2021年8月31日火曜日

半藤末利子(随筆家)          ・【わが心の人】半藤一利

 半藤末利子(随筆家)          ・【わが心の人】半藤一利

1930年(昭和5年)東京都生まれ。  60代で出版社を退職後は執筆活動に専念し、特に昭和史に関する作品が多く歴史鑑定として知られています。   今年2021年1月12日に亡くなりました。(90歳)   奥様の半藤末利子さんは東京生まれ。  父は作家の松松岡譲、母は夏目漱石の長女筆子、現在新宿区立漱石山房記念館名誉館長を務めています。   最近夏目家のエピソードやご主人との日々の暮らしから別れまでを綴ったエッセー集「硝子戸のうちそと」を出版しました。   

私が小学校3年の時(昭和19年)、11月に疎開しましたが、兄と主人が長岡中学でお友達だったので、うちに遊びに来ていたりして知り合いでした。   東京に戻ってきて年ごろになったころ又会いましたが、主人は勤めをしていたころで吃驚したといっていました。    5歳年上でしたので、私はもっと若い人に目移りがしてしまいますよね。   惚れてくれて一緒になりました。  望まれて一緒になるというのは、大事にしてもらってあとになって本当にいいと思いました。  家でも「末利子さんん」と呼ばれて言葉使いも優しかったです。   「愛している」という言葉はいつも言っていました。   威張るとか怒鳴るとかは全然なかったです。   酒が好きで80代になったら家ではお酒は2杯までと、私の方から言っていました。  外では結構飲んでいて、お酒で亡くなったので本望だと思います。  89歳の時に飲んで帰ってきて、転んで大腿骨骨折して手術してリハビリをしたが、骨がくっついていなかったようで、それを知らずに痛みをこらえながらリハビリを続け、改めて人工骨を入れる大手術をしました。  家に帰ってきて、2階に昇る練習をしたり、原稿を書いたりしていました。   「家で死にたい、家で死にたい」、と言っていました。  体力の限界を感じていたのかもしれません。  

「硝子戸のうちそと」の最後のほうの部分。                      「夫は自分の死は近いことを予期していたと思う。  「コロナの時代に一つだけいいことがあるとすれば派手な葬式を誰もやらなくなったことです。   どうか私が死んだときも大げさなことは一切しないでください」、と何度も繰り返して言っていた。   彼は夫としては優等生であった。   あんなに私を大切にして、愛してくれた人はいない。  ほんの4日間だけ下の世話を私にさせたことを、「もったいない」と嗚咽をこらえながら「あなたにこんなことをさせるなんて思っても見ませんでした。 申し訳ありません。  あなたより先に逝ってしまう事を本当にすみません。」としきりに詫びるのである。」 

2階から降りてゆくときに覗いたら、口を開けて寝ていて、いつものことだからと思っていたら、娘が息をしていないのを発見しました。  腰が抜けるぐらい吃驚してしまいました。    前の晩に遺言を残して言っていました。   「墨子を読みなさい、ずーっと戦争に反対した人で、中国の2500年前の思想家の人だけど、そういったんだ」という事を言いました。   言い終わったら、ほっとした様でその後寝息が安らかでした。      (*非攻(ひこう)とは、春秋戦国時代の中国において、諸子百家のひとり墨子による非戦論平和主義の主張である。兼愛交利、勤倹節約説より導き出された墨家の基本思想(墨家十論)のひとつ。)    

まだなかなか落ち着きません。   後悔というよりも、あれ以上は出来なかった、という思いがあり仕方のないことだと思います。    母も長く介護しましたが、50代だったので体力が全然違いました。  

「硝子戸のうちそと」のあとがき                          「もし来世があるなら、私はまた夫のようにぴったりと気の合う優しい人と結ばれたいと切望している。」

私は我儘なところもありますので、あの人は本当に良かったなと思います。  我儘も全部許してくれました。  あんなに優しい人ってあんまりいないと思います。





 

2021年8月30日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】夏

 今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】夏

今年はイノシシがよく出現しました。   根っこの部分は栄養が蓄えられているので、そこを掘るんでぐしゃぐしゃになったりしました。   鍬でならしてやると2年ぐらいで再生します。  8月上旬に里山昆虫教室を行いました。  コロナ禍でしたが、いろいろ対策を立てて100名ぐらいの参加者で、スタッフをいれると120名ぐらいでした。  今年で24回目になります。  大雨の日があって、部屋の中で出来るいろいろなことをやっていました。   3日目は天気が良くてたくさんの昆虫に出会えて子供たちは大喜びでした。  子供たち同士の交流も出来ます。   琵琶湖の湖岸の砂浜に珍しいトンボ、メガネサナエが羽化するんです。  里山まで来てまた帰っていって卵を産みます。  飛び立つところが見られました。

