2018年11月30日金曜日

柴田美保子(女優)            ・古事記をうたう -神話のふるさとから-

柴田美保子(女優)            ・古事記をうたう -神話のふるさとから-
大阪市出身、1965年NHKのドラマ「チコちゃん日記」の主役でデビュー、その後映画やTVで活躍、1972年に脚本家の市川 森一(いちかわ しんいち)さんと結婚されました。
市川さんは大河ドラマ、「黄金の日日」「山河燃ゆ」「花の乱」など数々の大ヒット作品を世に送りだしましたが、晩年、ライフワークの一つにしていたのが古事記の普及でした。
柴田さんはその遺志を継ぎ、市川本、古事記の語り部として全国で活躍中です。

小学校1年生の時に児童劇団に入り、高校1年生の時に大阪NHKでオーディションがあり受けないかとの話があり、受けてみたら受かりました。
NHKのドラマ「チコちゃん日記」の主役でデビューしました。
チコちゃんの成長を追う1年間の青春ドラマです。
月曜日から土曜日まで毎日6時半から20分間放送されました。
「マキちゃん日記」という子供番組で脚本を書いていた市川 森一(いちかわ しんいち)と知り合い、市川が31歳、私が24歳の時に結婚しました。
40年間連れ添い、2011年12月に70歳で亡くなりました。
最初夫は『快獣ブースカ』『ウルトラマンシリーズ』の子供番組を書いていましたが、
その後大河ドラマ、「黄金の日日」「山河燃ゆ」「花の乱」などを世に送り、晩年、ライフワークの一つにしていたのが「古事記」のドラマ化でした。
バブル崩壊などで不安定な時代となり、日本、日本人の行く末に危機感を感じていました。

脚本家として、日本人の精神と文化の原点である「古事記」から現代人が学ぶことが多いのではないかとドラマ化に取り組みました。
2005年から2007年の3年間に渡ってNHKラジオオーディオドラマとして放送されました。
「自分の国の歴史を大事にしない国は滅びる。自分の国の建国の歴史を知らない民族は消滅する。と言われているが今の日本がまさにそれに近づいているのではないか、一体日本人は何処へ行ってしまうのか。古事記には私達祖先の生きざま、ありよう、考え方が書かれている。 それは今の私達に受け継がれて、文化、芸術、芸能、生活、思想など全ての基になっている。日本人の原点が書かれている「古事記」から今の私たちは改めて学ぶことが多くあるのではないか。・・・」
2012年古事記編纂1300年という記念の年に古事記の舞台化を企画していました。

律令の設定 大宝律令によって確立した。
歴史書 国史
一国の形が形成する上で民族が共有する固有の文化は無くてははならない。
711年(和同4年)天武天皇が国史の撰録(せんろく)を命じる。
太 安万侶(おお の やすまろ)が勅命を受ける。
各地に伝承される民話や古き言葉の編纂に取り組みました。
こうしてできたのが「古事記」です。
民族の原点探しでした。
1300年を経てどのように日本を形成してきたのか。
古事記は日本の全ての催事、祭りの根本がそうであるように、死と再生を歌いあげるドラマなのです、歴史ロマン大作です。
夫は企画書を書いただけで、自分の手で上演する事が出来なかったので、夫の夢を実現するために夫の妹の市川愉味子と上演活動を始めました。
2013年に神話ミュージッカル「ドラマティック古事記」を宮崎で初めて上演、2015年には第二作目を2016年には第三作目を上演しました。
一人がたりでも「古事記」の公演活動をさせてもらっています。
「古事記」は日本人の宝だと市川は言っています。

第一作目「始まりの始まり」 原作:市川 森一(いちかわ しんいち) 台本:市川愉味子
音楽:松本俊行 神話絵画:マークエステル
『この世の初め、気が遠くなるような昔々の事でございます。 ・・・高天原というところがありました。・・・呼び出されたのが「伊邪那岐命(いざなきのみこと)」と「伊邪那美命(いざなみのみこと)」、という神様でした。・・・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は言いました、「この漂える地上世界を美しい姿に整え固めよ」・・・鉾の先から滴り落ちた塩のしずくが固まり、積もり積もって幾つもの島が生まれて行きました。・・・こうして私達が住む大八島(おおやしま)がこの世に誕生したのでございます。・・・時が流れ太陽神「あまてらす」、月の神「つくよみ」、大海原を治める「すさのう」これらの兄弟神のお陰でつつがなく収められていました。・・・「すさのう」聞かん気の甘えん坊で大層我ままでした。 黄泉の国に去った母「いざなみ」が恋しいと駄々をこね赤子のように泣きます。

