吉沢久子(家事評論家・エッセイスト) ・今が一番幸せ(H29/7/13 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post_13.htmlをご覧ください。
2017年11月30日木曜日
2017年11月29日水曜日
藤岡弘(俳優) ・ヒーローを貫く人生
藤岡弘(俳優) ・ヒーローを貫く人生
特撮TVドラマ仮面ライダーを初め、去年の大河ドラマ真田丸では勇猛な武将、本田忠勝役などを演じるなど50年以上活躍してきた藤岡さん、役者人生と並行して、国内の施設や被災地、世界の難民キャンプや紛争地を訪れて支援を行ってきました。
これまでに訪問した地域はアフリカの国々、イラク、カンボジア等100以上に上ります。
支援活動を行う理由、故郷愛媛県での少年時代のことなどを伺います。
紛争地の難民に対する救済、支援、必要とされる物資、食糧を持っていったり、義援金などを仲間と一緒に運んでみなさんに渡してゆく。
特に子供を中心に考えました。
40年以上になります、世界100カ国以上になります。
世界の色んな修羅場を見てくると自分の目のうろこが取れるごとく、今までの人生観や価値観が変わります。
生で見て、こういう中でも生きている子供達を見て、涙が出て止まらなくなる様な体験を何度もさせてもらい、私の中が変化してきました。
仮面ライダーが始まった当時、子供達の声が高まってきたときにふっと思い出して、孤児施設などをまわって子供達を励ましたりしていました。
デパートのサイン会、ファンとの交流とか有ったので、色んなものを貰うのでそういうものを届けていて、そのころから始まりました。
子供達は私と会うことで喜んで、子供が物凄く元気になって行くのを見て、こんなに影響が有るんだと、子供との触れ合いの中で感じるものがありました。
ヒーロー像はこんなに影響力があるんだと初めて知りました。
当時はボランティアなどと言う言葉もありませんでした。
わたしが生まれ育ったところが愛媛県の44番目の札所の大寶寺という所の近くにある駐在所で生まれました。
お遍路さんが行き交う中で両親が接待している姿に触れていました、それが普通なんだと思っていました。
それの延長線上で人にやってあげることが、人間として当たり前なんだろうと思っていましたが、実は特別なものでボランティアだと言うことが後になって判りました。
お米、柿、みかん、いも、トウモロコシなどをあげて、子供連れにはお菓子等、おはぎを渡していました。
良い方を、大きい方を上げるようにとの両親の教えがあったので、そういうのが当たり前のごとく自分の中で育くんでいったと思います。
母は厳しかったです。
お花、お茶、琴、和裁、和食などを村の娘さんたちに教えて居て、父は武道をやっていまして、両親の影響を大分受けました。
或る時に、喧嘩して相手を傷つけてしまい、仏壇の前に坐らせられて懺悔させられて、これ以上人様にご迷惑をおかけするのならあなたの命を頂戴しますと言われて、真剣に涙を流して怒られました。
母の真剣さに打たれて言いたいことが一杯あったが、土下座させられて、その時の怖さは今でも忘れられません。
母の人のために一生懸命奉仕する姿を見ていた、特にお遍路さんの話を聞いていたりお年寄りに親切にしていました。
当時は洋服などもボロボロでいつ風呂に入ったのか判らないような人にも風呂に入れてやり、父の服に着替えさせて、おいしいものを食べさせておにぎりも持たせて、送ってた姿を見ていました。
その後の私のボランティア活動に影響を与えました。
紛争地に行くと、難民の人たちは着の身着のままで食わず飲まずに逃げてくるのを見たときに、母の事を思い出して自分の中で人生観が変わって来まして、感謝、今自分が生きていることは普通ではないんだと、多くの先祖の犠牲のもとに今自分が有るんだと感じました。
エチオピア、ガーナ、ギニア、カンボジアなど紛争地は国が崩壊している状況で、地位、名誉、金、物などは関係なくなって、生き残っているものの本能、欲望がどんな立場だった人も一般の人も関係ない、生きるための欲望がそのままもろだしになってしまう、醜い状況が見えてしまう。
生きるために相手を殺してでも生きるとか、くれなければ食ってでもいきる、人間の本質が出てしまう、地獄です。
人間の醜いものが全てさらけ出される。
理不尽、矛盾、非常識、容赦がない。
そこには何があってもおかしくない、死ぬか生きるか、それしかないです。
行く前には遺言を書いて、なにかあった時のために仏前に置いて行っていました。
普通は国の玄関で物資を渡して帰って来るのが普通らしいが、物資を渡すと消えてゆく、難民キャンプまで届かない(税関の処でも無くなって行く)、届いても数少ないと言うことで、実際にキャンプまで届けると言うことが重要で、危険ですがそこまで運びました。
物資を持っているとねらってくる危険もありますから、明け方に運ぶとかしました。
危ないので渡したらすぐにスピードをだして引き返すようにしました。
砲弾の音や、銃撃の音が聞こえるところまで行っていましたので、危険が身に迫る感覚が絶えず付きまとっていました。
子供たちに一人でも何とかしたいと思って来ると、つい何とかしたいと思ってしまいます。
たった一個の抗生物質があればこの子は助かったと思うのに無い、コーヒー一杯分、それで子供の命が失われて行く、それを目のあたりにして凄くショックでした。
生き抜いた子は天が残した子ではないかと思うような存在で、真剣に生きようとする子供の目に触れて、目の輝きと生きようとする生命力に感動してしまっていつも頭から離れなかったですね。
民主化になって6カ月の時のエチオピア、キャンプが爆破されて数千人の難民が亡くなったキャンプ場に行ったが、子供たちがいきなり「ジャポン、ジャポン」と手を叩きながら感謝の声をあげてメンバー全員涙が止まらなかった。
子供たちと別れるときに数百人の子供たちが車のあとを追っかけてきて、手を振りながら叫びながら感謝して手を振るのを見て涙が止まりませんでした。
日本の子供達はどんなに幸せかなと思って、そのギャップが辛かった。
ある国では、子供にアンパンを渡すが取らない、何故かと思うと、親や兄弟が虐殺されて奇跡のごとく親が銃弾の弾よけとなってその下からはいでて、親の死を見て生き残った子だから人が信用できない状況が有ったんだろうと、食べ物そのものも信用していない。
先ず自分たちが食べて安全だと知らせたとたんにワーッと押し寄せて食い始めました。
それぐらい信用できないと言うような、大きなきなショックが有ったんだと思います。
救いに来たんだと判った瞬間に、目の色も変わるし、心を開いて抱きついて来て、抱きしめてやることが安心感を持って喜ぶ。
去ろうとしてもしがみついて離れない、離れがたかった。
(連れて行ってほしいと願ってくる)
そういった体験を何度もすると再びまた行くようになりました。
色んな国々を見ると、日本はこんな満たされた幸せな国はないと思います。
多くの国に影響を与える立場の人にそういうことを知ってもらいたい、体験してもらいたい、日本は本当に幸せな国だと思います。
何かを求めて我欲、自己中心主義というか蔓延してくると感じますね。
世界の現状をもっと知ってもらって、変わってもらいたい、国際的無知、そういったものが一番問題だと思います。
国家も個人も真価が問われる大転換期が始まって、問題意識を持って自己を見つめて未来を見つめる、そういうふうな考えを持って動かないと人ごとではない状況が来ていると感じています。
仮面ライダーの企画にもかかわり、生き抜くと言うことはどういうことか伝えようかと自分でアレンジして、生きる事にたいして気付いてもらえればと思って、生き抜くと言うメッセージを伝えました。
自分としてはやりがいのある仕事でした。
仮面ライダー1号を演じたことも45年ぶりで、色んな世界を回らしていただいて、色んな民族との出会いながらそこで生き抜くのを見て、日本を見ると歴史観が変わってきました。
自分が出来ることは何かと思ってみると、映像は影響を与える立場にあるので子供たちに影響を与える事は出来る、メッセージを送りながら、与えられた使命、責任を果たせればいいかなあという気持ちに変わってきて、そういう思いを込めて今の映像界で、ドラマなどを通じて伝えてたいと活動をしています。
縁があって初代の仮面ライダーとの出会いがあり、まさかヒーローを演ずることがこれほど大きな影響を与え、今も与えているということは考えてもいななった。
人間って出会いによって人生が変わって、運勢、歴史まで変わっていくということが本当にそうだなと思いました。
子供は未来、人類の宝だと思います。
子供のために何を残さないといけないのか、頭に引っ掛かっています。
一人ひとりだれしも使命を与えられていると思う。
未来のためになにをすべきか、問題意識を持って、平和に豊かに争いの無いような世界になるような方向にどうやったらそうなるか、自分と言う存在が貢献して少しでもどう役に立つのか、考えて行動してもらいたい。
限られた時間の中で我々は何を残すか、金、地位、名誉、財も持っていけないので、どれだけ人を愛して、どれだけ感動の旅をしたかといった思い出、感動しか持っていけないので、いい感動、いい思い出を残して去るべきだと思います。
特撮TVドラマ仮面ライダーを初め、去年の大河ドラマ真田丸では勇猛な武将、本田忠勝役などを演じるなど50年以上活躍してきた藤岡さん、役者人生と並行して、国内の施設や被災地、世界の難民キャンプや紛争地を訪れて支援を行ってきました。
これまでに訪問した地域はアフリカの国々、イラク、カンボジア等100以上に上ります。
支援活動を行う理由、故郷愛媛県での少年時代のことなどを伺います。
