2017年5月31日水曜日

吉井久夫(暖房器具製造会社社長) ・みんなで“一歩前進”

吉井久夫(暖房器具製造会社社長)  ・みんなで“一歩前進”
吉井さんの経営する会社は新潟平野の水田地帯にあります。
吉井さんは地方都市にありながら石油ファンヒーターのトップ企業として、長年黒字経営を行っています。
また、社員や協力会社のひとを大事にし、地域とともに豊かにという経営方針で知られています。
吉井さんは芝浦工業大学で電気工学を学び父親と地元で電気店を営んでいましたが、石油ストーブの技術が急激に変化する時代、電気の知識、技術を買われ先代の社長にスカウトされて入社し、現在の石油ファンヒーターを作り上げました。
吉井さんは会社に関わって40年余りに成りますが、石油スト―ブという冬場にしか売れない商品を、年間を通して安定して製造販売する体制が出来たのは、社員や協力会社のお陰で次の世代にもこの経営を引き継ぎたいと言っています。

ふつう冬物は10月から12月が販売のピークですが、生産の方ははほぼ平準化して生産をやるようにしています。
必要な時に必要だけ作ると云うことになると3か月で対応しなくてはならず、今の4倍の人と4倍の設備が必要になります。
平準化すると働いている人にとっても安心しますし、協力会社さんも安定した生産が出来ます。
50%は内製で残りは協力会社さんにお願いしています。
社員は500名強いますが、協力工場さんも500名近くいます。
ストーブを始めて40年近くなりますが。20年弱前から何とかそういうふうにしようと、毎年努力しながらこういう状態に成りました。
働く人を大事にする会社ということで、2名は臨時でいますが、パート、季節社員などはいません。
小泉さんの改革の時に派遣がゆるくなったんですが、出荷担当で臨時に雇った時はありますが、臨時の人の半分を正社員にして派遣は中止にしました。
そして正社員を100%にするようにしました。

現場で生産している人も出荷が大変な冬場の時には、やりくりして手助けをするようにしました。(多能工化により平準化)
QC活動は活発にやっていると言われますが、QC活動は当たり前にやっています。
QC活動はコストダウンなどが評価されますが、当社では半分以上は難しい仕事、辛い仕事などを楽にすることも評価しています。
障害のある方も入ってきて、先生とかその後輩たちが雇用した人が長く雇用されていることを評価して、新たに雇用する様になりました。
ごく当たり前に入って仕事をしているので、あまり目立ちません。
営業担当は全国にいますが、工場を中心にして車で通える範囲の人が働いています。
地元が好きな人がたくさんいる訳で、郷土愛のためにここで生活できればという思いがあると思います。

海外生産をして利益を上げようと、新潟県内でも結構海外生産に出たところもありますが、石油ファンヒーターは日本の得意な商品なんです。
競争相手が外から来なかったということもあり、海外に出て行って生産する方がリスクが多かったと言う良い背景もありました。
自分の利益が儲かっても、ここで生活する人にはなんにも還元されないので、日本での雇用を成立させる方の価値が大きい様な気がしました。
100%海外展開した会社もありますが、雇用されていた人達は大変だろうと思って、ここの人たちと一緒に働くことが大事だと思いました。

会社創業者は佐々木文雄さんで彼にスカウトされました。
ストーブは電気の部分が50%ぐらいに成り、電気の専門家を探していて、手伝ってほしいといわれて、電気の担当を一気に引き受けました。(昭和48年)
53年前は加圧式の石油ストーブを作っていて最先端を行っていました。
芯上式はだれでも簡単に付けられるので、その新製品に駆逐されて倒産することに成ります。(社長が42歳の時)
18人で再開し、電気を使って新しい石油ストーブを開発しました。
電気を使うことで安全な石油ストーブを作ることに成功しました。
最初電気での故障が多くて、その商品が出来て2年目ぐらいの時に入ってきて、故障しないようにして急激に伸びていきました。
先代社長は倒産の危機を経験して胃潰瘍に成り、大手術をしました。
200人ぐらいの人は失業するし、倒産は絶対あってはいけないと思いました。
その後悪い時期もありましたが、先代の社長は解雇しないと云うことにしました。

倒産すると云うことは、従業員を路頭に迷わすということは、罪というか悪さは凄く感じます。
うちの会社は独自の商品でお客様に提供しようと云う事があります。
効果、効用のないものを売ってはいけないと思っています。
マイナスイオンがはやったことがありますが、本当に効果があるかどうかは証明されていないので、それはまやかしではないかと思ってそういったことで売ってはいけないと思います。
使用者に何時までも愛される良い商品を提供する。
社是で良い商品を作ることを唱和しています。
意見は自由に言えるような雰囲気になっています。
自由に言えるとか、こうなって貰いたいとか、こっち側からそういった雰囲気、環境を作ることが大事だと思います。
発揮する能力は意欲で差が出て来ると思います。
そして結果が悪いのは社長で成果は社員だと思います。
上場するときにマイカンパニー、アウアカンパニーからユアカンパニーに替わるんだと言われたが、我々の会社じゃないかと思ったが、或る時に在庫が多くなったときにうちは内部留保があったので生産をそれ程しなくても会社として問題無かったが、協力工場が50%になったらやっていけないと思って、アウアカンパニーではなくてユアカンパニーーだと言うことを実感じました。









































