2021年7月4日日曜日

茶風林(声優)             ・【時代を創った声】

茶風林(声優)             ・【時代を創った声】 

2014年にアニメ「サザエさん」のお父さん磯野波平役の永井一郎さんから受け継いだことで知られています。  小中学生の頃はいじめられた経験を持つという茶風林さんに伺いました。

名探偵コナン』の目暮警部、ちびまる子ちゃん』の永沢くんヒデじい、NHKのキャラクターうさじいなど多くのキャラクターを演じている。  

朝6時位にはウオーキングをしています。  今は密にならないという事で番組で顔を合わせる人が少なくなり寂しいです。  生き生きとした会話をするためにはみんなでやった方がいいのですが。    チャップリンが好きだったので、芸名をつけようと思った時に、チャップリンをもじって茶風林としました。   タップダンスもやりました。

中学生の時に少女漫画(学園ラブコメディー)に出会って、その主人公が演劇部での様々なことがあり、頑張っている姿に惹かれ、それが演劇と出会うきっかけでした。  小学4年生の時に舌に腫瘍が出来て、頬っぺたの内側に転移して野球ボールぐらいに腫れ上がってしまいました。   手術をして舌を斜めに切り、頬っぺたもえぐりました。  それ以来ちゃんと喋れなくなってしまって 小学、中学といじめにあいました。  自分の中に封印してしまうので細かな記憶がなくなるんです。   高校で演劇部に入って、そこは男子が少ないのでいじめもなく心の救いでもありました。   ちゃんと喋れないと役がもらえないので、自己リハビリをやりました。  大学でも演劇研究会に入ったら楽しくて楽しくてそこから人生が変わったといっても過言ではないぐらいでした。   

脚本を読んだ時のわくわく感とか、全員で表現する嬉しさがあり卒業したくはなかった。  5年いました。  NHK主催の声優科がある学校に通いましたが面白くなくてやめてしまいました。 学校ではアフレコの授業で春日正伸先生に師事していましたが、春日正伸先生が演出するNHKのスタジオに行く機会があり、行ったら出演者の中で一人欠員が出たため春日さんに突然出演を命じられ端役を担当、これが初アテレコとなる。   その時以来春日さんから時々端役を充てられるようになりました。

芝居をしたかったため劇団新人会に所属して全国を回る生活となりました。  アニメの仕事が来るようになって段々声の方の仕事にシフトしていきました。  爺さん役ばっかり多かった。  1990年 「ちびまる子ちゃん」が始まった時から参加、本役はヒデじいだったが、永沢くん役(性格が悪くて暗い子)もやりますがそのキャラクターをやるのが結構大変でした。   ネチネチいじめるが、過去自分がされてきたこと、どうすれば人が嫌な気持ちになるのか、実は知っているんです。 封印していた嫌な気持ちを深い井戸の底から引きずり出して、いじめの思いを込めてしゃべるわけです。  永沢くん役を引きずってしまってみんなといても面白くないわけです。  だんだん切りかえるようにななりました。

放送開始以来44年にわたり磯野波平を演じた永井一郎さんが亡くなり、引き継ぐにあたってオーディションがあり、そこには大重鎮の方々がいましたので合格するとは思っていなかったが、永井さんの告別式の朝に電話があり、お願いしたいとのことでした。  加藤さん(サザエさん役)から、「このマイク、この椅子は永井さんが使っていたのであなただけが使うのよ」と言われて、とてもとてもと思ったが、後で考えると緊張する私の事を思って周りの人に対していった言葉なんだなと思いました。  だから今はすごく楽です。

声優は空も飛べるし、水の中に潜れるし、あらゆることができる。  嬉しいです。    若い人に対しては好きであったらいいんではないかと思います。  食べられる食べられないは運でしかないような気がします。  しゃべる場合の欠点は訓練でなんとでもなれると思います。










2021年7月3日土曜日

生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師)・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 前編

 生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師)・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 前編