「すさのう」の大泣きが青々とした大地が枯れ木の荒れ野になるまで泣き枯らします。
・・・悪神、悪霊が湧きい出てあらゆる災いが同時に起こってきました。
・・・「すさのう」を追放しました。・・・「すさのう」は大喜び、高天原を目指して駆け昇って行きました。・・・「あまてらす」と「すさのう」は競い合いが繰り広げ会います。・・・「あまてらす」の口から漏れ出た息が虹色の霧となって天空に羽ばたいていきます。・・・次々と生まれい出たのはみ柱の清らかな女神達でございます。・・・「すさのう」は首飾りを惜しげもなくガリガリ噛砕き、息を吐き出します。 すると五柱の立派な男神が次々と生まれい出たのでございます。・・・「すさのう」は目も当てられぬ乱暴を働いたのです。・・・止め立てするものは誰もいなかったのです。・・・混乱のさなか、一人のおり姫が身体を突かれ命を落としてしまいました。・・・「あまてらす」は岩屋の扉を封印してとうとう一人奥深くに閉じこもってしまいました。

・・・「あまてらす」が去った後の世界は全てが真っ暗な闇に包まれてしまいました。神々は「すさのう」を捉えて牢獄に閉じ込めましたが、「あまてらす」は戻ってきません。・・・絶望の淵に立たされてしまいます。・・・「あまてらす」はひたすら悲しみに心を静めていますと、自らの光も弱弱しく薄れて行くようです。・・・そんな「あまてらす」に時空のかなたから呼びかけて来る声がありました。・・・その声は亡き母「いざなみ」でありました。・・・「いざなみ」は語りかけて行きます。そなたが居なく有った後の世界がどうなっているか見せてあげましょう。・・・天界も下界も暗闇に包まれてしまった、闇を喜ぶ悪神、悪霊が躍り出て疫病がはびこり、食べ物も育たぬ不毛の地になったのだ、気の毒なことだ。・・・「あめのうずめ」が踊り狂い、神々も囃したて「あまてらす」に戻って欲しい思い一心の祭りなのです。・・・「すさのう」は高天原を乗っ取ろうという野心は無く、姉に無心に甘えたかっただけの事、有頂天の余り心を踏み外した愚かな子。・・・とらわれの身を晒している。・・・母「いざなみ」の諭しに「あまてらす」のかたくなな心も次第にほどけて行きます。・・・「あめのうずめ」は言います、今より闇の夜をあまねく照らし希望の神として生まれ変わります。・・・さあ「たじからおう」天岩屋の扉を開けよ。』










































2018年11月29日木曜日

長谷川哲夫(国立天文台チリ観測所上席教授)・視力6000で宇宙に挑む

長谷川哲夫(国立天文台チリ観測所上席教授)・視力6000で宇宙に挑む
チリの標高5000mのアタカマ高原に宇宙からやって来る電波を捉えて分析し、宇宙の謎を調べるる強大な電波望遠鏡があります。
アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計、通称アルマ望遠鏡と言います。
直径12mと7mのパラボラアンテナ66台を組み合わせることにより、最大で直径16kmの電波望遠鏡に匹敵する能力、人間で言うならば視力6000で宇宙を観測できます。
アルマ望遠鏡は日本、アメリカ、ヨーロパが共同で建設し、2013年から本格運用が始まる、すでに多くの成果を上げています。
長谷川さんは63歳、専門は電波天文学で、このアルマ望遠鏡の建設運用に長年携わってきました。
長谷川さんが研究者の道に進むきっかけを与えてくれたのは、小学生の時に出会ったある一冊の本だと言います。