紛争地の難民に対する救済、支援、必要とされる物資、食糧を持っていったり、義援金などを仲間と一緒に運んでみなさんに渡してゆく。
特に子供を中心に考えました。
40年以上になります、世界100カ国以上になります。
世界の色んな修羅場を見てくると自分の目のうろこが取れるごとく、今までの人生観や価値観が変わります。
生で見て、こういう中でも生きている子供達を見て、涙が出て止まらなくなる様な体験を何度もさせてもらい、私の中が変化してきました。
仮面ライダーが始まった当時、子供達の声が高まってきたときにふっと思い出して、孤児施設などをまわって子供達を励ましたりしていました。
デパートのサイン会、ファンとの交流とか有ったので、色んなものを貰うのでそういうものを届けていて、そのころから始まりました。
子供達は私と会うことで喜んで、子供が物凄く元気になって行くのを見て、こんなに影響が有るんだと、子供との触れ合いの中で感じるものがありました。
ヒーロー像はこんなに影響力があるんだと初めて知りました。
当時はボランティアなどと言う言葉もありませんでした。
わたしが生まれ育ったところが愛媛県の44番目の札所の大寶寺という所の近くにある駐在所で生まれました。
お遍路さんが行き交う中で両親が接待している姿に触れていました、それが普通なんだと思っていました。
それの延長線上で人にやってあげることが、人間として当たり前なんだろうと思っていましたが、実は特別なものでボランティアだと言うことが後になって判りました。
お米、柿、みかん、いも、トウモロコシなどをあげて、子供連れにはお菓子等、おはぎを渡していました。
良い方を、大きい方を上げるようにとの両親の教えがあったので、そういうのが当たり前のごとく自分の中で育くんでいったと思います。
母は厳しかったです。
お花、お茶、琴、和裁、和食などを村の娘さんたちに教えて居て、父は武道をやっていまして、両親の影響を大分受けました。
或る時に、喧嘩して相手を傷つけてしまい、仏壇の前に坐らせられて懺悔させられて、これ以上人様にご迷惑をおかけするのならあなたの命を頂戴しますと言われて、真剣に涙を流して怒られました。
母の真剣さに打たれて言いたいことが一杯あったが、土下座させられて、その時の怖さは今でも忘れられません。
母の人のために一生懸命奉仕する姿を見ていた、特にお遍路さんの話を聞いていたりお年寄りに親切にしていました。
当時は洋服などもボロボロでいつ風呂に入ったのか判らないような人にも風呂に入れてやり、父の服に着替えさせて、おいしいものを食べさせておにぎりも持たせて、送ってた姿を見ていました。
その後の私のボランティア活動に影響を与えました。
紛争地に行くと、難民の人たちは着の身着のままで食わず飲まずに逃げてくるのを見たときに、母の事を思い出して自分の中で人生観が変わって来まして、感謝、今自分が生きていることは普通ではないんだと、多くの先祖の犠牲のもとに今自分が有るんだと感じました。
エチオピア、ガーナ、ギニア、カンボジアなど紛争地は国が崩壊している状況で、地位、名誉、金、物などは関係なくなって、生き残っているものの本能、欲望がどんな立場だった人も一般の人も関係ない、生きるための欲望がそのままもろだしになってしまう、醜い状況が見えてしまう。
生きるために相手を殺してでも生きるとか、くれなければ食ってでもいきる、人間の本質が出てしまう、地獄です。
人間の醜いものが全てさらけ出される。
理不尽、矛盾、非常識、容赦がない。
そこには何があってもおかしくない、死ぬか生きるか、それしかないです。
行く前には遺言を書いて、なにかあった時のために仏前に置いて行っていました。
普通は国の玄関で物資を渡して帰って来るのが普通らしいが、物資を渡すと消えてゆく、難民キャンプまで届かない(税関の処でも無くなって行く)、届いても数少ないと言うことで、実際にキャンプまで届けると言うことが重要で、危険ですがそこまで運びました。
物資を持っているとねらってくる危険もありますから、明け方に運ぶとかしました。
危ないので渡したらすぐにスピードをだして引き返すようにしました。
砲弾の音や、銃撃の音が聞こえるところまで行っていましたので、危険が身に迫る感覚が絶えず付きまとっていました。
子供たちに一人でも何とかしたいと思って来ると、つい何とかしたいと思ってしまいます。
たった一個の抗生物質があればこの子は助かったと思うのに無い、コーヒー一杯分、それで子供の命が失われて行く、それを目のあたりにして凄くショックでした。
生き抜いた子は天が残した子ではないかと思うような存在で、真剣に生きようとする子供の目に触れて、目の輝きと生きようとする生命力に感動してしまっていつも頭から離れなかったですね。
民主化になって6カ月の時のエチオピア、キャンプが爆破されて数千人の難民が亡くなったキャンプ場に行ったが、子供たちがいきなり「ジャポン、ジャポン」と手を叩きながら感謝の声をあげてメンバー全員涙が止まらなかった。
子供たちと別れるときに数百人の子供たちが車のあとを追っかけてきて、手を振りながら叫びながら感謝して手を振るのを見て涙が止まりませんでした。
日本の子供達はどんなに幸せかなと思って、そのギャップが辛かった。
ある国では、子供にアンパンを渡すが取らない、何故かと思うと、親や兄弟が虐殺されて奇跡のごとく親が銃弾の弾よけとなってその下からはいでて、親の死を見て生き残った子だから人が信用できない状況が有ったんだろうと、食べ物そのものも信用していない。
先ず自分たちが食べて安全だと知らせたとたんにワーッと押し寄せて食い始めました。
それぐらい信用できないと言うような、大きなきなショックが有ったんだと思います。
救いに来たんだと判った瞬間に、目の色も変わるし、心を開いて抱きついて来て、抱きしめてやることが安心感を持って喜ぶ。
去ろうとしてもしがみついて離れない、離れがたかった。
(連れて行ってほしいと願ってくる)
そういった体験を何度もすると再びまた行くようになりました。
色んな国々を見ると、日本はこんな満たされた幸せな国はないと思います。
多くの国に影響を与える立場の人にそういうことを知ってもらいたい、体験してもらいたい、日本は本当に幸せな国だと思います。
何かを求めて我欲、自己中心主義というか蔓延してくると感じますね。
世界の現状をもっと知ってもらって、変わってもらいたい、国際的無知、そういったものが一番問題だと思います。
国家も個人も真価が問われる大転換期が始まって、問題意識を持って自己を見つめて未来を見つめる、そういうふうな考えを持って動かないと人ごとではない状況が来ていると感じています。
仮面ライダーの企画にもかかわり、生き抜くと言うことはどういうことか伝えようかと自分でアレンジして、生きる事にたいして気付いてもらえればと思って、生き抜くと言うメッセージを伝えました。
自分としてはやりがいのある仕事でした。
仮面ライダー1号を演じたことも45年ぶりで、色んな世界を回らしていただいて、色んな民族との出会いながらそこで生き抜くのを見て、日本を見ると歴史観が変わってきました。
自分が出来ることは何かと思ってみると、映像は影響を与える立場にあるので子供たちに影響を与える事は出来る、メッセージを送りながら、与えられた使命、責任を果たせればいいかなあという気持ちに変わってきて、そういう思いを込めて今の映像界で、ドラマなどを通じて伝えてたいと活動をしています。
縁があって初代の仮面ライダーとの出会いがあり、まさかヒーローを演ずることがこれほど大きな影響を与え、今も与えているということは考えてもいななった。
人間って出会いによって人生が変わって、運勢、歴史まで変わっていくということが本当にそうだなと思いました。
子供は未来、人類の宝だと思います。
子供のために何を残さないといけないのか、頭に引っ掛かっています。
一人ひとりだれしも使命を与えられていると思う。
未来のためになにをすべきか、問題意識を持って、平和に豊かに争いの無いような世界になるような方向にどうやったらそうなるか、自分と言う存在が貢献して少しでもどう役に立つのか、考えて行動してもらいたい。
限られた時間の中で我々は何を残すか、金、地位、名誉、財も持っていけないので、どれだけ人を愛して、どれだけ感動の旅をしたかといった思い出、感動しか持っていけないので、いい感動、いい思い出を残して去るべきだと思います。
2017年11月28日火曜日
山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために
山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために
50歳、この9月に重度の肢体不自由と重い知的障害のある子供、重症心身障害児、重症児を対象にしたデイサービスの施設「いっぽ」を高知市に開きました。
山崎さんは3人の子を持つシングルマザー、12歳の次女音十愛(おとめ)さんは全盲で重複障害のある重症児です。
音十愛(おとめ)さんを育てる中で、山崎さんが痛感したのは重症治の介護や看病に当たる母親の休まる場が無いと言うことでした。
同じ境遇にある親たちが支え合い休らぐ場所を作りたいと施設を立ち上げました。
しかし事業の経験もなく経済的な余裕もなかった山崎さんにとって、これまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。
事務所として使われていた建物を改装して作られた。
身体障害者手帳と知的手帳があるが、両方の手帳が共に最重度であるということが認められた子、プラス高度な医療が必要な子(気管切開されている子等)、医療的なことがとても高度で何処にも行くところがないお子さん(医療的ケア児)も含めて総称を重症児と言われています。
