2013年12月3日火曜日

山崎 十三(漫画原作者)    ・72歳で映画監督への挑戦

山崎 十三(漫画原作者)    72歳で映画監督への挑戦
1979年から連載された漫画釣りバカ日誌の原作者として知られ、映画でも大ヒットしました
72歳になってご自身の原作、「朝、昼、晩」の映画監督としてデビューしました
内容は甲子園出場までもう一歩だった3人の元高校球児、朝本、昼川、晩藤の名前を取って「朝昼晩」をタイトルにしました
その3人の30年後の話で宮崎を舞台にひと騒動すると云う話です
もともと山崎さんは大学卒業後、助監督として仕事をしていましたが、労働争議が原因で映画会社を辞めていた頃、大学の頃の友人がに映画界で脚本等を書いていたのなら、漫画も書けるだろうと誘われて、漫画原作者に転身したと云う事です
助監督だったころは今回のような本格的な映画の仕事はしていなかったと云う事です
72歳で映画監督としてメガホンを取った漫画原作者、山崎さんに伺います

1982年に漫画賞を受賞 サラリーマンの国民的漫画と言われるようになった
映画は終わってしまったが、漫画は続いている
社長と浜ちゃんの知られない関係がとっても面白くてわくわくさせられた
釣りの世界では師匠と一人の初心者  他にも漫画の原作をやっている
「朝昼晩」 意外と女性ファンが面白いと云ってくれていてます
人情コメディーほのぼのとしている
当時の野球の監督の娘でマネージャーだった人が病気になった見舞いに行くところから始まる
いろんな楽しい話題が始まる
助監督は40年前なので、タイムラグはある 当時はフィルムだったので出来るだけ節約して余分なところがないようなやり方をやっていたので、つい癖が出て悪い意味でのタイムラグがあった
俳優、スタッフのおかげで、思いのこもった作品にできあがったと思う

喜劇をやってきたので、笑いをメインに撮ろうと思っていたが人情も泣きもたっぷりあるハートフルな作品に出来あがったと思います
宮崎弁で宮崎の人も多く出演してもらった 1300人エキストラとして来ていただいて感動した
私も中学から野球をやっていて、県大会で優勝して、乞われて大宮高校に行ったが、高校2年の時に腰を痛めてしまい、野球を辞めざるを得ず、挫折を味わった
映画の3人の場合は決勝で敗れると云う挫折を味わうが、似たような感じ
私の自伝的なことも含んで織り込んでいるつもりです
映画の出演者は板尾 創路、國村 隼、山寺 宏一 3人
本当の年齢とは差があるが、でもそこが面白い
3人組が宮崎の風景の中を旅するがその中で、かつての友情がよみがえって、監督とも対決してゆく中で、人生半ばで迷ったり、疲れたりしていた3人が、もう一度元気になって、もう一度やってやるかという事がテーマになっているので、3人のチームワークが復活して、見事に集合して鬼監督に立ち向かって行くようにしたかった  
元気になってゆく背景として故郷、風景が是非必要とした
西田敏行さんが元監督役 

昭和16年生まれ  小学校3年までは都城の更に田舎に住んでいた
ひもじい思いはしていた(終戦が4歳)  貧しい生活だったが笑いが絶えない家だった
宮崎県だけれども旧薩摩藩の影響を受けていた
高校は大宮高校 正月の3日とお盆の3日以外「」は野球一色だった
腰を痛めて野球から離れて、ショックだったし、受験が控えていて、肺浸潤で2カ月入院したりして、1年遅れてもいいと思ってのんびりとした
1浪して早稲田大学に入った 新しい映画に出会って、映画っていいなあと思った
演劇科に入る 当時映画はもう斜陽のときで、父からは猛反対された
卒業しても就職先が厳しくて大手映画会社は駄目で、助監督として、TV映画を製作しているところでやることになった
監督の補佐だが、昼になっても演技の下手な女優がいて時間が伸びてきて、演技指導を私がして一旦落着、その後その女優の先ほどの演技の電話内容をたまたま聞こえて、「助監ががたがたぬかしゃーがって」・・・   少しは尊敬してくれていたと思っていたが、愕然とした

朝から晩まで働いて、安いわけですし、やめても補充がきく
キーハンターの仕事が来て、組合の仕事で争議が発生した 監督の話も立ち消えになって、
3年後に和解するが、戻った人が半分、辞める人が半分 
自分もここで判断しようと辞め、収入が無くなるので、仲間3人でうどんを売って生活していた
大学の友人、武井氏が漫画の原作を書いてみないかと、声をかけてきてくれた
それから40年経ってから映画を撮る事になる
原作を始めたころは、映画を撮ることと、漫画の原作をやることと、二足のわらじはそんなに甘いものではないと言われた
自分の中では映画とは一切縁を切ったと、この話が来るまで思っていた
短編の話があり、短編をやったのでその流れの中で、今回の映画を引き受ける事になった

今は次の事を考える余裕はない  もし次と言う事であれば初夢として取っておきたい











































2013年12月2日月曜日

西村史(ふみ 主婦)       ・俳句に救われた息子と私

西村史(ふみ 主婦)     俳句に救われた息子と私
西村さんの息子さんは1kgに満たない未熟児として生れました
6年生になる今は身体は成長しましたが、入学当初はまだ身体は動かしずらく、何度となくいじめに遭い不登校を繰り返していました
そんな中家族の心を支えたのは息子さんが、幼稚園のころから始めた俳句で、大手新聞社の俳壇に度々入選し、著名な俳人たちから高く評価されています
俳号は息子さんが大好きだと云う小林一茶の名と、自分の名前から一字を取って、小林凜を名乗っています
今年の春には凜君の俳句やふみさんのエッセーなどをまとめた本が出版されまして、俳句関連では異例の5万部を発行するまでの反響をよびました
学校でのいじめや息子さんと俳句との出会い、親子を支えてくれたエピソード等様々な思いを語っていただきます

