2021年12月2日木曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・オーレリアンの丘から四季だより~秋

 今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・オーレリアンの丘から四季だより~秋

今森さんは滋賀県大津市琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構えて里山環境を取り戻すために活動しています。  

カマキリは種類によって割と高いところ、木の上に住んでいるカマキリもいます。   樹上性カマキリと草地にいるカマキリがいますが、それも種類があります。   マンションの3階にいるという事は花に集まって来る昆虫を狙って待機していたものと思います。    晩秋になって来るとすべてのカマキリが卵を産み終わります。    一つの塊のな中で越冬します。   母虫はおおくは茎に卵を産み付けます。  セイタカアワダチソウは2mぐらいになって茎が硬くなりそういったところに卵を産みます。    草刈りをすると倒してしまうので卵を捜しながら気を付けて草刈りをします。    

稲刈りをする頃に木が色づき始めて、ピークになるのが 11月中、下旬ぐらいです。  そのころが一番美しいです。 木ごとに色が違うので木の種類の多さを感じます。   蝶を多く住まわせたいという思いがあるので、蝶の食層であるかが結構大きいです。   雑木の環境にふさわしい植物を植えて行ったりしています。   冬は越冬しているので不用意には触らないです。  晩秋の時期は大事で生き物の締め括りの時期です。   オーレリアンの隣で里山を再生している一般社団法人の「めいすいの里山」と連携して5,6年活動してています。  凄く荒れている土地でした。   雑木林が多くて針葉樹林を伐採して広葉樹の幼木を手で植えています。    今年で3年目ですが、順調に育っています。   「おじいさんは山へ芝刈りに」とありますが、木の枝の伐採に行っていたんです。   「三分紅葉」という言葉があり紅葉が三分進んだら雑木を切りなさいという意味です。   それぐらい仕事をしないと雪が降って来るんです。   

「めいすいの里山」に鳥の種類が増えてきました。   猛禽類が増えています。  ノスリチョウゲンボウ 、フクロウなどいろいろです。    鳥が実を食べたらどこかへ飛んで行ってフンをして種が芽生えるという効果があります。   里山作りを目指している人間にとっては相棒が増えたような感じです。    秋の米の収穫というのは大きいですね。   稲を干す作業がありしばらくすると来年に先駆けて土の中に空気を入れるために田起こしが始まります。   「めいすいの里山」の山の上には開けたところができ、琵琶湖と棚田が見下ろせて綺麗です。   その地面にヨタカが巣をつくり(地面にくぼみがあるだけ)巣立ちしました。   

2006年「やまおやじ」という写真絵本を出版。  やまおやじはクヌギの古木のことです。樹齢は数十年ぐらいですが、背丈ぐらいのところで切れていていびつな形をしています。 *「やまおやじ」の内容の一部朗読。 

「人が入って手を入れているからこそ、豊かに保たれている。」それが雑木林なんですね。やまおやじが人の営みを語ってくれている。  

「クヌギがいる」という絵本を今年出版。 文のみ担当して、絵は画家の城芽ハヤトさん。*「クヌギがいる」の内容の一部朗読。

絵を描く人の感性と僕の感性がミックスするところがよかったと思います。        クヌギの古木は枯れてゆくが、そこは土が肥えてカブトムシの幼虫がいて、又新しい芽が生えてきていて、命が確実に受け継がれてゆく。   

 

2021年12月1日水曜日

野村万蔵(能楽師狂言方和泉流)     ・伝統芸能を受け継ぎ半世紀、新たな挑戦

野村万蔵(能楽師狂言方和泉流)     ・伝統芸能を受け継ぎ半世紀、新たな挑戦 

野村萬七世野村万蔵)の次男として東京都に生まれ,4歳で初舞台を踏みました。   2005年、兄の急逝のため39歳で野村万蔵を襲名、一門の組織 よろず狂言を率いて国内外で活動を展開、現代演劇やNHKの大河ドラマに出演するなど活躍の場を広げてきました。    又流派を越えた能楽の若手研鑽の場「立合狂言会」を発足させ、能楽の普及発展にも力を入れています。      初舞台から半世紀、思いがけなく兄の後を引き継ぎ夢中で駆け抜けてきたという万蔵さん、この12月23日自身の誕生日に新たな一歩への思いを込めて「万蔵の会第一回」公演を行います。   

