2020年9月30日水曜日

浅田次郎(作家)            ・書くことは至福 後編

 浅田次郎(作家)            ・書くことは至福 後編

父親が新宿の闇市で商売を初めてうまくいって割と裕福な生活をしていましたが、小学校3年生ぐらいで家が破産してしまいました。  キリスト系の私立の小学校に通っていましたが、歩けるところでしたが、女中二人を付けて運転手が車で送ってくれました。 破産して両親も離婚して、親戚の家に引き取られて田無の小学校に通えという事になりましたが、そのまま通い続けて駒場東邦中学(中高一貫の学校)に入学、読書が大好きで中学には立派な図書館があり喜びました。

貸本屋でよく読みましたが、図書館はただで読めるのでうれしかった。

中学2年の時には遊び感覚で「伊豆の踊子」などを書き換えたりしていました。 投稿もしました。

学校も不登校になったりして、2学年より中央大学杉並高等学校へ転入し、大学については、性格的に理屈に合わないことが嫌いで、ロックアウト中の大学に行くのが嫌でした。  僕はアルバイトをしたりして苦学生だったので、学生運動をする学生は金には困っていないという事ははっきり判りました。 

昭和45年三島事件がありましたが、とてもショッキングでした。 夕方死んだという事を知りました。 これがきっかけで陸上自衛隊に入隊しました。  三島さんとは出版社へ行っていたりしたので会ったことがありました。  学生運動の時代に割腹自決という事であまりにも時代錯誤という感じがして頭の中は謎だらけでした。  単純に自分で行ってみようと思って自衛隊の第32普通科連隊に入りました。  1973年に任期満了で除隊しましたが、この時が人生の別れ道だと思いました。 意外とはまってしまいました、あの世界が身体にあっていましたので一生いたいと思いました。  しかしここを出れば小説家になれるのではないかと思いました。

ファッションの仕事をし始めて小説家になっても続けました。(50歳過ぎまで)

1991年40歳でデビュー作『とられてたまるか!』を出版。

その前も投稿を続けていましたが、出すたびに名前を変えていました。 気楽でした。

浅田次郎は投稿した主人公の名前です。 それが選考の後ろのほうに残っていたので使ってしまいました。

1995年 地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞。 父親をモデルに。

45歳の時に『蒼穹の昴』 帯に「これを書くために作家になった」と書かれていて、これは担当編集者が考えたものです。 作家が恥ずかしがるキャッチが一番いいといわれました。  僕の小説の中では一番直球を投げた感じがします。  中学の時に漢詩の世界に触れたときに世の中にこんなに美しい言葉があるのかなあと思いました。 漢詩の本を読み漁っていきました。  漢詩を理解するためには歴史を理解していなければわからないことですので、中国の歴史も読むようになりました。  それが読書傾向のお城になったのかなあと思います。  近代中国の科挙試験を舞台にした王朝小説を書きました。(直木賞候補になる)

46歳の時に「鉄道員(ぽっぽや)」で第16回日本冒険小説協会大賞特別賞、第117回直木三十五賞を受賞。

賞をいただくたびにこれ以上のものを書かなければいけないという気持ちには賞をいただくたびに思いました。

2000年 『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞。

2006年 - 『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞と第10回司馬遼太郎賞。

2008年 - 『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞。

2010年 - 『終わらざる夏』で毎日出版文化賞。

2017年 - 『帰郷』で第43回大佛次郎賞

2000年にベストドレッサー賞をいただいた時には母親がすごく喜びました。

ギャンブルが好きで父は競輪、私は主に競馬をやっています。 馬も4,5頭います。

自分の本業を全うしてから道楽をするというのは、確実にやっていますが、自分の道楽は何かというとやっぱり読み書きだけのような気もします。 ほかの0.1%でほかの道楽をやっているという感じです。