望遠鏡というと光の望遠鏡を思い浮かべると思いますが、星が見えるが非常に熱い天体です。
星の材料となる物質は冷たいんです。
マイナス250度で、光を出さないが、電波は出します。
電波で宇宙を見ると冷たい物質から放たれた電波が、私たちに届いているのが判るわけです。
光、赤外線でそこから誕生した星、銀河を見る、両方を突き合わせてどういうものから何が起きて何ができたか、その星が死んだあとの物質がどう材料に戻っていくのか、大きな宇宙の中でのモノの流れが見えてくるわけです。
こういった望遠鏡をほしいなあと思ったのは35年前のことです。
1983年に日本でも大きな望遠鏡が完成しましたが、次にどのような望遠鏡にするかと検討したのが、アルマのルーツのひとつになっています。
携帯で使用している電波は何十cmで、ミリ波、サブミリ波(0.3mm)は最も波長の短い電波です。
東京からアルマ望遠鏡で大阪を見たら見たら、大阪の道に落ちている1円玉が見える、それが視力6000になります。
現在2000ですが6000を目指しています。

日本からチリに約20名が詰めています。
標高5000mの処にあるので、首都サンティアゴのアパートに暮らしています。
1000km離れたアルマ望遠鏡所のあるに出張して1週間仕事をして戻ってくるというような仕事をしています。
空気が薄くて空気が乾いています。
電波は水蒸気に吸収される性質があるので。
アルマ望遠鏡はこれまでの10倍になっています。
2年前、惑星が作られている現場をみる事が出来ました。
おうし座のなかの生れて100万年ぐらいの星です。(生まれたばかりの星)
その星を取り巻く円盤があり、円盤に溝が入っているのが判りました。
そこでは惑星ができていて、その惑星が軌道上にある物質を全部自分の中に吸い込んでしまったために、そこには物質がなくなって溝になるという説が有力です。
46億年前の太陽系の出来た姿を見ているようなものです。

2000年に天文台でアルマ望遠鏡の仕事をする人を募集していたので、大学から天文台に移ってアルマ望遠虚の建設に携わってきました。
アメリカで大規模な電波望遠鏡を作ろうという構想がありました。
ヨーロッパでも同じような構想でスタートしていました。
日本、アメリカ、ヨーロッパでそれぞれ計画がスタートして始まりました。
望遠鏡の設置場所とか、望遠鏡の形式とか情報交換するうちに、3つの計画が似てきて、1990年代の終わりごろに1つにまとめて、大きな望遠鏡にしようという機運が高まったアルマが誕生しました。
チリ以外も実際の場所に行って調べたりしました。
文化、物事の進め方など、色々違う環境条件の中で進めてきました。
議論をしてお金を持ち寄って、うまくいきそうだと確認をしながら、何百億円のプロジェクトが動き始めるわけです。
出だしのころはリスクの問題等で、日本ではお金が出ないで色々苦労をしました。

アルマ望遠鏡の建設の仕方は独特なところがあり、建設、運用も一人の人が責任を取れなくて、持ち寄りの手巻き寿司パーティーの様におのおの手分けして持ち寄ってつくる、インカインドでいろいろ出しあって作るということです。
最初綿密に計画を作るが、予想外の事が起きるが相談して落とし所を決めて行くが、手間がかかりました。
何処もアルマが欲しいという事で紛糾しても元に戻ることができた。
お金儲けではない活動なので、なんとかうまく進行出来ました。
2008年から2012年まで合同副プロジェクトマネージャーを担当しました。
その後チリの観測所長になりました。
2012年5月に同僚がサンティアゴで強盗に襲われまして、命を落としてしまいました。
森田耕一郎さん、30年来の友達で、基本設計も考えてもらいました。
日本から持ち込んだ16台のアンテナの部分を「モリタアレイ」と呼ぶことにしました。
太陽系のでき方についての理論があり、数値シュミレーションでは表せない或る種自然の美しさがありました。
今惑星誕生の理論を組み直そうと、世界中で大騒ぎになっていて色々な説が出ては消えをしています。