ほとんど寝たきりのお子さんが多いです。
常に何かの介護が必要、医療的なケアが必要なお子さんが多いです。
事業するにあたっての人員配置では、普通のデイサービスよりもうんと厳しくて、全てが有資格者でなくてはいけない。
私自身も看護師の資格を持っています。
音十愛(おとめ)は3人目だった、途中から育ちが悪くて羊水がほとんどなくなって緊急オペになり、オギャと小さい声で泣いたが直ぐに連れていかれて、2日間会わせてもらえなかった。
ただ事ではないと思ったが、2日後に本人に会わせてもらったが、そのときのショックはいまだに忘れられない。
見た瞬間、管がいっぱい入っていた。
顔は鼻から下が全部裂けていると言う感じでした。
手足も不揃いでした、それを見た瞬間血の気がスーッと引きました。
お腹の中の児に私は何をしたんだろう、普通に産んでやれなかった事を物凄く罪と思いました。
目の事はその時は言われなかったが、部屋に帰ってから先生が目がないんですと言われ、目の中に眼球がないと言われてしまいました。
どうやって育てていこうかとずーっと考えていて、どうしてと受け止められなかった。
これほどの障害のある子はどういうふうに育ってゆくかは予測が出来ない、内臓にも異常があるかもしれないので、とにかく普通に育ててくださいと、簡単に医師から言われました。
最初は泣いて泣いて、一生のうちの涙はその時流したと思うくらい、泣きました。
助産師さんには今でも感謝していますが、泣いて暮らしている私に毎日ベッドサイドに来てくれて、ただ私の話を聞き出そうとしてくれて、「そうやね」といって受け入れて、或る日助産師さんが「赤ちゃんは頑張って生きようとしている、凄く元気よ、この子は生きたいと思っているから、お母さんがしてあげられることは何かないかね」と言ってくれました。
心配ごとの高い順番から並べて言って、と言われて、「一番は目が見えない目がないといういうことが一番ショックです、どうやって育てていいのか、わたしの顔も一生判らないんですよね。」といったときに「わかった」と、その心配事を少しでも和らぐために、相談できる人を探そうと言うことになりました。
ソーシャルワーカーが探してくれて、高知女子大学にいた助教授の先生を紹介してくれました。
その方自身が弱視でほとんど見えない方でした。
話を聞いてくれて、全然普通に育てていいよと言われました。
色んな事が出てくるかもしれないが、出てきたら出てきた時に考えればいいと言われました。
最初そういう人達に支えられました。
全てが困難の連続でした。
口が割れていたので、ミルクが飲めない。
鼻に管を入れて退院したが、口から飲む練習をしましたが、口から飲ませて体重を増やすことが物凄く大変でした。(体重が増えないと口の手術もできない)
1、2年かけて1kg増やす目安で5kg目指すのが、物凄く大変でした。
自傷してしまう子で、昼夜の区別が出来ないので睡眠時間が凄く不規則で、夜通し泣いて、自分の思いが伝えられなくて、いらいらして頭を壁にぶつけたり色々やっていました。
一晩中抱っこして、また朝が明けたと言う日が毎日続いて、3時に主人が起きて主人に交代してもらって出勤するまでやってもらって二人三脚でずーっとやっていました。
それが長く続いて5歳までは入退院のくり返しで、その間おおきな手術が2回して、生死をさまよいました。
兄弟が有ると、兄弟の行事とかで外に出ていかないといけない時もあり、外に出ると好奇な目が降り注いできて、心ない言葉も浴びました。
スーパーに行ったりすると子供が寄って来て、「ワー気持ち悪い」と言って走って逃げてゆくことが何度もありました。
大人の方も「こんな子が生まれるのは親の責任や」といって言ってしまう人もいました。(見ず知らずの人から言われた)
社会に出ていく怖さがありましたが、何を言われようと出て行こうと腹をくくりました。
「ワー気持ち悪い」と言っていた子が、2回、3回と会ってゆくうちに段々寄って来るんです、そのうち「可愛いね」と言ってくれるんです。
経験を重ねるごとに人は受け入れてくれるんだと、経験しました。
社会に出て行って傷付いたことも沢山ありましたが、教えてもらったこと、学んだ事が沢山ありました。
外に連れ出したと言うことは、私の心も強くなりました。
成長とともに命の峠がある、落ち着くんです。(5歳ごろからでした)
医療的なことが必要な子は単独では保育園には通えない状況でした。
3歳のころはミルクを鼻からチューブで入れる様なので、受け入れてくれるところはなかった。
盲学校の幼稚部に入れないかなど色々と相談したが無理だった。
いつかは私が先に亡くなるので、この子が何もできなければどうするんでしょうか、社会の中で生きていける力を少しでも付けられるように、そのために社会性を身につける場所に通わせてくださいと、お願いしましたが、駄目でした。
盲学校の先生に、高知にはいられないので高松(実家)に帰ると言ったら、とにかく発信しなさい、聞いてもらいなさいと言われて、高知県母親大会と言うところを紹介されて、そこで全てさらけ出しました。
最初一個人の問題は取り上げられない場合が多いが、真剣に聞き始めてくれて、音十愛(おとめ)さんだけの問題ではなく先に繋がるお子さんがいるはずだと言うことで重要課題に取り上げられました。
世論に訴えなさいとも言われて、新聞の投書欄(声広場)にだして、それが一つの流れになって、署名活動にもつないでいこうと言うことで、「音十愛(おとめ)ちゃんを幼稚部に入れる会」が結成され、全国に署名依頼して2万筆位集まり、それを持って県の教育委員会にいき、2カ月しないうちに特例で認めてもらいました。
子供たちの中で活動することで、育まれることが色々あると思いました。
今は鼻からのチューブを止め胃瘻(いろう)にしています。
主人は仕事もしていて、子供を見ながらと言う事は介護疲れがとってもあって、家庭の中の歯車がおかしくなって、或る日突然仕事にいけなくなった。(鬱病だった)
結果的に離婚という選択になってしまった、一緒にいていたら共倒れになっていたと思いました、決断としては良かったと思います。
離婚する前から、このままこの子を育てていく人生なのか、音十愛(おとめ)は自分が居なくなった後にどんな世界で生きていくんだろうと思ったときに、施設に入ると言う道しかなかったが、もっと選択肢があってもいいのではないか、この子が笑顔の素敵な子だったので、誰かを元気にさせる力があるのではないかと漠然と思っていました。
シングルマザーで経済的にも厳しく生きて行くのが精いっぱいで、私もうつ病にもなり、実家に帰ろうかと思っていたときに、あるきっかけで地元の新聞に私たちのことが連載されることになりました。
重症児のデイサービスを全国で当事者のお母さんが立ちあげることを手伝っている方に出会うことになりました。
その人の「無ければ作ればいい」という言葉にピーンと来たのは、ずーっと自分は何をしたらいいか判らなかった殻?にならなかった部分が、パーンと殻?になりました。
重症児で、高度の医療的なことが必要な重症児を預かる、お母さんの介護疲れを支援出来る施設がないと思って、これをしようと思いました。
同じ様な環境のお母さんがいたりして、頑張るお母さんがいましたが、彼女は自殺をしてしまいました。
大事なお子さんが先に旅立たれて後を追ってしまいました。
何もしてやれなかった自分を攻める気持ちが凄く大きくなって、自分の中に引っ掛かりました。
同じ様な経験をしたお母さんたちから貰う勇気はおおきい、人から貰った一言から明日に繋がると言うことは結構あるので、出会いが結ばれる出会いの場は多ければ多いほどいいと思って、二度と悲しい出来事がないようにとの願いです。
まずこれを選んで、次にもしたいものがあるので、「みらい予想図」としたんですが、制限をかけないように自由にすごせるような場所も作りたいと思っていました。
この事業は通過点だと思っています。
一つ一つのヤマを考えると怖くてできなかったと思います、先の殻?が見えたんです。
誰かの力を借りながらクリアしてゆくしかないと思いました。
色んなことが山の様にありましたが、諦めなかったらクリア出来ました。
強い思いは子供たちの未来です、それからここまで来るのには本当に沢山の人にお世話になりました。
そういう人達の顔が浮かぶし、そういう人達に甘えてきたので、何か返したいと思います。
どんなに障害が重くても、その子なりに発達って絶対あるんです。
音十愛(おとめ)の場合は言葉が増えていきましたし、歩けない子が歩き出したと言うような発達もあります。
脳性まひのお子さんで本当に反応あるのかなと言うようなお子さんでも、お母さんにはよろこんでる反応とかが判るんです、それを第三者が判るまでには時間がかかります、微々たる反応ですから。
自分を表現できることが嬉しいことに変わって、僕をわかってくれる人がいると言うことが、また反応に繋がる。
ここは始まりの一歩で(0から18歳まで)、要求が高いのは、卒業した方が行き場がないと言うこともあるので、18歳以後の方が過ごせる場所が必要だと思って作らなければいけないと思います。
夜もケア出来るところもないので、家族が休息できる場所も必要だと思います。
どんな人でも共存できる、笑顔で過ごせる場所が最終目標です。
手をつなぎながら未来を作っていきたいです。
音十愛(おとめ)は、自分の人生を導いてくれる大事な先生ですね。
50歳、この9月に重度の肢体不自由と重い知的障害のある子供、重症心身障害児、重症児を対象にしたデイサービスの施設「いっぽ」を高知市に開きました。