書き続けている限り読み続けてなければならないと思っています。

過去の自分、現在の自分、未来の自分というのがいつも意識できるのが、僕の仕事だと思います。

テーマはまだいっぱいあります。







2020年9月29日火曜日

浅田次郎(作家)             ・書くことは至福 前編

 浅田次郎(作家)             ・書くことは至福 前編

昭和26年生まれ68歳、今年3月に「流人道中記」という長編の時代小説を出版し話題になりました。 40歳の時に「とられてたまるか」で作家デビュー、1995年に「地下鉄(メトロ)に乗って」で吉川英治文学新人賞を受賞、1997年「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞を受賞しています。  その後も多くの本を出版し人情味あふれる作家として知られています。  読むこと書くことが大好きな浅田さんに伺いました。

若い時は長編小説だけで5本を持っていた時もあったので、今そのやり方をしてはクオリティーを下げる結果になるので少なくしようと思っています。  着物を良く着るようになりましたが、着ていて楽で夏涼しくて冬暖かいです。  時代小説は資料をたくさん使うので、普通の机椅子だと資料が沢山置けないので、周り360度に資料が置けるほうが仕事がしやすいが、畳の上ではズボンでは痺れて駄目で、着物だと下半身が自由で楽です。

「流人道中記」は大変ご好評をいただいています。

1860年姦通の罪を犯したという旗本青山玄葉に奉行所が切腹を言い渡したが、「痛てえからいやだ」と切腹を拒否したので、松前藩への流罪判決が下って、護送人に選ばれた19歳の見習い与力石川音次郎と共に奥州街道を北へと二人で歩んでいき、そこでの出来事が楽しい話、悲しい話、せつない話があとからあとから出てくる、といった内容の話。

江戸時代は遠いようで近い。  この小説を書く前に「一路」という小説を書きましたが、自分で書いておいて面白くて好評だったので、こういったものを書きたいと思って、罪人と護送役人の旅道中記を考えました。(創作です でも史実を曲げてはいけない。)

昔は一緒に汗を流して一緒に飯を食って、1か月も歩いて旅をした場合に別れの時にはどんな気持ちだろうと想像するんですね。  のっぴきならない事情がからまっていた場合には相当別れは重たいものだと思って想像して書きました。

我々の時代は映像を映し込んでそれをデッサンする作業をしているのではないかと思って、自分が小説を書き始めるときにそれを一番恐れました。  小説という成果を受け継いでゆくからには自分と同じ先人たちと同じレベルの仕事をしないといけないが、便利になって社会が変わっていった場合に、先輩たちと同じ仕事ができないかも知れない。  一番怖いのが映像化されれている自分の頭だと思って、映像をデッサンせずに自分がスクリーンの内側に入っている気持ち、360度登場人物と時間と空間を共有してその中で小説を書いている呼吸を自分ではいつも意識しています。

他の作家がどういう仕事の仕方をしているのかは分らない。

2000年「壬生義士伝」は、初の時代小説、「一路」は2013年、「大名倒産」2019年、「流人道中記」が2020年。

この本を書きたいから資料を読むというのでは時代小説は書けません。 

僕の小説では幕末の10年間に集中していますが、この時代のことはわかるし、資料もあるし自信もありますが、ちょっとずれたら自信がないです。(時代背景、社会背景を知らない。)

明治時代に連載小説が生まれてヒットして、新聞だったら日刊で書いてゆく、週刊誌、月刊誌とそれぞれ違うのでどれだけかかるかはそれによって違う。

日刊には日刊に合う素材があると思う。 外国には無いスタイルなので外国では理解できない。

同時連載で似たような素材を使ったら危ないので気を付けないといけない、かけ離れていると頭は簡単に切り替えられる。

短編はこつこつ書いています。  1997年に「鉄道員(ぽっぽや)」を出版しています。

短編のひらめきはある時一つの塊になって落ちてきて、机ではなく歩いている時とかにふっと落ちてきます。

茫洋としたイメージを捕まえておいて、ストーリーも自分の頭の中で組み立てておいてそれを自由に書いていくというほうがいいものができると思います。 長編のほうがもっと自由です。

