に影響を及ぼしているのが、問題を長く続くものにした原因です。   アメリカでは捕虜の子供の集まる会があって、子供に深い影響を与えているという事は、子供たちの共通経験として挙げられている。    子供に食べ物を粗末にすることを許さない、何かあるとすぐカッとなる、一緒にテーブルでものを食べることができない、と言ったことを聞きました。   

捕虜の収容所でひどい経験をしたことが、暴力性、自分に対して自信がなくなってしまう、そういったトラウマがあります。   亡くなる前に捕虜の時代に戻ってしまって、異常な行動をしたりして、彼らの中に眠っている悪夢の記憶というものがとても強いものだと思います。  横に寝ている妻を日本兵だと思い込んで抑え込んで、「動いたら殺すぞ。」と言われるが、夫は半分寝てるんです、といった例もあります。  実際に殺人に至った例もあると言われています。   食べ物がない恐怖から、冷蔵庫にいっぱい貯めこんだり、冷蔵庫を3つ買っているとか、食べ物をソファーの下に隠すとか、あるそうです。  

オランダでは毎月第二火曜日にハーグで日本大使館の前でデモを続けています。  日本兵士も同様にトラウマを受けた民族だと思います。(捕虜に対して与えた側としてのトラウマ)   人間には連想するということがあって、日本を連想させるものは見たくもないという人たちがいるわけで、トラウマを癒す一つの方法として、語ることで自分の中から取り出して、晒すことでセラピーに繋がるというやり方がありますが、私と話すことによってトラウマが癒えていった人々が一定数いることを感じました。  判ってもらうという事がトラウマを癒してゆく過程のものだと思います。  重い荷物を預けることによって、身体が、気持ちがが軽くなる。  

私としては、オーラルヒストリーでこれまで聞き留めて来た

ものを、皆さんとシェアできる形にすること、日本人が何を責められているかを知り、話し合ってどういう風な態度をとるのか、日本の代表が捕虜たちおよび家族に対して言葉を発する、そういうプロセスを経てからでないと本当に許されてはいけないのではないかと思います。  本にまとめることが出来て、映像化もやりたいところです。   戦争体験者の記憶のかけらを集めておくことも大変大事だと思います。  


2022年12月10日土曜日

権代美重子(観光振興アドバイザー)   ・知恵と工夫と愛情がいっぱい 日本のお弁当文化(初回:2022/3/12)

権代美重子(観光振興アドバイザー)   ・知恵と工夫と愛情がいっぱい 日本のお弁当文化(初回:2022/3/12) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/03/blog-post_12.htmlをご覧ください。

菊池真理子(漫画家)          ・〔人権インタビュー〕 神様のいる家で愛なく育った

 菊池真理子(漫画家)       ・〔人権インタビュー〕  神様のいる家で愛なく育った

今年10月に出版した『「神様」のいる家で育ちました 〜宗教2世な私たち〜』というノンフィクション漫画が話題となりました。  宗教2世という言葉、特にこの半年多く耳にしてきたのではないかと思いますが、菊池さんも母親が特定の宗教を信仰していて、自身もそれを信じる様親から求められてきた一人です。  漫画では菊池さんと同じように親の影響を受けながら育ったさまざまな宗教の2世達が描かれました。  宗教を信じることそのものは自由で尊重されるべきことである一方で、信仰を持つ親の元でその価値観に違和感を覚えて苦悩する子供もいます。  こうした問題を菊池さんはどう見つめているのか、又作品ににどのような思いを込めたのか、伺いました。