栃木県生まれで、父が理科の先生をしていて、小さいころから聞いていたと思います。
小学校5年生になった時にプラネタリウムができて、嬉しくて毎週のように行きました。
解説員の方から本とか自作望遠鏡とか色々見せていただきました。
天文学はどうなるかわからない、そういうものを追い続けている真剣さに驚きました。
「未知の星を求めて」関つとむさんの本を借りてむさぼるように読んで衝撃でした。
新すい星を見つけるいきさつなど、関ラインズ彗星という名前が付いた。
ラインズ氏は発見が一瞬遅かった。
未知のものを見付ける、そのために物凄い努力をする、その感動、そういうものを自分でもやってみたいと思いました。
自然を相手にしていると、人間って、なんと自然の事が判っていないんだろうと思います。
小学校に行ったりすると、人の役に立ちたいという子が多いと思いました。
人類の仕事に身を投じることも、人に役に立つなんだと言っていいんじゃないかと思います。
科学の研究は自分の人生をかけて、取り組むに値する仕事だというのを子供たちにも伝えたいと思います。
アルマ望遠鏡が色々なものを発見すると、新しい要求が出て来ると思うので、それに答えるようなグレードアップをしながら、使い続けるというふうになって行くと思います。

























2018年11月28日水曜日

長谷川和夫(認知症介護研究・研修東京センター )・実はボク、認知症になったんです。

長谷川和夫(認知症介護研究・研修東京センター 名誉センター長)・実はボク、認知症になったんです。
認知症診断の物差しとなる長谷川式スケールを開発したり、日本で開かれた国際アルツハイマー病協会国際会議の組織委員長を務めた、我が国の認知症の第一人者と言えば長谷川さん(89歳)です。
一昨年長谷川さんは自らも認知症を発症されました。
現在はその事実を公表され、可能な限り認知症への正しい理解を訴えています。
半世紀以上にわたり認知症の専門医として、診察と正しい普及活動を務めてきた長谷川さんに、医師と患者の両面から認知症に対する、正しい理解、患者への適切な接し方を含めて、その人らしく今を生きる大切さを伺いました。

最初に認知症かなと気付いたのが、時期ははっきりしないが、物忘れがひどくなってきた。
鍵を閉めたかどうか、はっきりしなくて戻って確認する事が初めあり、何回も確認するようになりました。
アルツハイマーの場合もまず時間があやふやになる、場所の見当があやふやになる。
その次が人、一緒に住んでいる配偶者に対してあやふやになる。
時間に対して対策として、日めくりカレンダーをめくることにしたり、新聞を取りに行くことにしました。(日付が書いてある。)
場所については行きたいところに行きつけないとか、家に帰ってこれなくなる。
人に関しては、配偶者に「貴方はどなたですか」、ということになったりする。
おかしいと思って診察を受けました。
CT、MRI、臨床心理士のグループがあって複雑なテストをやらされました。
長谷川式スケールは自分で開発したので全て分かっているんで役に立たないです。

診断の結果は嗜銀顆粒性認知症でした。
お年寄りのぼけという感じです。
アルツハイマーと比べて症状が激しくないです。
歳をとって来ると、アミロイドβ蛋白があるが、それが歳を取るにつれて脳の組織の処でどんどん増えて行くのですが、神経細胞の中まで入って行くやつと、神経細胞の外だけで中に入らないのがあるが、神経細胞の中に入るのがアルツハイマーです。
外にとどまるのが、嗜銀顆粒性認知症です。
日よって時間によって症状が違ったりします。
午前中はいいが、午後2時ごろになり疲れて来ると認知症になってしまう。
夜中に睡眠を取るので脳が修復するのか、翌日の朝は普通なんです、その繰り返しです。

認知症といわれると差別されたりするが、人生100年時代と言われるが、知的能力は落ちて来る。
暮らしができるかできないか、が重要なポイントだと思います。
僕はまず新聞を取りに行く、日めくりのカレンダーを新聞の日付に合わせてめくる。
食事はきちっと食べます。
昼はバナナ程度とか、サンドイットだったり、ご飯にふりかけをしてお味噌汁とか、夜は肉を食べたりもします。
30年来の行きつけの喫茶店によく通って好きなコーヒーを飲みます。
40年来の床屋では色々話をします。
本は図書館で借りたり自分で買ったりして読んでいます。
夏目漱石は大好きでかなり読んでいます。
絵も大好きで展覧会などに行きます。
音楽も大好きです、家内が武蔵野音大のピアノ科を出ています、付き添いに来たまりも国立音大のピアノ科を出ています。
音楽は直接自分の魂にスポッと入ってきて心が躍るからいいです。

