2021年5月31日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】 

滋賀県大津市、琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構えて、里山環境を取り戻すために活動しています。  今年の春から初夏のオーレリアンの様子について、伺いました。

オーレリアンの庭とか土手にフキノトウが咲きます。  それが春が来たという印です。  いろんな背丈の低い花が咲き始めます。   仏の座という綺麗なピンク色の花がありますが、一杯咲きます。  たんぽぽがだんだん咲いてきて土手全体に広がっていきます。  草の葉っぱが出てくるので土手、あぜ道が緑色になります。   このころ田起こしがあり、土を撹拌する農作業が始まります。   そのあと水が入り苗が植えられます。

今は木の葉っぱが新緑で、木の花がちょこちょこ咲いています。   ガマズミ、ウツギなど白い花、キバナウツギが黄色い花が咲きます。  アゲハチョウそれからキマダラヒカゲ、ヒカゲチョウ、クロヒカゲなどがだんだん出てきます。

「光の田園を歩こう」というイベントを開催しました。   東西に繋がる棚田があり、谷があり、そこが好きで光の田園と名付けて写真を撮ったりしてきました。   アトリエもそこに沿ったところにあります。   棚田がうねっていて昔の風景が残っています。  ここを歩くことを年に2回開催(新緑のころ、秋)しています。   中学生から高齢まで全部で70人ぐらいです。(コロナで人数を制限)    今回は田んぼの真っただ中を歩きました。  シュレーゲルアオガエル、アマガエルなどがずーっと鳴いています。  あぜ道には初夏の花が咲いています。      五感を駆使して環境を受け止めています。  感性に栄養を与えます。

去年、梅の木をたくさん植えました。  高さ30~40cmぐらいのものです。   周辺の雑草を刈るのを年に数回ありますが、そろそろ1回目をやる時期です。  周辺を手で刈って、そのあとに草刈り機で刈っていきます。(幼木を刈ってしまわないように)    木は成長に時間がかかるので、枝ぶりとか考えてかなり計画的に行います。    思い入れのある木はエノキという木で、エノキだけしか食べないチョウチョがいて、オオムラサキ、ゴマダラチョウ、ヒオドシチョウ、テングチョウはエノキしか食べない。  里山のチョウチョでエノキが減っていって、これらのチョウチョが激減しました。  大津でも一時期ほとんど見られなくなりました。    タマムシもエノキが大好きです。   虫がたくさん集まるので嫌がられるのと、開発によって、どんどんエノキがなくなりました。

見えなかったが、竹藪を伐採る中で樹齢150年もするエノキが出てきました。   もうそれから5,6年たちましたが、樹形がよくなってきました。  去年はタマムシがたくさん見られました。   

2019年7月「丘のうえのいっぽんの木に」という切り絵の絵本を出版、エノキが主人公の絵本。   思い切って黒紙の切り絵にしました。  文章も自分で書きました。

エノキの発見箇所から20mぐらいのところには山桜あり、変な形をしていました。    こちらも樹齢150年以上のものでした。  今年ようやく花が咲きました。  多分昔、農家の人の田植えの時期の目印にしていたと思います。   

里山では、みんなで生きているという事が必ずしも助け合って生きているというイメージではなく、それぞれが自立している、自分を一生懸命生きている。  自分が一生懸命生きていることが他者に影響を及ぼして、全体を成長させることになる。  植物たち、生き物たちみんなそうしている。  その中に当然人も含まれるわけです。  農家の人もそうで、田畑を耕して米、野菜などを収穫することによって、それが結果的に生き物にとってもいいんです。  里山を見ていると「、みんなで生きている」という事を強く感じます。

人に遊び場を提供してくれるような包容力にある農地を目指している、そんな感じです。 農薬は一切使わない。   自然を学ぶという事はありとあらゆることの基本という気がします。   日本人はどこから自然を学べばいいのか、そういった場所がなくなり危惧しています。  人に会えないコロナ禍であるからこそ里山に出かけて欲しいです、自然に親しんでほしいです。

 






