2018年12月29日土曜日

笠松泰洋(作曲家)            ・音楽はジャンルを超え、国境を越える

笠松泰洋(作曲家)            ・音楽はジャンルを超え、国境を越える
1960年福井市生まれ、幼いころから音楽が大好きで、東京大学入学と同事にミュージカル作曲家三善晃さんのもとで作曲を学びました。
現在はジャンルを越えて活躍、演劇では蜷川幸雄さん演出の一連の作品、映画では是枝裕和監督の作品の音楽を担当、年明けに画イギリス、オーストリア、南米で公演を行なう予定です。

生れて初めてピアノを触らせてもらったら、雷のような音がして、習いたいと思って親にねだりました。
小学校2年生のころに、父がLPレコードを聞かせてくれて、「新世界」が良くてよくて毎日聞いていました。
小学校4年位から大笛が一番好きになって、中学に入ったら吹奏楽部があり福井県に3校しかなかったが大笛があり、そこの音楽部に入りました。
中学生2年位の時に曲を作りたくなってメロディーが浮かんで書きとって、作ってみたら、ぴったり二部形式に成っていて、そこにたどり着くのに半年かかりました。
作曲を習いたいと思って、誰に習ったらいいか考えながら高校に行きました。
高校2年の秋に、作曲家三善晃さんの作品をTVで聞いて、不思議な曲だと思いました。
解説を聞いて眼から鱗でした。
高校3年の時に福井でモーツアルトのピアノ協奏曲をやって、ソリストが井上先生でした。
井上先生に相談したら、東京に行って手紙を出したら何とかなるかもしれないと言われて、決心しました。
三善晃先生は桐朋学園の学長で、手掛かりは無くいて、先生の後輩になって対応すれば何とかなるのかなあと思って、本当に一生懸命勉強しました。
入学式の前の直接電話をして話したら会いに来なさいと言うことになって、入学式の前日に先生の家に行って話をして弟子入りしていただきました。
最初の2週間は学校にはいかないで先生の処に行きました。

30代の半ばで蜷川行雄さんの演劇の音楽に起用されることになり、それが大きな転換期でした。
生活費は塾、予備校の英語の先生をして生計を立てました。
大学時代にいくつかアート的な衝撃に出会いました。
蜷川行雄さん、日生劇場でのマクベスの公演は余りに凄くて吃驚しました。
音楽の使い方が全く考えられないものでした。
3年の夏に池袋に行ったら蜷川さんがいて、友人が僕の疑問に対して話を聞いてほしいといったら、気さくに応じてくれました。
マクベスのあんな場面に凄く綺麗な曲を何故取り入れたのかを聞きました。
実は、この曲(リクイエム)が好きで好きでしょうがなくて、この音楽に合わせてあのがマクベスだったと言っていました。
そんなことを聞いてくれたのは君だけだと言って喜んでいました。
蜷川さんとはその後12年ぐらいは一度もお会いしませんでしたが、又池袋でばったり会いました。
テープを送って欲しいといわれて、送ったが、1年後ぐらいに電話があり、仕事がしたいということだった。
「真田広之主演のハムレットの音楽を笠松君に任せるからよろしく」という話でした。
いきなり大きな仕事を任されました。(35歳5月)
カセットテープを聞いてもらったら、気に入ってくれて、出だしの演出を変えると言ってくれました。
最初の3分間で照明、舞台、音楽全部使って勝負を決めると言うか、自分の作品にお客を連れ込む。
蜷川幸雄さんは色んなことに関して本当に学びの連続でした。
三善晃先生に次いで蜷川行雄さんは第二の師匠でした。

琵琶と篳篥(ひちりき)はペルシャの楽器で、中東の方には楽器が残っているという事で一緒に演奏したら面白いのではないかと思いましたので、つてもないままに10日間イースタンブールに行きました。
いろいろダブルリ-ドの楽器を店で探して、30軒ぐらい行って来ました。
蜷川さんの2000年の「グリ-クス」という10時間に及ぶお芝居の音楽の準備でした。
10個のギリシャ劇の話を1時間ずつに縮めて、10話連続で繋がった話でした。
蜷川さんは計算できないことに挑む人で、みんなが考えて一番いいものに作り上げると言うような感じでした。
私は映画音楽、バレエ音楽、合唱曲等ジャンルが広いですが、思わぬところから話があったりします。
是枝さんの映画の音楽も作りたいと思って、是枝さんにこちらから電話をして、会いましょうということになり、「ワンダフルライフ」の音楽に繋がる訳です。