開墾して6年目で山桜が今年は綺麗に咲きました。   植えたクヌギも大きく成ってきて樹液が出るようになり、カブトムシなどがいっぱい来ています。   子供の頃図鑑をよく見ましたが、絵本と似ていますね、物語を作ります。   子供の頃蝶が好きで全国の蝶の名前を全部覚えました。(180種類ぐらい) 今は240種類ぐらいいます。  蝶には前羽(大きな羽)と後ろ羽がありますが、眠る時には閉じて一つに重なってしまいます。

「小さな里山をつくるチョウたちの庭」 という本を5月に出版しました。   今75種類ぐらいの蝶がオーレリアンの庭で見られます。  当時30年以上前は里山の環境がなくなってゆく時代で、狭くても里山を再生したかった。  生き物を集める庭つくりから始めました。   まず蝶をターゲットに思い立ちました。    蝶は環境の豊かさを測るのにもってこいの生き物です。   幼虫は植物の葉を食べます。  種類によって好きな植物が違います。 何種類もの蝶が住んでいるという事はそれだけ多様な植物が生えていて、環境が多様であるという事です。  30年以上をかけて蝶の庭を少しずつ作ってゆく事になりました。   植物は日当たりのよいところが好きなもの、湿っているところが好きなものなど種類によって様々です。   この庭のお手本は里山、自然と人との営みがどちらも壊れることなく共存している。  

オオムラサキだとエノキしか食べない。  決まった植物しか食べない、そういった蝶が多いです。   蝶のお陰で細かい環境を注意するようになりました。  

写真を撮る行為は客観性が必要で、中に入ってると駄目なんです。  環境農家になって環境作りのこともそうですが、写真家としてのこの仕事をこれからどう考えてゆくかという大きなポイントでもあるわけです。  農薬も使わないし、有機的です。   子供たちもそこで遊んでもらいたいと思っています。   農家の方たちと外からやって来る人たちとの交流は絶対必要で大事なことです。   後継者がいないという事は全国的なことで、交流をすることで土地、棚田、田園の新しい可能性が発見できる、そういったものに繋がるといいですね。   











2021年8月29日日曜日

沖澤のどか(指揮者)          ・【夜明けのオペラ】指揮者が語るオペラの魅力とは

 沖澤のどか(指揮者)        ・【夜明けのオペラ】指揮者が語るオペラの魅力とは

青森県三沢市生まれ、青森市育ち。  小学校から高校まで地元のオーケストラに所属、東京芸術大学指揮科を首席で卒業、大学院終了後ドイツに留学、2018年東京国際音楽コンクール指揮部門で第一位、及び特別賞、齋藤秀雄賞を受賞。   2019年9月21日、第56回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、同時に聴衆賞及びオーケストラ賞に輝く。  現在はベルリンフィルハーモニー管弦楽団で常任指揮者のキリール・ペトレンコ氏のアシスタントを務めています。

現在34歳です。  オペラは子供のころは全く見たことはなかったです。  子供のころからピアノとチェロとオーボエをやっていました。   叔父がチェロを弾いていて、その影響で姉がチェロを初めてその影響ですね。   まずピアノを始めて夢中になって、それからチェロを習い始めました。  地元の青森ジュニアオーケストラで姉と一緒にチェロを弾いていました。   高校2年の冬に進路を決めるときに音楽の道へと決めました。  東京芸術大学の指揮科を選びました。   東京に来て環境の変化になかなかついていけなかった。  付け焼刃で勉強したので周りとの劣等感を味わいました。  そんな状況の中で体調を崩して2年、3年目にはご飯も食べられず、夜も眠れなくなり、病院に行って不安障害と言われて、休学してしばらく青森に帰ってきて半年休みました。   在学中から学校の外での講習会に参加していて、下野達也先生のマスタークラスに何度か参加していましたが、そこで初めて才能があるといわれて、先生からもう少し芸大で頑張ってみなさいと言われて復学しました。    担当の先生が変わったことが大きくて、どう勉強を始めればいいかという、とっかかりがつかめたような気がしました。   それからは勉強に集中できるようになりました。 高崎先生につきたいとそのまま大学院まで進みました。  

