山村武彦(防災システム研究所・所長) ・命を救う防災を訴えて50年(H27.3.12放送)
2015年5月29日金曜日
2015年5月28日木曜日
遠藤美恵子(民宿経営) ・南三陸町で亡き娘と生きる(H27.3.10放送)
遠藤美恵子(民宿経営) ・南三陸町で亡き娘と生きる(H27.3.10放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/03/blog-post_10.htmlをご覧ください。
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2015年5月27日水曜日
岡本喜代子(日本助産師会・会長) ・安全で自然なお産を増やしたい(H27.2.15放送)
岡本喜代子(日本助産師会・会長) ・安全で自然なお産を増やしたい(H27.2.15放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/02/blog-post_15.htmlをご覧下さい。
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2015年5月26日火曜日
中野北溟(書家) ・ふるさとで書を続ける
中野北溟(書家) ・ふるさとで書を続ける
中野さんは北海道の焼尻島出身の91歳、今も札幌を中心に現役で活躍している書道家です。
今年の年賀切手の絵と文字切手でひつじという文字を書いている書家の10人のおひとりです。
旭川師範学校を卒業して、小学校の教師になりました。
教師をしながら独学で書道を続けている中野さんを見て、或る友人から書道の大家として知られる金子鷗亭に見てもらったらと、勧められて自分の書を送りました。
金子鷗亭に認められ教えを受けるようになりました。
金子鷗亭に東京に出て一緒にやらないかと誘われましたが、それを断り北海道で仕事をすることに拘って製作活動を続けています。
筆の数も100本ぐらいある。
空海は「筆を選ばず」というが、それは間違いで、空海ぐらい筆を工夫した人はいない。
100枚ぐらい書く事もあるし、気が燃えたつという事、この部屋は気を高ぶらせる部屋だと思っている。
ゆったりした表現、厳しい、烈しい、静かな表現、表現もいろいろあるので、自分で生きている生きざまの中から、生まれてくるようなものを作りたいと思っている。
2000年に交通事故をやって、10m飛ばされて、3カ月入院した。
頭から落ちなくてよかったと思う。(鎖骨、肋骨、大たい骨を折って、肺座礁、足の靱帯を損ねて、他にも負傷した)
若い時にテニス(国体に2度出場)や運動をやっていて運動神経が良かったのが、良かったと思う。
師範学校の書道の先生が良かった。
筆の動きが大切、どう動くかが大切、呼吸が大事。
「北溟」は北の海と言う意味です。
或る人から金子鷗亭に送ってみたらと言われて、送ったら絶賛された。
金子鷗亭先生から「北溟」と号せよとの連絡がきた。
ひつじは気が優しくておおらかなところがあるので、ゆったりとした気分で字を書きたいと、ふくよかな感じに書きたいと思って書かして貰った。
母親が将来医者にしたいと言っていたが、島の先生がたが皆いい先生だったので学校の先生になりたかった。
家の壁に字を書いたり、絵を書いたり、よく落書きをするのが好きだった。
軍隊から帰って来てから、又師範学校に入りなおして、物理の勉強をした。
書道は学校で習う以外は、特別に習う事はなかった。
稚内の中学に赴任してから、展覧会に出してみないかと言われて、落選したらもう書は辞めよう入選したら書を続けようと思った。
旭川に来てから、理科を教えながら書道も教えていて、札幌に移動して国語を教えるようにと言われたが出来ないと答えたが、書道は引き続き教えるようにした。
55歳で教職を退く事になるが、その間、書家として東京に出ないかと言われたが、北海道で自分の思う様にやりたかった。(60歳で定年だが、早期退職をした)