蜷川さんの仕事をすることによって多く人との関わりが出来て、仕事が広がり増えて行きました。
ありとあらゆるるジャンルの事をやりたいです。
音楽がどういう役割を担うかという事を見極めることはとても重要です。
2000年の「グリ-クス」では138曲作りました。
トルコで購入した楽器など使っていて、いつの間にか演奏をするようになりました。
ウード→琵琶の元になる楽器ですが、ヨーロッパではマンドリンになってギターになるわけです。
中東っぽい音楽をする事を3人で始めました。
ピアノのルーツを辿ってて行くとイスラム圏にあるカーヌーンと言う琴で、オルガンの鍵盤をくっつけてみて改良していったらチェンバロの原型なんです。
辿ってゆくとすべての音楽は繋がってると気付きました。
文化庁文化交流士になりましたが、1年以内、1カ月以上海外に行って文化活動をしてきなさいというものです。
すべて自分で活動計画などを立てなくてはいけない。
今後オペラとミュージカルの作曲はやりたいです。
























2018年12月28日金曜日

五味太郎(絵本作家)          ・みんな、人生楽しもうぜ! ~2回目

五味太郎(絵本作家)          ・みんな、人生楽しもうぜ! ~2回目
1945年東京生まれ73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューされました。
『きんぎょがにげた』、『みんなうんち』、『さる・るるる』など、かくし絵や言葉遊びの要素のある本は特に人気があり、30年来読み繋げられるロングセラーも数多くあります。
先月は絵本の人をテーマに創作の舞台裏、そこに込めた思いを伺いました。
今月は子供をテーマに伺います。
五味太郎さんはこれまで絵本のほかに、「勉強しなければ大丈夫」、「大人問題」、「丈夫な頭と賢い身体になる」等の本を出版され、子育て、教育、子供と学校等についてご自身の思いを語っています。

「改訂版 勉強しなければ大丈夫」を今年出版。
子供とおとなの対立場面がめんどくさいと無意識に思っていたが、絵本を始めて最初にぶつかったのが、子供と大人ということでした。
子供の頃どうでしたかと質問を受けるが、子供をやった覚えが無いんですよ。
だから子供のつもりが無いんだよねと言うのが、前提になっていて、同時にそれぞれなんだよねと思うんです。
絵本は児童書と呼ばれていて、絵本と児童書は全然違うなと思うのが僕の結論です。
児童書は大人が子供に向かって目的を持って書く本だと思う。
簡単に言うと余計な御世話だと思う。
子供にやさしさとかを説くなという感じです。
子供時代、自転車は大人用しかなかったので三角乗りをしていたが、子供用は有難いようだけれども怪しい、ビジネスチャンスなんですね。
子供用に本を作って、ついでに子供を指導し、方向付けをして学ばせてというその位置にあるのが児童書と呼ばれているのが一般だと思う。
児童書の中に絵本っぽいものがあったから、絵本は児童書なんじゃないのかということになった。

今は学校に行ってない子はレイアウトしきれていない子で、アウトサイダーだから、子供は学校にレイアウトして、そのあとは家庭にレイアウトする。
そうじゃないものを真ん中(社会の中間層)は許されなくなった。
面倒を見なくてはいけないと真ん中は思いこむ、その方が真ん中の社会は運営がしやすい。
子供と老人はじゃまなんだよね、ということがどんどん進んで行ってしまった。
チルドレンズブックとフィクチャーブックの判らていない世界のころに入ったものだから、チルドレンズブックの一ジャンルだという形でいうと、打ち合わせなどでぎくしゃくする訳です。
子供達は僕の本に出会うと何を言ってるのか判らなくて、本だと思う様になる。
そうすると単純に信用されるようになる。
絵の場合は単純に自分で読むしかない、試験になじまない。
学校が整備されていないころ、選択肢だらけだったが、余りにも選択肢が無い。
学校に行くしかなくなった。
私は学校って先生の為にあるんだと気がつきました。
食い扶持があるから。
今人格まで、正しい人とか、正しい身体だとか、そこまで管理をするそのステムの中にいるしかない。
個性を伸ばすと言う事も言っているが、そこから脱却できない、次のビジョンが生れてこない。