句集「ランドセル俳人の五・七・五」(ブックマン社) 息子の溜めてきた俳句を本にして残したかった
お便りカードがたくさん来ている
現在小学校6年生 7か月の早産 940gしかなかった 
医師からは命が助かるかどうか判らないので、3日間待ってくれと言われ集中治療室に3カ月いて退院したが、毎月の病院通いが続いた
今は私と同じ高さになった
俳句との出会いは、幼稚園のころに本を買い与えた本のなかに日本語大好きという本があって、そのなかに俳句のページがあり、俳句に出会った またNHKの番組にも影響された
自分の身の回りの事を5,7,5で表現するようになった

最初のころ
「お母さん 離れ離れは 大嫌い」   「鶯が 鳴いてメス呼ぶ ほーほけきょ」
あわてて書きとめた 次々に溢れるように言い始めた
5,7,5のリズムがぴったり来ていたようだ
幼稚園は楽しかったようだ  これこれができるようになりましたとの報告がもらえた
小学校に入学したとたんにいじめが始まった  
入学した1週間目に左顔面を強く打って腫れあがった
息子は後ろから押されたと云っていたが、担任の先生は一人でこけましたとの報告をしてきた
右腰に皮下出血をした時にも、息子は突き飛ばした子の名前をはっきりと言ったんですけれども
その子はガンとして認めなかった  

教室に入ろうとすると入れないようにされたりとか、足とか手を引っ掻いたとかが、日常的に有りました
祖母がいじめの現場を見た時があり、クラスの女の子から毎日いじめにあって泣いているいることを知らされた事がある
学校とも話はしたが、担任の先生に息子が訴えてもしてないと、否定して、相手の名前の事をいっても調べませんでした
偶然、私もいじめにあって逃げてゆく息子の姿を目撃した
職員室へ逃げて行って倒れ込んでいる息子に、担任の先生はしていない、していないと云って息子の手を引っ張り上げている光景を目撃しました
目撃されていることを知った先生は、違ってましたと平然と謝罪しました
先生とも話をしたが、学校側はうるさい親が来たと云うぐらにしか、思って取り合ってくれなかった
校長先生とも話をしたが、平行線だった  対応が信じられなかった

私も中学校の先生をやっていますが、その学校の対応は信じられなかった
不登校を決意した時期もあった  2年生の時、足を掴まれコンクリートに倒れ込んだり、身の危険を感じて秋から登校しないようにしました
5年生の時に上級生が階段で突き飛ばす事が4回あったが、上級生の担任に話すと証拠がないと取り合ってもらえなかった
息子は学校を止めると云いだした  学校には行かせないようにした 5年生の6月の事
休んでいる間は勉強しながら俳句をずーっと続けていました
自分の好きなことに没頭すると云う事が出来て、その中の一つが俳句です

学校を休むと云う事が気持ちの上では、大きなマイナスになるのではと言う心配があったが、自分の好きな事が出来て、生き生きしていました
俳句は家族で他の人間では作ったことがなかった  
新聞に小学校の3年の時に入選して、書店に行って俳句の入門書を購入して、息子と一緒に俳句の基本を学び始めました(季語とかなかったり、でたらめだったので)
NHKの通信講座にも入って、添削をしてもらった    毎回頂いて勉強しています
散歩しながら花、虫、空の雲、夕日、目に映る自然を読んだ句が多い
大手新聞社の俳壇で多く入選するようになる  最初が小学校3年生の時  12月
入選の知らせを私の母から受けて涙が止まらなかった
学校にも俳句を見せたが、俳句だけでは食べていけませんと、当時の学校長にあざわられて、私の代わりに俳句を持って行った母が、泣きながら学校から帰ってきたことを母から聞いた

「紅葉で 神が染めたる 天地かな」 「ブーメラン 帰らず蝶と なりにけり」
「万華鏡 小部屋にあがる 花火かな」

撰者の評価  NHKでの評価はみずみずしい と言うようなことが目に付く
大人の感じ方と違う感じ方をしているように感じる
小林一茶が大好きです 特に句の中では 「やせ蛙  負けるな一茶 これにあり」
「われときて 遊べやおやの ない雀」 など

いろんな動植物を観察する力、そこから心に受ける感受性、それを言葉にする表現力
観察力、感受性はこうして身につけたと云う事は無かった
ただ虫を捕まえてきてはじーっと観察していたりは随分やっていた
ファーブルというあだ名を付けた事がある
私が感じるのとは違うドキッとするような発想をすることが多かったので、俳句を作る様に誘った
ザクロの実が割れているのを見て 「実ザクロの 音たてて割れ 深呼吸」
表現力については読書の影響が強いと思います
字をおぼえるようになってからは、あらゆる本を読んでいました

本になったきっかけ 母が新聞で有る文章に感銘して、先生にお便りを出して、それかきっかけで便りのやり取りをするようになって、息子の俳句の事を伝えたら、絶賛してくれて、出版社を紹介して下さるようになった
凜の俳句を評価してくださった長谷川櫂先生、金子兜太先生
入選したことが励みになってその後も俳句を作っていくことができた
「小くうまれ 大きく育て 雲の峰」 という句を先生からいただきました
学校でも応援してくれる先生がいて、6年生になっても赤坂先生に受け持ってもらっています
英会話の先生 ショーン・ハート先生にも応援してもらっている(私は11年になる)
息子も一緒に行くようになって、先生からお話などを聞かしてもらっている