2017年5月30日火曜日

新村拓(北里大学名誉教授)      ・ほどほどの生を生きる

新村拓(北里大学名誉教授)  ・ほどほどの生を生きる
1946年生まれ、早稲田大学で学び、人の死、病、老い、看取りについて日本人がどのように考え対処してきたのかを研究してこられました。
医療技術の発達と社会制度の充実がもたらした高度の治療と延命、高齢化に直面している現代、新村さんはほどほどの養生によるほどほどの健康を得て生きることを生き甲斐とするのが理想ではないかと考えています。
ほどほどの生が何よりと言う新村さんのお話を伺います。

20代の半ばから生老病死を研究するようになりました。
中学生のころから自分がどう生きたらいいのかと言う、生きることの意味について非常に悩みました。
勉強しなくなって本を乱読しました。(年間300冊ぐらい)
大学を受けようとしたときに、農業しながら晴耕雨読ということを考えて農学部を受けたが落ちまして浪人生活に入りました。
哲学をやろうと思ったが裏付けがない、頭でつくりだす。
過去には人が自分なりの結論を出し死んでいった人たちが何か書き遺したものはないかと調べてみようと思って歴史を選びました。
生老病死を考える様になりました。
病気の時にどういうふうに考え、どういう行動をとったのかを調べ始めました。
医学史、医療史との分野にも入ってゆくわけです。

古代は不老長寿を理想として、中国の道教の思想が強かった訳ですが、平安時代の半ばぐらいになると、来世の思想「欣求浄土」極楽の世界を目指すと言う仏教の教えが非常に影響力を持ち始めます。
鎌倉、室町時代に成ると今までの不老長寿は否定されてくるようになり、長く生きたところでそんなに意味があるのかと、一人だけ取り残されてしまう事に成る、それよりもその日その日を大事に生きると言うことの方がいいという教えが出てくる。
それぞれの年代ごとに課題を設定しろと、それを一つ一つクリアしていけば後で振り返った時に自分の人生は充実していたと、そういう思いを持って死ねる、それが人生生きることの最大のいい生き方であろうと云うふうに変わってくる訳です。
江戸時代になると、儒教の考え方が非常に強まってきて、長生きすることは重要だと云うことで養生に努めることになる。
歳をとって人の道が成就する、老熟、人道の成就、人間の価値は老熟すること、人格の完成が生きる事の人としての目的なんだと云うことで、長生きしないと意味がないということに成るわけです。
また自分を産んでくれ親に孝行を尽くさないといけない。
親孝行するためには長生きしないといけないと云うことが言われるわけです。

養生の考え方は元々中国が源泉で、それが古代に入ってきて受け繋がれ、養生の事について書いている、貝原益軒はそれらを集大成した。
その後も養生論が出てきて内容も変化してきている。
長生きのためには日々の生活を律していかなければいけない、そのためには3つある。
①好色を慎まなければいけない。
②食欲についても慎む必要がある。
③寝ることを慎む。
欲を抑えることによって疲れもしなくなり、体調も良くなり、長生きできるということになる訳です。
自分の体は先祖から受け継いできているものなので、大事に次の世代に受け継いでゆく必要があると言うことも云われる訳です。

江戸時代の半ばから後期にかけて、長生きしてもボケてしまえば意味がないと云うことになる、ほどほどの所でいいのではないかということになる。
養生もほどほどということになる。(生活が楽しめない)
ほどほどに養生してほどほどの所で死ねばいいということに成る。
江戸時代の初めは大家族制(奉公人含め15人とか)、それが小家族制(5~6人)に移行して行く。
介護が必要になると手がないから大変で、放っておかれてしまって、そういうのを見ると迷惑をかけるし、老醜をさらすことに成り、ボケる前のほどほどにということに変わってくる。
幕末に成ると健康なんてない、十全健康と云うものはあり得ない話だと、帯患健康が普通なんだと、多少病気があっても日常生活で折り合いをつけて、不便も感じない、それが健康なんだと変わってくる。

明治を迎えると儒教思想が無くなり、生理学を裏付けとした健康論に変わってくる。
富国強兵、国のために、公益のために、と重心が移って来る。
国の為健康が強制されるようになる。(健康チェックがいろいろされるようになる)
現代は強制される健康、医療費削減という大前提のもとに自分で健康を管理する、健康の自己責任と云う事が言われ始めている。
迷惑をかけないということは非常に重要な徳目に成っているわけです。
どの程度ならいいのかということですが、貝原益軒は100歳が人間の限界だろうと云っていますが、ほどほどの限界は60歳まで生きれば結構だろうといわれる訳です。
跡取りにまかせ楽隠居が人生の目的だと、いろいろな事に縛られないで自由に生きる、それが60歳代だといわれる。