子供達がハッピーではない、本当に気の毒だと思う。
子供達は体力がないから反乱できない。
生れて良かったなあって思ってほしいと思う。
下の娘は自分のペースが会って乱されるのが好きではない。
学校には行かないと言うから、「オウ」と言うだけだった。
指導欲が無かった、娘から普通の親はもっと厳しく言うとか言っていました。
自分の暮らしが忙しかったが、子供の居所は判っていた。
毎年子供同士が1,2件子供同士の殺し合いがあって、起こり続けていて、本質的に考えようとする気が、社会的に起きないことが不思議でしょうがない。
子供達はつまらない、退屈なんだよね、うろうろするしか無くて、そのうち何がね、というのは簡単な話で、生活がつまらない、多くの子はもしかすると崖っぷちなんじゃないのかなあ。
兵器産業がもうかる、だから戦争が無くなる訳が無い。
被害を受けちゃうのは子供でしょう、女、老人でしょう。
大原則は個だと思う、個についてもっと気楽に慎重にやっておいた方がいいような気がする。
自分の質、自分の個とはどんな質なのだろうと、自己発見できるようなのはどんなシステムが一番いいのかなという事をもっと研究した方がいいと思います。

長い事絵本作家をやってこられたが、気分の整え方、体調等工夫してきたんだと思います。
テニス、チェロ、マージャン上手くなりたいと思う。
ちょっと良くなると、上手くなると、楽しい。
努力、上達、感謝とか高校生とかのころと70歳では文字は同じでも意味が違う。



































2018年12月27日木曜日

高田繁(前横浜ベイスターズGM)     ・プロ野球への伝言

高田繁(前横浜ベイスターズGM)     ・プロ野球への伝言
昭和43年に巨人からデビュー、以来50年に渡りプロ野球の仕事に携わってきましたが、今年を最期にプロ野球界から離れることになりました。

ドラフト会議が最期の仕事になりました。
2011年12月に就任、7年間を振り返ってみると、まず2年間の約束でした。
当時65歳、チーム作りに手を貸しててほしいという事で引き受けました。
結局7年になりました。
現役を経てNHKの解説員、コーチ、監督等、フロント、GMプロ野球の仕事を浪人しないで50年間過ごしてきてこんな幸せな事は無いです。
1945年に疎開先の鹿児島で生まれました。
大阪に戻ってきて、浪商高校、明治大学、ドラフト1位で巨人に入団。
尾崎行雄投手を擁して優勝、大学時代は7シーズン連続ベストナイン(1年秋から)、通産127安打の東京6大学の記録も作る。
昭和43年に巨人からデビュー、いきなりレギュラーに定着して3割、20盗塁以上、新人王、日本シリーズでも活躍して走攻守揃った選手として巨人のV9に貢献、ゴールデングラブ賞を外野手で4回、内野手で2回取る。
5年間3塁をやりましたが、外野の方が自信がありました。
35歳で現役を引退しました。

野球解説の後、日本ハムの監督、巨人のヘッドコーチ、二軍監督、日本ハムのGMを務める。
2008年からはヤクルトスワローズの監督、2010年5月に監督辞任、やりきったなあと思いました。
横浜ベイスターズが誕生して2011年にGMの話が来ました。
監督、選手等のチーム作り編成の仕事を先頭に立って、中心でやると言うことです。
お金のことに関しては専門家が担当するということにはっきりしていました。
フロントがチーム作りをして監督に渡すと言うようなことは日本ではあまりないと思います。
どちらがいいかというと、何とも言えないと思いますが。
監督が変わるとガラッと変わることだけは避けた方がいいと思います。
アメリカと同じような形、フロンがチーム作りをやって欲しいと、日本ハムから言われました。
我々フロントが行って、ファームの選手の育成方法を話し合う。
ダルビッシュの時には一軍にいったら力を出すと思って、ヒルマン監督に強く推薦して、それから彼は1軍に定着しました。
糸井は4年ピッチャーをしましたが、チームで一番足が早いし打撃もいいのでという事で野手に転向した方がいいのではないかと、強く要請しました。
来年の1軍のキャンプには参加できなけらばいらないからと言ったら、あれだけの選手になりました。
イージーフライをミスしていたことがあるが、まさかゴールデングラブ賞を取る選手になろうとは思わなかった。
選手の持っている能力、変更のタイミングが重要です。
なかなか3拍子揃っている選手は少ないが、バッティングがいいから1軍の代打で貢献してくれるのではないかという選手もいます。

