2025年2月28日金曜日

宇野和美(翻訳家)            ・〔ことばの贈りもの〕 私は、“わたし”を生きる

 宇野和美さんは大阪の出身、東京外国語大学でスペイン語を専攻、1995年に児童文学「アドリア海に奇跡」で翻訳家デビューして以来、児童書、絵本を中心におよそ60冊を翻訳しています。  現在JBBY日本国際児童図書評議会の会長も務めています。  JBBYは子供の本を通して平和をと言う活動を行っている団体で、良質な子供の本の普及、読書活動の推進、子供の本を通した国際理解などを図っています。  宇野さんが翻訳者になる夢を確かなものにする礎となったのが38歳の時、5歳、7歳、9歳の3人の子供を連れてスペインバルセロナの大学院に入学した経験でした。 夢を諦めない宇野さんの人生について伺いました。

昨年は6冊絵本を出版しました。  私の翻訳した7,8割ぐらいが自分で見出して提案した本になります。 日本で書かれていない本とか、こんな面白い本を日本で読んで欲しいとかそういう本を出そうとしています。  翻訳出版は言語によって大きな格差があります。 2024年に国際子供図書館に納められた児童書で英語から翻訳されたものは500点以上ありますが、スペイン語からの本は11点だけです。 

2023年からJBBY日本国際児童図書評議会の会長も務めています。 去年が50周年になりました。  素晴らしい作家とお目にかかる機会もありました。  子供の本に関していろいろ話し合う事が出来たことは、とても大きな経験でした。  ボランティア活動をしていていい事は、いろいろな人と信頼関係で結ばれることが有難いことだと思います。  

小学校、中学校は転校が多くて、本を読んで違う世界があることが大きな救いになっていました。  外国の作品を読みたいという思いが強かった。  中学生の頃に翻訳家になりたいと思いました。  東京外国語大学でスペイン語を専攻しました。  出版社に務めました。  新婚旅行でスペインのマドリードに行った時に、児童文学を10冊ぐらい購入しました。   2017年に「太陽と月の大地」と言う歴史小説を翻訳しましたが、そのなかの一冊でした。  29歳で出産し、そこで会社を退職しました。  その後二人を出産しました。 長男が1歳の時に保育園に預けて、翻訳の勉強を始めました。(時間的には厳しい。)    

35歳の時に「アドリア海の奇跡」でデビューしました。  嬉しかったです。 翌年絵本を出版しました。  読み物とは全く別の世界だと思いました。  子供から学ぶことも大きかったです。  38歳の時、5歳、7歳、9歳の3人の子供を連れてスペインバルセロナの大学院に入学しました。  1年のつもりでしたが、2年半になりました。 須賀敦子さんが森さんに「貴方みたいな人はヨーロッパに行くといい、3人連れて行けばいいい。」と言う本の中の言葉に接して、衝撃が走りました。  そこから決心し、計画を立てました。 

時間がない事と語学が厳しかったこともあり、苦しい時期ではありました。  子供がいたから頑張れたという一面もあります。  私は、「わたし」を生きるしかないんだなと、どっかで思っていたのかなあと思います。  仕事、日常で出会う人で素敵な人が沢山います。  そういう人と友達でいられるというのが、とてもありがたい気持ちがあります。  その人と一緒に話せる自分でありたいといったことの積み重ねが、自分を少しづつ上を向いて歩かせて来たといったものがあります。









 

2025年2月26日水曜日

菅野政夫(個人育種家)          ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道

菅野政夫(個人育種家)       ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道 

交配を繰り返してそれまでなかった花を作る育種の世界、菅野さんは最初からはなが好きだったわけではなく、衝撃的な出来事がきっかけで花の世界に入ったそうです。

オステオスペルマムの育種をしています。 オステオスペルマムは南アフリカの原産でキク科の植物です。  夕方、曇天、雨の日のは閉じる性質を持っています。 閉じない花を作るという事で日本で開発されました。 出来たのは平成4年ごろでした。  オステオスペルマムの花の色は白、ピンク、パープルの3色程度でした。  改良を重ねてきて、最近は色々な色があります。  私が作ったものでは色が3,4色に変ってゆくというものがあります。  狙ってできるものではありません。