医師のころは認知症の人にデイサービスを勧めていたが、自分が行くようになりました。
9時~5時まで一日で、入浴サービスがあり気持ちいいです。
日本は世界一長生きしているが、政府の政策も抜きん出ている。
東南アジアは日本よりも高齢化の進行が早いそうで、日本がどういう対応をしているか注目していますし、世界も注目しています。
出かけて行って向こうの国情に合ったやり方を教えてあげる、それが日本の国意である、そういう仕方がこれから必要じゃないかと思います。
認知症は全く普通の人と同じ事を考えていて、ここから認知症だと言う人は一人もいない。
午前、午後で違うし、夕方も違うし、朝になると元に戻るし、これは大きな発見だと思いました。
パーソン・センタード・ケアにしないといけないといけないという人が英国にいます。
(今は亡きトム・キットウッドTom Kitwood教授が1990年代前半に提唱した概念)
心理学の教授、臨床心理士で牧師でもありました。
まず人がいて認知症がある。
みんな一人ひとりが違ってそれぞれ貴重な体験をしている、一人ひとりが貴重な人間なんです。
日々私達は感謝しないといけないし、誰か人の為によりよくなんか役に立つことがあったらやらしていただきましょう、というのが僕の気持ですが。
同じ目線に立つということは、認知症の人に会って話す時には、「今日は何がしたいですか」、と向こうの気持を聞いてあげないといけない、それがパーソン・センタード・ケアだといいます。
相手の言う事を辛抱強く待つことです。

僕は絵本を書いたんです。
おじいさんとお孫さんとの物語で、或る日のこと食事をしている時に、おじいちゃんが「皆さんはどちらさんですか」、と言ったんです。
坊やが「おじいちゃんは僕たちの事を誰も知らないと言うけれど、みんなおじいちゃんの事をよくしっているんだから心配ないよ」、「そうですか、皆さんよく知っていて下さるんですか、それだったら安心した」ということで一件落着です。
普通だったら、「しっかりして」とか、「判らなければ駄目じゃない」という事を言ってしまうが。
これは我が家の実体験です。
優しく接するということは大事なことです。
医療していて患者さんから教えられたことはたくさんありました。
理系大学をでた頭のいい方が、よりによって何故私が認知症になったんでしょうかという質問があり、どうしてそうなったのか僕は判りませんが、僕も本当にそう思いますよといって、彼の手を握っていったら「そうだね」と言って彼は納得して帰って行きました。
ある患者さんから「先生はおいくつですか」と3回言われて、奥さんにどう対応しているのか聞いたら、「歳を取ると会話が無いので、返っていいです、質問に何回も答えます」と言われて、そうかと言い返す言葉が無かった。
認知症の方の本質的な障害は暮らしの障害です。
それを理解してあげればほっとすると思う。
お互いに心のきずなを大切にして生活する。
心に絆は一人ひとりがみんな違うので一人ひとりが尊い存在であることを自覚して、今、今の瞬間を大切にして、いま何を自分が出来るかという事を、努力して明日に、未来につなげることが大切ではないかと思います。
よく生きることは、よく死ぬことだと思います。



































2018年11月27日火曜日

天野 篤(順天堂大学医学部付属・順天堂医院院長)・患者たちの"幸福な暮らし"を目ざして

天野 篤(順天堂大学医学部付属・順天堂医院院長)・患者たちの"幸福な暮らし"を目ざして
1955年埼玉県蓮田市生まれ、埼玉県県立浦和高校卒業後、日本大学医学部に入学。
大学2年生の時の父の心臓手術をきっかけに心臓外科医を目指すようになる。
30年あまりで心臓手術は8000例、成功率は98%という日本有数の心臓外科医になりました。
天野さんを一躍有名にしたのは、2012年の天皇陛下への心臓手術の成功です。
現在は院長として外科医として忙しい毎日を送っています。
天野さんが目指しているのは、患者に重い後遺症を残さず、できるだけ生活に不自由が無いようにする医療をすることだと言います。
今年63歳を迎えた天野さん、最近はアジアの医師や医療レベルの向上にも力を入れています。
30年あまりの心臓外科手術の経験や現場から学んだ事、若手の育成にあたって心がけている事、今後の夢などを語っていただきます。

