2021年11月8日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 

昔は文学の特権性みたいなものがあったし、そう書いたからそう思ってる、そうだったら推理小説などは書けなくなっちゃいます。  書いたからと言って人を殺したいわけではない。  でもそれが通用しにくいムードがあるという話を対談で話をしました。  

今年の「ほむほむ」賞は浅野久元さんの作品。                      *「砂糖きびおやつ代わりにかじる僕母の姿は畑の彼方」そのほか23首入選作としました。 「食べ物」というテーマは面白くてなんか思い出とつながっているんですね。 

*「幸せの旋律なのだせんべいをバリリバリボリポリポリ食べる」    森本直子

音が面白い、最初バリリ 大きくかじったところ、バリボリは大きい欠片が口の中にあって、段々ポリポリと小さくなってゆく。  音の表現に工夫があって良いなあと思いました。   

*「行き帰り偶然同じタクシーで運転手さんがくれたみたらし」     ゆうかりん    みたらし団子、そっと渡すところがリアルな感じ。    実体験に基づいた歌の強さがあります。 

*「一人ずつアクリル板で囲まれて一口上げることができない」     なみすけ    自分(穂村)なども何十年もやってきた動作なので、アクリル板があることを忘れてしまう。    10年後ぐらいにこの歌を見た時にあーあのころそうだったと思うようなタイプの歌かなあと思います。  歌には時代を詠む役割もある。 短歌には事務的な文章では伝わらない生々しさがある。 

*「給食を残し育てた雑種犬僕らの基地をあの日去りけり」      石井秀行     昭和的ノスタルジーを感じる。  少年の時の思い出みたいな、普遍性のある光景のような感じがします。  少年の温かいものを感じます。 

*「馴れ寿司を好む家系に嫁ぎきて未だ馴染めず末席に着く」     片岡美枝子   或る時代の嫁のポジションの悲しみが見られる。  馴れ寿司は癖のある寿司。  「馴れ寿司」と「馴染めず」が同じ字で使われているが、全く違った意味で使われている。    

*「背を丸め野のハコベ摘む老いの母終戦の夜の一品にとぞ」     浜中富蔵    戦争の時代は今とは食べ物の位置づけが違って、切実感があるので心に刻まれ方が深い感じがします。    

*「隠したよ食べられなくて椎茸は牛乳のビニールの蓋に」      しまみけ     「牛乳のビニールの蓋に」というのがリアルで可笑しい。   子供なりに切実だったんでしょうね。  ピーマンとかネギとか或る時から急においしくなったりする。  

*「アニメ見てパンに卵を乗せたけどやっぱりただのパンと卵か」    二体のモアイ像  テレビや本でやたらとおいしそうに見えるときがありますね。  やってっ見るとそうではなかったり。  

*「敗戦後初めて食べたまくわうり水に冷やして家族五人と」     中村純子     戦争が終わた後の食べ物の歌。    「水に冷やして家族五人と」というところに重みを感じます。   

*「口々に食べたき料理言いあいて声だけ元気な午後の病室」     山下恵子     これも光景が目に浮かびます。  過去に関する食べ物が多いが、これは未来のこれが食べたいというベクトルが違う、そこも新鮮な感じがします。   

*「寒い朝母が手のひら塩付けてむすんだオカラうまいうまいと」   しょうれん    お米がなくて代用のオカラ、でもうまいという思い出の味。   

*「亡き母のほうば寿司思い高鋏積み初夏山道葉を取りに行く」    しいちゃん    料理の起点、「葉を取りに行く」 お母さんの思い出につながる料理が始まっている。   

*「鍋二つ別々に茹でタイミング合わせて食べるうどんの硬さ」    よねちゃん     硬さの違いをタイミング合わせて食べる、ディテールが細かに描写されている。      

*「六月は何もかけないところてんいまにも雨の降る味がする」    北山文子     これは食べものを詠いつつ季節の歌かなあと思います。   六月というのは何もかけないところてんのようなもので、それはあまりおいしくなさそうで、水を食べているようで、季節感を結びつけたところが感覚の鋭い歌というそういった感じがしました。

リスナーからの作品

*「食べかけの奈良漬け消えて見渡せば益子で買ったお皿の縁に」    徳淵哲也     何となくこんなことがありますよね。  保護色みたいになっていてお皿の縁に見つかる。 

