2024年12月27日金曜日

2024年12月26日木曜日

三浦篤(大原美術館 館長)         ・〔私のアート交遊録〕 開かれた美術館を目指して

三浦篤(大原美術館 館長)     ・〔私のアート交遊録〕 開かれた美術館を目指して 

岡山県大原市にある大原美術館は西洋美術作品を中核とした美術館として歴史を刻み、2030年に開館130年を迎えます。 その5代目館長に去年就任した三浦さんは『まなざしのレッスン 西洋伝統絵画』などの著書で知られ、西洋近代美術史、日仏美術史交流研究の第一線で活躍し、日本における西洋美術史を牽引してきました。 館長に就任して1年、新たな企画展の発信や教育研究の発信などを大きなテーマとして掲げています。 三浦さんに新しい時代の美術運営や大原美術館の未来像について伺いました。

2023年に東京大学を退職して、その年の7月から大原美術館の館長になりました。 環境が大きく変わりました。 前館長の高階秀爾先生が最近お亡くなりになりました。 それが大変ショックで、激動の1年でした。 優しくもあり怖い先生でした。 何十年来の恩師です。 先生の著書に『名画を見る眼』がありますが、素人にとっても入門書と言ったところです。 私の著書『まなざしのレッスン』はもう少し全体を見渡せるような、このポイントを押さえておけばもっと面白く観られるのではないかという、別の整理の仕方をしてみました。 

高校の図書室の中に世界の主要な美術館に関する画集がありました。 その中にレオナルド・ダヴィンチの「岩窟の聖母」を見た時にこれは凄いと、直感的に思いました。 それまでは美術と接する事はほとんどありませんでした。 それを機にほかの画集も見る様になりました。  大原美術館にもいったことがありますが、本物の絵画とはこういうものかと衝撃でした。  日本人の美術鑑賞は一人で作品と向き合ってというスタイルがあって、デフォルトなのかなと思うところがあります。 ルーブル美術館などでは結構しゃべったりしてうるさいですね。 

館長就任の会見で「発信と交流」という言葉を使いました。 大原美術館は質の高い豊富な作品をそろえた総合美術館で、常設だけでもやって行ける美術館です。 企画展、テーマ展のようなことが出来ないだろうかと思いました。 展示方法を変えた企画展を行いました。 テーマ別にやったりしました。  異文化との交流と言った視点でのテーマについて行いました。 評判が良かったです。 

日本では単館ではなかなか展覧会を作るのが大変な時代になってきています。 他館に貸し出したことはありましたが、借りるという事はありませんでした。 今後は他館から借りて新しい展覧会を作るという事に少しづつ変えていきたいと思っています。 展示環境も改善する必要があります。 海外との交流は地理的にも遠いし、又費用も掛かるので簡単ではないと思いますが、十分可能だと思います。 

研究活動にも力を入れたいと思っています。 これからはコレクション研究をより続けていきたいと思っています。 学芸員を研究員と呼んでその成果を発信してもらう。 大原美術館は今年から大原芸術研究所に所属することになりました。(高階秀爾先生のアイディア) 学問的側面がありますが、それだけではなく一般の方々にどういうサービスが出来るのか、どうよりよく観ていただけるのか、努力するつもりです。  子供たちにどうみてもらえるようにするとか考えています。 

美術館として社会にどういう発信をするのか、まずは良い作品をお見せするという事が第一の基本です。 多様なニーズに対してどう対応するのか、こんごの重要な課題だと思います。 美術講座、インターネットでの様々な発信、情報吸収、対話型鑑賞を推進しています。 大学の授業では対話型にはならず一方通行になってしまうので、美術館の作品一点に対して4000字のレポートを提出と言った事を行いました。  そうすると細かく観たりほかの作品と比較したりもするようになります。 自分の絵の見方の活性化を狙いました。  美術を語る時の言葉はとっても大事だと思います。  

