2019年4月5日金曜日

小松政夫(俳優・コメディアン)      ・「喜寿を迎えたひょうげもん」

小松政夫(俳優・コメディアン)      ・「喜寿を迎えたひょうげもん」
福岡県出身、77歳。
裕福な家庭に育ちましたが、中学生の時に父親を亡くして、住み込みで働きながら高校を卒業しました。
役者への夢を抱いて上京、様々な職業を転々とし、昭和39年当時人気絶頂のクレージーキャッツのメンバー植木等さんの付き人兼運転手として芸能界に入り、バラエティー番組「シャボン玉ホリデー」でタレントとしてデビューしました。
その後、様々なTV番組で活躍され、2011年からは日本の喜劇人協会の第10代会長をお勤めになっています。

77歳になりますが、本当にあっという間でした。
芸能界に飛び込みたいと思って博多から横浜の兄貴を頼って来てから、これでもう60年近くになります。
充実してたし、苦労を感じたことはないです。
7人兄弟姉妹の5番目の次男。
父親は小学校の時にPTAの会長でした。
母親は女学校の作法、修身の先生でした。
父親は厳しかった、いわゆる明治男で笑った顔はなかったです。
バターの箱に「北海道」と書いてあって、妹がどう読むのか私に聞いたら、私が「きた うみ みち」だよと答えたら父親がそれを笑ったんですが、唯一の笑う顔だったと思います。
母親は何にも文句を言わないで、風呂には父親より先に入ってはいけないとか、女は後から入るとか、いわゆる昔堅気の母親でした。
父親が一週間出張で居ないと、風呂に入れませんでした。
父親が亡くなって、借金があることは知らなくて、ビルを明け渡さなくてはならなくなって、最初は庭付に一軒家へ、庭無しの一軒屋へ、そのうち6畳と4畳半に7人が住むと言うことになってしまいました。

父親は私が中学1年の時に亡くなりましたが、高校には行かせられないから働いてほしいと言われました。
狭い部屋に女性が多い家庭だったので、定時制に通いながら住み込みで仕事をするようになりました。
配達係からケーキの職人になりました。
東京に行ってから色々職を転々としましたが、結構腕が認められました。
「のぼせもん」=没頭すること
「ひょうげもん」=面白い男、とよく言われた。
小学校から芸人になりたいと思っていたようです。
「てなもんや三度笠」「シャボン玉ホリデー」をTVでやっていまして、芸能界に入りたいと思いました。
その当時は車のセールスマンになっていて、ラーメンが30円の時代に10万円の給料を取っていてトップセールスマンでした。
結構ノルマが大変でした。

植木等は良いなあと思って週刊誌を見たら、付き人兼運転手募集の記事を見まして、これだと思いました。
友達たちに相談したら、トップセールスマンが今更芸能人のカバン持ちはないだろうと言われてしまいました。
部長に相談したら、「お前は向いているかもしれない、俺が応援する」といって出してくれました。
植木さんは検査入院していて病院先で会いました。
オーラがすごかった。
植木さんを呼ぶにあたって、どう言ったらいいかということだったが「父親を早く亡くしたそうだから、私の事をおやじさんと言ってくれればいい」と言う事になりました。
身の回りの世話をしていましたが、植木等さんを一日一回喜ばせることが、ノルマだなあと思いました。
こんな楽な仕事はないと思いました。
当時一週間で10時間しか眠れなったが全然苦にならなかった。

セールスマン時代の事ですが、50代の180cmもある大学時代には柔道をやっていた筋骨逞しい社員がいて、部長に怒られていて帰ってきて、私に向かって「みろ、お前のおかげで怒られたじゃないか。知らない、知らない、知らない」と言って身をよじったんです。
そのことを植木さんに話したら大笑いして喜びました。
ハナ肇さんとかクレージーキャッツ、プロデューサーーがいる前でさっきの話をしてやれ、と言われて話をしました。
谷さんが台本を書く時に、ここに小松登場、「知らない、知らない、知らない」をやると書いてあったんです。
それでデビューしましたが、これが私の一発目の流行り言葉です。
3年10カ月後に、「もう俺の処に来なくていいから」と言われクビかなあと思いました。
「社長と掛け合って、給料からマネージャーから決めてきたから、明日ハンコを持って事務所に行って来い」と言われて、どーっと涙があふれてきて、道路脇に車を止まめて大泣きしました。

