2024年1月25日木曜日

加藤 タキ(コーディネーター)     ・〔私のアート交遊録〕 どんなに辛くとも梅の木の様に!

 加藤 タキ(コーディネーター)・〔私のアート交遊録〕 どんなに辛くとも梅の木の様に! 

加藤 タキさんは昭和20年労働大臣を務めた父は加藤勘十さん(当時53歳)、女性初の国会議員となった加藤シズエさん(当時48歳)との間に生まれました。 アメリカ留学から帰国後、ニューズウイーク誌やタイム・ライフ誌での勤務を経て、ザ・モンキーズの通訳を経てコーディネーターとして活躍、オードリー・ヘプバーンやソフィア・ローレンを始め、海外大物アーティストのCM出演交渉や国際的な音楽祭などで活躍します。 さらに講演やシンポジュームのほか、ボランティアとして現在16か国で支援活動をしている国際NGOの「AARJapan難民を助ける会」の副会長を務めています。 加藤タキさんは自らの人生に大きな影響を与えた両親、中でも生涯現役として社会への提言を続けた明治人の母の精神と言葉を広く語り継ぐことを使命の一つと考えていると言います。 78歳になった今も溌剌として前向きに生きる加藤タキさんに、年齢にとらわれない生き方や美しさについて伺いました。

母に言われて姿勢だけは気を付けています。 姿勢を良くしているとちゃんと見える。 人間辛いことがあると下ばっかり見ていると、幸せが目の前にあってもそれを見逃すことがある。 凛と姿勢をきちんとしていれば、目の前のことを見ることができる。 67歳で社交ダンスを習い始めました。  60歳ぐらいから贅肉が付き始めて、ジムに通い始めましたがなかなかできなくて、挫折しました。 中尾ミエさんが一緒に踊りましょうと言われて64歳で始めました。 東日本大震災がありボランティア活動が忙しくなり、行かなくなりました。 

一緒に始めた友人がパーティーでお披露目をするということで見たら、若々しくて綺麗に痩せられるんだという事を目の当たりにして、自分でもやろうと思って67歳から又始めました。  68歳でお披露目をして以来10年間パーティーなどでお幌目させて貰っています。 太ももが4,5cm痩せ、背中のぜい肉が全部とれました。  腕の部分も贅肉が取れて筋肉が付きました。 取れた贅肉がバストに来ました。 体形がすっかり変わり女性として嬉しいです。 75歳でシャンソンとカンツォーネを始めました。 ボイストレーニングをやっているうちに3オクターブに近づいています。  腹筋なども鍛えられて大変健康です。 何か始めるのに遅いという事はないと思います。

寝る時間を割いています。 寝るのは一日3時間ぐらいです。 完全徹夜を頻繁にしています。 でも食事後ソファーに座ってこっくりこっくりしているようです。(夫の言)   53歳、母48歳のとき生まれました。 戦争末期で母の乳は出なかったので粉ミルクで育ちました。 「自分達は何時亡くなるか判らないので、一人でも生きていけるだけの力を持ちなさい。」と口を酸っぱく言われました。  2,3歳のころに、父が労働大臣をしていたので外国の方々とも多く接していました。  英語を身に付けたいと思うようになったのかも知れなくて、英語に興味を持ちました。  何時亡くなるか判らないので、両親は子離れを意識していました。  私は42歳での高齢出産をしましたが、子離れは難しいです。  母は私が転んでも決して手を出さなかった。 どうしたら転ばなくなるか考えるようになります。 心の挫折も案じていたそうです。  

