| 加賀乙彦(作家82歳) 希望ある未来を望み見るために |
| 1929年、東京市芝区三田に生まれる パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務 |
| 東大、医学部を卒業後 東京拘置所で医務技官をしていました フランスに留学 38歳で「フランドルの冬」(フランスに留学の経験を書く)を出版してデビューしています |
| 精神科医から作家への道、一人の死刑囚の係わりから生まれた「宣告」について伺います |
| 1979年から文筆に専念。1987年のクリスマス(58歳)に遠藤周作の影響でカトリックの洗礼を受ける |
| ここ数年で2つの大きな出来事があった ドストエフスキーの不幸が列をなしてやってくると言う言葉で要約しているが 妻が或る晩に亡くなりました |
| 全然死ぬと言う前兆がなしに 九州旅行をする時に、私が先に寝て トイレに起きて見ると妻が まだ寝ていない なにをしているのだろうと行ってみたら いない |
| 大きな声で読んでも答えが無い 風呂場に行ってみると水に沈んでいる 身体が冷たい 人工呼吸をやってみたが駄目だった |
| 110番する(変死と判断した) 外傷はない 病気で亡くなるとしか思えない 解剖して貰いたくないと要望 脊髄液が真っ赤 くも膜下出血と判定された |
| 全く予期できなかった 70歳の誕生日を過ぎたばっかりだった(私が79歳の時) 私が先に行くと思っていた |
| 2年後の正月に文芸協会理事会の新年会で今度は私が倒れた 約10秒ぐらいだったと回りは言うが、 直ぐに目がぱっと開いて、主治医に携帯で連絡して |
| どうしたらいいか と問い合わせる 東京医科歯科大学にタクシーでゆく(救急車を呼ぶよりも 早いとの判断) センターにつくと又5秒ぐらい倒れる(心電図を付けた時) |
| 心臓細動 速く動き過ぎる 疲れて止まってしまう 心臓がゆっくり動くと又具合が悪い 心臓細動を止めるためには心臓の中に有る電気の核が9つあるが |
| そのうちの3つを潰せばいいと言う事になった その手術をする ペースメーカーの装着の手術 2回の手術をする |
| 3/11に病院に行ってペースメーカーの状態を見てもらう為に午後1時に行って2時ちょっと過ぎに 大震災になり 術後なので余り歩けない タクシーは来ないので仕方なく |
| 歩いて普段なら10分で帰れるところを30分かけてようやく帰って来る エレベーターも止まっている 9階なのでゆっくりゆっくりやっと着いたが家の中は惨憺たる有様 |
| 11階の仕事場は本が散乱してしまっており5000冊が山のようになってしまっていた 憂鬱な状態になった |
| 医務技官とは→2000人以上いる人の診察、治療をする 死刑囚には非常に拘禁反応というか 興奮したり 笑いながら泣くと言う非常に不思議な症状 |
| 文献調べたら出てきて(ドイツ)、所長さんにいって、監房の一人一人と話をしてみる 最初は変な医者が来たと思われたが、毎日話すうちに段々相手も慣れてきて |
| 色んな話をしてくれるようになった 家に帰って記録を取る作業を続けた そのうちに日本の死刑囚全部と会ってみたいと言う野望を持ちまして 掛け合って |
| 研究を許してもらった 約100名を2年間で見る 最後に気がついたのが死を前にすると人間は 非常にいろいろと反応を示すものであると言う事 |
| 反応は人によって違うが有る種の傾向は決まっている 無期囚はどうなんだろうと思って調査した 未刑囚は死刑囚と同じような反応をする |
| 無期が確定した無期囚は全然違う 50名調べる 大人しく、従順でちょっと卑屈で 死刑囚とは 全然違う人間になってしまっている |
| 論文を書けると思って、フランスに留学中にデータをもとに更に研究を重ねた 人種を越えて同じような反応を示す 150人ぐらいになる |
| 死を前にした人間は死を恐れて 病気になったり、拘禁ノイローゼになったり 鬱病になったりする ものだと思ったが その理論に全然乗っからない人が居るんですよ |
| 正田昭 昭和28年にバー メッカ殺人事件 慶応出身の秀才 美男子が強盗殺人を犯したと言う事 で大騒ぎになった事件 |
| 彼だけは理論に合致しない 彼は獄中で洗礼を受けて カトリックの 菅藤神父という人 正田昭に洗礼を施してほどなく亡くなりそれを聞いて非常に彼もショックを受ける |
| 留学制度への試験に合格してフランスに行くことになる(28歳) 帰ってきて東京医科歯科大学の 助教授になる 犯罪心理学教室 犯罪心理学雑誌の編集を |
| 教授から命じられて その中に死刑囚の心理を書いてもう事になり 正田昭に頼んだ 手紙のやり取りを頻繁にやる |
| その中でカトリックのキリスト教についてのほんを読んですっかり犯罪者の時とは違う大人しい 人間になっていた |
| 先生の様だと言うような感じ 正田昭が40歳になった時に突然刑が執行されてしまった その頃ようやくフランドルの精神病院での経験を小説にしてだした |
| 正田昭を通じて文学と医学の関係を考えざるを得なくなった 刑が執行された後にある学校の先生から手紙が来た 正田昭との間には3年間に渡って文通したとの事 |
| 私にも手紙を見せてもいいとの内容が有り、是非見せてほしいと頼んで見せてもらった 姫路へ飛んで行った 3年間に600通に上った |
| 読み始めて吃驚した 正田昭の手紙には私が彼と交わしたことはカトリックについての話とか インテリ的な話であったが そのNさんに対してはまったく違って |
| 柔らかい調子のユーモラスな 文章 ユーモアが有るとはまったく私には判らなかった 獄中の事も詳細に書いてある 人間と言うものは判らないもんだと |
| もう一つ転換があって お母さんから手紙が来て 正田昭の獄中の日記を全部先生に差し上げて もいいとの事 彼の読んだ本もぜんぶ頂いて 膨大なノートに日記が書かれており |
| それを読み始めると それを読むのに3年掛った 実に細かく実に精密に本を読んだ感想とか カトリックの信仰についてとかいろいろなことが書いてある |
| 一つNさんへの手紙と違うのは一人でいる正田昭と言うのは誠に嘆きの多い 自分はまだまだ至らない人間であり、 時には神の存在を認めない |
| そんなことまで考えていたのかと 第3の男の存在が出てきたんですね 日記の中から 哲学者のような面もあるんですね |
| 彼が読んだ本 ハイデガー スペインの十字架のヨハネという神父がいるが その人の作品、著書に ついての考察とか 悩める正田昭 私に対しては敬虔な信者 |
| Nさんに対しては明るい、まるで子供のようなやんちゃな正田昭 最後に自分一人になって毎日 悩みに悩んでいる正田昭 これだけ人間というのは違う |
| 死刑囚に対する私の研究なんて言うものは、非常に表面的なもので何らかの価値はあるかも 知れないが心の奥底までは見ていないと言う事を反省しました |
| と同時に、人間と言うのは良く分からない 父と母或は母と子 何でも知っているようには思って おられるような人が多いですけれども 母が自分の子供についても中々判りにくい |
| 逆もそうであって 人間がお互いに知り合うことがどんなに大変であるかという事 精神科医として 勤めてゆく資格がないんじゃないかと思いましたね |
| その過程をいろいろ調べて結実したのが「宣告」 正田昭を数年に渡って全部読んで、 自分なりの思索を加えて 彼の信仰の奥深いところにどんなものがあるかと |
| 自分なりに考えていって その神の問題 信仰の問題 当時学園紛争があって全共闘の人達の 問題 いろいろな種類の死刑囚をまくらにして、正田昭を主人公にして |
| 刑が執行される間の4日間を書いてみた 冒険をした小説だと思っている |
2012年4月9日月曜日
加賀乙彦(作家82歳) ・希望ある未来を望み見るために
2012年4月8日日曜日
川畑のぶこ(心理カウンセラー) ・私を変えた捨てる心 断捨離の実践
川畑のぶこ(心理カウンセラー) 私を変えた捨てる心 断捨離の実践
身の回りの不要 不適切 不快なものを断ち 捨て 離すことです
数年前に親しい友人が急に明るくなったことに気がついました
訳を聞いてみると断捨離をした結果ですというのがその答えでした
川畑さんは患者の心のケア―を仕事としています
物を持つこだわりを捨てることはそんなに人を変える事ができるのかとその心理を研究、自分でも実践しました
2008年に初めて「断捨離」を聞きました
2001年から石川県の山下秀子さんと言う方が提唱し始めているもので 割と新しい概念なんですね
ヨガの哲学に出てくる言葉 ヨガに断行、捨行、離行 があって心の執着心を捨てる哲学なんですけれども 山下さんがヨガのインストラクターであると言うこともあって精通していた
この3つの行の頭の字を取って「断捨離」という言葉をつくった
身の回りのかかわりに於いてやって行こうという発想だったんですね