声楽の友達が出来て、声楽に魅了され始めて、オペラも自然に聞くようになりました。  日本で学生がオペラを振る機会なんてないので、自分で演出して合唱もオーケストラも自分たちで集めて手作りでやりました。(椿姫)   2011-2012年、オーケストラ・アンサンブル金沢で副指揮をしていました。  事務的なこともやったので、オーケストラを全体から見る経験が出来、凄くよかったです。 

*オペラ「椿姫」から「さようなら 過ぎ去った日々よ」 歌:グルベローヴァ

ヨーロッパではオペラ指揮の授業が体系的に組まれているので、本格的に学びたいと思って留学を決めました。  角田さんにベルリンのハンス・アイスラー音楽大学を紹介されて行きました。    生活すべてが勉強になるという感じでした。  現代音楽、古楽、美術とかいろんな授業が毎日あり、英語かドイツ語で、気が付いたら積み重なっていたという感じです。   手当たり次第にコンクールに申し込んで、その一つが第56回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝できました。  

自分が大人数をまとめようという事ではなくて、自分が出す音楽がよければ自然についてくると思うので、難しいんですが、解放されるようになりました。  「ばらの騎士」は将来振ってみたいオペラの一つです。

*オペラ「ばらの騎士」から「三重唱」







 

2021年8月28日土曜日

嵐山光三郎(作家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

 嵐山光三郎(作家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

昭和17年静岡県生まれ、雑誌編集社を経て作家活動に入りました。   軽妙洒脱な作風で多くの著作を世に送り出し、平成18年に出版されました「悪党芭蕉」は泉鏡花文学賞、読売文学賞をダブル受賞しました。   現在も25年目に入った週刊誌のエッセーなどを中心に毎日原稿用紙に向かっています。  その博識ぶりを余すところなくパワフルに語ってきた嵐山さんですが、語りと縁を絶つという人生の岐路がありました。   そして作家と編集者両方の顔を併せ持つ作品世界の原点はどのようなものだったのでしょう。   来年80歳、大きな節目を前にした人生の楽しみ方についても伺いました。

以前NHKの「新話の泉」に出演、「深夜便」も聞いています。  昔はラジオを箪笥の上に置いてあって、「笛吹き童子」などの物語が空から降ってくるようにして聞いていました。  母は104歳で1階に降りてゆくと「深夜便」を聞いたりしています。  著書は200冊ぐらいあると思います。  連載をもとにして書き直して本を出版することになります。  締め切りは気になりません。   1997年からスタート、時事ネタ、エッセーなどで話をつなげてきました。   メモをもっていろいろ観察しています。  25年目に入りました。  

1980年代に不況になって会社が倒産するところも出てきて、私がいた会社も240人いましたが、希望退職を募りました。   温厚な総務部長が先にいなくなり、学者肌の人もいなくなりました。(行方不明)     新宿西口バス放火事件(路線バスの車両が放火され6人が死亡・14人が重軽傷を負った事件)があり、或る38歳の男が気になり、記事になって、自分でも調べてみようと思いました。   住所不定者が西口に200人いると、その社会にルールがあってみんな仲がいいんです。   人間は社会的動物だという事がつくづく判りました。  路上生活をしてみて変わったことは特にないです。   

編集者は若いころはかっこいいなあと思っていました。  編集者をやってみてわかったのは接客業だという事でした。   30代で編集長をやったので、老人化してしまったと思います。   会社で人員整理をした時に、精神がカタっと変わる時があったと思います。

「悪党芭蕉」ですが、中学3年の古典で「奥の細道」が出てきました。  修学旅行が東北で芭蕉のコースに繋がるわけです。  芭蕉の人間的なものを見たいというのが一つありました。   「古池や蛙飛び込む水の音」は有名ですが、世界100か国に翻訳されていますが、「さや岩にしみ入る蝉の声」のほうがよく知られています。  13歳で父親を亡くして、若くして伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え俳句を習う。  さや岩にしみ入る蝉の声」というのは自分がえていた蝉吟という蝉のことだと思っています。  芭蕉が23歳の時に蝉吟が死ぬんです。  29歳の時に江戸に来て俳句の修業をして、奥の細道に出て、46歳の時に山形の山寺でさや岩にしみ入る蝉の声」を詠むわけです。   蝉吟を追悼しているわけです。