或る日電話がかかってきて、呼び出されて「家を立てたらいいじゃないか」と言われて
建築屋さんも呼んであって、最初は家を建てるなんていう気が無かったが「親父さんが保証人前提という事だったら結構です」といったら、「いやー流石 あんたは偉い」と言われ、これが後々のはやり言葉になりました。
植木さんの家の近くの土地まで探してあって、そこまで気を使ってくれていました。
私と植木さんの付き合いは「おーい 美味しいものを作ったから飲みに来い」とか電話がかかってき、そんなん風な付き合いにずーっとなってきているんです。
植木等って凄い人だなあと思っちゃいました。(酒は一滴も飲まない人でもありました)
そのうち私にも運転手が付くようになり、まだ10年早いと言われるのではないかと思って植木さんには内緒にしていました。
或る時家に伺って、「飲んでいくんだろう」と言われたので、「運転しなければいけないので」と言ったら「嘘つけ、運転手がいるじゃないか」と言わればれて居ました。
自分でお茶とお菓子を持って運転手の処に行って「小松がお世話になるなあ、宜しく頼むよ」と言うんです。
泣けてきます。

胸の詰まる師弟関係だと思います、こんなことは今何でないんだろうと思います。
今でも植木等の庇護のもとですね。
植木関係の本を5,6冊も出していて、まだ新しい注文が来るんです。
愚痴になりますが、今の若い者の師弟関係はそれでもいいのかなあと思います。
80歳までやれれば本望だと思いますが、いつまでセリフを覚えられるかわからないので、今まで貯金してきたものを小出しにして、昔はやったものだとかを掘り起こして一人芝居をやっているが、それは若い時の独身のことなので、今度はジジイの一人芝居をやりたいと思います。
喜劇ですが、笑いの中にひっそりと涙が出るようなものをやりたいです。














2019年4月4日木曜日

津野海太郎(エッセイスト)        ・我が人生は"読書"とともに(2)

津野海太郎(エッセイスト)        ・我が人生は"読書"とともに(2)
老いと読書について。
老人になると何かの為に読むと言う事は無くなってくる。
より自由になってくる。
知ることは楽しい。
「ドンキホーテと老人」、もうすぐ亡くなってしまう方が、スペイン語を勉強したいたいと言う事で原書を持って言ったら、枕元にはスペイン語講座のテキストがあった。
でも直ぐ亡くなってしまう。
読んでいる自分、読もうとする自分で良いんですよね。
読書は通過点、目的が無くても通過して行く、その楽しみがある。
70歳代になると老人でしかないと理解する。
僕の場合は大きく変わりました。
本を読む能力が失われている、目が悪くなり、物忘れの度合いも進んで来る。
一つの本をずーっと読み続けることが難しくなる。
或る程度読むと眠くなる、そうすると違う本を読んだりするが、なおさら忘れてしまう。
本に線を引きます、ここでこの人が初めて出てきたところだとか、話の筋がきりかわるとか、短期記憶用の印で、戻ってきたら大体の事がつかめるように本に細工しておきます。

以前は額に山登り用の照明をつけて、夜歩きながら読んでいた時もありました。
人を驚かすのでやめました。
老いの読書の最初の発見は、座って読むと難解だった本とか肌に合わない本だとかも読めて、その発見ですね。
老いは進行するので段々読み続けることが苦しくなります。
結局ベッドに入って本を読む訳ですが、眠くなって眠ってしまう訳で、夢で本の続きが出てきたりするわけです。
書く仕事があるのでそのために読むと言う事もあります。
書店に行って5,6冊買っていたのが、今は買わない方が多いですね。
行くところは近所の図書館にいって借りてくることが多いですね。
住んでいるさいたま市の蔵書の全てがパソコンで検索できるので大体の事はそれで済みます。
新しい直木賞をとった本などは2000人位予約が入っていて借りられないが県立図書館では硬い本が多いので借りれられる時もあります。