だれでも自分が住み慣れた所で最期を終えたいと云う希望はある訳です。
1990年代の終わりごろの全国調査で在宅死を希望したお年寄りが8割、今は6割を切っているようなところです。
1951年では8割が在宅で亡くなっていたが、1977年病院死の方が増える、現在は8割が病院死、在宅死が13%、7~8%が老人ホーム老人施設で亡くなっている。
希望と現実の違いが6割ぐらいあった。
在宅死を支えるのにはどうしたらいいかということを、研究のテーマとして沢山の人に協力をいただいてやっています。
歴史を踏まえて考えていった場合に、以前は家で看取る為の技術、知識を持っていた為に、家で看取れた。
病院で死ぬ方が増えて行って、77年以降は病院死が増えて行き8割程度に成り、家族地域の人たちの中から看取る為の知識、技術が無くなって行く。

20年前ぐらいから医療費が増えて行くなかで、なるべく病院にかからないように、病院で死なないように家でという方向性が打ち出されるが、知識、技術がないのでまだ家で看取る覚悟がない。
本人が家で死にたい、それを支えるためには看取りのための知識、技術を家族、地域の人達がふたたび取り戻す必要がある。
そのためには高校の授業の中で教えればいい。
昔は家政学の授業の中で、末期の症状はこうなんだ、どうすればやすらぐとか、死亡の確認はどうすればいいかとかを教えるわけです。
昔は高齢者が25%、75%は若い人が死んでいる、乳幼児の死亡も多かった。
今は亡くなるのは年寄りは9割です。

死というものに対して受容する能力が以前は高かったが、今は看取りの技術、知識も無くなって全部病院任せに成ってしまっている。
だから高校の授業で教えればいい。
人間が歳をとって死ぬと云うことはどういう状況に成って死ぬのか、ということを家族が見ることによって、人生を学べる訳です。
限りある時間の中で自分の人生を燃焼し尽くすと言う気持が湧いてくるわけです。
2000年から介護保険が始まり、それがあり助かりました。
父の介護で母と12時間ずつ担当する訳ですが、一番困ったのは人手であり、大変でした。
地域包括ケアシステムが出来つつある、医療機関、介護施設、その他の施設を統合連携して在宅で継続的に安心して療養生活が出来るシステムを立ち上げようとしているが、それは結構なことだと思います。

地域で見て行く体制、地域のかかわりが薄くなってきているので、もう少し昔にかえって見てみることも必要なんだとは思いますが、家に入ってきて他人に介入されることも厭と云うこともあります。
戦前は地域の人が家に入って結婚葬式など手伝うことがあり、その延長で看取りがあったわけです。
一日一日しっかり生きていれば何時死んでもいいという気持ちになれる訳です。
それぞれの年代ごとに目標を決めて課題を設定して、一つ一つ課題をクリアしてゆくと言う計画的に人生を生きると言う生き方をしていれば、そんなに死を恐れる必要がないかと思う。
「ほどほどの養生でほどほどの生を」ということですね。



















































2017年5月29日月曜日

松本隆(作詞家)          ・【謎解き うたことば】

松本隆(作詞家)     ・【謎解き うたことば】
松本さんの作った歌は2100を超えて居て 400組近いアーティストに歌詞を書いて居ます。
「赤いスートピー」や「ルビーの指輪」など多くのヒット曲を生んでいます。

日本語学者 金田一秀穂:「はっぴいえんど 」は衝撃的でした。
松本:はっぴいえんど から洋楽ファンがファンに成ってくれました。
金田:フォークソンブがはやったが、新しい音楽だといっていた若者がいたが、演歌みたいじゃないのとは思いましたが。
「はっぴいえんど 」の詩の様に歌う詩と詠む詩はどう違うんですか?
松本:音楽が好きでロックバンドのドラムをやっていて、詩は趣味で中学ぐらいから興味を持っていました。
混じることはないと思っていたが「はっぴいえんど 」で交差したんです。
その前に2から3の秀作はあるんですが、いきなり「はっぴいえんど 」でした。
現代詩は難しすぎて、読者には判らないと思いました。
ジャン・コクトーは判る言葉で書いていて、なるほどと思いました。
日本の詩人は中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治などが好きでした。
僕は中原中也、宮沢賢治に育てられたと思います。
中原中也に教わったのは音楽的なリズム。

日本語は表意、意味があってそれを表している、形がその中に暗に含まれている。
漢字は綺麗だなと思いました。
追求してみる価値があると思いました。
見た目が美しい様に、音としてもロックのビートに乗るように両方兼ね備えたらパーフェクトに表現できるのではないかと思いました。
「はっぴいえんど 」と平仮名で書きました。
それで70年代平仮名がはやって、いろんなものが平仮名に成って、場末のスナックなども平仮名になったりして真似されすぎました。
作曲は細野晴臣さんであの人は天才ですね。