2021年5月30日日曜日

鈴々舎馬風(落語家)          ・馬風師匠の65年

 鈴々舎馬風(落語家)          ・馬風師匠の65年

千葉県野田市出身の馬風さん、17歳でさん師匠に入門し、二つ目で柳家かゑるとなり、キックボクシングのリングアナウンサーとしても活躍しました。   1973年 34歳で真打となり、鈴々舎馬風を襲名しました。   現在81歳、落語協会の最高顧問ですが、今年1月中旬に新型コロナウイルスに感染して入院、糖尿などの持病があったため心配されましたが、3月15日無事に退院しました。  今年柳小さん師匠に入門してから65年、新型コロナウイルスのことや落語のことなどを伺いました。

2か月ベッドで寝たきりで筋肉が衰えてしまったが、退院して1か月ぐらいで歩きました。   今年1月中旬に新型コロナウイルスに感染してしまいました。   いよいよお迎えが来たなと半分あきらめました。   熱が37.5度から38度ぐらいでした。   楽屋に入るとマスクを取ってしまってこれがまずかったです。  ちょっと動くと息切れしました。  糖尿と腎臓が悪いんです。   いい薬があるという事でしたが、これを飲むと血糖値が上がってしまううので、朝、昼、晩、ともう一回、一日に4回インシュリンを注射しました。  最初は6,7錠で強い薬で、今は2錠になっています。 入院中は酸素を使って居ました。 胸の陰りが無くなっていきました。   家に帰ってからは妻と娘が看護師役をよくやってくれました。    高座は6月17日から20日まで浅草演芸ホールを予定しています。   金馬さんは10歳上ですが、頑張っています。

1939年千葉県野田市生まれ。  床屋で8代目でした。  屋号は京屋と言っていました。 中学卒業後、国際文化理容学校に入りましたが、継ぐ気がなかったので遊んでいました。  落語家になりたいと思ったのは小学校6年生ごろです。  落語は本を読んで学びました。 落語家への道を諦めきれず、知人の太神楽鏡味一鉄さんの紹介で誕生日である12月19日に5代目小さんの内弟子になりました。(17歳)     前座は小光と言っていました。(1956年)  1960年(昭和35年)二つ目に昇進(21歳)柳家かゑるになりました。 

1967年(昭和42年)からキックボクシングのリングアナウンサー、歌手の公演の司会なども務める。(アナウンサー馬場雅夫さんの紹介)  当時沢村忠選手が居ましたが、日大の空手部出身でものすごくジャンプ力がありました。  プロレスのアナウンサーもしましたが大変でした。   こういったことをやって世の中へ出るきっかけになりました。   師匠からは「何をやってもいいが噺家だと言う事だけは忘れるな」と言われました。

今は落語家の格が上がってきましたが、みんな名人になろうと思って色が似てきてしまった。   師匠は「滑稽話は若いころ、人情噺は年を取ってからやれ」と言っていました。寄席はいろんな噺家が出て、漫才、曲芸、マジックがあったりしたほうがいいと思うので、噺家も偏り過ぎているところがあるかも知れないです。  

ラジオ深夜便はよく聞いています。  古い歌も聞きたいです。  

コロナで今はみんな苦しんでいますが、我慢して力を蓄えて行ってほしいところです。











2021年5月29日土曜日

松重豊(俳優)             ・【私の人生手帖(てちょう)】

 松重豊(俳優)             ・【私の人生手帖(てちょう)】

1963年長崎市生まれ、福岡県で育ちました。  福岡の高校から大学に進学し、卒業後,故蜷川幸雄さんが主宰する蜷川スタジオから俳優の道がスタートします。   以後、舞台や映画、TVドラマなど数多くの作品に出演、その確かな演技には定評がありますが、昨年出版された著書のタイトルは「空洞のなかみ」で、役者は単なる器に過ぎないというのが持論です。   その真意はどのようなものなのか、そしてそうした内面を形作った出会いはどのようなものだったのでしょうか。

今、身長は187cm(若いころは190cmあった)で、昔は合う衣装がなかったのではじかれていました。  食べるものもあんまり食べないで体形を維持しています。   子供のころは相撲が大好きでした。  勝負が決まるのが早いことと、そこに行くためのプロセス、駆け引きのプロセスが子供心に面白くて、ほかの格闘技にはない公平さ(裸にまわしだけ)に惹かれて相撲取りになりたかった。   「相撲」という雑誌の対談へ応募して、豊山関に「相撲取りになりたい」と言ったら、「高校、大学に行ってそれでなりったかったらおいで」といわれて、そのまま帰ってきてしまいました。