デビューしたころはワープロに変えてと言われたが出来なかった。 今でも万年筆で書いています。  字を書くのは嫌いではないです。

日本語の文章は和歌や俳句で分かる通り、どれだけ短い文章の中に大きな世界を閉じ込めるかという事に尽きると思いますが、それが日本の極意だと思います。  原稿用紙に書くときには肉体的負荷がかかる分だけ、何とか短くして書かなくてはいけないという風に文章を作っていると思うので、これは大事なことだと思っています。 そうするとワープロには乗り移れません、自信がないです。

なるたけ削り落としたそぎ落とした短い文章の中に大きな世界を閉じ込めるんだという気持ちで書き続けていかなければいけないので、それには肉体的な負荷をかけることが一番早道だと思います、だから手で字を書きます。











2020年9月28日月曜日

2020年9月27日日曜日

谷保恵美(スタジアムアナウンサー)   ・球場アナウンスひとすじ30年

 谷保恵美(スタジアムアナウンサー)   ・球場アナウンスひとすじ30年

プロ野球の球場アナウンスをを30年間勤め、前人未到の一軍公式戦担当連続1600試合、通算1800試合を達成した千葉ロッテマリーンズの谷保さん、小さいころから野球少女だった谷保さんは球場アナウンスの仕事をしたいと、12球団に片っ端から電話をかけて就職活動を展開、どの球団からも 空きがないと断られましたがあきらめず、ロッテオリオンズから経理の仕事ならと採用されました。  就職1年後球場アナウンスの仕事に空きが出て念願のデビュー、それから30年間ファンや選手に明るく爽やかな名調子で球場アナウンスを続けてきました。 30年の間にはどんな喜びや苦労があったのか伺いました。

球場に通わない生活が初めてなので変な感じでした。 3か月遅れて始まり、お客様がいない球場でのスタートだったのでこんなに寂しいもの何だなという事を実感しました。 お客さんが来てくれるようになってそれを見ただけでも感動しました。

北海道帯広の出身で、父が野球が好きでナイター中継を毎日TVで見ていました。  父は自分も野球をやっていたし高校野球の監督もしていて、甲子園には二つの高校で2回づつ出場しました。

私は高校では野球部のマネージャーをしていました。  短大でも野球部のマネージャーをしていました。  そこのリーグ戦でアナウンサーを担当しました。

卒業後、12球団に電話をかけて相談しましたが、断られてしまいました。  アルバイトをしながら電話をして、ロッテオリオンズから経理の仕事ならと採用されました。

野球での経理の仕事をしているだけで感激でした。 1年後に1軍を担当していたアナウンサーが辞めて、2軍担当の人が1軍に回り私が2軍のアナウンサーを担当することになりました。

仕事をやりながら球場に通ったりして色々勉強をしました。  一番最初の時は緊張して今でも思い出します。(1991年)

1991年8月には川崎球場で1軍を初めて担当しました。 通算1800試合以上を担当することになりました。  最初のころ一軍では緊張感が凄かったです。

元気な声が伝わるように普段から心掛けていました。 スコアブックを付けながらやっています。 双眼鏡をもって交代選手があるかどうかとか見ています。  新聞をスクラップしたものも持っています、特に春先は新人、新外国人もいるので。 のど飴も持っています。

マリンスタジアムは海の近くで風も強くて屋外球場なので反響が毎日違うので、なるべくはっきり聞こえるように考えながらやっています。  名前によって難しい発音もありますので色々工夫しています。

三郎選手の名前は長く呼んでいましたが、最後の試合の時には特に長く名前を呼んで、喜ばれました。

風邪をひかないようにしているのですが、1度試合に行ってから40℃の熱が出てきてしまってその日は大変でした。 そのシーズンの最後の試合で初芝選手の引退セレモニーの日でもありました。  家では首にタオルを巻いたり乾燥には気を付けています。

親戚、友達とかの冠婚葬祭には出れなかったりして、残念でもありつらかったです。   祖母の葬式には出られなくて本当につらかったです。 そのときにも明るい爽やかな声を出さなくてはいけないし。