最初から育種家になろうと思ったわけではありません。  別に花が好きだったわけはありません。  私が中学1年生の時に夏休み前に起きた集中豪雨のよる土砂崩れで一家全員が亡くなった災害がありました。  同じクラスの女の子で、弟も自分に良くなついでくれていた子でした。 彼女の一家の告別式がありましたが、家でふっと窓の外を見た時に、真っ赤なダリアが目に飛びこんできて、電気が身体を貫くような感覚を覚えました。  あの花を告別式に持って行ってやりたいと思い、祭壇に手向けました。   1年後、2年生になった時に先生がダリアの球根が余っているから欲しい人がいるかと言ったので、真っ先に手を挙げていただきました。  家に持ち帰って埋めておきました。 忘れていたが、8月下旬に真っ赤なダリアが咲き、思わずアッと声が出ました。  1年前に感動したダリアの花も今回咲いたダリアの花も、覚えているのが1日だけでした。  

中学卒業後就職しましたが、通信機関係の仕事で自分には向かないと思って辞めてしまいました。  突然赤いダリアのことを思い出しました。  花には人の心を感動させる力があると思った時に、そういう仕事がしてみたいと思いました。  自分が行きたかった夜間の普通高校に行くことを決意しました。  1年後に入学しました。  就職する段になりましたが、行き先が決まっていないなかかで、先生が声を掛けてくれました。  先生の実家が種苗店を営んでいて、その関係で先生が2社に手紙を送って下さいました。  1社は自分の知っている会社名だったので、そちらを受けることにしました。  農場の花の仕事を希望したが、いい返事がもらえなかった。  兎に角花の仕事がしたいという事を力説して、なんとか入社する事が出来ました。  

そこの会社の農場長との出会いが大きかったと思います。  案内されハウスにはオステオスペルマムの最盛期で花が咲いていました。  目を見張るような光景でした。  その日の夜は興奮して眠れませんでした。  ここでの最初の5年間は無我夢中で働いたのが、凄くよかったです。  不器用なほうですが、農場長、先輩からいろいろ教えていただきました。  誰でも最初からは何もできないんだからと励まされました。  農場長からは一株が持っている性質の幅を段々広げてゆく事を教わりました。 新しい花を作る、育種を将来はやりたいと思いました。  

本を読んで勉強もしましたが、本を読んだだけではわからない。  迷ったら現場に行って観察するしかない。  観察力を養う事は3っつ目の農場で出会った直属の上司から教わったことは計り知れないものがあります。  農場長からは「私は仕事を始めて50年以上になるが、50年以上たってようやく最近判りかけて来たんだよ。」と言われて、私にとって重い言葉でした。  今でもわからないことはいっぱいあるが、分かろうとする努力は必要だと思います。   家族には何時も花がある、そういったことを夢見てしまいます。   育種家になるのには相当資金が必要です。  自分ではコツコツ貯めてはいましたが、退職のお祝いの食事会をしてくれた時に、妻からのプレゼントがありました。  これから資金が必要でしょうからという事で目録として手渡されました。  嬉しかったです。 妻の後押しが無かったら、出来なかったことです。   妻が喜んでくれる、お客さんが喜んでくれるという事が理想な形です。  品種登録は妻と連名にして提出しています。 

オステオスペルマムは妻は嫌いだと言っていましたが、アッと妻が振り返るようなオステオスペルマムの花を作ってやろうと宣言しました。  昨年の春に花売り場を妻が眺めていて、「貴方の作るオステオスペルマムは色も形もずっと綺麗。」と言ってくれました。   夢は青い色のオステオスペルマムを作りたいと思っています。  香の付いた赤いカーネーションを作って、母親と妻の母親にも贈りたい。 (二人とも亡くなっている。) 母親を思い出すような、心が和むみたいな香りを作りたい。  感動を届けられる花の仕事をしたい、感動は自分にとって最大のキーワードになっています。 花は人に感動を与えてくれる力がある。













  

2025年2月25日火曜日

大西光子(主婦)             ・「息子とともに 半世紀を生きて」

大西光子(主婦)             ・「息子とともに 半世紀を生きて」 

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に贈られるものです。  大西さんは長年に渡る体験実践記録に対して贈られる矢野賞に輝きました。 大西さんは東京都在住の91歳、かつて小学校の教員をしていました。  4人目のお子さん曜介さんに脳性まひがあります。 子育てに奮闘しながら駅のエレベーター設置やグループホーム設置運動に力を注ぎました。  今回の入選作では陽介さんとの56年の日々を、当時の筆記を抜粋しながら振り返っています。 

「障害のある息子と暮らしとぃます。 それは4人目の子供で上に兄二人、姉一人がいます。  夫と6人家族で暮らしていました。 今は夫が8年前に亡くなり長男も去年亡くなって障害のある息子と孫と3人で暮らしています。  息子は56歳、私は91歳になりました。」