「神様」のいる家で育ちました 〜宗教2世な私たち〜』というノンフィクション漫画をどうして書こうと思ったかというと、自分でカウンセリングを受けて、自分の生きづらさの中に宗教的なものが入っているんだと気づいたのが一番最初のきっかけで、そこから自分は宗教2世だという自覚が生まれました。   それを友達に話したら、他にもいるよと、何人かと会って、そのうちの一人がイベントスペースをやっている方で、宗教2世のイベントをやりました。   出版社の方が見ていて、「これを漫画にしませんか。」と言われて書き始めたのがスタートです。   注意したことは、完全の子供の味方で書こうと思いました。   親の意見、教団の意見はあえて書かなかったです。  この場面は無表情とか、当人に顔の表情とかはチェックしてもらいました。  体罰のシーンがありますが、母親が子供に体罰をする場面で、自分では激しい表情を描いたのですが、そうではなくて

それぞれの宗教の教えによる差異があるが、宗教2世として持っている生きづらさは凄く共通点があるなと感じたので、いろいろな人の話を聞こうと思って、いろいろな宗教を取り入れることにしました。  共通点は圧倒的に自分で選べなかった、という事です。    生まれた時から生き方を親に決めていたことに対して苦しむ人が多かった。  宗教から離れても世間からも浮いてしまっていた。  狭間で苦しんでいる人が凄く多くて、というのが共通点として多くあります。   宗教を獲得するにしても自分で決めたかった。  

両親と妹がいましたが、母だけが宗教を信仰していて、私と妹を一緒に連れて宗教活動をするというような家のなかでした。   早朝3,4時に起きて宗教団体が発行する新聞を配っていました。   学校から戻ってきた時には宗教の行事で家には居なかったです。  夕方ご飯を作って、夕食後に又宗教活動に出てゆくという状態でした。  私と妹は、毎日ではないが、子供だけで夜を過ごす時間が長かったです。 妹と漫画を描いていました。  母に連れていかれる時には宗教の団体でわさわさとしたところに連れていかれました。   

今思えば普通に家にいて欲しかったし、話を聞いて欲しかったです。   良いことをすると信仰のお陰だと言われて、悪いことが起きるともうちょっとお経を上げなさいと言われてしまうし、宗教と絡まない話をしたかったです。   学校では宗教のことをあえて話す事はなかったです。     小学校高学年から何となく違和感を感じるようになりました。 教団との人間関係がうまくいかなくなったのか、母が毎日泣くようになりました。     そうすると自分でもストレスを感じるようになってしまいました。   宗教活動では凄く時間を取られていました。  信者も獲得しなければいけないので、いろいろなところに布教活動に行ったりして大変そうでした。  

母は交友関係は広かったが、本当に自分の心の底を話す人はいなかったんじゃないかと思っています。  今時点では、母と友達に成れるかどうかわからないがなりたいと思います。 母の死後は、宗教にすがろうとかは全く思わなかったです。   教えは全然抜けなかったが、教えは悪い事ではなかったので抜いたほうがいいとも思わなかったです。  怒ってはいけないという事がありましたが、理不尽なことがあると怒りは湧くわけですが、怒ると自分が悪いという事で自分を罰していましたが、それによって精神が不安定になり、カウンセラーに相談したら、怒りは感じていいんですよと言われて、感じてはいけないと言われていたので凄く吃驚しました。  宗教とは縁を切っていても、教えられたことはおかしいとは思っていなかった。  言われている言葉はそんなに悪い事ではなかった。  切り替えられてはいなかった。  生まれた時からいい人間に成るように言われ続けてきて、良い人間でいられない自分が零点です。 百点に成れなかったから零点になってしまう。  他人に話すという事はなかったです。

カウンセラーのハードルが高かったのですが、これ以上は自分でも危険かなと思ってカウンセラーに行きました。  しゃべれた瞬間に即泣きました。  終わった瞬間に解決できるかもしれないと予感のようなものがありました。   

漫画のシーンで、自分は信仰しないけど友達でいることはできると思うので、漫画の彼は一緒に「お清め」はしないけど、やりたいならやればみたいな、でも友達だよとずーっといてくれた人は本当にありがたいと思って、みんなにああいうお友達がいてくれたらいいなと思います。  世間が冷たく怖いほど、より宗教にしかいないような人が増えてしまうのではないかと思います。   宗教2世がすべて苦しんでいますと言いたいわけではなくて、それを子供に強要するという事はちょっと考え直してほしいと思います。   自分が自分の生き方を選択してゆく権利があると思うので、それを人生の初期から奪ってしまうのは違うかなと思います。  