1925年展を考えています。 1925年に焦点を当てて、藤田嗣治の1925年の作品の「舞踏会の前」という作品があり、その研究調査した成果を展覧会にしたいと思っています。 来年秋ぐらいを考えています。 エドゥアール・マネの「フォリー・ベルジェールのバー」という1882年の作品は私は10回は見ていると思います。 これがお薦めの一点です。 この作品は語りつくせない何かがあると思います。



















2024年12月25日水曜日

松本悠太(ぼたん生産者)         ・〔心に花を咲かせて〕 ぼたんの歴史を守ろうと転職して奮闘

松本悠太(ぼたん生産者)  ・〔心に花を咲かせて〕 ぼたんの歴史を守ろうと転職して奮闘

島根県と鳥取県にまたがる汽水湖中海に浮かぶ大根島。 牡丹の島として知られています。  小さな島ですが牡丹の生産量は日本一。 いまはかつての勢いはなくてそれを知った松本さんは大根島に移り住み、転職して牡丹を生産するようになります。 

大根島に初めて植えられたのが、およそ300年前の江戸中期です。 島内にある全隆寺の住職が現在の静岡県袋井市)より薬用として持ち帰り、境内に植えたのが始めとされています。 江戸後期になると園芸文化が広がって行って、大阪などで作られた改良された品種が散らばって行きました。 新潟、島根の方にも広がって行きました。 おもな産地は新潟で改良が進められていきました。 明治30年ごろに芍薬を台木にして、牡丹を接ぎ木するという技術を開発してから生産量が何十倍、何百倍と増えて全国に広がっていきました。 昭和30年ぐらいまで新潟は生産量は日本一でした。  その間に大根島でも徐々に増えていきました。 大根島が有名になったのは島の女性が花籠をしょって全国に花売りに行ったのがきっかけでした。 昭和40年ぐらいから大根島の生産量が80万本以上になって、日本一の産地となりました。  20年前ぐらいからどんどん生産量が落ちてきました。 今は生産量が1/10ぐらい、生産者も200人ぐらいいましたが、1/10ぐらいになってしまいました。 

藁ボッチで鑑賞する牡丹は寒牡丹(2度咲き)です。 最近では藁ボッチで鑑賞する牡丹は冬咲き牡丹(開花調整した牡丹)です。  寒牡丹はほとんど葉っぱがないです。 牡丹は全国に1000品種あると言われています。 色も白、桃、赤、紫、黒、黄色、最近出てきているのがオレンジです。 天気のいい日ですと花の一番いい状態が3日間ぐらいです。 

元々デザイナーになりたいと思っていました。 妻と出会って、実家にご挨拶に伺った時に、牡丹栽培をしていることを知りました。  お父さんからもうこの花はあと10年で無くなると言われました。  ショックを受けて、深刻な状況になっていることを知りました。 考えていたが、高齢化の問題もあるし、自分がやった方が早いのではないかと決意しました。  農業には一切関係していなかったので、いろいろ学んでいきました。 体力には自信があったが大変でした。(20代) 芍薬を育て、接ぎ木して売れるまでには5年かかります。 作業が秋に集中します。 牡丹とはこういうものだと判りははじめるのに5年掛かりました。 「牡丹名鑑」を作り始めた時に入ったので、一緒に写真を撮って加わりました。 353品種の花の咲く一番いい時期を写真に捉えるのが大変でした。 いい勉強になりました。 

2年前にまいた種で新品種が出来つつあるのが嬉しいと思っています。 1000粒まいて苗として育ってくれたのが800株です。 ちゃんと花が咲いたのが600株ぐらいです。 その中から10株ぐらいがよさそうなものとしてあります。 世に出すのにはまだ数年かかります。  中国から来た牡丹はひとえ花です。  中国の品種改良は重ね花を求め、重くて花が下を向いてしまう。 日本では上を向いて咲くのでそれが大きな違いです。 アメリカ牡丹、フランス牡丹もあり、地域によって品種改良が違って、黄色い色が好まれます。 斜め45度ぐらいに咲きますが、日本でも改良をして上を向いて黄色い色の牡丹があります。   