山崎さんは3人の子を持つシングルマザー、12歳の次女音十愛(おとめ)さんは全盲で重複障害のある重症児です。
音十愛(おとめ)さんを育てる中で、山崎さんが痛感したのは重症治の介護や看病に当たる母親の休まる場が無いと言うことでした。
同じ境遇にある親たちが支え合い休らぐ場所を作りたいと施設を立ち上げました。
しかし事業の経験もなく経済的な余裕もなかった山崎さんにとって、これまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。
事務所として使われていた建物を改装して作られた。
身体障害者手帳と知的手帳があるが、両方の手帳が共に最重度であるということが認められた子、プラス高度な医療が必要な子(気管切開されている子等)、医療的なことがとても高度で何処にも行くところがないお子さん(医療的ケア児)も含めて総称を重症児と言われています。
ほとんど寝たきりのお子さんが多いです。
常に何かの介護が必要、医療的なケアが必要なお子さんが多いです。
事業するにあたっての人員配置では、普通のデイサービスよりもうんと厳しくて、全てが有資格者でなくてはいけない。
私自身も看護師の資格を持っています。
音十愛(おとめ)は3人目だった、途中から育ちが悪くて羊水がほとんどなくなって緊急オペになり、オギャと小さい声で泣いたが直ぐに連れていかれて、2日間会わせてもらえなかった。
ただ事ではないと思ったが、2日後に本人に会わせてもらったが、そのときのショックはいまだに忘れられない。
見た瞬間、管がいっぱい入っていた。
顔は鼻から下が全部裂けていると言う感じでした。
手足も不揃いでした、それを見た瞬間血の気がスーッと引きました。
お腹の中の児に私は何をしたんだろう、普通に産んでやれなかった事を物凄く罪と思いました。
目の事はその時は言われなかったが、部屋に帰ってから先生が目がないんですと言われ、目の中に眼球がないと言われてしまいました。
どうやって育てていこうかとずーっと考えていて、どうしてと受け止められなかった。
これほどの障害のある子はどういうふうに育ってゆくかは予測が出来ない、内臓にも異常があるかもしれないので、とにかく普通に育ててくださいと、簡単に医師から言われました。
最初は泣いて泣いて、一生のうちの涙はその時流したと思うくらい、泣きました。
助産師さんには今でも感謝していますが、泣いて暮らしている私に毎日ベッドサイドに来てくれて、ただ私の話を聞き出そうとしてくれて、「そうやね」といって受け入れて、或る日助産師さんが「赤ちゃんは頑張って生きようとしている、凄く元気よ、この子は生きたいと思っているから、お母さんがしてあげられることは何かないかね」と言ってくれました。
心配ごとの高い順番から並べて言って、と言われて、「一番は目が見えない目がないといういうことが一番ショックです、どうやって育てていいのか、わたしの顔も一生判らないんですよね。」といったときに「わかった」と、その心配事を少しでも和らぐために、相談できる人を探そうと言うことになりました。
ソーシャルワーカーが探してくれて、高知女子大学にいた助教授の先生を紹介してくれました。
その方自身が弱視でほとんど見えない方でした。
話を聞いてくれて、全然普通に育てていいよと言われました。
色んな事が出てくるかもしれないが、出てきたら出てきた時に考えればいいと言われました。
最初そういう人達に支えられました。
全てが困難の連続でした。
口が割れていたので、ミルクが飲めない。
鼻に管を入れて退院したが、口から飲む練習をしましたが、口から飲ませて体重を増やすことが物凄く大変でした。(体重が増えないと口の手術もできない)
1、2年かけて1kg増やす目安で5kg目指すのが、物凄く大変でした。
自傷してしまう子で、昼夜の区別が出来ないので睡眠時間が凄く不規則で、夜通し泣いて、自分の思いが伝えられなくて、いらいらして頭を壁にぶつけたり色々やっていました。
一晩中抱っこして、また朝が明けたと言う日が毎日続いて、3時に主人が起きて主人に交代してもらって出勤するまでやってもらって二人三脚でずーっとやっていました。
それが長く続いて5歳までは入退院のくり返しで、その間おおきな手術が2回して、生死をさまよいました。
兄弟が有ると、兄弟の行事とかで外に出ていかないといけない時もあり、外に出ると好奇な目が降り注いできて、心ない言葉も浴びました。
スーパーに行ったりすると子供が寄って来て、「ワー気持ち悪い」と言って走って逃げてゆくことが何度もありました。
大人の方も「こんな子が生まれるのは親の責任や」といって言ってしまう人もいました。(見ず知らずの人から言われた)
社会に出ていく怖さがありましたが、何を言われようと出て行こうと腹をくくりました。
「ワー気持ち悪い」と言っていた子が、2回、3回と会ってゆくうちに段々寄って来るんです、そのうち「可愛いね」と言ってくれるんです。
経験を重ねるごとに人は受け入れてくれるんだと、経験しました。
社会に出て行って傷付いたことも沢山ありましたが、教えてもらったこと、学んだ事が沢山ありました。
外に連れ出したと言うことは、私の心も強くなりました。
成長とともに命の峠がある、落ち着くんです。(5歳ごろからでした)
医療的なことが必要な子は単独では保育園には通えない状況でした。
3歳のころはミルクを鼻からチューブで入れる様なので、受け入れてくれるところはなかった。
盲学校の幼稚部に入れないかなど色々と相談したが無理だった。
いつかは私が先に亡くなるので、この子が何もできなければどうするんでしょうか、社会の中で生きていける力を少しでも付けられるように、そのために社会性を身につける場所に通わせてくださいと、お願いしましたが、駄目でした。
盲学校の先生に、高知にはいられないので高松(実家)に帰ると言ったら、とにかく発信しなさい、聞いてもらいなさいと言われて、高知県母親大会と言うところを紹介されて、そこで全てさらけ出しました。
最初一個人の問題は取り上げられない場合が多いが、真剣に聞き始めてくれて、音十愛(おとめ)さんだけの問題ではなく先に繋がるお子さんがいるはずだと言うことで重要課題に取り上げられました。
世論に訴えなさいとも言われて、新聞の投書欄(声広場)にだして、それが一つの流れになって、署名活動にもつないでいこうと言うことで、「音十愛(おとめ)ちゃんを幼稚部に入れる会」が結成され、全国に署名依頼して2万筆位集まり、それを持って県の教育委員会にいき、2カ月しないうちに特例で認めてもらいました。
子供たちの中で活動することで、育まれることが色々あると思いました。
今は鼻からのチューブを止め胃瘻(いろう)にしています。
主人は仕事もしていて、子供を見ながらと言う事は介護疲れがとってもあって、家庭の中の歯車がおかしくなって、或る日突然仕事にいけなくなった。(鬱病だった)
結果的に離婚という選択になってしまった、一緒にいていたら共倒れになっていたと思いました、決断としては良かったと思います。
離婚する前から、このままこの子を育てていく人生なのか、音十愛(おとめ)は自分が居なくなった後にどんな世界で生きていくんだろうと思ったときに、施設に入ると言う道しかなかったが、もっと選択肢があってもいいのではないか、この子が笑顔の素敵な子だったので、誰かを元気にさせる力があるのではないかと漠然と思っていました。
シングルマザーで経済的にも厳しく生きて行くのが精いっぱいで、私もうつ病にもなり、実家に帰ろうかと思っていたときに、あるきっかけで地元の新聞に私たちのことが連載されることになりました。
重症児のデイサービスを全国で当事者のお母さんが立ちあげることを手伝っている方に出会うことになりました。
その人の「無ければ作ればいい」という言葉にピーンと来たのは、ずーっと自分は何をしたらいいか判らなかった殻?にならなかった部分が、パーンと殻?になりました。
重症児で、高度の医療的なことが必要な重症児を預かる、お母さんの介護疲れを支援出来る施設がないと思って、これをしようと思いました。
同じ様な環境のお母さんがいたりして、頑張るお母さんがいましたが、彼女は自殺をしてしまいました。
大事なお子さんが先に旅立たれて後を追ってしまいました。
何もしてやれなかった自分を攻める気持ちが凄く大きくなって、自分の中に引っ掛かりました。
同じ様な経験をしたお母さんたちから貰う勇気はおおきい、人から貰った一言から明日に繋がると言うことは結構あるので、出会いが結ばれる出会いの場は多ければ多いほどいいと思って、二度と悲しい出来事がないようにとの願いです。
まずこれを選んで、次にもしたいものがあるので、「みらい予想図」としたんですが、制限をかけないように自由にすごせるような場所も作りたいと思っていました。
この事業は通過点だと思っています。
一つ一つのヤマを考えると怖くてできなかったと思います、先の殻?が見えたんです。
誰かの力を借りながらクリアしてゆくしかないと思いました。
色んなことが山の様にありましたが、諦めなかったらクリア出来ました。
強い思いは子供たちの未来です、それからここまで来るのには本当に沢山の人にお世話になりました。
そういう人達の顔が浮かぶし、そういう人達に甘えてきたので、何か返したいと思います。
どんなに障害が重くても、その子なりに発達って絶対あるんです。
音十愛(おとめ)の場合は言葉が増えていきましたし、歩けない子が歩き出したと言うような発達もあります。
脳性まひのお子さんで本当に反応あるのかなと言うようなお子さんでも、お母さんにはよろこんでる反応とかが判るんです、それを第三者が判るまでには時間がかかります、微々たる反応ですから。