小学生の頃、腸が弱くてよく下痢をしていました。
父親の叔父が院長をやっていた病院に良く連れて行ってもらいました。
そこでおぼろげに医者とはこういうものだと、見て感じていた時期がそもそもきっかけかも知れません。
小学校、中学、高校と医者になったらとささやかれていましたが、高校2年の時に父親が急性心不全で救急車で入院して、将来手術が必要な心臓の病気であるということが判ったので、医者になってなんとか父親を助ける手伝いをしようと思って、医師になる手続きをしました。
日大の医学奴に入りました。(3年浪人しました。)
父親が発症して6年目に手術を受けました。
父親を健康に戻したいという思いを強くした時代でした。
更に2回手術を受けました。
豚の弁をつける手術でしたが、豚の弁の場合は数年で固くなって再手術が必要でした。
2回目の時には助手として立ち会いました。
縫った弁が外れることも起こって、4年後に3度目の手術がありました。
心臓自身の筋肉の耐久力が無くなって、父は亡くなりました。
父親のような目にあってはいけないと、父親からのメッセージを託されたような思いがありました。

就職先はいくつかの病院を渡り歩きました。
どれだけ腕に経験を積むか、自分の目、耳で聞いて身体の中にしみ込ませるか、ということが大事でそういう病院を選びました。
最初に行った関東逓信病院は症例が少なくて、亀田総合病院へ移り、新東京病院、いずれも心臓外科手術の症例が多いところです。
亀田総合病院では心臓のバイパス手術を年間100例ぐらいやっていました。
新東京病院ではゼロから立ち上げました。
当時国内で一番活躍している先生がそこの病院の指導者として、一緒にやろうと声を掛けてくれたので意気を感じて参加しました。
病院の経営者の方々が日本式のやり方ではなくて、最先端の医療を積極的に取り組むことに前向きでした。
病院の経営よりも患者さんを良くすることに最も積極的だった、という事が幸いしていたと思います。
2mmの血管を縫うのに、心臓を停止して心臓の筋肉を安全な状態にして手術をするというものを、心臓が拍動している状態で手術するので、手品みたいと言われても仕方ないかなと思います。
それを安全に確実にやる方法をイタリアで取り入れて、それを主張してくれた先生がいたので不安なく始める事が出来ました。

オフポンプ冠動脈バイパス手術、ポンプを使わずに心臓の血管をつなぐところだけを固定して、血液を炭酸ガスで吹き飛ばしながら縫いあげる技術です。
自然の循環ではなく、定常流だと弱い臓器(脳、肺、腎臓など)が身体の中にあるので、オフポンプ冠動脈バイパス手術はそういった臓器に対して愛護的だということで、回復が早い。
高齢とか身体に弱い人にやさしい手術です。
80歳代の超高齢者に対しても安全にできる手術ということで広まってきました。
初期の段階で経験を積むのは大事で、少ないチャンスで外科医に向いているかどうかを判定するのは難しいです。
現在8200例近くまで行っています。
うまくいかなかった事があれば、必ずその場でその原因を突き止めて、その次の手術には持ち込まない、そのことだけは絶対避ける様にする。
うまく行っても次には同じ手術をしないで一工夫するように考える。

手術の後は必ず記録を自分で書きます。
糸を結ぶことなども一生懸命練習しました。
左右の手が同じように動くように工夫して普段からやっていた時期がありました。
6年前、天皇陛下の手術。
話が来た時にはそれほど驚かなかったです。
東大と順天堂大学が近かった事、主治医の先生の患者さん、知り合いを沢山手術しさせていただいて、頼みやすい安心できると思われて、自分が担当することになったが、特別な疑問は持ちませんでした。
3カ月後に両陛下が英国を訪問しましたが、帰りに車で皇居に向かわれるのを見て、その時に俺はやったんだと思いました。
主体は患者さんであって成功したかどうか、患者さんが自覚されることであると思う。
佳く永く生きていただく手術、魂も身体もずーっと健康でいていただきたい、そういう思いです。
患者さんたちと一緒にゴルフコンペ等もやっています。
武士道ではなく医師道があると思う。
医師は或る意味非常に人間としていびつだと思います。
そういうところに肉付けをして患者さんと人間として対等に渡りあえる。
医師道で一番大切なことは絶対出し惜しみをしない、全力で立ち向かうということです。
疲れていようと、どう忙しかろうと、全力で注力する。
自分ではできないところはチームで取り組む。