日本ではうまく挨拶できない子であったりすると、「すみません」と言ってしまうが
アメリカでは家の子は、こういうところがあるので理解してくださいと理解を求める、そして周りの人がその子を理解しようとする、理解することは大事なこと
息子の興味が俳句だったので、家族が一緒に俳句にどっぷり浸ってきた
息子と一緒に観察する事で私たちも一緒に癒されてきたと思う
最近の句
「柿赤葉 自ら光り エメラルド」 「ベレー帽 かぶりどんぐり 芸術家」
「冬のバラ たちむかうこと 恐れずに」

最近は自分の思いの内面を表現するようになってきたと感じる
「しじみ蝶 われの心の 中で舞え」
本を読んでいただいた方たちより、お便りを読ませていただいて、息子も前に進んでゆく励みになってます







































 

















 



2013年12月1日日曜日

角幡唯介(ノンフィクション作家)     ・前人未踏の探検を求めて

角幡唯介(ノンフィクション作家)  前人未踏の探検を求めて
19世紀半ばに北極で全滅した探検隊、イギリスフランクリン隊の功績を辿って1600kmの道のりを徒歩で旅した記録「アグルーカの行方」で今年度の講談社のノンフイクション賞を受賞しました。
37歳、大学探検部のOBで大手新聞社で記者として5年を過ごした後再び探検に身を投じました
2010年に出版したチベット、ヤル・ツアンポー川峡谷探検の記録「空白の5マイル」では開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞等を受賞しています。
角幡さんの探検は文明の利器を頼らずに、自らの技術と工夫で困難を克服するもので、そのようにして獲得した事をぎりぎりの体験を記録する事が、本当の意味での冒険が困難になった現代のノンフィクションに確かな命を吹き込んでいます。 

去年冬の北極圏に1カ月そりを引いて放浪見たいなことをやった。
気象条件が厳しくて、顔は凍症になった  吐いた息で凍って素肌を出して凍症になる事もある。
「アグルーカの行方」 イギリスフランクリン隊の足取りをたどった記録。
1600kmを100日をかけてそりで辿る。  -20度~-30度 (最高気温)
テーマが自然の中で探検、冒険をする時に、生、死とかのテーマに強い関心が行っていて、学生の時に世界最悪の旅のスコット隊長による南極探検の本があって、途中でバタバタ死んでゆくがそれを読んだ後、ショックを受けて、人間性が崩壊してしまっている様な、そこまでする事が怖かった。
それから10何年経って作家になって、生だとか、死だとかを表現したいと思って、ぱっと思い浮かんだのがその本だった(『世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊』)
次は極地に行ってみたいと思って北極に行った。

北極の歴史、資料を調べているうちに、フランクリン隊の事を知って、行ってきた。
129人全員が死んでしまったので、何があったのかは判らない。
アグルーカ(=大またで歩く男   生き残り)に関する調査資料があるが、事実かどうかは判らない。
(※イヌイット(カナダのエスキモー)がフランクリン隊の生き残りをそう呼んだようだ)
友人と二人で辿った。 そりで自分で引っ張って行った。 重さは出発時100kgずつ分担。
歩いている間はそんなに寒くは無い。(動いているんで)
起伏が凄くある。 氷の形状がいろいろあり硬い雪がおおっている。
風、潮流の影響で、大きな氷が流れ着いたりしているときがあり、10m、20mぐらいの高さの凸凹があったりする。 
一番困ったこと→空腹 激しい運動が伴うので、最初太らしてゆくが段々痩せてゆく。
1日5000kcal(通常の人の2倍)摂る。 
そりを引いて1日20km、30kmと歩くのでエネルギーの消費は大変なもの。
バターがうまい。 油はご馳走。  たんぱく質、炭水化物を効率よく食べている。 
 5000kcalでは足りない。(7000kcal、8000kcal位は必要)

食べたいと思ってじゃこう牛をライフルで撃って、肉を食べた。(モラルより食いたいが先行する)
フランクリン探検隊は人肉食をしたわけですよ。
そのような状態に近づいたら、果たして自分がやらないかどうか、判らない。
一概にけしからん事だとは私には言えない。
恐怖はそんなにない。 不安の方がおおきい、目的地に着けるのだろうかという不安。
極地の場合、突発的な事故はあまりない。(白クマに襲われるぐらいか)
旅があまりにも長いので、途中で何が起きるかわからない。 
食料が足りなくなってしまうかも知れないとかの不安がある。
生活をしながらの旅なので、自然とかかわりあいながら生活するので、或る意味昔の人の追体験の様な感じ 或る種の魅力はあると思う。  生きていると云う生々しい実感。
東京では決して味わえない実感。 
死があるから生がある、と言うのがひとつの真実 生きる上での真理だと思うが。
極地だとふっとしたことで死んでしまうかもしれないと感じる。(寒さなどで)
死を意識しながら旅を組み立てる。

行って帰ってくると又行きたくなる、説明する事は難しいが。
フランクリン隊だけの話をかくならば、文献等で実際に行かなくて書けるかも知れないが、
根本的な欲求として、自分が探検、冒険をしたい。 身をさらしたい。
自分がやっていることを、書きたい、表現したい。
最終的な形として本にしたい 行動する事が前提条件と成る。
早稲田大学の探検隊のOB 小さい頃から探検の事が好きだった。
他の人がやらない様な生き方がしたいと云う事が強くあった。
ニューギニアに行ったことがあって、家も全財産投げ打って行った。
行ってみたが、自分が求めていたものとは違っていた。 
家も無し、金も無し、また一から始めて行った。
新聞社受けたら入れたが、或る意味将来が見えてくるし、生きている実感みたいなものがなかった。