元安倍首相の銃撃事件、宗教2世がこういうことをやって、危ない人たちなんだと思われたらどうしようという恐怖心が一番最初でした。  時間が経つにつれて、いろんなことが明るみに出てくる中で、宗教2世への目というのが冷たいんじゃないかと思っていたのが、実はそうでもなくて、同情というか、関心を持ってくれて、事件は最悪でしたが、宗教2世への眼差しは温かいなあと感じます。  宗教2世に関しては、子供の人権問題だと思っていて、自分で自分の人生を生きる権利が侵害されることが一番問題だと思います。   気づいて自分で何とかしていきたいという子たちの支援が足りないことが現実的な問題だと思います。  

宗教2世だと言った時に、「ああ、そうなんだ。」と言って仲良くして欲しいだけなんです。  離れておこうという風にならないでほしいだけです。   旧統一教会のようなひどい宗教でなくても、親と一緒に旅行するといつも宗教施設だったとか、それがすごくつらかったが言えなかったというんです。   それを言語化するのは凄く難しいが、漫画でそれが描けていたならば、凄く嬉しいですが。   今一番伝えたいことは、もう一回宗教2世に自分の人生を選ぶ機会をください、ということです。  ちゃんと見てくれる親が欲しかったです。   宗教2世達が被害防止に向けた啓発活動を行う当事者団体宗教2世問題ネットワークを立ち上げました。  同じように苦しむ人たちに参加を求めると同時に、被害防止、法整備に向けた啓発活動を行ってゆくという事です。


2022年12月8日木曜日

辻本一英(阿波木偶箱まわし保存会 顧問)・〔人権インタビュー〕 消えかけた人形文化は私たちの誇り

 辻本一英(阿波木偶箱まわし保存会 顧問)・〔人権インタビュー〕  消えかけた人形文化は私たちの誇り

1922年の3月3日の水平社宣言から100年、今年の3月3日徳島市に「人形の村」という施設が開館しました。  徳島県には阿波人形浄瑠璃をはじめ多くの人形文化が根付いています。  この施設に飾られているのが、木偶と呼ばれる木彫りの人形です。   徳島の伝統芸能阿波木偶箱回しに使われます。  その中には三番叟回しや恵比寿回しなど様々な形があって、人々に有難いものとして受け止められてきました。   その人形文化は被差別部落で受け継がれはぐぐまれてきたもので、その地域では人形を操る芸人は差別の対象にもなったと言います。 こうした人形の芸能の中には一度消えかけたものもあります。   この人形を集め人形文化を保存しようと取り組むのが辻本一英さんです。  被差別部落の出身者です。    高校での教員生活の後、阿波木偶箱まわしの研究をはじめ、全国で公演を行い人権同和教育を行ってきました。   何故阿波木偶箱まわしが差別の象徴になったのか、何故それを保存するのか、差別と闘って来た辻本さんに伺いました。

「人形の村」では350体ぐらいを常時展示しています。  全部で900体ぐらいはあります。   伝統的な正月習俗として定着していた、三番叟回しや恵比寿回しなど、実はこれは被差別部落の人たちがやっていました。  時代の流れと共に評価されずに、この人形たちが消えかけていました。   次の若い人たちにも伝承していってもらいたいと一体づつ集めてきました。  三番叟回しは二人一組になって行います。   一人が4体の人形、千歳、翁、三番叟、恵比寿を操り、もう一人が鼓を打ちます。   お正月に五穀豊穣、無病息災、商売繁盛などを祈って家々を回る徳島独自の伝統芸能です。  阿波木偶箱まわしは人々に有難いとされた半面、差別の対象であったとも言います。   