捨てるのが目的ではなく、真に必要なものを選びぬく 絞りぬくと言うのが断捨離の意図なんです
消去法で身の回りに不要なもの、不適切なもの、不快なもの、これらのものをどんどん手放してゆく
そして必要で、適切で、快適なものに囲まれて ゆとりのある、すっきりした人生を送りましょうと言うのがコンセプトなんです
仕事仲間のセラピストが行ったと言うのがきっかけになった
調子がよくなっていったように見えた
片付けても直ぐに散らかる 執着心を捨てる事
がん患者、心の悩みを抱えている人のカウンセラーをやっている
断捨離自体が心理療法を伴っている 自分の身の回りを見てみると執着心の塊だった
大晦日を選んで実施した
使えるものでも使わないものは手放す のがコンセプト
勿体ないと言う思いがあり中々トントン拍子には行かなかった
45Lのごみ袋に20袋の我楽多が1日で出てきた 6~7割が使わないものだった さ
らに1週間で10袋 トータルで30袋
断捨離をしてからは、そんな片づけられない私から脱却。。。片づけなくても、いつも片づいている空間になりました
とってもすっきりして自由な気分になった
身の回りに物が一杯あることで自分達を責めてしまっている行動が多い
かたずけられない私、片付けても直ぐ散らかる私
散らかっている部屋を見る事で自己否定につながってしまう これが良くないんですね
自己肯定 自分を認めてやることがとっても大事
住まいは自分が一番長く過ごす時間であるので 、使えるものを捨てるのは 難しい
罪悪感がある 頭の切り替えが必要 勿体ないと言うけれど 取っておけばいいのかと言うと決してそうではなくて、物とは使ってこそ生かされるものですから
使っていないものを管理する労力 空間 エネルギーが勿体ない
.物とのかかわりを楽しみを持って対応した
(なにを発見できるのか 好奇心を持ちながら始めた)
最初 難易度の低いものから行った
シャワーキャップ 今まで使ってないのにホテルから持ちこんでいた
台所 賞味期限を過ぎたもの 冷蔵庫の中の要らないもの腐った物
ホテルは必要最低限のものしかないので住みやすい 特に物書きはそう思う
不必要でも手放せないものに対しては 海外に行く時これを持ってゆくかと 自分に問いかけた 災害、火事に有った時に戻って取りに行くか 冷静な時に考えておくことが大事
棺桶に入れてほしいか (思い出と言うけれど)
自分が死んだ後 残された人に胸を張って部屋の状態を見せられるか
人に頼んで捨てるよりも健康な時に自分で捨てる
社会生活の中でのルール 人類を幸福にするならば活用する
幸せに生きるならばしなやかに変化に対応する
使えるものは取っておきなさい これは物が乏しい時代の先人たちの教え
飢餓の時代だった 日本は物があふれている時代 絞る必要がある
家事が苦手 と思っていたらそうではなく 整理された中であると掃除機も楽にかけられる
洗濯も60足あって何時も片方が無い これが無くなり5足でやっていて 、豆になる
ボールペンも使い切るまで使うようになった 人間関係も変化が有った
今の自分にはふさわしくない関係ないのに過去からいた
来ているから無理やり繋ぎとめていた様な関係も割と整理がされてきて、あんまり我慢をしなくなって人間関係も円滑に成った
健康面も良くなる ハウスダスト 肌、呼吸器 家でゆっくり過ごせるようになった
部屋がすっきりするだけで気持ちよくなる 手放したメリットの方が多い
余命いくばくもないがん患者が生前整理を行った
家族に迷惑に成らないように全部棄てようと 数カ月生きられる物だけにしようと整理して行った 結果 すっきりして 意識が変わって 自分で出来る健康法だったり、治療だったりされて調子がよくなって 結果的にがんを克復された 癌の消失が認められた
その人は今日 この日に感謝して生きている
今日死ぬんだったらと自分自身を満たしてあげる この日の質を高める 今この瞬間を生きる
ナイチンゲール著 「看護覚書」・・・ 古い壁、汚れた敷き物 、掃除をしない家具 これらは地下に馬糞の山を築くのと同じくらい空気を不潔にする
敗血症を起こした患者の家 部屋を閉じたままの汚い部屋
これを改善しなくてはいけないのに 医療に頼ったり、神に頼ったりしていると警鐘する
汚くなると病になる これも自然の法則であると言っている
身の回りが汚いと肉体的にも精神的にも病んでくる
東日本大震災の時に本当に必要なものだけをと整理しておいたので、逃げるときにも容易であった 復興も楽にできた との話もある
命に限りがあると知った時に持っていけるものと言うのはそんなに多くはない
思い出 死ぬ前に最も感謝するのは この世に生を授かったこと と言う方が殆ど、授けてくれた親との係わり、 自分をサポートしてくれた周りの方たちとの係わり この絆に感謝 後悔するのも もの、金は出てこない
もっと他者や世間に気にせずに自分らしく生きればよかった
もっと自分の気持ちを大事にすればよかった こういうものが多い
示唆に富んだ言葉ではないかと思う
なにが自分にとって大切なのかと言う事を見る 分類する目を持つ
選び抜く力 身の周りの物から始める
身の回りの不要 不適切 不快なものを断ち 捨て 離すことです
数年前に親しい友人が急に明るくなったことに気がついました
訳を聞いてみると断捨離をした結果ですというのがその答えでした
川畑さんは患者の心のケア―を仕事としています
物を持つこだわりを捨てることはそんなに人を変える事ができるのかとその心理を研究、自分でも実践しました
2008年に初めて「断捨離」を聞きました
2001年から石川県の山下秀子さんと言う方が提唱し始めているもので 割と新しい概念なんですね
ヨガの哲学に出てくる言葉 ヨガに断行、捨行、離行 があって心の執着心を捨てる哲学なんですけれども 山下さんがヨガのインストラクターであると言うこともあって精通していた
この3つの行の頭の字を取って「断捨離」という言葉をつくった
身の回りのかかわりに於いてやって行こうという発想だったんですね
捨てるのが目的ではなく、真に必要なものを選びぬく 絞りぬくと言うのが断捨離の意図なんです
消去法で身の回りに不要なもの、不適切なもの、不快なもの、これらのものをどんどん手放してゆく
そして必要で、適切で、快適なものに囲まれて ゆとりのある、すっきりした人生を送りましょうと言うのがコンセプトなんです
仕事仲間のセラピストが行ったと言うのがきっかけになった
調子がよくなっていったように見えた
片付けても直ぐに散らかる 執着心を捨てる事
がん患者、心の悩みを抱えている人のカウンセラーをやっている
断捨離自体が心理療法を伴っている 自分の身の回りを見てみると執着心の塊だった
大晦日を選んで実施した
使えるものでも使わないものは手放す のがコンセプト
勿体ないと言う思いがあり中々トントン拍子には行かなかった
45Lのごみ袋に20袋の我楽多が1日で出てきた 6~7割が使わないものだった さ
らに1週間で10袋 トータルで30袋
断捨離をしてからは、そんな片づけられない私から脱却。。。片づけなくても、いつも片づいている空間になりました
とってもすっきりして自由な気分になった
身の回りに物が一杯あることで自分達を責めてしまっている行動が多い
かたずけられない私、片付けても直ぐ散らかる私
散らかっている部屋を見る事で自己否定につながってしまう これが良くないんですね
自己肯定 自分を認めてやることがとっても大事
住まいは自分が一番長く過ごす時間であるので 、使えるものを捨てるのは 難しい
罪悪感がある 頭の切り替えが必要 勿体ないと言うけれど 取っておけばいいのかと言うと決してそうではなくて、物とは使ってこそ生かされるものですから
使っていないものを管理する労力 空間 エネルギーが勿体ない
.物とのかかわりを楽しみを持って対応した
(なにを発見できるのか 好奇心を持ちながら始めた)
最初 難易度の低いものから行った
シャワーキャップ 今まで使ってないのにホテルから持ちこんでいた
台所 賞味期限を過ぎたもの 冷蔵庫の中の要らないもの腐った物
ホテルは必要最低限のものしかないので住みやすい 特に物書きはそう思う
不必要でも手放せないものに対しては 海外に行く時これを持ってゆくかと 自分に問いかけた 災害、火事に有った時に戻って取りに行くか 冷静な時に考えておくことが大事
棺桶に入れてほしいか (思い出と言うけれど)
自分が死んだ後 残された人に胸を張って部屋の状態を見せられるか
人に頼んで捨てるよりも健康な時に自分で捨てる
社会生活の中でのルール 人類を幸福にするならば活用する
幸せに生きるならばしなやかに変化に対応する
使えるものは取っておきなさい これは物が乏しい時代の先人たちの教え
飢餓の時代だった 日本は物があふれている時代 絞る必要がある
家事が苦手 と思っていたらそうではなく 整理された中であると掃除機も楽にかけられる
洗濯も60足あって何時も片方が無い これが無くなり5足でやっていて 、豆になる