連続では1600試合を超えました。  最初が1996年の近鉄戦、達成が昨年西武戦でした。

電車が止まってしまって、携帯もない時代だったのでイライラした時もありました。

通算1800試合は最初は1991年8月で、達成が昨年7月のオリックス戦でした。  選手の立つお立ち台に上がらせてもらって祝福を受けて感動しました。

試合開始から終了まで緊張して、「試合終了でございます」と言って終わるとホッとするのでやり甲斐を感じます。

祖母からは「感謝しなさい」「思いやりを持ちなさい」「謙虚な気持ちを持ちなさい」という言葉を言われていて、大人になって大事な言葉だなあと思うようになりました。

優勝の瞬間は千葉ではないので千葉の皆さんと一緒にその瞬間を体感したいです。





2020年9月26日土曜日

いとうせいこう(作家・クリエイター)  ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

 いとうせいこう(作家・クリエイター)  ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

戦後75年を迎えましたが、平和の俳句の取り組み、NHKTVを良くご覧になるという方ですと「植物男子ベランダー」というドラマの原作がいとうさんのエッセーです。   音楽好きの方ですとリズムに乗せて歌ってゆくラップの先駆けの一人としても知られています。 仏像や文楽、能などの伝統芸能にも精通してその多彩ぶりは周知の通りです。  いとうさんは1961年東京葛飾区で生まれました、1984年大学を卒業後出版社の編集部に就職1986年に退社、TVの司会や音楽、舞台などで活躍、1988年に作家としてデビューしました。  2013年に『想像ラジオ』で野間文芸新人賞を受賞しています。  来年3月に還暦を迎えるいとうさんの人生手帳にはどんな思いがつづられてきたのでしょうか。

父親が俳句の会にも入っていて、観ていましたが句集などをたまに読むことがあり、与謝野蕪村、芭蕉、小林一茶とか読んできて、五、七、五はズバッと言ってきて、僕みたいな気の変わりやすい人間にとっては凄くいいメディアなんです。  金子 兜太さんと出会ってから対談の本を出して、凄く楽しかったです。

5年前から平和の俳句を一般の方から募集、自分の戦争体験、どういう思いでいるかなどが一緒にびっしり書かれています。  花鳥風月だけではなくて、自分の社会的なメッセージも入れられるので、そのことは大きいと思います。

どういう言葉でいえるかという事をとても悩ましく考えています。 説得力は物凄く短いか、ある程度長いかだと思っていて、小説も俳句もやっています。

文字として外にだすときに、「・・・だが」と書いて帰結するときに思ってもみないことを書いたりするときがあります。  柄谷 行人という人は「書くことは生きることだ」とズバッというんです。 生きることは間違ってみたり違う路線にいったり、思いもよらないことが起きるが同様に書くことにも起きる。 平和の俳句は続けていきたい。

生きる命は限りがあるので、その中でどのぐらい自分が人の心の中に奇跡を起こすことができるか、という事が出来ればと思っています。

しゃべるという事は必ず誰かと対面しているので、相手の様子を見ながらしゃべるとか、相手の質問に答えるようにしゃべるとかありますが、書くときには人は横にいないので大きくメディアが違うので、思いもよらないことが起こってくる。

書くことはストレス発散にもなるかもしれないし、自分を深く考えるという事になる。  その時に日記、俳句、エッセーでもいいし、何か自分より外に吐き出してしまうことは大事なんだと思います。

しゃべることは外に向けてしゃべること、自分にむけてしゃべることとに使い分けができると思います。

どこかに自信がないと人は踏み出せないし、新しいことをしようとできないし、人にも良くできないので、自分を自信が持てるように自分に言い聞かせて飼いならします。

40代初めのころに、あさってから本番という時にパニック障害になってしまって、あの時は苦しかったですね。 大竹さんが「公演は辞めてもいいんだ」といって呉れて、「だけどお前が本当に駄目だと言って舞台から降りるときまでやらないか」と言われて、やらざるを得なかった。 薬を飲みながら過ごして、地獄の中で何十日と芝居をやっという事が自信につながりました。 周りからも助けられました。