日本ハム時代の事をDeNAでも踏襲しています。
東 克樹、阪口 皓亮、今永 昇太、山﨑 康晃、等の選手のプランニング、先発ピッチャーは3人ぐらいしか見あたりませんでした。
今年あたりからは野手も高校生から取りたいと思っています。
マネーゲームの様に選手を取ってと云うよりも、自前で選手を育てて行くことが重要だと思っています。
広島、日本ハムはFAを一人も取っていませんが、強いチームが出来ていますから、それを参考にしたりすると強いチームをつくる面白さがあると思います。
今後はアマチュアを好きな時に行って、教えに行きたいなあと思っています。
庭に野菜、花を植えて育てるのが楽しみです。
野球離れ、我々が子供のころはまずは野球でしたが、今は色々なスポーツがあり、野球人口は少なくなってきていますが、指導者は野球の面白さを教えて行ってほしいと思います。
ファンにサインをするとかも大事ですが、良い内容の試合をすることによって、まだまだ野球は栄えると思います。


















2018年12月26日水曜日

糸井重里(コピーライター)        ・おもしろいを追いかけ続けて

糸井重里(コピーライター)        ・おもしろいを追いかけ続けて
1971年にコピーライターとしてデビュー、、数多くの広告を手がけてきました。
50歳の時に立ち上げたベルサイト、ほぼ日刊糸井新聞、通称「ほぼにち」、今年創刊20周年、ネット上の活動に留まらず、イベントの開催とか、学びの場の提供など更なる進化を遂げています。
加えて作詩、執筆、ゲームやアプリの製作等ジャンルを問わず,多彩な家活動を重ねてきました。
番組でこの秋お届けしたラジオ深夜便「あなたとわたし」の歌詞も糸井重里さんの手に依るものです。
時代の最先端を走り続けている糸井さんに「ほぼにち」糸井新聞の20年の励みと社長として面白い企画を生み出すヒント、新らたな年にむけての意気込みなど伺います。

ラジオ深夜便「あなたとわたし」の作詩
世の中全般の普通の言葉は愛しているとか、愛してないとかという事がすごく大事にされていて、愛が表現されていないと終わっているかのように思いがちだが、旅先で老夫婦を見るとあまり喋っていない。
こういう関係っていいなあと思っていて、いつか描けられたら良いと思って、それをやって見ようと思いました。
「ほぼにち」のウェブサイトを立ち上げたのが、1998年の6月6日でした。
50歳直前だったので、なんかこのまま終わるのはやだなあと思いました、ネガティブが非常に意識していました。
人が喜んでくれる方に歩きたいから、居場所を見つけて、若い人と同じスタートラインでやりたかった。
過去に作ったもの、自分は昔こういうやつだったというのは嬉しくないので、今日の何かで問いかけたいというのがあって、息を止めて方向展開したような気がします。
大事件の後は大変でした、震災後お金のことをなかなか書けなくて、それを書くのは半日かかりました。
全く冗談で終わるのがありますが。
「ほぼにち」からは色んな企画が飛びだして、次々に新しいものがあると言うイメージがあるが、こうしたら面白いのではないかというポジティブなことはやりたくてしょうがないが、今が苦しくない限り余り新しい事を生み出すことは人間あまり得意ではない。
不足感、心配、退屈しているなど、そういうタイプのものがアイディアです。

よわったなあから始めって、会いたいなあと思うことから、行けばいいなと、一人でくことから出来る。
小さい時から必要があって喋ったりして、喋るのは子供のころから得意ではなかった。
大人になると目的があって喋るが、目的があって喋るのは得意ではないです。
本当に心が動くかどうかみたいなところを、もう一回問いかけるが、「面白いと思います」と言えるのが大体新人なんです。
付き合いの長い人になると「そうなんですよね」というんです。
何なんだろうねと探して行くんです。
気持、感じ方が必要で、一番原始的なところに戻っていきます。(時間がかかります。)
考えの広がり、深さが出来て来ます。
何処の会社も同じかもしれないが、売れる商品が稼いでいる。
大福餅が名物の店で、色んな生菓子が置いてあっても、売り上げは大福餅が作っているが、大福餅しか置いてなかったら、大福餅も美味しくなくなるんです。
張り切って和菓子を作っているおじさんと喋って、一生懸命やっていると言うフレッシュさを感じる。
絶対良いんだというものがあればいいわけで、店を開けている日の稼ぎが、休んでいる稼ぎ日の稼ぎを埋めてくれるので、平行に平等に同じ様に一生懸命やるのはあまり意味がない。