ボールペンも使い切るまで使うようになった 人間関係も変化が有った
今の自分にはふさわしくない関係ないのに過去からいた
来ているから無理やり繋ぎとめていた様な関係も割と整理がされてきて、あんまり我慢をしなくなって人間関係も円滑に成った
健康面も良くなる ハウスダスト 肌、呼吸器 家でゆっくり過ごせるようになった
部屋がすっきりするだけで気持ちよくなる 手放したメリットの方が多い
余命いくばくもないがん患者が生前整理を行った
家族に迷惑に成らないように全部棄てようと 数カ月生きられる物だけにしようと整理して行った 結果 すっきりして 意識が変わって 自分で出来る健康法だったり、治療だったりされて調子がよくなって 結果的にがんを克復された 癌の消失が認められた
その人は今日 この日に感謝して生きている
今日死ぬんだったらと自分自身を満たしてあげる この日の質を高める 今この瞬間を生きる
ナイチンゲール著 「看護覚書」・・・ 古い壁、汚れた敷き物 、掃除をしない家具 これらは地下に馬糞の山を築くのと同じくらい空気を不潔にする
敗血症を起こした患者の家 部屋を閉じたままの汚い部屋
これを改善しなくてはいけないのに 医療に頼ったり、神に頼ったりしていると警鐘する
汚くなると病になる これも自然の法則であると言っている
身の回りが汚いと肉体的にも精神的にも病んでくる
東日本大震災の時に本当に必要なものだけをと整理しておいたので、逃げるときにも容易であった 復興も楽にできた との話もある
命に限りがあると知った時に持っていけるものと言うのはそんなに多くはない
思い出 死ぬ前に最も感謝するのは この世に生を授かったこと と言う方が殆ど、授けてくれた親との係わり、 自分をサポートしてくれた周りの方たちとの係わり この絆に感謝 後悔するのも もの、金は出てこない
もっと他者や世間に気にせずに自分らしく生きればよかった
もっと自分の気持ちを大事にすればよかった こういうものが多い
示唆に富んだ言葉ではないかと思う
なにが自分にとって大切なのかと言う事を見る 分類する目を持つ
選び抜く力 身の周りの物から始める
2012年4月7日土曜日
山極寿一(国際霊長類学会会長) ・心優しい隣人ゴリラ
| 山極寿一(国際霊長類学会会長) 心優しい隣人ゴリラ |
| (1952年 - )は、人類学、霊長類学者、京都大学理学研究科教授 |
| 「ゴリラとヒトの間」 「家族の起源 父性の登場」 「暴力はどこからきたか
人間性の起源を探る」 「人類進化論 霊長類学からの展開」等著書多数 |
| 類人猿の生態を元に家族の起源 人の社会の成り立ちを探り その研究成果は世界的にも 注目されています |
| 人間の祖先がチンパンジーと別れたのが 600万年ぐらい前 ゴリラと別れたのはその更に前の 1000万年まえと言われている |
| 遺伝的にもっとも近い動物はチンパンジーと言われますがゴリラに惹かれてゴリラを30年以上研究を 続けてきました |
| とかく凶暴と思われがちなゴリラですが、心優しい進化の隣人だと言います ゴリラの生態を通してなにが見えてくるのか |
| 高校の頃、物理と言えば湯川先生 私も物理をやろうとしていました 大学に入って山が好きでスキー部合宿があり、志賀高原で猿を追っている研究者が |
| いると言う事を知ってこれは面白いなと思いまして 聞いてみらた私が所属する学部の先輩である と言う事に気がついて 本も読んだし、先生にも会いに行って |
| 人間を知るために人間以外の動物を研究すると言う方法論を知ったわけですね |
| ドクターの2年まで私は日本猿の研究をしていました (下北から屋久島まで) |
| チンパンジーは人間にちかいけれども人間に劣っている処もあるなあと思ったが、ゴリラに会った 時はそんな感じがしなかった |
| 人間よりも高貴な、人間もかなわないような面を持っている そう感じた こういう動物を研究してみたいと思った |
| 身体的な能力ではゴリラは人間に負けていない 威厳を持っている 間の取れた ゆっくりした仕草はどうやったら出てくるんだろうなあと気がしました |
| 特に面白いのはドラミング(胸を叩く仕草) |
| アフリカ 中央の熱帯雨林 低地から標高3000mぐらいに住んでいる 西ゴリラと東ゴリラに別れていて 西ゴリラはカメルーン、ガボン、中央アフリカ、赤道ギニア、コンゴ |
| 東ゴリラはウガンダ、ルアンダ、コンゴ民主共和国、に住んでいる |
| ミトコンドリアDNAの塩基配列による分子系統学的解析では、西部個体群と東部個体群 (亜種ヒガシローランドゴリラと亜種マウンテンゴリラ) |
| との遺伝的距離が大きいとして2種に分ける説もある |
| ミトコンドリアDNAの解析から西ゴリラと東ゴリラが分化したのは250万年前と推定されている |
| 最初はコンゴ民主共和国(当時はザイール)に行く 私一人で行った 当時研究者がいない 1950年代 アメリカ、日本イギリス等 マウンテンゴリラの調査があったがその後 |
| コンゴ動乱があって調査が行われなかった 1967年アメリカのダイアン・フォッシー博士で長期フィールド調査が行われた |
| 1978年に私はカハジリア国立公園に行った(だれも行ったことが無いところを選ぶ) |
| 人間がゴリラに襲われて食べられたりしているので、人間に対して強い敵意を抱いている 人間を見るとすぐに逃げてしまう |
| 敵意を除くためにこちらは何にもしませんよと示さなくてはいけない ゴリラの様な行動をして段々ゴリラに近づいて行って 最終的には群れの中に入るのを許して |
| 貰って 彼らと一緒に行動して 群れの一員として彼らの行動を観察する これが極意です |
| 居候みたいな形でいるのが理想的 近づくときは声を出しながら近づく(げっぷする様な感じ) 食べ物 甘いフルーツが一番好き 山上のゴリラは葉っぱ、樹皮、根っこ枝とかを食べる |
| わたしもゴリラが食べるものは一通り食べました |
| 寝るときは東ゴリラは地上にベットを作って寝る 低地のゴリラは木の上に作る 鳥の大きな巣のようにして寝る 平均10頭で群れをつくる(1頭のオスと数頭のメス、子供) |
| ゴリラは1846年にヨーロッパ人によって発見されて ヨーロッパの動物園に少しずつ運ばれる様に なったんだけれども 見つけたのは探検家で銃を持っていたので |
| ゴリラは敵視して胸をたたいたわけです 之はゴリラの威嚇であって 戦争の宣言であると 解釈して鉄砲を撃った 処がそれは大きな誤解だった |
| ゴリラが胸を叩くドラミングは自己主張である 戦わずにお互い引き分けましょう という提案なんですよ |
| それを皆誤解していた アメリカやヨーロッパの動物園に送られて行っても、凶暴で戦争好きな動物 であるとレッテルを張られてしまった |
| ですから過酷な条件で動物園に飼われている 「キングコング」はまさに誤解 こぶしでは叩かない 手のひらで叩く方がいい音がする |
| 実際にゴリラ同士のけんかを見た事があるが その時にはドラミング等しない 両方ドンと組みあって相手の頭や肩を噛みあう(メスをめぐって争う場合がある) |
| ドラミングする時は お互いが接触せずに お互いが納得すれば 引き分けで お互いが離れあってゆく 集団同士がぶつかりあった時とかがドラミングしたりする |
| ゴリラの社会はお互いがメンツを保って別れる メンツを保つことが非常に重要です 勝ち負けを決めない 回りが仲裁に入りメンツが保たれる |
| 人間は勝ち負けを決める ゴリラの社会は人間よりもずっと上品な社会 日本猿は相手の顔を見ると言うのは威嚇 |
| 相手の目を見ると挑戦を受けると言う事で攻撃される 笑うようなしぐさをして相手より弱いことを示す(媚びる) 日本猿の世界はゴリラの世界とはまったく違って |
| 予め勝ち負けを決めて喧嘩をせず (上下関係がはっきりしている) ゴリラは強い弱いを決めずに共存する (メンツを保つ必要があるし、第三者の介入が必要) |
| ゴリラはなんで見つめ合うのでしょうか?→対等性を担保しているのだと思います 強い弱いではなくお互いの感情を旨く合わせてすり合わせて一体化する |
| そして相手を操作する 相手と顔と顔をを合わせると言う行動というのは人間にも受け継がれている |
| 私達人間は毎日毎日顔を合わせる事が多い訳です 人間が顔と顔を合わせるのはあまり近ずかない 言葉があるから |
| 言葉はわずか数万年前に人間が獲得したものだから 何百万年は言葉なしでコミュニケーションを取って いたわけです |
| その頃はゴリラと同じように顔と顔を近づけてコミュニケーションをはかっていたものと思われる |
| 人間の母親と赤ちゃんは赤ちゃんが言葉を話せないので顔と顔を近づけてコミュニケーションを図っている 恋人同士も言葉は要らないので顔と顔を近づけている |