牡丹の良しあしを決めるのに苗の長さがありました。 長いほどいい牡丹。 しかし僕はコンパクトで威勢いい牡丹の方が今後活躍の場が増えると思っています。 伸びない牡丹を品種改良で作っていきたいと思っています。 20cmぐらいの大輪になっています。 まだ未公開です。  一番難しいのは接ぎ木ですね。 7割以上は接ぎ木できる様になりました。 余り上手くない人がやると5割程度、下手な人がやるとつかない事もあります。  品種保存を大事に思ってやっています。  なかなか求めるような品種改良出来ないです。 

小学校へ行って牡丹の普及活動をしています。  牡丹を育ててくれる人が増えていってくれればいいと思っています。  どこかにその品種の牡丹が残っていれば、又それを元に始められるし、残ってゆくんじゃないかと思っています。 品種保存はボランティアみたいなものです。  SNSで牡丹のことを発信しているのですが、海外(アメリカ、フランス、中国など)の方からの反応の方が日本よりも多いです。














 

2024年12月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 作家 シオランの言葉

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 作家 シオランの言葉

 カフカ以上に絶望の言葉ばかりを残している絶望界の大物と言えるのが、シオランという人物です。 最近では絶版になっていた本が新装版として出版されるなど、ジワリと人気が復活してきました。 

「ただ一つの本物の不運、それはこの世に生まれ出るという不運だ。」         シオラン(『生誕の災厄』より) 

シオランはルーマニアで生まれ、フランスで活躍した思想家です。  代表作に『生誕の災厄』『崩壊概論』『告白と呪詛』などがあります。 1911年生まれ、亡くなったのが1995年、来年が没後30年になります。  絶望の王様と言っていいというような、初めて書いた本が『絶望のきわみで』です。  面白くて読み易いです。 シオランの言葉は攻撃的です。 

「ただ一つの本物の不運、それはこの世に生まれ出るという不運だ。」という言葉は『生誕の災厄』の中にあります。  生まれたこと自体が不運だと言っている。  或る意味人生の全否定です。 

「若い人達にに教えてやるべきことはただの一字、生に期待すべきものは何一つとしてない。 少々譲ってもほとんど何ひとつない、という事に尽きる。  シオラン  

ここまで言われると爽快ですね。 かえってホッっとする時もある。 

「健康であれば私たちは器官の存在を知らない。 それを私たちに啓示するのは病気であり、その重要性ともろさとを器官への私たちの遺産ともども理解させるのも病気である。  ここには何かしら冷酷なものがある。 器官のことなど忘れようとしても無駄であり、病気がそうはさせないのだ。」   シオラン  (『時間への失墜』から)

病気というものを見事に表している。 自分の器官を意識するという事は「何かしら冷酷なものがある。」という事ですね。 

「私たちは肉体のなすがままであり、肉体の気まぐれはそれぞれ判決に相当する。 私たちを支配し、牛耳るのは肉体であり、様々な気分を押し付けるのは肉体である。」 シオラン

健康な時には心が身体を動かしていると感じるが、病気になってみると実は身体の調子で心は凄く変わるんです。  胃が痛いからくよくよする。 心が身体を動かしている部分もあるが、実は身体の方も心を動かしている。 

「私は気候に左右されやすい人間なので、常々意志の自立性をどうしても信じきれずにいる。 日々の気象が私のものの考え方の色調を決めてしまう。」 シオラン(『告白と呪詛』より)

「夜とは眠られぬ夜のことだ。」  シオラン(『生誕の災厄』から)

シオランは若いことから不眠症だった。 シオランの苦しむ姿を見て、母親は「こんなに苦しむと判っていたら、生まなかったのに。」と言ったんです。 シオランの考え方が深まっていったのも夜なんですね。 

「不眠の一夜を過ごす方が、眠りに恵まれた一年間よりも多くのことを学ぶものだ。」   シオラン (『告白と呪詛』より)

「死んだほうが良いと思った時、いつでも死ねる力があるからこそ私は生きている。 自殺という観念を持たなかったら、ずっと以前に私は自殺していたであろう。」        シオラン(『苦渋の三段論法』