父は68歳で亡くなりました。
父の歳を越えるときは少し怖かったです。
そこを越えたら、後はおまけかもねというような気持もあります。
やれる事が減っていると言うので数えたらきっと減っていると思いますが、減った分を他でカバーできるのではないかという事があるので、増えた分の方がおおきいんです。
一緒にやろうということで、自分では得意なことでは無くても、やれる人がいれば増えたという事なんです。
範囲がどんどん増えて行って喜ぶ数の人も増えていて、一人でやろうとしていたころと比べて、何倍にも増えて来ることが実感できる訳で、歳を重ねて行っても楽しいことばっかりです。
人生100年時代、俯瞰して考えることと、具体的な自分の実感とはあんまり混ぜて悩みを増やさない方がいいんだと思います。
自分を必要としている人がいると言うことは、うれしい事なんで、それを作ると言うのが退屈しのぎの最高のコツだと思います。

ボランティアではせっかくやってやったのにとか、愚痴は言わないことですね。
100年時代、押しつけると人は怒ります。
日常に会う人に、ご機嫌で挨拶される人になっていれば、それでいいと思っています。
いてもいい人になりたい。 いてほしいというふうに思われることは押しつけがなしくなると思う。
100%ではなくて、40%出来ればいいと思いいます。



















2018年12月25日火曜日

山田和夫(子ども食堂代表)        ・妻のレシピが遺したもの

山田和夫(子ども食堂代表)        ・妻のレシピが遺したもの
70歳、60歳になった時に経営していた会社を辞め、年金を元にゆったりとした生活を考えていました。
ところが妻の和子さんが病気になり闘病生活の末に亡くなりました。
和子さんが残したのは一枚のレシピでした。
自宅でパン屋を経営していた和子さんは、レシピにパンの作り方を書いて居ていました。
和夫さんはそのレシピを基にパンを焼き始め、ホームレスの人達に配るようになりました。
この活動がきっかけとなり、山田さんは子供たちの為に、自宅を開放して子供食堂も始めました。
妻和子さんが残したレシピがきっかけで、二つの社会的な活動を始めた山田さん、10年間の歩み、そしてその意味合いについて伺いました。

最初は1階の一部屋だけでやっていましたが他の部屋、2階にもということになり、私の居場所は寝室だけになりました。
これは自分の第二の人生なんだなあというふうに現実を受け止めています。
想像もしていなかった、片方の車輪がが亡くなってしまって、それを受け入れることが大変でした。
子供とのかかわり合いをするようなおもちゃの小売店に勤めました。
暫くして、ドイツの世界で一番大きい見本市がニュルンベルクでおこなわれるが、見学に行かせてもらいました。
小売店ではない方向に行きました。
鉄道模型コーナーがあり、トンネルを作っている会社があり、おじいさん二人で楽しそうにやっているんで、こんな形でおもちゃの産業に関われたら、小売店より楽しいのではないかと思って、小売店を辞めて始める事になりました。
当時は大手6社ががっちりと押さえていて、入って行く余地が無くて、スポーツとおもちゃの間のようなマーケット、スポーツ玩具は大手がやっていなくて始めました。
暫くして日本剣玉協会の人と知り合って、設計図があるのでそれに沿って作ってもらいたいという事で作り始めました。
左利き用にも変えられる、配慮がありました。

長年剣玉を作ってきてあきが来ていて、年金を貰って第二の人生に移っていいのかなと思って62歳の時に辞めました。
妻が子供の世話をしなくてもよくなってから、自宅でパンを焼いて玄関を改造してパンを売る商売を始めました。
これからといった矢先に妻が体調を悪くして、胃の内視鏡を見てもらったが問題が無かったが、エコー検査をしたらがんがあるという事で、すい臓がんと言われました。
進行は第4ステージで転移も見受けられるという事で吃驚しました。
違う病院にも行ったが診断は同じでした。
抗がん剤、手術、放射線治療があるが、転移もしているのでどれをやっても本人が苦しむだけだという事でもうなすすべもないという事で、民間療法でやって行くしかないという事で実行していました。
暫くして痛みが出てきて、緩和ケアの病院に入院することになりました。
一日だけ自宅に帰りたいと申し出をして、帰ってきて家にいたいということ家に留まるようにしました。
その後息を引き取ってしまいました。(告知から半年でした。)