神戸市出身の大澤壽人は昭和初期にボストンとパりに留学して現地では若手作曲家、指揮者として高く評価されました。  昭和11年に帰国し、戦前戦後を通じてラジオ、映画などの場で旺盛な創作活動を続け、1000曲近くの作品を残したのですが、おしくも1953年(昭和28年)47歳の若さで急死しました。   長らく忘れられた存在でしたが、2000年代になってその楽曲が知られるようになり、これまでに10枚以上のCDがリリースされて、オーケストラの演奏会も相次いで行われています。   膨大な資料をまとめて評伝を出版した大澤壽人プロジェクトの代表で神戸女学院大学文学部非常勤講師の生島美紀子さんに大澤壽人の生涯とその作品の魅力について伺いました。 

作品は90年近く前に作られていますが、今聞いても斬新な感じ、新しい感じがします。   時を超える音楽の力をまさに実感させられます。   古関 裕而、古賀政男、服部良一などポピュラーな音楽の有名な作曲家と同時代にとんでもないクラシックの作曲家がいたという事です。 

1906年神戸市に生まれました。  父親の澤壽太郎は神戸製鋼の創業者の一人でした。  昭和初期にボストンとパりに留学、6年に及びました。  ボストンではすぐに若手作曲家として注目を集めます。  パリでは日本人として初めての自作自演の演奏会を開催して大成功をおさめます。  当時邦人作曲家としてあり得ないほどのまれなキャリアでした。

*交響曲第一番  作曲:大澤壽人 

ボストンには4年滞在、交響曲第一番はこの時期を締めくくる大作です。 3楽章で構成されていて、楽譜は178ページもあります。  楽器構成、対位法、和声法などすべてに秀でていないとできません。   対位法は複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和して重ね合わせる技法です。  和声法は西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものです。   交響曲第一番は1934年に作曲しましたが、約80年間眠っていました。  2017年収録したCDが世界初演になっています。  当時ニューイングランド音楽院で学生が演奏を試みようとしたが、難しくて断念した作品でした。

母がクリスチャンであったので幼少から兄妹と共に教会学校へ通い、賛美歌オルガンに親しんだ。  関西学院高等商業学部に進む。 学生時代から有名だった。   1925年にパリからピアニストが来日、関西学院の中央講堂でバッハからいろんなものを弾いてドビッシーに感動して、作曲家になりたいと決心します。   1930年(昭和5年)卒業した年にアメリカのボストンに私費留学、ボストン交響楽団は超一流で先進的で、先進的な音楽都市でした。  ボストン交響楽団の定期会員になり年間シート席を確保したいという事で、これこそ作曲家になる早道だと親を説得する。  ボストン大学では楽曲だけではなく指揮も評価される。   1932年小交響曲を書いて、ボストン大学にとっても学部生が作曲した初めてのオーケストラ作品です。   1933年にはピアノ協奏曲第一番を書いてボストン大学に提出した卒業作品で4年の過程を3年で終了します。  ピアノ協奏曲第一番は前衛的でありながらどこか日本的なところもあります。

1930年代は日本の作曲は黎明期にあったと思います。  そういった時代にボストンでとんでもない留学生がいると評判になったわけです。  1933年(昭和8年)には日本人としては初めてボストン交響楽団を指揮する。   世界恐慌で日本からの仕送りがピンチになるが、篤志家グールドさんが現れ助けてくれる。  1934年コントラバス協奏曲、交響曲第一番を完成させる。   交響曲第一番、コントラバス協奏曲、3つの田園交響楽章のすばらしさ、3つの田園交響楽章は今でもまだ初演されていません。

創作意欲がすごかった。  日本に戻って亡くなるまで走り続けた。

28歳でパリに向かう。  1935年管弦楽団を自ら指揮して交響曲第二番、ピアノ協奏曲第二番、日本の歌曲「さくら」を発表する。 ピアノ協奏曲第二番のピアノ演奏をしたのは作曲家に成ろうと決心した関西学院の中央講堂で聞いたピアニストでした。  世界のキラ星と言われる作曲家も聞きに来ていて大成功を収める。  大絶賛を浴びる。

*交響曲第二番  作曲:大澤壽人 

様々な独奏楽器とオーケストラが対話するように進んでゆき、この時代の交響曲としては珍しい作り方になっていて、壮大に鳴らすこともできる、独奏楽器のそれぞれの特徴を表しながら繊細にも作れるという、そんな感じで音楽が進んでゆく。