NHK総合土曜ドラマ今ここにある危機とぼくの好感度につい』 最終回になりますが、大学の総長役。  本当は去年の春ごろにやる筈でしたが、コロナとかウイルスにちょっと触れていたりするので、予言していたぐらいで、作品としては撮れませんでした。  仕切り直しをして昨年の12月からり始めました。   こっちがどんな球を投げても松坂桃季君が受け止めてくれるんで、楽しいと思う瞬間があり、コロナ禍であってもコミュニケーションを取れて、よかったなあと思います。

1986年に大学を卒業、蜷川スタジイオに入団。  東京に出てきて生で見る演劇の衝撃に打ちのめされました。  今やるのは演劇だと思ってしまいました。  蜷川さんについて3年半やって、この世界で生きてゆく最大の財産になりました。  蜷川さんが「3年で野良犬をオオカミにして世に送り出してやる」と言ってましたが、言葉の暴力、ものは投げられたりありました、このままここにいたらだめだと思って3年半で逃げ出しました。   1年半後にまた演劇の世界に戻ることになります。   勝村 政信君から1回だけやらないかと誘われて、芝居をやって建設現場に戻ってきたら、転落事故を起こして芝居に戻る事になりました。  建設関係のアルバイトは引き続きやっていました。

お芝居は稽古初日から本番までどういう組み立て方をしなければいけないかという事と、本番初日から楽日までどういう風に過ごさなければいけないのか、日々努力して更新してゆくことを怠るなという事。   そういう積み重ねがいつか実を結んで売れるという事になり、売れたらいろんな人が見に来てくれる。  これがこの世界の基本ルールですよね。

「空洞のなかみ」 昨年出版。  役者というものは、役はそのタイミングで与えられるものだし、役作りも僕の中では作る必要のないものだと思っています。  器の中にたまたまその役が入ってきて、それが出たり入ったりの繰り返しなんで、自分中心の物事を考えないほうが、いいと思います。  若いころは自分で作ろう作ろうとしていました。  セリフを覚えてくることがまず第一番ですが、相手の目の動きとか、手のしぐさとか、そういうものに感じるということでお芝居ができるという事、そこが一番面白いからやっている感じがします。   できれば空っぽになってカメラの前に立ちたいなあと思っています。

自意識を捨てるという風になるのにはずいぶん時間がかかりました。  広隆寺の弥勒菩薩を前にして、ぼーっとしたりして、ぼーっとすることも大事と思って、禅だとかに興味が浮かび座禅道場に行き始めたり、仏教の本を読んだりしました。   自分を見つめていることからお芝居も楽しく成りました。  仏教でいうところの空の境地に近づけたらいいなという気分ですが、そういうことで楽になってきました。

「孤独のグルメ」  原作を見たら面白いんです。  飯を食べるだけでいいんですね、と言ったらそうですという事でした。  よけいなことだけはしないという事はお伝えしました。  主役は出てくる料理、食べ物で、僕はサポートするキャストだという風な関係です。  本番まで出てくる食べ物は食べないで、ドキュメンタリーに近いものです。

僕は元々音楽が好きで、蜷川さんもお芝居に音楽をつける感覚でいうと、日本でも第一人者だと思って、憧れがあったんで、映画を見る時間よりも音楽を聴いている時間が圧倒的に多かったので、音楽は僕にとっては無くてはならないものなので、ラジオ番組もやらさせてもらっています。  生活の中にずーっと音楽がかかっている感じです。  オーティス・マクドナルドに今ははまっていまして、「ホリデー」という曲が好きです。








2021年5月28日金曜日

北斗晶(タレント)           ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】いつまでも笑顔が続きますように

北斗晶(タレント)    ・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】いつまでも笑顔が続きます 

北斗さんは女子プロレス界の人気選手として活躍した日本で初めてのママレスラーでもあります。   27歳の時にプロレスラーの佐々木健介さんと結婚、34歳で引退した後も、主婦タレントとして多くのテレビ番組に出演し、鬼嫁として人気を博しています。   現在53歳になる北斗さん、これまで健介さんが所属していた、プロレス団体が崩壊して収入が途絶えるなど数々の逆境を乗り越えてきました。  北斗さんは夫婦、親子、人生についてどんな風に考えているのか伺いました。