金子先生から、再三一緒に東京に行くようにと言われたが、勘弁してくれと先生にお話しした。
春の海はゆったりとしている、夏の海は澄み切って綺麗、秋の海はどんよりとして濁ってうごめいている、冬の海は怒涛逆巻く様な、四季の変化が人間の気持ちを動かす。
風の音、波の音、光、こういうものが人の気持ちを高揚させる。
流氷の詩 を書いたが、流氷の時期になると、巨大な感じがする、北海道は人の心を揺さぶるものが有る。
細い線も単なる優しさではだめで、その背後にある優しさで違うものが背後にあり、それが一つになって昇華されて、なんか優しさを表現する、そうだと思います。
生徒に教えていて、おっ、これは自分にないものが有るなと、こういう事は大事だと思う、触発されることはある。
絵、書の展覧会は良く見に行くが、自分を目覚めさせる、掘り起こす、そういう風になる。
感じて、その良さを別のものとして、自分のものにして行きたい。
中野さんは北海道の焼尻島出身の91歳、今も札幌を中心に現役で活躍している書道家です。
今年の年賀切手の絵と文字切手でひつじという文字を書いている書家の10人のおひとりです。
旭川師範学校を卒業して、小学校の教師になりました。
教師をしながら独学で書道を続けている中野さんを見て、或る友人から書道の大家として知られる金子鷗亭に見てもらったらと、勧められて自分の書を送りました。
金子鷗亭に認められ教えを受けるようになりました。
金子鷗亭に東京に出て一緒にやらないかと誘われましたが、それを断り北海道で仕事をすることに拘って製作活動を続けています。
筆の数も100本ぐらいある。
空海は「筆を選ばず」というが、それは間違いで、空海ぐらい筆を工夫した人はいない。
100枚ぐらい書く事もあるし、気が燃えたつという事、この部屋は気を高ぶらせる部屋だと思っている。
ゆったりした表現、厳しい、烈しい、静かな表現、表現もいろいろあるので、自分で生きている生きざまの中から、生まれてくるようなものを作りたいと思っている。
2000年に交通事故をやって、10m飛ばされて、3カ月入院した。
頭から落ちなくてよかったと思う。(鎖骨、肋骨、大たい骨を折って、肺座礁、足の靱帯を損ねて、他にも負傷した)
若い時にテニス(国体に2度出場)や運動をやっていて運動神経が良かったのが、良かったと思う。
師範学校の書道の先生が良かった。
筆の動きが大切、どう動くかが大切、呼吸が大事。
「北溟」は北の海と言う意味です。
或る人から金子鷗亭に送ってみたらと言われて、送ったら絶賛された。
金子鷗亭先生から「北溟」と号せよとの連絡がきた。
ひつじは気が優しくておおらかなところがあるので、ゆったりとした気分で字を書きたいと、ふくよかな感じに書きたいと思って書かして貰った。
母親が将来医者にしたいと言っていたが、島の先生がたが皆いい先生だったので学校の先生になりたかった。
家の壁に字を書いたり、絵を書いたり、よく落書きをするのが好きだった。
軍隊から帰って来てから、又師範学校に入りなおして、物理の勉強をした。
書道は学校で習う以外は、特別に習う事はなかった。
稚内の中学に赴任してから、展覧会に出してみないかと言われて、落選したらもう書は辞めよう入選したら書を続けようと思った。
旭川に来てから、理科を教えながら書道も教えていて、札幌に移動して国語を教えるようにと言われたが出来ないと答えたが、書道は引き続き教えるようにした。
55歳で教職を退く事になるが、その間、書家として東京に出ないかと言われたが、北海道で自分の思う様にやりたかった。(60歳で定年だが、早期退職をした)
金子先生から、再三一緒に東京に行くようにと言われたが、勘弁してくれと先生にお話しした。
春の海はゆったりとしている、夏の海は澄み切って綺麗、秋の海はどんよりとして濁ってうごめいている、冬の海は怒涛逆巻く様な、四季の変化が人間の気持ちを動かす。
風の音、波の音、光、こういうものが人の気持ちを高揚させる。
流氷の詩 を書いたが、流氷の時期になると、巨大な感じがする、北海道は人の心を揺さぶるものが有る。