1936年日本に帰国する。











2021年7月2日金曜日

池田譲(琉球大学教授)         ・したたかなタコの脳を探る

池田譲(琉球大学教授)         ・したたかなタコの脳を探る 

イカやタコの研究を始めて30年になります。   中でも大きな脳と優れた目を持つタコは学習能力や記憶能力を持っているという事が飼育実験で分かってきたといいます。   海の賢者、海底の賢者ともいわれ、知的な行動をするタコとはどんな生き物なのか、池田さんに伺いました。

日本人はイカ、タコをよく食べる民族といっていいのではないかと思います。    西洋ではデビルフィッシュ(悪魔の魚)とも言われていますが、見た感じがにょろにょろしていてちょっと気持ち悪いというよなところからそういった名前が付いたと思いますが、日本では好んで食べられています。   日本ではコミカルな感じでとらえられています。   タコの種類は250種類ぐらいあります。    日本ではマダコ、イイダコなど数としては多いです。  タコは8本、イカは10本あり、生物学的には腕と言います。   

丸い頭というような部分は実は胴体です。  その下についているのが頭です。     目が二つありますが、そこが頭の部分になります。  そこから8本の腕が伸びています。 軟体動物頭足類 イカ、オウムガイ、アンモナイトが含まれている。  祖先はカンブリア紀あたりからいたのではないかと言われています。   見方を広げると貝の仲間です。アンモナイトは絶滅してしまいましたが、オウムガイよりもアンモナイトに近いです。

タコを解剖してみると、身体の割には脳が大きいです。  脳重量:体の重さに対して脳の重さがどの程度か、を比較すると、脊椎動物の中では哺乳類、鳥類は体の割に脳が大きい。 魚類、爬虫類は体の割に脳が小さい。  タコはその中間ぐらいで、やや哺乳類に近くて魚類などよりは大きい。  

目は2種類あって、私たちのようなレンズのはまった単眼と昆虫の目のような複眼がありますが、イカ、タコはレンズのはまった単眼で人の目とよく似ています。  目もよく発達しています。  軟体動物で脳が大きくて、目が発達していてユニークなグループと言っていいと思います。   イカやタコは1年ぐらいしか生きられない。(中には2年ぐらいいきれるものもあるが。)   呼吸はえらがあってえら呼吸をしています。  口は足の付け根に鳥のくちばしのようなものがあります。  

ヨーロッパでは1950年代、60年代にタコについて盛んに研究されました。  図形の〇,△、□、×を見分けるとか、迷路を解かせるとか、ラットがやるようなことは普通にタコもできてしまう。  もっと高度な観察学習、やっていることを見てまねてしまう、そういったこともできる。  マダコで報告されています。  タコに赤いボールと白いボールを見せて、赤いボールに攻撃させなさいという事を学習させる。(できると餌をあげる)  そのタコと学習していないマダコをガラスを隔てて入れておく。  タコに赤いボールを入れ攻撃するところを、学習していないタコにそれを見せて、一旦赤いボールを取り上げて、しばらくしてから学習していないタコに赤いボールを与えると攻撃するわけです。  隣人がやっていることを見て同じようにやる。  白いボールでも同様に行います。   見まね学習と言いいますが、チンパンジーでも難しいといわれる学習能力です。

映っている自分の像、鏡に関心を示す場合と無い場合と両方あります。  鏡像自己認知実験と言いますが、鏡に触ったり動かしたりする個体もありましたが、関心を示さない個体もあります。  タコにふっと見られてる時もあり、好奇心のある動物なのかなと思います。

子供のころはあまり関心がなかったが、テレビとかで海洋番組が放映されていて、面白いと思っていましたが、特にタコなどへの関心はなかったです。  北海道大学の水産学部水産増殖学科、大学院は水産学部付属北洋水産研究施設海洋生態学部にゆく。  最初はイカの研究から始まりました。  スルメイカの生殖、産卵などの研究をしていました。  恩師から飼育の方法など教えていただき、後々飼育して観察するというベースになりました。  