長男が22歳、次男が18歳です。   長男は18歳からカナダに留学しましたが、去年の夏休みに帰ってきました。  コロナ禍で今はまだ日本にいます。   地球儀が好きで母の日に世界地図をもらいました。  行った国を削っていくタイプのものです。  ブロガーが140万人以上になっています。   女子プロになって包丁を持つようになりました。  やっているうちにアレンジ料理みたいに繋がってきました。   コロナ禍で仕事が激減してしまいました。   夫婦仲は友達みたいだし、仲はいいと思います。(結婚 26年)   黙って私の文句を聞いているだけなので喧嘩にはならないです。

子供が宿っているのも知らずに2か月ぐらいは試合をしていました。   子供が出来たら引退したいなと思っていました。   全日本プロレスという協会に所属していましたが、25歳で定年、酒、男は駄目という決まりがありました。  全日本女子プロレスを作った松永会長の25歳ぐらいになったら結婚して幸せになりなさいという親心でした。  結婚しても続けられたのは特例を認めてもらえるようにしてくれた健介のおかげです。  

生んだ時には一人の人間を世に出す命の痛みだと思いました。  興業がすれ違う中での出産でした。  母乳が出なくて、参考書を買って読んで、3時間おきにミルクを与えるとか書いてありましたが、起きないんです。   泣いたらやるようにましたが、起こしても飲まないんです。  子供たちは90%ミルクで育てました。  虫歯は一本もなかったです。  母乳、母乳とか、成長が遅いとか情報に振り回されて悩んだりするのも、という感じはします。

健介がいないときにお風呂に入れるのが大変でした。   必死でやってきたのでいろんなことを覚えていないんです。   出産して8か月後にリングに上がりましたが、引退しようと思っていました。    子供のいるレスラーは日本初だったので、引退できなくなってしまいました。(マスコミが大きく取り上げてくれたりした)   会場に子供を連れて行って、面倒を見ました。    熱が出たり、吐いてしまったりするとこもあり、自分のやりたいことに子供を付き合わせて、なんて悪い母親だろうと思った時がたくさんありました。   

プロレスが好きになったのは私を生かす道だと思いました。  埼玉県の吉川市で生まれましたが、小学校は歩いて1時間かかりました。   中学は自転車通学で40~50分かかりました。   自然と体力がついていきました。  祖母がプロレスが大好きでいつもテレビにかかっていていました。  高校で一番仲良くなった子がプロレスファンでした。    友達と一緒に新日本プロレスの轟の道場に見に行ったら、出てきたレスラーから女子プロレスになったらどかといわれて、この道に入りました。   

仲のいい友達がいましたが、或る時突然亡くなったという電話が入ってきました。  お通夜に行ったときには長男が2歳半ぐらいで彼女の娘が3歳ぐらいでした。  「ママは死んじゃったんだよ」とか長男と会話をしていましたが、このぐらいの年の子は分からないんだという事を初めて気が付きました。(死の意味がわかっているようでわからない)   そんなことがあっって、肘を痛めていてお通夜の帰りに長男を抱っこできなくて、やめようとふっと思いました。  その日に会社に引退の連絡をしました。

健介の収入が一時、全く入らなくなってしまった時がありましたが、私の実家が専業農家だったので、父親が米だとか野菜類を届けてくれました。    健介に言ったのは、周りのほかの人の文句をめちゃくちゃ言いました。   健介をこのままにしておくことはできないので私がマネージャーをやることにしました。  周りからの非難もありましたが、必死で食って行かなくてはいけないので、鬼嫁、鬼嫁と書いてくれることでブーイングから声援に変わるようになりました。  テレビの出演要請も出てきまして、今に至っています。   ちょっとしたことでもよく言われるのは、悪党役だったからで、ラッキーです。

いいお母さんとかを決められるのは自分の子供だけですよ、世間の声は関係ないです。  型にとらわれる必要はないと思います。  こんな私ですが、子供たちは私のことを大好きですから。






 







2021年5月27日木曜日

2021年5月26日水曜日

高木絢子(園芸研究家)         ・【心に花を咲かせて】バラに夢中でいつしか半世紀

 高木絢子(園芸研究家)      ・【心に花を咲かせて】バラに夢中でいつしか半世紀

バラの世界でマダム高木として知られていて、たくさんのバラの本を出しています。 87歳、庭にはゴールドローズ、モダンローズ、蔓バラなどたくさんのバラを育てています。  バラの魅力や高木さんがなぜバラに夢中になったのか、バラ栽培半世紀を経て今何を思っているかなど伺いました。 