| 相手と一体化して相手を操作しようとコミュニケーションを図っていると思える 人間が言葉を得る前にコミュニケーションする手段としていたと思われる |
| 共感に繋がる 相手の事を自分が思いやる 相手と自分とで心を合わせて何かするという事に繋がる |
| ゴリラは相手の痛みが判る 仲間が今どういう状況に置かれていて自分が力を貸さなければ、 とても困ると言う事が判る 之は共感 |
| 例えば罠につかまってしまった子供のゴリラを大きなオスが丁寧に罠を緩めて外して助けてやるとか 子供が危険にさらされているのを身体を張って守るとか |
| 右腕を肘から失ってしまった子供ゴリラがいたのだけれども 母親も居なくなってしまったので その子が中々群れに沿って歩けない |
| それを皆が優しく見守りながら その子供に歩調を合わせてずーっと誘導してゆくと言う事を 見た事があるのですけれども そういう思いやりは中々他の動物には無い |
| 咳の様な声 これはちょっと待てと相手を制止する様な意味 (ちょっと怒っている 食べ物を取ろうとしたときなどに ちょっと待て これは俺のものだぞ みたいな) |
| 不満を表す声 口をとがらして声を出す(不満の表情) 人間が文句を言う時に口をとがらすが まさにその通り |
| 人間が言葉を発するときに顔を見ながら相手の様子を見るが口を尖らすのは文句を言っている時 (声だけじゃなくて) |
| チンパンジーには人間の家族の様なものはなかった ゴリラにはあるんですね 父親と言う存在がゴリラにはあるからです |
| 人間の家族の起源と言うのは 父親を作ったことに有る 社会的な役割をする父親 子供の一生に掛けて影響する様な存在の雄ですね これが父親です |
| チンパンジーは複数の雄が一つの群れの中に共存してますから、特別な雄が子供に特別な関係を 持つと言う事はないですね |
| チンパンジーの方が人間よりもずっと進化してしまっているところがある チンパンジーのメスは発情期になるとお尻がぷくっと膨れる |
| 目立つので雄が集まってきて代わる代わる交尾をするわけですね 乱婚という特徴を持っている 乱婚と言うのは彼らが作る社会のベースラインです |
| 複数の雄が共存できる 人間、ゴリラはそんなことはない 人間とチンパンジーが別れた後に、チンパンジーは乱婚というものをより進化させた訳です |
| 人間はゴリラに近い段階に止まっている 父親ができたという存在が大きい |
| ゴリラの父親は赤ちゃんを持っている雌に自分の赤ちゃんを預ける保護者として認める 乳離れする前に自分の子を預ける その子供から自分の保護者として |
| 認められて 初めて父親としての役割を演じられるようになる だから自分の自覚だけでは父親に成れない 周囲に認められて父親になれる |
| 最初の文化的な役割 雄、雌(夫婦は他人)は性関係で繋がっている 親子って血のつながりがあって性関係を持たないで繋がっている |
| この二つが無いと家族は出来ない ゴリラは群れが一つの家族なんですね 複数のメスは一頭の雄と群れている 一夫多妻制で良くまとまっている |
| 人間の共鳴集団に匹敵する 共鳴集団とは言葉を使わなくても仲間の考えていること、気持ち、 性格が判る |
| これはまず家族です 他には10名~15名が共鳴集団に当る(ナデシコジャパン、ラグビー等) ゴリラと別れて人間が広げられなかった集団のサイズだと思うんですね |
| 人間は言葉を持っているので共鳴集団の数を複数持てるようになった 家族を持っていて会社の同僚がいるわけだし、学校の仲間、幼い頃付き合った同窓メンバー等 |
| 10~15名の集団を遍歴しながら我々は生きている ゴリラは一種類しか持っていないのが人間との違い |
| 平和を愛する心をずっと持ち続けてきた しかしその元になったのは想いやる共感なんです |
| 人間の場合は共感を行き過ぎた形で持つようになった 大きな集団にそれを転嫁するようになった さっきも言ったように共鳴集団は10~15名ぐらいです |
| ところがいくつも持つようになって、相手の顔が見えないのに自分の属する集団に尽くすような心を 私達は発達させた |
| その典型的な例が国家 日本と言う国、国民を一つの単位として会ったことも見た事も無い人に 対して同じ仲間だと言う心を持つようになった |
| その人を助ける為に その人の属する国を勝たすために我々は命を投げ出すような精神を持った それが戦争なんですよね |
| それを作るためには人間はゴリラとはどこか違う道を歩まなくてはいけなかった その大きな原因となったのは食糧生産であり 共感性を高める様な |
| コミュニケーションの仕方 会ったことも無い人と同じ集団に属すると言うアイデンティティー(存在理由・存在意義) 自己認知の方法なんですね |
| 私達は一生なんかのアイデンティティーを持ち続ける訳ですね 私は日本人だとか アメリカでながい間暮らしててもそのアイデンティティーは消えないわけでしょ |
| 私は大阪人であるとか それは他の動物と一番違うところなんですね ゴリラもチンパンジーも他の集団に移っちゃうと元あるアイデンティティーを完全に棄ててしまう |
| そうしないと集団に受け入れてもらえない だから入るのも大変だし、出るのも大変 |
| 人間の場合は集団を行き来するわけです アイデンティティーを持って行き来するからきちんと受け入れる ルールもできるし、渡り歩けるわけですね |
| ただアイデンティティーが拡大すると 日本国家とかアメリカ国家とか国家間の幻想に巻き込まれてしまう それに尽くすのが 共感の働きであると言う風に考えてしまう |
| それが戦争を引き起こした大きな間違えではないかと思う 愛と言うのは本当は特定な個人に向けられているのですが、より大きな集団に向けられるようになったと言う |
| ことが多分、人間の戦争が起こった原因でしょうね それを向けるようにした仕組みが言葉と言う時間と空間を超越して伝達できるコミュニケーションの 仕組みなんですね |
| 食糧生産とは 農耕と牧畜ですね これによって集団を大きくする可能性が開けたわけです それまでは狩猟生活で自然のものに頼っていた |
| 中々定住生活は出来なかった 定住して食糧をストックして沢山の人達が生きられるようになって 動かさなくてもいい様なものを持てるようになった |
| 定住する土地に価値が生まれる そうすると境界を設ける ここは自分達の土地だから入って欲しくない 境界線をめぐって人々が集団同士が争うようになる |
| 集団間の争いが戦争と言うものに発展して行ったんだろうと思いますね |
| だから共感性は両面性を持っている 愛が行き過ぎるとそういう戦争と言う間違いを起こす 共感を旨く使って行けばまだまだ人間には大きな可能性が残されている |
| 今度の東日本大震災で被災された方々に沢山の人達が日本中から集まって色んな出会いが生まれる そこで今まで言葉も習慣も違うような人達が手を取り合って |
| 新しい生活を作り上げてゆく これはゴリラやチンパンジーには決してあり得ないことです 人間だからこそそれができる |
| それを旨く使って行かなければいけない 重要なことはいきなり集団ではないと言う事なんです 一人一人の付き合いというのが大事 顔と顔を突き合わして |
| お互いのきもちを通じ合わせる事がまず重要でそれを元に集団とはできているんです だから大きな社会は初めから有ったのでは無くて積み重ね的に |
| 出来てゆく段階があって それは効率よく出来たわけではないんです 時間をかけて作り上げなければならないんです |
| 時間の大切さを旨く組み込んで共同体 人々の繋がりを作ることが重要です もう一つ重要なことは人間と言うものは誇り高い動物なんです |
| ゴリラほどではないにしてもメンツを大事にする お互いがお互いを尊厳と言うものを 理解し合うと言う事が重要であって 子供だから或は老人だからと |
| 身体的な能力を反映されるのではなくて、お互いが平等で対等で判り合える存在であると言う事を 常に意識しながら環境作りをしていかなければならない |
| それはゴリラから学べると思います |
2012年4月5日木曜日
吉田圭(主婦) ・女性目線を生かす災害FM
吉田圭(主婦) 女性目線を生かす災害FM
宮城県亘理(わたり)町 は3万4000人の街 イチゴの栽培と美しい海岸で知られているが 300人以上の方が亡くなったり、行方不明になている
去年の3月24日 女性の力で立ちあげた災害FMは2年目になっています
中心に成っているのが吉田さんです
吉田さん自身も被災者ですがこの1年間1日も休まず 発信し続けました
障害者の施設で働いていたご主人は避難所で世話をしていた為
中々連絡が取れず無事だと判ったのは震災発生2週間後だったそうです
災害FM「青空」は今年2月亘理駅に隣接する郷土資料館に移りました
家自体は床下浸水で済んだが近所までは床上浸水に成ってしまっている