曜介は1967年生まれ。 生まれた時には障害はなかったが9か月の時に突然高熱になって、入院しました。 病名は急性脳症と言う名前でした。 左半身麻痺になってしまいましたが、小さかったので障害というイメージがあまりありませんでした。  1歳過ぎても3,4か月の赤ちゃんと言う感じでした。 その後つかまって立つとか、段々と変化はありました。  

「2歳半でお座りが出来る状態でした。 ・・・ リハビリの先生が曜介と一緒に転がりの練習をしてくださいました。 ・・・曜介が自分で転がりの練習をしてるんです。 わざと倒れて右手を出して支えるという練習をやっているんです。 これを観た時に私は感激しました。・・・教えてやれば段々出来るんだと思いました。」  

都立障害者センターへリハビリのため週一回ぐらいで通いました。(2歳半ぐらいから)  5歳ぐらいで歩けるようになったのもリハビリのお陰だと思います。 教えるだけでは駄目で受け手の方でもそれを一緒にやろうという風に、両者が目的に向かってやろうという事が大事です。 小学校に入るまでは障害と言う意識は余り無かったです。 障害は直るという事はないので、その状態のままで生きて行かれるように、周りの環境を良くするために働こうとか思いました。

「息子を通じて参加した障害者運動が私の人生そのものでした。 ・・・晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」の言葉が私にとって最大の褒美でした。」

息子たちが養護学校に入った時(1974年)画期的な出来事がありました。 東京都が障害児の希望者全員入学という制度を打ち出しました。  遠足で電車に乗ることになりましたが、初めて電車に乗ったというのが半分以上でした。  いろいろ会を作ったり署名活動、請願したりして理解が進んで、鉄道の方も承諾して、市役所も実現しようという事で駅にエレベーターが設置されました。  運動を開始して5年ぐらいでエレベーターは設置されましたが、障害者専用とか、時間制限などがありました。  老人、妊婦とか全部制限が無くなるまでには16年掛かりました。 

晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」という言葉は嬉しかったです。  母親からは「上の子たちに我慢ばかりさせるのは良くない。」という事を言われました。  なるべく一緒にしようとは思っていましたが。 反省はしています。 兄弟が弟の面倒をよく見ていました。

長男の言について

「曜介が長靴を履く。 そんな当たり前なことが私たち親子にとっては大事な経験なのです。 ・・・「健康な子なら直ぐに出来ているのに。」と私が言ったた時、高1の長男が「それだからこそそうやって練習する、努力することが意義がある、価値がある。」と言ってくれたのです。 私はその言葉を聞いたときには本当にうれしかったし、励まされました。」 

次男の言について

「或る日次男の友達がやってきて、曜介を見て「なんだよこれ。」と言ったのです。 すると次男は「なんだよって、人間じゃないか。」と言い返しました。 ・・・世の中の冷たさを感じました。  弟を大切に思っている次男の強さに打たれました。」

長女の言について

「娘の言葉で忘れられないのは、「妊娠した時もしも障害があっても育てるから。」です。 思い悩みそして結論を出していたのでしょう。 私は曜介が急性脳症に罹り障害があると判るまで障害児を知りませんでした。 ところが兄弟たちは子供のころから障害の有る弟と暮らしています。  娘は子供を産むとき、そのように考えているのだと強く心を打たれました。」 

エレベーターが出来た後は、これからは住まいの問題だと思いました。  当時は自宅か施設の二つしかなかった。 グループホームがぼちぼち話題になるころでした。  小平でもグループホームを作りたいなあと言いう気持ちになりました。  グループホームを設立しました。(20数年前)  6泊ホームで泊っています。  日曜には戻ってきて音楽を聴いて手足を動かしたりしています。  

息子も50歳を過ぎて、最終的には命が亡くなると言う事になるので、幸せな死に方はどういうものだろうと思っています。  社会はどういった取り組みをしていったらいいのか、と言ったことを考えます。  長男はすい臓がんで亡くなり残念でした。  私がいなくなった時に曜介のことが心配です。 








  






2025年2月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三島由紀夫

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三島由紀夫 

三島由紀夫は1925年1月14日生まれ、今年生誕100年に当たります。

「鈍感な人たちは血が流れなければ狼狽しない。  が、血の流れた時は悲劇は終わってしまった後なのである。」   三島由紀夫(「金閣寺」の中の言葉)