「泣尼」で面を付けて老婆を演じる。 狂言では太郎冠者が有名で、狂言でも面を付けてやる事があります。   「泣尼」はあまりやらない演目で3,4度やりました。  56歳になりますが、ガタが来ました。  ジムには週一で通っています。   万蔵を継ぎまして、家全体のことを考えて切り盛りする毎日です。  去年の10月半ばに胃がんの初期ですが、摘出手術をして大分体が弱って痩せてきました。   1年ずらして「万蔵の会第一回」公演を行います。   兄が癌で44歳で亡くなり、母も胃がんで亡くなりました。  

初舞台は4歳でした。   舞台から落ちてしまいましたが、お客さんが舞台の上に乗せてくれて続けました。   父親は厳しいです。  ほかの道に進もうとは思いませんでした。   いい色に染められていて抜け出せないような感じでした。   兄が急逝したため全部ひっくるめてやっているので、頑張ってやっています。   家の方のことも万蔵という名前も自信もって名乗りながら舞台活動をしてゆくのにも10年ぐらいかかりました。   

今までやってきたこと、家なり自分が伝統をやってきたことばかりずーっとやっていると、凝り固まって来ると思って、人さまとの出会いでちょっと違うところのジャンルとやったり、新作を作ってみたりして、段々経験値を重ねて、チャレンジしてきました。   ドラマにも出たことがありますが、これも御縁ですね。    兄は破壊するパワーがありました。  自分が家を継いで、狂言を大事にしたいという事は根底にあるくせに、真反対をやるとか、改革するとか、ちょっと変わった兄でした。    兄が違うジャンルのものばっかりやっているものですから、本業の方がおろそかになってくる。   そうなると父親と共に正当なことをやって行くという事になりました。   兄は45とか50歳の節目で狂言をしっかりやって行こうと思っていたんだと思います。  兄は45歳で万蔵を継ぐ予定でした。    身体が弱ってきて二人だけになった時に、私にははっきりとは言いませんでしたが、「後を頼むぞ」と、それに「正当な事ばっかりやっていても今の時代は駄目だから、もっと新しいことにチャレンジしていかなきゃ駄目だぞ。」と言われました。

それからお笑いタレントの方たちと狂言を作ったりとかもずーっとやっています。  海外にも行っています。   母の教えの言葉の一つに、「中庸を得る。」という事をずーっと言われていました。    バランスを取りながらやっているイメージです。    家は加賀前田藩のおかかえの能狂言方の胴元役みたいな家で2022年は初世の万蔵が生まれて300年という記念の年で、来年は300年を記念した祖先祭というものを東京で予定しています。   

「万蔵の会第一回」公演という自分で自分の会を考えた時に、初めて主役をやった「痺 (しびり」という子供の狂言で父親とやって、これを50年経って、92歳の父親と56歳の私がこの狂言の出発点となった痺 (しびりやってみようと思いました。   稽古無しでぶっつけ本番でやろうと思っています。  我々和泉流にしかない大事な曲がありまして、巨勢 金岡(こせ の かなおか)という宮廷画家が高貴な女性に惚れてしまって、妻も私だって化粧をすればそのぐらいにはなると言って顔にペインティングをするわけです。  それと「彦一ばなし」などをやります。  誕生日に決めたのは母親に頑張っているよというような思いもあります。   今よりも将来のモチベーションがとても大事だなと思っています。   繋がってゆく、繋げてゆく、繋げてくれる意志のあるもの、それが見えている、そういうものと共に生きてゆく、それが私の今のモチベーション、幸せですね。  




2021年11月30日火曜日

飯田絵美(スポーツライター)      ・【わが心の人】野村克也

 飯田絵美(スポーツライター)      ・【わが心の人】野村克也

野村さんは1935年(昭和10年)生まれ、プロ野球選手として、コーチ、監督として、野球評論家、解説者としても活躍しました。  2020年2月11日亡くなりました。(84歳) お話はジャーナリストの飯田絵美さんです。   飯田さんは新聞記者として野村さんを取材したのがきっかけで親しくなり、野村さんが亡くなるまで23年余り親交を深めてきました。