理化学研究所にいた時に脳に関わる部署にいたので、イカの脳の研究をしようという事になりました。  社会を維持してゆくときに必要な能力、イカは群れをつくるのでイカの脳に関する研究を始めました。  イカの脳が大きいのは群れを成してうまくやってゆくには賢くなくてはいけない、社会脳仮説をイカに当てはめて考えました。  タコでも同様に社会性に関して研究を始めました。  沖縄にはいろんな種類のタコが居て同種類で緊密にふるまうものがいて、ソデフリダコなどはそうです。  タコの社会性という事で関心を持っています。   程度の差はありますが、同種のタコ観に関する関心は少なからずあると思います。  

タコの分類、どこにいるのか、生態状況などは日本では先行して研究されていた。(明治時代以降)    タコの社会性をもっと掘り下げてみてゆきたい。  それに関わる能力、社会認知能力はどうなのか、それに関わる脳はどう働いていているのか、基礎的な研究と、自分の研究を社会的なことに具体的に還元したいという思いがあります。  タコの保全、養殖などに貢献出来たらいいなあと考えています。

















2021年7月1日木曜日

亀田良成(自然観察指導員)       ・ボクのまりもが50年後の大発見

亀田良成(自然観察指導員)       ・ボクのまりもが50年後の大発見 

東京生まれ、73歳。  小学校3年生の時に訪ねた山中湖で湖畔に打ちあげられているまりもを見つけました。  亀田さんは東京に持ちかえり、水槽で育て5年生の夏休みの自由研究として観察記録を作りました。   それ以来今も自宅の水槽で育てています。  時がながれ、山中湖のまりも絶滅の状況であることを知り、大事に育てたまりもを山中湖に返えそうと思い立ちました。   国立科学博物館の専門家によるDNA解析により、亀田さんが育てたまりもは山中湖のまりも「ふじまりも」であることが確認されました。  幻のまりも発見と新聞やテレビで報道され、亀田さんは一躍時の人となりました。   そして亀田さんとまりもの物語は絵本になりました。   小学生時代に出会った山中湖の「ふじまりも」の研究を今も続ける亀田さんに伺いました。  

私が採取した後に山梨県の天然記念物に指定されて、そのあとは取ることが出来なくなりました。   保護されて来たが、今では丸いまりもは見つける事が出来ないですね。  

地元では「獅子のフン」とも呼べれている小さなまりもが湖の向こう岸に打ち上げられているという事を聞きました。  岸についてしばらく歩くと馬のフンのような形をした茶色っぽい緑色の2cmほどの藻の塊が見つかりました。   面白いので家で育ててみようと小さなジャムの空き瓶に4つほど選んで入れました。  これが私と山中湖のまりもの出会いでした。(今から65年前 昭和31年の出来事)

絵本の絵はイラストレーターの斎藤俊行さんで時代考証もしっかりされています。  ノンフィクション絵本となっています。   まりもは綺麗に澄んだ水にしか住まないと考えていたので、気を付けて雨水をためておいて入れたり、水道水を日向で干してカルキを飛ばしてから入れるとか、やっていました。   浮いて来たり数が増えたり面白かったのでずーっと育て続けました。    大きさは3年で約倍になりました。  いつの間にか一つ増えました。  小学校5年生での自由研究で観察日記をつけて行きました。  自由研究の後は庭に移して放ったらかしのような状態でした。 その後母が面倒を見ていました。

母親が老人ホームに行くことになって、まりもを持っていきました。   そこでまりもに関心がよみがえってきました。   母親がすごく喜んでいました。   富士山のまりもを調べたら山中湖のまりもが絶滅しそうだという情報をつかみました。  増えたまりもを持ってゆけないかなと考え、山の趣味の仲間の人に相談したら、国立科学博物館(辻先生 藻類の研究者)へという事でした。  DNA鑑定したら富士まりもであることがわかりました。   

その年の夏休みには国立科学博物館にそのまりもの展示を加えていただきました。  新聞記者が来て全国紙の記事として大きく取り上げてもらいました。  村の方々が会いに来て、まずは村の水槽で育てようという事になりました。  翌年2012年に里帰りしました。   4つの水槽を設けて、山中湖の水、雨水、ミネラルウオ-ター、山中湖の水道水でどのように育ち方が違うか、調べてみようという事になりました。  まりもがいたことを知らない小学生、中学生にこんな素晴らしいものがあったんだという事と、その中から復元に一人でも二人でもいいから参加したいという子がいればいいと思って、授業をやっています。  絵本を使いながら、国立科学博物館の辻先生と一緒にやっています。 8年になります。   4つの水ではそんなに差がなくて、水道水でも大丈夫だということが判り、東京の水道水でも大丈夫だという事も判りました。  