チベットに行きたいとの思いもあった。 好きな文章も書きたいとの思いもあって会社を辞めた。
チベットの世界最大の大峡谷を探検してみようと思って出掛けて、書いたものが「空白の5マイル」
開高健ノンフィクション賞 大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫山と探検文学賞など 賞を総なめにした。
死ぬと云う事を自覚するほどの目にあってしまった。 チベットには2回いっている。
2回目の時に気象条件が悪くなってしまったと云う事もあるが、最後の村を出発してから、何もない峡谷地帯を行くが、障害が思ったよりも大変で時間がかかってきた。
最後に1000mぐらいの岸壁帯があって、事前のリサーチでは越えられるはずだった。
通れるはずだったルートは地震かなんかで、崖が崩れていたため通行が不可の状態だった。
回って越えようとしている途中に雨、雪が激しくなって、食糧があまりなかったので、空腹がひどくなって、体が衰弱していって、倒木を越えるのに手を添えて足を動かすようになり、じわじわ追い詰められてゆく感じで、いろんな状況が悪化してきて、諦めて村に逃げようと思った。
対岸に村があるが、橋が有るはずだったが、辿り着くと橋がなかった。
(食料もないし、愕然とする)

選択肢が二つあった。
①別の村を目指す。 10日掛かるので食料がない。  ②冬ではあるが、川を泳いで渡る。 
①では必ず死んでしまうだろうと思って、②を選択  川幅は70mぐらい。
ビニール袋で浮輪代わりにして、行こうと思ったらロープが一本掛かっていたのを見つけた。  
なんとかロープを利用して川を渡る事が出来た。
泳いで渡ったら、絶対駄目だっただろうと帰ってきて川の専門家から言われた。
(低体温症で動けなくなる)
一度体験すると、(死を取りこんだ生) また極地に行ってみたいと思った。
冒険すると云う事は生きていることを確認する作業に過ぎない。
危険を全部排除できるかと言うとそれはできないし、それを排除してしまったら、それは面白いかと言うとそうじゃないと思う。
生命の危険があるからこそ意味がある。
リスクをどういう風に認識して引き受けたうえで、どうリスクと対峙するか、そこに意味だとか面白さがある。

北極探検の第二弾を計画している。  
太陽が昇らない北極を(極夜)、GPSをもたずに、助けを求める事ができる衛星電話も持たずに旅をしている最中。
極夜をどういう風に自分で消化して認識するか  極夜の恐さを理解する。
昔の人は、六分儀 水平線と星の角度をいろいろ測って計算して位置を求める方法で、それで出来るだろうと私は思った。
北極の旅で一番難しいのは自分の位置を決める事  気象条件に依って左右される。
六分儀で観測する事によって大変な目に会うのだが、北極と自分との関係性が成立する。
北極とはこういうものだと理解できるが、GPSを使うと壁が出来てしまうような気がする。
自然の中を旅をする一番の目的はどこかに行く事ではなくて、自分の自然に対しての領域を広げると云うか、極端な言い方かもしれないが、生きている感覚を味わえたり、自然をより理解できる。  
GPSを使うと極夜を本当に理解する妨げになってしまうので、使わない事にしている。
今の旅は不安、恐怖などは無くなってしまっている。
旅自体を本来の旅に戻したい、本当の旅をしてみたい。









2013年11月30日土曜日

紫舟(書家)          ・日本人の心を書に~式年遷宮の題字を手掛けて

紫舟(書家)   日本人の心を書に~式年遷宮の題字を手掛けて
NHK大河ドラマ 竜馬伝の題字などでおなじみ 今年伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮では神宮からの依頼を受け、祝御遷宮と書かれた4文字の書を奉納しました
詩集さんは立体造形や、動画や音楽などを駆使するメディアアートなどを手掛け、多彩な表現で日本の文化を発信しています
書家を志したきっかけ、書、文字を通して私たちに届けようといている思い、革新的な手法と発想で世界に向かって発信しようとする挑戦などについて伺います

海が好きなので、海に潜ったりするが、伊勢は魚、貝などが一杯居そうなので潜ってみたい
鈴鹿の墨を以前使った事がある
式年遷宮の奉納 遷宮が行われえる3年前にお話を頂いたが、こんなに使われるとは思わなかった  
ここに来る電車の中とか、全国の神社にも使われている
手を合わせた後に御幌(みとばり)薄い布があって 優雅に舞って、こうやって上がるのは神様から迎えられた人なので、という案内された方の話なので、書を書かせていただいたのだと思います
1年半ぐらい時間があったので、参拝を繰り返して、感じたことを書いてほしいと云われたので、何百、何千と書いたと思うが、一案だけ差し出した
しっくりくる、ふに落ちる感覚を信じています
「祝御遷宮」に関しては、感じたまま書いたと云う方がしっくりくる
こんな風に表現しましたとは一度もまだ言っていない(言葉に置き替えていない)

書の中に感情を込める、意思を込める事を重視いていた
優しかったり、温かかったり、感情が伝わるのではないかと、ずーっと製作してきた
文字を造形として捉えると言う事をこれから自分の活動の中で、加えていってはどうかなあと思っています
俵屋宗達本阿弥光悦が書いた作品で、鶴の上に書が書かれた作品があるが、ずーっと見ているとどうやら、そこに書かれている言葉、句には、あまり意味がない(飛ばしてあったりする)
恐らくそれは所を意味とか重視するのではなく、造形として描かれているのではないか
鶴の絵が流れるように描かれていると、其れに合わせて、太く、細く書かれていたりとか
鶴が沢山いてバタバタと羽根の音がするような所には、書がとてもたくさん書き連ねていたりだとか、まるで音が聞こえて来るように、書を用いているのが光悦で、そういう表現方法もあるのだなあと思い、絵の中の一部として捉えられて、今の時代もひょっとしたらわかりやすいとではないかと思う
 