細い線も単なる優しさではだめで、その背後にある優しさで違うものが背後にあり、それが一つになって昇華されて、なんか優しさを表現する、そうだと思います。
生徒に教えていて、おっ、これは自分にないものが有るなと、こういう事は大事だと思う、触発されることはある。
絵、書の展覧会は良く見に行くが、自分を目覚めさせる、掘り起こす、そういう風になる。
感じて、その良さを別のものとして、自分のものにして行きたい。
2015年5月24日日曜日
河原郁夫(星空案内人) ・星を語って60年
河原郁夫(星空案内人) ・星を語って60年
84歳 10歳の時に初めて見たプラネタリウムに感動し、解説者になりました。
東京渋谷にあった天文博物館五島プラネタリウム、神奈川県立青少年センターを経て、現在は川崎市にある「かわさき宙と緑の科学館」で星空解説を行っています。
河原さんは生で伝える事にこだわってきました。
毎回録音して、聞き直して反省点を次に生かすと言う事は、この60年一度も欠かしたことはありません。
年配の方の場合には癒しを求めてくるのでBGMを多く流しながら、星空と綺麗な音楽とでリラックスしてもらいます、子供には宇宙人とか、アンパンマンなどの話をそえて行います。
生で無いと相手の方の雰囲気が判らない、雰囲気を感じてそれに対応するように臨機応変に変えています。
一回の解説、45分間 一人でしゃべって、BGMをかけて機械の操作もします。
小学校4年、1940年の時に有楽町にあった東日天文館が有り、父に連れていってもらって、それが病みつきになった(75年前)
星も綺麗だったが、音楽が良かった。 子供の入館料25銭
多い時は月に2~3回出掛けた。
戦争中では灯火管制が有り星がよく見えて、手製の望遠鏡を作って、物干し台から星の観察を行った。
望遠鏡を作ったのは10台ぐらいある。
昭和20年4月15日に大森蒲田の大空襲が有り、自宅が焼けてしまって祖父母がいた横須賀に行く事になる。
昭和20年5月には東日天文館が焼けてしまう。
昭和21年に望遠鏡を作って、毎朝晴れると太陽の黒点観測を始めた。(ずーっと今でもやっている)
17年周期で黒点が増減する、今は増えている。
恩師である水野良平先生が東京物理学校から東京天文台(現在の国立天文台)に行ったので、先生の跡を追って、東京理科大学に進んで、4年の時に東京天文台に太陽物理部があってそこで1年間研究をさせてもらった。
渋谷の五島プラネタリウムができて、水野先生がそこの長になっていて、ここに来ないかと言われて行く事にした。
解説員の訓練をうけたが、東京生まれなので「ひ」と「し」をうまく言えなかった。
プラネタリウム弁士が当時、大坂5人 東京で5人 日本では10人しかいなかった。
神奈川県立青少年センターでプラネタリウムの解説を32,3年やって、定年になり「かわさき宙と緑の科学館」に呼ばれて、星空案内人として解説を58年やっている。
毎回録音して、家に帰って聞き直して、毎回聞いて、この半世紀反省ばかりです。
しゃべり方を気を付けようとゆっくりしゃべったり、お客さんの反応が判るので、ここがいけなかったとか、次のための材料にしています。
時間を費やしてしまいますが、妻はどうしようもないと思っていると思います。
50年近く日曜日に行くので、娘は動物園などには行けなかった。
投影の機械で一番変わったことは、スイッチの数です、最初30個だったが現在は100個近くあります。(まちがって操作する事もある)
最近は自分の好きな曲を5~8曲選んで、やっています。
星と音楽の郷 皆さんに感じてもらいたいと思ってやっている。
席が200席あるがほぼ満員になることが多い。
プラネタリウムで星が好きになって、自分で本当に星を見てみようと思っていただければありがたいと思っている。
空に光っている星は年年歳歳花のように季節によって違ってくる。
牽牛、ひこぼし 17年掛かる。 おり姫 25年掛かる。
織姫と彦星が電話をかけると声が届くまで15年掛かる。 宇宙は大きい、夢とロマンがある。