カフカも同じような言葉を言っている。

「すでに子供の頃からそうっだったのかも知れないが、一番身近な逃げ道は自殺ではなく自殺を考えることだった。」  カフカ

矛盾するかもしれないが、いつでも自殺できると思う事で、生きていけるという事はありますね。 シオランは自殺しようとしたことは何度もあるが、思いとどまった。 84歳まで生きた。 

「私は生を嫌っているのでも、死を願っているのではない。 ただ生まれなければよかったのにと思ているだけだ。」 シオラン(『カイエ』より)

シオランは健康には気を使ったが病気がちだった。 シオランは人と話す時にはよく笑うし愉快な人だった。 

ただ対談ではこう言っている。 「彼はあるサロンで、満座のものを笑わせて帰宅したところ、ただもう死にたいとしか思わなかった。という事ですが、これはあってもおかしくない危機で、私にしても何度か確かめる機会がありました。」  シオラン(『シオラン対談集』より)

人間は表面的な面だけではわからない。 

「私たちが思い上がるのは苦しんでいる時ではない。 苦しんだ経験がある時だ。」    シオラン (『カイエ』から)

苦しい経験をするとほかの人の苦しさも判るようになり、優しくなる場合もあるが、逆にもっと厳しくなることもある。  お前の苦しみなんて大したことはない、というように。

「他人の行為を私たちはいつも、自分ならもっと首尾よくやってのけるのに、という感じで眺める。  不幸にして私たちは自分のしていることについてそうした意識を持たない。」  シオラン(『生誕の災厄』から)

人のやっていることはついそんなふうに思ってしまいやすい。 

「この世の誰かにとって必要な人間になるくらいなら、わが身をいけにえに奉げた方がまだましだ。」  シオラン(『告白と呪詛』より)

強烈な否定。  

「本が何か役に立つと思っているんですかね。」 シオラン( 『シオラン対談集』より)

「私は自分の書く有用性などあまり念頭にない。 何故かと言いますと正直なところ読者のことなどこれっぽちも考えていませんから。 つまりねえ私は自分のために書いているのであり、妄執やら緊張やらから自分を解放するためであって、それ以上のことではないんですよ。」  シオラン

「何故この世でなにかをなさねばならぬのか、何故友人らも、あこがれなど、希望など、夢など持たねばならぬのか、私にはその理由がまるで分らない。」            シオラン(『絶望のきわみで』より)

この世で生きているなら何かなさねばならないとか、友達がいないのは良くないとか、あこがれ、希望、夢など持たないとよくないと言われるが。 それが持たないのは良くないとなってしまう。  それをシオランは言い切ってしまう。 

夢を持たなければいけないのかという相談を受けたことがありますが、世の中の圧力はそんなに大きいのかとびっくりしました。 私(頭木)は夢なんか必要ないと言いました。

多くの人が「生きる意味」を求めすぎていると思います。 病気して思ったのは、「意味」のために生きているわけではない。 生きるためにただ生きている、そこには何の意味もない。  意味をつけたい人は勝手に付ければいい。  生きることにもともの意味などない。  「意味のある人生」にしなければという思い込みから解放されれば、人はずいぶん楽になれる。 

「正義は何の意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。 唯一の理由に立ってなる。」  シオラン(『告白と呪詛』より)








2024年12月21日土曜日

花谷泰広(登山家)            ・登る文化をつなぎたい

 花谷泰広(登山家)            ・登る文化をつなぎたい

花谷さんは1976年神戸市出身。 現在は山梨県北杜市を拠点に活動しています。 子供の頃から六甲山に親しみ、信州大学進学後はヒマラヤを初め世界の未踏峰、未踏ルートに挑戦、2012年にはヒマラヤの キャシャール南ピラー(6,770 m/ネパール)に未踏のルートから登頂に成功し、2013年に登山界のアカデミー賞とも呼ばれる第21回ピオレドール賞を受賞しました。 この受賞をきっかけに若い登山家をヒマラヤの未踏峰に挑戦させるヒマラヤキャンプを立ち上げ、南アルプス甲斐駒ヶ岳の山小屋の運営や、そこに至る登山道の整備など登山文化を支える活動に力を入れ始めます。 中でも登山道の整備を有料の体験型イベントワークショップとして、参加者を募る試みには新しい発想として注目されています。 人を育て登る化を次の世代にどうつなげるのか伺いました。