*「用あって宇宙へ行くという頑固者を駅で見送り夢でよかった」    緒方千賀子   妙にリアルなんですね。  夢の中では止められなかったが、夢でよかった。 

*「この人が信号無視しそうなとこでドキュメントはフェードアウトす」 横山ひろ子   不安な予測をして、だからここでフェードアウトしたんじゃないかという奇妙な歌ですね。 人間の心の怖さみたいなものを感じます。

*印の歌および氏名については、かな、漢字など間違っている可能性があります。

 


   






  


2021年11月7日日曜日

一龍斎春水(声優・講談師)       ・【時代を創った声】

 一龍斎春水(声優・講談師)       ・【時代を創った声】

春水さんは麻上洋子さんの名前で長らく声優活動をしていました。   アニメ「宇宙戦艦ヤマト」オリジナルシリーズの森雪役といえばご存じの方も多いんじゃないでしょうか。  シティーハンターの野上冴子役などでもご存じの方も多いんじゃないでしょうか。 

声優として本格的に始めたのが20歳からです。   40歳になった時に講談と出会って、春水という名前を師匠から頂きました。   声優は麻上洋子で講談は一龍斎春水で仕事をしていました。    60歳で一龍斎春水に統一しました。  

神奈川県の藤沢市の出身で、小さいころから体が弱くて、小児結核という病気で幼稚園にも行けず、祖父母に本を読んでもらったり、一緒に相撲を見ていたりしていました。   親が絵本、紙芝居、ソノシート(フランスS.A.I.P.というメーカーで開発された、きわめて薄い録音盤)を買ってきてくれて、表情豊かにドラマティックに読んでいるのを聞いていて、声を出して読むという事が大好きになりました。  小学校の国語では積極的に手をあげて読む子でした。   小学校4年生で放送委員になって、お昼は全部放送室でした。   中学、高校でも放送クラブ、放送委員という事で声で表現することが大好きでした。   高校卒業した後の秋に黒沢良先生が、黒沢声優学校を始めましたので、受験して一期生になりました。   30名の生徒がいましたが、年齢もばらばらで、芸歴もバラバラでした。    私みたいに芸歴が何にもない人は4人いました。   1年間の予定でしたが、基礎の勉強等含め2年間学びました。   

ゼロテスター』のリサ役で初レギュラーで、その後オーディションを受けて「宇宙戦艦ヤマト」の森雪役をやる事になりました。(1974年)   大先輩に囲まれて、酒の席で言われたことは目標は芝居で、声優は芝居の中のセリフでその日の食べ物を稼ぐんだと、うまい酒を飲むために芝居もやるだ、というようなことを言っていました。   声優を目標にしてはいかんのだ、と言われました。  早野寿郎先生のところで劇団に入って勉強を始めました。   舞台をやると身体で動きを覚えてゆき、動きの中の一部にセリフがあるという事を実感できました。  お客さんの息吹も感じ空間が体の中に入ってきたり違う事が一杯ありました。  シティーハンター』の野上冴子役をやるようになったのが1987年です。    色っぽい大人の役をやりたいと思っていたときに野上冴子役がきたので嬉しかったです。  

役柄が狭いために大改革をしなければと思って、もがいているときに講談と出会いました。(40歳)  その前に朗読(劇読)を10年間やっていましたが、あまり変化がなくて、日本の話芸を勉強する気はないのかと言われ、講談が合うかもしれないという事で先生を紹介されることになりました。  一龍齋貞水師匠に会って、師匠のDVDを一緒に見ました。    一龍齋貞水師匠の生の舞台を袖で見聞きして、入門をお願いしました。(1993年)   そこには古い慣習の世界がありました。  真打には2004年になりました。  古典だけではなく野坂昭如さんの「火垂るの墓」を講談化してやってみました。  「三方ヶ原軍記」をやるように言われて、意味も判らなかったりして、武田信玄と家康が初めて戦った戦であり、私にとっての戦とはと考えた時に、「宇宙戦艦ヤマト」であると思って、「宇宙戦艦ヤマト」を講談ぽく出来ないかと思って、日夜頑張って5分だけ作りました。

*講談「宇宙戦艦ヤマト」  講談師:一龍斎春水

若い声優へのアドバイスとしては、経験が大切で、どんなことをしても役立つと思います。 兎に角今を大切に、今自分は何をしたいのか、自分は何を目標にして、何をクリアして何をやって行こうとしているのかをちゃんとわかって、やってほしいなあと思います。  先輩などに感謝してやってゆくことが大切だなあと思います。





