水道工事人だった、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。   

和歌になんで貴族は夢中になってやるんだろうと思いますが、和歌を知らないと貴族は生きて行けなかった。   何故かというと和歌は政治用語だった。 比喩、貴族の政治は断定しない、言質をとらない、比喩で聞いて比喩で答えるという日本の政治風土は平安から始まって、和歌は文芸でありながら政治用語であったということで、延々日本の歴史にあるわけです。  日本人は情緒的な民族ですが、今はそれが壊れてきていますね。  目に見えるものしか信じるのではなくて、目に見えないものが一番大事なんだという考え方の日本の伝統に繋がって来るんです。   そういう流れで、万葉集、古今集、新古今集を読んで、芭蕉、西鶴など読むと繋がって来るものがあって、それを我々が話したり書いたりしてゆくことがものすごくおもしろいし、いつまでたってもやめられないですね。 

仕事場が神楽坂にありますが、下り坂が気持ちがよくて、上り坂は嫌ですね、下り坂が快楽ですね。  老いてゆくというのは下り坂を楽しむわけですから、『「下り坂」繁盛記』を書いています。  下り坂の価値を身体的に覚えると、下降してゆくことが面白いんですね。 





 

2021年8月27日金曜日

田村淳(タレント ロンドンブーツ1号2号)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】

 田村淳(タレント ロンドンブーツ1号2号)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】

田村淳さんは1973年山口県生まれ。  高校卒業後上京し、1993年田村亮さんとロンドンブーツ1号2号を結成、1999年からテレビ、ラジオ番組の司会に進出し、多くのファンを獲得します。  又ソロでの活動も行っていて、司会のほかロックバンド「jealkbジュアルケービー」を結成しライブを行うなど活動の幅を広げています。  2013年に結婚し、現在二人の娘さんのお父さんです。  

2006年大河ドラマ「功名が辻」に出演しました。  山口県出身で高杉晋作さんが大好きです。   「母ちゃんのフラフープ」というメインは母ちゃんがどのようにあの世へ旅だったのか、どういう風なメッセージを僕に残して、どういう風なことをかなえてほしかったのか、父と弟と僕が母ちゃんの死にどういうふうに向き合って、母ちゃんがこういう風に死にたいんだという思いをちゃんと寄せられたかというようなことを本にしました。   母ちゃんのガンが発覚したのは6年前です。  27年前から母ちゃんは延命治療は一切しないから、という事を僕の誕生日ごとに言っていました。  手術をすれば完治するものだという事で母ちゃんも納得しました。   トライしましたが、結果再発してしまいました。  自分の死に方を伝えることは、実は自分の生き方を伝える事なんだという事を僕は母ちゃんから教わりました。

大学院に行って遺書の研究などをしていたので、大学院を終了した証を、母ちゃんに見せたかったが叶わなかった。  本の最後の方には修論の一部を抜粋したものがあります。   今のほうが母ちゃんのことを思うほうが多くなっています。  母ちゃんへの憧れ意識はなかったけど、母ちゃんが死んだ後にそれを深く感じる様にはなりました。  母ちゃんは「いろいろやってもいいけどいやだったらすぐやめなさい」、と言っていました。    かっこいいなあと思っていました。  母ちゃんの視点だと僕は42歳までが反抗期だったようで、気苦労が絶えなかっただろうなと思います。  娘が二人いますが、娘のことを考えない日は一日もないです。  それと同じように母ちゃんは考えていたのかなあと思います。 

自分自身が自分であることを誇りに思う、自己肯定感、自分に自信のない子にはなってほしくないと思います。   

僕が小学校3年生の時にいじめを受けていたんですが、或る瞬間から突然いじめが始まりました。  憧れのジャッキー・チェインのヌンチャクを作って早く教室に行っていじめっ子をヌンチャクで痛めつけたという事をしました。   学校からも怒られて、被害に遭ったお子さんたちが僕の家に来て、うちの息子たちになんてことをするんだという話でしたが、母ちゃんはうちの子が一方的に悪いから謝りなさいと言って、納得できないまま、「ごめんなさい」と言いました。   次に母ちゃんは「うちの息子をいじめたのはあんたたちなんだから、あんたたちが今度は謝る番だ」と言って、親御さんがいるなかで言ってくれたのがうれしかったです。   母ちゃんは芸能界に入ることは認めてくれなかったけれど、亡くなってから母ちゃんは僕のニュース(新聞、雑誌)をスクラップしたのが出てきて、あのころからそういう風に思っていてくれていたんだと、楽しんでいてくれたんだとあとから知りました。