夏休みに自転車で3,4kmかけて友達と遊ぼうと思って行くと、おばあちゃんが出てきて八幡様の東か西か聞かれて、答えるとまだ午後2時ごろだというのに「帰りなさい。」と言うんです。  被差別部落の子だとわかるんです。   社会にそんな差別がることは知りませんでした。   そのおばあちゃんと母親が喧嘩していたのかなと思って言ったら、「そんなこと知らんでもええ。」と大声で怒鳴られました。   母親としては一番ショックを受けた瞬間だったと思います。  僕らの地域が差別を受けるのは感覚的にわかっていました。   整理がなかなか付きませんでした。   親も解決する手段、方法、アドバイスなどもできなかった時代でした。  

故郷を捨てて違う土地で自分は生き直そうというような思いで、東京の大学へと逃げていきました。  解放されるかと思ったら全く逆でした。  放送の中では言えないような言葉を電車の中で聞くんです。  自分の住所も当たり前に書けなかった。  そういった苦しみが4年間続きました。   間違った観念を吸い込んで人間は差別するんです。    人権問題を勉強してゆくと、自分を見つめ直すと判るんです。  自分のなかにも差別意識がある。  しかし勉強しないとそのことに気づけない。   事実を知る事、それを認める事、如何如何と思う姿勢が持てたら人生大分違ってくると思う。  

夏休みなどで帰ってくると、差別をなくそうと地域の人が頑張っていて、故郷を捨てた選択は間違いであったと確信しました。  教員試験を受けて現地で長く教員を続ける事になりました。  子供達は差別意識におびえていました。  向き合うための根拠となる教材が必要になって来ると思いました。   その教材とは事実を直視して、他と比較して、そのものが社会的にどんな役割を果たしていたのかという事を客観的に科学することだと思います。  

古物商のおっちゃんから「君の村にはなくては成らないものが出てきた。  これを君に売ってあげる。 お金は要らない。」と差し出されたのが、恵比寿様の人形でした。     その人形を見て4歳ぐらいの時の記憶が断片的によみがえってきました。  家に持ち帰ったら知らないとか否定されました。  負の遺産となるものを継がせたくないという思いだった。  研究していったら、それは五穀豊穣、無病息災、商売繁盛などを祈って家々を回る徳島独自の伝統芸能でした。   戦争によってその習慣が途切れたこと、後継者たる若者が高度成長期のもと都会に働きに出てしまい後継できなくなってきた。  伝統的な正月の迎え方も変わってきてしまった。   1970年の二人の心中事件がありました。  三番叟芸人の娘さんと別の男性の結婚が反対されて、心中してしまいました。  それが決定的でした。  もう自分の代で終わりだと神棚にしまい込みました。  清祓の力を持っている人たちだったが、死を選択してしまった。  

あるがままを伝えようとして、その結果として若者の胸を張らせられるという事になればと思います。   子供達への受け入れられ方は様々ですが、この芸能が何を果たしていたかという事(福を運ぶ)が自然とわかって来ます。  親たちも反対はしないです。  確実に一歩一歩進んでいます。  













2022年12月7日水曜日

山中しのぶ(若年性アルツハイマー型認知症患者)・〔人権インタビュー〕 家族で向き合う若年性認知症

 山中しのぶ(若年性アルツハイマー型認知症患者高齢者介護施設経営)・〔人権インタビュー〕  家族で向き合う若年性認知症

若い18歳から64歳の間に発症した認知症を若年性認知症と呼びます。  患者数はおよそ全国で3万6000人、1万人当たりおよそ5人が発症すると言われています。   高知県南国市の山中しのぶさん(45歳)はいまからおよそ4年前、41歳の時に若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。  当時シングルマザーとして3人の息子を育てていましたが、認知症の診断に絶望し子供たちを残して命を断とうと考えたこともあります。  周囲の人たちの支えで前向きに生きようと気持ちを切り替えた山中さんは、今年10月自身と同じ認知症患者や高齢者が働いて社会に居場所を作るデーサービス施設を開設しました。   