今は空が明るいので、山に行かないとたくさん星を見れない。
普通の星で、星の一生は100億年ぐらい、人間の一生はほんの一瞬。
オリオン座が一番好きです、つづみ星とも言われる。
金星、6月ごろまで日没後西の地平線上に、高さ30度に明るい星が見える。
(宵の明星、明けの明星)
20年後に関東地方で素晴らしい皆既日食が見える。
2035年9月2日10時5分ぐらいに、糸魚川と水戸を結ぶ線上の付近で見られる。
星を見ているとパワーを貰える。
解説をやっていて、間が取れるのが良くなったと思う。
日本全国に300か所あるが、生の解説をやっているところは数か所だと思う。
84歳 10歳の時に初めて見たプラネタリウムに感動し、解説者になりました。
東京渋谷にあった天文博物館五島プラネタリウム、神奈川県立青少年センターを経て、現在は川崎市にある「かわさき宙と緑の科学館」で星空解説を行っています。
河原さんは生で伝える事にこだわってきました。
毎回録音して、聞き直して反省点を次に生かすと言う事は、この60年一度も欠かしたことはありません。
年配の方の場合には癒しを求めてくるのでBGMを多く流しながら、星空と綺麗な音楽とでリラックスしてもらいます、子供には宇宙人とか、アンパンマンなどの話をそえて行います。
生で無いと相手の方の雰囲気が判らない、雰囲気を感じてそれに対応するように臨機応変に変えています。
一回の解説、45分間 一人でしゃべって、BGMをかけて機械の操作もします。
小学校4年、1940年の時に有楽町にあった東日天文館が有り、父に連れていってもらって、それが病みつきになった(75年前)
星も綺麗だったが、音楽が良かった。 子供の入館料25銭
多い時は月に2~3回出掛けた。
戦争中では灯火管制が有り星がよく見えて、手製の望遠鏡を作って、物干し台から星の観察を行った。
望遠鏡を作ったのは10台ぐらいある。
昭和20年4月15日に大森蒲田の大空襲が有り、自宅が焼けてしまって祖父母がいた横須賀に行く事になる。
昭和20年5月には東日天文館が焼けてしまう。
昭和21年に望遠鏡を作って、毎朝晴れると太陽の黒点観測を始めた。(ずーっと今でもやっている)
17年周期で黒点が増減する、今は増えている。
恩師である水野良平先生が東京物理学校から東京天文台(現在の国立天文台)に行ったので、先生の跡を追って、東京理科大学に進んで、4年の時に東京天文台に太陽物理部があってそこで1年間研究をさせてもらった。
渋谷の五島プラネタリウムができて、水野先生がそこの長になっていて、ここに来ないかと言われて行く事にした。
解説員の訓練をうけたが、東京生まれなので「ひ」と「し」をうまく言えなかった。
プラネタリウム弁士が当時、大坂5人 東京で5人 日本では10人しかいなかった。
神奈川県立青少年センターでプラネタリウムの解説を32,3年やって、定年になり「かわさき宙と緑の科学館」に呼ばれて、星空案内人として解説を58年やっている。
毎回録音して、家に帰って聞き直して、毎回聞いて、この半世紀反省ばかりです。
しゃべり方を気を付けようとゆっくりしゃべったり、お客さんの反応が判るので、ここがいけなかったとか、次のための材料にしています。
時間を費やしてしまいますが、妻はどうしようもないと思っていると思います。
50年近く日曜日に行くので、娘は動物園などには行けなかった。
投影の機械で一番変わったことは、スイッチの数です、最初30個だったが現在は100個近くあります。(まちがって操作する事もある)
最近は自分の好きな曲を5~8曲選んで、やっています。
星と音楽の郷 皆さんに感じてもらいたいと思ってやっている。
席が200席あるがほぼ満員になることが多い。
プラネタリウムで星が好きになって、自分で本当に星を見てみようと思っていただければありがたいと思っている。
空に光っている星は年年歳歳花のように季節によって違ってくる。
牽牛、ひこぼし 17年掛かる。 おり姫 25年掛かる。