36歳の時に登った登山が評価されてピオレドール賞を受賞しました。 そのルートはかつていろいろな有名な人たちがトライしましたが、登れなかったというルートです。 山へ登るパフォーマンスで何か残すとなると、選ばれた人でないとなかなかそれを維持する事は難しい。 僕はそういう人間ではないということが20代から嫌というほど味わってきています。 極限の登山をしてゆくという分野においては、世界のトップと思われるようなパフォーマンスを見ていると、とてもここまでは出来ないと25,6歳のころ感じました。   24時間、365日山とクライミングのことしか考えていないんじゃないかなというモチベーションと集中力という心の部分の強い人たちを見てきています。 僕はそこまでの心の強さの持ち主ではなかった。 

2014年にもヒマラヤに行きましたが、登れなくて自分がどういう事をやりたいのか、考えながらいました。  新しく経験する場、組織が弱体化してきているので、何とか改善したいと思いました。  ピオレドール賞を受賞して大きく変わったことは、プロとして活動できるようになりました。(資金面の充実)  これを生かして何かできないかなあと思いました。 20,30代が初めてヒマラヤに行く機会を作ろうと思いました。  

山小屋を運営する元になったのは、この地域の資源をどう活用してゆくか、という事がありましたが、山は公共の物なのでどうしても行政と絡まなければならない。 僕の前の管理人さんがもう山を降りるという事になり、自分がやってみたら面白いのかなと思いました。  行政とのやりとりの問題も繋がりました。  山梨県北杜市の指定管理業者として甲斐駒ヶ岳の山小屋「七丈小屋」を引き継ぐことになりました。 山の魅力を発信しました。   山小屋、登山道などをどうにかしなければいけないと考えました。  利便性を高める、魅力の発信で人はたくさん増えましたが、登山道は歩きにくくなっていきました。 2019年10月に台風19号がきて、登山道などが物凄い被害を受けました。  集中的な雨も増えてきています。 登山道がなくなってしまうのではないかという危機感、恐怖感がありました。  そこが活動を始めた大きな原点です。 

山の管理について、日本は公的な関与が脆弱な状態です。(外国と比べると一目瞭然。) 予算、人員も少ない。(根本問題)  有料のイベント、寄付を募る、ワークショップを作って回してゆく事を考え実行しつつあります。  登山道が壊れたことによって失われた植生を取り戻してゆく事が一番大事な発想の原点です。(自然環境第一)  作業の意味合いを知ってもらう事が大事です。 ワークショップに来る方は自分でお金を払います。(ガイド登山の一種のようなもの)  クリエーティブな作業で楽しいです。  日本の良くないところはボランティア(無償でやることに対する価値が根強くある。)、運営の中心の人とか技術的な指導者までもがボランティアでやっているのが現状です。 それだと続かないですね。  運営の中心の人とか技術的な指導者にはしっかりとお金がまわるような仕組みを作ってゆく事が大事です。  

自分が関与した山には山に対する見方が変ります。(ホームマウンテンになる。) 持続性に繋がる。 人口減少、高齢化があるので、今までと同じ仕組みでは成り立つわけがない。  発想を根本的に変えていかないと成り立たない。  いろいろな仕組みを変えてゆく事でどんどん良くなってゆくはずです。  日本3大急登で長くて険しい登山道ですが、登山道を修復するワークショップには開始から2年間で200人が参加しています。  今年10月に実施したヒマラヤキャンプでは若手登山家4人と共に、西ネパールの未踏峰6207mのサンクチュアリピークに挑戦、見事に世界初登頂に成功しました。