ラジオのスタジオに入るのは怖かったです。

そうなったきっかけは、大学で教えないかという話があり、1対1で話すのは得意ですが、1対多は苦手で、勉強もしないといけないと思って、「現象学」の本を読んだが1ページもわからないうちに教える時間が段々迫ってきてしまったのが一番大きかったと思います。

もっと自由にしてコンプレックスをなくしたらいいのではないかと言われて、もっと自信を持とうと思って、4年間大学で教えて自分でも払拭できました。

自分でそういった経験をしたので、周りの他人に対しても敏感に反応するようになり、気を使うことができるようになりました。

人間は人間の中で生きているので、生者の声も死者の声も両方とも聞きながら、バランスとして歩んでいきましょうよという事の死者の中には、調子の悪い人、弱者も入っているし、これから生まれる人、ずーっと過去に死んだ人も入っている、そういうもののその総体として人間社会というものがあるんだと、そういう一つ一つのことが自分にとっては無ければそうはならなかったという、不思議な生きていくことの奇跡ですかね、1個欠けるとずいぶん違っていたことがいっぱいあるんじゃないかなあと思います。

今年は2作を書いてしまって、小説でないと言えないフィクションの不思議な世界があるので、そういうものを自分の中で試していきたいと思っています。

音楽と一緒にやるのにふさわしい詩をたくさん書いて音楽と共に人に届けていきたいなあと思っています。




2020年9月25日金曜日

落合恵子(作家・児童書専門店主宰者)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

 落合恵子(作家・児童書専門店主宰者)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

今年落合さんにエネオス児童文化賞が贈られました。 児童文化の発展に貢献した人や団体に贈られる昭和41年以来の長い歴史を持つ賞で、落合さんは長年にわたって子供と本の掛け橋となり、自らも絵本の翻訳や創作をするなど精力的に子供の文化の発展に力を尽くしてきたことが評価されました。  民放のアナウンサーだった落合さんが児童書専門店を開いたのが1976年、そこに有機栽培野菜の販売コーナーを作り、自然食レストランを始め、ついにはオーガニック雑貨や衣類の販売まで、自分がどうしても欲しいものが無かったら自分が作るしかないと45年の間に活動の分野を広げてきました。  一方プライベートではシングルマザーとして落合さんを産み育てたお母さんを介護の後看送り、又この数年友人たちを看送ることも増えて来ました。  自らの最後を意識するようになった今、ご自身の人生を振り返って子供たちに伝えたいこと、残したいことを伺いました。

児童書専門店を開いてから45年になります。  

元々出版社に入りたくて試験を受けましたが、全部失敗して最後に入社できたのは民放のラジオ局でした。  当時TVが上がってきてラジオが下り坂でした。

いろんな仕事をしたりいろんな人との出会いがあり幸せでしたが、女性のアナウンサーの珍しい時代でした。 報道をやりたかったが駄目でした。 海外の取材、雑誌の取材などもさせていただきました。

海外では古い子供の本屋さんがあり、本を読んだりしているところを見ると、文化のスタートってこんなものだと思ったが、日本にはありませんでした。  自分がどうしても欲しいものが無かったら自分が作るしかないと思って、やろうと決めました。

エッセー集「スプーン一杯の幸せ」出版して大勢の方に読んでいただいて、これが私の子供の本屋さんの資金になっています。

環境問題も含めて考える若いお母さんが出現してきて一緒に勉強会などやりました。 絵本の店から、水、有機栽培農産物の販売、自然食のレストランを作って、安心なおもちゃ、女性の生き方を扱った本もあり活動もどんどん広がっていきました。