図書館が本を買う内容は、このしばらくの間で経済のグローバル化が進むと同時に、売れる本がいい本だと言う事でそういう本が増えて来ました。
堅い本は物凄く数が減りました、すごい勢いで変わってきました。
公立図書館も図書館員の採用が無くなってきて派遣員で構成されるようになってきて、ちょっと辛いところもあります。
読むべき本がそこにはないと言う事もあります。
他の図書館から取り寄せるとが出来るようになった点は良いと思います。
新しい本と昔読んだ古い本を読むのが半々ぐらいだと思います。
昔わくわくして読んだ本もエ―ッこんなのがと言うふうに思う事があります。
又別の見方もしたりするので昔の本も面白いです。
それぞれの年代のそれぞれ過去があるが、80歳になると様々な経験をしているので、本から色んな事を思い出して、本と関係ないことも思いだして、膨大な過去を老人になると抱えながら一冊の本を読むことになるで若いころとは読み方が違ってくる。

一冊の本を読むと関連した本も読みたくなります。
蔵書の整理は自分自身で悩んではいます。
減らしてきて今は4000から5000冊位かと思いますが、1000冊位にはしたいとは思いますが。
残すと家族の負担にはなるし、60歳代に決断して、いるものを最小限にして一気に整理してしまう、その間にやってしまわないと体力が無くなってくるので整理ができなくなるのではないかと思います。
本を読まない人達が増えてきて、危機だと思います。
美智子皇后に「橋を掛ける」という本があり、最期に書かれているところがあるが
「そして最後にもう一つ、本への感謝をこめて付け加えます。
読書は人生のすべてが決して単純ではないことを教えてくれました。
人と人との関係においても、国と国との関係においても」と書かれている。
そういう事なんだと思います。
複雑な関係、環境の中で生き抜いてゆくためには、それを支えるものが必要で、一番役に立つのは皇后にとっては本だったと書いていらっしゃいますが、あれがつまり本の役割だと思うし、紙の本の形が一番提供できると思うし、しっかりそれと付き合わなくてはいけない。
本と著者と自分とが一対一できちっと付き合う仕方をして、複雑な環境の上で頑張って生きている仕方、方法とかを書いている、それを読者として読むと言うようなその関係の中で整理してくる読書がどういう素晴らしいことかという事を書いていらっしゃるが。
世の中の複雑さを複雑さとして感じるためには、単純ではないと言うふうな世の中だと感じて、それに耐えると言う気持ちがあれば本は読まれるだろう。
そういう気持ちが大多数の人が消えてしまったら、もっともっと単純に割り切れるようになってしまったら本は続かないでしょう、電子であれ、紙であれ。
























津野海太郎(エッセイスト)        ・我が人生は"読書"とともに(1)

津野海太郎(エッセイスト)        ・我が人生は"読書"とともに(1)
1938年福岡生まれ 80歳 筋金入りの読書家です。
編集者、劇団黒テントの演出家、本とコンピュター総合編集長、大学教諭、大学図書館長などに主に本の世界で本とともに活躍されてきました。
最近の著書は「100歳までの読書術」「最期の読書」と肉体の衰えはあっても年を重ねてしみじみわかる本当の読書の醍醐味について熱く語っています。
今日と明日に渡って読書について伺います。

本当に読み始めたのは終戦の年、1945年の12月に樺太から一家で引き上げてきて、
江戸川乱歩の少年探偵団が記憶に残っている最初だと思います。(小学校1年生)
江戸川乱歩全集は友達の家から借りてきて全部読みました。
戦後間もないころなので本はありませんでした。
その頃は本は年に600から800点位しか出ませんでした。(戦前は年に3万冊位)
借りた本を早く返さなくてはいけなくて、家に帰る時に歩きながら本を読むようになりました。
大人になっても忙しいのでその習慣が続きました。(70歳過ぎまで続けました)
30歳を過ぎてから、厚い本は読みにくいので、その時に読む分量に切り取ってもっていって読むと言う習慣がその後にできました。
後でゴムで閉じて一冊にして取っておいたり、いらなくなったものはすてたりしました。
ばらばらになった一冊の本を再装丁して7冊の新しい本にしてしまうと言う人もいます。
大学を出て直ぐに編集社に行きました。
その合間に昔の人と集まって黒テントのほうである時期、演出を中心にして本の編集はバイト的にやっていた時期も3,4年ありました。