2021年11月6日土曜日

「明日への言葉」投稿累計総数 3500回突破

「明日への言葉」投稿累計総数 3500回を突破 しました。

我ながらよくやってこられたと思います。

一時頸椎の神経が原因で左腕が痛みキーボードを叩くこともできない状態になり、もう中止にするようかなと思った時期もありましたが、その後左手の親指と人差し指に若干のしびれがあるぐらいでほぼ問題なく投稿出来ています。

年に一度は必ず親友のMさん宅に夫婦で伺って酒を飲み交わしてきましたが、コロナ禍で会う事もままならず寂しい思いをしています。  会った折には必ずこのブログについて励ましの言葉を投げかけてくれていましたが、その言葉が直に聞けないのが残念では有ります。

又Kさんは相変わらず私の文章の校正をしてくれていてこれも感謝です。 (大分減っては来ているとは思いますが、今後もご厄介になります。)

昨日或る業者のTさんにこのブログの件を話したところ「凄い 凄い」と連発してくれ、こういったことも続けてゆくエネルギーになるかと思います。

ともあれ「健康」という二文字に支えられるお陰でここまでこられたと思っています。     今後どこまで続けられるか、まあとにかく一日一日愚直に進んでいきたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。  秋田 宏

岸田奈美(作家)            ・「もうあかんわ」を切りぬける岸田家、母と娘の15年(2)

 岸田奈美(作家)     ・「もうあかんわ」を切りぬける岸田家、母と娘の15年(2)

パラリンピックのスタジオゲストやワイドショー、ニュース番組のコメンテーターとして活躍しているエッセー作家の岸田奈美さん(30歳)。  ダウン症の弟良太さんのこと、中学時代に心筋梗塞で亡くなった父親のこと、大動脈乖離で車椅子ユーザーとなった母親のこと、家族のことや日々のてんやわんやを軽快な関西弁で綴り、相次いで書籍化されています。  その岸田奈美さんと母ひろ実さんが家族のピンチをどう乗り越えてきたのか、母と娘はどう見き合って来たのかを3回シリーズでお送りします。   二回目は作家岸田奈美さんが娘の側から見た岸田家の道のりを伺いました。

父は面白かったです。  しょうもないほら話をしていました。   父は当時はだれもやっていなかった古いマンションをかっこよくリノベーションするという仕事をしていました。  後から聞いたら阪神大震災で家が壊れてしまった人たちへ何もしてやれなくて、それが嫌になって独立したという事を聞きました。   楽しそうに仕事をしていました。   

母はいろんな友達からは「綺麗で優しいね」と言われていました。   母は父とは真逆で心配性でした。   4歳下の良太はダウン症で現在25歳でどこででも爆睡したりします。 良太がお金を持たずに出かけたのにコーラを飲みながら帰ってきて、万引きでもしたのかと思ったら、レシートがありその裏にお金は後日で結構です、と記載されていて後日母が謝りに言ったりしたことがありしました。   

私が小学校に入るぐらいに、弟にはダウン症という障害があるという事を母から告げられましたが、その時には治ると思っていました。   母からはその後に治らないことを告げられました。   可哀そうだと思って一晩めちゃめちゃ泣きましたが、弟は楽しそうにやっているし、何が可哀そうか良く判らないという事に気付きました。   弟が小学校に上がる時に先生が「奈美さんは色々大変なのでみんなで一緒に助けてあげましょう」と言ってくれました。  自分自身では大変とは思っていなかったので、先生の大変という言葉をみんなの前で言われたことがすごく悔しくて泣いて帰ってきました。   母が買ったダウン症に関する絵本がありそれをもっていって先生に渡しました。   

私が幼いころ転んでしまった時に、母は弟を抱っこしていてどうしてちゃんと助けてくれないのか、弟ばかり可愛がるのかと言って泣いた時があるという事で、母はその時のことが忘れられないという事でしたが、私は全然覚えていないんです。   弟はとんちんかんことはするが可愛いし面白いし、くやしかったです。   弟とは仲がいいんですが、そうやっていられるのは母が弟ばかり手を掛けるのをやめて、「奈美ちゃんが好きだよとか奈美ちゃんが好きな様に生きてほしい、良太のことは面倒見なくてもいい、そのまま一緒にいてくれたらいい」と言ってくれたことなどが、影響したと思います。  