6歳から書を始めていて、高校生までお稽古をして、地元を離れるときに一旦筆をおいて、そのあと大学に行って、一般の会社に就職して、自分の人生とはこれだったのかなあと思い悩んで、書家の道に進みました
奈良で3年暮らして、名工とか人間国宝とか人々に接して、日本の伝統美を学びました
日本の伝統美をバランス感覚を目とか身体とか、手とかに身につけられたらどんなに素敵だろうと思った
物を作るのが大好きで、物を作る人たちを尊敬している
学生時代は木型から靴を作ったりしていました  
他にガラス加工、革製品加工などをやっていました
今も、ガラスで書を作ってシャンデリアに作りかけたもの、言葉はもともと立体だった事で、一旦紙に書いた書を鉄で溶接したりグラインダーで削って立体的にしたものとか、蒔絵をしたりした

フランスでは展示の打ち合わせをして 行きたかった街を見てきた
日本人の作家が作った作品をギャラリーに並ぶのは少なくなった
日本の文化、製品であったものを、そのまま別の国に出そうとするのが一般的だが、何故それが通用しないんだと云う事を考えてみたところ、日本人は同じ黒でも、何色でも見分けられるが、見分けられない国がある
西洋の絵画は一言で言うと立体的、日本の絵は平面的だと云われているが、見ている景色は同じだけれども、平面的に見える国と立体的に見える国があって、色が一色に見える国があれば50色も見分けられる国の人がいる
こんな風に違うのであれば其国の人が見える様な見方で物を作ってあげれば、文化は、越えられなかった壁が越えられるんじゃないかなあと思う

彼らが見えるような見方で作ってあげるのが一つの方法なんではないかと思う
文化を込めるのが一つのテーマにしている
正解かもしれないし、正解でないかもしれないので、かれらの反応を見てみたいと思っている
当初は書だけを展示していたが、繰り返す中で、もっと音楽が国境を越えられるように、感動してもらえる様な作品を作るにはどうしたらいいかと思っているうちに、立体的になったり、音楽とコラボしたり、いろんな試みをして、すこしずつようやく伝わり始めたのかなあと感じています
アートの力で子供たちに対して出来る事はなんだろうと思って、これまでは日本の文化を世界に発信するためにというテーマでずーっと作ってきたが、子供たちのために作ってみようと思って、象形文字をモチーフにしている
書いた象形文字を壁から壁に落ちてくる 象形文字を自分の影でふれると、其書は鑑賞者に吸い込まれて、その言葉の意味のアニメーションに変化する
例えば象の象形文字 ふれると象のアニメーションが出てくる、音も出る
鑑賞者とアニメーションが相互作用を起こす 
アニメーショウン同士も相互作用をする

私たちの使っている言葉はどんなふうに作られてきたのかとか、発想は無限大だとか、いろんな表現をしてもいいんだと、其作品を通して感じてもらえればいいと思っている
日本人の発想は本当にすごいと思っていて、モノクロのTVの時代に鉄椀アトムを創造できる創造力だとか、映像を見ていると今の東京の六本木の建物が出てくるとか、発想力は凄いと思っている
前に進もうとしたときに、スカートのすそを踏んでいるのは自分だと思う時がいっぱいあって、
自分で自分を縛っている考え方、物の見方から自分を自己解放してあげる
そうするといろんな発想が出てきたりする、そういったことは意識している
趣味もクリエーティブな事が好きで、人間国宝、名工と言われる人を巡って一緒に物を作ったり、今まで知らなかった技術を知るとか、そういったことが好きです

書道家になる前までは、打ち込めるものがなかった
ようやく書道家と言うものを見つけて、情熱を傾けられるものを持つことができて、喜んでやっている
日本は海と共にあって、志摩の素晴らしい自然があって、海にプロジェクションマッッピングを作ってみたいと思っている
水に映像は映らないが、不可能なことでは無いと思っています 
海を割るとか、船を空の上に走らせるとか、一隻の船を浮かべる 
其周りの海面に映像を映す 
海を割る モーゼの十戒、沖縄の浦島太郎で出てきたりしている
思いついたり誰かが言ったことを小さく試したりすると、全く新しいものができたり、よりいいものができたりするので、試してみると云う事は非常に価値のあるものだと思います
最近の作品でクジラの作品 黒と白のクジラがいて月と太陽がある 
2転3転して辿り着いたクジラの作品で、一つの物を諦めずに作り続けていると、全く違うものが生れたり、感動も用意されていると思う











































2013年11月29日金曜日

木之下晃(音楽写真家)      ・世界の巨匠を撮る

木之下晃(音楽写真家)      世界の巨匠を撮る
指揮者や演奏家、オペラハウスなどを被写体に、数多くの芸術的作品を生みだして、世界的に高い評価を受けています
ヘルベルト・フォン・カラヤンを始め海外の巨匠からの信頼も厚く、其作品は数々の権威ある賞を受賞した写真集を始め、CDジャケトなども通して、クラシック音楽ファン皆さんにはおなじみの事と思います
一瞬のシャッターチャンスにかける木之下さんの思い、巨匠と呼ばれる音楽家の素顔などを伺っていきます