子供の時に母は仕事を持っていて、ゆっくり向かい合う時間がなかったので、寝る前に一冊必ず読んでくれましたが、とっても幸せな時間で、あの時間をもう一回シェアしたいという事もあり、大人になって絵本を読み返してみると新しい発見がありまして、大人にとっても意味がある本だと思いましたし、3年で終わりといっていたが、やりますと続けたのかもしれない。

「スプーン一杯の幸せ」の印税をいただき、信じられないお金が入ってきて、これは使わなければ間違っていると思いました。 

母を7年間介護して、そのことは「泣き方を忘れていた」という小説にしました。 新聞連載では書けないものがあり、しかし介護の現実の中ではとても大事なことなので書かなければいけないと思っていて、それを書いたのがこの小説です。

母とはともすると濃密になりがちでしたので、お互いに精神的な距離を取ろうとしました。母が認知症になったときにもっと近くにいたかったので、手をつなぐとか、家で私が看させてくださいという事に結び付いたのかもしれません。 母のそばにいたいと思いました。

母の背中を洗っていたりすると「ありがとう」と本当にありがとうという感じで言っていました。 「悪いね」とか「大丈夫」とか言っていました。 母の世代は大変なことでも「大丈夫」と言って、自分にも言い聞かせることで乗り越えてきたのかなあと思います。  「あなたのお父さんにあたる人が大好きだったのよ」とも言っていました。

当時母はシングルマザーなんて言う言葉は無くて、後ろ指を指されて生きてきましたが、その私生児が婚外子という言葉になったりほかの言葉に替わったが、社会には差別とか偏見があります。  偏見がある限り私は私生児、婚外子ですと言い続けます。

「明るい覚悟」 最後を考えることを含めて、可能な限り自分で決めてゆくと考えることによって、明るく軽やかな覚悟になるのではないかという思いで、書きあげました。 いくつかの絵本の内容が差し込まれています。(飛んで行った風船は、ベンのトランペット、アフリカ系アメリカ人のことなど)

子供の周りにどんな大人がいるか、それ自体がもう一つの環境問題だと思っています。

今主宰している子供の本屋は5万冊ありますが、それはほとんど目を通しています。

本というのは本と人が出会うだけではなくて、一冊の本の中で人と人とが出会う事も出来るのが本の素敵なところですし、何百回も読み返してほしい。

「7世代先の子供たちのことを考える」これは、ネイティブ・アメリカンの教え。 ダイヤモントーヤさんが日本に来た時に言った言葉で、「7世代先の子供たちのことを考えなさい。どんなに便利でどんなに効率的なものでも、これを選択したことによって7世代先の子供たちが苦しむことは絶対してはいけないよ」と言われたと彼女は言っていました。

「行列ができていて並ぶと何かが手に入るが、その時にほかの人を押しのけて一番前に行こうというのは人間として恥ずかしいいことだと知りなさい。」という事も教わってこられたという事でした。

血の縁だけがすべての体験の原点かというとそうでもない部分があると思う。 私は彼ら彼女たちの母ではないけれど叔母的な存在にはなれると思います。

75歳になりましたが、自分が想像していた老いと違います。  老いるという事は何かを失うものでもあるが、何かを獲得することでもあるので、この両方を持って生きているのが私の老いだと思うし、最後の日々を迎えるまで可能な限り私はなりたい私に向かって歩いていきます。  それも私の「明るい覚悟」かなと思います。

私の好きな言葉で「私の後ろをついてこないでください。 私はあなたをリードすることはできません。 私の前を歩かないでください。 私はそれに従うことはできません。 私ができるのは隣りあわせに、こういって一緒に歩いていきましょう。」という言葉で、リードするわけでもなく、従うわけでもなく一緒に歩いていこうよ、それかなあと思います。



















2020年9月24日木曜日

小島理恵(ガーデンキュレーター)    ・【私のアート交遊録】人の心に宿る庭を目指して

小島理恵(ガーデンキュレーター)  ・【私のアート交遊録】人の心に宿る庭を目指して 

小島さんはガーデンデザインから施工、手入れまで一貫して行うというスタイルで庭つくりにあたっています。  とりわけ科学的な農薬や肥料を使わないというのが小島さんの基本です。 個人の庭から地域の公園、ミュージアム、マンションの植栽管理、環境保全のシンボルともいえる里山の保全など多岐にわたる小島さんのガーデニングにかける夢を伺います。 