最初違和感を感じたのは40歳の時でした。  私がシングルマザーで長男が高校生、中学生の次男、小学生の三男と寮母をしていたので5名、合計8名で暮らしていました。  携帯ショップの営業で働いていました。   子供を学校に行かせるのに時間が早かったり、スケジュールの段取りが狂っているのに気付いておかしなと思いました。   月一回の朝のミーティングが8時からでしたが、全くわからなかったです。(遅刻してしまった。)    好きなもの(マヨネーズとか)をいつの間にかたくさん買ってしまう。  

おかしいと思って近くの脳神経外科に行きました。  鬱で認知症である境界線だと言われました。  1年後に違う病院に行ったら若年性アルツハイマー型認知症と言われました。 診断結果を伝える時には親と一緒に来てくれと言われて母親と行きましたが、母が「ごめん、こんな身体に産んでしまって。」と言って泣き崩れました。  今の医療では完治する,直すことが出来ませんと医師からは言われました。   工夫することで今までと変わらず生活することはできるという希望を教えてくれました。  長男、次男には伝えましたが、三男には中学生になってから伝えました。   

ネットで検索すると重度の情報しかなくて、怖くなり、絶望的になりました。  迷惑をかけるなら死んでしまった方がましだと思ったりしました。   仕事は休んだり出勤したりしていました。  休むときにはずーっと布団の中でふさぎ込んで、そうすると体調も悪くなりました。   心理的におかしくなっていたようで、虫と話をしていたとか、ぼーっとしていたとか息子から言われました。    長男が大学が受かりましたが、学費をどうやって払えばいいのかとかいろいろ考えました。   大学に行くために長男は家を出て、次男は学校に行くために家を出ていましたが、転校して家に戻ってくれました。   鬱がひどくて家事(食事、洗濯など)もままならない状況でした。   次男はヤングケアラーの状況でした。  担任の先生が生活に対して助けてくれました。   途中で次男は野球部も辞めて支えてくれました。   外出時も手を握って一緒に歩いてくれたりしてくれました。 

仕事にも疲れて転職しようと思って、或る高齢者施設に見学に行きました。  介護、支援とはかけ離れた現場でした。  私はまだ認知症と診断される前でした。   おばあちゃんが椅子に座っていた時に、スタッフの人がスリッパでおばあちゃんの頭を叩いたんです。このおばあちゃんは認知症の中期なので判らん、というんです。   トイレに外からの鍵があり、夜中に暴れたり寝なかったりしたら、そこに閉じ込めるという事でした。  

検索すると、39歳で若年性アルツハイマー型認知症になった、車のトップセールスマンの丹野さんの人のことが出て来ました。   連絡を取ったら、これは負けて居られないと思いました。 丹野さんが講演する事になっていたが、体調を崩してこれなくなって、その文章を代読させてもらいました。  最後に私も同じ病気ですと、皆さんの前でお伝えしました。  そこからいろ色な部署(行政とか)の人と話を聞いていただけるようになりました。  自分が元気で明るく前向きに過ごしている姿を見せることで変ってゆくのかなと思います。   

4年経って、高齢者向けのデーサービス施設、古民家を改装した施設を立ち上げました。  今までのような決められたデーサービスはしないです。  車の洗車、薬品会社の清掃、ミカン狩り、マンションの清掃などです。  働いた分を対価としていただくというシステムです。  農業も考えています。   メンバーの方は好きな仕事を選べます。  私は営業が得意なのでいろいろなところに契約をしに行っています。  自分自身体調も良くなりました。  記憶力も良くなっているような気もします。   ここまで立ち直れるようになった一番は家族のお陰ですね。    高齢者向けのデーサービス施設では4人の高齢者の方が得意なことを通して対価を得ようと取り組んでいます。