代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などの戯曲があります。                     16歳の時に「花ざかりの森」と言う小説でデビューしている。(戦争中)  一作一作を遺作のつもりで書いていたと言っている。 三島由紀夫のところにも召集令状が届くが、入隊検査が昭和20年2月10日で、この日から中島飛行機小泉製作所(群馬県)が大空襲を受ける。 この工場にいたら命が無かったかも知れない。 入隊検査でも気管支炎になって熱が出ていたので、軍医から家に戻された。 三島由紀夫が入隊するはずだった部隊フィリピンに行ってほぼ全滅している。  助かったというような気持も書いているが、自伝的な小説のなかで「私が求めていたのは何か天然自然の自殺である。 それなら軍隊は理想的ではなかったのか。」とも書いています。  自分だけが生き残ったのは負い目みたいなものがあったのかもしれない。 20歳で時代遅れになった自分を発見する。  これには途方に暮れたと書いている。    

先の「金閣寺」の中の言葉ですが、「金閣寺」は31歳の時に書かれたものです。 後から考えると割腹自殺を想起させるような言葉です。 最近は更に鈍感になってしまっていないか、三島由紀夫のこの言葉を噛み締めたい。

「自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛して貰おうなどと考えるのは甘い考えで、人生をなめてかっかった考えです。  と言うのは、どんな人間でもその真実の姿などというのは不気味で、愛する事の決してできないものだからです。 これにはおそらくほとんど一つの例外もありません。」三島由紀夫(「不道徳教育講座」の中の告白するなかで、と言う文章から)

ありのままの自分を愛して貰おうなんてとんでもない、告白なんてするなと言っています。 三島由紀夫には「仮面の告白」と言う小説があります。  告白はするがありのままの自分ではなく仮面をかぶっているわけです。(23から24歳の時に書いた作品で作家として確立) 

「弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどという事があるだろうか。」  三島由紀夫(「小説家の休暇」より) 

これは太宰治に言った言葉です。 三島由紀夫は生涯に渡って太宰治の悪口を言い続ける。 三島が大学生のころ太宰に会って、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです。」と言っているんです。  太宰に対して「最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家も珍しい。 太宰が持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦や機械体操や規則枝的な生活で直されるはずだ。」と言っている。 三島由紀夫は元々身体が弱かったが、鍛えて身体を作り上げた。 だからこういう風に言いたかった。  太宰を嫌う理由は似ていたいたからではないか。  

高校生からのインタビューでこう答えている。 「いろんな似ているところもあるんですよ。  似ていたらしゃくに触るしょう。 太宰に対していつも危険に感じるのは、もし自分が太宰を好きで、太宰におぼれればあんな風になりゃあしなかったって、恐怖感がある。 だから自分は違うんだと立場を堅持しなければ危ないと思った。」 太宰と三島は両極端にあると同時に似ているところがある。 太宰は心中して、三島は割腹自決する。 

「音楽会に行っても私はほとんど音楽を享楽することが出来ない。  意味内容にない事の不安に耐えられないのだ。 音楽が始まると私の精神はあわただしい分裂状態に見まわれ、ヴェ―トーベンの最中に昨日の忘れ物を思いだしたりする。」  三島由紀夫

「あらゆる種類の仮面の中で素顔と言う仮面を僕は一番信用致しません。」  三島由紀夫(林房雄宛ての手紙の一節)  

「仮面の告白」の編集者は坂本一亀。(坂本龍一の父親)

「素顔で語る時、人は最も本音から遠ざかる。 仮面を与えれば真実を語る。」 オスカー・ワイルド(三島が好きだった人) 

「傷つきやすい人間ほど複雑な鎖かたびらを織るものだ。 そして往々鎖かたびらが自分の肌を傷つけてしまう。」   三島由紀夫(「小説家の休暇」のなかの言葉)

続きがあって「しかし、そんな傷を他人に見せてはならぬ。」と言っています。 

三島由紀夫は中々一つのイメージには纏まらない。 

「幸福って何も感じない事なのよ。 幸福ってもっと鈍感なものなのよ。」三島由紀夫(「夜の向日葵」と言う戯曲 から)

例えば胃が痛くなければ、胃のことなどは考えない。  感じないでいられる、鈍感でいられるという事が、幸福なんですね。  敏感で傷つきやすい人であるからこそ、幸福をこういう風に定義するわけです。  