ラジオをきいても自分の地域の事が判らない 役場からの情報も入らない
防災無線も津波が来てからは入ら無くなってしまった
2晩 自宅の2階で過ごした なんにも音が聞こえない
ヘリコプターの音がたまに聞こえるだけ 後はちゃぷちゃという水の音だけ
こういう時に災害FMが免許が臨時に降りるはずだよと隣町の(山本町)人が言って、山本町の人が私がやってみると言ってくれた
その人が山本町の役場に掛け合って放送をすることになった 3月21日
その時は自分はやるとは思っていなかったので手伝いはしていた
いよいよ放送が始まって 町の方々がどうしたら聞けるのかと問い合わせがあり、 あー聞けたと 口コミで放送があると伝わったんでしょうね
ラジオ情報が私の街にも必要なんだと思ってやってみようと思ったんです
今考えたらちょっと思いきったことだとは思ったが 手続きなど全く分からなかった
機材を提供してくれたのが新潟の方だった (山元町の人と知り合いだった)
電話をしてくれたのですぐ飛んできてくれた
その人にお願いして1から10まで教えてもらった
市長が免許に対しては申請するシステムに成っている
ありったけの友達に電話をして 協力してもらった
今この街で何が知りたいのだろう と必要な情報を知らせるように努力した
人を心配する気持ちでの対応 食糧、水が必要な時だった
給水車の場所 入浴支援があるので何時どこでやっているのでそのことの情報提供等
ライフラインの連絡が最初の連絡だった
スーパーマーケットが開いた連絡 おむつ、粉ミルク が購入できるとの情報連絡
水も中々ひかず1カ月以上長靴をはきっぱなし状態だった
役場の中にFMを設置していたので情報の入手には好かった
人口の割に面積が広い為に各地区の情報はとりにくい状況であったが、役場にいろいろな手続きをやる為にひとが来るので、そのたびに話を聞いて情報収集できた
7時から夕方の7時まで稼働、20分から30分話して音楽を流したりしていた
ラジオの無い人が沢山いた 避難所で大きなラジオがあって周りで聞いたりしていた
色んな放送局の人がラジオを送ってくれた
1000台 中古のラジオを送ってくれた
段々時間がたつと 気持ちが落ち込む時期がきて、その時にいろいろ支援がある内容を伝えるようにした
「青空」は 10名以上のスタッフでやってきた
主婦目線で対応 自分の街の民話(亘理の民話) 5月から始める
学校の校歌が聴きたいとの要望もあり、町の歌、民謡、等流す
校歌はCDが無くて、町民歌は探したら町長が持っていた
町民歌を流したら大変喜んでもらった
聞いてる方々からのいろいろな情報を貰って、それを又流すことによってフィードバックもした
自分が知りたい事を放送を聞けば判ると言うような状況になってきている
放送している合間合間で相談して提案しあっている
町の状態と一緒に少しずつ変わっていければと思う
放送資料を取っておこうと思って残すようにしている
保育所の子供達 被災した保育所 布地が無いのでそのことを放送したら沢山の人が自転車等で持ってきてくれた
復興しても朝晩見なれた風景、町の姿が変わってしまう
心の復興がこれから本当に大事ではないかと思う これができる事が一つにラジオの役目があるとおもう 身近な処の情報交換
宮城県亘理(わたり)町 は3万4000人の街 イチゴの栽培と美しい海岸で知られているが 300人以上の方が亡くなったり、行方不明になている
去年の3月24日 女性の力で立ちあげた災害FMは2年目になっています
中心に成っているのが吉田さんです
吉田さん自身も被災者ですがこの1年間1日も休まず 発信し続けました
障害者の施設で働いていたご主人は避難所で世話をしていた為
中々連絡が取れず無事だと判ったのは震災発生2週間後だったそうです
災害FM「青空」は今年2月亘理駅に隣接する郷土資料館に移りました
家自体は床下浸水で済んだが近所までは床上浸水に成ってしまっている
ラジオをきいても自分の地域の事が判らない 役場からの情報も入らない
防災無線も津波が来てからは入ら無くなってしまった
2晩 自宅の2階で過ごした なんにも音が聞こえない
ヘリコプターの音がたまに聞こえるだけ 後はちゃぷちゃという水の音だけ
こういう時に災害FMが免許が臨時に降りるはずだよと隣町の(山本町)人が言って、山本町の人が私がやってみると言ってくれた
その人が山本町の役場に掛け合って放送をすることになった 3月21日
その時は自分はやるとは思っていなかったので手伝いはしていた
いよいよ放送が始まって 町の方々がどうしたら聞けるのかと問い合わせがあり、 あー聞けたと 口コミで放送があると伝わったんでしょうね
ラジオ情報が私の街にも必要なんだと思ってやってみようと思ったんです
今考えたらちょっと思いきったことだとは思ったが 手続きなど全く分からなかった
機材を提供してくれたのが新潟の方だった (山元町の人と知り合いだった)
電話をしてくれたのですぐ飛んできてくれた
その人にお願いして1から10まで教えてもらった
市長が免許に対しては申請するシステムに成っている
ありったけの友達に電話をして 協力してもらった
今この街で何が知りたいのだろう と必要な情報を知らせるように努力した
人を心配する気持ちでの対応 食糧、水が必要な時だった
給水車の場所 入浴支援があるので何時どこでやっているのでそのことの情報提供等
ライフラインの連絡が最初の連絡だった
スーパーマーケットが開いた連絡 おむつ、粉ミルク が購入できるとの情報連絡
水も中々ひかず1カ月以上長靴をはきっぱなし状態だった
役場の中にFMを設置していたので情報の入手には好かった
人口の割に面積が広い為に各地区の情報はとりにくい状況であったが、役場にいろいろな手続きをやる為にひとが来るので、そのたびに話を聞いて情報収集できた
7時から夕方の7時まで稼働、20分から30分話して音楽を流したりしていた
ラジオの無い人が沢山いた 避難所で大きなラジオがあって周りで聞いたりしていた
色んな放送局の人がラジオを送ってくれた
1000台 中古のラジオを送ってくれた
段々時間がたつと 気持ちが落ち込む時期がきて、その時にいろいろ支援がある内容を伝えるようにした
「青空」は 10名以上のスタッフでやってきた
主婦目線で対応 自分の街の民話(亘理の民話) 5月から始める
学校の校歌が聴きたいとの要望もあり、町の歌、民謡、等流す
校歌はCDが無くて、町民歌は探したら町長が持っていた
町民歌を流したら大変喜んでもらった
聞いてる方々からのいろいろな情報を貰って、それを又流すことによってフィードバックもした
自分が知りたい事を放送を聞けば判ると言うような状況になってきている
放送している合間合間で相談して提案しあっている
町の状態と一緒に少しずつ変わっていければと思う
放送資料を取っておこうと思って残すようにしている
保育所の子供達 被災した保育所 布地が無いのでそのことを放送したら沢山の人が自転車等で持ってきてくれた
復興しても朝晩見なれた風景、町の姿が変わってしまう
心の復興がこれから本当に大事ではないかと思う これができる事が一つにラジオの役目があるとおもう 身近な処の情報交換
2012年4月4日水曜日
森達也(映画監督) ・ドキュメンタリストが捉えた震災被災者の悲しみ
森達也(映画監督) ドキュメンタリストが捉えた震災被災者の悲しみ
日本のドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、ノンフィクション作家 東日本大震災発生から2週間後の様子を撮影した映画「3・11」が公開される
従来には無い記録映画として話題を呼んでいます
最近タイで上映された タイも去年水害がある 犠牲者には違いがある
インターネットでは映像を見ているんではあるが映画として作品を見て言葉を失う状況だった
ラストシーン 遺体を撮るかどうかでエピソードがある
映画のテーマに繋がっている がタイの人には理解できなかった
タイでは遺体はタブーではない 遺体だけの写真集すらある 文化の違いを感じた
「映画の概要 4人のドキュメンタリーを撮っている人達がビデオを回しながら被災地に行った
3/26に一台の車で向かう 福島県みはる、浪江、大熊町等8kmの地点まで入った
景色は変わらないが線量計がどんどんあがる様子、津波被害の大きかった陸前高田 大船渡を撮影 宮城県の東松島、石巻の避難所 沢山の犠牲者をだした大川小学校
行方不明の子供達を探している親たちへのインタビュー 最後に遺体を搬送するシーン
その関係者から角材を投げつけられるシーン 口論になるシーン」
山形県の国際映画祭 釜山での映画祭 賛否両論があった
上映はするかどうかは決まっていなくて 皆の反応を聞きながら決めようかとしたのですが
ここでも両極論になってしまって、決めれない
安岡がこれだけ極論が有ると言う事は作品が自立していると言う事なんだから上映しようと言う事になる
渋谷映画館で上映 ツイッターでも賛否両論