母ちゃんからは「興味あったり関心があることは、あなたの責任において人に迷惑を掛けずにやりなさい」と言われていたので、守られているような気がいつもありました。  芸人はこうでなくてはいけないというような、固定観念を壊すことができたのは母ちゃんのお陰だなと思います。   

2019年に慶応大学の大学院に進学、遺書の研究という事でメディアデザイン研究科に行きました。  遺書の動画サービスを思いついた時に、ネガティブなイメージがあるもので、タブーに触れてはいけないのかどうか、そういった興味がある中で、たまたま青山学院大学の住吉教授が法哲学という中で、タブーとされているものをあえて議論して、正解はないが議論することが正解なんだという面白い授業をしているので教えを請いたいと、青山学院大学を受験しましたが失敗しました。  メディアデザイン研究科があることを紹介されたのがきっかけで入れました。   思い描いていた学びの場所とは違っていました。  自分に積極性がないとおいておかれる所だと思いました。  遺書の動画サービスをどう構築していけばいいのかとか、ロゴとか、動画サービスのポリシーとか、学ぶことが出来ました。  

遺書の動画サービスの研究するに当たり、まず遺書とは何だろうというところから入りましたが、8割から9割の人が遺書に対しててネガティブなイメージを持っていました。   自分で娘に対しての遺書を書いてみました。  他人のために書いている遺書なのに、自分がどう生きたいとか、自分ってどういう人間でいたいとか、凄く明確になる感覚を強く感じました。  SNSで遺書を書く人を集めました。  2000人ぐらいに触れあいました。 書き始めはネガティブだったものがポジティブに変わってゆくことをみんな体験してゆき、行動にまで変化が起こるぐらいでした。  そのことから動画での研究をし始めました。  遺書動画も同じような効果がでました。  

娘が生まれて、「僕は君のためだけに生きないからね」と言おうと決めていましたが、娘を抱いた瞬間に「やっぱり、君のために生きる」と第一声で言いました。 長女、次女共にそういいました。  娘と相談し合う場所を決めていて、そこで娘の相談を受けたり、こちらのことなども話し合います。  単純に好きなことをして行ってほしいと思います、他人に迷惑をかけないように。  4歳ですが英語を習いたいという事で英語をできる幼稚園にしようとか、楽しみです。   生きる場所の選択肢が増えるので、選択肢が増えれば豊かな人生だととらえられるので、出来るだけ選択肢を多く与えたい。  僕も頑張って英語の勉強をしたいと思っています。

母ちゃんの手作り味噌がうまかったので、母ちゃんの味噌のレシピを再現したいと思って、畑を借りて大豆を作る事から始めています。  娘とはいつまでも悩みを打ち明けられる間でいようねという風に思っています。













 


2021年8月26日木曜日

魚戸おさむ(漫画家)           ・【私のアート交遊録】幸せな人生の終わり方とは

 魚戸おさむ(漫画家)         ・【私のアート交遊録】幸せな人生の終わり方とは

魚戸さんはこれまで家庭裁判所の判事を主人公にした「家裁の人」や「玄米せんせいの弁当箱」「ひよっこ料理人」といった食育をテーマにした漫画で人気がありますが、今は終末期医療、在宅の看取りをテーマにした漫画、「ハッピーエンド」が注目されています。   物語は函館を舞台に在宅支援クリニックを営む若き医師が様々な在宅の現場と出会いつつ、より良い看取りを目指してゆく話です。  新型ウイルスの感染拡大があたりまえな日常を一変させた中で、在宅医療に何が出来、家族にとってのよき看取りとは何か、在宅看取りケアの世界を通してみる幸せな人生の終わり方とはどういうことなのか、魚戸さんが漫画に込めた思いを伺いました。

「ハッピーエンド」の連載が一回終わったんですが、コロナが爆発したので「コロナ編」をやることになりました。   在宅医療をやってるクリニックはうちの近所にもいくつもできて、その車も走っていて、何故小さい車なのかなあと思ったら、小さい路地にも入って行かなければいけないのですが、僕の場合は大きな車にしてしまいました。   この漫画を描こうと思ったのは、患者側の話を書きたいと思ったのが、最初でした。  家族のところにやって来る医者のつもりでいました、あくまで家族の姿を書きたかった。   身内でガンでバタバタと3人、4人と死んでいって、人の死は特別なことではなくて日常よくあることなんだなという事を感じたので漫画にしました。   コロナでは先生の取材をしたかったができなかった。   知り合いの在宅医療の先生にメールをして何とか作っては見ましたが、本当に思うようにはできませんでした。   コロナの異常さを肌で感じました。