手術は早い、安い、うまい。
スピーディーということは患者さんの負担が少ない。
早い手術のタイミングもあります。
医療費の補助、手術の中での医療費の無駄使いをしない。
インドでは日本の1/5~1/8でやっているところもあるので。
安全の為にはお金の出し惜しみはしないということも大事です。
手術が上手であるということと、後のマネージメントが上手であるという事が入ってきます、手術痕が綺麗だという事も入ってきます。
若い先生方は自分が一番患者さんが判っているというふうに思ってるし、その証拠を打ち出せるかどうか、それがあったらほとんどのことは任せます。
性格、技術とかを見極めながら、できる内容の手術を任せる、そういったことを教育していかなければならない。
能力のある人間、経験値の高い人間がそれに見合った努力をしない事も許さない。
諦めないという事が外科医にとって一番大切なことです。
最終的にはオールラウンダーでないといけない。(欠点が無い)
ロボットアームを使った手術とか新しい技術がどんどん出てきているが、私がやってもいいが、若い人が育たないので、次の人、世代交代が必要です。
30年培った技術をアジアに広めたいと思っています。
2006年からから中国の心臓外科の指導に行っています。
ベトナムにも手術指導に行きした。











































2018年11月25日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
プッチーニ歌劇 「ジャンニ・スキッキ」(Gianni Schicchi)から「私のいとしいお父さん」 映画「眺めのいい部屋」から
1980年代の映画で一躍広まった。
「ジャンニ・スキッキ」は遺産相続をめぐるコメディーだが、非常に精妙なアンサンブルが繰り広げられる。
1918年にプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」が書かれた。
初演はニューヨークのメトロポリタンオペラ。
初演100年で記念する三部作が行われる。
1918年頃の息吹、音楽にも昔を懐かしむ曲と、クラシックにジャズやミュージカルが要素が入ってきた作品に別れる、100年前の息吹、遺伝子として今日はお送りします。

*映画「眺めのいい部屋」から「リターントゥフローレンス」 オーケストラバージョン

*プッチーニ オペラ「つばめ」ウイーンのオペレッタの劇場から委嘱された作品。
 ゴージャスな響きが聞こえてくる。
ベルディーの椿姫を少しイメージしてもらえるといいと思います。
銀行家の愛人マグダは、田舎から出てきた若者ルッジェロと出会い恋に落ちます。
マグダは過去の恋愛に対する後悔や罪悪感に耐え切れず、事実を打ち明け、元の生活に戻っていくお話です。

*プッチーニ オペラ「つばめ」から「誰がドレッタの不思議な夢を」「アリア」

劇場やコンサートホールの中では昔を懐かしむ機運も生まれる。
(貴族文化への憧れ)
カールマン オペレッタの作曲家 『チャールダーシュの女王』、『伯爵令嬢マリツァ』を発表して大人気になる。
* カールマン 『チャールダーシュの女王』から「踊りたい」

100年前には一方東洋への関心があった、ジャポニズム。
フランツ・レハール 『微笑みの国』 中国の王子様とウイーンの王女様の結ばれない物語。 オペレッタ界に初めて悲劇を持ちこんだ。
* フランツ・レハール オペレッタ『微笑みの国』から「君はわが心のすべて」

コルンゴルト オペラ 「死の都」 亡くなった妻の亡霊の踊り子となって現れて不思議な事が起こる。 「ピエロの踊り歌」
*オペラ 「死の都」から「ピエロの踊り歌」 

日本の100年前、浅草オペラ オッフェンバックの「天国と地獄」が一番人気。
オッフェンバックの「天国と地獄」から「地獄のギャロップ」










2018年11月24日土曜日

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(2)