小中学校の頃のことはおぼろげに覚えているぐらいで、両親が「奈美ちゃんは天才だ」とか褒めてくれたりしていましたが、あとから聞いたら私があまりにも自信がないから、褒めようという家庭方針になったという事です。  学校では全然そんなことではなくて、家と学校でのギャップになんでという思いが重なって行きました。   友達と呼べる友達はいませんでした。  父がマック(パソコン)を買ってきてくれて「お前の友達はこの箱の中におる」と言ってくれて、嬉しくてそこからパソコンの世界にはまりだしました。  学校でのアニメ、芸能人とかの話題には全くついていけませんでした。   家では爆笑してくれたりしましたが、学校では劣等感がありました。   中学校でも同様でした。  

中学の遠足で「愛地球博」という万博から帰ってきて、いろいろ話をしようと思って父が帰るのを待っていました。  父が帰ってきましたが、「疲れているから明日でいいか」と言われました。  凄くカチンときて、「死んじまえ」と言って、部屋に閉じこもりました。父は実はその晩に心筋梗塞で倒れて救急車で運ばれていって、朝起きたら弟と二人だけで、母から電話が掛かってきて、今病院で父が手術をしているというとでした。   2週間後に亡くなり39歳でした。   頭が真っ白になりました。  「死んじまえ」が最後の会話になるなんて全く思っていませんでした。   忙しさのあまりに泣く間もなかった母が葬儀の喪主の挨拶で初めて泣きました。   子供の前では明るくふるまう、女優になるんだと言っていたようです。   母は整骨院で働いたり暮らしを支えるために凄く頑張って居ましたが、子供の目からは朝には綺麗な色どりのお弁当はあるし、家のなかは綺麗だし、今まで通りの日常でしたが、あとから考えるととんでもない事ですよね。(当時は気付かなかった。)

高校2年生の時に母が突然倒れました。   救急車を呼んで病院に行って、次に大学病院に行って大動脈乖離という事でかなり危ない状態でした。  手術をしても8割の確率で亡くなってしまうという事でした。  手術をしても後遺症が残るが、手術をするかどうかを聞かれました。  死んでほしくないので「手術をしてほしい」と言いました。  手術は成功して手術室から出てきました。  しかしそのまえに待合室で待っている間に、予定していた手術の時間よりも2,3時間早く終わってその電話があり、死んでしまったと思いました。   母の意識が戻って医師からは、一命はとりとめたが、下半身に麻痺が残ってしまって、とは言ったが歩けなくなるとは一言も言いませんでした。  訓練したら歩けるのではないかという希望を母も私も思っていました。  しかし歩くことは駄目で、そこから始まったリハビリが物凄く過酷でした。  母は決して辛さは顔には見せませんでした。   或る時に母がベッドで泣いているところを見てしまいました。   その後も母は決して辛さは顔には見せない、女優を演じました。   

或る時カフェでジュースとパスタを頼んで母と向き合った時に、母が言葉を出しました。 「ずーっと言わなかったが、死にたい。 歩けないなら死ぬ方がましだ。」と言いました。「死にたいなら死んでもいいよ」と答えました。  いつか言われるとは思っていました。何もしてやれない辛さがありました。   直感で「死なないで」と言ったら、母は本当に死んでしまうと思いました。   「もうちょっと待ってて、2億%大丈夫だから」と言いました。  ここで父親譲りのほら吹きが出ました。  

  







2021年11月5日金曜日

立川談慶(落語家)          ・噺(はなし)家と作家の二刀流に燃える

 立川談慶(落語家)          ・噺(はなし)家と作家の二刀流に燃える

立川談慶さんは異色の経歴を持つ噺家です。  慶応大学経済学部を卒業し、大手下着メーカーに就職しましたが、大学時代の落研で知った落語の世界が忘れられず、敬愛していた立川談志さんに弟子入りしました。   前座から二つ目に上がるまでは通常の2倍の9年半かかりあましたが、必死の努力の結果、二つ目から真打には通常の半分の5年で昇進しました。    その後は落語はもちろん司会、著作家、NHKのラジオ番組のレギュラーなどを務めるなど多彩な才能を発揮しています。  今年は初の小説も出版し、不器用でも一生懸命頑張ればいつか良いことがあるという自伝的な言葉は恵まれない境遇で頑張るあらゆる人たちへの熱いメッセージとなっています。  噺(はなし)家と作家の二刀流に情熱的に取り組む談慶さんに順風満帆ではなかった人生から得たものの大切さや、家元談志の教えなどを伺いました。