織姫と彦星が電話をかけると声が届くまで15年掛かる。 宇宙は大きい、夢とロマンがある。
今は空が明るいので、山に行かないとたくさん星を見れない。
普通の星で、星の一生は100億年ぐらい、人間の一生はほんの一瞬。
オリオン座が一番好きです、つづみ星とも言われる。
金星、6月ごろまで日没後西の地平線上に、高さ30度に明るい星が見える。
(宵の明星、明けの明星)
20年後に関東地方で素晴らしい皆既日食が見える。
2035年9月2日10時5分ぐらいに、糸魚川と水戸を結ぶ線上の付近で見られる。
星を見ているとパワーを貰える。
解説をやっていて、間が取れるのが良くなったと思う。
日本全国に300か所あるが、生の解説をやっているところは数か所だと思う。
2015年5月22日金曜日
長谷川健一(酪農家) ・我が”飯舘村”を語り継ぐ
長谷川健一(酪農家) ・我が”飯舘村”を語り継ぐ
61歳 仮設住宅で避難生活を続けています、
震災まえは牛50頭を飼い、4世代8人の大家族で暮らしていました。
原発事故で家族はばらばらとなり、今は妻のはな子さんと両親の4人で暮らしています。
事故の記憶を風化させたくないと、全国を回って自らの体験を語り継ぐ活動を行っています。
本来5月下旬は牧草を刈り取る作業が有り一番忙しい時期になります。
一番自分でも困るなあと思う事は牛を忘れてゆく事、酪農をやっていたことを忘れない様に思っているが、忘れてゆく事が恐い。
地震の時は畑が波のように揺れて、あわてて家に帰ったが、牛が叫び声をあげていた。
飯館村は地震、津波の被害はなかった。
浜通りの人、浪江町等の津波の被害の人々が避難してきて、炊き出しなどして対応していた。
3月11日から停電になってしまっていて情報が伝わらなかった。
原発事故で大丈夫ではないと判ったのが、3月14日だった。
3月15日説明会をするため皆が集まったが、その日は雨でその後雪になってしまったが、その日が実は一番放射能が高い時だった。
子供は絶対に外へ出すな、肌を露出するな、必ずマスクする、玄関先で服を脱ぐ様に、、風呂に入って体を綺麗に洗う様に、外の野菜などは食わないように、いろいろと指示を出した。
飯館村の酪農家は駄目になるなと、直感した。
新しい子牛の牛舎が出来たのが前年(2010年)の12月だった。
息子も牛のコンテストのチャンピオンになったりして、それも励みになっていた。
牛を処分する順番を決めるのが、切ない思いが有った。
牛には番号が付けてあり、年老いた牛、おなかに子供が入っていない牛、等から処分を決めざるを得なかった。
しかし、良い牛が生きられる保証はなかった。
息子が一人で最後だからと言って、新しいロープを牛のために作っていたが私もぐーっとくるところが有った。
牛は放射能で汚染している可能性があると言う事で牛は移動しては駄目ですよ、人間は早く避難して下さいと言われて、牛は餓死させるよりは処分する方を選ぶ結果になったんです。
殺す方法以外に何か方法はないかと、牛乳のモニタリングをやろうとして、3回やって3回目には放射能は検出限界以下であることが判った。
5月20日に県にも言ったり、国会議員にも言って、牛を生かしてくださいと言って、、25日には飯館村の牛は移動してもいいですよと言う事になった。
飯館村の牛は全部で300頭ぐらいの内、60頭が処分されたが、残りは助かって、一つのエリアに集めることになった。
相馬市の酪農家で私の友人が自殺してしまった。
言葉が出なかった。
原発さえなければ、と言う書き置きを残して彼は逝ってしまった。
原発事故からのいろいろな出来事、友人の自殺などから、このようなことを二度と繰り返してもらいたくないとの思いが有り、語り継いでいかなければだめだろうと言う事で、11年7月5日早稲田大学で第一回を始めました。
写真、映像などで撮り続けることが大事だと思って、避難の実態、除染の実態、会議のやり取りなど撮り続けています。