自分を表現できることが嬉しいことに変わって、僕をわかってくれる人がいると言うことが、また反応に繋がる。
ここは始まりの一歩で(0から18歳まで)、要求が高いのは、卒業した方が行き場がないと言うこともあるので、18歳以後の方が過ごせる場所が必要だと思って作らなければいけないと思います。
夜もケア出来るところもないので、家族が休息できる場所も必要だと思います。
どんな人でも共存できる、笑顔で過ごせる場所が最終目標です。
手をつなぎながら未来を作っていきたいです。
音十愛(おとめ)は、自分の人生を導いてくれる大事な先生ですね。
2017年11月27日月曜日
橋本淳(作詞家) ・【謎解き うたことば】日本語学者 金田一秀穂
橋本淳(作詞家) ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂(聞き手)
グループサウンズのほかにポップスも書いています。
その代表曲が「ブル-ライトヨコハマ」。
日本語のベースを作っているような感じがします。
「足音だけが付いてくるのよ。」と言う様な言葉はいいと思います。毒気がない。
後味がいい感じ。
歌手の持っている体質もあるかもしれませんね。(石田あゆみ)
作詞家は歌の世界では影の存在というか、主役はメロディーラインだと思います。
昭和期の後期はメロディーラインで、ダンスが身体で表現する音楽の一つの形になってきているので、そういうものに負けない、メロディー、歌詞がまだ出ていないと思う。
秋元さんは素晴らしくてAKB、乃木坂など、どんどん言葉の世界に歌謡曲をひっぱっていって凄いと思います。
誰からも抑制の無い、そういうところから出てくるものが、次のページを開くためには、そういう力が必要だと思います。
日本語であっても世界に通じるとか、そういうことが出来た時に新しいものが来ると思います。
かつては西条八十、北原白秋とかいたが、 歌手主体となって来る。
私がラッキーな時代に生きたと思うのは、専属制度の中でフリーだったのでこの歌詞はおかしいとか、面白くないと言う様な事を言う人が誰もいない。
今はそれでみんな潰してしまうのではないか、万人がわかるものなどこの世にないと思うんです。
父が与田凖一、作品は読んだことがない。
うちの父親はこどもは大嫌いでした、食事など一緒にしたことが一度もない、記憶にない。
生まれたのは北原白秋の家で生まれたそうです。
北原白秋の家で生活していた。
16歳で免許を取って、壇さんとは子供のころから行ったり来たりしていて、壇さんが亡くなる時に能古島に漁師小屋みたいなものを買って一人でいたが、壇さんとは一時期車で運転手をしてずーっと旅をしたりしたようです。
壇さんは人間としてバランスがいいし、物事の捉え方が素晴らしい。
壇さんから君に足りないのは観察力だと言われました。
人を否定しない先生で、全て肯定して観察眼の中から真実を見つけろと言う様な、そういうことを壇一雄さんから教えられました。
新聞の3面はいつも見ていようと思いました。
客観的な描写が実は気持ちをとっても深く表現してしまう。
想い出を刺激するような歌をいつも作りたいと思っていました。
梅崎春生さんとの付き合いも有りました。(新聞小説からの関係から)
梅崎さんは肝硬変になられて、強いウイスキーをがぶがぶ飲んで亡くなって行く、身の震える様なものを観て来ました。
「桜島」と言う小説で飛行機で自害出来ずにウイスキーで自害する、何とも言えない悲劇、特攻隊と言う悲劇、運命をどうくくるか、壮烈な心の中が有ったと思います。
僕が大学生のころだと思います。
川端康成さんとは父親が交流があって、夏に鎌倉に何年か泳ぎがてら行っていました。
平尾昌晃さんも亡くなりましたが、ぼくと歌を作るなんて思っていなかったともいますが。
平尾さんは僕のようなタイプの作詞家とはやったことはなかったと思う。
「カナダからの手紙」は平尾さんとは初めてうまくいったと思います。
一時期、一日10曲、同時に書いていました。
40歳ぐらいの時に突然売れなくなった。
売れるという予感みたいなものは有ったが、売れそうだと思っても売れないことがあり、気が付いてみたら自分が要らなくなって来たんだと思って、止めようと思いました。
それから41,2歳位で止めました。
20年位で2000曲ぐらいやりました。
時代時代のヒット曲が要るのに、秋元さんのAKB、乃木坂など、そういうものだけではさみしいと思うので若い人が出てきてやってくれればいいなあと思います。
なかにしれいさんは凄いなあと思います。
演歌っぽいしゃけ、にしんがどうしたと言っていても、根は女なんだもの、根底の目が僕に無いもので、本当に力のある女性像というのが僕には想像できない世界、女性を描かせたらあんなすごい人はいない、凄いと思う。
好きな作詞家は岩谷時子さんです、大好きです。
先駆者です、本当にすごいと思いました。
今78歳で、水泳が好きで週に3日ぐらい泳ぎますが、プールから上がって鏡の前に来ると、何だか歳を取った爺さんがいるなあと思うと、自分なんです。
自分の気持ちは泳いでる気持ちなのに、身体は死人のようになっているギャップが自分の中で解決できない。
精神的な世界が歳を取るとどんどん遠くなってしまって、精神的な世界を活発にしようと思う時は肉体が付いていかない。
肉体が衰えてくると、精神世界がどんどん遠くなっていってしまう。
本の中とか、そういうところから刺激を受け無くなって来て、精神力がおとろえてきて、あまり気持ちに影響がなくなってしまう。
だから童話だとかを読んでみようかと思っている。
奥行きのないものと思っているものの中に、以外にそういうものがあると思ったりします。
今の日本の言葉の使い方、言葉は時代とともに生きているからドンドン変わって行く。
それはいつも絶対正しいと思います。
歴史、思想が判っている方がいれば乱れ切っているもの、なんでも歳とともに濾過されていってしまう。
歌詞でもそうだと思うが、日常化したものを日常的に表現して行くから、そういうふうに薄くなるのではないんでしょうか。
AKBとかが同じものが団体になって歌っていると言うのが今の表層の形だと思うが、良い悪いは無いと思います、時が移れば消えていくし、次のものが出てくる。
時代が変わればきっと違うと思う。
日本語学者 金田一秀穂(聞き手)
グループサウンズのほかにポップスも書いています。
その代表曲が「ブル-ライトヨコハマ」。
日本語のベースを作っているような感じがします。
「足音だけが付いてくるのよ。」と言う様な言葉はいいと思います。毒気がない。
後味がいい感じ。
歌手の持っている体質もあるかもしれませんね。(石田あゆみ)
作詞家は歌の世界では影の存在というか、主役はメロディーラインだと思います。
昭和期の後期はメロディーラインで、ダンスが身体で表現する音楽の一つの形になってきているので、そういうものに負けない、メロディー、歌詞がまだ出ていないと思う。
秋元さんは素晴らしくてAKB、乃木坂など、どんどん言葉の世界に歌謡曲をひっぱっていって凄いと思います。
誰からも抑制の無い、そういうところから出てくるものが、次のページを開くためには、そういう力が必要だと思います。
日本語であっても世界に通じるとか、そういうことが出来た時に新しいものが来ると思います。
かつては西条八十、北原白秋とかいたが、 歌手主体となって来る。
私がラッキーな時代に生きたと思うのは、専属制度の中でフリーだったのでこの歌詞はおかしいとか、面白くないと言う様な事を言う人が誰もいない。
今はそれでみんな潰してしまうのではないか、万人がわかるものなどこの世にないと思うんです。
父が与田凖一、作品は読んだことがない。
うちの父親はこどもは大嫌いでした、食事など一緒にしたことが一度もない、記憶にない。
生まれたのは北原白秋の家で生まれたそうです。
北原白秋の家で生活していた。
16歳で免許を取って、壇さんとは子供のころから行ったり来たりしていて、壇さんが亡くなる時に能古島に漁師小屋みたいなものを買って一人でいたが、壇さんとは一時期車で運転手をしてずーっと旅をしたりしたようです。
壇さんは人間としてバランスがいいし、物事の捉え方が素晴らしい。
壇さんから君に足りないのは観察力だと言われました。
人を否定しない先生で、全て肯定して観察眼の中から真実を見つけろと言う様な、そういうことを壇一雄さんから教えられました。
新聞の3面はいつも見ていようと思いました。
客観的な描写が実は気持ちをとっても深く表現してしまう。
想い出を刺激するような歌をいつも作りたいと思っていました。
梅崎春生さんとの付き合いも有りました。(新聞小説からの関係から)
梅崎さんは肝硬変になられて、強いウイスキーをがぶがぶ飲んで亡くなって行く、身の震える様なものを観て来ました。
「桜島」と言う小説で飛行機で自害出来ずにウイスキーで自害する、何とも言えない悲劇、特攻隊と言う悲劇、運命をどうくくるか、壮烈な心の中が有ったと思います。
僕が大学生のころだと思います。
川端康成さんとは父親が交流があって、夏に鎌倉に何年か泳ぎがてら行っていました。
平尾昌晃さんも亡くなりましたが、ぼくと歌を作るなんて思っていなかったともいますが。
平尾さんは僕のようなタイプの作詞家とはやったことはなかったと思う。
「カナダからの手紙」は平尾さんとは初めてうまくいったと思います。
一時期、一日10曲、同時に書いていました。
40歳ぐらいの時に突然売れなくなった。
売れるという予感みたいなものは有ったが、売れそうだと思っても売れないことがあり、気が付いてみたら自分が要らなくなって来たんだと思って、止めようと思いました。
それから41,2歳位で止めました。
20年位で2000曲ぐらいやりました。