幼児体験が大事だと思っていて、幼児の時に知っている言葉で表現していかないとリズムに乗り遅れるみたいに感じます。
一音一語に付けて行くと綺麗です。
字余りの曲はあんまりないです。
*「風をあつめて」
「風と詩」にしようかと思ったが、他に使われてしまって、アルバムのタイトルは色々考えて「風街ろまん」に成りました。
マックスロードというコーヒー屋さんが好きだった。
田舎で育った青年が上京してくると渋谷のマックスロードを探すらしいです。
今は京都と神戸の両方に住んでいます。(ずーっと東京暮らしだったので他に住みたかった)
東京は行き過ぎた都会に成ってしまっているように思う。
渋谷をガングロが占拠してしまって宇宙が近所にある様な気がして違和感を感じました。

京都のいいところは10割のうち2割が学生で、毎年入れ替わって来る。
そういう人たちに紛れ込んでいる。
神戸は港町で何となく良い風が吹いています。
山からくる風と海からくる風と切り替わります、その切り替わる時は無風状態に成り凪ぎに成ります。
日常と非日常の隙間に詩が入っていて、隙間が大事で、その隙間を掘るんですが日常も非日常もちゃんと描いてやらないといけない。
優秀な作品はみんなそれがちゃんとしている。
京都、神戸は自転車で回れるのがいいですね。

















鈴木文弥(元NHKアナウンサー)・【特選スポーツ名場面の裏側で】(H19/10/11 OA)

鈴木文弥(元NHKアナウンサー)・【特選スポーツ名場面の裏側で】(H19/10/11 OA)
平成25年1月に88歳で亡くなられた鈴木さん、戦後の昭和23年にNHKに入り、以来34年間スポーツアナウンサーとして数々の名放送を残してきました。
昭和39年の東京オリンピックのラジオの開会式や女子バレーボールの金メダル実況等、名調子の文弥節は多くのスポーツファンを魅了しました。

NHKを退職して24年、82歳。
*昭和39年の東京オリンピックのラジオの開会式の実況放送。
昨日のことのように思い出します。
私はTVをやりたかったが、呼ばれてラジオをやってほしいと言われました。
妻から「オリンピックの開会式の実況するってすばらしいことじゃない。」と言われてはっと目が覚めました。
絶対ラジオの開会式を完全にものにしようと思いました。
私は原稿を持たない、参加94カ国を全部覚えました。
163段の階段を上がる坂井義則君が一つのポイント、それから選手の入場。
国によって人数が違うのでたとえばフランスは25秒かかる、25秒間にその選手団の事が全部云えるようなアナウンスを考えるんです。
毎日94カ国を1カ月やりました。(実況の練習)

開会式の実況放送のなかで、
「開会式の最大の演出家それは太陽です。今日の主役は太陽です。」という言葉があるが、前の日は大雨で、志村正順さんから最初の文句を考えて居たかといわれて、私は考えて居なくて、志村さんが「この天気を見てみろ昨日は大雨で、これは神風が吹いた、元寇の役だ」と言って、「神風が吹きました、と言え」と言いました。
部長の命令でもさすがに神風はいけないと思って、席に座った時に青い空を見てこれは主役は太陽だと思いました。
その場でぱっと出た言葉です。
163段の階段を上がる坂井義則君の実況、「・・・聖火台の右手に立ちました。」これが53秒で、52秒でも54秒でもいけない。
そのために練習をしました、努力ですよ。
原稿は無くて目と大きな時計だけです。
1カ月以上かかりました。

「一世一代の放送をしてやろう。この開会式は自分の最高傑作であるとうぬぼれている。」と本に書いたが、人間は天才はいないと思う、努力ですよ。
王貞治さんにいろいろ教えられました。
人間って、毎日毎日努力を重ねることによって出来て来るんです。
新しい言葉が出てくる、体燥の「ウルトラC」、バレーの「金メダルポイント」
技のなかで易しい順からA,B、Cとあり、日本は二つCをやっていてダブルCにしようとしたらそれはだめということで、「ウルトラC」にしようと言うことが最終的になりました。
「ウルトラマン」はここから来ました。

「金メダルポイント」 当時女子バレーの日紡貝塚が金メダル候補だった。
大松監督は厳しくて練習風景を見せないが、私だけは練習風景を見させていただきまして、2時ごろ見に行きましたが、7時、8時に成っても終わらない、やっと終わったのが10時半ですよ。
毎日そういう練習をするんです、見て居て涙が出ました。
無敗同士のソビエトとの対戦で、第1,2セットを日本がとり、第3セット 14対9ここでマッチポイントを日本が迎えるが、その時ぱっと出たのが「日本金メダルポイントです。」という言葉ですが、その後決まらないで14対13まで追いあげられる。
6回の金メダルポイントを発言することになる。
終わった瞬間に涙があふれて止まらなかったです。
予定していた言葉と云うのは心に響かない。

昭和44年高校野球決勝の松山商業、三沢高校 延長18回で0対084時間16分の激闘)で再試合。
昭和29年から高校野球の実況を担当していましたが、こんな名勝負はいまだにはっきり頭に残っています。
あんなにしゃべりっぱなしなのは初めてでした。
本当に優勝旗が二本欲しかったという思いです。
決着がつくかどうかのボールかストライクかの場面、即時描写は遅くても早くてもいけない。