「時間の一滴一滴が葡萄酒の様に尊く感じられ、空間的事物にはほとんど何の興味もなくなりました。  この夏は又一家そろって、下田にまいります。   美しい夏であればよいなと思います。」   三島由紀夫(川端康成宛ての手紙の一節 1970年7月6日)  三島が割腹自決した年。  川端康成とは親交があり、自殺した時にも現場に駆けつけた。

前年の手紙に「ここ4年ばかり人から笑われながら、小生はひたすら1970年に向かって少しづつ準備を整えてまいりました。」と書いている。  随分前から計画をしていた様です。  

「死んでみて初めてその人の一生の言動は運命の形をとるわけですから、我々は死の地点から逆に過去の方をすっかり展望して初めてその人を落ちこぼれなく批評することができるわけだ。」  

最後は「不道徳教育講座」の中の死後に悪口を言うべきと言う文章の一節です。

「我々は死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。 憎まれ嫌われていた死者のことほど早く忘れたいのです。  そのためには褒めるに限る。  ですから死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。  死者に対する悪口はこれに反して、いかにも人間的です。  悪口は死者の思い出をいつまでも生きている人間の間に温めておくからです。 ですから私は死んだら私の敵が集まって飲んでいる席へ行って、皆の会話を聞きたいと思う。 全くいい気味だ、あのいけずうずうしい気障な奴がいなくなって、空気まで綺麗になった、本当だよあんな阿呆に良く長い事世間が騙されていたもんだ、あいつは馬鹿なうえに大嘘つきであいつと5分も話していると反吐がでそうだった、こんなことを言っている連中の頭を幽霊の私は易しく撫でてやるでしょう。  私はどうしてもぴんしゃん生きているうちに、私が言われていたのと同じ言葉を死後も聞いていたい。  それこそは人間の言葉だからです。」 三島由紀夫

































2025年2月22日土曜日

松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける

松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける 

松浦さんは教会で難民支援にあたっている社会活動センター「シナピス」の副センター長を務めています。 松浦さんはカトリックの一家に生まれ、神戸市で育ちました。 大学で神学を学んだあと、教師となり中学校と高校で社会と宗教を教えていました。 そんな中、松浦さんは聖書学者の太田道子さんと出会います。 太田さんはパレスチナの女性らを支援するNGOを創設し、聖書の学問的研究にとどまらずその実践を進めていました。 松浦さんは太田さんの活動に共感し、太田さんが所属していた教会の組織に転職します。  その後松浦さんは助けて欲しいと教会にやってきたアフガニスタン人との出会いが難民支援に取り組むようになりました。 日本は難民認定されるケースが少ないと指摘される中、どのような思いで難民の支援に取り組んできたのか話を伺いました。

幼稚園の頃は積極的な正義感の強い子でした。  小学校ではいじめられておとなしい子になって行きました。  女の子がいじめられていて、先生が仲裁に入るのかと思ったら、松浦立ちなさいと私が立たされました。 「その時お前は何をしていたのか。」と言われました。 私はいじめられるの唯見ていただけでした。  いじめっ子を怒るのではなくて、傍観者だった私を怒ったんです。 それ以来クラスは強い子が弱い子をいじめようとしたら、周りからやめろ止めろと言って、変って行きました。 私自身は納得できませんでしたが、「冷ややかな傍観者になるな。」と言うメッセージは 、60年生きてきてもまだずっと奥のなかにあります。 小学校2年生の時にまじかに死をみました。  虚しさ、生きている意味は何なのか、死んだらどうなるのか、恐怖が膨れ上がりました。  

 そういった思いが救われたのが、ミッションスクールの授業でした。  「ただ他者のために生きることが人生の名に値する。」と言う言葉でした。  怖さ、虚しさがふっと消えていきました。 大学では神学科の道に進みました。(1982年)   1981年にに日本は難民条約に加盟しました。  ボートピープルが日本に入ってきて2,3年程度の人と出会いました。  関わっていけたらいいなあと思いました。  卒業後教師となり大阪のミッションスクールの中学、高校で社会と宗教を教えました。 語学研修でアメリカまで行きました。  ラオス、ベトナムとかの難民と知り合い難民の実情を知る様になりました。 

太田道子さんの講演会が私の背中を押しました。 アメリカ、イスラエル、ローマ、パレスチナで研究を重ねた聖書学者。 1980年帰国、1995年にはパレスチナの女性を支援するNGO「地に平和」を創設研究だけではなく実践にこだわった人物です。  講演の最初に、創世記の言葉「貴方はどこにいるのか」と言う言葉に衝撃を受けました。 どこに立って物事を考えているのか、誰のところに立っているのか、そういう風に聞こえました。