太陽の光を多く当てた方がより成長してくれるのかと思って、アルミホイルで反射光を加えるもの、テープを巻いて暗くするもの、通常のもの、3つを比較しました。   そうすると暗くしていたのが一番よかったんです。  水槽の中はまりもだけではなくて、いろんなものが飛んでくるわけです。  そういったものも成長してしまって、生存競争の中でまりもが負けてゆく状況が起きてきました。  暗いと条件が悪いがまりもは暗くても案外育つんです。  水草,藻だとかは全然育たずに、まりもは水槽内を独り占めできるんです。

潜水調査をしてきて、令和2年の時には以前よりもよくなってきていましたが、今回の調査では前よりもよくないという結果になっています。  山中湖の気温、水温が著しく上がってきている。  水域を区切って本格的な自然復帰のところまでやって行きたいと思っています。  過去のまりもはどうだったのか、きっちりと文章にして残して行きたいと思っています。










2021年6月30日水曜日

原田マハ(作家)            ・ゴッホへのお土産

 原田マハ(作家)            ・ゴッホへのお土産

1962年東京都生まれ、大学卒業後森ビルの森ビル美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年フリーのキュレーターとして独立。  2003年にカルチャーライターとして執筆活動を開始し、2005年には共著で『ソウルジョブ』上梓。  そして同年、『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞、2006年に作家デビューしました。  2012年に楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞受賞、2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞受賞、ほかの著作に本日は、お日柄もよく』、『キネマの神様』、『たゆたえども沈まず』などアートを題材にした小説を多数発表しています。   画家の足跡をたどった『ゴッホのあしあと』やアートと美食に巡り合う旅をつづった『フーテンのマハ』など新書やエッセーなども執筆されています。

リボルバー』という長編小説は舞台になる戯曲を書いてみないかという話を頂いたのがきっかけです。   ゴッホゴーギャンをめぐることですが、戯曲は書いたことがなくて、原作になる小説を書いてみて、それをベースにして戯曲を立ち上げるというのだったら出来そうなので、そういう形でやらせてくださいという事で引き受けました。  1年間連載を書いて戯曲を書きました。  ゴッホは小説としては2作目です。  

『たゆたえども沈まず』はゴッホが出てきますが、ゴッホの入門書というような形として、書きました。  それを入れると3冊目になります。

ゴッホは特殊な人だなあと知れば知るほど思いますが、私もアートにずーっと親しんでいた人生でしたが、何かアートにかかわる仕事をしたいと思っていました。   ピカソ、マティス、ルソーはありだなと思ったが、ゴッホはないよなと割と早くから思っていました。 日本で何故か人気があるし、放っておけない画家、だけどはまると怖い抜けられなくなると、最初から思っていました。   気になるけど遠ざけていました。 

『たゆたえども沈まず』を書き始めた時に、林忠正という実在の画商で19世紀末のパリで浮世絵、日本画を広めた人で、林忠正を主人公にして書こうと思ったのがきっかけでした。取材するなかで、浮世絵を愛する画商と浮世絵を愛する画家、で接点があるのではないかと展開してゆきました。   二人の接点があるようにここではフィクションで書きましたが、入り口は林忠正でしたが、出口はゴッホでした。  気がついたらゴッホの足跡をたどっていて、小説の中でもう一回再生してみようと思いました。

リボルバー』  ゴッホとゴーギャンの関係はさらっと過ごせるような関係ではなくて、アルルでの共同生活の最後のほうで自分の耳を切ってしまうという自傷行為に臨んだという美術史上でも有名な話です。   ゴッホが非常にもろくて感受性が高くて傷つきやすいタイプに対して、ゴーギャンはあっけらかんとしていて、計算高くて、友達のことも振り向かないようなタイプだと一般的に思われがちなところがあります。  実はゴーギャンは優れた感受性をもって感度の高い人で、ゴッホとはベクトルは違うが、モダンアートの先陣を切ってさきがけを作った大人物です。  本当に何があったのかという事は二人にしかわからない。  小説家の特権として思い切ったフィクションを書かせてもらうという事で、この二人を盛り込んだ最大の理由ですね。