スポーツが好きで、高校生の頃スポーツ記者になりたいと思って、新聞記者になりました。  野村さんがヤクルトの監督の時に出会って、以来23年間以上交流を続けてきました。    現在、キャリア―カウンセラーをしています。   このきっかけになったのも野村さんの御陰だと思っています。   2020年新聞社を退職、東京オリンピック、パラリンピックでベニューメディアマネージャーという仕事を経験しました。   

ヤクルトの番記者になりました。  年間を通じてずーっと担当チームと一緒に行動し取材をする役割です。    最初の1年間は挨拶をしても監督から口をきいてもらえませんでした。    女性は一人だけだったし、どうせ野球の深い話はできないだろうと息子にぼやいていたそうです。   1997年ヤクルトがリーグ優勝する直前、ベンチ前に報道陣が野村監督の前に押し寄せていました。  一番遠くにひっそりとしていましたが、目ざとく見つけられてしまいました。   「お前なんでそこに座ってるんや。 お前みたいなぶすがよう俺の前に座るなんていい度胸や  立ち去れ」と言われたことがあります。  おどけた振りでゆっくり立ち去ろうと、それがせめてものプライドというか、周りに同情されているのをひしひしと感じながら帰るのがつらかったです。  家に帰って泣きました。   野村さんは人を試す言葉を言ったり、あえてその人を無視したりすると聞きました。   それに対してどういう対応をとるのか、お前も試されたのではないかと言われましたが、当時27歳で物凄く傷つきました。   

番記者2年目、アメリカのユマでヤクルトの春のキャンプをやっていました。   私は連載記事を書き始めました。   たまたま野村監督と夜9時ごろに二人だけになる機会がありました。  「こんばんわ」と言って走って立ち去ろうとしたら、監督が連載記事について話しかけてきました。   どうして私の書いた記事だとわかったのかと思ったら、「あれを読むとな、あったかい気持ちになる。  女の持つ母性や。 あれはお前にしか書けん。」と言って自分の母親の話を涙ながらに15分以上話をしてくださいました。     それをきっかけに私を無視することがなくなりました。    

タイトルが遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』という本を野村監督の誕生日6月29日に出版しました。   監督と一緒に本を出そうと約束していました。   テーマは「人生の後半生をどう生きるか。」でした。    「誰もがプロ野球界で成功するわけでも無し、引退してから本当の人生が始まるんだぞ。」という事を聞いてから、野球選手だけではなく、ビジネスマン、主婦でもつぎにどこにむかうのか、どう生きて行こうかと立ち止まる瞬間は誰にでもあると思いました。  励ましを与えられるような、一歩踏み出せられるような勇気が得られるような本を出そうと二人で決めていました。   そんな時に野村さんが亡くなってしまって、物凄くショックでした。    30代で父を亡くした私にとって親しみのある存在でした。     私自身も会社を辞めてコロナ禍でもあるし、自宅に引きこもって何度も泣いていました。   教え子である元選手とか、周りの記者などから野村さんが最後に何を考えていたのか、知りたい、それを読みたい、野村家の方からも父の言葉を残してほしいとの話がありましたが、躊躇していました。   番記者仲間から「野村さんとの約束守れよ」と言われて背中を押されました。    野村さんの言葉に「使命感とは命を使うことだ。」というものがありますが、この言葉を自分に言い聞かせて、1年かけて書き上げました。   

内容は沙知代さんの死、から始まります。   2017年12月に沙知代さんが突然亡くなった時を境に本当に変わりました。  自分の死も覚悟したと思います。  すっかり元気がなくなってしまって、日常生活でも車椅子になってしまうぐらい足腰も弱くなってしまいました。   沙知代さんは野村さんにとって生活の中心でした。   沙知代さんは世間を騒がす出来事がいろいろあり、息子さんたちからは離婚してもいいよと言われたそうです。   一瞬考えたそうですが、「今別れたら彼女はどうやって生きてゆくのか、こんな時だからお母さんを支えよう」と言ったそうです。    野球以外の分野で様々な人の話を聞いたり、本を読むようになったきっかけは沙知代さんのお陰なんです。  「沙知代がいなかったら名監督と言われるようにはならなかった」と感謝していました。  沙知代さんは女性が監督に近づくことは極端に嫌がっていたので、私も大変でした。  