1991年にはじまった湾岸戦争で、避難者移送で自衛隊機派遣に反対し、民間機をチャーターを計画、寄付を募ると数億円が集まりました。 2機をチャーターし避難者の移送を実現する。  太田さんはこの主要メンバーとして大阪の教会で活動していました。 松浦さんは直接会いに行きました。 

教師を辞めてカトリックの「平和の手」という組織に転職しました。  戦争を未然に防ぐネットワーク活動をやろうという団体です。  外国人労働者が入ってきて、不当に解雇するなど日本で路頭に迷う外国人労働者がカトリック教会に駆け込むようになりました。 外国人労働者との窓口を作って支援するための事務局開設の仕事をすることになりました。 

アフガニスタン難民で、日本に来て会社員でしたが、アフガニスタンの人たちを助けるために走り回っている人でした。 イスラムシーア派の人でしたが、いい関係を作り上げました。  タリバンから迫害の標的にされている人たちが多くいましたが、皆家族などが殺されている人達でした。  チームを作って難民の対策をしました。  対応できた人は30名ぐらいです。  難民として認められたのは1割でした。  困難さをつくづく感じました。 口コミで難民救済のことが広がって行きました。 

難民認定申請中の外国人は原則的に入国管理局の施設に収容されます。 その期間は長い人で数年間にも及びます。 難民条約批准国の中でも難民選定されるケースが極端に少ない日本は国連など複数の国際機関から制度の改善を求める勧告が出されているのです。 仮放免には身元保証人が必要で、保証人にもなることがあります。 100人近いと思います。   

教会本部から少し離れた下町に難民の人たちに対するシェルター「シナピス」ホームがあります。 元々は韓国人シスターたちの修道院でしたが、シナプスが買いあげました。    中東、東南アジアの方が入っています。  難民の認定を待つまでこちらで保護します。      

2021年春、アメリカ軍はアフガニスタンからの撤退を決め、再びタリバンによる統治が始まるといったアフガニスタンの人たちは、国外に逃れようとアメリカ軍機にしがみつきました。 飛ぶ立つ飛行機から振り落とされて地獄かと思いました。  直接私に電話をかけてきて助けてくださいと言うんです。  兎に角一人でも助けたいという思いが湧きました。  或る家族をパキスタンから日本に退避することが出来ました。  ほとんど報いることが難しい中で強制送還される人から、「貴方に会えてよかった。」と言われて救われた気がしました。 








2025年2月21日金曜日

鈴木秀子(シスター)           ・〔わたし終いの極意〕 老いを学びながら生きる

鈴木秀子(シスター)         ・〔わたし終いの極意〕 老いを学びながら生きる 

鈴木さんは1932年静岡県生まれ、93歳。  聖心女子大学卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了、文学博士。 フランスイタリアに留学後、その後国内外の大学(ハワイ大学スタンフォード大学)で長く教鞭をとる。 現在は聖心女子大学キリスト教文化研究所研究員を務める一方、生き方や仕舞に関する講演や執筆活動を精力的に行い、著書の数は170冊を越えています。 

樋口恵子さんとの対談集「何があってもまあいいか」と言うタイトルの本。 93歳の同い年です。 「高齢者は機嫌よくいましょう。」と二人で声をそろえて言っています。    30代の初め頃フランスに行きました。  こんな綺麗なところがあるんだと感じました。 修道院の院長さんが「フランスで大事にしていることはみんなが機嫌よくいる事ですよ。」と言いました。 「機嫌よく」と言う言葉がすとんと落ちました。 不機嫌はハラスメントだと思います。  機嫌がいいということは本当に大切なことだというのは歳をとるとともに強く感じるようになりました。  「まあいいか。」で切らないといつまでも恨みつらみがつながるように伸びてゆくんです。  落ち込まないための大きなきっかけになります。

90歳になってつくづく感じるのはどうやって生きたらいいかお手本がないわけです。 それに向かって鍛えておく必要があるのではないかと思います。 「老いの学校」を自分の中に作る。 先生も生徒も自分です。 特に感謝する習慣をつけるのが大事です。 歳をとると人の世話になることは当たり前ですから。  若いうちから心から感謝できるような自分を作り上げていることが必要だと思います。  90歳になって大きく変わったのは、先のことを考えなくなった。  過去のことも考えなくなった。 だからとても楽になりました。  子供は無我夢中になって今のことをしていますが、私の場合は長い蓄積と経験と英知とかが、今この瞬間に集中しながらも生きているなと言う、或る意味での喜びがあります。 花が綺麗だと思い気持も子供と深みが違います。 深く味わえるというのが歳をとってきたよさでしょう。  