 

2022年12月6日火曜日

りゅうふみえ(虐待経験者自助グループ代表)・〔人権インタビュー〕 虐待の後遺症から踏み出す"半歩"

 りゅうふみえ(虐待経験者自助グループ代表)・〔人権インタビュー〕  虐待の後遺症から踏み出す"半歩"

虐待サバイバーには辛い記憶が突然鮮明によみがえるフラッシュバックや感情をコントルールすることが難しくなるなど、様々な後遺症が大人になってからもたらされることが判っています。  日常や社会生活に支障をきたす人も少なくありません。  佐賀県に住むりゅうふみえさん(53歳)仮名も父親による暴力を受け、数十年間虐待の後遺症に苦しんできました。  そうした中7年前自分や同じ境遇の人を救いたいと、佐賀県内で初めてとなる自助グループ「しょうりゅうのつどい」を立ち上げました。   症状に苦しみながらも立ち上げることが出来た背景には、踏み切った一歩、そして支える人との出会いがありました。  

2015年に虐待経験者のために自助グループ「しょうりゅうのつどい」を立ち上げました。  子供のころに虐待を受けた大人のかたがたが自分の体験談をお話しする場として作りました。 話すことで心を癒してゆくような会です。   私は小学校のころからずーと死にたいと思ってきました。   周りを信用できなくなって大人になってからがもっと大きくなりました。 過換気症候群(精神的な不安や緊張などを感じているときに、自分の意思とは無関係に呼吸回数が通常よりも多くなってしまう状態)、自律神経失調症、鬱、心身症、広場恐怖症(強い不安に襲われたときにすぐに逃げられない、または助けが得られそうにない状況や場所にいることに恐怖や不安を抱く状態)、不安性障害などが出て来ました。  子供のころに虐待を受けてそういう症状が出てるという事を知っていただきたいと思ったからです。  

最初に虐待を受けたのは4歳です。  1歳半の妹がいて、三輪車に乗っていたら、妹が乗りたいと言ってワンワン泣き始めました。  父が妹を泣かすなと言って、思い切り頭を叩いて頭がジーンとしてそれが始まりでした。  父は職人でしたが、弟も生まれて、給料が低いので生活が出来ないという事で転職(土木関係の力仕事)しました。   それから父の性格がごろっと変わりました。  ストレスの発散が私に来て、頭を叩かれたり下半身を蹴られたりしました。  酒を飲んで理性が利かないなか、下半身のほとんどの部分を思い切り蹴られました。(ほぼ毎日 幼稚園から小学生のころ)   中学2,3年のころ、足がボキッいったんです。   くのじに曲がった状態で膝がパンパンに腫れていて、翌日病院に行った時に、膝に注射されて、膝に水が溜まっていて黄色い水が出て来ました。  父から蹴られてとはいえなくて、跳び箱で怪我をしたと嘘をつきました。  

母は止めはしなかったです。 父の攻撃が終わった後でも母は来てくれなかったです。  本当は母親に抱きしめてもらいたかったが、そういう事は一切なかった。   祖母が止めてくれたが、祖母が来た時だけはなかったです。   憎まれていると思って生まれてこなければいいと思っていました。    本当の両親はほかにいて仮の両親のもとにいて、そのうち迎えに来てくれると、そのように頭のなかで切り替えて生きてきました。     5,6歳のころ性的虐待もありました。   中学では家の仕事をやるために部活にも入れさせてもらえませんでした。   家がまずしいので中学3年生の時には高校にはいかずに就職しようと思っていました。   しかし先生から高校に行くように言われて、夜一生懸命勉強している時に「高校受かるか?」と父が聞いてきて、受かるかどうかわからなかったので「わからない。」と言ったら、頭に衝撃を受けました。  それから頭にずーっと叩かれ続けました。  最初のころは頭がジーンとしていましたが、叩かれているうちに頭が気持よくなって来ました。   このまま命を落とすのではないかと思いました。  机のところに崩れてしまいました。   でも父が「勉強せんか。」と言って怒鳴り、勉強どころではなかったが、教科書をめくるような音はずーとさせていました。  午前3,4時ごろこのまま朝が迎えられないかもしれないと思いながら横になりました。  朝7時に母が起こしに来て、生きていると思ったが、身体が動きませんでした。  それ以降の記憶がないんです、 何日学校を休んだとか。  次に記憶があるのは遺書を書いて死のうと思った時です。  でも死ぬことはできませんでした。  その出来事が一番つらい事でした。