時代時代のヒット曲が要るのに、秋元さんのAKB、乃木坂など、そういうものだけではさみしいと思うので若い人が出てきてやってくれればいいなあと思います。
なかにしれいさんは凄いなあと思います。
演歌っぽいしゃけ、にしんがどうしたと言っていても、根は女なんだもの、根底の目が僕に無いもので、本当に力のある女性像というのが僕には想像できない世界、女性を描かせたらあんなすごい人はいない、凄いと思う。
好きな作詞家は岩谷時子さんです、大好きです。
先駆者です、本当にすごいと思いました。
今78歳で、水泳が好きで週に3日ぐらい泳ぎますが、プールから上がって鏡の前に来ると、何だか歳を取った爺さんがいるなあと思うと、自分なんです。
自分の気持ちは泳いでる気持ちなのに、身体は死人のようになっているギャップが自分の中で解決できない。
精神的な世界が歳を取るとどんどん遠くなってしまって、精神的な世界を活発にしようと思う時は肉体が付いていかない。
肉体が衰えてくると、精神世界がどんどん遠くなっていってしまう。
本の中とか、そういうところから刺激を受け無くなって来て、精神力がおとろえてきて、あまり気持ちに影響がなくなってしまう。
だから童話だとかを読んでみようかと思っている。
奥行きのないものと思っているものの中に、以外にそういうものがあると思ったりします。
今の日本の言葉の使い方、言葉は時代とともに生きているからドンドン変わって行く。
それはいつも絶対正しいと思います。
歴史、思想が判っている方がいれば乱れ切っているもの、なんでも歳とともに濾過されていってしまう。
歌詞でもそうだと思うが、日常化したものを日常的に表現して行くから、そういうふうに薄くなるのではないんでしょうか。
AKBとかが同じものが団体になって歌っていると言うのが今の表層の形だと思うが、良い悪いは無いと思います、時が移れば消えていくし、次のものが出てくる。
時代が変わればきっと違うと思う。
2017年11月26日日曜日
山中毅(元五輪競泳メダリスト) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)
山中毅(元五輪競泳メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)
今年 78歳で亡くなったオリンピック競泳のメダリスト。
メルボルン、ローマ、東京の3つのオリンピック競泳で4個の銀メダルを獲得して日本中を沸かせました。
特に17歳の時のメルボルン大会と早稲田大学の学生だった時のローマ大会、共に 400m自由形でオーストラリアのマレー・ローズ選手との大熱戦はいまだに多くの中高年の方々の記憶に残っています。
石川県輪島が生んだ世界的スイマーの話を、再放送で聞きます。
昭和31年12月にメルボルンオリンピックが行われたが、当時日本には室内プールは無かった。(冬では練習ができない)
大分県の別府市に50mの温泉プールがあり、そこで合宿を1カ月練習していました。
昭和31年 当時17歳輪島高校3年生の時のメルボルンオリンピック、出場レースが自由形400m、1500m、800mリレーの3種目。
水泳を正式に始めたのが、高等学校1年生(オリンピックの2年前)、国内最終選考で400m、1500mで優勝しました。
当時オリンピックはフリーでは100m、400m、1500m、800mリレーしかなかったので、わたしを連れて行かないことになっていた。
その1週間後に高校選手権があり、日本選手権の記録よりもさらに10秒ぐらい早くなったんです。
それでも決まらなかったので家に帰ってきたら、家にオリンピックに出られると言う電報がありました。
メルボルンオリンピックでは当時地元オーストラリアのマレー・ローズ選手が優勝の可能性が90%以上と言われていて、山中はどうやっても勝てない、アメリカのブリーンを抑えて2位に入ってくれればと古橋マネージャーは言っていました。
昭和31年12月4日、400m自由形決勝、150mまで山中トップ、200m山中、ローズが並んでターン、300mのターンでローズがトップ、タッチの差(0.8秒差)で山中、その後徐々に差を広げて行きローズトップでゴールイン、身体1つ半の差で山中2位。
「3位に入ればいいと思っていたが、今日は調子が馬鹿に良くて2位滑り込んだ、ローズが隣で先に泳いでいるのが判ったがどうしようもなかった。・・・」(当時の談話)
ハプニングがあった、私は間違って3位の台に上ってしまった。
父親は頑固な人で予選で落ちると思っていて、入場式だけはしっかりやってこいと言われて私を送り出して、それが頭にあり、行進の時は初めて靴を履いておおきな豆が出来て、靴はポケットに入れ裸足になって行進しました。(当時靴を履くことはほとんどなく下駄を履くのがほとんどだった)
400mの試合の2日後1500m決勝、前半リードしたが、しかしどういうふうに泳いでいいかわからなかった。
自分のペースが全くできなかった、駆け引きなど何もなかった。
「隣のブリーンをマークしすぎて、ブリーンの向こう隣のローズに気が付かなかった。
1400mで初めて7m先に出てるのが判って飛ばしたが間に合わなかった。
レースは苦しくなく楽に泳げたのでブリーンにとらわれたのが失敗だった。
やはりローズが一枚上でした。」(試合後の談話)
スパートも200m前でと考えていたが、辛くなってきて最後の50mだけを目いっぱい頑張って泳いだが、試合後の談話で言っていることは負け惜しみでした。
当時は輪島から東京に出てくるまで1昼夜かかりました。
海外に初めて行って自分がいかに田舎者であったかと言うこと、メルボルンにいってカルチャーの違いに吃驚しました。
飛行機も初めてでした、メルボルンまで36時間かかりました。
早稲田大学に進学、モットーとして一度負けた選手には絶対負けたくないと言う思いがあり、東伏見の早稲田のプールで練習してきました。
昭和34年に日米豪の水泳選手権があり200m、400mで世界新記録を作る。
小柳コーチから大変な距離を泳がされました。
昭和35年ローマオリンピック、400m、1500m、800mリレーに参加。
前年に自分の泳ぎを見せたが、ローマではこういう風にしようと思ったが、専任の小柳コーチがローマのコーチから外れます。
練習のメモを貰ったが、たまたま1か月前にローマにいってしまって一人で一カ月過ごすことになり、調子をうまく持っていくことが出来ず(1週間前がピーク)、その後1週間で6kg痩せてしまった。(ものが食べられない、一つはプレツッヤーかも、腰を打ったがダメージは少なかった、なんでも悪い方に取っていった)
ローマのオリンピックは3回のオリンピックでは一番印象の悪い大会、思い出したくない大会でした。
銀メダルは取ったが、ローズよりも前にいけると思っていたが、残念だった。
1500mは4位だった。
コンラッズが勝つと思っていて、1500mは自分では捨てました。
ローズ選手は184cm、79kg 泳ぎ方はスムーズだった。
私は力で泳ぐようなフォームだった。
昭和36年南カルフォルニア大学にローズ選手、私それからその後コンラッズも入って来ました。
ローズは菜食主義者でした。
ローズ選手が日本に来たりした時には家に泊まっていったりして、いまだに文通をしています。
2か月間で200mの世界新記録を3回更新する絶頂期もあった。
昭和39年東京オリンピック、ローズ選手は国内予選を欠場しオリンピックには参加出来ず、私は400mで6位という結果になった。
私の取ったメダルは最終的に全部で4個の銀メダル、400mで2個、1500mで1個、800mで1個。
ローマでは自分でも絶対勝てると思っていたが、1週間前にピークが来てしまったと言うことです。
昭和41年に引退することになる。
子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。
相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。
母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。
いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。
練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。
一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。
インターバルで100mを200回(20000m)、制限タイム(1分6秒9まで)の罰則を食うと
追加。
水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。
コーチはどんどん先に言っているので選手はいかにくっついていくかということ。
高齢化してきているが、健康維持したいと言うのなら競泳は置いておいて、水の中で運動することがいいと思います。
いい事は血圧が下がるので、水を使って健康になってもらいたい。
私は今は水の中で歩いています。(71歳)
今年 78歳で亡くなったオリンピック競泳のメダリスト。
メルボルン、ローマ、東京の3つのオリンピック競泳で4個の銀メダルを獲得して日本中を沸かせました。
特に17歳の時のメルボルン大会と早稲田大学の学生だった時のローマ大会、共に 400m自由形でオーストラリアのマレー・ローズ選手との大熱戦はいまだに多くの中高年の方々の記憶に残っています。
石川県輪島が生んだ世界的スイマーの話を、再放送で聞きます。
昭和31年12月にメルボルンオリンピックが行われたが、当時日本には室内プールは無かった。(冬では練習ができない)