ファッションについては、明るくて華やかな色が好きでした。    「60歳を過ぎて地味な服を着ていたら、地味な仕事しかできない。 華やかは自信の表れ、自分自身を大切に扱っている証」という持論を持っていました。  アクセサリー、指輪も素敵なものを付けています。   私が30歳になった時に、指輪とピアスを監督から頂きました。   

私にとって監督は人情があって温かくて、厳しくて、茶目っ気がある、年齢で限界を作らない、人に対して結果を急がない、そう言う人でした。  テスト生として入団して大変な野球人生を送ってきたので、経験に裏打ちされた言葉、たくさんの人から聞いた言葉、たくさんの本からの知識から、野村語録、名言が生まれたんだと思います。  スポーツ界で野村さんほど著書が多い人はいないと思います。   幅広い年齢層の方、状況によって野村さんの言葉は何が響くか変わって来るのかもしれません。    

①年齢で限界を作らない。   ②適齢適所。(人は年齢に応じて輝ける場所が見つけられると感銘受けました。 年齢を重ねるにつれ野村さんの意味、真意、深さが判るようになります。)  ③いい仕事は必ず誰かが見ていてくれる。      高津監督(ヤクルト)、矢野監督(阪神)、新庄監督(来季日本ハム)、稲葉監督(東京オリンピック)、皆さんみんな野村さんの教え子なんですね。  彼らは現役時代に野球理論だけではなく、野村さんの人生論をたっぷり聞いて育ったんです。  

野村さんにとって長嶋さん、王さんは永遠のライバルでした。   地味な月見草を自分に例える。   対極のヒマワリは沙知代さんが即答したそうです。  長嶋さん、王さんは太陽のもとで咲くヒマワリ、俺は人の見ていないところでひっそりと咲く月見草。    84歳で亡くなる10日前に息子の克則さんに「 東京オリンピックの監督 わしではだめなのか、なんでわしに要請せんのやろう。」といったそうです。   「日本は年齢に縛られ過ぎなんや。 どっかの球団から監督の声かからないかなあ。」とぼやいていたそうです。グラウンドに行って仕事がしたいと、高校野球の監督もしてみたいと言っていました。   私から見て野村さんのかっこよさは、泥臭く自分を必要としている人を必死で探して、自分がやりたい好きなことを野球のために最後まで泥臭く生きたところです。   

野村さんの母親ふみさんは看護師で、夫を戦争で亡くして女手一つでいろんな仕事をして二人の息子を育て上げました。  人のために役に立つこと、それが母親の背中を見て学んだ答えだったと思います。  貧乏だったので、母親を楽にさせたい、腹いっぱい食べさせてあげたいという思いが、名もない高校生がプロ野球に向かわせたという事でした。  母には何度感謝しても感謝しきれないと私に言っていました。  どう生きるかという人生のテーマに常にお母さんの存在があったんだと思います。  託された野村さんの言葉を活字とかメディアで伝えていきたいと思っています。







 




     

2021年11月29日月曜日

2021年11月28日日曜日

舘ひろし(俳優)            ・古希にして、新たな出発

 舘ひろし(俳優)            ・古希にして、新たな出発

1950年(昭和25年)愛知県生まれ、1976年に「暴力教室」で俳優デビュー、その後テレビドラマ「西部警察」の刑事役で人気となります。   「危ない刑事シリーズ」など多くの刑事役を演じる一方で、時代劇やコミカルな役にも挑戦し、幅広い役を演じる日本を代表する俳優として活躍しています。    今年1月所属していた石原プロモーションが解散、4月に舘プロを立ち上げました。   NHKのドラマでも新宿鮫シリーズの鮫島警部、2006年の大河ドラマ「功名が辻」では織田信長などを演じて来ましたが、今夜午後10時からBSプレミアムBS4Kで放送するプレミアムドラマ生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔で主演をします。  