2024年12月19日木曜日

音無美紀子(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 逆境を乗り越えて

音無美紀子(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 逆境を乗り越えて 

音無さんは1949年東京生まれ。 21歳の時に民放のドラマ「お登勢」でヒロインに抜擢され脚光を浴びました。 NHKでも大河ドラマ「女太閤記」や「独眼竜正宗」など数多くに作品に出演しています。 今年11月には歌人斎藤茂吉の最晩年を描いた舞台に出演、老いと病というテーマに正面から向き合いました。 私生活では村井國夫さんと結婚、二人の子供を設けました。 30歳で乳がんを患い死を覚悟したこともあると言います。  音無さんは6人姉妹の4女ですが、この2月に妹を亡くしています。 大切な人との別れ、そして自身のがん体験など逆境をどう越えてきたのでしょうか。 

歌人斎藤茂吉の最晩年を描いた舞台「つきかげ」で茂吉の妻の役を演じました。 小劇場なのでお客さんが近くて全部肌で感じられるような劇場でした。 私たち夫婦が人生をしまう方向に来たねと思いつつあります。 「俺の家族としての役目は終わったんだな。」というも茂吉のセリフがありますが、マグロ漁船に乗って行く次男を見送るシーン、末娘の縁談話などで、深夜眠れなくて、そのセリフがあるんですが、うちの家族にピッタリです。 

SNSで発信していますが、今年の2月に妹がなくなりました。 コロナで妹のゴルフなどの洋服の店が上手くいかなくて、悩んでいましたがその後食欲がなくなり、突然亡くなってしまいました。 6人姉妹でよく集まっていましたが、突然一人欠けてしまってショックです。 貴方の分まで幸せになるから、という気持ちが大きいです。 人生何が起こるかわからないから、その日その日を過ごせたという事に感謝しながら、という気持ちがより強くなりました。 

子育てが終わって本格的に女優として復帰するという矢先に、乳がんが見つかり青天のへきれきと言った思いでした。  近所の人が乳がんの検診にいってしこりがあって、取り除いたが良性で、しこりは自分でわかるという事で話し合っていた晩に、お風呂で触ってみたら内側にペットボトルのキャップぐらいのしこりありました。 痛くないのでしばらく放っておきましたが、つれるような症状が起きて、病院にいったら乳がんと言われました。 アメリカでは部分摘出がおこなわれたりしているが、安全な手術をした方がいいと医師から言われました。 精神的にもダメージを受けました。 リハビリも病院では頑張りましたが、家に帰ってくるといろいろな事でやはり病人なんだと気付かされ落ち込んでいきました。  女優が出来ないのではないかといったことも考えるようになりました。 

鬱の状態が9か月ぐらい続きました。  子供が友達の家から帰ってきて、「友達のママは笑うのにどうしてママは笑わないのい。」と言われてショックでした。  それから鏡の前で笑う練習をし始めました。 それがきっかけで少しづつ前向きになって行きました。   子供とは一緒にお風呂に入ることはできませんでしたが、夫の仕事の関係でどうしても一緒に入らなくてはいけなくなって、一緒に入ったら私の顔だけしか見ないんです。  こんな小さな子に気遣いが出来るのかと思ったら、ワーッと泣いてしまいました。 「ママ泣かないで、歯が生えてくるようにおっぱいも生えてくるから。」と言われて、こんな子供を残して私は死ねない、生きなければいけないと思いました。 下の子が小学生にあがる5年頑張ろうと思いました。  子供からいろいろ励まされて、今思えば一番いい精神科の先生だったと思います。

1976年に結婚してから金婚式が近いです。 同じ職業なので会話は多いです。  夫は80歳になりました。 夫は5人兄弟の末っ子で上の二人の兄は亡くなっていて、3人しか残っていません。 91,85、80歳です。  お互いに褒め合ってやって行こうとしています。 12月の誕生日で75歳になりますが、現役で終わりたいという思いがあります。 健康維持に努力できることは努力したいと思っています。 夫は毎日ウオーキングを8000歩程度はしています。  玉三郎さんが「努力をするという事はどういうことかというと、死ぬ一歩手前までやり遂げることが努力だ。」と言っていました。  アスリートではないので、演出家の要望に対して応えられる身体にしておくという努力しかないと思います。  口がまわれるように努力する。  食事も身体にいいものを摂るように心がけています。