高校には受かることが出来まして、友達が出来ましたが、なんか違和感がありました。  本を読んでその世界に入り込んで、現実を忘れられていたという事もありましたが、どうして耐えられて来たのか判らないです。   就職しても帰りが遅いと会社に電話をかけてきて早く帰るようにとか、会社はもう辞めろとか、圧力をかけてきました。  子供のころのような暴力はなくなりました。   父の支配下にあり家を出るという事は出来ませんでした。(母が病気になったという事もあり)   仕事は玩具の店を任されるようになりましたが、笑えなくなっていました。  作り笑いをしながら、心の穴がどんどん大きくなっていきました。 

28歳の時に婚約者がいましたが、急にフラッシュバックして、父が犯そうとした場面が見えて、心臓がの動悸が収まらなくて、過呼吸の前兆とは知りませんでした。  30代になると過呼吸が出てきて、30代後半になると歩くだけで身体がしびれ始めました。   それが虐待によるものだとわかったのが40代でした。   家でも過呼吸が起きていて、父が怒鳴った時によく起きていました。  理性が飛んで、包丁を持って父を殺しに行こうとしたときに、母が止めました。  精神科に通っていましたが、この件を話すとこれらの症状は子供のころの虐待が原因だと言われました。   

父への感情は憎しみしかなかったです。  鬱にもなりましたが、鬱になる前は体重が60kgありましたが、鬱になって体重が39kgまで落ちて、食べ物の味が全然わからなくなりました。  会社からも、同僚からもいろいろ責められました。  そんななかで生きて行きたくないと思いました。  今とは人格も違っていて、カッと来てものに当たったりしていました。  或る時会社の同僚から何か言われて、プツンと切れて、死んでやると思って会社の近くの線路に向かったが、同僚から引き戻されて、力いっぱい抱きしめられて、人の温かさを初めて判りました。   「死んだら駄目よ。」と言われました。   その人がその職場にいなたっから私は死んでいました。 40年間辛い長い時間だったと思います。   よく生きてこれたと思います。 

会社でも過呼吸が頻繁にあって、首か、長期の休みかと、社長から言われて、その時に出会った本の中で、自助グループのことを知りました。 しかし佐賀にはありませんでした。  ない様であれば死のうかなと思いました。   最後の最後に再度電話したところで「よかったら立ち上げて見ませんか?」と言われました。   「え 私が」という事で頭が切り替わって、死のことはどこかに行ってしまいました。   産業医の方に自助グループのことを話したら、「そんな身体で出来るわけがない。」と言われてしまいましたが、「自分の娘だったらやってみなさい。 というけどね。」とおっしゃいました。   後日「立ち上げます。」と返事をしました。   子供のころに虐待を受けた大人の方の自助グループを作りたいと説明して、自分の虐待の体験を書いたノートを見せ、やっと立ち上げることが出来ました。 

どん底に落ちた人があとは昇るだけという事で「しょうりゅうのつどい」という名前を付けました。  自分を救いたいと同時に他人も救えたらなという思いです。   1、2年経ってから段々と人が入って来ました。  同じような境遇の人に会えて正直嬉しかったです。   気を付けていることは話の途中で話の腰を折らないように黙って聞いています。  参加した人はまず「ありがとう」、「ここで話せてよかった。」と言ってくれます。    他人の温もりって、本当にありがたいですね。  「しょうりゅうのつどい」という活動を通して、段々自分が変わっていきました。  笑えなかったのに、今は本当に笑えます。   自分のこれからの人生は、苦しんでいる人達、辛い人達の助けになりたい、光になりたいと思っています。  今は生きていることが幸せだと感じています。  、苦しんでいる人達、辛い人達も「一歩一歩 半歩半歩」 光の方に向かって生きて行ってほしいなと思います。