食べ物では生ものは駄目で、コノワタ、イカの塩辛は全くダメです。   父が医者だったので、好きなものを食べればいい、嫌いなものは無理して食べるなと言っていました。   4月に舘プロを立ち上げました。   若い俳優も何人か引き受ける事になりました。   東映時代には俳優は俳優という事で食事など食べていましたが、石原プロに入ったら、裕次郎さんからスタッフまで同じ飯を食うというと言う事が素晴らしいと思いました。    「西部警察」の番組を撮っている途中で、小林専務から「うちに来ないか」と言われて、渡哲也さんに相談したら「この話は俺が預かった」と言って、石原裕次郎さん、渡哲也さんは小林専務が直接マネージメントをしていて、それ以外は芸能部が管理していたが、渡さんが交渉して小林専務の管理下にしていただきました。   最初に渡さんに会った時に私が行ったらもう来ていて、立ち上がって握手をしてくれて、その時の感動と、その後「西部警察」で半年渡さんに接して、スタッフに対する思いやり、俳優に対する言葉使いとか、そういうものがある人でした。    それで渡さんにどんどん心酔していきました。    

「パパとムスメの7日間」  仲が芳しくなかった父子が、ある事故が原因で父と娘の人格が入れ替わり、二人がこれまでになく報告・連絡・相談しながら互いの年代層の独特の社会の中で生活していくさまを描いたハートフルコメディ。    仕事のオファーを頂いた時には石原プロとしてはやめた方がいいと、リスキーな仕事でした。    当時オヤジは娘側から追いやられるような時代で、このドラマをやる事によって、親父は本当に娘のことを愛して考えているんだという事が伝わればいいかなと思いました。    高校生のマーケットは僕にとっては魅力的だと思いました。  この二つの理由でやるべきだと思いました。反響が凄かったです。   あの作品を勇気をもってやったおかげで今の僕があるかなあと思います。   

プレミアムドラマ生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔で主演をします。   保護司役ですが、保護司という事すら知りませんでした。   高校の国語教師から保護司に転身した男性が、保護司として仮出所中の人々との交流を深めることによって自分自身の人生や全人格をかけた闘いに挑む姿を描く。   保護司は元犯罪者に寄り添う立場ですが、そこには必ず被害者がいるわけで、サポートするだけでは被害者はどういう思いで見ているのか、被害者のこともどこかで感じながらやらなければいけない、そういうジレンマがありました。    小山結子(浅丘ルリ子)に振り回される深谷善輔が僕はやっていて気持ちがよかったです。    藤井監督はやっていて楽しい監督です。   

2018年上演「終わった人」  仕事一筋で定年を迎えた東大卒のエリート銀行マンの定年後の悲哀を描く。    これも勇気がいりましたが、やってよかったと思います。 モントリオールの国際映画祭で主演男優賞を貰いました。   

舘プロを立ち上げて、小さくてもいいからともしびを消さないで映画を作っていけたらなあと思います。   小さな映画でもエンターテイメント性のある映画はあると思います。  いろんなものに挑戦する勇気だけは持ちたいと思います。









2021年11月27日土曜日

竹下景子(俳優)            ・宮城の心を語りたい

竹下景子(俳優)            ・宮城の心を語りたい 

おかえりモネは、2021年度前期放送のNHK連続テレビ小説」第104作として、5月17日から10月29日まで放送されたテレビドラマ。  竹下さんが演じたモネの祖母永浦雅代はドラマの中では当初から亡くなっています。   震災で亡くなったのではなくその後病気で亡くなっています。   そして海の中の牡蠣に生まれ変わって、モネたちを見守る語りを担当します。   竹下さんにおかえりモネ』に込められた思いや、震災10年を過ぎた宮城県とのかかわりについて伺いました。