2020年から娘と一緒に食卓の動画配信を始めて、150本ぐらいになりました。 料理は好きでいろいろな料理教室にも行きました。  東日本大震災の時に被災地で「幸せなら手をたたこう」を歌う事になり、歌ったらみんな涙を流しながら歌ったんです。 歌の力を感じて東京に戻って歌声喫茶をやろうという事になり、そこから始まりました。  お金がプールされると被災地にお土産を持って避難所を7か所ぐらい回ります。  歌声喫茶も13周年記念を迎えました。  被災された方が生き抜いてきた、という事に強さを感じます。  幸せに生きることが亡くなった方への供養になるんだ、という想いの方が沢山います。

〔わたし終いの極意〕は笑う角には福来るですね。  一日一回は笑う。















2024年12月17日火曜日

丸山宗利(九州大学総合研究博物館 准教授)・~昆虫好きを増やしたい!~

丸山宗利(九州大学総合研究博物館 准教授)・~昆虫好きを増やしたい!~

 世界各地に赴いて昆虫調査を行い、多数の著書や図鑑制作にも携わっている丸山さんに伺いました。 

今年の6月に動物学教育賞を受賞しました。 日本はほかの国に比べて昆虫が非常に子供の趣味、遊びとして身近にあります。その延長として昆虫に関するいろいろな本が沢山あったり、電話相談も多いですね。 他の国は昆虫籠とか、虫取り網は余り無いですね。 アメリカとかヨーロッパの都市部には蝉とかカブトムシはあまりいないです。 昆虫は沢山の種がいます。  昆虫は知られているだけで120万種ぐらいいます。  日本では4万種ぐらいが知られています。 実際には6万種、8万種いると言われています。  それぞれが違う暮らしをしていて違う姿をしています。 あらゆる生物の中で最も多様なのが昆虫です。 昆虫は生態系の歯車としても非常に重要な役割をしています。  植物の8割は昆虫が受粉しないと実がなりません。  野菜、果物もそうです。 果物は9割以上が昆虫が居ないと受粉ができません。 昆虫がいないと新しい植物が生えない、森も更新されません。

何故昆虫が多様なのかというと飛べるという事が重要です。 あらゆる生物の中で最初に飛んだのが昆虫です。 飛ぶことによっていろいろな環境に進出する機会を得ました。 そして様々な種に別れていきました。 天敵に狙われにくい。 繁殖相手を効率的に見つけられる。 他に、変態をするという事です。 幼虫から成虫にかけて形が違って行って、特に完全変態と言ってさなぎの時期があります。 昆虫の7割、8割が完全変態をします。 完全変態が何故大事かというと、幼虫と成虫が全然違う姿になります。 幼虫は一番餌を食べたり成長するのに一番重要ですが、成虫よりより幅広い変化が出来るようになった。 それでいろいろな環境に適応で出来るようになった。 

昆虫学者にはそれぞれ専門があって、私の場合は蟻の巣の中に共生している昆虫の分類学、新種を発見したり、図鑑などを作ったりしています。 蟻の巣の中にはいろいろな昆虫が住んでいます。 蟻塚コウロギという小さなコウロギがいます。 蟻から口移しで餌をもらったり、蟻の幼虫をかすめ取ったりして生活しています。 蟻は暗いなかで臭いとか音を出して、それを言葉の様にしてやり取りをしています。  寄生している昆虫はそれを真似ることによって蟻の巣の中に入り込むんです。 蟻は仲間だと信じているんです。 人間の場合は目と音ですね。 そこを上手く騙せたら人間の社会にも入り込めるわけです。 

大学院の時に、ハネカクシという昆虫の分類、新種発見をしていました。  ハネカクシは土の中、茸に住んでいて、その中に蟻と共生するタイプが結構います。 そのころ(28年前ごろ)共生するほかの昆虫を日本で研究している人が居ませんでした。 日本全国の蟻の巣を調査して行ったら、どんどん新種が見つかりました。 そしてのめり込んで行きました。  新宿に住んでいましたが、3歳の時にカマキリがいました。 カマの内側に赤、白、黒の不思議な模様がありました。 カマキリの形、その模様の衝撃がいまだに残っています。 そこから昆虫にのめり込んで、図鑑を買って貰って、いろいろな昆虫を覚えていきました。  昆虫を捕まえて飼育するという事も繰り返していました。 中学、高校となると魚、両生類も好きになり、植物も好きになりました。  