映画を作ろうとした動機は→11日打ち合わせで六本木にいて地震に有って中止になって 電車も止まっていて家に帰れず居酒屋で飲んで騒いでいた
中華料理屋でまた飲んで泥酔状態
五反田の友人の家に言ってTVを見て地震、津波の映像を見て愕然とする 虚脱状態だった 自分達がビール飲んだり大騒ぎしていた時に高々100~200kmしか離れていないところで津波の惨状に多くの人々が遭っていることに対して 茫然として ショックで、仕事をしている時期ではなかったので2週間 朝から夜までTVを見続けていました
精神的にちょっとおかしくなってきてしまった(鬱状態) 綿井 健陽さんから電話があった
彼は戦場 イラク、アフガンと言ったところでビデオカメラを回してきたジャーナリスト
現場に行きませんかと電話がかかってきた
一旦断る 自分が疑似的被害者 ちゃんと現地に行って状況を自分の目で見て、音を聞いて その時に自分がどう思うか と言う気持ちが湧いてきて、結果4人のドキュメンタリストが車に乗って行くことになった(26日) (松林要樹 安岡卓治 綿井 健陽と私)
この時には映画を作ろうとは思っていなかった とりあえずは撮ってみようと思っていただけ 放射能に対する知識が無かったのでなぜかそう状態になっていた
(恐怖心から 戦争時と同じかと思う)
NGとOKがひっくり返っている映画 画面で文字で自己批判をする
曖昧な取材姿勢 不十分な装備 福島の取材を断念 津波の被災地に向かう
陸前高田、 時々自分達の取材の様子を撮る 状況に反応する姿を撮る
いつも一番前で撮っていたので自然発生的に私が一番映る様になった
私には余り危機意識が無いので一番先に進む場合が多かった
大川小学校で子供を探すお母さんに「見つかった方が良いんですかね 見つからない方がいいんですかね」と問いかける
「覚悟しています 本当は見つかって欲しい 一刻も早くこの様な状況から子供達を助け出したいんです」と言う話をする
怒りをぶつける処が無い 「じゃあ僕にぶつけてください」という カットを要求するがこれは大事なせりふだからとカットしてくれなかった
自分達のだらしなさ 浅はかさを示すうえで大事な 台詞であると ぼくもそう思います 思わず言ってしまったが (姑息でもある メディアの加害性、偽善性、後ろめたさがテーマですから)自分達メディアのだらしなさ 厚かましさ 汚さ 全て出そうと NGとOKが転換すると言う事はそういうことなんですけれども残すべきだと言う事で残すことになった
自分としては複雑な気持ちですけれども、私達は傍観者であるのみ 不幸を探してうろつきまわっている
後ろめたい気持ちはメディアをやる上で大事だとおもうんです
この作品でテーマにしようと思うようになった
遺体をブルーシートで運んでいる時に角材を投げ込んできたシーンがある
遺族としては撮らないで欲しいとの思い 謝りながら撮っている(意味不明 矛盾したこと)
メディアに対してのメッセージでもある
自分達メディアは こんなに図々しくて、厚かましくて お粗末なんです と自己批判を含めて批判しようとそういった思いがありました
「後ろめたさ」「他人の不幸を取材するドキュメンタリー」
暴力 加害性 そういう仕事をやっているんだ というのを見る事で見る側がどう考えてくれるか
自己投射するかも知れないし、日本全体にメディアだけじゃなくて と言う風に思ってくれた人がいたらもっと嬉しい
加害性はある マスメディアの人が覚悟すべきは人を傷つけない配慮ではなくて もしかしたら人を傷つけてしまうかもしれない事を覚悟すべきだと思っています
日本人の多くの人は後ろめたさを感じた
(自分の身には何にも起きなくて 一方で多くの人々が亡くなり、被災して苦しんでいる)
「絆」という言葉だけに逃げるんではなくて、もっとネガティブなものにも見つめなくてはいけない 生き残ったゆえの罪責感
事件とか事故を報道しますが、一面的でしかない 実際 それは多面的で、多層的であり、重層的であり つまりどこから見るかで全然違った面が表れてくる
例えば人間もそうですよね Aさんと言う人がいて、Bさんから見るとこういう人で、Cさんから見るとこういう人と見る人によって全然違うわけです
処がマスメディアは均質化しちゃうんです 視聴者、読者が一番喜ぶ、なおかつ判りやすい部分だけを出しちゃうんですね どんどん現象が矮小化されてしまう
メディアが発達すれば発達するほど世界が単純化してしまう
今回はマスメディアによる単純化 矮小化に対する「あがらい」 世界の多重化、多層化を示すことだと思っている
後ろめたさと言うような感覚は非常に大事だと思っている
先ずは自分が知りたい
「3・11」は色んな見方があるとおもう それでいいと思っている
日本のドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、ノンフィクション作家 東日本大震災発生から2週間後の様子を撮影した映画「3・11」が公開される
従来には無い記録映画として話題を呼んでいます
最近タイで上映された タイも去年水害がある 犠牲者には違いがある
インターネットでは映像を見ているんではあるが映画として作品を見て言葉を失う状況だった
ラストシーン 遺体を撮るかどうかでエピソードがある
映画のテーマに繋がっている がタイの人には理解できなかった
タイでは遺体はタブーではない 遺体だけの写真集すらある 文化の違いを感じた
「映画の概要 4人のドキュメンタリーを撮っている人達がビデオを回しながら被災地に行った
3/26に一台の車で向かう 福島県みはる、浪江、大熊町等8kmの地点まで入った
景色は変わらないが線量計がどんどんあがる様子、津波被害の大きかった陸前高田 大船渡を撮影 宮城県の東松島、石巻の避難所 沢山の犠牲者をだした大川小学校
行方不明の子供達を探している親たちへのインタビュー 最後に遺体を搬送するシーン
その関係者から角材を投げつけられるシーン 口論になるシーン」
山形県の国際映画祭 釜山での映画祭 賛否両論があった
上映はするかどうかは決まっていなくて 皆の反応を聞きながら決めようかとしたのですが
ここでも両極論になってしまって、決めれない
安岡がこれだけ極論が有ると言う事は作品が自立していると言う事なんだから上映しようと言う事になる
渋谷映画館で上映 ツイッターでも賛否両論
映画を作ろうとした動機は→11日打ち合わせで六本木にいて地震に有って中止になって 電車も止まっていて家に帰れず居酒屋で飲んで騒いでいた
中華料理屋でまた飲んで泥酔状態
五反田の友人の家に言ってTVを見て地震、津波の映像を見て愕然とする 虚脱状態だった 自分達がビール飲んだり大騒ぎしていた時に高々100~200kmしか離れていないところで津波の惨状に多くの人々が遭っていることに対して 茫然として ショックで、仕事をしている時期ではなかったので2週間 朝から夜までTVを見続けていました
精神的にちょっとおかしくなってきてしまった(鬱状態) 綿井 健陽さんから電話があった
彼は戦場 イラク、アフガンと言ったところでビデオカメラを回してきたジャーナリスト
現場に行きませんかと電話がかかってきた
一旦断る 自分が疑似的被害者 ちゃんと現地に行って状況を自分の目で見て、音を聞いて その時に自分がどう思うか と言う気持ちが湧いてきて、結果4人のドキュメンタリストが車に乗って行くことになった(26日) (松林要樹 安岡卓治 綿井 健陽と私)
この時には映画を作ろうとは思っていなかった とりあえずは撮ってみようと思っていただけ 放射能に対する知識が無かったのでなぜかそう状態になっていた
(恐怖心から 戦争時と同じかと思う)
NGとOKがひっくり返っている映画 画面で文字で自己批判をする
曖昧な取材姿勢 不十分な装備 福島の取材を断念 津波の被災地に向かう
陸前高田、 時々自分達の取材の様子を撮る 状況に反応する姿を撮る
いつも一番前で撮っていたので自然発生的に私が一番映る様になった
私には余り危機意識が無いので一番先に進む場合が多かった
大川小学校で子供を探すお母さんに「見つかった方が良いんですかね 見つからない方がいいんですかね」と問いかける
「覚悟しています 本当は見つかって欲しい 一刻も早くこの様な状況から子供達を助け出したいんです」と言う話をする
怒りをぶつける処が無い 「じゃあ僕にぶつけてください」という カットを要求するがこれは大事なせりふだからとカットしてくれなかった
自分達のだらしなさ 浅はかさを示すうえで大事な 台詞であると ぼくもそう思います 思わず言ってしまったが (姑息でもある メディアの加害性、偽善性、後ろめたさがテーマですから)自分達メディアのだらしなさ 厚かましさ 汚さ 全て出そうと NGとOKが転換すると言う事はそういうことなんですけれども残すべきだと言う事で残すことになった
自分としては複雑な気持ちですけれども、私達は傍観者であるのみ 不幸を探してうろつきまわっている