私が1次ロケに参加したのが9月の終盤のころで、2回目に気仙沼にいって撮影したのが10月でした。  あっという間の気がしますが。   連続テレビ小説に参加したのは5回目になります。   震災後10年の節目の年にこのおかえりモネ』が制作されるというのは意義深いことだと思います。    私自身がいろんなことを教わったなあ、気づかさせてもらったなあと思います。    おかえりモネ』の大きなテーマが「循環」でした。  水を通して海と山と空は一つにつながっているという事がわかります。  命のめぐりという事が一つありました。  もう一つは震災という大変大きな辛い出来事がありましたが、それを経験することで痛みを持っている人たち、当事者でない人たちは簡単に判ったと言えない、そこを踏まえたうえでそこをどうやって人と人が繋がって行けばいいのか、という事を模索しながら進んでゆくドラマでもありました。   自然の中で物を作ってゆく大変さも知りました。   ナレーターとして参加することはドラマを俯瞰するように見るというのが 普通なんだと思いますが、役を通して語りをやっているので、気仙沼の言葉の優しさとか、柔らかい感じをアクセントを交えて、隣の人に語りかけるようなつもりで読ませていただいています。    

ハラハラすることが前半には多かったですね。   東京に出てきたときの初々しい感じ、気象予報士として気が付いたら番組に参加していたとか、思い出すといろいろありいます。亡くなった方が生きているという感じがするのって、凄く救いになるんじゃないかなと思います。   及川新次さんが自宅や建造したばかりの自身の漁船を流され、妻の美波も失う。    「自分は絶対立ち直らない。 立ち直ってたまるか。」というセリフがありますが、もしかしたら十字架になっているかもわからないけれども、その負担を背負って一生自分は生きて行くんだという、その覚悟ですよね。   こういう方も実際にいらっしゃるだろうなあと私は思いました。   そういう人達の周りに放っておかない、一人にさせない人たちがいて一緒に生きてゆく、その姿はとても美しいというか、胸を打たれました。   

「生活ホットモーニング」の番組の旅のコーナーの中で、初めて訪れたのが気仙沼であり、気仙沼大島でした。     幻想的な海霧がのぼっていて、気仙沼大島に渡って気仙沼の暮らしぶりとか漁に出てゆく男たちを見送る時の話、帰ってきた時のもてなしなど、島の風土暮らしをちょっとだけ体験しましたので、それがおかえりモネ』につながったんですね。    話を伺った熊谷鈴子さんはもう90歳を越えていて、80歳のロケの時にすでに島の名物おばあちゃんでした。   兎に角ホスピタリティーの塊のような方で鈴子さんがいるといつの間にか人が集まってくるような雰囲気があり、気仙沼大島が大好きになりました。   東日本大震災の時に手紙を出しましたが返事がなくて、別の番組で気仙沼を訪れる前日に鈴子さんから返事が来ました。   プロデューサーに経緯を話してどうしても会いたいと話をしたら、そのことも含めて取材をしましょうという事になりました。   仮設住宅でお会いすることが出来、二人で抱き合って泣きました。    そういったいろいろなことを思い出すようにして永浦雅代さん(語り)の言葉にして読んでました。  島は一つの大きな家族のような感じがして、人と人とのつながりが濃いところです。  気仙沼はおしゃれでセンスのいい街でもあります。  海は外へ開かれて行く場所なんですね。   

阪神淡路大震災の時に私の友人が被災して、震災の4年後の1999年から私も参加させてもらって、「朗読と音楽の集い」で毎年神戸に通っていました。   2011年に東日本大震災が起きましたので、2012年の春に東北大学災害科学国際研究所が主催して、体験談を新たに朗読用にリライトしたものを毎年読ませていただいています。   自然災害、それがあまりにも大きな出来事なので、個々のお皆さんの思いがそれぞれなので、いつも読ませていただくたびに、この事実の重さに読んでいるだけでも気持ちが押しつぶされそうになることはたびたびあります。    言葉でつながるという事は人でしかできないというか、人を救うのはやはり人なんだなあという事もこの朗読を通じて私が感じたことの一つです。    経験した苦しみ、悲しみなどは、何十年経っても決して消えないことだと思います。   

いろんな機会を見つけて公私を問わず足を運びたいなあと思います。   立場が違うという事で終わりにしないで、でも一緒に生きて行こうというそういう人とのかかわり方、寄り添い方そういったことを考えさせられるドラマだったし、一生懸命生きようとしているモネをはじめに若い人たちの生き様が本当にすがすがしくて、こういった人は絶対いると思わせてもらいました。    







2021年11月26日金曜日

上野眞奈美(プロスキーヤー)       ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】アスリートであり、親である

上野眞奈美(プロスキーヤー)       ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】アスリートであり、親である 