19世紀パートと21世紀パートに分かれていて、後半でゴーギャンが独白するような場面があり、彼が抱えていた孤独、野望、彼の人間性だとか、人生に思ったほど注目されていないという事を彼を調べ始めてから思ったことです。  ゴッホとすごく似ているんですね。自分が見たくない側をお互いに突き付け合っていたというところかもしれないですね。  合わせ鏡のように自分が写っていたのかもしれないですね。  アートを中心に据えて共同で制作をしようと言い出したのはゴッホですが、お互いが孤独の中で制作してきた時間が長かっただけに、相容れないところがあったかもしれない。  

食うや食わずだった人たちが、後世では大スターになって、彼らに見せてあげたいという事はみんな普通に思いますね。  しかし彼らは自分たちがやりたい様にやってきたので、モダンアートの素地をこの二人は作ったと思います。  彼らが幸せだったのか不幸だったのかという事は私たちの概念で決める事ではなくて、彼らが残してくれたものだけが真実だと思います。    

原作のプロットと、戯曲のプロットはほぼ同時に作っていて、戯曲に作っていくという事は大変楽しい作業でした。  戯曲の場合はト書きが非常に少なくて、会話に集中すればいいのだという事がすごくおもしろかったです。  ゴッホとゴーギャンの会話に一緒に立ち会っているような感じでした。  東京公演は7月10日から8月1日まで行います。   大阪公演は8月6日から15日まで行います。  安田章大さん(ゴッホ役)、池内博之さん(ゴーギャン役)、大鶴佐助 さん(テオ役 ゴッホの弟)がイメージを重ねるようになってくれればいいなあと思います。

私は小さいころからアートと本が好きな子でした。  父が美術全集を出す出版社のセールスマンでした。   サンプルのストックが家にいっぱいあり、3歳ぐらいの時に画集を開いて見ていました。  モナリザなどの模写をやったりしていました。  父は非常に破天荒な人で宵越しの金は持たないといった人でした。  父なりの教育方針があって私が欲しいというものがあれば3つは買ってくれたりました。  一つ目は本でどのような本でも欲しいものは買ってくれました。  二つ目は展覧会に行く事、三つめが映画です。  子供ではないものも見せます。  「男はつらいよ」、を7歳の時に見ました。  山田洋二監督,小津監督、黒沢監督などの作品は父に連れられてよく見に行っていました。

ピカソ、ルソーなどの絵を見ると、将来クリエーターになって、この人たちを創作の中に取り込んでみたいとずーっと思っていました。   楽園のカンヴァス』が出版された時には、構想25年と帯に書いてもらいましたが、まさにそういう意味です。

度胸と直感がセットになって動いて来ました。   まず直感が動いて、立ち止まったりすることがありますが、その時にはゆく方を選びました。 とにかくやってみようという事です。   あと好奇心が強いですね。  それが作家になった最大のエンジンだったかと思います。  小説は私の好奇心の結晶のようなものです。  リボルバー』はまさに私の好奇心が全開になっているものなので、それが読者に伝わればいいなあと思っています。 戯曲に対しても同様に好奇心です。












2021年6月29日火曜日

樋口純一(老舗折詰弁当店八代目当主)  ・江戸から続く味を守って 

 樋口純一(老舗折詰弁当店八代目当主)  ・江戸から続く味を守って 

かつては江戸で働く人々を支え、現代でも当時の食文化を伝えるものとして親しまれている老舗の味、そのお弁当への思いやコロナ禍での奮闘を伺いました。

日本橋で江戸時代後期に生まれた折詰弁当店の8代目。  創業171年、特徴が木の折箱に詰めた折詰弁当。  店の名前が染め抜かれた半纏には魚マークに市場と書かれているが、今は豊洲、そのまえは築地でしたが、もともとは日本橋で魚河岸で発祥したんです。  その名残で魚河岸の意匠が入っています。  最初は樋口屋という食堂でした。  大盛が特徴だったが食べ残してしまったりして、もったいないと思った初代が、残ったものを竹の皮とか経木(木を薄くスライスしたもの)にくるんで、持ち帰っていただくという事を始めました。   そのサービスが非常に好評で、最初から持ち帰り用の要望が出てきて、3代目の時には持ち帰りのほうの需要のほうが多くなっていた。  3代目の樋口松次郎の時に食堂から「弁松」という名前の弁当屋になった。 