屋根の瓦、壁をペーパータオルで一枚一枚拭いているが、こんな作業で放射能は取れるのかなと思うし、農地の表面の土を5cm取り除き、其部分に汚染されていない土を5cm盛って線量は下がったと言いますが、それから半年ぐらいすると段々線量が上がってくる、当初の線量までは上がらないが。
福島県伊達市に現在仮設住宅に住んでいます。
ここが一番良かった、大きな病院、大きなスーパーが近くに在り、仮設住宅の周りに既存の住宅が有る事、それによって老人の交流が生まれる。
小さな空き地を使って、皆で畑で野菜などを作っていて、物々交換みたいなことをやっているが、これは非常によかったと思っている。
長男は原発事故で酪農家を辞めざるを得なかった5人の仲間と一緒に法人組織を作って、福島県最大規模の牧場をやろうと言う事で始めました。
次男はアパートで会社員として一人ぐらしをしています。
故郷をうばわれる、故郷に戻れない、自分の家も土地もそのままの状況で段々朽ち果てていく、こんなつらいことはないと思います。
放射能は全てのものを汚してしまう。
セシウム137が無くなるまで300年掛かると言われているが、私の孫、ひ孫でも取れないので、何代にもわたっても元の生活を取り戻せないことが非常に大変なことです。
避難解除になった時にどうするか、子供たちは戻らない、賠償は打ち切られる、我々はどうするのか、なんで食べてゆくのか、飯館村には3500ヘクタールの農地が有るが、其れをどうしてゆくのか、別のストレスがたまってきている。
もう同じ福島を作らないでほしい、我々のような思いはもう沢山だ、その一言に尽きる。
原発災害は全てのもの(人の身体、家族、村等)を壊してしまう。
地震、津波などは壊されても元に戻そうと皆がたちあがって頑張ろうと纏まってくるが、放射能災害はばらばらになってゆく。
61歳 仮設住宅で避難生活を続けています、
震災まえは牛50頭を飼い、4世代8人の大家族で暮らしていました。
原発事故で家族はばらばらとなり、今は妻のはな子さんと両親の4人で暮らしています。
事故の記憶を風化させたくないと、全国を回って自らの体験を語り継ぐ活動を行っています。
本来5月下旬は牧草を刈り取る作業が有り一番忙しい時期になります。
一番自分でも困るなあと思う事は牛を忘れてゆく事、酪農をやっていたことを忘れない様に思っているが、忘れてゆく事が恐い。
地震の時は畑が波のように揺れて、あわてて家に帰ったが、牛が叫び声をあげていた。
飯館村は地震、津波の被害はなかった。
浜通りの人、浪江町等の津波の被害の人々が避難してきて、炊き出しなどして対応していた。
3月11日から停電になってしまっていて情報が伝わらなかった。
原発事故で大丈夫ではないと判ったのが、3月14日だった。
3月15日説明会をするため皆が集まったが、その日は雨でその後雪になってしまったが、その日が実は一番放射能が高い時だった。
子供は絶対に外へ出すな、肌を露出するな、必ずマスクする、玄関先で服を脱ぐ様に、、風呂に入って体を綺麗に洗う様に、外の野菜などは食わないように、いろいろと指示を出した。
飯館村の酪農家は駄目になるなと、直感した。
新しい子牛の牛舎が出来たのが前年(2010年)の12月だった。
息子も牛のコンテストのチャンピオンになったりして、それも励みになっていた。
牛を処分する順番を決めるのが、切ない思いが有った。
牛には番号が付けてあり、年老いた牛、おなかに子供が入っていない牛、等から処分を決めざるを得なかった。
しかし、良い牛が生きられる保証はなかった。
息子が一人で最後だからと言って、新しいロープを牛のために作っていたが私もぐーっとくるところが有った。
牛は放射能で汚染している可能性があると言う事で牛は移動しては駄目ですよ、人間は早く避難して下さいと言われて、牛は餓死させるよりは処分する方を選ぶ結果になったんです。
殺す方法以外に何か方法はないかと、牛乳のモニタリングをやろうとして、3回やって3回目には放射能は検出限界以下であることが判った。
5月20日に県にも言ったり、国会議員にも言って、牛を生かしてくださいと言って、、25日には飯館村の牛は移動してもいいですよと言う事になった。