1984年神奈川県横浜市生まれ、37歳。  子供が3人。   2歳でスキーと出会った上野さんは中学、高校、大学とスキー競技に取り組み、プロスキーヤーとしてワールドカップ、世界選手権など世界を転戦、一度競技を引退しまいたが、競技に復帰してスキー競技初のママアスリートとして2014年ソチオリンピックに出場しました。   その後ママアスリートのネットワークに携わり2020年に一般社団法人「MAN」を設立し、代表理事に就任。   妊娠、出産、育児といった人生のライフイベントと競技生活の両立に悩むアスリートたちを繋ぎサポートしています。  上野さんに子供を持つアスリートとして社会に伝えたい思いなどについて伺いました。

野沢温泉村はまだ里に雪は降りていません。  会社を立ち上げいまはアウトドアアクテュビティー主に自転車を提案、ヨガとなどのインストラクターもしています。  1年を通じてスポーツを提案できるような授業を心掛けてやっています。    ママアスリートが東京オリンピックで活躍したことでメディアに紹介されたことが増えて、社会的認知度が上がったという風に思いました。   「MAN」という活動は女子支援プロジェクトの一環としてママアスリートネットワークという活動から始まっています。  M(ママ→ヒューマンのMへ)A(アスリート)N(ネットワーク)と頭文字をとっています。    女性だけとはこだわりません。   新しい種目には注目してみて行きたいと思っています。   

元々はフリースタイルの競技はやっていませんでしたが、大学を卒業してからフリースタイルスキーハーフパイプという競技を始めました。   競技を知ってもらうための一番の発信力はオリンピックなので、そのうちオリンピック種目になるだろうという事でオリンピックに出たいという気持ちがありました。  2009年にオリンピック種目にはならないということが判りました。   結婚もしたのでアスリートは引退して家庭と、夫もスキーをしていたので会社運営をしていこうという事になりました。  バンクーバーオリンピックが終わった後に長女が生まれて、店も始まりました。    ソチオリンピックではフリースタイルスキーハーフパイプが種目になるという可能性が出てきて、主人が「どうするうの」と言って来たので、どうしようかと思ったのがきっかけになりました。    周りの人から子供がいたから夢をあきらめた、という人がいるかもしれないと思った時に、それが怖くて、自分はやるしかないと思いました。    

出産で元に体を戻すという事にはできないと思い、新しく自分を作ろうと考えました。  つらさも有りましたが、家族の存在もありあきらめない自分を作り出してくれました。   ONとOFFをしっかり取るという事で自分のメンタリティーの部分は保っていたかと思います。   家事、育児は家族、周りにささえてもらいながら両立させてもらってきました。   夫の存在は主人という事と、経営のパートナーでもあり、コーチであり、弱音は吐けませんでしたので、孤独を感じていました。     12競技を展開しています。 志高く前向きにチャレンジする方たちなので、自分たちで解決方法を見出しながらやっています。  

私の選手時代と今とでは悩みが変わってきた部分と変わらない部分とがあります。  変わって来る部分に対しては各競技団体がどれだけアスリートの可能性に対して、耳を傾けて改善していこうかという思いを持っている協会はどんどん変わる、イコール 選手の立ち振る舞い方、選択の作り方みたいなものは変わって行っているような気がします。    ママアスリートは特別なことをやっているように思われるが、やってい居る人たちは特別とは思ってやっているわけではないです。   自分がやりたい環境はスポーツだけに限らない、芸術、一般の事務であっても同様だと思います。    

今一番下が2歳の子がいて子供は3人ですが、今まだ両立は出来てないですね。  上が中学に、次が年長さんになるわけですが、手のかかり方がそれなりに違います。  どうしても時間の制限があります。   ずいぶん寂しい思いをさせた時期があったと自分では思っていますが、うちの子は全然覚えていないんです。   遠征に連れて行ったりしましたが、自分が楽しかったことは覚えています。   今寂しい思いをさせていると葛藤しているお母さんがいるかもしれませんが、大丈夫です。  頑張る母親の背中を見ていますので、しっかり背中を見せて、次の時代には背中を押してあげる母親にともになっていたいです。  人を頼るのが当たり前で一人でなんてできないので。