私は40年ぐらい前に高いところから落ちて臨死体験をしました。  あの世は素晴らしくいいところで、人が死ぬことこんなところに来るんだということが判って、それ以来死ぬということに対する恐れは無くなりました。  5時間ぐらい意識はなかったです。 台に立っている自分をもう一人の自分が眺めているんです。  足の周りに、その時はたけのこの皮と思ったんですが、観音様の周りにそれが一つ一つ落ちてゆくんです。 一つ落ちてゆく毎に、人がなんていうことから煩わされなくなった、自分を責めることから煩わされなくなったと思って、最後の一枚が無くなって完全に綺麗になると思った時に、自分が上がって、自分を見ている自分と一体となって、高いところに行って気が付いたら綺麗な光に満ちた世界だったんです。 すべての宇宙、ありとあらゆるもの、エネルギーだとすると、大宇宙のエネルギーのおおもとの方がいて、私のすべてを許し愛し抜いてくれるというのを感じました。 人間は全部こういう愛で包まれて、皆結ばれているんだということを感じました。  あの世(自分がいた世界)に帰りたくないといったんですが、あの世に帰れば愛する事と知る事が大切ですと言って、はっと気が付いたら病院にいました。

臨死体験と言う様な言葉もない時代で、或る人が英語の本を持ってきて、それを読んだら同じことが書いてありました。  私たちは深いところで、創造主の愛によって繋がっているということを強く感じました。  どういう形で死が訪れるかわからない。 死は眠りに入るのと同じだと思います。  今こうして歩けること、話せること、出会えること、そういったことが中心になって来ます。  言い換えれば感謝だけです。  ゴミを拾って捨てる、それが出来る事が有難い事です。   私は亡くなる人に随分接してきましたが、亡くなる時に吸って吐くことが停まるんです。 普通に息を吸って吐くことがどんなに素晴らしく有難い事か身に沁みて感じます。 厭なことが起こったならば、今息を吸って吐いている、自分は生かされている、それが一番大事なことだというところに戻れば、厭なこともそんなに大きく感じないんじゃないかと思います。 

朝5時に起きて祈りから始まります。 次に御堂にいってみんなとい一緒にミサにあずかります。 食事をして自分のする仕事をして、夕食の後にみんなで集まって、災害にあった人、病気の人とかに対しての取次の祈りをします。  祈ることは死ぬまでできます。 他の人に祈ることは喜びにもなります。 祈りによって生かされているようなものです。 

私は小さい時から中学まで戦争期を過ごして、目の前で友達が機銃掃射で殺されたり、体験をしてきました。 戦争が終わって9月から学校に行ったら、教頭先生がそれまでは天皇陛下の御真影の前で必ずお辞儀をして教室に入りました。  或る生徒が終戦前と同じようにお辞儀をしたら、教頭先生は「あのバカはまだあの前でお辞儀をしている。」といったんです。  今迄一番大事だとしていたことを、否定したことに凄いショックを受けました。  生きてゆくうえで決して変わらない価値と言うものは、なんだろうと思いだしました。  

聖心女子大学に入って曽野綾子さんと同級生になりました。 話をする中で本当に変わらないものは神様だと判りました。 洗礼を受けて神様と共に過ごすことを決心して修道院に入りました。(大学3年生)  それまでの修道院では中世の風習があって、一切沈黙で敷地外には出られない習慣でした。 沈黙は当たり前のことでした。 8年間の修行を終えた時に、教会が中世の風習を改革するということになり、風習が可成り改められました。  それで外に出られる様になり、普通の人と同じように生活しながら、祈りを中心にと言う風に変わって来ました。  以前は言葉の沈黙のほかに頭の沈黙もありました。

親しかった仲間が亡くなるのは悲しいです。  悲しみを外に出して、辛いことも外に出して自分を空にして、切り替えてゆく。 愛するということはその人の心の奥に沿いながら、人は何のために生きているかと言うと、死ぬまで成長し続けて、成長するために生きているということを聞いたことがあります。  愛するというのはその人が人間として成長してゆくために、何が自分が一緒にいることで役に立つかと言う事を心掛ける、一緒にいて共に幸せ感を味わう時に人は成長してゆく。 愛するということは役に立つようなことができるのが一番です。  知るということは何を知ればいいのだろうと思いました。  今も良くは判らないが、知るということは人間として成長してゆくということはどういう事なのか、愛に生きるということはどういうことなのか、知恵を働かせて自分で考えて、自分で出来ることをしてゆく事ではないかと思っています。  小さい事で何かできることを心掛ける事とか。  これが愛なんだと言葉を交わさずとも判ることはある。 