コロナによって在宅医療がどう変わったのか聞きましたが、やることは何も変わっていないという事でした。    病気に向き合っているのではなく、人に向き合っているので変わらないと、根本はそこみたいです。   

「ハッピーエンド」を読んだ人は感想が二つに分かれていて、在宅を経験された方は身近に感じてよくわかる、涙なくして読めませんという方たちがいた半面、経験しているんで読めませんという人たちがいるんです。  僕は看取りの経験はないのですが、多分こういう事になるだろうと想像し、先生にも聞いて確認するとか、リアリティーを描きたかった。  コロナで病院に入っている方は治療も済んで家に帰りたいんだけれども帰れないという人が去年も今もいらっしゃいます。  在宅を選ぶ人は帰れる。  病院にいたら家族に会えない、自分の好きな時に家に帰れない、その苦しみは想像を絶すると、体験した人からも聞きました。 

在宅医療に関してはこの本を書くまで、細かく知りませんでした。    祖父などは自宅で亡くなっているので、またそういう時代になって来るのかなあと思います。   出合う先生によって本当に違うという事はメディアなどを見ても思います。  モデルになっている先生は何人かいてそれをミックスしてあのキャラクターを作り上げました。  兎に角患者に寄り添う、自分がしゃべるのではなく、患者にしゃべって貰う。   死をネガティブではなく捉え、感じさせるか、という事もあります。   寄り添う事は誰にでもできるような気がしますが、或る先生から僕たちは寄り添うんじゃなくて、向き合っているんです、とおっしゃいました。   寄り添う、と向き合う事の違い、向き合うほうが深いというか、患者と、家族と一緒に一体になってその先を進んでゆくという事で、寄り添うというよりももっと奥深さが向き合うという中にあると思って、それを意識して書いたつもりです。 

この医師はスーパードクターではなくて、治さない医者が世の中にいるんだという事をこの在宅医療漫画を描こうと思った時に知って、患者さんと向き合ってどうやって幸せに、充実した時間を過ごしてもらえるのか、という事を考えてくれる医者がいるんだという事が、或る意味自分にとってショッキングでした。   在宅医療漫画の知られていないところを書けると思って、こういう先生を作りました。   日本は死について一番考えない国民だという事を読んだことがあって、死が身近ではなくなった。  ほとんどの人が病院で最期を迎える。  男性よりも女性のほうが死について身近に感じています。  女性が面倒を見なければいけないようなことが意識のなかにあるのかもしれない。  

百家族あれば百家族の物語があるはずなので、百通りの物語が発生するんだと思います。  いくらでも書けるとも言っていましたが、想像を絶する消耗があって、これは長くは続けられないというところは正直有りました。   人の死を漫画で描くと本当にエネルギーを消費すると先輩に言われたことがありましたが、いざ書き始めたら本当だったんだなあと思いました。   読み進んでいくと優しい感じになれるのが、この漫画の一番の目的だったので、亡くなる人を書くわけですが、悲しいことばっかりではないよねという事が自分の中にあったので、死が日常の中の一つだという事が判れば、その日常をどうやって穏やかに過ごすかという事が大切になって来る。   死ぬという事を考えることはどうやって幸せに生きるかという事を考える事なんだという事を読者に一人でも多く伝えたかった。  自分で書きながら学んでいったという経緯があり、テーマとしては全部繋がっているなと思います。

函館の生まれなので、函館のいい景色などを入れてみたいと思って書き入れました。   函館観光大使にも市から依頼されました。  

選択肢に病院で最期を迎えるのと、自宅で最期を迎えるという選択肢があることを、元気な時から知っててもらって、いざそうなったらどちらにするか、意思表示が出来るときにしておいた方が、最後の充実感が違うと思います。  最後を誰とどうやって過ごしたいか、どっちが自分に向いているのか、自分で決められる今は状況なんだと、忘れずに過ごすことは大切だと思います。    お薦めの一点としては師匠の村上もとか先生が「JIN-仁」という医療ドラマを書いていますが、以前先生と一緒に書いていた「クライマー列伝」という山岳漫画がりますが、生と死を描いた作品で是非読んでいただければと思います。







2021年8月25日水曜日