後ろめたい気持ちはメディアをやる上で大事だとおもうんです
この作品でテーマにしようと思うようになった
遺体をブルーシートで運んでいる時に角材を投げ込んできたシーンがある
遺族としては撮らないで欲しいとの思い 謝りながら撮っている(意味不明 矛盾したこと)
メディアに対してのメッセージでもある
自分達メディアは こんなに図々しくて、厚かましくて お粗末なんです と自己批判を含めて批判しようとそういった思いがありました
「後ろめたさ」「他人の不幸を取材するドキュメンタリー」
暴力 加害性 そういう仕事をやっているんだ というのを見る事で見る側がどう考えてくれるか
自己投射するかも知れないし、日本全体にメディアだけじゃなくて と言う風に思ってくれた人がいたらもっと嬉しい
加害性はある マスメディアの人が覚悟すべきは人を傷つけない配慮ではなくて もしかしたら人を傷つけてしまうかもしれない事を覚悟すべきだと思っています
日本人の多くの人は後ろめたさを感じた
(自分の身には何にも起きなくて 一方で多くの人々が亡くなり、被災して苦しんでいる)
「絆」という言葉だけに逃げるんではなくて、もっとネガティブなものにも見つめなくてはいけない 生き残ったゆえの罪責感
事件とか事故を報道しますが、一面的でしかない 実際 それは多面的で、多層的であり、重層的であり つまりどこから見るかで全然違った面が表れてくる
例えば人間もそうですよね Aさんと言う人がいて、Bさんから見るとこういう人で、Cさんから見るとこういう人と見る人によって全然違うわけです
処がマスメディアは均質化しちゃうんです 視聴者、読者が一番喜ぶ、なおかつ判りやすい部分だけを出しちゃうんですね どんどん現象が矮小化されてしまう
メディアが発達すれば発達するほど世界が単純化してしまう
今回はマスメディアによる単純化 矮小化に対する「あがらい」 世界の多重化、多層化を示すことだと思っている
後ろめたさと言うような感覚は非常に大事だと思っている
先ずは自分が知りたい
「3・11」は色んな見方があるとおもう それでいいと思っている
2012年4月3日火曜日
吉岡幸雄(染色師家) ・日本の色を染める2
| 吉岡幸雄(染色師家)・日本の色を染める |
| 植物を求めて旅をする おもに使用するのが50種類 ミョウバンとか灰も使う 伝統的な仕事なのでなんか一つでも無くなると仕事ができなくなる |
| 継続して頂くので旅をする 染屋200年続いている 後継者がいなくなってきている |
| 初代 2代、は植物染料 3代目は化学染料が外国から入ってきて競って使ったので植物染料は 殆ど無くなってしまった(世界中の傾向だった) |
| 父も化学染料だったが、正倉院展とか日本の行事が国民の間に広まってきた 1000年以上前なのに美しい色が出ている |
| その素材を考えるてみると植物染料だと もう一回考え直す必要があると父が考えた 父は大学の教師をしていましたので染料に対する研究に趣をおいて |
| いましたので、化学染料とか植物染料とかに分け隔てなく考えていたのですけれども、 戻ってゆくのには植物染料の方が真っ当だろうと考えて戻りつつあった |
| 私が継いだ時には植物染料に決めていた 公害問題も当時は問題に成っていたし |
| 父と一緒に旅に行ったりしていた 今の人の創意、工夫などは1000年の歴史の上では知れている |
| 材料 紅花 乾燥した花で 100kgは使う 東大寺のお水取で60kg使う 小さな半紙一枚作るのに1kg必要 できるだけ国産でやりたいが20kg |
| 中国でレベルの高いものを使うと良い色がでるのでそれらも使っている 量としては紅花が一番おおい |
| 三重県 湿気のおおい 川霧がたつ処が良いと言われている 坂井いさお さん |
| 黄色はおうみの滋賀県伊吹山 かりあす(刈安)というすすきに似たもの (平安時代の書物にはかりあすは近江と丹後と書いてある) そこから取り寄せている |
| 刈安は1年草 乾燥したものを取り寄せる それを必要な時にぐずぐず煮て使用する その時にミョウバンとか椿の灰の助けが必要になるわけです |
| 椿の灰は紫を染める時に使う 椿の灰は染める時に色が綺麗になると昔の本に書かれている 葉っぱと枝と両方ですね |
| 沖縄に行くと福木という防風林として使用しているが之の木の皮を使用する(黄色) 花が綺麗な色だからとか草も緑がそのまま染まるかというとそうではない |
| 皮の外は黒っぽい色をしているが、削ってみると黄色い色をしている 煮出してみると色が出てくるとか |
| 「色紀行」 沖縄では黄色が非常に尊い色と言われている 本土の方は紫であるが 想像も入っているが 中国の明の影響が入っていて 明の時代は古代中国に |
| 戻ろうと言う発想ですから 黄帝(皇帝)と黄色が高貴な色に成っている 黄色が高貴な色に決められていた 黄色は一般の人には着てはいけない色に成っていた |
| 日本では紫は高貴な色であり高価な色である 紫草は「伊勢物語」「源氏物語」等に書いてあって 武蔵野の紫草と言って 今の吉祥寺、三鷹あたりで |
| 沢山とれたと書いてある 九州からも沢山とれた その時代には でもそんなに沢山とれたものではなくて 高貴な色と言うのは 材料が貴重でもあるわけです |
| 今も大分県豊後竹田市と言うところがあって紫草を復活させて栽培してもらっているのですが 栽培が気難しい 栽培に苦労してもらっている |
| 古い文献を見ると豊後、薩摩、富士山の東側が良いと書いてある 火山灰地がどうも良いようだ 東京も紫草の校章に成っているところもある |
| 紫は妖艶な色 光によって微妙に色が変わる それが紫の特徴だと思っている |
| ふくさは紫が多い 源氏物語は紫の物語ですね 藤原氏にも通じますしね |
| 「紫」という映画を作ろうとしている |
| 藍 はいろんな国で作っている インディゴブルーとか 徳島の藍が有名 藍は1年草 4月に種をまいて8月頃に収穫する |
| すくも 藍の葉っぱを刈った後にそれに水を掛けて腐らして腐葉土の様にされる それを我々のところに送っていただいて 木の灰で溶かしてそこに小麦粉のでんぷん分とか |
| お酒などを入れてやって おもりをするわけですね 1週間ぐらいたつと気温が上がってくると 発酵して還元して酸欠状態になって液がドローっとして来る |
| 表面に油が浮いた様な状況になって 藍の花が 淡い泡がぷくっと下から出てくるんですね そうすると染めてよろしいと言う事になります |
| 世界中 同じやり方ですね (植物の違いはちょっとずつ違うが、やりかたは同じですね) |
| 中世の終わりごろには綿が日本には入ってきて温かい西日本で栽培することを促進した 木綿が普及する 綿は染まりにくい材料だけれども藍とは相性が良い |
| 江戸時代の庶民は藍染めの木綿を着ていた 藍は一番沢山作る 空の色、海の色 人間の色に馴染む |
| 茶色 タンニン酸 木の皮とか お茶を飲んでいるのもタンニン酸 渋 茶色は材料に苦労はしない 栗のいがとか 柿渋 どんぐり |
| 防腐剤になる タンニン酸は柿の実を守る |
| 染める技術は中国、朝鮮から入ってきた 飛鳥から天平にかけて日本のなかで凄く発達した |
| 当初保温すればいい機能だけだったが 絹が中国で発明されて 絹はタンパク質なので植物性染料 は非常に染着性がいい 絹に綺麗な色を染めて細やかな糸で錦を織るという |
| ですからシルクロードと言う文明の交流が絹をきっかけに起こったと言う 中国に憧れる人は段々と広まって行った |
| 人間は自然とともに暮らしている 特に古代の人は自然に対する畏敬の念が非常に強かったと 思います 自然の美しさをそのまま映して自分の処の身近に置きたい |
| これが染色とか絵画の発展のキーポイントだと思いますね 世界的に言うと4000年、5000年になると思いますね 日本ですと2500年ぐらいになるんじゃないですかね |
| やっぱり絹の文化が来て進んで行ったと思いますね 麻とか藤ですと顔料を塗って行ったということはあると思いますね |
| 本格的な染色は中国におけるシルクロードの文化の交流が始まった2000年~2500年前だと思いますね |
| 卑弥呼の時代 纒向古墳(まきむく) の排水溝から紅花の花粉が大量に見つかっていますね 排水溝から出てきたという事は染屋があったか 口紅を作る化粧品屋があったか |
| この二つが考えられますし 飛鳥の酒船石 藤の木古墳から紅花花粉がみつかっていますし、 これは明らかに紅花の赤を作るために 口紅と言い、染色と言い意識が |
| 多分に有ったと思いますね |
| 今までは日本では1500年前に紅花が渡来してたと言われていたんですが 1800年前には少なくとも 紅花の技術があったと 大まかに2000年前にはあったんじゃないんですかね |