音がするのでパン屋はやっていませんでしたが、亡くなる3週間前に私にパンを焼いてほしいと言ってきました。
池袋の路上生活者を支援する団体の方と知り合って、売れのこりのパンを寄付するという事を妻はやっていました。
毎週水曜日に夜回りする活動がありまして、おにぎりなどを配るのですが、寄付したパンも配って欲しいという事でパンの寄付もしていました。
私にもそのことをして欲しいという事を言ってきましたが、出来ないと言って断ったが、2日後にパンを焼くレシピを渡されました。
妻は天然酵母で焼いていて、その場合には2日ぐらいかかり、イーストで焼くと3,4時間で焼くことができるのでそれを手渡されました。
亡くなってから色々やることがあって忙しかったが、なんにもやる事が無くなったなあと思った時に、レシピを思いおこしました。
毎週水曜日に50個 、こつこつ作り始めましたが、硬かったです。(醗酵が足り無かった。)
自然醗酵のレシピだったが(夏場用)、始めたのが冬場で醗酵不足だったようで、ホイロ(醗酵容器)を使い始めてからは、自慢できるようなパンを作れるようになりました。
作って直ぐに手渡していました。(生活者を支援する団体を介して)

2010年1月から2011年3月の震災の時までは一人でやっていましたが、震災で気持ちが暗くなってパンを焼くのを辞めてしまいました。
7月ぐらいに団体の方から、私達も手伝いますからやりましょうと言うことで、一緒にやるようになりました。
50個焼いてましたが、焼く人達の報酬が無いので、年金生活では現金をわたすのがきついし、原料も費用がかかるので、その分を稼げばいいと思って働き始めました。
魚を三枚にする作業をすることになりました。
一緒に作業をする4人とは50個から100個を焼くことにして50個分はそれを分けるという事にしました。
子供の貧困問題の為にも手を貸してほしいという事を言われました。
子供に食の支援をすることになり、まず見学することになりました。
暖簾に子供食堂という文字が書かれており、それなら私にもできると思いました。
小さな食事会というイメージでしたが、保健所と相談して飲食の営業許可を申請しました。
条件をクリア―して始めました。
援軍も来てくれました。(10人ぐらい)
最初に来たのは、ほとんどが小学生で10名ぐらい来ました。
外国籍の子も来ていて、食事後にインドの子が歌を歌ってくれました。
紙芝居をやったらそのうちに、小学校の高学年の女の子が自作の紙芝居をつくってきたりしました。
滞在時間は1時間半で、食事が終わってもなかなか帰らなかったです。
行政も子供の貧困問題に何かできないかという事で豊島区から活動資金を援助するようになりました。(活動費の半額)
手伝ってくれる人は81歳が最高齢で、学生の参加も多いです。
親御さん併せて50人ぐらい、お手伝いが20人位なので一番多い時には70人位になります。
貧困という事でやってきましたが、子供食堂に参加されするということは、予定を立てないとなかなか来られない、口には出せないがそれぞれ荷物をしょっていると推測はしています。
妻と海外旅行とかを考えていたのが全然変わってしまって、周りから推されてこういう形になったというのが率直な気持ちです。
妻は社会と繋がりを持っていて、そのことを私にもしなさいと言っていたんですが、私としては全然考えていませんでしたが、パンを焼くことで、たった一りになってしまった私が社会と沢山の人と繋がって行っているんですが、意図したかどうか判りませんが、結果としてそうなりました。































2018年12月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】モーツァルト

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】モーツァルト
「僕たち家族4人は幸福でも不幸でもありません。
僕はそのことを神に感謝しています。
みんなが健康でさえあればそれでいいのです。
幸福というものは想像の中だけにあるのですから。」 