飯館村の牛は全部で300頭ぐらいの内、60頭が処分されたが、残りは助かって、一つのエリアに集めることになった。
相馬市の酪農家で私の友人が自殺してしまった。
言葉が出なかった。
原発さえなければ、と言う書き置きを残して彼は逝ってしまった。
原発事故からのいろいろな出来事、友人の自殺などから、このようなことを二度と繰り返してもらいたくないとの思いが有り、語り継いでいかなければだめだろうと言う事で、11年7月5日早稲田大学で第一回を始めました。
写真、映像などで撮り続けることが大事だと思って、避難の実態、除染の実態、会議のやり取りなど撮り続けています。
屋根の瓦、壁をペーパータオルで一枚一枚拭いているが、こんな作業で放射能は取れるのかなと思うし、農地の表面の土を5cm取り除き、其部分に汚染されていない土を5cm盛って線量は下がったと言いますが、それから半年ぐらいすると段々線量が上がってくる、当初の線量までは上がらないが。
福島県伊達市に現在仮設住宅に住んでいます。
ここが一番良かった、大きな病院、大きなスーパーが近くに在り、仮設住宅の周りに既存の住宅が有る事、それによって老人の交流が生まれる。
小さな空き地を使って、皆で畑で野菜などを作っていて、物々交換みたいなことをやっているが、これは非常によかったと思っている。
長男は原発事故で酪農家を辞めざるを得なかった5人の仲間と一緒に法人組織を作って、福島県最大規模の牧場をやろうと言う事で始めました。
次男はアパートで会社員として一人ぐらしをしています。
故郷をうばわれる、故郷に戻れない、自分の家も土地もそのままの状況で段々朽ち果てていく、こんなつらいことはないと思います。
放射能は全てのものを汚してしまう。
セシウム137が無くなるまで300年掛かると言われているが、私の孫、ひ孫でも取れないので、何代にもわたっても元の生活を取り戻せないことが非常に大変なことです。
避難解除になった時にどうするか、子供たちは戻らない、賠償は打ち切られる、我々はどうするのか、なんで食べてゆくのか、飯館村には3500ヘクタールの農地が有るが、其れをどうしてゆくのか、別のストレスがたまってきている。
もう同じ福島を作らないでほしい、我々のような思いはもう沢山だ、その一言に尽きる。
原発災害は全てのもの(人の身体、家族、村等)を壊してしまう。
地震、津波などは壊されても元に戻そうと皆がたちあがって頑張ろうと纏まってくるが、放射能災害はばらばらになってゆく。
2015年5月20日水曜日
黒口縣市(さぬき市在住) ・94歳、元・整備兵が語る戦時体験
黒口縣市(さぬき市在住) ・94歳、元・整備兵が語る戦時体験
戦時中は整備兵として、搭乗員、機長を陰で支える 任務で木更津、サイパン、テニアン、ラバウルの間などをとびまわっていました。
今年は戦後70年、長く沈黙していた昭和18年12月27日の空輸作戦での不時着体験を語っていただきます。
最初は40人集まった戦友会も20年前には人が集まらなくなって、中止した。
機械いじりが好きで、戦車、飛行機か考えたが、飛行機関係の整備兵になった。
故障したものを直したり、維持してゆくためにいろいろ掃除、燃料補給、点検などを含めた仕事。
96式輸送機 輸送専門のセクションにいた。
両翼に4000L ドラムカン20本分ぐらいを供給する。
「大空の迷子」著書執筆
17年1月に海軍にはいって、2年後の出来ごと(昭和18年12月27日)
木更津からラバウルまで行く予定の飛行コースで、5機編隊の艦上爆撃機を運んでいく予定だった。
テニアン島経由でラバウルまで行く予定で有ったが、発見されない様に低空飛行で進んでいたが、天候が悪くて、飛行経験のない兵隊ばっかりで、一旦戻って来て、再び向かうが、雲の上では天候は良いが、発見される可能性がある。
運搬する飛行機は燃料容量が少なくて、燃料切れで落ちてしまった。
誘導の一番機と我々の飛行機がはぐれてしまった。
落ちてしまった飛行機を探すために海面近くを飛んだが、一番機が我々を確認出来なかった。