スポーツ放送の一番の魅力は筋書きのないドラマだと思います。
それをいかに描写するかがアナウンサーーだと思います。
スポーツアナウンサーの条件は4つ
①即自描写力 ②必要かつ十分なスピード ③豊富なボキャブラリー ④人並み以上の体力と気力
本を読むとボキャブラリーが増える。
普段努力しなくてはいけない。
人と同じことをしていては人と同じことしかできない。
自分のたった一回の人生で人と同じでは面白くない、そのためには努力する。
生きて居ると辛いこと悲しいことがいっぱいあるが、誰も助けてはくれない。
楽しいなあ、嬉しいなあと思うと変わってくる、自分の人生は一回しかないから。

定年退職した翌年、58歳で脳内出血で危篤状態に成り、左半身不随、言葉も十分に喋れることができなくなってしまった。
入院して言葉もしゃべれなくなってしまって、よしもう一度喋ろうと決心した。
朝起きて、あいうえお順を何回も繰り返す、毎日やる。
そうすると最初は喋れなくても段々言葉が出てくる。
人一倍の努力をしました。
「闘病生活のなかで自分の気持ちにピリオドを打ってはいけない。」というふうに本の中で書いています、そこで止まってしまったらそこでおしまいです。
生きて居る限りは人と同じ事をしてはいけない、自分の人生は自分で作っていかなくてはいけない。
「あいうえお」を忘れて居る日本人の数が増えて居るのが、日本が元気がない原因です。
「あ」は相手の立場を考えよう。
「い」は厭なことを進んでやろう。
「う」は上を向いたらきりがない。
「え」は笑顔は自分で作れ。
「お」は御礼の気持ちを忘れるな。

「あいうえお」を毎日やると人生が変わってくる、たった一回しかない人生に大論の花を咲かせてもらいたい。













2017年5月27日土曜日

山川静夫(エッセイスト)     ・美空ひばり 幻のインタビュー

山川静夫(エッセイスト)・美空ひばり 幻のインタビュー
5月29日は美空ひばりさんの80回目の誕生日、今年は美空ひばりさんの生誕80周年にちなんで、記念のコンサート、CD、DVD等のリリースが行われています。
そんな中貴重な録音が見つかりました。
1988年昭和63年4月12日、NHKの国際放送で南米向けに放送した、「この人に聞く」の録音テープでした。(日本向けには放送されず幻のインタビュー)

病気の後だったので、ガウンみたいなものを着て録音が始まりました。
弟さん二人を亡くしてお母さんを亡くして一人ぼっちの時でしかも一人で静養していた時でした。
寂しさが心をむしばんでいたが歌には情熱を持っていて、1カ月あとに東京ドームのコンサートを控えて居ました。
私の最初のひばりさんへのインタビューは昭和44年8月18日でした。
オーラがすごかった、歌にかける情熱がすごかった。
リハーサルでも決しておろそかにしなかった、「悲しい酒」でリハーサルで全部泣きました。
昭和45年8月24~28日で「ひばりの5日間」という番組があって、うちあげをして飲んだんですがその時に親しくなりました。
ひばりさんは何時も必死でした。

昭和63年4月12日でのインタビュー
今まで命として思って歌ってきた大好きな歌を歌えなくなってしまうのかと思って恐ろしかったです。
何時自分が立ち直れるのかと毎日悩んでいました。
自分の歌でも掛ける気になれなかった。
先生と話すうちに光が見えてきて、今度歌いだすのは何時だろうと考え出すと、自分が大事にしてきたことをこんなにお休みしていることが勿体なくなってきて一日も早く歌いたと思いました。
一番つらかったのは友人が来てくれて会うと、言葉がでなくてベッドの上にいるひばりが見られる自分が情けなくて胸が痛みました。
昭和23年がデビュー、40年たちました。

私の中に青春があったのかなあと考えるときがありますが、私が歌ってきたことが自分の青春だったのかなとこの頃解説できます。
母の力で防波堤に成ってもらったりしてここまで作り上げてもらえたのかなあと思います。
のんびり構えて居てもいいんですが、なにかがひばりを歌わせようとせかすんですね。
歌に対する執念ですかね。
カラオケにも行きますが他人の歌です。
自分の歌を歌うと仕事をしているみたいに成ってしまいます。
酒を飲むのは雰囲気に酔って飲んでいました。(大勢で)
田中角栄さんに歌を披露したことがありますが、批評していただいて、1番は良いが2番は良くない、3番はいいとおっしゃいました。
作詞家は歌は2番がどうしてもおとしてしまう傾向にある。