カラヤンを指揮しているモノクロ写真 真横の位置から捉えている 右手に指揮棒 高く掲げている
目は理想の音を夢見ているような気がする カラヤンの手の先ではっきりとオーケストラの音を感じる
自宅のカラヤンの写真 深い茶色で家具は統一 カラヤンは大きく厚い大きな楽譜を両膝に開いている 穏やかで静か、ちょっと緊張感も感じる
カラヤンを撮るのが夢だった
思い続けていると不思議といろんな人にしゃべる カラヤンを撮りたいよ
カラヤンは自分で認めた写真家でしか撮ることしか認めなかった
記者会見場で、たまたま自分で気にいる写真を撮れて、カラヤンの関係者に見せたら、納得してもらって、カラヤンのところに連れて行ってくれた
サインしない人なのにサインをしてくれた

4つの家に連れて行ってもらう事が出来て、写真を撮ることができた
言い続けている、思い続けていると、不思議なことに、叶う事が出来ると思う
プライベートの写真まで撮れるようになったのは?
撮った写真が相手に良い感じで記憶される  被写体の人がとにかく気に入ってほしい
必ず本人に見せてきた そうすると良い、悪いを判断してくれる
記憶に残るものと残らないものがあるので、必ず記憶に残るのが次につながってくると思う
カラヤンはシンプルな人 厳しさが凄い 自分が認めないような写真は残しておきたくない

小澤 征爾  ステージでの写真 指揮者とオーケストラの間に入り込んで指揮者の真前から仰ぎ見るようになっている 左手は顔の上ぐらいの高さまで上がっていて、下がった右腕はV字になって手に持った指揮棒は天を指している 
半身に捻った身体はダイナミック 写真を見る人の後ろの方でオーケストラの音が鳴り響いている

自宅の大きなソファーの上で胡座をかいているカラー写真   周りはアイボリーの色調
くつろいでいる穏やかな写真  小澤 征爾さんは一番多く撮っている人

日本に帰ってくる都度に撮りたいと思い続けて、小澤さんの所に通い続け顔見知りになって行った
1975年 小澤さんがサンフランシスコ交響楽団の音楽監督をしていて、其時に日本ツアーをするときに、一緒に広島に行った
小澤さんは交響楽楽団のアメリカの人たちに広島を知ってほしいと云うのがあって、演奏して、1日休暇を取った
小澤さんと原爆資料館に行ったが、焼けた累々とした写真を見ながら、涙をぽろぽろ流していて、其時に小澤さんを撮り続けて見たいと思った
ボストン、パリ、ベルリンフィルとか自前で小澤さんにくっついて行った(40歳代のころの事)
アメリカで人気を得た一つに、フリーダム  
小澤さんはいつもGぱんとか綿ぱんとか若者に共感があった
小澤さんを撮ることで指揮者を撮ることを学んだ

新しい写真を撮りたいと、言い続けて、小澤さんの前に座り込む事ができた
(今は決して出来ない)
指揮者は棒を振る、棒を見てオーケストラは音を出すが、音を聞いてから映していたら、指揮者は違う事をしている
シャッターチャンスは指揮者が音を行った瞬間にシャッターを押さないと駄目
其れを小澤さんを撮りながら、勉強し、何となくわかってきた
クラシックの巨匠たちを撮っていて、じーっと見ていて、音を感じて、どうやったら写真の中に音を感じるかを考えた
物事を感じるには集中力がとっても大事で、シャッターを切るのは、的の真ん中を打つためにシャッターを切るが、集中力を相当持たないと駄目
写真の機能が良くなって、それほど集中力がなくても写真は取れるようになったが、そうすると不思議なことにそういう風にして撮った写真は、人間性がドンドン薄れてきている
デジタルの写真はだれでも綺麗に撮れるが、本当にその人の個性は出てこない

最近、いろんな機能がつき始めてからは、傑作は撮られていない
傑作とは、写真の中に写し手の人間性がいかにあるか、と言う事
人間性はいかに得られるかと言うと集中力に尽きる、本当に集中する
シャッターを押す技、目で見た通りには撮れない 見た瞬間に撮れるように訓練が必要
段々見た目に近い写真が撮れるようになる、其れが良い写真
ジャコモ・プッチーニのオペラ『トスカ』の写真 フローリア・トスカの恋人マリオ・カヴァラドッシが銃殺されることになり、数人の兵士の銃口がマリオ・カヴァラドッシに向けられて、銃の引き金を引いて、今まさに銃が火を噴いた瞬間を撮っている(普通煙だけしか映らない)
こういった瞬間を撮るのには、本当に集中力が必要 如何に突き詰めてゆくか 
サムライの修行は集中力の獲得です
被写体の人はどこの場面、瞬間を撮っているのか、判る

昭和11年長野県諏訪市に生まれる 小学校1年~中学校2年まで愛知県田原市で過ごす
中日新聞社に就職、仕事の傍ら名古屋市内の音楽公演の記録写真を撮り始める
広告代理店を経てフリーになり、世界の巨匠、音楽家、オペラハウス、コンサートホールの撮影をライフワークとされています
父が中日新聞社で働き、戦争中で、学徒出陣があり、紅白のまんじゅうを一緒に食べたことがある(その人は本当は家族と食べるはずなのに、家族がいなくて、涙を流しながら食べていた)
父親が暗室の中で真っ白い印画紙が現像液の中で、スーッと像を持って出てくるところを見て、本当に魔法だった(小学校の1年生の時)
作品は同じものが2枚ない 手で作り同じものが2枚ない

オペラハウスの写真 ブラジルのアマゾナス劇場  
観客席から天井までをステージ側から魚眼レンズで撮ったもので、装飾のきらびやかさがいたる所に施されている
バルコニー方式観客席が4階まである  
天井にはブラジル人の芸術家「クリスピン」の歴史ある天井画、繊細で複雑なシャンデリアがつるされていて沢山ある
一番最初に見たのがパリのオペラハウスで、これはすごいと思って、撮り続けた
稼いだ金は其取材にほとんど使ってしまった
赤道直下で燕尾服で来る  空調があり、人の手で風を送るようになっている
オペラハウスができたところは経済がストップする