NHKラジオの【らじるラボ】『らくごフムフム~落語に学ぶ人間の本質~』というタイトルの番組に出演しています。   落語は人間の心理を突いているので、今の世の中を分析することは勿論、未来を予言して居るのではないかという、そういう見方もできるわけです。  11月21日が談志没後10年になります。     

大学時代に落語研究会に所属していまして、卒業時期に落語家になりたいなとは思いましたが、(33年前 バブルの真っ盛り)談志の事務所の人から3年は会社に勤めてからでも遅くはないと言われて、会社に勤めてから談志師匠の門をたたきました。  18番目の弟子でした。   3年間の会社勤めのうちに古典落語を30席ぐらい覚えていました。  20席入門してから覚えれば、自動的に二つ目みたいなことを描いていました。  師匠の基準も変わってきて、踊り、歌、音曲なども全うしないといけないという事とになってしまいました。   談志師匠が求める歌に関して時間がかかってしまいました。  二つ目に上がるのに9年半かかってしまいました。  正調の小唄を習って談志師匠が求めるものとは逸脱してしまっていました。   「俺に殉じてみろ」とはっきりと言われて、「15年かかって俺の基準を全うしてみろ。  30秒二つ目をやって15年30秒で真打になってみろ」と言われました。   二つ目で「談慶」という名前を貰えました。   真打で慶応出は現在私一人です。   二つ目から真打になるには古典落語を100席覚えないといけないんです。 

親の小言と冷酒は後から来ると言いますが、談志の小言は後から来ますね。   師匠からの思いとはあべこべの人間でしたが、それを「俺の基準を満たしたということは、こいつは芸の幅になりました。」と真打のパーティーの時に言ってくれました。  これは殺し文句です。  今年が入門30周年になります。   前座7,8年目の頃にシナリオを書いたりしましたが、それが今役立っています。   書いた本は21冊目になります。  コロナで昨年2月から一気に仕事が無くなってきて、5月ごろに妻から「小説を書くのにはラッキーじゃない。」と言われて、2万5000字の小説を4つ(前座、二つ目、真打、プラスα)書きました。  二つ目の時にはいろんなことが経験できるので、改めて二つ目時代のことを書き直しました。  ドキュメンタリー:フィクションが6:4といった感じで5つの部分から構成されています。  自叙伝的な小説です。                                    第一話では、 ある場面に対して談志だったらこういうことを言うだろうなという事で「人の気持ちが判らないやつが、なにが落語家なんだよ。」 という実際経験したことで書けたセリフです。

第二話では末期がんの或る父親の前で落語をする。  落語家は魔法使い。 談志師匠は「落語はイリュージョン」と言っていました。   末期がんで聞いているのかいないのかわからないような状態だったが、あとでその人の家族に笑っていただけなくてすみませんでしたとメールしたら、「お父さんは自分が病だという事を忘れさせていただきました。」と言われました。  看護師さんも「あれはお医者さんでは出来ないことです。」と言ってくれました。  魔法なんですね。

第三話は 本のタイトルと同じ『花は咲けども 噺(はな)せども 神様がくれた高座』  妻の言葉で「一生懸命やっていれば必ずだれかが見ていてくれる。」  妻に救われています。  

第四話が老人ホームで落語をして老人たちに喜ばれる。   「安い仕事でも回数をこなすことによって 結果あなたがうまくなればいいんじゃない。」と妻に言われて、「先のことを見通せば見方が変えられるじゃない。」と言われて、これは本当に救われています。 

第五話が 「落語とは人間の業の肯定である。」  談志の言葉。           相撲関係者が言った言葉で「お相撲さんも落語家さんも稽古が仕事だ。 本番の土俵とか高座なんか集金だよ。」という様なことを言いました。  視点を変えただけで生き生きするというか、稽古が仕事だと。    コロナ禍で小説も書くことが出来ました。     落語によって閉じていた心が開く中学生の女の子を書きました。  恵まれない人々への応援歌だと思って書きました。  

落語をやればやるほど書きたくなるし、書けば書くほどしゃべりたくなるので、良い相関関係なので、ストレスを相互に発散出来て、二刀流で行きたいと思います。  






  

2021年11月4日木曜日

2021年11月3日水曜日