プロは出だしで失敗しても最後に取り戻そうとしますが素人にはできないと思います。
自分がこういう歌を歌いたいと自分から言ったことはないが、色々持ってこられると厭とはいえない、必ずやってみようと思います。
それが全部私の大好きな演歌にプラスに成って来ます。
古賀先生は私にとっても宝物で「悲しい酒」と言う名曲を残していただいて、いまだに「悲しい酒」を歌っています。
マンネリと思う時もありますが、「悲しき口笛」「りんご追分」などを避けて構成すると却ってファンの方々がさびしがります。
慎重派ではありますが、わがままで完璧主義者で母がいる間は私の代わりに鬼婆となってカバーしてやってくれていました。
自分が敵も作らず良い子になろうと考え出したら、美空ひばりは良い仕事はできないと思います。

美空ひばりの怖さはどういう所にあるんでしょうか?
会うととっても違いますねとおっしゃるんです。
山川:大スターと云うのは必ず何かを持ってるし、大勢の人を魅了する力を持っている、その目に見えない力に圧倒されて、必要以上に書きたてるもしますし、だからかもしれません。
4月11日東京ドームのコンサート 活躍する時期が早すぎると思うが。
親しい人からもテープでやるのと言われたりするが、生で歌っているのにテープと思われるのがかなわないので、命がけでやるのでそういうことをちらっとでも思われては困るので、スタッフに申し入れました。

「私の歩いた道」 美空ひばりの詩
9歳のころから母と二人で芸能界に漕ぎ出した。
その時から私は歌うほかには誰にも心の窓を開かなかった。
好きな歌を歌うことだけが、そんな私の生き甲斐だった。
キューピットではないけれど、みんなに幸せあげたいの。
これがそのころ私が作ったロマンチックなキューピット。
しかし本当に多くの人に幸せを与えることが出来たのかしらと私はいつでも
心の中で思っている。
私の歌をだれよりも理解してくれたのが母だった。
命を掛けて守ってくれたのも母だった。
その母も遠いところへ旅だっていった。
それでも私は歌い続けた。

歌は母が命をかけて残してくれた何物にも代えがたい遺産だから。
こんな私を置き去りにして弟たちも遠いところへ旅立っていった。
それでも歌を歌い続けた。
私っていったいなんだろう。
涙を忘れてしまったのかしら。
暗い部屋に一人ぼっちになってしまった私。
心の窓をちょっぴり開いてそっと外を眺めてみよう。
色んなことも体に感じさせてみたい。
私だって人間だもの、寂しい時だってある、悲しくって大声で叫びたい時もある。
しかし、それは私には許されない。
何故って、私はひばりだから。
いつも私は一人ぼっち。

たとえ自分を傷つけたって、笑顔で元気なひばりでいなくちゃいけない。
そのたびに心の窓を閉めてしまう私。
人は優しく言ってくれる。
ひばりちゃんゆっくり休養してくださいって。
でもこんな温かい言葉にじっとしていられない私が体の中には棲んでいる。
それは私の身体の中で今も生き続けている母。
私の心の中で今も燃えている母の執念。
そして天のどこかで私の人生に悔いのないようにと祈っていてくれる母の声。
母は私と一緒に生き返り、私と一緒に燃えている。
今度こそ心の窓を思いっきり開いてみよう。
そして広い世界を見つめてみよう。
歌の星は何時でもそっとこんな私を守ってくれるでしょう。
命よ、命を有難う、私の歌よ有難う、ファンのみなさん有難う。
(涙ぐんでいました)

録音が昭和63年2月26日 その1年4カ月後には亡くなってしまう。

























2017年5月26日金曜日

髙木聖雨(書家)         ・父に反発、でも同じ道

髙木聖雨(書家)  ・父に反発、でも同じ道
3月に28年度の日本芸術院賞恩賜賞を受賞しました。
父親は岡山県の高木聖鶴さん、かなの書家で平成25年に文化勲章受賞し、日展の顧問でもありました。
今年2月93歳で亡くなりました。
家庭的ではなかった父に反発して、書家にだけはならないと心に決めて会社員を目指していました。
しかし大学受験に失敗、ふと書に掛けてみようと言う思いが湧きあがって、書の道にすすむ人が多い大東文化大学に入学、青山 杉雨(あおやま さんう)さんに師事しました。
大学卒業後は、都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授として多くの若者を指導したり、自らの作品作りをしたりしています。

日本芸術院賞恩賜賞を受賞したことは大変な喜びでした。
作品に対してはこれが最後の賞なのでこんな喜びはないです。
67歳ですが、80,90歳になるまで書道の世界のために働きなさいよと言う激励の賞でもあると思います。
父親が芸術院賞を受賞した時には意識がなくて、耳元で受賞してきたことを報告しました。
天井を紙に見立てて意識のないまま手をあげて天井に字を書いて居るしぐさを、亡くなる4、5日前やっていました。
父は会社員だったが20歳のころから書道が好きで、書の道を選んだと聞いています。
本格的に始めたのは40歳の後半で、会社を辞めて書道の道一本に絞ったようです。
書壇で頑張るには2足のわらじは難しいのでけじめをつけたんだと思います。