この番組 【絶望名言】が本になりました。
海外ではクリスマスに自殺してしまうというのがとっても多い。
クリスマスが来たのに、自分の人生には救いがないということに絶望してしまう。
フランクル 精神科医のユダヤ人だったが、アウシュビッツの収容所に入れてれてしまうが、クリスマスには解放されるといううわさが流れる。(根拠は無かった)
クリスマスには解放されなくて、絶望して多くの人が亡くなったと言われる。
私(頭木)は20代から30代にかけては、クリスマスから正月は病院で過ごしていましたのできつかったです。
同じ部屋の人も皆落ち込んでいました。
看護師さんがケーキを持ってきてわけて食べるのですが、私は腸の問題で絶食なので、他の5人は隠すようにして食べるのですが、音が聞こえてきたりして、自分は非常に惨めな思いをしました。

モーツアルトが亡くなったのが、12月5日でその後、作品レクイエムが出来あがったのは、12月10日に初演されて今でもクリスマスコンサートでよく演奏されました。
モーツアルトが生れたのは1756年1月27日 歌麿、葛飾北斎が生まれたころと同時代です。
母親はモーツアルトが21歳の時に亡くなる。
天才少年として有名だった。
成人するころはザルツベルクで宮廷音楽家をしていた。
人間関係の問題で辞めてしまって、各地を転々とするが、神童と言われたころほど注目が集まらなかった。 20歳の時に父親あてに書いた手紙の一部が冒頭のもの。
(姉が一人いた。)

「幸福に生きることは魔法でも使わないかぎりは僕にはできない。」 (翌年親友に宛てた手紙の中から)
父親は同様に音楽の才能があったが、モーツアルトの才能を発見して厳しくしつけるようになる。
モーツアルトは35年10カ月ほど生存したが、10年2カ月ほどを旅の空で過ごした。
父親との旅はこの時初めて一緒に行くことは無くて、母親との旅の中で1年たたないうちに亡くなってしまう。
母親を亡くした悲しみの中、ピアノソナタ 第8番イ短調ケッヘルを作曲する。
短調で書かれているのがこの曲ともう一つ位です。
「この手紙を書いていると涙がぽたぽたと紙の上に落ちた。
でももう陽気にしよう、ほら沢山のキスが飛びまわっているよ。
捕まえて、僕も3つ捕まえたよ、なんて素敵なんだ。」
33歳の時に妻に送った手紙の一節  
*ピアノ協奏曲第26番 戴冠式  
モーツアルトに目をかけてくれていた、ヨーゼフ2世が亡くなって、レオポルド2世が即位することになり、戴冠式が行われたが、モーツアルトは呼ばれなかった。
お金にも困っていたモーツアルトは色んなものを質に入れて、無理やり出掛けた。
自分で演奏会を開いて演奏したのが、この曲だが余りお客さんは来てくれず、その時妻に書いたんがこの手紙なんです。
太宰治に通じるところがあるような気がする。
無理に明るくふるまっていた。
辛い時に元気そうにするのは辛いものがある。
感情労働、表向きと内心が違う。

「死というのはよく考えてみれば人生の真の到達点です。
僕はこの人間の最良の友と数年来、とても慣れ親しんでいます。
その姿はもう僕にとって、少しも恐ろしいものではなく、安らぎと慰めを与えてくれるものとなっています。
僕はまだこんな若いのですが、夜ベッドに入って眠るとき、もしかしたら明日はもうこの世には居ないのではないか、そんなふうに考えない日はありません。」
(30歳の時の父親への手紙  父親への最期の手紙)
*歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
35歳でモーツアルトは亡くなる。
ドン・ジョヴァンニは女たらしで、新しい女性の寝室に忍びこんだ所、騎士団長である父親に見つかってしまい、父親を殺してしまう。
ドン・ジョヴァンニは悔い改めないので、本当に地獄に引っ張り込まれて焼かれてしまう。
モーツアルトは放蕩していた。
父親からもたしなめられていたが、モーツアルトは改心はしなかった。

「最期の時を告げる金が成っているのを感じます。
自分の才能を本当に楽しむ前に、終わりが来てしまったのです。
人はだれも自分の人生を思うようにはできません。
ペンを置きます。
これは僕の弔い歌です。」 
(34歳の時にドン・ジョヴァンニ等の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテに送った手紙  偽物かもしれないとも言われているが
。)
*「レクイエム」 モーツァルトの死により作品は未完のまま残され、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成された。
出だしは暗いが重厚感があって訴えかけて来る。
明るい受ける曲を作っていたが、ついに正面から暗い曲を書いたという事もあったの
かもしれない。

*最期に完成されたピアノ協奏曲  第27番 変ロ長調 k.595 第二楽章