アングラ演劇とよばれ、唐十朗さんとかが活躍していました。
当時劇場がありませんでした。
大きい劇場はありましたが、大きい力のある劇団が独占してしまっていて、後から始めたところは場所が無いんです。
そこで神社にテントを張るとか倉庫を改造したりしました。
斎藤晴彦さんは大きな電気屋さんの息子で音楽が好きで芸大の作曲科に行きたいと思ったがピアノが弾けないので諦めて、早稲田の演劇科に入りました。
お互いの稽古場に行って勉強するとか、交流は凄くありました。
アングラ劇団も大きなところにはいかないで、自分たちの貧乏劇団を作ってやるとかで、
その方が面白かったし、かっこいいという気持ちがありました。
今そういう事をやると貧乏くさいとしか思われない。
そういったことが無くなるのは1980年代に入ってからですね。
作ることよりも消費することがクローズアップされて来る。

1997年に「本とコンピュター」 これは編集の続きです。
1990年代に入ってくると、売れる本がいい本だというふうに変わってくるんです。
そうする自由にすることができなくなってくるし、いい本も売れなくなってきたりする。
それを突破する方法として本の電子化がある。
1970年代からアメリカでは試みがなされていた。(デジタル化)
そうすると音声、映像も一緒に表現できる。(マルチメディア)
そうすると新しい本の形が出てきて、そうすると大きいビジネスにはなりにくいから、作れると言う最初のビジョンでした。
1990年代はそういう方向に一斉に押し寄せて来ました。
電子化された本だと文字の大きさも自由にできる。
紙と活字では出来なかったことも沢山出てくる。
音声化すると目の見えない人も読めることになる。
アップルがiTunes デジタルデータとしての音楽を商品としてそのまま売ると言う
仕組みを作って流通の仕組みも作って始まった。

小さい端末を作って小さい端末から直接売り買いするという仕組みを作りました。
それが当たって本のデジタルビジネス化が始まるわけです。
アップル、アマゾン、グーグルにしても凄まじいグローバル巨大産業で、そこが領域のほとんど全部取ってしまった。
辛いところです。
デジタル化したデータを独占すると言う時代は難しいと、いずれその時代がくるでしょうから、又新しい試みが色んなところで起こってくると思います。
紙の本しかできないこともあります。
一冊の本としっかり向かい合って、自分なりの想像力、空想力を発揮して、自分のなかに新しい世界を作りながら、本を読んでゆくと言う事は電子本でやろうとしてもできない。
平たい表面の中に表示すると言う事は5000年の歴史があるわけです。
最近できたメディアと違って、そういった歴史のあるものを変えることはなかなか難しい。
そこで培われてきた感性、習慣、考えるための道具としての扱い方とか、それに取って代わるものはそう簡単には出来ない。



















2019年4月2日火曜日

安田陽一(日本大学理工学部教授)     ・魚にやさしい道をつくる」

安田陽一(日本大学理工学部教授)     ・「魚にやさしい道をつくる」
魚にやさしい道とは、川に棲む魚やかに、エビなどが自由に移動できる道、魚道のことです。
近年、川はさまざまな用途に対応するため、ダムなどが作られ魚にとっては棲みにくい環境になったと言われています。
安田教授はダムや堰から流れる急激な流れを制御する研究を長年行い、アメリカの土木学会から最高賞を受賞するなど、水理学として著名な土木学者です。
安田さんが20年ほど前、或る学会で生物学者から川の流れが速く、特産のエビが生息できなくなってきているとの報告を聞いた事をきっかけに、魚の棲みやすい川に取り組みました。
これまでに200か所余りの魚道をつくり、北海道の天塩川には世界最大と言われる、7kmに渡る魚道バイパスを完成させました。
魚にやさしい環境をつくることで、地球の生態系を取り戻す役に立てればとお話しになります。

日本の川にはいろいろ川を横断する工作物があり、そこを越えて行く魚にとっては感知しやすい流れです。
それに向かっていった時に障害物があって、泳いで渡りたいが激しい流れなので、流れは感知できるのでそこに向かって跳ぶんです。
魚にとって水の外に出ると言う事は体力のいるもので乳酸値が上がってきます。
疲れやすくなるので、休むことが必要になり停滞する。
鳥が弱っている魚をついばんでゆく。
人が作りだした環境なので、まいた種は人なんです。
魚道を作るんですが、魚道以外の流れに誘われてしまって、結局は上に上がれなくなると言う大きな問題が起きています、それが迷子です。
魚道を作る時には休めたり、ちゃんと行けるようにする配慮が余りにも起き過ぎて流れを弱めていき過ぎる。
そうすると池のような形になってしまって、魚道だけがおとなしくなっていると言う、逆の事が起こる。
下る時には流れが速すぎると失神してしまう事があります。
昔は流れの勢いを弱めるプールがあったが、最近は平坦なコンクリートのものが多くなった。
そうすると落ちてきた流れがコンクリートに直接あたるようになって、そこに魚が一緒になって落ちたり、カニも甲羅を割ってしまったりします。
人にとって良いように替えたが、魚などにとっては棲みづらい環境になってしまいました。
幼い魚は流れにまかせて下ってくる訳ですが、コンクリートに当たると死にやすくなります。