岡山県 昭和24年生まれ。
一人っ子で、普通の子でした。
父が書道塾を開いていて、近所の子と1~2年やりました。
野球が好きだったので中学の時に野球部に入りましたが、親に知られて親の介入があり退部届が出て居て、悔しくてより反発する時期でもありました。
父親は会社から帰って、6時ごろから自分の部屋に入って夜中の2時頃まで字を書いていて一切顔を見せなかったので親子の対話は高校時代までなかったです。
1日に10時間ぐらい字を書いていました。
当時は何処へも父親には連れて行ってもらうことはありませんでした。
父親に対しての反発は強かったです。
高校時代はサラリーマンに成りたいと思って勉強したんですが、大学はどこにも入れず1年間浪人しました。
浪人のときはパチンコ、マージャンをやったりしていまして、危機感を持って、あるきっかけで書道をやろうと決めて、父親に言ったら拒否されて、「書道でもやろうか」というが「でも」が良くないと言われて、本当にやるのなら「でも」を撤回しなさいと言われました。

父から「やるんだったらどうぞ、一切手助けはしない」と言われました。
書道で有名な大東文化大学に入学しました。
書道を徹底的にやろうと決意しました。
全くゼロから始めるので周りの人たちに追いつくのには、千倍も努力しないと追いつけないという気持ちも持ちましたし、書道に関する言葉も判らず初めて父親に聞きました。
大東文化大学の書道部だけで400人ぐらいいました。
仲間がたくさんいると言うことが、頑張れる導引になったと思います。
入ってすぐに青山 杉雨(あおやま さんう)先生に師事しました。
手あかが付いていない状態だったので、先生に言われたことはすぐ実行できる立場にあったので、書道をやっていなくて逆によかったと言うのが実感です。
父の事は先生には黙っていましたが、2年間休まず励んだので父も本気でやりそうだと感じて、父が先生にお会いして初めて挨拶しました。

漢字を始めて漢字をマスターした後でかなに転向する人がほとんどで、漢字の書けないかな作家はかな作家ではないと言われている。
父親がかな作家だからいずれ岡山に帰ってかな作家をやるんだろうと先生は思っていたようですが、かな作家をやるつもりはありません、一生先生の元で漢字作家をやりますと言ったときに、先生の眼の色が変わって、本気で鍛えてやろうと思ったんだと思います。
大学4年間で先生に名前を覚えてもらえない人が結構いるほど生徒もたくさんいました。
青山先生の授業は3年にならないと受けられなくて、1週間にひとこま習うだけで、それだけで上手くなるはずはなくて、人の何倍もやらなくてはいけない。
4年生までで100人以上青山先生には弟子がいまして、熱心に指導していただきました。
父はかなの世界、私は漢字の世界に入ってゆくわけですが、「富士山を表から昇っても裏から昇っても頂上では一緒になれるから、お互いが違った道でも頑張ればいいんだ」と父の文章に書いてあって、なるほどなと思い立派な考え方だと思いました。

親子展は35年ぐらい前に岡山でやりましたが、親子という関係は表に出さずにやりました。(1回のみでした)
朝日20人展で20人選んでもらう訳ですが、それが2回目の親子の共演だったかもしれません。(4作品ずつ出展)
相当親に反発して親に迷惑かけたりして、母親をいじめてしまったこともありますが、今はよく頑張ってくれたと母は思ってくれていると思います。
日本芸術院賞恩賜賞を受賞出来たのは両親のお陰だと思います。
都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授となりました。
書道の世界としては順調に来たように思います。

書道人口はかなり減っています。
書というものに対して理解を一般国民に知らしめて居ないと言うことがあると思います。
毛筆を1年生からやらせるようにと言うことが、文科省の方針で許可された様で書道の盛んなところに持っていける一つの要因になると思います。
日本の書道文化をユネスコの世界向け文化財に登録しようと言う運動をやっていて、登録されれば書道に目を向けてくれる人が多くなると言うこともあると思うので僕のライフワークとして一生懸命やらないといけないと思っていますが、非常に将来を心配しています。
90歳の人も頑張ってやっているので、その年代に成るまで自分の技術を高め精神性も高めていい書を書きたいと思っています。
技術は自分で努力しないといけないものなので、相当根性が坐っていないとだめだと思います。
父は書道が大好きだった人なので、尊敬しています。
書道の世界での戦友のような気持が、父が亡くなった時に涙を流させた様に思います。
10時間も書を書いて努力をしていた親の背中を見せてもらって、本当に感謝しないといけないと思っています。










































2017年5月25日木曜日

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは
今年は大政奉還からちょうど 150年、立役者である坂本龍馬の名が広く知られるようになるきっかけになったのは、1962年に新聞連載が始まった司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」です。
窪内さん84歳は新聞社の後輩として司馬遼太郎と出会い、編集者として 4年1300回をこえる連載を支え、担当を外れた後も司馬遼太郎と交流を続けました。
龍馬の故郷,高知で暮らす窪内さんに今なお読み継がれる作品の執筆の舞台裏や歴史を学ぶ意味について伺いました。