我々二番機はぐるぐる回っていたために方向が判らなくなってしまった。
夜になって、燃料が少なくなってきて、無線機も連絡が取れない状態になってしまっていた。
私は整備兵で何も言えない立場だったので、何も言えなかった。
島が見えたらその近くに降りようとしていたが、降りたところが八丈島の近くだった。
島のどの程度の位置に降りるかと言う事が問題だったが、良い位置に着水する事が出来た。
遠すぎても潮に流されるし、近過ぎてもトラブルが起きる可能性がある。
機長ほか艦上爆撃機運搬用整備員等14名が搭乗していた。
艦上爆撃機は落ちてしまったので、その搭乗員は亡くなってしまった。
八丈島の漁船に助けられる。
この事故については話す気にはならなかったが、戦争中のことを知っている人がいなくなっているから一遍話した方がいいと思って話すことにした。
我々二番機4人と、一番機4人に対して臭いものにはふたをしろ言う事で、木更津の輸送機隊から南方の司令部の輸送機隊に転勤したわけです。
19年5月 赤十字マークが入った船が台湾の高尾から佐世保への病人の最後の引き上げで、敵の潜水艦にやられない様に、対潜哨戒の仕事もあった。
やっぱり戦争は無い方がいいと言うのはつくづく感じます。
戦時中は整備兵として、搭乗員、機長を陰で支える 任務で木更津、サイパン、テニアン、ラバウルの間などをとびまわっていました。
今年は戦後70年、長く沈黙していた昭和18年12月27日の空輸作戦での不時着体験を語っていただきます。
最初は40人集まった戦友会も20年前には人が集まらなくなって、中止した。
機械いじりが好きで、戦車、飛行機か考えたが、飛行機関係の整備兵になった。
故障したものを直したり、維持してゆくためにいろいろ掃除、燃料補給、点検などを含めた仕事。
96式輸送機 輸送専門のセクションにいた。
両翼に4000L ドラムカン20本分ぐらいを供給する。
「大空の迷子」著書執筆
17年1月に海軍にはいって、2年後の出来ごと(昭和18年12月27日)
木更津からラバウルまで行く予定の飛行コースで、5機編隊の艦上爆撃機を運んでいく予定だった。
テニアン島経由でラバウルまで行く予定で有ったが、発見されない様に低空飛行で進んでいたが、天候が悪くて、飛行経験のない兵隊ばっかりで、一旦戻って来て、再び向かうが、雲の上では天候は良いが、発見される可能性がある。
運搬する飛行機は燃料容量が少なくて、燃料切れで落ちてしまった。
誘導の一番機と我々の飛行機がはぐれてしまった。
落ちてしまった飛行機を探すために海面近くを飛んだが、一番機が我々を確認出来なかった。
我々二番機はぐるぐる回っていたために方向が判らなくなってしまった。
夜になって、燃料が少なくなってきて、無線機も連絡が取れない状態になってしまっていた。
私は整備兵で何も言えない立場だったので、何も言えなかった。
島が見えたらその近くに降りようとしていたが、降りたところが八丈島の近くだった。
島のどの程度の位置に降りるかと言う事が問題だったが、良い位置に着水する事が出来た。
遠すぎても潮に流されるし、近過ぎてもトラブルが起きる可能性がある。
機長ほか艦上爆撃機運搬用整備員等14名が搭乗していた。
艦上爆撃機は落ちてしまったので、その搭乗員は亡くなってしまった。
八丈島の漁船に助けられる。
この事故については話す気にはならなかったが、戦争中のことを知っている人がいなくなっているから一遍話した方がいいと思って話すことにした。
我々二番機4人と、一番機4人に対して臭いものにはふたをしろ言う事で、木更津の輸送機隊から南方の司令部の輸送機隊に転勤したわけです。
19年5月 赤十字マークが入った船が台湾の高尾から佐世保への病人の最後の引き上げで、敵の潜水艦にやられない様に、対潜哨戒の仕事もあった。
やっぱり戦争は無い方がいいと言うのはつくづく感じます。
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