大分県の別府市に50mの温泉プールがあり、そこで合宿を1カ月練習していました。
昭和31年 当時17歳輪島高校3年生の時のメルボルンオリンピック、出場レースが自由形400m、1500m、800mリレーの3種目。
水泳を正式に始めたのが、高等学校1年生(オリンピックの2年前)、国内最終選考で400m、1500mで優勝しました。
当時オリンピックはフリーでは100m、400m、1500m、800mリレーしかなかったので、わたしを連れて行かないことになっていた。
その1週間後に高校選手権があり、日本選手権の記録よりもさらに10秒ぐらい早くなったんです。
それでも決まらなかったので家に帰ってきたら、家にオリンピックに出られると言う電報がありました。
メルボルンオリンピックでは当時地元オーストラリアのマレー・ローズ選手が優勝の可能性が90%以上と言われていて、山中はどうやっても勝てない、アメリカのブリーンを抑えて2位に入ってくれればと古橋マネージャーは言っていました。
昭和31年12月4日、400m自由形決勝、150mまで山中トップ、200m山中、ローズが並んでターン、300mのターンでローズがトップ、タッチの差(0.8秒差)で山中、その後徐々に差を広げて行きローズトップでゴールイン、身体1つ半の差で山中2位。
「3位に入ればいいと思っていたが、今日は調子が馬鹿に良くて2位滑り込んだ、ローズが隣で先に泳いでいるのが判ったがどうしようもなかった。・・・」(当時の談話)
ハプニングがあった、私は間違って3位の台に上ってしまった。
父親は頑固な人で予選で落ちると思っていて、入場式だけはしっかりやってこいと言われて私を送り出して、それが頭にあり、行進の時は初めて靴を履いておおきな豆が出来て、靴はポケットに入れ裸足になって行進しました。(当時靴を履くことはほとんどなく下駄を履くのがほとんどだった)
400mの試合の2日後1500m決勝、前半リードしたが、しかしどういうふうに泳いでいいかわからなかった。
自分のペースが全くできなかった、駆け引きなど何もなかった。
「隣のブリーンをマークしすぎて、ブリーンの向こう隣のローズに気が付かなかった。
1400mで初めて7m先に出てるのが判って飛ばしたが間に合わなかった。
レースは苦しくなく楽に泳げたのでブリーンにとらわれたのが失敗だった。
やはりローズが一枚上でした。」(試合後の談話)
スパートも200m前でと考えていたが、辛くなってきて最後の50mだけを目いっぱい頑張って泳いだが、試合後の談話で言っていることは負け惜しみでした。
当時は輪島から東京に出てくるまで1昼夜かかりました。
海外に初めて行って自分がいかに田舎者であったかと言うこと、メルボルンにいってカルチャーの違いに吃驚しました。
飛行機も初めてでした、メルボルンまで36時間かかりました。
早稲田大学に進学、モットーとして一度負けた選手には絶対負けたくないと言う思いがあり、東伏見の早稲田のプールで練習してきました。
昭和34年に日米豪の水泳選手権があり200m、400mで世界新記録を作る。
小柳コーチから大変な距離を泳がされました。
昭和35年ローマオリンピック、400m、1500m、800mリレーに参加。
前年に自分の泳ぎを見せたが、ローマではこういう風にしようと思ったが、専任の小柳コーチがローマのコーチから外れます。
練習のメモを貰ったが、たまたま1か月前にローマにいってしまって一人で一カ月過ごすことになり、調子をうまく持っていくことが出来ず(1週間前がピーク)、その後1週間で6kg痩せてしまった。(ものが食べられない、一つはプレツッヤーかも、腰を打ったがダメージは少なかった、なんでも悪い方に取っていった)
ローマのオリンピックは3回のオリンピックでは一番印象の悪い大会、思い出したくない大会でした。
銀メダルは取ったが、ローズよりも前にいけると思っていたが、残念だった。
1500mは4位だった。
コンラッズが勝つと思っていて、1500mは自分では捨てました。
ローズ選手は184cm、79kg 泳ぎ方はスムーズだった。
私は力で泳ぐようなフォームだった。
昭和36年南カルフォルニア大学にローズ選手、私それからその後コンラッズも入って来ました。
ローズは菜食主義者でした。
ローズ選手が日本に来たりした時には家に泊まっていったりして、いまだに文通をしています。
2か月間で200mの世界新記録を3回更新する絶頂期もあった。
昭和39年東京オリンピック、ローズ選手は国内予選を欠場しオリンピックには参加出来ず、私は400mで6位という結果になった。
私の取ったメダルは最終的に全部で4個の銀メダル、400mで2個、1500mで1個、800mで1個。
ローマでは自分でも絶対勝てると思っていたが、1週間前にピークが来てしまったと言うことです。
昭和41年に引退することになる。
子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。
相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。
母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。
いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。
練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。
一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。
インターバルで100mを200回(20000m)、制限タイム(1分6秒9まで)の罰則を食うと
追加。
水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。
コーチはどんどん先に言っているので選手はいかにくっついていくかということ。
高齢化してきているが、健康維持したいと言うのなら競泳は置いておいて、水の中で運動することがいいと思います。
いい事は血圧が下がるので、水を使って健康になってもらいたい。
私は今は水の中で歩いています。(71歳)
2017年11月25日土曜日
中畑清(プロ野球解説者) ・トークショー
中畑清(プロ野球解説者) ・トークショー
昭和29年福島県矢吹町生まれ、安積商業、駒沢大学に進み、昭和51年プロ野球ドラフト3位で読売巨人軍に入団、その後、平成5年にジャイアンツのコーチになり、翌年長島監督を支えて日本シリ-ズに優勝、2004年アテネオリンピックでは長島監督不在の中、銅メダルを獲得に貢献、2年前まで横浜ベイスターズの監督をされていました。
矢吹町は人がいいよ。
子供の時からソフトボールをやっていました。
長嶋茂雄選手にあこがれて、ランニングに墨で背番号3番と書きました。
中学では軟式野球、キャッチャーを最初やらされて、2年生でサード。
キャッチャーではいい勉強になりました。
ジャイアンツに入ってそこそこ名が売れてきたころに、地元の役所の同級生がイベントとしてソフトボールをやろうと話を持ち掛けてきて、やることになり、矢吹町、大信村、中島村の3地区を纏めた大会を9チーム集めてやったのが最初でした、「中畑清旗争奪ソフト大会」、今年で34回になります。(震災の時は辞めています。)
少年96チーム、女子が12チームになっています。
第20回大会の時には長島さんが来てくれました。
矢吹町は人口は1万8000人ですが、2万人近く集まりました。
長嶋さんにも町の人にも恩返しができたと思います。
山の神柏原さん(箱根駅伝で活躍)もこの町でソフトボールをやっていました。
光南高校が甲子園に出場したがその時の選手は、ほとんどソフトボールをやっていた少年たちでした。
大会の費用は自腹でやっていて、最近ですよ矢吹町が補助してくれるようになったのは、名誉町民になるのは当たり前なんだから。(笑いと拍手)
前川清、新沼謙治などを呼んでイベントをやり、町民の方にはよろこんでもらいました。
長嶋さんがいなかったら今の私はいないです。
長嶋茂雄になるぞと言って持ち続けて、長嶋茂雄になるぞと声を発生して発生して行ったら家族、まわりが応援してくれて、そうしたらその環境になってしまいました。
何回も失敗しても長嶋さんは面白い選手だと、使ってくれました。
日米野球の時にも高田さんの守備固めから入って、もう1点取ったら逆転の時に、2アウトランナーセカンドの時に私に打順が回って来て、間違いなく代打だと思った、柳田さんとかいい選手がいて変えられると思ってベンチをチラチラ見ていたら、それを見た長嶋さんが駆け寄ってきて、なにチラチラ見ているんだ、お前が行くんだとケツを叩かれて、打席に送ってくれました。
行ったら逆転2ランホームランでした。
僕に野球人生が花開いてゆくのはその時からでした、入団して3年目の時でした。
もし出なかったらその年でおそらく首になっていたと思います。
長嶋さんの前では常に目立とう精神を発揮してきました、存在感をアピールするのは天才ですから(笑い)、野球は下手でも元気と声と体のでかさを最大限にアピールしました。
色々やっていたらこれは俺に似ているなと通じるものが有ったんだと思いました、気にいられてどんどん使ってもらい、普通の選手の3~4倍は使ってもらったんじゃないかと思います。
7年連続ゴールデングラブ賞をもらいましたが、周りから言わせるとプロになって一番うまくなった選手と言われます。
14年間通算1248試合、4458打数、1294安打、打率は2割9分、621打点、171ホームラン。