   



 

2022年12月5日月曜日

結城亜輝菜(トランスジェンダー女性)  ・〔人権インタビュー〕 いつまでも自分らしく生きたい

 結城亜輝菜(トランスジェンダー女性)  ・〔人権インタビュー〕  いつまでも自分らしく生きたい

レズビアンやゲイ、トランスジェンダーといった性的マイノリティーを表す総称LGBTQ、近年地方都市でも当事者によるパレードが開催されるなど理解が深まりつつあります。   71歳の 結城亜輝菜さんは山形県出身、生まれた時の性別は男性でしたが、中学生の頃に自らの性自認に違和感を感じました。  中学卒業後に上京、男性として就職しますが、その後東京のキャバレーでホステスになります。  そして20代のころ海外で性別適合手術を受けました。  女性として地元の山形県に戻り、旅館や介護の仕事を経験した後、今年4月山形県新庄市にスナックをオープンさせました。  性に関する情報もない周囲に同じような悩みを抱えている人とも中々出会えない、そういう環境で育った結城さんがどのように自分が自分らしく生きてきたのか、そして70歳を越えた今何を思うのか、伺いました。

結城三郎という名前でしたが、子供心に物凄く嫌でした。  ままごと、着せ替え人形とかの遊びはよくやりました。   物心ついた時には父親はいなくて母親に育てられました。   小学校2年生で母親が肺結核にかかって、5年生で母親が退院してきました。  中学2年の時に先生から「結城お前は男なんだから男らしくしなければ駄目だ。」とみんなの前で言われました。  「男らしくという事はどういうことですか。?」と聞いたら先生も判らなかった。   女性らしい仕草が自然と出て来ていました。   男のままで生きてゆくことは自分にはしんどい事だと思いました。   母親には相談できませんでした。  

母親に楽をさせたいと思って東京に上京して京成電鉄に入りました。   18歳で辞めて赤坂のキャバレーでホステスとして働き始めました。   女としていられるのかなあと思うと楽しかったです。  3か月して男であることをばらしましたが、あっさりと認めてくれました。   そこで情報共有できる仲間が出来ました。  ホルモン注射をして段々女性っぽい身体になって行きました。   女性になるための手術をしました。  母親には話しました。  母親は昭和55年に亡くなってしまいました。   手術を終えてやっとこれから自分の思い通りに生きられると思いました。   

7人でメンバー組んで踊りをやっていたので、キャバレーでショーをやるために全国を回りました。  そのころから自分らしく生きようという考えが芽生えていきました。     平成7年の時にお酒が原因で4か月ほど入院して、アルコールは絶対にダメだと言われました。  平成9年の時に田舎に休養に帰りました。  同級生から旅館の仕事の手伝いをしてほしいと言われて、店をたたんで秋に帰って来ました。  自分のことをオープンにしていれば大丈夫だと、受け入れてくれると思いました。   57歳からは大堀温泉の女将となりました。   

コロナ禍で退職しようと思ったら、介護事業もやっていたので、介護施設に職員として働きに行きました。  今後、性的マイノリティーの人たちが介護される立ち場になった時に、どう受け入れてくれるのか、どう扱ってくれるのか心配なところは有ります。(隠している人もいると思うので)   

今年4月にスナックを開業しました。   お客さんと話ができる事が楽しいからやっています。   動ける間はやっていたいです。   いつまでたっても自分という個性を活かせていければ幸せだと思います。   堂々と胸を張って生きてゆくことだと思います。