日本ではバブルで2800出来た 劇場文化は有る文化と共に発展する
道楽でオペラハウスを撮りに行っている(金が本当に掛かる)
30分ぐらいで撮影しなくてはいけないので大変(人がいないところでないといけない)
発表したのは1/100ぐらい  今一生懸命整理している
本物の芸術家は亡くなってから、本物かどうかが、時代と時間が選択して決める
ムーミン物語を書いたトーベ・マリカ・ヤンソンさんがいるが、撮った写真を一杯持っている
トーベ・マリカ・ヤンソンさんの写真集を出す 
次の世代に残っていく写真を整理していきたい
時間に選択された写真、そういったものをしっかり形にして残していきたい
































2013年11月28日木曜日

柴門 ふみ(漫画家、エッセーイスト)   ・恋で発見新たな自分

柴門 ふみ(漫画家、エッセーイスト)  恋で発見新たな自分    
東京ラブストーリー、あすなろ白書など90年代を代表する恋愛漫画を次々と生みだして来ました
恋愛の神様と言われ、今も幅広い年代のファンに支持されています
サイモンさんが今、テーマにしているのは大人の恋愛です
同世代の男女を中心に取材してエッセーに纏めました
デビューから30年以上恋愛を見続けてきました
恋愛氷河期といわれて若い世代の恋愛が冷え込む中、今改めて恋の力をつたえたいと考えています

デビューして、来年で30年を迎える  人の2倍のスピードで時間が過ぎている様に思う
漫画はいろんな工程があるので、ストーリーを考える、下書き、ペン入れ、完成の仕上げに入ってきているときと全然違うので、取材に行って話を聞くのも、大きな意味で漫画を描く仕事なので
漫画との出会い  
小学校に上がる前に読んでいたが、言葉が読めない年齢だったが、読んでいた(今でも記憶に残っている)
漫画は非日常の世界で憧れだった
小学校に上がると近所に貸本屋があって、少年雑誌を数冊毎月借りて読むようになった
手塚治虫の鉄腕アトム、石ノ森章太郎のサイボーグ009があった
少年活劇に惹かれていった      
盲想癖は小学校3年、4年ころからあった
最初、漫画を模写して、セリフを変えてつけたりして、次はキャラクターを勝手に動かして、違うストーリーに持って行ったりした

交換日記で友達とやり取りして、そこに絵を描いたりしていたが、其れがエッセーを書くようになった原点だと思う
漫画の描き方を手塚治虫、石ノ森章太郎が出版していたので其れを読んで勉強していた
徳島には高校卒業までいた 中学に入っても盲想は変わらなかった
好きな人がいたが、妄想して展開した(恋愛盲想時代)
好きですとのオーラを送って、友達を介して聞いてもらったら、NGだった
好きな気持ちは消えなかった これは何だと自分の気持ち中に目が行った(中学時代)
恋を知ったことで、猜疑心、嫉妬心とか嫌な面を知るようになった
10代は自分の心を傷付ける事しかできなかった
高校3年の時に、文化祭で劇を上演する事に対して、私とクラスの男性2人だけが反対だった
それに感動した 
女性の親友は裏切られたので、男性にはかなわないなあと思った(男の優しさ)

東京ラブストーリー
短編を書いていたが、複数の男女を組み込んだ恋愛を描いた方が良いと思った
都会の女性を取り入れて、恋に積極的な女性を取り込んだ(赤名リカ)
1980年代後半に実際に身の回りにいたので、触発された
人生に於いて自分が好きな人とが自分の事を好きだと思う、相思相愛になれると云うのは奇跡の一瞬だと思う  
其時は人間は死ぬとか孤独とかを忘れられる
そういう事を人生で経験していると、死ぬのも怖くないと後書きで書いている
自分が差し出さないと得るものは無いと云う事は信念で持っていました

大人をテーマにした恋愛
私の周りに未婚の女性が多いが、恋愛相談を受けて、人の恋愛話の相談に乗っていた
其れを表現したくなった
バブルのころに楽しんで、婚期を逃してどうしたらいいのかとか、罰一になってしまって、同僚から付き合ってほしいと云われて、好のみではないけどどうしようとか、と言う様な相談だったりする
30歳以上のおとな 女性が働いている中でいろいろ出てくる
仕事と恋愛をどっちを優先するか、収入の少ない男性とどう付き合うか、部下が恋人だけどとか、昔とは違う物が現実に起きてくる
大人でも恋をすると基本的には心情は中学生に戻る 
若返るし、エネルギーが出る
10代の恋愛は未熟で、恋に恋をするような感じで、大人はリアルな恋愛であると云うような位置付けですが、私の中では

今、恋愛なんてめんどくさいなと思っている人の刺激剤になってもらえればいいと思う
自分に素直に生きてゆくと、できるだけ多くの人に出会うと、気の会う人が出てくると思う 
イケメンと、本質的なところとは何の関係もない
職業別情勢の恋愛事情をインタッビューで取材しているが、20~50代まで仕事を持っている女性に聞くと、20代でも恋愛の体験のない人はいない
女の数だけ恋愛があるので、深く探ってみたい思いがあります
新しい発見は尽きない
創作は自分との戦いだと思う 
自分の中で完成したものを出していないと云う事で、自分に負けていると云う気持ちはある
