基礎研究として構造物から落ちた流れ、高速流と呼んでいますが、ダムからの流れ、堰からの流れを如何に早く制御するか、そういったことが基礎研究のテーマでした。
学会で発表した時に、隣に川の生物の先生が発表しに来られました。
河川に構造物があることによって、魚、エビ、カニがこれだけ苦労しているが知っているのかと、エビの写真など提示しました。
それがきっかけで生き物がどういうふうにして苦労しているのか、見させてもらいました。
これなら今まだ私の取り組んだ成果がいかせるのではないかと思いました。
流れの速さをスムースにすれば効果があると思いました。
検証するために多摩川で模型を作って実証しました。
それから魚道を作るきっかけになりました。
垂直から45度に傾けるだけでも随分効果がありました。
細分化されているので専門領域では難しいことも、複合的に見れば、こんなやり方をすれば解決すると言う事が思い付くわけです。

これまでに200か所余りの魚道を作っています。
「魚道ガイドライン」を出版。
種類としては10~20種類あると思います。
アメリカで鮭を中心に上り易いものと作って、それを日本に導入されたものとかもあります。
横の壁の構造を斜めにした魚道は私が提案したものです。
プールを又台形状にして組み合わせたものが2000年から2010数年の最大の特徴だと思います。
その後水量が変わっても魚が自由に上れるように工夫しました。
側面の壁もコンクリートブロックの様にざらざらしなものの方がカニなどには足が引っ掛かるので良いと思います。
ざらざらがそれ以上に大きいとハゼなどは吸盤がくっつかなくなってしまいます。
本来川には色々な生き物が棲んでいるので、それらの行き帰を妨げないのが本来の姿です。
経済性も考慮しないといけない。
まず川に中を歩きます。(石、どろの溜まり易さなどの状況が判る)
生き物の棲みかとしているのか、難しくなっているのかなども判ります。
総合的に見てここに魚道を作った方がいいとか、そういった話をします。
川に生息している生物、植物など色んな事を研究者から教えてもらっています。
本ではなくフィールドに行かなければ判らない事が沢山あります。

高速流から環境面に主軸をおいて今はやっています。
やはり社会貢献したいと言う気持ちがベースにあります。(論文の数ではない)
今、北海道の天塩川の流域に取り組んでいます。
当時ダム事業をしようとしていました。(ダムを作るか作らないかの議論もありました)
流域全体で魚などの生育環境を守りましょうというテーマで、私も凄く興味を持ちました。
平成18年から始まりました。
特産のさくらますの生息密度が物凄く増えました。
ダムの魚道バイパスを7kmに渡って作りました。(世界一長い魚道)
水の水量の管理ができるようにもしました。
1800匹のさくらますが上流に向かうのを確認しています。
若い世代にもきちっとバトンタッチしていきたい。
人が川に手を掛けた以上、人がきちっと環境に配慮したものに変えていかなければならない。














2019年4月1日月曜日

2019年3月31日日曜日

小林綾子(女優)              ・『おしん』と『なつぞら』 ~二つのドラマと出会って

小林綾子(女優)       ・『おしん』と『なつぞら』 ~二つのドラマと出会って
十勝を舞台とした連続TV小説『なつぞら』いよいよ明日から放送されます。
連続TV小説100作目となる『なつぞら』にはこれまでの連続TV小説でヒロインを演じた多くの女優が出演します。
1983年の『おしん』でヒロインの子役を務めた小林綾子さんも、今回『なつぞら』に出演されます。
久しぶりの連続TV小説出演となる小林さんに、撮影の様子やドラマにかける意気込みをお話ししていただきます。