去年2月ごろからコロナ禍の影響を受け始めました。  お弁当は木で出来た折箱でいい香りがします。  卵焼き、野菜の煮物(タケノコ、レンコン、絹さや、ゴボウ、里いも、シイタケ)、四隅にメカジキの照り焼き、しょうがのから煮、豆きんとん、かまぼこ、つとぶ(つと(すだれ)で巻いた麩だからつとぶという)  濃い甘辛い味。  里いもが一番長く煮ていて2時間から2時間半煮ます。   全体的におかずそれぞれファンが出来ていて、卵焼き、メカジキの照り焼き、つとぶ(関東でも珍しい食材)などはファンが多いです。  

深夜0時から0時半ぐらいから作業を始めます。  忙しい時は前日の22時ぐらいからの時もあります。  濃い甘辛い味付は日持ちを良くしたかったことと、肉体労働でカロリーを高くしたかったのではないかと思います。  砂糖は高価だったので見栄の部分もあったのかもしれません。  関東は硬水なので鰹節、煮干しを使っても魚臭さが残ってしまうので濃い口醤油を使ったので味も濃くなってしまう。

小さいころは下が工場になっていて、上が住居で朝は匂いや作業する音がよく漏れていました。  大学に入って自分の家の価値がだんだん判ってきました。   新潟の親戚の料亭で修業をして、その後世界旅行に出かけてしまいます。(7か月)  矢張り日本の食が一番だと思いました。  25歳で実家に就職。  卵焼きを3つの鍋で練習するとかしましたが、半年後に父が突然亡くなってしまい、急遽社長を引き継ぐことになりました。 最初何から手をつけていいのかわからない状態した。   前の人たちの店の方向を示す設計図を理解することから始めなくてはいけなかった。   老舗の会合などにも参加しますが、最初は全然わからなくて、段々と顔見知りになっていきました。  店を繋いでゆくことが一番大事なことというふうに考えると気持ちが楽になっていきました。   

就業規則、給与体系、有休とかあまりしっかりしていなかった。  そういった部分の整理をして行きました。   それまでは職人の世界でした。  工場の設備も徐々に新しく導入していきました。  人間が働きやすい環境つくりをしています。  ツイッターでの発信も始めました。  コロナの影響でお客さんとの繋がりを考えて始めました。      2021年2月2日に大きなキャンセルがありキャンセル料もいただけず、廃棄処分も大変です、何とか助けてくださいといった内容のツイッターを発信しました。   「いいね」ボタンがおよそ5万回押されました。  家だけでなく関わっている業者さんなども死活問題になるわけで、応援してくれていた方たちへの発信だったんですが、拡散してゆきました。

キャンセルした材料を使ってお惣菜セットの通販という事でした。  それがものすごい反響でした。  木の折箱も好評でした。  食べる事だけが楽しみではなく、全く別の部分の体験というのが知らないところで生まれて、それをお客様が楽しんでいるという事になりました。  日本のいろんなところにファンがあるんだなという実感と広める余地もまだあるんだなという事が判りました。   味は変えることはなく、調理しているところの見せ方ができるようになったので、アピールしていきたい、価値をもっと伝えたいと思います。












2021年6月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】種田山頭火

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】種田山頭火 

僧侶の姿で托鉢をしながら旅をして俳句を詠んだ種田山頭火 、その最初の句集「鉢の子」が出たのは昭和7年6月20日でした。

「私が自叙伝を書くならばその冒頭の語句として、私一家の不幸は母の自殺から始まると書かなければならない。」       山頭火 

山頭火の代表的な句

分け入っても分け入っても青い山

「まっすぐな道でさみしい」

「どうしようもない私が歩いている」

「うしろすがたのしぐれていくか」

九州から東北のほうまで旅をしている。   俳句のほかに日記も残している。    1882年明治15年)12月3日生まれ。   山頭火 は自由律俳句で5,7,5でなくてもいいし、季語もなくてもいい。