2013年11月27日水曜日

高野英一(ワイン会社代表)     ・ワインで出会った仲間たち

高野英一(ワイン会社代表)  ワインで出会った仲間たち
高野さんは 11年前、55歳で大手電力会社を早期退職して、耕作が放棄されていたブドウ畑を耕し、ワイン作りに励んできました
幼いころから過ごしていた勝沼、このブドウ畑が次々に耕作放棄地にかわってゆく事に心を痛めたのが主な理由でした
先輩と共に二人で耕した畑は60アールですが、その後多くの仲間が加わって、今では3棟のワイナリーで1万7000本のワイン作りをしています
当初会社の仲間の定年退職後の仕事に受け皿にしようとだけ考えていたワイナリーですが、高野さんの来る者は拒まずの精神に即発されて、首都圏で会社をリタイアした人に加えて、今では20代~40代の若手も参加するようになり少しずつ耕作放棄地の再生にも貢献しています

今は仕込んだワインの瓶詰めまでの管理ですね
設備的には2万本 1万7000本を作っています
ブドウは1.5トン、委託で5トン、買い入れを含めて17トンをワインにしている
6000Lの目標が17000Lくらいになっている
2007年 他のワイナリーに頼んでワインにしてもらってたのが、自前のワイナリーを持って、免許取得して、他のところから委託を受けて、目標2万本ができればいいと思っている
よそでやらない少量ロットをやるとか、個別のワインを作ってやるとか、地域の活性化に役に立てればいいなあと思っていて、小さい仕事も受けてやっている
大手の工場のスケジュールに合わせて、ブドウを持ち込んでワインにしてもらうが、ブドウに合わしてスケジュールに組めないで、ブドウが傷んでしまうとか、傷んだブドウでは良いワインができないことが解っていたので、ブドウに合したワイン作りができるようにしなくてはいけない、其れがワイナリーを作った最大に理由ですね

2002年会社を辞める 最初2人で始めた  行き当たりばったりで、やってきた
やらざるを得ないような状況でやってきた 
手伝ってくれる人が徐々に増えてきた 皆さんに支えられてやってこられた
最初退職した人たちの受け皿にと言う様に思っていたが、半分は若い人が来てくれる様になった
最初、自前でやってゆくのがかけだったが、楽観的に思っていた
地域に役立てる様な新規事業がないかという事で提案制度があって、見渡したところ、ワインの搾りかすから、ワインを作るのをヨーロッパでは持っていて、最後の物を有機肥料にする(木のチップとワインの搾りかすブドウを混ぜて作りだす) 畑に戻すサイクルがある
循環サイクルに乗せられていいと思ったが、採用される寸前で提案制度の条件の中で、5年累損解消がクリアできず提案を取り下げ、自前でやることになる

勝沼 私が小さい頃 農地は宝物見たいなものだった 退職するような時には周りの畑が耕作放棄になってしまって、周りの耕作している畑の厄介者になっていた
耕作放棄地が2町歩 復元できるようになった
最初、10何年放棄されていた土地で、大木になっていたり、コンクリートがあったり、復元の仕方を見出して、2年掛かって6反歩(60アール)復元して、そこで力尽きた感じがあった
日本のワインの本を開く鳥居平はワイン作りの一等地のところ
2往復で目いっぱいで、年寄りの畑ではないなあと思う  55歳だから出来た
70歳、80歳の人にやれということは無理ですね(今私も66歳で大変です)
最初果樹農家から指導をしてもらう  
剪定の仕方、消毒に至っては、どの時期に何の消毒をしたらいいのか分からなかった

天候 台風、長雨とか大変 人間の力ではどうにも出来ないような状況の中で農業をする
ネットで集まった若い人達が農業に携わりたいと、耕作放棄地の手伝いをしたいと、今年20kgの
ブドウが取れて、ワインを作る、来年には200kgになる
若い人たちが応援に来てくれる
最初40歳代の人が来て、ワインつくりをしたいとの申出でがあった
放棄地を紹介したら、その人がネットで会員を募集して、410数名応募があり、毎週誰かが来るようになった
10アールをブドウ作りをやるようになった  
イベントもやるようになって、バーベキューとかも、やるようになる
地域の活性化に貢献してくれるようになった
2人では6反歩が精一杯だったが、当時借りていた1町歩の残りを担当してもらった

最近の若い人たちは農作業を楽しんでやってくれる
農作業は娯楽だとは思っていなかったので、考え方、ものの価値観が違うと思う
今後もっと広がってくるのではないかと思う
金を払ってワイナリーのお手伝いをすると云いうのが、広がってきている
どう対応してゆくか、現在手探りの状況です
ロシナンテ」というグループを作る 高齢者を会員募集 
若い人も応募してきた(地域活性に役立っている) 
リタイアした人も入ってきている  大手の会社の役員だった人、医者だった人とか
その人たちと、当社の農業部門を法人化する事を検討している
ワインビネガー(酢) の新たに部門を作って会社を興すとかも担当者が中心になってやってもらう
「人間裸で生まれて、裸で旅立つ」 事は以前から思っていたので、できるだけオープンにしてやっている

やりたいと云う気持ちを持っている人が集まってきて、それぞれの人間関係、人脈を使いながら最後まで走り続ける環境を作っているという事ですかね
安く借家(3万円で1万円は会社が負担)を借りて、1週間おきに自宅と勝沼を往復するとか、コンテナを改造してそこで生活をして、1週間のうちに水曜日に帰って、金曜日に戻ってくると云う様なことをやっている人がいます
あまり干渉しない、それぞれ皆さん、人生経験揉まれた方なので、心配はしないが、奥さんは大丈夫なのかと問い合わせたら、何ら問題ないことが判った
退職金をつぎ込んだが、妻は反対するのは判っていたので、事後承諾してもらった
今は妻には諦めてもらったと云うのが、本筋です
妻の関心が孫に100%向かったので、こちらへの関心は無くなった