1972年8月12日生まれ、東京都出身。
5歳の時に児童劇団に所属、活動を始める。
10歳の時、1983年、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』で少女時代のヒロインに抜擢される。
日本に『おしん』ブームを巻き起こす。
現在TVドラマ、映画、舞台、バラエティー、情報番組など幅広く活躍中。
2019年4月からの連続TV小説『なつぞら』にも出演。(連続TV小説100作目)
『おしん』のドラマが原点なので、又朝の連続TV小説に出演できるので、戻ってこられるんだ、帰れるんだという気持ちでとっても嬉しかったです。
『なつぞら』の概要
主人公は戦争で両親をうしなった戦災孤児、夏は酪農家に引き取られて十勝の生活の中で明るさを取り戻す。
そこで素敵な馬の絵を描く青年画家と出会う。
アニメの草創期に携わる。
青年の母親を演じているのが小林さんです。

『おしん』の時と基本的には撮り方は違っていないが、ドラマに携わる人が多いんだなあと感じます。
昭和の時代でも『なつぞら』の中でもモンペをはいていて、むしろがあり囲炉裏を囲むようなシーンがあり『おしん』のころを懐かしく感じました。
旦那さん役が戸次 重幸さんです。(北海道出身)
本読みをしていたら、こういった方がより北海道弁に近いと教えてもらいました。
連続テレビ小説『ひまわり』のヒロイン役を演じた松嶋菜々子さんも出演します。
丁寧に撮ると言うのは、特に連続テレビ小説の場合は言えるのではないかと思います。
スタッフの数も多いです。
小道具さんは履物担当がいたりして、細部にこだわって丁寧にやっています
食事場面でも料理研究家がやっています。
ご飯は麦飯ですが、美味しいです。

『おしん』は1983年、NHK朝の連続テレビ小説として1年間放送。
山形の貧しい農家に生まれたおしんが明治、大正、昭和の激動の時代を逞しく生き抜いてゆくと言う物語、少女時代を小林さんが演じて、その後田中優子さん、音羽信子さん、3人のじょゆうが演じる。
平均視聴率52.6%最高視聴率62.9%という驚異的記録を残しました。
山形で筏に乗って母親、父親と別れを告げるシーン、あそこが私にとっての初めての撮影でした。
1月15日から10日間ぐらいかけてロケーションしましたが、寒かったです。
吹雪のなかで倒れるシーンは藁靴の中に素足を突っ込んで本当に冷たかったです。
筏を作るために3か月前から山から木を切り出して筏を組んで設置してくれました。
筏を安定させるためにクレーンが使われたり、地元の人も協力していただいてあのシーンを撮るのにトータルで100人以上はゆうにいたと思います。
たったあれだけのシーンに一日かかりました。
1月中旬から山形、奥多摩では夏のシーンを撮って、スタジオに入って3月下旬ぐらいまで撮影がありました。
1台のカメラには経験がありましたが、NHKのスタジオでは5台のカメラがあり、緊張感一種の恐怖感みたいなものはありました。

毎日のようにNHKに通っていて、いざ終わってしまうとなると、達成感はありましたが、もう少しやっていたいと言う気持ちがありました。
劇中で吹雪の中を助けてもらったあんちゃんが吹いていたハーモニカであんちゃんが好きだった「庭の千草」を吹いてみたいと思います。(小林さんによるハーモニカ演奏)
(もう一曲 知床旅情を演奏)
会場には山形から十勝に入植された人もいました。(父親世代)
福島から入植したおしんという名の祖母もいたと言う事もあり吃驚しました。
一人では出来ないものも、色んな人達が集まってっ協力して力を合わせると大きなものができる。
『なつぞら』のロケーションの時には夏だったんですが、雨が多かったんですが、でも白い大地とかぬけるようなすがすがしい青空は、本州では味わえない十勝ならでの空気感でした。
開墾するシーを撮ったんですが、大きな切り株に何本ものロープをまいて、馬とか地元の方も含めて開墾のシーンを撮りました。
役作りの為、早く北海道弁に慣れるように北海道弁を教えてもらいました。
人を大事にしていきたいですね、みんなで一つのものを作る大切さ、みんなで力を合わせた時の力はとっても大きなものに変わって行くと思います。


