アメリカのポートランド大学へ留学し、卒業、帰国をして、母からニューズウィーク」や「タイム・ライフ」の東京支局長の紹介の名刺を頂き、面接に行きました。 「採用された場合は給料はいくら欲しいのか。」と言われて吃驚しました。 「貴方は自分で自分の価値がわからないのか。」と言われました。  アメリカ大使館の秘書室での面接の経験があったので、その時の提示金額を言ったら、勿論それでいいですと言われました。 仕事は経験したことがなく、誰も教えてくれないので大変でした。  3D「でも、どうせ、だって」と言う言葉は私にとって禁句でした。(否定的) 東日本大震災では肯定的な3Dもありました。 「出来るひとが、出来ることを、出来るだけする。」と言う事です。 生きる姿勢が変わって来る。  いつも自分に言い聞かせています。 

通訳もやっていまいたが、ザ・モンキーズが初めての来日で通訳を務めました。 その時コーディネーターとして活躍するきっかけをつかみ、コーディネーターとしての第一歩が始まりました。  オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレン、フランク・シナトラなど大スターたちと仕事をするようになりました。 彼らは孤独ですね、それと普通で居ればいる程大スターです。 時間はしっかり守り、自分の荷物は自分で持つ。 特にオードリーさんからは凄く色々なことを学びました。 気が合いました。 彼女は私の本質を見てくださっていて、常に誠実でありたいという私の仕事に対する臨む気持ちを理解してくれていました。  

『さだまさしが聞きたかった「人生の達人」タキ姐のすべて』と言いう本を出版。」 母からの宝石のような言葉が書かれている。 「貴方はまだ自分の良さを気付いていない。」 諦める方が楽だった時にそういわれると、自分の中にまだ可能性があるという事を気付かせてくれる。 もう一歩成長してみようかなと言う気になります。  年齢は加齢によって誰にでも訪れるので、「こんなもんかな。」という自分で自分を諦めさせてしまう。 この言葉を聞くと、挑戦の意欲をかき立たせてくれる。 「いつも貴方自身で言いなさい。」 30代で講演の仕事をした時に、原稿用紙を暗記したりしているんですが、「いつも貴方自身で言いなさい。」と言われました。  上手くしゃべりたいとか、ここで笑って欲しいとか、受けようと思っている、そういった気持ちはないか言われます。 「その時点で貴方は貴方ではないのよ。」と言われました。 もし言葉に詰まったり、間違えたりしたら、その時に貴方はその時に貴方でしかない。 そこから何を学ぶかが貴方なのよ。」と言われて、凄く気が楽になりました。  社交ダンス、シャンソン、カンツォーネを始めましたが、間違えたら間違えたでいいと思って気楽にやっています。

「人は皆、赤い血が流れているんだよ。」  どんなかたも怪我をすれば赤い血が流れる、同じじゃないと思うととっても気が楽になり、自然体で居られます。 「梅花春に先駆けて咲く。」  背筋を伸ばして梅の木をみてみなさい、凜といしていてどんな木枯らしが吹いても蕾は必ずほころんでくる。  この言葉は父が母に送った言葉です。 母は本当に苦労を重ね、一人は戦争で、もう一人は結核で二人の息子もなくしてしまいました。 夫は14年かかって離婚をして、勘十と結婚しました。 いろんな意味で挫折を味わい孤独を味わい、不信感を持ち、そんな中で同じ目標に向かって、人間の幸せを願っての活動、社会運動をしていた時に「梅花春に先駆けて咲く。」 という言葉のプレゼントをしたという話を聞きました。 それを母からプレゼントしてもらいました。  ボランティアへの導きにもなりました。 「出来るひとが、出来ることを、出来るだけする。」と言う事です。

とんでもない時代になってきているが、許容量がなくなってきている、愛が失せてきている、自己中心が発展しすぎている、明日は我が身と思うと優しくなれるはずですが、と私は思います。 こうしたら喜ぶだろうなと言う想像力が大事だと思いますが、便利になり過ぎたような感じがあり、便利さを考え直してみると、人間関係の深み、優しさに繋がるのかなあと思うんですが。 こうしたら喜ぶだろうなと言う想像力が一番欠け始めていると思います。  母のドラマを作りたいです。  お薦めの一点は言葉で、「春の海の心」です。 穏やかさを自分の心に持ち続けたい。