「音は時雨か」という句もある。 

「俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい。   一句一句に作者の顔が刻み込まれてある。  その顔が判らなければその句は本当に判らないのである。」と言っている。

母親が自殺した時には山頭火はまだ9歳だった。   母親は自宅の井戸に身を投げた。 井戸から引き揚げられた母親の死に顔を見てしまっている。  母親は32歳の若さ。  結核を患っていて寝ていたが、夫の身持ちも芸者遊びをしたりしてよくなかった。    いろんなところを放浪するようになったのは母親の自殺があったと思う。   

「家庭は牢獄だとは思わないが、家庭は砂漠であると思わざるを得ない。  親は子の心を理解しない。  子は親の心を理解しない。  夫は妻を妻は夫を理解しない。   兄は弟を弟は兄をそして姉は妹を妹は姉を理解しない。    理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に眠っているのだ。   彼らは理解しようと努めずして、理解することを恐れている。  理解は多くの場合において、融合を生まずして、離反を生むからだ。  そのとき離れんとする心を骨肉によって盗んだ集団、そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。」  随筆「砕けた瓦 (或る男の手帳)」から

家庭に対する不満が書かれている。  「理解は多くの場合において、融合を生まずして、離反を生むからだ。」とも言っている。   理解し合える場合もあるが、話し合ったために余計に事態がこんがらかってしまう事もある。  人間関係のつらさを見事に言い表している。   姉がいて妹がいて、山頭火は長男で弟が二人いる。 三男は5歳の時に病気でなくなっている。  次男が自殺している。  父親がコメ相場に手を出して家が傾いてしまう。  山頭火も大学を中退して家に戻って来る。  酒蔵の経営をして結婚もして子供もすぐに生まれるが、酒蔵が破綻してしまう。  熊本に戻って再出発するが、弟が自殺してしまう。(弟は31歳)  

「天はもはや我を助けず、人又我を哀れまず」  弟の遺書に書いてあった言葉。

山頭火は酒好きだったが、この時から量が増えている。  一人東京に行って仕事をするが、ここでも大きな事件が起きる。

「人々に幸福あれ、災害なかれ、しかし無常流転はどうする事もできないのだ。」山頭火 (日記の中の言葉)

 大正12年9月1日 関東大震災が起きて、山頭火は湯島にいたがその家も焼けてしまう。   憲兵などが社会主義者を弾圧していて、山頭火も間違って逮捕されてしまう。 誤解が解けて熊本に戻るが、その間に妻の実家が怒って妻とは離婚となる。  酒に酔って路面電車を止めてしまい危うく轢かれてしまうところだった。  騒然としているところを知り合いが連れ出して禅寺に連れて行って、そこに住みついて出家することになる。  そこから山頭火の旅が始まる。(43歳)

最初九州に行き、九州の山のなかで 「分け入っても分け入っても青い山」を詠む。 

「泣きたいときに笑い、笑いたいときに泣くのが私の生活だ。 泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うのが私の芸術である。」    山頭火 随筆「砕けた瓦 (或る男の手帳)」から

「 私一人の音させている。  私一人の音させている。 咳がやまない、背中をたたく手がない。  咳がやまない、背中をたたく手がない。  雨だれの音もとった。   雨だれの音もとった。」 山頭火の俳句 3つ  草木塔の句集から

独り旅先で病気をするとすごく困るし、老いも困る。  

「あまり健康だったから、健康という事を忘れてしまっていた。  頑健、あまりにも持て余す頑健。  私は私の健康を呪う。  私はあまりに健康だ。」

そうでないと旅はなかなかできない。

「私の念願は二つ、ただ二つある。 本当の自分の句を作りあげることがその一つ。  そしてほかの一つはころり往生である。  病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介を掛けないで、めでたい死を遂げたいのだ。  私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じている。」    山頭火   

実際に脳溢血でころり往生したらしいです。(57歳)

放浪生活について山頭火に相談した人への言葉                   「流浪はいけません。  私としては到底賛成することができません。  その心持は判り過ぎる程判るだけに。」   山頭火

「本当でない、と言って嘘でもない生活、それが私の現在だ。」   山頭火      

「「本当でない、と言って嘘でもない生活」というところがいいですね。