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(2)
朝起きるととまずピアノの前に行き、描いている曲、気になっているハーモニーなど、目覚めるときに色んなアイディアが出てくるので忘れないうちにやっています。
身体を動かさないといけないので、週に1,2回ジムに行っています。
ゴルフもやったり、クラシックの公演に行くとか、展覧会に行くとかやっています。
常に興味を持ち続けて追求している事はいいことだと思います。
1945年東京生まれ、スポーツが好きでヴァイオリンを習わされたが大嫌いでした。
小学校高学年の時にジャズに興味を持ちました。
高校ではジャズの演奏を始めました。
慶応高校にジャズのオーケストラがあり、そこに引っ張られて、一生に演奏活動していました。
中学に入ってブラスバンドに入り、クラリネットを吹きだしました。
ジャズに興味を持ってアルトサックスをやるようになりました。
ピアノは最初にドンと大きな音を弾いて段々小さくなるが、サックスは最初小さいが段々大きくすることができる。
両方知っていたということは作曲するときに凄く便利です。
編曲は音についての勉強しないといけない。(音の出る範囲など)
父は海軍の技術将校で飛行機の設計をしていました。
その後建築士として仕事をするようになりました。

レコード店をやりたいと言うと、父は貸してくれて割と自由な家庭でした。
磯部 力(いそべ つとむ)君 都立大学の名誉教授で、田園調布双葉の理事長をやっていて、彼の兄さんが慶応義塾大学のライトミュージックソサエティでピアノを弾いていて、その辺の繋がりでこの道に入りました。
週一回練習をして、夏休みに箱根のホテルに泊り込んで、ナイトクラブで演奏するとかやっていました。
慶応大学に進みました。
いい先輩がたくさんいました、大野 雄二さんとかいて直々にピアノを教わりました。
ピアノは作曲家にとっては非常に便利な道具で、図表みたいに88個並んでいるので、その中の音を使って書くので、僕にとって毎日使っている便利な楽器です。
ラジオでディスクジョッキーもやっていたり、色んな仕事をしましたがどれもしっくりこなくて、もうちょっと固い仕事をしようと思ってレコード屋をやりながら、音楽の仕事をしていたら、本条さんに出会って曲を書くようになりました。
大学4年生の時に「待ちくたびれた日曜日」がデビューの曲となりました。
詩を貰って家に帰って直ぐにメロディーが出来ました。

1968年テンプターズの「エメラルドの伝説」が大ヒットする。
同年「廃虚の鳩」(歌:ザ・タイガース)
色々なところから声が掛かる様になりました。
1969年に音楽出版社アルファ・ミュージック設立、作曲の道に進みました。
同年「或る日突然」(歌:トワ・エ・モワ)、「白いサンゴ礁」(歌:ズー・ニー・ヴー)、「夜と朝のあいだに」(歌:ピーター)、「恋人」(歌:森山良子)等ヒット今日がどんどん出ました。
「ざんげの値打ちもない」(歌:北原ミレイ)演歌も書く。
これは阿久悠さんの詩が先にあり、メロディーは自然にそうなりました。
自分で歌ったレコードもあります。(1,2曲)
古いものはよく聞きます。
海外に出て全然良かったと思います。
書物では学べない感覚的なものは物凄くあります。
肌で感じた事が出来たので、それはすごく良かったと思いますし、若い人もどんどん行って刺激を受けて、持って帰って来てもらって、栄えた良い国にして貰いたいと思います。

娘の方が英語を話すのは早かったです。
子供達は3~4年経つと言葉は不自由にはならなくなりました。
娘はコミュニケーションの専門家で、英語を書く場合には娘にチェックして貰っています。
息子はヒロ・ムライ(35歳)、中学校ぐらいから8mmビデオを持って撮ったり、高校では正規の映像の授業で作っていました。
南カルフォルニア大学では映画学部があり、アメリカでは1,2を争う様な学校でそこに入って直ぐに、ミュージックビデオを作っていました。
この間ゴールデンブローブ賞を貰ったのはTVの30分もののドラマ『アトランタ』です。
そろそろ映画館でやる普通の映画もつくるようになるのではないかと思っています。
かなり注目されている様です。
私は現在73歳ですが、先輩に桜井順さんがいて作曲家になった方がいるが、84,5歳の時に突然片方の目が見えなくなって、75歳ぐらいまでにやりたいことをやっておかないと後は判らないよと言われて、そろそろ考えないといけないのかなあと思います。
金沢の90歳の方とお話したが、陶芸の方ですが現役でやっていて、ずーっと死ぬまで作曲し続けるということもあるのかなあと思ったり、無理しないでやった方がいいのかなあと考えているところです。