2019年3月30日土曜日

松下由樹(女優)              ・「芸どころ 名古屋」が育んだ女優・松下由樹さん 35年の女優人生を語る

松下由樹(女優) ・「芸どころ 名古屋」が育んだ女優・松下由樹さん 35年の女優人生を語る

1968年生まれ、50歳、名古屋市出身。
1983年15歳で映画『アイコ十六歳』でデビュー。
第15回日本アカデミー賞助演女優賞を受賞するなど、35年間女優として活躍中。

名古屋ではお祭り、山車をひいたり、色んな事が華やかに派手にするなど、もてなしたり、楽しませませたりするのが、どこかに根付いているような気がします。
どこか控えめなところ、奥ゆかしさがありながら、キンキラキンが大好きだったり面白さはあるが、受け入れたらとことん受け入れる、厳しさもある、そんなところがある様な気がします。
映画『アイコ十六歳』は名古屋を舞台にした映画でした。
「貴方も夏休みに映画に出てみませんか」というキャッチフレーズで、地下鉄でチラシを配っていました。
応募したら全国12万7000人の中から選ばれることになりました。
名古屋弁を前面に出しました。
1986年から1988年までNHKの「ヤングスタジオ101」でダンサーでレギュラー出演。
ダンスは高校生から習いましたが、大変でした。
167cmなので身長が高いのでやったらどうかと勧められました。
緊張すると固まってくるので、リラックスするには自分の柔らかくなるポイントを掴んでおくと楽です。
身体全部ダランとするだけでも違います。

1989年のTVドラマ『オイシーのが好き!』が初主演作。
1990年の『想い出にかわるまで』のドラマで、姉(今井美樹)の恋人(石田純一)を奪う妹役という強烈な役を演じ、注目される。(21歳)
世間から冷たい目で見られましたが、近くからもそういう感じで見られました。
1999年に「週末婚」という作品に出会いますが、私は姉の役で妹の幸せをねたんで比べてしまう役をやりましたが、思い切り嫌われようと言うふうにしました。
1996年から準主役で出演している『ナースのお仕事』は連続ドラマ4シリーズ、映画化もされる人気作となった。
職業を持っている役は私自身は知らないことを知ることができておもしろいです。
主人公のドジな新米ナース・朝倉いずみが、笑いあり・涙ありの経験を重ね、一人前の看護婦・一人の女性として成長していく姿を描く。
ナースをやらせてもらった時には当初はコメディーとして受け止められませんでした。
先輩ナースとドジなナースとのコンビが段々受け入れられていきました。
ナースとしての色んなしぐさ、言葉などをいろいろ教わりました。

2001年からバラエティ番組『水10! ココリコミラクルタイプ』に出演。
色んな種類の人の演技を短い時間でしなくてはいけなくて、そこを掴む作業は凄く勉強になりました。
アドリブではなく、作り込んでのコント番組でした。
2004年にはドラマ『大奥〜第一章〜』に主演、春日局(お福)を演じ、時代劇での新境地を開けました。
サクセスストーリーが現在と通じるものがあるのではないかと思います。
春日局は他の方もやっているので、良く知っている人たちがOKと思ってもらえるものを、私のハードルとしてもってやらせてもらっていました。
受け入れてもらえたかもしれないと思いました。
長いセリフがあるが、覚え方はバラバラです。
ひとつはあまり静かなところでは覚えないです、撮影するところは静かではないです。
どんな状況でも覚えられるようにしていきました。

35年続けてこれていること、続けて行くことが大事だと思っているので、まだまだ言えないと言う事が正直なところです。
自分でも女優やっていきたい、お芝居が好き、あきることが無い、尽きることが無いと言う事がベースにはありま
すが、やっぱり周りの人に支えられていることが一番大きいと思います。
50代に入って行くが、たのしみ、難しさ、作品を通して原点に引き返されたり、色んな事を経験させてもらう有難さがあります。
相手役とのコンビネーションが無いと、はまっていかなかったり、受け入れられなかったりするので、相手の方の協力、自分が寄りそったり、自分自身も向かい合おうとするとかを覚えていったのは、若い時とは違う事なんじゃないかと思っています。
お互いが引き立て合えることができる事が身についてゆく、そこを意識する事は若い時にはなかったことかと思います。
年齢は積み重ねの大事な一つだと思っています。
チャレンジはいつでもできるので、どの年代でも変わらないと思うので、まだまだなんじゃないのという気持ちを持つことも重要になってくると思う。
いろんな物に挑戦して、みんなに楽しんでいける作品を作れたらいいなと思っています。