キュレーターとは学芸員という意味と編集者的な意味がありますが、編集者に近いと思います。 日本庭園では職人さんに任せるような形ですが、お客さんと職人と環境、植物をうまくフィットさせてゆくような役割という感じです。 ガーデンキュレーターは私が勝手にくっつけました。

「オーガニックなガーデニング」は科学的な農薬や肥料を使わないという方針で進めています。 漢方薬を農業用にブレンドしたものがあり定期的に散布してゆくことで病害虫を防いでゆくやり方をしています。 コロナの影響で家庭菜園が増えてきました。

横浜出身ですが、祖母と同居していて畑仕事、庭でバラを育てたりするのが好きで手伝ったりしていました。 結果的には今につながっていたのかもしれません。  女子高だったので先生などからは専門職を身に付けなさいというような事を言われましたが、環境保護ブームがあり環境の勉強をしておこうと思って、信州大学農学部森林科学科に行きました。

夏休みのアルバイトは山小屋でずーと過ごして、冬はスキー場でアルバイトをして毎日スキーするとかしていました。 早寝早起きになり朝日を浴びることができました。

4年生では研究室に行き、午前中勉強して、昼はおむすびを車で出かけて雑木林で焚火しながらおむすびを食べて戻ってきて論文を書くなどしていました。  テーマは人工林が問題になってきていて、里山の部分が荒廃しているという事が問題になっていましたので、そういう問題に対して違う価値を見出すことができないか、という事を考えていました。

一回人が手を入れたら必ず最後まで手入れし続けなけらば行けないという事も学びました。

卒業後、バブル崩壊で氷河期になり、先輩を頼って造園会社に来ました。 

ほとんどが男性で作業着も一緒ですごく嫌でした。 ガーデニングブームもあり、ニーズが出始めていましたが、ニーズに合わせられないという事に対してはめんどくさいという事で疑問を抱きました。

会社を辞めてからイギリスに毎年一回ぐらいいって、土、気候、建築、庭などを見て回りました。  

花屋さんでアルバイトをしながら、インテリアの学校に行っていました。

部屋の中と庭とがマッチングしていないことにはどうにかならないかという思いがありました。 

ガーデンキュレーターによる里山再生事業という形で、友人たちとアイデアを出し合って事業化しようという事で始めたところです。 邪魔だから伐採するとかではなくて、治山的なこととか景観的なバランスを考えたうえで事前にちゃんと手入れをしてゆく事、資金をどう集めるかなどを考えています。

里山を手入れしたところで儲かるのとかあり、皆さん手が出せなかった。 お金ではなくて違う意味のこととうまくリンクさせて環境に関心を持っていただくとか、手入れをして保っていければいいのかなあと思います。

スクール事業も来年始めようと思っていて、各都道府県に最低一人5年以内にいるようにして、少しずつ広がって行くのが夢です。

世界のガーデナーは異口同音に二つのことを言っています。 ①花を作るということは大地に絵を描く様なものだが、自然のリズムと一緒に呼吸を合わせることによって、思い描けるような花の世界が出てくる。  ②自然に対して敬虔な気持ちを持つことによってどれだけ私たちは救われたかという事を言っています。

草花の寿命は短いが、今から自分が植える樹木は全部自分より後の時代まで生きるという事を思って、その木がいかに長く元気で生きてくれるかという状況を整えてあげて、共に暮らす方たちがいつも目をかけてあげたいような気持になるような仕事をしていかなければいけないと思いました。

秋はリスタート、リニューアルするのに一番いいです。 枯れるリスクが少ないので秋、冬にやるのがいいと思います。

お薦めの本「園芸家12ケ月」 カレル・チャペックの著書 共感する面があると思います。