産経新聞の大阪本社、昭和30年入社、社会部に配属、デスクに呼ばれ天王山についての解説を15行で書くようにいわれ、「あのおっさんのところに行って聞いてこい」と言われて、文化部の福田さん(司馬遼太郎)だった。
天王山に関して30分福田さんが話してくれました。
今後歴史的な事にぶつかると、辞書代わりに聞きに行ったらいいなあと思いました。
昭和35年1月21日、NHKのニュースを見ていたら、芥川賞、直木賞のニュースをやっていて直木賞梟の城司馬遼太郎、経歴紹介があり、本名福田定一、産経新聞大阪本社文化部部長と言う紹介があり飛び起きました。
福田さんが小説を書いていることを知りませんでした。
私は2月1日付けで北陸の福井支局に転勤になりました。
知り合いがいっぱいいるから会うように言われて、道元禅師、柴田勝家、お市の方、松平慶永(春嶽)など31人ぐらい名前を挙げて福井は歴史の宝庫だからといわれました。

昭和37年6月から「竜馬がゆく」が始まる。
支社で私だけがはしゃぎまわっていました。
坂本竜馬の知名度は少なかった。
昭和28年の初め頃、支局に新聞の購読の申し込みがどんどんかかってくる。
理由は「竜馬がゆく」が読みたいからということだった。
昭和40年2月1日付けで大阪本社文化部への転勤を命じられた。
社会部から文化部への転勤は後方部隊のような感じを抱いたが、「竜馬がゆく」を担当するように言われて、がっかりしていたのが吹っ飛びました。
一番頭にあったのは長編にしたいとのことで、維新に関することを古書店に頼んだら3000冊だった。
そこで坂本竜馬のことを書こうと思ったとのことだった。
どうして略字なのかを聞いたら、歴史学者、歴史研究者でもない、竜馬の事実とは違う、フィクションでもあるので 僕の竜馬として活躍してもらいたいと思った、ということだった。

ハンガリーのスティーブン・トロク(24歳) 旧ソ連軍がハンガリーに侵入してて アメリカに亡命、そのあと京都に来て勉強して、司馬家にやってきて、僕は将来帰ってハンガリーの大統領に成るんだと喋ったそうです。
キャラクター作りにふっきれないところがあったそうで、トロク君の亡命と、竜馬の脱藩とがだぶってきて、暗い境遇にありながら将来大統領に成るというそのキャラクターを竜馬に植え付けてみたらどうだろうと云うヒントをそこで得たと言うことでした。
人柄などは半分以上はフィクションだと思います。
身分制度が厳しい時代に家老家のおたず様と竜馬が京都の茶屋で逢引をするというようなことは当然フィクションです。
ファクト(事実)とツルー(真実)で行くと、真実は「竜馬がゆく」に関して言えば、薩長同盟、大政奉還、船中八策でいえば、長編では読者がついてきてくれなければ無意味なものに成ってしまうので、読者をひきつけておかないといけない。
そうすると面白おかしく読者が逃げないようにしてフィクションで繋いでゆくしかない。

司馬さんが一番力を入れて書いた部分と云うのは、竜馬に言わせた心情、「こういう青年を神様がこの時代必要だと思って、地上に送り出してきて、いろいろ働かしたんだ」、と言うのはどうだと言っていました。
最終回の一月前ぐらいのことでした。
結末文に関しては訂正がなかった。
相当頭の中で練っていたのではないかと思う。

結末文
天に意志があるとしかこの若者の場合思えない。
天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時惜しげもなく天に召し返した。
この夜京の天は雨気が満ち、星がない、しかし時代は旋回している。
若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。

一番大事なのは誤植なしに載せることが大事で、違う漢字一字で意味が逆になるような大失態があるので、校正は20回読めと前任者から言われました。
司馬さんは文章の流れがいいので、見逃す可能性が多分にあるので、注意しないといけない。
私の担当期間中は司馬さんに対しては全くだぶりのミスなどは無かった。
司馬さんは陸軍の戦車隊の少尉で終戦前の3月前、栃木県の佐野に引き揚げてきて、米軍を迎え撃つ訓練をしていた。
軍の参謀が激励に来ていて、「戦車で対応するときに逃げて来る国民と出会ったらどうしますか?」と福田少尉が聞いた。
しばらく考えて参謀が「曳き殺して進め」といった。

こんなくだらない人間の指揮のもとに我々は戦争をしているのかとふっと湧いていた。
これまでの日本にはずっとましな人間がいて日本を作ってきたのではないか、もし戦争が終わってそういうのを書いてみようと思ったと言っていました。
70歳のときに文化勲章を頂き、その記者会見で「私の作品は22歳の自分への手紙です」、と言ったんです。
或る時かつての日本にはもっとましな人間がいて、いままで日本をつくってきたと思った、それが22歳だった。
「竜馬がゆく」から見習ってもらいたいのは、「万事観てみないとわからん」、という精神は全ての事に通じると思う。
殺害しようとして勝海舟との面会で、竜馬は話が終わった後、先生弟子にしてくださいと言っています。
戦後70年で転機を迎えており、竜馬の存在を自分の頭に置き換えて、読者が今後の生き方についていろいろ考える、自分にあてはめながら生き方を学べるのではないかと思う。