庭には約200種類のバラがありましたが、だんだん減ってきて100種類ぐらいかと思います。 バラの栽培には体力が必要でだんだん減ってきました。   お気に入りのバラは年々変わってしまいます。   感動した瞬間がたびたび来た花に関心がいきます。   なぜかいろいろ変わってしまいます。  時間、温度、湿度、木の立ち具合によっても花は違います。  一輪ずつ全部違います。  色も変化して行きます。   オレンジ色のマダムシェルルソバーはフランスの有名な育種家シェルル・マルランという方がいい花をたくさん作りました。 この花は直径10cm以上あります。   隣りは生き生きした鮮やかな赤いバラ。 葉っぱも形も色もいろいろ違います。  薄いピンクの小さな花がたくさんついている、これはオールドローズでブラッシュブールソールです。   バラの種類はわかりません、多分何万とあるかと思います。

肌色に近いようなバラ、アンブリッジローズ これはイングリッシュローズで割と新しい花です。(1990年)  黒バラと呼んでいますが、深いワインカラー。  青いバラはないです。  バラは肥料好きです。  芽出し肥、花が終わったらお礼肥もあげますし、水も欠かさずあげます。 気温、湿度などによって水のあげ方も変えます。 木の大きさによっても変えます。

今年は咲くのが早めでした。  ちょっと色も違って濃かったり薄かったり咲いています。

咲き終わったら芽の先をつんだり、春と秋には剪定をします。 何にもやらなくてもいい日はないです。  その分大きな感動を与えてくれます。 言葉にならないが花と会話をしています。  

何時バラが好きになったのかわかりません。  いろいろきっかけがあって少しずつ少しずつ好きになっていったような気がします。  父が植えたバラを、父が亡くなって世話をするようになったのが、世話をする最初でたくさん咲きました、50年前ぐらいになります。  ピースという蔓バラでした。   その後いろいろ栽培を教えていただいて、俄然やる気になりました。  当時は鈴木 省三 (すずき せいぞう)先生の本と柳さんの本と2冊しかなくて、両方見ながら作っていた覚えがあります。  バラを売っているようなところもありませんでした。  洋書にはバラの本がいろいろあったので苦労しながら読みました。  育種家の特徴、国の特徴もあり、時代によってもいろいろあり、バラも最初は野生種から始まったというようなこともそういった本から教えられました。  バラの系統も外国にはしっかりありました。

野生種は紀元前2000年前ぐらいからいくつかあったようです。  単片で5枚の花弁でしたが、花びらが増えて行って、花も大きくなっていきました。  人間が自分で植えるようになって人工交配が始まります。   時代によって変わっていって、美しさを求めるその美しさが変わっていっているということを感じます。  

大きな花を一輪咲かせるものをコンテストにもっていったりしていましたが、房咲きも出していいようになってきて、ミニバラもできてきましたが、大きく変わったのはイングリッシュローズが出てきたことです。  イングリッシュローズを作ったデヴィッド・オースティン は50年をかけてオールドローズの形をした、四季に咲く花を研究した。

オールドローズは春にしか咲かないバラです。  四季に咲く花が作られるようになりました。 (春、秋 国によっては一年中咲いている)  四季咲きは中国にあり、突然変異でできたもので、それを大事にしてそれを親に使って、今の四季に咲く花が作られた。

1年がかりで計画を立ててイギリスにバラを観に行きました。(34,5年前)  人々のバラに寄せる思いが違いましたし、風景も違いました。   その後毎年イギリスにはいきました。  

育てる方の思いが今日までつながって、今あるバラに繋がっているわけです。  その花が咲きたいように咲かせたいと思っています。  もっと美しい時があるのではないかと探すが、向こうからは来ない、こっちから見ようとしないと見えない。  もっと知らなければと思っています。  バラからは一杯感動をもらっています。