記録には残らないが、記憶に残る選手になりたいと思いました。
現役引退後コーチになり、1994年に日本一に貢献。
現役を辞めて3年後に長嶋さんから電話がかかって来て、コーチの要請があった。
何をやりたいのかと言われて(普通監督が決めるものだが)、バッティングコーチをやりたいと言ったら、お前で大丈夫か、バッティングは厳しいぞと言われていしまいました。(笑い)
長嶋さんは良くカンピューターと言われるがそうではない、長嶋さんも王さんもとにかくデータを凄く大事にする。
相手を知り尽くして準備を万端にしてそれから試合に臨むと言うこと、そういう準備は凄く時間をかける。
2004年アテネオリンピック時の日本代表の監督が長嶋さん、ヘッドコーチが中畑。
絶対負けられないという条件が揃っていた。
冗談も言えなかった、苦しい、俺に冗談を抜いたら何もない。(笑い)
ピリピリしたこの空気が1年半続きました。
長嶋さんが倒れたのは間違いなくあの監督就任した結果だったと思います。
1年半、夜もなかなか眠れず俺は6kg痩せました。
長嶋さんがいなくなって自分がトップになってしまって、監督代行でもなく指揮だけ取ってくれと言われました。
宮本 慎也が居てくれたおかげでプレッシャーが半分になることが出来た。
「中畑さん大変なポジション引き受けましたね、このプレッシャーは半端じゃないと思いますし、我々選手とともにプレッシャーを撥ね退けるそういう大会にしましょうよ」と言ってくれて、この言葉がなかったら指揮がとれなかったと思う。
「銅メダル」だった、周りは評価してくれなかったが、僕のなかでは物凄く評価できた。
オーストラリアにだけ2回負けているだけで、自分自身では内容は最高の野球が出来たと思う、選手には感謝している。
色んな事を経験させてもらって、人としての人生の中の大切さを学ばせて貰った1年半の時間帯だったと思います。
2020年オリンピックで福島が野球の会場になっている。
迎えるにあったって一番大事なのは県民の目、歓声、応援、球場があふれるようになることだと思います
是非成功させましょう。
聖火ランナーの最終は長嶋さんにやってもらいたい。
そのまえにバトンを渡すのは王さん。
*「栄光の男」桑田佳祐作詞作曲 長嶋引退の時に作った曲 中畑清が歌う。
「ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち食いそば屋の
テレビが映っていた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた
「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてゆく
I will never cry この世に何を求めて生きている?
叶わぬ夢など 追いかけるほど野暮じゃない ・・・・・」
昭和29年福島県矢吹町生まれ、安積商業、駒沢大学に進み、昭和51年プロ野球ドラフト3位で読売巨人軍に入団、その後、平成5年にジャイアンツのコーチになり、翌年長島監督を支えて日本シリ-ズに優勝、2004年アテネオリンピックでは長島監督不在の中、銅メダルを獲得に貢献、2年前まで横浜ベイスターズの監督をされていました。
矢吹町は人がいいよ。
子供の時からソフトボールをやっていました。
長嶋茂雄選手にあこがれて、ランニングに墨で背番号3番と書きました。
中学では軟式野球、キャッチャーを最初やらされて、2年生でサード。
キャッチャーではいい勉強になりました。
ジャイアンツに入ってそこそこ名が売れてきたころに、地元の役所の同級生がイベントとしてソフトボールをやろうと話を持ち掛けてきて、やることになり、矢吹町、大信村、中島村の3地区を纏めた大会を9チーム集めてやったのが最初でした、「中畑清旗争奪ソフト大会」、今年で34回になります。(震災の時は辞めています。)
少年96チーム、女子が12チームになっています。
第20回大会の時には長島さんが来てくれました。
矢吹町は人口は1万8000人ですが、2万人近く集まりました。
長嶋さんにも町の人にも恩返しができたと思います。
山の神柏原さん(箱根駅伝で活躍)もこの町でソフトボールをやっていました。
光南高校が甲子園に出場したがその時の選手は、ほとんどソフトボールをやっていた少年たちでした。
大会の費用は自腹でやっていて、最近ですよ矢吹町が補助してくれるようになったのは、名誉町民になるのは当たり前なんだから。(笑いと拍手)
前川清、新沼謙治などを呼んでイベントをやり、町民の方にはよろこんでもらいました。
長嶋さんがいなかったら今の私はいないです。
長嶋茂雄になるぞと言って持ち続けて、長嶋茂雄になるぞと声を発生して発生して行ったら家族、まわりが応援してくれて、そうしたらその環境になってしまいました。
何回も失敗しても長嶋さんは面白い選手だと、使ってくれました。
日米野球の時にも高田さんの守備固めから入って、もう1点取ったら逆転の時に、2アウトランナーセカンドの時に私に打順が回って来て、間違いなく代打だと思った、柳田さんとかいい選手がいて変えられると思ってベンチをチラチラ見ていたら、それを見た長嶋さんが駆け寄ってきて、なにチラチラ見ているんだ、お前が行くんだとケツを叩かれて、打席に送ってくれました。
行ったら逆転2ランホームランでした。
僕に野球人生が花開いてゆくのはその時からでした、入団して3年目の時でした。
もし出なかったらその年でおそらく首になっていたと思います。
長嶋さんの前では常に目立とう精神を発揮してきました、存在感をアピールするのは天才ですから(笑い)、野球は下手でも元気と声と体のでかさを最大限にアピールしました。
色々やっていたらこれは俺に似ているなと通じるものが有ったんだと思いました、気にいられてどんどん使ってもらい、普通の選手の3~4倍は使ってもらったんじゃないかと思います。
7年連続ゴールデングラブ賞をもらいましたが、周りから言わせるとプロになって一番うまくなった選手と言われます。
14年間通算1248試合、4458打数、1294安打、打率は2割9分、621打点、171ホームラン。
記録には残らないが、記憶に残る選手になりたいと思いました。
現役引退後コーチになり、1994年に日本一に貢献。
現役を辞めて3年後に長嶋さんから電話がかかって来て、コーチの要請があった。
何をやりたいのかと言われて(普通監督が決めるものだが)、バッティングコーチをやりたいと言ったら、お前で大丈夫か、バッティングは厳しいぞと言われていしまいました。(笑い)
長嶋さんは良くカンピューターと言われるがそうではない、長嶋さんも王さんもとにかくデータを凄く大事にする。
相手を知り尽くして準備を万端にしてそれから試合に臨むと言うこと、そういう準備は凄く時間をかける。
2004年アテネオリンピック時の日本代表の監督が長嶋さん、ヘッドコーチが中畑。
絶対負けられないという条件が揃っていた。
冗談も言えなかった、苦しい、俺に冗談を抜いたら何もない。(笑い)
ピリピリしたこの空気が1年半続きました。
長嶋さんが倒れたのは間違いなくあの監督就任した結果だったと思います。
1年半、夜もなかなか眠れず俺は6kg痩せました。
長嶋さんがいなくなって自分がトップになってしまって、監督代行でもなく指揮だけ取ってくれと言われました。
宮本 慎也が居てくれたおかげでプレッシャーが半分になることが出来た。
「中畑さん大変なポジション引き受けましたね、このプレッシャーは半端じゃないと思いますし、我々選手とともにプレッシャーを撥ね退けるそういう大会にしましょうよ」と言ってくれて、この言葉がなかったら指揮がとれなかったと思う。
「銅メダル」だった、周りは評価してくれなかったが、僕のなかでは物凄く評価できた。
オーストラリアにだけ2回負けているだけで、自分自身では内容は最高の野球が出来たと思う、選手には感謝している。
色んな事を経験させてもらって、人としての人生の中の大切さを学ばせて貰った1年半の時間帯だったと思います。
2020年オリンピックで福島が野球の会場になっている。
迎えるにあったって一番大事なのは県民の目、歓声、応援、球場があふれるようになることだと思います
是非成功させましょう。
聖火ランナーの最終は長嶋さんにやってもらいたい。
そのまえにバトンを渡すのは王さん。
*「栄光の男」桑田佳祐作詞作曲 長嶋引退の時に作った曲 中畑清が歌う。
「ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち食いそば屋の
テレビが映っていた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた
「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてゆく
I will never cry この世に何を求めて生きている?
叶わぬ夢など 追いかけるほど野暮じゃない ・・・・・」
2017年11月24日金曜日
前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長) ・憎む心を捨て、祈る心の再生を(H29/7/4 OA)
前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長)・憎む心を捨て、祈る心の再生を(H29/7/4 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post.htmlをご覧ください。
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