最近はアフリカのカメルーンによく行きます。 サスライアリという何千万匹という働きアリからなるコロニーを作る蟻ですが、そのコロニーのなかにハネカクシが沢山います。 進化を調べるため、標本にするために通っていました。  蟻の種によって共生する昆虫も特定な昆虫になります。(臭い、音を複数真似られない。)  行くたびに新種が見つかります。 吸虫管を使って口で吸ってハネカクシを取ります。 

子供の頃一日に蚊に何百か所も刺されて、それを繰り返しているうちに、いまでは蚊に刺されてもほとんど気付きません。(新しい蚊に刺されると、気が付くが30分するとわかなくなる。)  アフリカには危険な蚊が居るので、それに気付かないのは危険だと思います。 蚊の痒さ、腫れるというのは、人間が病気にならないための防御反応だと思います。

オドリバエ贈り物作戦、(人間がやっているようなことは、結構昆虫もやっている。)オドリバエはほかの昆虫を捕まえて雌にあげて、雌が食べている間に交尾をする。 それが進化してゆくと、捕まえた昆虫を糸で包んで渡す。 さらに進化すると、中には昆虫が入っていない包みを渡す。 それが作れる雄は強い雄という事です。 あらゆる生物は自分の遺伝子を残すためにあらゆることをしている。  社会性昆虫の面白いのは奴隷制です。    サムライアリ、働きアリは自分で捕まえた餌を自分で食べることはできない。 定期的にクロヤマアリの巣に集団で侵入していって、幼虫、サナギを強奪して帰って来るんです。 生まれて来たクロヤマアリは自分の巣だと思って働くんです。 サムライアリの幼虫はクロヤマアリに育ててもらいます。 サムライアリたちは働くよりも子供を作るとかにエネルギーを投資したほうがいいわけです。  人間社会でもあちこちで奴隷制が生まれていました。蟻は世界で2万種ぐらいありますが、奴隷制も何十回と進化しています。

ハキリアリは中南米にいます。 葉っぱを切って巣に運びます。 粉々にして菌と混ぜて発酵させます。 おがくずみたいなものを作って、そこに菌を植えて大きくなってゆくと菌糸の丸い球ができます。 それを餌にしています。 タンパク質に変えた方が栄養効率がいい。  雑菌が入らないように抗生物質を混ぜて、その菌だけが育つようにするんです。  偶然の積み重ねで昆虫は進化してゆくんです。  昆虫は世代が短いので偶然何かが起こるという可能性が高いんです。 子供も何千匹と生むので、中には特異な能力を持って生まれる突然変異も出てきます。  一番生きやすいように本能としておこなわれている。   昆虫の研究は最初害虫から始まりました。  農学の見地から研究している人が多いです。  

2017年に子供相談をする時の前任が矢島稔先生でした。  その先生の図鑑を読んで僕は育ちました。 「ハエが生きていることはどんな意味があるんですか。」という質問がありました。  生態系のなかの歯車としての役割があり、山の中で動物の死体を分解する重要な役目を持っている。 と言ったところから意味のない生き物はいないんだという事に繋げました。  今一番問題だと思っていることは、昆虫が減っているという事です。    ドイツの研究ではこの20年間に昆虫の個体数が、76%減ったと言われています。  昆虫は近年急激に減少しています。 理由は凄く強い農薬が使われれるようになった。 温暖化による気候変動の影響もあります。  昆虫のお陰で享受していることが沢山あります。 人々の昆虫に対する理解度、昆虫と共生しているを知って、自然を守ってゆく事が大事です。  昆虫を好きな人を増やす、昆虫が嫌いじゃな人を増やす、という事を私は大事にしています。