| ベンガラとか朱は顔料なので土とか石から採ったものですね 粒子ですから塗るという行為しかできませんね 染色は染めるという行為なので繊維のなかに浸透させるという行為ですね |
| どちらが先かというと、朱とか丹が先ですね 先ず塗ると言う行為、次に繊維の中に染めると言う行為が出てくる |
| ベンガラは岡山県の吹屋という処で非常に綺麗なベンガラができています 江戸時代は伝統的な技術を改良しようとする動きが出てきて 手順を解明しようとする ※「生成色(きなりいろ)」=無染色無漂白の布地の色を指す。 |
| 福岡県のミョウバンを改良するのに何人も非常に苦労したと言う話もあります どちらも生産はしていないのですが 我々の心を揺さぶるものがありますね |
| 皆さんに認識して頂きたいのは白の事ですね 白と言うのは染めないですね 処が植物には「生成色(きなりいろ)」と言うのがあってタンニンが有りますから |
| 繊維はそのまま織ったりすると少し薄い茶色と言うのか ベージュと言うか 生成色があるんですね 白は清浄とか 白を欲しがる |
| エジプトの壁画を見ると判る様に皆白い布を纏って生活してますよね ああいう事は日本でも共通なんですね |
| 白は染色出来なかったので、さらすと言う事です さらすと言う事は日に干すと言う事です 河原とか雪のうえとか海とか紫外線の強い処で干しておくと |
| 布は自然と漂白されてゆく 東京都の多摩川 今はそんな面影はまったくないが 多摩川のさらしは有名だったんです |
| ですからあの辺りは調布とか田園調布とか、布田 あれは布を調達して多摩川の川で洗って濡れた まま河原に干しておくと白くなってくる |
| 万葉集にもそういう歌がある 「多摩川のさらし さらさら・・・」 町名に残っている 麻布と言うところは麻を織ったところですね |
| 紫紅社 にて本を出版している 美術工芸 |
| なんで植物染色にこだわっているかというと懐古趣味ではなく 染め上がった色が一番美しい そこが継続しなくてはいけないと言う役目ですね |
| 人間が作った人工的な色はなんか一見美しいように見えて、奥底が無い 植物染めの良いところは本当に奥底に色が有ると思います |
| 植物が枯渇してきますからこれを何とか これをもう一回農業というか そういう作物を作ることを 見直してもらいたい |
| 絹なんかも麻なんかも危機に瀕しているんですね そういうものを作っていただくと言う事が私だけの力だけじゃなくて沢山の方のご協力を得ませんと いけませんから |
2012年4月2日月曜日
吉岡幸雄(染色師家) ・日本の色を染める
| 吉岡幸雄(染色師家) ・日本の色を染める |
| 京都で江戸時代から続く染色家の家に生まれる 家業を継ぐのを望まず、広告宣伝の仕事を始め美術関係の出版社を設立しました |
| 古都京都で江戸時代から続く染屋「染司よしおか」の五代目当主 |
| 41歳の時に染色家業を継ぐことを決めて、5代目当主として染色と古代色の解明に取り組んでいます |
| 福田伝士(工房で信頼している一緒にやっている職人) |
| いちばんの手本は自然の姿 家業に戻ってからはきょろきょろ見るようになった |
| 植物染 自然のうつろいに沿って染めてゆく 栽培しているものもあるが できるだけ自然の産物を頂く |
| 東大寺お水取り 毎年行っても新鮮さを感じる 作り花(仏様に捧げる花 季節に間に合わないとか季節の行事に合わせるため) 「紅花染和紙」 椿の花を |
| 紅花 花芯は黄色クチナシの実で染める 1261回になる お水取りの行事 40数年前に仕事が父の代に話があり それから工法に則った 方法で納めているわけです |
| 赤、白の花弁が混ざった椿 色んな伝説があってはっきりしない 作り花を献納すると言うのは大仏ができた時からやっていたようだ |
| 紙を紅花で染めて それを東大寺に収める 紙のまま納める 行が終わるまでは火を別にして一切家には帰らず30日間生活をする |
| ある種の聖域に成っている 紅花は夏に摘んで乾燥して冬に染める その方が綺麗に染まる 寒の紅と呼ぶ 12月を過ぎないと仕事に拘わらない |
| 紅花の乾燥した状態のものは黄色、と赤が混在している(オレンジ色) それから赤を分離しなくてはいけない |
| 「黄水洗い」 赤を取り作業をしなくてはいけない 桶に水を張って紅花を2~3kg浸けておく そうすると黄色のいろだけが出てくる |
| 翌日洗っては絞り洗っては絞りする作業をずっと続けていると黄色が抜けてゆくんです 黄色は棄てている 赤がほしいので |
| 黄色は普通の水で流れる 赤色はアルカリ性 藁灰のアク汁を用意してそこに浸ける 小さな家一軒分に相当するわらが必要で予め農家に予約しておく |
| 赤色を出したい作業の3日前に藁灰をお湯につけてしばらくほうっておく お湯の中には藁灰の成分が溶け込んでアルカリに成ってゆく |
| 赤色の色素の残っている紅花を揉んでやると赤色が出てくる それだけではアルカリ性なので染まらないので米の酢を入れて中性にする |
| 段取りが大変大事 口紅も昔は紅花を使用していた 沈殿状にしなくてはいけないので麻布を 入れる 紅花の色素は麻布の中へ中へ入ろうとする |
| その麻布をまた藁灰のアク汁に浸けてやるわけです そうすると麻布に付いた赤色の色素が もう一度出てくる 少ない液を使うので濃い紅花の色素が出てくる |
| うばい(烏梅) 6月には熟した梅の実が落ちる それを集めてきてかまどとか煙突に付いた すすをまぶす それを24時間おがくずで薫製する |
| うばい(烏梅) 乾燥した梅を水につけておき 3日~4日するとクエン酸が出てくるわけです その液を紅花の液に足してやる 色素同士が結合して沈殿する |
| 艶紅花の泥ができるわけです 水彩絵の具の赤色と思ってもらえればよい それを薄めて何回も和紙に塗って行くと唐紅という色の綺麗な紅花の色に成ってゆく |
| 一日に2枚か3枚が染まる 紅花の工程でさえも1年掛る 種を植えて収穫 染料の種類は50種類 植物の材料 |
| 古代色の解明→王朝の重ね色辞典 源氏物語の色辞典とか古代色の辞典を出している 古いものを見ていると非常に美しいものが沢山残っている |
| その技術はどこからどのようにできたのか その色を醸し出す材料はどこにあるのか どういうものなのかを勉強するようになった |
| この仕事を継いだ後これをもっと深めなくてはいけないと思い勉強し始めた |
| 正倉院宝物 文書が沢山残っている 当時の記録書を読むのは日本では活字になっているので 比較的楽に読める |
| クルミで染めた紙、(茶色) エンジ色 緑 平安時代の染色に関する材料、技術 沢山残っている 「延喜式」に記載 料理の手順のように本に書いてある |
| 展覧会に行って何回も行って目で覚えておく じっと見ていると同じ赤色でも これはあかねで 染めたのかなあと これはえんじ虫と言う虫で染めたのかなと |
| 大まかな分類ができるようになってくる この紫は紫草の根っこで染めているとか 根っこに色素がある 茜(赤い根っこ 赤根) |
| アク 木の灰なのか 藁灰なのか 見分けないといけない 藁灰はアルカリ性が柔らかい 木の灰 クヌギなどは強いアルカリ性になる |
| 日本の色の名前 400種 私はつけた 自分で考えればよい 1000種ぐらいあるのではないか 江戸時代の文献には一杯記載されている |
| 源氏物語 平安時代を理解するには物語、和歌等を理解することが大事 源氏物語を原文で3回読んだ 色の名前とか色の表現してあることをノートに書き込んだ |
| 紫式部が衣装を書いている時にどういう色合いだとか想像をめぐらしたり 或はすおう色とはっきり 書いてあったり これはすおうの木で染めたんだと判る |
| それを再現してみたりした 文学と係わることは色を研究する上で 日本の色の歴史の流れを知る 上で良いのではないかとやってみた |
| 桜かさね 平安時代のなかごろから和服の原形みたいなものが出てくる 3枚も4枚も着ている ずらして仕立ててあるので袖、襟に重なる部分が出てくる |
| 下の部分が見える その部分を四季に咲く花とか草とかそういうものになぞらえるというか 和歌の文化はそうだと思うんですが、なぞらえる文化が出てくる |
| 桜の絵が描いてあるわけではなく 重なった部分に桜を感じるのか 黄色だったら山吹と感じるのか 菫と感じるのか 藤と感じるのか或はカキツバタと感じるか |
| そういう心理の掛け合い 探り合いというのか そういうのが平安朝の文化の特徴だと思います 梅とかはっきり言うのではない |
| 近世になると友禅染とか梅の花、桜の散る花が書いてあるとかあるが 平安朝は色の重なりで あーそういうものを着ているんだなあと言うことを探ることがあるんですね |
| 源氏物語に書いてある「時にあいたる」 時節にあった |
| 日本人は一番四季を尊ぶ 移ろいを楽しむ と言うところに日本文化の根源があるように思う |
登録:
投稿 (Atom)