〔わたし終いの極意〕とは愛と感謝です。 90歳を越えて、起こってくることを心を広くして「まあいいか」と言って受け入れてゆく事だと思います。 必要なことは必然と起こって来ますから。 





































2025年2月19日水曜日

小川良樹(高校女子バレーボール指導者)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 教え過ぎない、押しつけない

小川良樹(高校女子バレーボール指導者)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 教え過ぎない、押しつけない 

小川良樹さんは下北沢成徳高等学校女子バレー部の監督を42年間務め、全日本バレーボール選手権(春高バレー)で3回、高校総体で3回、国体で6回、選抜大会では2回、併せて14回チームを全国優勝に導きました。 その間にロンドンオリンピックで日本女子を銅メダルに導いた木村沙織さん、荒木絵里香さん、メグカナと呼ばれバレー人気を復活させた大山加奈さん、東京オリンピックでの日本のエース黒後愛さん、パリオリンピックでも中心メンバとして活躍した石川真祐さん、岩崎こよみさんなど多くの選手が小川さんの指導の元から巣立っていきました。 2023年3月に下北沢成徳高等学校退任した後、現在は埼玉県の細田学園女子バレー部のコーチをしています。 

1955年名古屋生まれ。 父の仕事の関係で子供のころインドに行きました。 小学校3年の時からボンベイで暮らしました。  5年生から日本人学校が出来ました。 そこでバレーに触れました。  中学にあがる時に、父は残って私は日本に帰ってきました。 バレー部への誘いがあって入りました。 中学の顧問の先生がバレーの専門の方ではありませんでした。 高校の2,3年生のころはOBの大学生が私たちに自主性を持たせるような指導方法でした。 それが影響してきている思います。  名門校のバレーの先生がどんな指導をしているのか、知りたいと思いました。  高2の時には男子バレーがブームの時でミュンヘンで松平さんが優勝した時でした。  松平さんの解説が凄く心に残りました。  指導者の果たす役割は凄く魅力的だなあと思いました。  

早稲田大学法学部を卒業後、早稲田大学教育学部教育学科体育学を専修する。 大学時代も教えていて、教員資格を取ってから下北沢成徳高等学校に入りました。  厳しくすると上手くいかないことを経験しました。  シード権を持つベスト16が目標でした。 1988年関東大会初出場で3位に入りました。(関東大会出場するための東京大会では11位だった。)  本当に嬉しかった。 大山加奈さん、荒木絵里香さんらが3年の時に全国制覇しました。  自主性を重んじる練習法をしてきた関係から、厳しくやたっつもりでも周りからは甘いと言われていました。  より厳しい指導をしてみましたが、辞めて行ってしまいました。  「引退まであと何日」と言うのを見た時に、違うなあと思いました。  指導の改革を迫られました。  

練習の中で指導者が怒るとか、怒りを納めるとかを求められて、やってみたら初全国大会になってしまって、あれっという風に思いました。  バレーボールをどう好きにさせるか、どうやって練習が彼女たちにとって楽しみに変わるかというふうに、私の高校時代の原点に結び付けて、変えて行ったのが私が35歳前後でした。  選手たち寄りにものを考えるという事が定着して大山、荒木と言った大きな選手たちも納得して、バレーが嫌いにならないような形で指導できるんだという形が伝わって入ってきてくれた。

最初のころは指導者として勝ちたいという自分の欲求ばかりで、選手たちにとってどういう指導がいいのかと言うようなことは全く考えていませんでした。  高校3年間は通過点であり、そこで何を学んでその先のプレイヤーとして、それを生かしていけるか、それが指導者としての役割だなと変化していきました。  それぞれ人は違うので、どういう風にその人に関わったらよい指導と言う風に受け止めて貰えるのか、考えると上手くいかない方が多いですね。  一番やりたくないのは私の価値を押し付ける指導はしたくない。  一心不乱に選手たちが練習の中で没頭している時間を見るのが好きでした。 成長してゆくところを見ているので、積み重なっていくところを一番身近で見ているので、幸せだと思っています。