2021年5月25日火曜日

内堀タケシ(写真家)          ・故郷に帰れない子どもたちに

 内堀タケシ(写真家)          ・故郷に帰れない子どもたちに

1955年東京生まれ、日常をテーマに世界を取材し、カメラに収めています。    2001年からはアフガニスタンの子供たちを撮影して、写真展を開いたりアフガニスタンの子供たちにランドセルを送る活動を取材したりしています。  この活動は「ランドセルは海を越えて」

という写真絵本になり、小学4年生の国語の教科書にも取り上げられました。    又東日本大震災の後、東北の子供たちとも交流を深めカメラに収め続けています。  

東日本大震災以来、バイクに乗ってたびたび福島に訪れています。  最初のころは石巻とか津波のひどかったところへ食べ物とか、水とかを持って行っていましたが、原発の被害のひどかった福島に行くようになりました。    写真絵本福島2011年3月11日から変わった暮らし、写真と文章も書きました。 きっかけになったのが、2013年に福島の二本松の小学校で開いた写真コンテストで4,5,6年生を対象に出向いて行ってやっていました。     校庭に咲いた桜の木があり、その桜の木の放射線量が高いので全部その木を切って、校庭に埋めてしまうという事をしました。  小学5年生の達也君が撮った写真と文章が絵本の中にも載ってます。  彼は今19歳で大学生になっています。   彼に来てもらって校庭で切り株らしき所で写真を撮りました。    放射能の問題は複雑ですごく深いから真正面からこの問題に向かえないと彼は言いました。   当時放射能の線量計を首にかけて登下校していたことは、僕も知らないことだったのでおどろきました。    今は二本松小学校は普通の暮らしになっています。

同じ小学校5年生の根上さわやさんの写真と文章もこの絵本に載っています。  「外を見ている犬」という題名になっています。   半分開いた障子から放射能で外に出られない犬の後姿を撮っている写真。  散歩に行けない寂しそうな感じが伝わってきます。  10年たった今も心の中にいろんな複雑な思いがあり、友達ともばらばらになってしまった。

アフガニスタンに行って写真を撮っていて、大震災の前にも福島でも展示してよく行っていました。   大震災の4か月後ぐらいにある先生から呼ばれて、アフガニスタンの話をしてくれるように要請されました。   アフガニスタンの難民の話なども、自分のことのようにわかると先生に言われました。   写真を持って行って親身になって聞いてくれたのを覚えています。  ほかの町でも話の要請があり出かけました。    写真を選んでもらってなんでその写真を選んだのかを聞いて、それを話すとみんなが共有出来て、僕が難民キャンプのエピソードなどを話すわけです。  僕が吃驚するような反応もします。

僕が難民キャンプに行ったときに、目の前で亡くなってしまう赤ちゃんを見ました。  医師になんでこの子を助けられないのか聞いたら、僕は食糧支援のために来たわけではなくて医療に来ている、お腹を空かしている人は治せない、出来ることとできないことがあるといわれました。  写真を撮って人に伝えるべきだといわれました。   それで子供たちに伝えるようになりました。  

福島でも僕はほとんど何もできなくて、写真を撮って伝える事しか出来なくてもどかしさは感じます。  着の身着のままで逃げて、ようやく帰ってきても周り家の人は帰ってこなくて、或る意味戦争の難民に似ているような気がします。

最初にアフガニスタンに行ったのが2001年です。  2001年9月11日にツインタワービルに旅客機が突っ込んで、アメリカが空爆を開始しました。   チャリティーでの資金で教育援助という事で、行けそうもないような状況の中アフガニスタンに行くことになりました。   吃驚したのは空爆で瓦礫になった街の中で子供たちが凧揚げをしているんです。  暮らしぶりや子供たちの写真を撮るようになりました。   

日本から使えなくなったランドセルを送る運動も始めました。  20年になるので20回ぐらい行っています。    戦闘は毎日のようにやっているので、アメリカ軍が撤退したらどうなるのか、という思いはあります。  タリバンと現政府がうまくいく場合もあるので、期待もしています。  環境が悪くて体調を崩すことがよくあって、行くことは嫌なんですが、行くともの凄く強いハグをしてくれて、「元気だったか」といわれると涙がでてきます。  生きてるということが実感できます。    子供たちは目がキラキラしていて生き生きと写ります。  つらい環境にいると人間って生のほうに向かうすごい力が出るので、逆に生き生きしている。  日本は平和で豊かなのに、日本の子供を撮る時のほうが難しいという事があります。